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市民の古代第14集 1992年 市民の古代研究会編
◆古田武彦講演録
古田武彦
昨年は私にとって非常に画期的な意味をもつ年でございました。夏の八月一日から六日まで六日間、白樺湖のそば、昭和薬科大学の諏訪校舎で、「『邪馬台国』徹底論争」というシンポジウムを行いました。東方史学会という名前で行ったわけでございます。非常に不慣れで、というより初めてですので心配していたんですが、多くの方々のお力添えで無事に、経済的にも赤字を出さずに、無事以上に終えることができました。延べ三百人を超す方々においでいただきまして、のみならず質的に、これはもう予想も何もできなかった、願いはしても予想できなかったことですが、すばらしい質の内容が続出いたしました。今日お話申し上げることもその発展という問題を含んでおります。
さて年が明けて、そういう慣れない事務的な仕事からほぼ解放されまして、今度は腰を落着けて勉強したい、私も去年の八月八日で六五歳を迎えましたので、そろそろ真面目に勉強をしようと、実はこの新春一月一〇日にこの同じ建物(文京区民センター)の、もっと小さい部屋ですが、そこで研究会を始めました。共同研究会と仮に名づけまして、大化の改新から大宝律令まで、七世紀後半から八世紀前半までの百年間を中心にして研究する、ということで四十数名ご参加いただいて第一回を始めたわけでございます。これから三年間、二か月に一回、金曜日の午後五時半から九時まで、この場所で続けたいと心を固めているわけです。
今申しました百年間というのは、その中間に九州王朝滅亡という問題が入っているはずなんです。ですからいろいろ調べてみて、どこにもその気配がなければ、やっぱり九州王朝はなかったと、こういうことになるわけですね。もし九州王朝が実在したなら、滅亡の痕跡が文献とか考古学的出土物その他にもあるはずである、ということになるわけです。どういうことになるかわかりませんが、急がずになるべくノロノロと、みなさんといっしょに研究を進めていきたいと思っているわけでございます。
さて、実は今年の元旦に私は一つの論文を書きました。かねてから短い論文を書いてみたいという願いがありました。誰の影響でしょうか、恐らくアインシュタインの特殊相対性理論の論文が非常に短かったという話をどこかで読んだ影響かもしれませんが、短い論文を書いたわけです。四百字詰めで一〇枚の論文です。題して「すべての歴史学者に捧げる」副題が「政・宗*・満の法則」、そのアウトラインから入らせていただきます。
宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0
去年の白樺シンポの時のことでございます。八月三日の午後一〇時頃だったと思います。今日もきておられる木佐敬久さんという方のご発言に大きなショックを与えられました。どういうことかと言いますと、「倭人伝」の最後のところを見ると、張政という人物が倭国へ派遣されてきている。これは中国の魏の官僚である。彼は文官ではなくて、帯方郡から派遣されてきた武官であるらしい。塞曹掾史(さいそうえんし)、曹掾史というのは漢代以来、何々曹掾史というふうに官職名を呼んでいたらしいんです。「塞」、とりでの曹掾史ですから、これは軍事司令官であろう。で、卑弥呼が(私はヒミコでなくヒミカと発音します)、狗奴国に攻められて(クナ国と読む人もありますが私はコウヌ国と言っております)、帯方郡に対してSOSを発したと、そのSOSに応えて軍司令官が派遣されてきた。もちろん一人じゃなくて、しかるべく軍団を率いてきたんでしょうね。当世はやりの言葉で言えば、軍事顧問だったかもしれません。で、そのきた年ははっきり書いてありまして、正始八年。また帰った年も書いてある。いや「倭人伝」には書いてないんですが、帰ったことが書いてある。
それは卑弥呼が死んで国が乱れて、壱与が登場してくる。壱与登場の黒幕になったのが張政らしくて、張政が壱与に告喩したという言葉が出てまいります。そしてその後、本国へ帰っていくんですが、それを壱与が使いをもって送ったと。その使いが洛陽に至って、おびただしい貢献物を届けたということが「倭人伝」の最後に書かれています。卑弥呼の時はえらい貧弱なプレゼントの品でしたが、今回は豪勢な貢献物を届けたということで「倭人伝」が終わっている。その年は書いてないんですが、『失われた九州王朝』ですでに論じましたように、それは西晋の泰始二年であろうと思います。といいますのは『晋書』の「倭国伝」に、泰始の初めに倭国の使いがきた、と書いてある。これに当たるものであろう思います。
さらに『日本書紀』の神功紀。ここに晋の起居注が引用されておりまして、起居注というのは、天子のそばにいる記録官が日常のことをいろいろ記録していったもののことでございます。だから歴史よりもう一つの原資料に当たるものですが、その起居注が引用されている。資料としては大変な資料でございます。そこに泰初(始)二年に倭国の女王が使いを送ってきたと。例の「貴倭の女王」という面白い表記がありまして、それについて『失われた九州王朝』で私がくわしく論じております。これが壱与のことである、「倭人伝」の最後の記事に当たる、ということを述べました。この点は私だけでなく他の人もそういう処理をしている人が普通であります。つまり張政が帰ったのは泰始二年である、といろいろの人の本に出てまいりますから別に私一人の発見というわけではございません。
さて、泰始二年まで張政がいた、となりますと、その間ちょうど二〇年になります。二〇年間、軍司令官張政が倭国に滞在したということになるわけです。木佐さんはその点を指摘されまして、だから「倭人伝」の先頭に書かれている行路里程記事、あれは軍事用の使用目的にかなうものでなければならない、と。だとすれば、南と書いてあるのが東の間違いだとか、そんなことでは軍事用の使用目的にかないませんわね。狗奴国を追っ払おうと思って南へ進んだつもりが実は東へ行っていたというようなことになったらね。どこまで行っても狗奴国の軍隊に当たりゃしません。その間に倭国の都は狗奴国に落とされていたってことになりますよね。そんなばかなことはあり得ない。
そして里程が五、六倍の誇張と、これは明治四三年の白鳥・内藤の論争以来、東大派、京大派が共通して認めたテーマなんです。五、六倍の大ウソが書いてあるとね。しかし、そんなことであれば、これまた軍事用の使用目的に合いませんよね。まあ一・一倍や一・二倍の誤差くらいだったら何とかなるでしょうがね、五、六倍もウソが書いてあって、そのプランによって行進したら、まだまだ着かんと思ったらもうすぐ敵にぶつかったり、もうすぐ着くと思ったら、まだまだ五、六倍も行かなきゃ敵に遭わなかったり、とんでもないことになるんですね。だからそんなことは考えられません。
そして何よりも大切なことは、日程、つまり帯方郡から倭国の都までの総日程が書かれていなければなりません。たとえば食糧を帯方郡から張政の軍隊へ送ろうとしても、何日かかるかわからんけれど、とにかく送りましょうなんて、そんな送り方ってありませんよね。予定がつきませんもの。またもらうほうでもいつ来るかわからないなんて、そしてまた食糧だけでなくて、狗奴国が意外に手強いと、もっと軍隊の増援を頼むと、張政がさらにSOSを発した場合、帯方郡から何日かかるかわからんところへ増派なんてできませんよね。少なくとも何日かかるかということは、他は、そこまで木佐さんはおっしゃいませんでしたが、私がちょっとオーバーに申しますと、他の記事全部なくてもですね、何日かかるということがなければ軍事用の役には立たない。そりゃそうですね。
ここでまた、私がちょっと木佐さんの言われない余計な話をしますが、木佐さんがこういうアイデアを思いつかれたのは大分前のようなんですが、とくに痛感されたのは恐らく湾岸戦争の際じゃなかろうかと。私は、みなさんもそうでしょうが、あの時は一生懸命テレビに釘づけになっておりました。木佐さんはその時はアナウンサーをしておられたんじゃないかと思いますが、それを放送されておったかもしれませんが。あれを見ていれば、やっばり食糧がどのくらい、何日ぐらいかかって着くかとか、戦線がのびれば兵站部にこういう問題が起きるとか、毎日、毎日やっていましたよ。ああいうのを見ればいよいよもって今の問題はリアルに強く感じられたんじゃないでしょうか(ベトナム戦争の時、木佐さんはこの点を意識されたという──古田後注)。それはともかくとして、総日程が書かれていなければならない、ということをおっしゃったわけです。
そうしますと、今申し上げたことは皆さんお聞きになって、それはおかしい、それは非常識だ、なんていうところはどこにもないと思うんです。みんなあまりにも筋が通って常識的すぎるわけです。とすれば、この瞬間に、「邪馬台国」近畿説はふっとびましたね。だって、近畿説というのは、南を東に直さなければ成り立たないんですから。そんなことはあり得ない。魏の使いは夏きたんだろう、だから太陽が実際は二〇度くらいずれていたのを、そこが東だと思い違えたんだろう、というようなことを言って全部二〇度ずつずらして一冊の本を作った人もいますがね。それは一回、ちょっときてそそくさと帰ったという場合ですわね。二〇年間も軍隊が駐留しているのに、絶えず二〇度間違えて方角を考えたなんて話は信じられませんね。
次に九州説でも、里程はインチキだと。どうせインチキな誤差のある里程なんだから、筑後山門にもっていってもいいだろうとか、いろいろやっておったわけです。それもどうもだめですよね。そして一番肝心な点は総日程で、「倭人伝」のなかで総日程に当たりうるのは、「水行十日、陸行一月」しかないんです。もう一つ日程がありますが、それは投馬国まで「水行二十日」とあって、はっきり投馬国までと書いてあるんですからね。これを倭国の都までの総日程にするわけにはいかない。「水行十日、陸行一月」しか日程はないんです。私はこれを帯方郡から邪馬壱国までの総日程と考えた。これは別に、木佐さんが言われたような軍事司令官が二〇年間いたんだからという発想ではなかったんです。これは、部分里程を足したら総里程にならなければいけない。総里程が一万二千余里とありますのでね。
ところが、部分部分を足して従来ではどうも千三百か千四百足らなかった、私の計算では千四百里足らなかった。これはおかしい、どこかに“隠れている”に違いないということで、探し求めて対海国の方四百余里、一大国の方三百里、これの半周、二辺ずつを足すと四百と四百で八百、三百と三百で六百、合わせて千四百、ちょうど足らない千四百里が出てきたわけです。その瞬間に私は古代史の世界に深入りすることになったわけなんですが。それはそれとしまして、その結果、「水行十日、陸行一月」が余ってしまった。いらなくなってしまったんです。それでどうかと考えてみると、あれは最後の邪馬壱国の話の直前に出てきますので、帯方郡治から邪馬壱国までの総日程と考えざるを得なかったというわけです。で、その間に「韓国陸行」という問題が出てきたのはご存知のとおりでございます。
さて、そういうことで、もう「倭人伝」のなかには「水行十日、陸行一月」以外に総日程に当たる日数は書いてございません。そして木佐命題によれば、他の何が省略されても総日程がなければならない、軍事用目的に欠かせない、ということでございますからね。これが合理的な問いかけであるとすれば、「水行十日、陸行一月」合わせて四〇日が、帯方郡から邪馬壱国間での総日程であると考えざるを得ない。ということで、幸いにも木佐提案に対して合格できたのが、私の二〇年前に提出した説であったわけでございます。奇しくも昨年の一一月が私が『「邪馬台国」はなかった』を書いてちょうど二〇年目に当たっていたわけでございます。
さて以上によりまして、木佐提案が合理性をもっているものであるとするならば、もう「邪馬台国」論争はふっとんだわけで、まだ学者はそれを知らないから、ふっとんだと思っていないだけであって、実際はふっとんだんです。近畿説や、くさぐさの九州説は成立できなくなってしまったということなんです。そういう画期的な事件が八月三日の午後一〇時前後に起こったわけでございます。
さて、それを受けまして私は考えたんですが、実は私自身が、この木佐さんのアイデアに似た考え方をすでにしていたということを思い返したわけでございます。それは『旧唐書』ですが、これは「倭国伝」「日本国伝」という二つの伝をもっています。つまり倭国と日本国は別物であるという立場に立っているわけです。ずばり言いますと、志賀島の金印から倭の五王、そして日出ずる処の天子から白村江まで、これは全部九州の倭国であった、という立場に『旧唐書』は立っているわけです。地形もちゃんと書いてありますからね、日本国と違って。これに対して日本国というのは、もと小国、小国というのは分派の国ということです。その日本国が、母国である倭国を併呑した、白村江の後、つまり七世紀の終わりから八世紀初めの時期です。そしてわが中国はこの新しき日本国と国交を結んだと、七〇三年、唐朝の則天武后の時である、とこう書かれてあるわけです。
そして、その日本国の使いが次々やってきて、そのなかで最も目立った人物として阿倍仲麻呂がいたと書いてある。そこでは仲満と書かれていますが、これが阿倍仲麻呂のことであることはよく知られております。後に朝衡という名も名のったと書かれています。彼はいったん日本へ帰ろうとしたが、台風に押し流されて帰れなくて、結局、長安で五〇年間とどまって死んだということが書かれているわけです。その間、唐側の高級官僚になって、官職を歴任したことが書かれているし、べトナム大使になったことも知られています。つまり阿倍仲麻呂のことが特記されているんです。日本国からきた遣唐使で、中国からみると一番目立った存在は阿倍仲麻呂であったと、こういう形で書かれているわけです。
となりますと、『旧唐書』の「倭国伝」「日本国伝」という在り方は、阿倍仲麻呂の報告によっているだろうと私は論じたわけです。日本国からきた大使で、現在、唐の国家の高級官僚で、長安にいるんですから、これを無視して「倭国伝」「日本国伝」の記事を書くなんて考えられない。彼の書いた文章を見ているかもしれないし、そうじゃないにしても、書いたものに対して阿倍仲麻呂のオーケーをとってあると考えるほうが筋道であって、阿倍仲麻呂のことなんぞ忘れておりましたなんてことは考えられないですね。阿倍仲麻呂のことを特記しているんですから。同じ記録官、起居注を書いた日常の記録官や、歴史官僚も同じ長安にいるんですから、しかも史官や記録官よりは身分の高い官僚なんです。これもすごいですね。
この唐という国際国家、よその国の大使を取り込んで自分の国の高級官僚にするというようなはなれ技、今の日本ではできておりませんね、国際化とか言っておりましても。そういうことを特記している『旧唐書』の著者が、著者というより、『旧唐書』は唐が滅亡直後の時期に成立しましたが、それの原資料は唐代の記録によっていることは明らかなんですね。そういう『旧唐書』の原資料の執筆者たちは阿倍仲麻呂の情報によって書いたということは先ず疑いないだろう。
そうしますと、あれは不体裁なばかげたことを書いていると、日本の学者は処理してきたわけです。そう処理しないと、従来の私以外の古代史の学者の説は全部成り立たないんですね。つまり『古事記』『日本書紀』に従って、とくに『日本書紀』に従って、大体、天皇家中心できておりますという形で、日本の古代史やっておりますね。三世紀はまだ近畿説、九州説があるけれども、四世紀から以後は天皇家中心、例外なし、倭の五王だって日出ずる処の天子だって白村江だって、全部、大和朝廷がやったものです、という形で現在の教科書もできています。高校・中学・小学全部そうできております。あれが全部パーになるんですから、あれはウソだよということになるわけです。そっちを本当だと言うためには、『旧唐書』がウソだよと言わなければならない。だからばかげたことを書いている、とこうやっているわけです。いちいちどこがウソかということは書いてないですからね。要するにウソだよ、とこう扱っているわけです。
ところが私は阿倍仲麻呂の証言ということからみると、これは疑うことができない、『日本書紀』に基づいてやったそっちがウソですよ、今使われている大学・高校・中学・小学校の教科書がウソですよ、というのが私の立場なんです。そこで阿倍仲麻呂の証言というテーマを講演でも述べ、書いたこともあるわけですけど、木佐さんもそれをお読みになったようでございますので、そういうところに一つのヒントを得られたのかもしれません。
さて、もう一つ重要なテーマが去年浮かび上ってまいりました。今、家永三郎さんと論争をやっているんですが、すでに『聖徳太子論争』という本が新泉社から出ております。そのつづきの論争を私信でやっておりまして、家永さんはああいう方ですから、これは公開されてちっともかまわないということを書いてきておられます。そのなかで出てきた問題なんです。
私は唐朝から占領軍が日本列島へやってきているという問題を提示したわけです。なぜそんな問題が話題になったかもお話すると面白いんですが、時間の関係でそれは省略させていただきます。結論として、そういう問題を私が出してきたわけです。なぜかと言いますと、天智二年に白村江の戦いが行われた。これは六六三年でございます。しかし実際は『旧唐書』や『三国史記』を見ますと六六二年で、一年のずれがございます。これも非常に面白い問題ですが今は立入りません。要するに『日本書紀』では天智二年八月白村江の戦いが行われたと書かれております。ところがそれから九か月たった天智三年、郭務宗*という人物が日本にやってきている。これは敗戦国百済におかれた中国の占領軍司令官の劉仁願が、自分の武将である郭務宗*を日本列島へ派遣した。五月にきて数か月いて一二月に帰っております。さらに翌年の天智四年、唐の天子が劉徳高という人物を派遣してきた。その副将的な立場で郭務宗*がまたやってきています。
宗*は、立心偏に宗。JIS3水準ユニコード60B0
天智三年にきたのが予備調査で今回は本番という感じかもしれません。この時は筑紫に至ってそこで表函を、国交の文書を、奉ったように書いてあります。この辺の問題も面白い問題をさまざま含むわけですので、また時間があれば立入って申させていただけるかと思いますが、とにかく今の問題としては、九月にきて一二月に帰っています。さらに第三回目、天智一〇年一一月にやってきている。これは二千人の軍隊を率いて四七隻でやってきている。大変なものですね。その時に捕虜になっていた筑紫君薩夜馬を返しにきている。これは九州王朝の君主ですけど、これを返しにきたという有名な事件がございます。
ということで、今必要なテーマについていうと、三回も日本列島へ郭務宗*はやってきているわけです。最初の一回は百済の中国側占領軍司令官の命によってやってきた。二回目は中国の天子の命によってやってきているわけです。とすると当然のことながら、三回とも軍司令官の劉仁願なり、唐の天子なりに報告をしていると考えるのは当たり前ですね。その報告書に基づいて唐側の「倭国伝」は書かれているはずだ。そういうことですね。当たり前すぎる話ですよ。『旧唐書』「倭国伝」を見ますと志賀島の金印とは書いてありません。光武帝から金印をもらった国、日出ずる処の天子のところ、白村江まで、全部九州の北部である、日本国とは違うんだと、こう書いてある。
三回にわたってきた報告書がどれだけ正確だったかということはわれわれ、わかりませんけどね。そりゃ細かなところに間違いがあったかもしれませんけど。国を一つか二つ間違えて報告したなんてことは、そんなことは考えないほうがいいんじゃないですか。そう考えなければ成り立たない説は、どこかインチキな説だといって言い過ぎでしょうか。そのくらいのことは正確に報告されていると思う。そう考えるほうが人間の理性じゃないでしょうか。そうすると『旧唐書』の「倭国伝」は間違っていない。また『旧唐書』の「日本国伝」は阿倍仲麻呂、日本国から派遣された遣唐使がその裏づけ人にいるわけですから、これも間違っていない。
しかも大事なことは、一言つっ込んで申しますが『旧唐書』に面白いことが書かれているんです。どうも日本国の使いが言うことはおかしい、誇大であって矜大、誇り高く話が大きすぎて実に合わない。そういう者が多いと書いてある。これも面白いんで、今度気がついたんですが、すべてとは書いていない。ということは、日本国の使いのなかでも本当を言う者も少数はいたということですね。多数は矜大だと言っているのは何かと言うと、これは八世紀ですから、もう『日本書紀』によってしゃべっているわけです、当然のことながら。近畿天皇家の正使ですからね。『日本書紀』を離れて自分の個人的見解なんてしゃべりません。『日本書紀』のすじでしゃべっているわけです。
わが国は神代からわたしたちが中心でございます、という感じでしゃべっている。そうしたら中国側は、それは事実に合わないよというわけです。ところが少数は事実に合うのを語った者がいる。その少数のなかに阿倍仲麻呂が入ることは間違いないんじゃないでしょうか。というのは『旧唐書』はわれわれが見るように書かれているんですから。あれを実と考えていることは明らかですね。そうしますと『旧唐書』に書かれている姿が、大きな日本の古代史の筋道であって、『日本書紀』に書かれているものは矜大であって実ではないと。こう言われたものが現在日本の教科書になっている歴史である、とこうなってくるわけでございます。
ということで、私はこの三つをまとめまして、張政の政、郭務宗*の宗*、仲満・阿倍仲麻呂の満で政・宗*・満。この三者の証言に基づいて歴史の骨格を考える、これはやはり歴史学の法則であろうと考えます。一つの王朝が歴史を作る場合はどうしても自己PRが急務になります。事実を正確に言います。そのために現在権力を握っている王朝がおかしいと思われてもかまいません、と。そんな歴史を作ってくれたら非常にうれしいというか、すごいと思うんですが、残念ながらそういう歴史書はまったくないとは言いませんがあんまりないんです。
中国の歴史書だって、その点に関してはやはり大分インチキみたいで、去年、一昨年とそれを私は次々感じたんですれけどね。私のところの副手の原田実さんのおかげで、『穆天子伝(ぼくてんしでん)』というものに目を向けまして、見てみますと、そこでは中国の天子は西域の西王母のところに行って、天子に任命されているという記事が出てきます。ちよっとまあ、『史記』『漢書』を見てたわれわれにはびっくりするようなことですが、どうもこれは大筋でいってウソではないようである。金属期以前の王の時代においては今でいうと甘粛省近辺ですね。西域に至る玉の産地、ここが文明の中心であった形勢が濃厚であると。だからこそ中国の天子は天子の判を、玉璽といって玉で作った。金やダイヤモンドで作ったってだめなんです。玉で作らなければいかんと、われわれのよく知っているあの話につながってくるわけです。この点は時間の関係で省略しますが、興味のおありになる方は、去年、駸々堂から出しました『九州王朝の歴史学』にくわしく二篇の論文をのせておりますので、ご覧いただければ幸いでございます。
そんなに古い話を言わなくても、唐朝の場合でも、唐の第一代というのは隋の一部将ですよ。それが反乱起こして乗っ取っただけのこと。しかし『旧唐書』を見ても、反乱を起こして乗っ取った、けしからん奴だなどと書いてない。いわば、いかにももっともらしく書いてありますよ。ウソをついているわけですね。だから中国の歴史書はみな本当だ、なんてそんなばかな話ではないんで、要するに一つの王朝が書かしめた歴史書というのは大義名分の、根本においては自己権力を正当化し美化するという大目的をもっているんです。その大目的についてはあまり信用しないほうがいいというだけのことなんですね。
『日本書紀』も実はその一つであったということなんです。したがって『日本書紀』がそういう書き方をしていること自身は、あえて不思議ではない。権力者が作る歴史書というのは大なり小なりそういうものであると思うんです。ただそれを事実であると思うと、くるってしまうわけです。そして戦前はもちろんですが、現在大きな迷信があって、戦前の皇国史観は間違っていた。しかし戦後は正しい歴史を教わっている、と思っている人が多いわけですが、これは大きな勘違いですね。今申したことでおわかりのように、一番歴史の基本のところにおいて、やはり戦前と同じく戦後も、テンノロジー(天皇ロジー)と私は去年から使い始めているんですが、テンノロジーと呼ばれる立場に立って教科書は書かれている。それを歴史だとあやまって思い込まされている。少年時代から教えられているというわけでございます。それに対して、人間の理性的な立場でみれば政・宗*・満の法則によって歴史を理解すべきである、というのが私の立場でございまして、これを各国語に翻訳して世界の歴史学者にも読んでもらいたいと、思っているのが今年の初夢でございます。
さてつづいて申し上げたい点は、去年ぶつかりました大きなテーマがございます。初めは調子よく進んだんですが時間がたつにつれて、予想しなかった重大なテーマであることが、だんだんわかってきたというテーマでございます。
去年の五月の終わりに神武天皇の問題について新しい見方が私のなかに生まれてきたわけです。青森県へ行く夜行列車のなかで思いついたのですけども、『古事記』『日本書紀』のなかに神武天皇の歌が書かれております。
みつみつし 久米の子等が 粟生(あわふ)には 韮一董(かみらひともと)
そねが莖 そね芽つなぎて 撃ちてし止まむ
みつみつし 久米の子等が 垣本に 植ゑし山淑(はじかみ)
口ひびく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
という歌がありまして、戦争中はこれに曲をつけて歌わされたものでございます。私より年上の方たちはそのご経験があろうかと思います。戦後は忘れさられてしまいました。のみならず神武天皇は架空の人であるという、戦前の津田左右吉が出したテーマが一般に承認されまして、学界でも教科書でも神武天皇は架空の人という扱いで、教科書には神武天皇は姿を現わさないということになってきたわけです。
ところが、この場合、非常に不幸なことがあったわけです。なぜかと言うと、戦前にはほとんどの学者が津田左右吉とまともに論争した人がいないわけです。早稲田大学の変なのが変なことを言っているが、あんなものは話にならない。東大・京大全部、皇国史観の時代ですから、みなあざ笑って無視してしまったわけです。そしてそれが敗戦後になって占領軍がきまして、今までの教科書が墨で塗られ、さて皇国史観じゃだめだ、何でやろう、あっ、そうだ、津田説でいこう、というようなことになったかどうか、要するに津田説が新しい歴史学の基礎になったわけです。
ですから神武天皇が実在か架空かという論争を学者同士がやったという経験がないんです。論争やらない間に架空になっちゃったんです。はっきり言えば占領軍の命によって架空になってしまった、と短絡して言えばそういってもウソではないような状況で戦後は始まった。これは非常に不幸なことですね。ですから戦後の学者は、改めて神武天皇が架空であるという論証に情熱を傾けるとか、論争するとかの経験なしにきてしまった。
さて、この神武天皇が実在の人物であるということは、もう私は繰り返し述べてまいりました。『盗まれた神話』という本を朝日新聞社から出しまして以来述べております。それはもう繰り返しませんが、一つだけキイをなす論証を申しますと、大阪湾に突入した時に、舟で日下(くさか)の楯津というところに入って、長髄彦と戦ったようにみえる記事が『古事記』に書かれています。これを元に本居宣長は、なまじっか近畿の土地鑑があるために、これはおかしい、どこか文章が間違っていると考えたんです。ところがあにはからんや、弥生の末期、古墳の初期の地形図(『大阪府史』第一巻)が明らかになってきますと、実は今の大阪湾からもう一つの河内湾というのが入りこんでいて、それのドン突きが日下の楯津であったわけです。だから舟で入れるわけです。
しかも、そこで負けて逃げた時に、南方を経巡って逃げたと書いてある。宣長はこれもまた苦しんだ。ところが大阪湾から河内湾に入る狭い通路が、何と現在の新幹線新大阪駅、つまり昔の南方、現在も南方といっております。大阪にくわしい方はご存知のように、地下鉄で梅田から二つか三つ目の駅が南方駅でございます。これは要するに淀川の南岸部にある南潟、菊人形で有名な枚方、あれももともとは平潟ですね。ということで、弥生末、古墳初期の地形図だと、まさに南方を通ってしか逃げられないわけです。ですから『古事記』の描写はリアルそのものであったという論証をいたしました。
これにも例によって古代史の学者は賛成も反対もせずに知らん顔して、依然、神武は架空という形で書いていますけどね。しかし、もうこの論証を否定しない限り神武を架空とすることは無理になっているわけです。これはもう私の本をお読みになった方は百もご承知ですので繰り返しは申しません。
今回問題になったのは、その神武がどこから出てきたか、出発地はどこかという問題です。この点、私は通説に従って宮崎県だと考えてきました。『盗まれた神話』でもそういう立場で書いておりますし、その後も何回もそういう立場で書いたり講演会で述べたりしてまいったわけです。ところが五月の終わりに気がつきましたのは、神武が歌っている歌に繰り返し出てくるのは、「みつみつし久米の子等が」という久米部の集団に呼びかけている言葉ばかりである。他の集団に呼びかけている形跡がまったくない、これはどういうことだろうか。答えは一つしかないと考えた。つまり神武が率いていたのは久米部集団だけであったと。
この点、戦前の皇国史観のような神武天皇が全軍を率いて宮崎県の都から大和へ遷し給うた、というイメージだとおかしいんですね。他の集団は全然無視して、久米集団ばかり可愛がってお歌を述べられたと、これはどういうわけですか。戦前の生徒はそんなことは聞かなかったかもしれないが、聞いたらぶんなぐられたかもしれない。実際は、そういう問いに戦前の皇国史観は答えることができなかったはずです。同じく戦後の津田史学に基づくすべての学者、歴史学者・国文学者も答えることができないんです。
なぜかと言うと、ウソ話を七、八世紀の天皇家の史官が造作したならば、早くて六世紀以後の史官がでっち上げたならば、なぜ久米部以外の名前を登場させなかったのかと。七、八世紀に久米部以外いるじゃないですか。蘇我もおれば大伴もおればいろいろいるじゃないですか、有力なのが。それを一切無視して、たいして有力でもない久米だけをひいきしたウソ話を作る必要がどこにあるのでしょうか。
たとえ久米部の歌を利用したとしましても、それは利用にとどまればいいわけで、『古事記』に四回ばかり出てきますが、そのなかの一回や二回は大伴や蘇我にしてもよかったのではないかと思うんです。それをしていないということは造作説からみると説明不可能なわけです。これも今のように神武実在か架空かということを真面目に論争しなかった、私が書いても誰もこれに対して古代史の学者が、古田の実在説はおかしいよといってくれないわけです。ですから今の問題は出ずじまいで終わっているんです。
実は戦後四、五〇年の古代史学者はこれに答えることはできないはずです。もし生徒に教室で問われたら、その先生は答えることが不可能なはずです。ということで、その答えは私が言いましたように、神武が率いていたのは久米集団だけであった、という仮説をたてますと解けるわけです。ですから久米の子にしか呼びかけていないのは当たり前だと、こうなるわけです。
さてそこで、久米はどこかという久米探しをいたしました。そして、さらに大事だと思われたのは、実はもう一つの集団の名前が出てくる、呼びかけたとまでは、いえないのですが、名前が出てくるんです。それは、
楯並(たたな)めて 伊那佐(いなさ)の山の 樹の間もよ い行(ゆ)きまもらひ 戦(たたか)へば 吾(われ)はや飢(え)ぬ 島(しま)つ鳥(とり) 鵜養(うかい)が伴(とも) 今助(す)けに来(こ)ね
いなさの山で戦った。もうお腹が減った。島つ鳥鵜養が伴、「とも」というのは「部(べ)」に当たるような言葉ですね。鵜養部の人たちよ、助けにきてくれ、と言ってるわけです。ですから目の前には鵜養部はいないんです。ただ鵜養部の存在をよく知っていて、しかも自分たちと関係の深い部であると考えている。これは非常にわかりやすいのは、神武のお父さんがウガヤフキアへズという、やはり鵜の鳥かなんかで屋根をふくような部であるらしいことを私は述べたことがございます。この問題も立入ると時間がないので省略しますが、とにかく鵜養部というのは神武にとっては関係の深い部であったらしい。
そうしますと、その「久米」と「島」、つまり鵜養部の枕詞が島つ鳥ですから、私はこの島というのは固有名詞であろうと。単なる普通名詞のアイランドだったら、日本中アイランドだらけですから意味をもたない。ですから伊勢志摩の志摩みたいに固有名詞であろうと考えていたんです。そうしましたら、その島と久米と両方あるところが九州にあった。福岡県の糸島郡、糸島郡は恰土郡と志摩郡が合わさったところです。その志摩郡に久米というところがあったわけです。ですから私は糸島郡が神武の出発したところではなかろうかと考えたわけでございます。
その点は、さらに裏づけができてきました。従来、宮崎県と考えましたのは『古事記』の先頭に「神倭伊波礼毘古命、その同母兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、『何地に坐せば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ』なほ東に行かむと思ひて、すなはち日向より発たして筑紫に幸行(い)でましき」とあります。つまり日向より発って筑紫へ行った。この言葉が宮崎県出発説の根拠であったわけです。ところが、その前にある高千穂という問題に四、五年前取り組みました。その結果、この高千穂というのは、宮崎県の高千穂山とか高千穂峡ではなくて、やはり糸島郡の高祖山連峯である、という結論に達したわけです。なぜかと言いますと、「筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とあります。これは筑紫と書いてあるから先入観なしに読めば福岡県である。福岡県に日向があるか、ある。博多と糸島郡の間の高祖山連峯に日向峠、日向山、日向川がある。一番大事なことは「くじふる嶺」というのがたしかにある。宮崎県と鹿児島県のほうはなくて困っていたんですが、ここにはたしかにある。
しかも、ニニギがここへきて言ったセリフ「此地は韓国に向ひて真木通り」、つまり韓国に真っ直ぐに相対していると。高祖山連峯に立ったら韓国が見えます。晴れた日ならね、かすかに。もちろん宮崎県からは見えません。ですから苦しまぎれに韓国岳(からくにだけ)のことを言ったんだろうと宣長はやったんですがね。文字どおり韓国に相対しているわけです。ということで天孫降臨の地を、博多と糸島郡との間の高祖山連峯であると考えた。これは『盗まれた神話』ですでに述べております。
そうしますと、その後につづく文章、何枚かページを繰ったところに出てくる高千穂は、やはり筑紫の日向の高千穂と解釈すべきである。文献の理解の仕方において。全然、別の高千穂だったら別の言い方をしなければいけない。あれとは違うんです筑紫じゃないんですよ、という言い方をしなければいけないはずです。それをせずに、いきなり高千穂宮とあるんですから、筑紫の高千穂と考えるのが自然だと考えたわけです。
そしてまた、出土物がこれを裏づけました。それは高千穂の山の西側に代々の王墓があると書いてあるわけです。「五百八十歳坐しき」とありますが、これは二倍年暦と考えると、春秋二回、一年に二回年をとるという「倭人伝」にある考え方によりますと、二九〇年。一人一〇年平均とすれば三〇人、一人二〇年平均とすれば一五人の王墓がある。いずれもヒコホホデミを名のっていた。ヒコホホデミというのは称号ですね。「天皇」みたいなものです。事実、糸島郡からは三雲、井原、平原といった豪勢な三種の神器をもった弥生の王墓が出てきている。
「森の定式」と私が名づけた、同志社大学の森浩一さんによれば、一つ物が出てきたらその五倍ないし一〇倍、実在の物があったと考えなければいけない。私も同じことをいっておったんですが、先に書かれたことに敬意を表して「森の定式」と私は呼んでおるんです。その「森の定式」によりますと、今三つ出てきたということは、こういう三種の神器を豪勢にもった弥生の王墓が、糸島郡には五倍で一五、一〇倍で三〇まだ眠っていると考えなければいけない。そうしますとさきほどの『古事記』の記載に一致します。この点、宮崎県の場合ですと、西側は鹿児島領域になるんですが、鹿児島県には三種の神器も二種の神器もまったく出てきていない、という論証をやりました。
このように、神話的事実と考古学的出土物とが合致する。だからこれは歴史的事実である、という考え方はシュリーマンがトルコのトロヤにおいて確立した考え方です。ヨーロツパの歴史学はまだこれを十分に学んでいないように私には思えます。その証拠があるんですが、これはまたご質問があれば申します。ともかくそれを「シュリーマンの原則」と名をつけました。そのシュリーマンの原則はトルコだけ成立するものではない。日本列島においてもまた成立しなければならないということで、今の件がシュリーマンの原則の完結した姿である、と考えまして、天孫降臨の地は高祖山連峯であるという論証を行いました。これも「歴史学の成立」という論文に書いて大学の紀要にのせました。『九州王朝の歴史学』という駸々堂から出した本にのっております。
さて、そういう立場からみますと、本当はもうその時に気がついてよかったんですが、あとで高千穂と出てくれば、筑紫の日向の高千穂の略だと考えるべきだったんです。それは考古学的出土物と一致したわけですから。同じく日向と出てきたら筑紫の日向と理解すべきだったんですね。それを宮崎県と考えるのは突拍子もない考え方で、文献の論理に従っていなかったわけです。そして二番目に筑紫と言っているのは、これはかつての私には解けなかったんですが、今の私には簡単に解けます。
よくいう話なんですが、「太宰府を守る会」というのがありまして、そこの会長さんの森弘子さんに初めてお会いした時のことを忘れません。「どこでお生まれになったんですか」と聞きましたら「はあ私は筑紫郡筑紫村大字筑紫小字筑紫で生まれました」「えっ、そんなところがあるんですか」「ありますよ」って、びっくりいたしました。太宰府の近くですがね。ですから筑紫という言葉はいろいろな、国、郡、大字、小字というスケールであるわけです。ということを知りまして以来、ここで筑紫へ向かうというのは、どの段階の筑紫へ向かうのかは別に判定をしなければいけないことですね。そうすると、筑紫国のなかの日向という、仮にこれを大字としますと、向こうも筑紫国の大字筑紫へ行ったと。つまり太宰府の近くへ行ったと理解すべきものである、ということがわかってきたわけでございます。
というようなことで、さっきの久米、島問題と合わせまして、神武の出発地は糸島郡である、ということになってまいりました。この点もシンポジウムの時に外岡発言というのがありまして、横浜におられる都立大学の人類学・社会学を出られた方ですが、重要なテーマを提起されたのです。これも時間の関係で省略させていただきます。またご質問があれば申させていただきます。
さて、そのように神武の出発地問題が解けてきたことによって、いろいろまた解決した問題が出てまいりました。次の歌を見てください。
宇陀(うだ)の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障る 前妻(こなみ)が 肴(な)乞(こ)はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 肴乞はさば [木令](いちさかき) 実の多けくを こきだひゑね ええしやごしや(略)ああしやごしや(略)
[木令](いちさかき)は、木編に令。
これも従来、本居宣長その他の学者を困らせた箇所なんです。これとほぼ同文が『日本書紀』にもあります。菟田、奈良県にも菟田があります。そこの高城に鴫、この鴫は山にも海にもおります。鴫罠を張っていた。自分が待っていると鴫はひっかからずに、鯨がひっかかったと。これはおかしいんですね。奈良県でなぜ鯨がひっかかるか。そこで、鯨というのは鷹のことであろうとか、山芋のことであろうとか、いろいろ変な解釈が出ていたわけです。余計おかしいのは、「前妻(こなみ)が肴乞はさば」、つまり一夫多妻ですね。前の奥さんがご馳走を要求したら、あんまり実のないところをやれ、若いほうの奥さんがご馳走を要求したら実の沢山あるところをやれ。津田左右吉はですね、書いて曰く、「ここは支離滅裂だ、何んにも意味がわからん、これは造作である証拠だ」と。今みるとかなり乱暴な論定なんですが、要するに意味不明だから後世の造り物だと、こういう論断を下している。
ところが、これが奈良県、大和盆地だと意味不明。糸島郡だと意味がすっきりするわけです。なぜかというと糸島郡にも宇田ケ原というところがあります。現在、川べりですが、弥生時代ここまで海が入ってきていた。しかもこの地帯には鯨がやってくる。ゴンドウクジラというのが玄海灘の特産でございます。鯨の罐詰今でも売っておりますよ。つまり、ゴンドウクジラが時々発狂したようになって陸に上がるわけです。そういう話、時々新聞に出ますね。ここにも上がってくるんです。ですからこの場合、鴫をとろうと思って罠を張っていたら、何のこっちゃ鴫はとれずに鯨がひっかかっちゃったぞと。こういう話はここでは非常にリアリティがあるわけです。しかも、その場合に発見者が一人占めしちゃいかんので、一村共同の食糧になるわけです。食糧の足らない時期ですからね。
ちょうどアイヌの熊祭りと同じように、熊だって一人占めしちゃいかんので、一村みんなで熊のご馳走にあずかるわけです。皮も共同で使用方法を決めるわけです。鯨も全部使いますのでね。一村共同で肉の分け前をもらい、すべての利用方法を決めるわけでしょうね。その時に一夫多妻ですので、皆殺気立っているからリーダーがユーモラスな歌を歌うわけです。「年上のかあちゃんがきた時は、あまり脂身の強いのやっちゃいかんぞ、太りすぎるからな。若いほうのかあちゃんなら、いいとこごっそり脂身のついた奴やってもいいけどな」とこういう歌を歌うわけです。そうすると皆がドーッと笑うわけですね。そうやって緊張感がほぐれたところで、実際に分けるのは村のルールで平等に分けるでしょうけどね。という弥生時代の鯨とりのユーモラスな歌。津田左右吉の言うような全然意味がわからんじゃなくて、まったく意味がわかる、すべてわかるというような感じの歌であったわけです。
もう一つあげます。
神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ
「撃ちてし止まむ」というのは、もちろんこの大和盆地に入ってきたのは武装した侵略者ですから、彼等がつけた付け言葉だと思いますがね。その前を見ますと、「神風の伊勢の海の」、これもおかしかったんですね。私が三〇代の初めの頃、直木孝次郎さんと田中卓さんが論争しておられました。「続日本紀研究会」、まだ五、六人でしたが、私神戸から大阪の会に出ていたんです。昭和三〇年頃です。続日本紀研究会が始まって間もない頃、この時の一つの対立点に伊勢の皇大神宮の問題があって、直木さんが否定説、田中卓さんは垂仁天皇の時、『日本書紀』に書いてあるとおりでいいんだという感じの説でした。もちろん神武天皇の問題も出ていたと思います。
これは直木さんがのちに書いておられますが、「この歌もおかしい。なぜかなれば、“伊勢の海”と言っているから三重県のことだけども伊勢の皇大神宮ができたのは、『日本書紀』に書いてあるところだって垂仁天皇だ。そんなに早くできてはいないと私は思うけども、まして神武天皇の時にできてるはずはない。それなのに神風の伊勢というのは、これはもうおかしいんで後世作られた証拠である」と。直木さんは天武天皇の壬申の乱の時に天照大神を祀っている、あのあたりからだという説なんですがね。この歌はそれ以後のでっち上げだと、こういう形で論じられたんです。
ところが、内倉さんという朝日新聞の記者の方ですけども「糸島郡にも伊勢というのがあるんじゃないですか」という助言を得まして、「調べてみます」ということになったんです。そうしますと、実はあったんです。伊勢ケ浦というところがありまして、現在、陸地のど真ん中ですが弥生時代はここまで海が入ってきている。西側の唐津湾のほうから海が入っているわけです。しかも大事なことは、その海の一郭に大石という字(あざ)がある。大石という字は糸島郡に三つある。ですから大石と言っただけじゃどこの大石かわからん。ところが、伊勢の海の大石、と言えば決まるわけです。
鎮懐石神社というのがありますが、今の深江海岸、そこの大石ですと、伊勢の海の大石となるわけです。これは二段階地名だったんですね。従来、三重県の伊勢の、そこに大きな石があったんだろう。その大きな石のところに、しただみという貝の一種が一這いまわっているのを神武が見たんだろうという話だったんです。しかし神武が見たというのもおかしいんですね。神武は三重県へ行った形跡がないんですから、大阪湾から熊野回りで大和盆地に入ったんですから。それなのに、これを三重県と思い込んでいたから、みんな本当におかしかったんです。
ところが今のように糸島郡に伊勢があり大石があった。しかも大事なことは、とくにこれは『古事記』じゃなく『日本書紀』のほうがなかなかいいんですが、「吾子よ、吾子よ」という言葉が入ってくる。これを岩波『古典文学大系』では、わが軍勢よ、わが軍勢よ、と訳しているんです。まあ奈良県ではそういう意味に使ったでしょうね、換骨奪胎して。しかし、もともと自分の軍勢のことを「吾子よ」と言うはずないです。これは文字どおり親が子供に呼びかける言葉なんです。しかも、これは私の独断をかなり言わせてもらいますと母親だろうと思いますね。つまり親が子供に「わが子よ、わが子よ、そこ、そこ、しただみがそこ、そこにいってるよ、さ、おとり、おとり」と言ってるんですからね。まあ父親が言っても別にかまわないんですが、何となく私は母親という感じがするんです。そういう母親が子供に呼びかける歌であり、場所は糸島郡の西の一郭であったということです。
それからもう一つ、それと対をなす歌が、
今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ
これは私は最初、親が子供に釣りを教える歌だと解釈したんです。というのは私は子供時分、広島県の呉市におりましたので、そのそばの天王というところによく父親に海水浴につれていかれた。また釣りを教えてもらったわけです。その時に、釣りは引上げるタイミングが大事ですから「今だ、今だ、もちょっと早く、いや遅すぎる、もちょっと早く」、そういうコツを教えてもらったわけですね。あの歌だろうと考えた。
ところが、これを博多の講演で述べたところ、兼川さんという、今「市民の古代・九州」の会長をしておられて、元西日本テレビの名ディレクターだった方ですが、講演会の帰りに言いました。「今日の古田さんの話、違いますよ」「なんですか」「あれはですね、海鵜ですよ、この糸島郡の海岸べりに鵜がたくさんいます。鵜飼のたねになる海鵜です。それをとるのは、朝早く暗いうちに行って、とりもちを海上に張り出した岩にべたべた塗りつけておく。そしてじっと舟に身をひそめて待っている。夜がしらじら明けてくると海鵜が襲来してくる。そしていつもの伝で岩の上に止まるわけです。ところが、とりもちがついている。そこでパッと行って捕まえるんですが、そのタイミングがむずかしい。あまり早く出て行ったらチューインガムのようにくっつきつつも飛び立って逃げてしまう。あんまり遅くタイミングがずれるとくっつき過ぎて、羽をばたばたやって羽がとれてしまう。そうするとこれは使い物にならないわけですね。だからその中間のちょうどいいタイミングで、わっと出なけりゃならない。まだまだ、まだまだ、それっ」というふうにね。
それをテレビ局にいた時に現地の専門家の漁師さんにやってもらって撮ったそうです。うまく撮れて西日本テレビで放映したそうですが、「あれですよ」というわけです。私はまだ見たことはないから何とも言えませんが、そう言われればなるほどという感じですね。そこでの場合は恐らく父親でしょうね。父親が子供にコツを教えている歌である。私思ったんですが、親が子供に歌う歌というのはかなりあったんじゃないでしょうか。現在は母親が子供に歌う子守歌がありますが、昔は生活のノウハウを歌で教えるということが、かなりあったんじゃないでしょうか。そういう歌、どなたかご存知でしたら教えてください。そういう、親が子供に歌う歌がここに出ているんですね。一つは父親の、一つは母親の、歌う歌がここに出ていると、こういうふうに私は理解したわけです。
さて、最後に残ったのが次の歌です。
夷(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人(ひと) 人(ひと)は云(い)へども 抵抗(たむかひ)もせず
この意味がわからなかったんですね。そこで考えてみました。問題を整理してみたんです。『古事記』『日本書紀』に出てくる神武の歌は、奈良県で作った歌はないんです。みんな糸島郡で歌っていた歌を奈良県で歌っているわけなんです。それはそうですよね。奈良県では戦闘の真っ最中ですから歌を創作しながら歌って歩くなんて暇はないわけです。自分たちが子供の時から歌っていた歌、今それを仮に糸島カラオケと変な名前をつけてみたんですが、糸島カラオケを奈良県で歌っているわけです。
そう考えますと残った一つのこの変な「夷を」という歌も糸島カラオケの一つではないかと考えたんです。しかも久米部が歌っていた歌というわけですからね。糸島郡における久米部の歴史に何かこういう事件があった。というのはこれは親が子に歌う歌じゃないんですものね。つまり、「えみし」、というのは敵です。それが一人で百人に当たるほど勇敢だと言われていたのに、何のことはない抵抗もできなかったじゃないか、といって自慢しているわけです。夷をやっつけた歌なんです、それが久米部の歴史にあったということなんです。
神武の頃は大体、今、論証は抜きに申しますが、二世紀の半ば頃だろうと私は考えております。弥生の後半期。天孫降臨というのは弥生の前半期で、前末中初といわれる時期、現在の考古学ではB.C.一〇〇年頃を当てております。ということで紀元前一世紀の歌を紀元後二世紀に歌っているという感じになります。つまり天孫降臨の事件を言っているのだと考えたわけです。天孫降臨というのは、出雲で大国主とボス取引をやったんだが、肝心の筑紫では相手の承諾を得ていないわけです。これは不法の侵入者ですから承諾するはずがないわけですね。その時の相手が、「えみし」と呼ばれているんじゃないかと。板付の縄文水田、博多湾のそばです。
高祖山から見おろしますと、さらに博多駅、その近くに板付の縄文・弥生水田がよく見えます。あれも不思議なことで、板付の縄文・弥生初期水田がありながらも、中期・後期に水田はないんです。最も稲作が盛んになったはずの中期・後期の水田が、水田稲作の元祖のような板付から消えてしまうわけです。このことの意味も、考古学者は誰でも知っているんですが意味は説明できなかった。ところが弥生前期末に天孫降臨、不法の侵略者がやってきたと考えますと理解できるんですね。
しかも板付の環濠集落、吉野ケ里で有名になった環濠集落です。板付では濠が二重に取り巻いているのが発見されました。もしかしたら三重かもしれないと、福岡市の現地の発掘責任者からお聞きしました。しかも大事なことは、真ん中の濠がV字型になっていて、さらに菱形になっているという奇妙な形をしていることがわかったわけです。最初からそうだったことが確認されたそうです。ですから、これは非常に堅固な要塞ですね。ここで守っている人たちは、一人で百人を相手にしても十分やれるという評判だった。勇猛な戦闘力をもっていると言われていた。ところが俺たちにかかったら抵抗もできなかった。とこういう自慢をしているんじゃないか。つまりこれは天孫隆臨の時の歌ではないか、と。こんなことを言うと国文学の人に怒られるというか、笑われてしまうでしょうけど、論理はそのように進んできたわけでございます。
しかも、その人たちは、「えみし」と呼ばれている人たちである。おそらく、「えみし」の「し」は越の国の「こし」の「し」のような接尾語だと思います。「えみ」の「み」は海の「み」だろうと思うんですが、「え」が語幹で。もしかすると博多湾とわれわれは今呼んでいますが、弥生時代に博多湾なんて言ったはずはない。ただ名前はあったはずですから、案外「えみ」と言ってたんじゃないでしょうか。これは私の独断的と言うか、仮説というほどにもいかない理解にすぎませんが、そういう地形に基づいた呼び名であろうと思います。
なお、これがこわいのは例の和田家文書の『東日流(つがる)外三郡誌』、今年はその全貌が明らかになる可能性があって期待しているんですが、その『東日流外三郡誌』によりますと、安日彦・長髄彦というのが筑紫の日向の賊に追われて津軽にやってきた、と述べているわけです。それを記録した秋田孝季は、九州の宮崎県の賊と考えて、神武天皇と理解した。それで長髄彦と結びつくと考えた。しかし安日彦というのが『古事記』『日本書紀』に出てこない。これは兄さんであって中心人物である。そういう中心人物を省略する必要はどこにもない、ということから、私は神武と長髄彦と結びつける考えは間違いである。では何かと言うと、筑紫の日向の賊というのは、ニニギたちである。天孫降臨と美化して称した、不法の侵略者ニニギに追われて逃げてきた、という意味だと理解したわけです。
それで、これに対しての考古学的なバックとしては、青森県で最近、次々に見つかった弥生の水田が、実は弥生の前期末から中期初頭の水田なんですね。はっきりしていることは、板付の水田のノウハウをもってきていると。これは現地の考古学者が盛んに言っていることなんです。私もあそこの資料館で館長さんからくわしく聞きましたが、ただ考古学者はなぜかってことは説明できない。ただ板付のやり方をもってきていることは間違いありませんということなんです。ということは、『東日流外三郡誌』で言っている安日彦・長髄彦が、筑紫の日向の賊に追われてきたという話と対応してくるわけです。今回、私が分析して驚いたのは、その人たちが「えみし」と呼ばれる人たちだった、博多湾岸でですよ。それが青森に行って、えみしになったと、こういうわかり易い話になってくるわけでございます。
さて、そこでもう一つ出てくる問題があります。「夷を」の次が「ひだりももなひと」、「ももなひと」が百人というのはわかるんですが、「ひだり」というのが一人という意味。「ひとり」という言葉はよく使うんですが、不思議なことに、「ふたり、みたり、よたり」とは言いますが「ふとり、みとり」とは言いません。「ふたり、みたり、よたり」とこうなっていきます。そうすると最初も「ひたり」であるはずなんですね、ルールどおりなら。ただ、われわれはなぜか最初だけは「ひとり」という読みくせがついているだけで、ルールから言うと「ひたり」のはずなんです。ところがここでは「ひだり」と言っている。その「ひだり」ではないか、つまり数詞のルールの「ひたり」であって、それが濁音になっている、という問題にぶつかってきました。
そこで実は面白い問題があります。いきなり変な話が出ますが、宮沢賢治の有名な「雨にも負けず、風にも負けず」のなかに「ひでりの夏をおろおろ歩き」という一節があります。ところが宮沢賢治の自筆本によると「ひどりの夏」となっている、という話がございます。さきほどの木佐さんから、この資料をいただきました。また花巻の宮沢賢治の資料館へ、今日の司会をなさっている笠原賢介さんが行ってこられた。その話を聞いたのですが、宮沢賢治の自筆本がちゃんと出ていて、それははっきり「ひどり」となっているそうです。これは一人という解釈もあるんだそうです。お日さまの日ととって、日雇いという意味を東北では「ひどり」と言うんだ、という話も出ているそうです。これも面白い説だと思いますが、要するに、どちらにしても「ひどり」と濁音で言うんです。
ところが、博多でも「ひたり」となるところを「ひだり」と濁音で言っている。そうするとこの人たちはどうも、この人たちというのは、つまりこういう問題がもう一つ入るんですが、今の短い歌だが、二つに分かれている。「えみしをひだりももなひと」というところは、よくわからない表現ですよね。ところが「ひとは言えどもたむかいもせず」というのは、よくわかるじゃないですか。普通の日本語です。後半部は征服者たちが言っている言葉で、前半部は征服されたほうの「えみし」が誇っていた言葉でしょう。
そうすると、これは、えみし語ではないか。「ひだりももなひと」というのは現地語ではないか。あの短い歌に、前半は現地語、被支配者側、後半は支配した側という二つの言語が表現されているのではないか、という問題が出てきたわけです。そしてこの人たちは濁音を使っている人たちではないか、と。そうしますと糸島郡あたりで非常に濁音がありましてね。「がんだらき」とか「こうだらき」とかいう地名があるんです。「き」は要塞の柵(き)だろうと思うんですが、やたらに濁音のつく地名があるんですね。
さて、そこで前半の終わりになりますが、私にとって長らく疑問になっていたテーマがあるんです。何かと言いますと、神武のことをカムヤマトイワレヒコと申しますね。あのヤマト、「倭」が、実は大和でなく筑紫を意味したんだろうと。志賀島の金印の「委」も当然、筑紫を意味する倭でしょう。志賀島に出てきたんですから。あれがまかりまちがっても奈良県の倭であるはずはないんです。神武は九州から出てきたことを誇りにしているはずですから、そこで名のっている倭は筑紫を意味する倭ではないかという問題が出てまいりました。
そして神、「カム」は何かという問題ですね。直木さんが言っておられたのですが、神武は架空だと、なぜかと言うと、「神」がついている。神さまが頭についているのは架空で人間ではない証拠です、という話をお聞きしたことがあるんです。これも考えてみれば論理として具合が悪いですね。そういう理由で神武が架空だと言うんなら、二代、三代少なくとも三代から後は「神」がついていませんからね。「神」がついていないのは実在だと言わなきゃならなくなるんです。その辺で造作説には具合が悪いわけです。
では、あの「神」は何かという問題です。私が考えたのは、この「神」もまた地名ではないかということを考えてきたわけです。といいますのはニニギの命でですね、天津日高彦という称号の出てくることはご存知のとおりです。日高津天津日高日子という「天」とは「天国」、これは海人(あま)国である。それは壱岐・対馬領域を中心とする、ということは私の『盗まれた神話』で述べました。「天降る」と言う時、筑紫や出雲や新羅、この三か所にしか天降っていない、しかも中継地なしに天降っている。とすると、その三領域の内側ではないか。そして天(あま)のなになにと、『古事記』で「亦の名」で言われているのは対馬海流上の島々に限られる。この両方からそう考えたわけです。そうしますと、天津は海人(あま)国の港で、彦は長官ですね。比田勝というのは対馬にありますが、ヒタカの津、ヒタカは地名ですね。日高津であろうということに気がつきました。そして連れてきた二人の武将の一人が天[木患]津(あまのくしつ)大久米というんです。久米集団を率いてきた。これは天国の港で櫛というのがちゃんと対馬にあるんです。その称号を、ニニギについて言えば、筑紫に天孫降臨したのちも、前の出身地の地名を名のっているわけです。
天[木患]津(あまのくしつ)の[木患]は、木編に串。JIS第3水準ユニコード69F5
そう考えますと、神武が神倭(かむわ)、倭(わ)は当時は「イ」と発音したでしょうから「カムヰ」という発音ですね。この「ヰ」というのは「ワコク」、つまり筑紫の倭国からきたということを自慢しているわけです。ところが「カム」というのは倭国のなかの、自分の出身地の地点を言っているのじゃないかと、前から私は気になっていたんです。ところが今朝、これに取り組んでいるうちに一つの答えに到着したわけです。というのは糸島郡のなかにやはりあったわけです。糸島郡の西端、伊勢浦の近くに神在(かむあり)村というのがあります。ここに神寄(かむよせ)、カムヨリと読むのかもしれませんが、そういう字地名もあります。
つまり、この地帯が「カム」という地帯であるということを示しているわけです。「アリ」というのは有り無しの有りではなくて、自分のことを「阿」というという「阿」がありまして、「リ」は「里」が何かしりませんが、要するに「アリ」という一つの地名表記だと思います。その「アリ」がついて「カムアリ」と言っている。片方は「カムヨリ」だったら同じような「ヨリ」ですし、「カムヨセ」だったら「瀬」でしょうね。つまり「カム」という地域なんです。そして、これは伊勢浦の大石の近くなんです。この地帯は「カム」という地帯であったわけです。
これは何かというと、「神風の」とありましたね。「カムカゼ」と言っているのは、三字目の「カ」は「ケ」に当たるものだと思います。で「瀬」を「ゼ」と言っています。是非の「是」であり、筮竹の「筮」ですから、これは恐らく濁音だろうと思います。岩波『古典文学大系』その他でも濁音で書いてあります。「神風」とありますので皆さん原文にそう書いてある、と思い込んでいる方が、私も何となくそんな気でいたんですが、確認しますと、そうではないんです。『古事記』も『日本書紀』も表音なんです。そうしますと、「カム」というのは固有名詞で、「カゼ」は「ケ瀬」。それを濁音で「カゼ」といっているのではないか。
つまり現地の人たちは濁音を好む人たちである。韓国の人たちは清音を好む人たちで、私たちが濁音で言っても韓国の人たちは清音にして発音しますね。ところが、われわれ以上に濁音好みの人であるみたいです。ですから「神ケ瀬」とわれわれが言っているのを「神風」と言っているんじゃないでしょうか、現地ではね。字地名で何々カゼといって「風」と書いてあるのが結構あるんですよ。あれはやっばり「カゼ」と発音しているから「風」で表わすんじゃないでしょうか。これも現地でもっと確認してみないと言えませんけど、字地名表によってみるとそういう感じがいたします。
ということで、ここへくる五〇分位前に「わかった!」と声をあげましたのは、神武の出身地、率いているのは久米集団ですが、久米の地そのものに神武がいた、と考える必要はないわけで、むしろ神武は「カム」出身だと。倭国のなかの「カム」の地(糸島郡神在(かむあり)村付近か)出身であることを誇りにして名のっていたのではないだろうか、ということに思い至りました。まだ本当にあつあつの持てば手からこぼれそうな発見ですから、とても断言はできませんけどもね。長らく思っていたことが一つの答えに到着したという感じでございます。
では、これで前半を終わらせていただきます。
それでは後半に入らせていただきます。
私は少年時代から柿本人麿のファンでございまして、旧制の広島高校、一六歳から一八歳にかけてでございますが、その頃、一所懸命、柿本人麿のものを読みあさったことを覚えております。人麿のものというより、より正確に言いますと、斎藤茂吉が書きました『柿本人麿』という本、今五冊ぐらい出ておりますが、これを図書館で一所懸命、読みかつ書き、写したという記憶がございます。今だったらコピーをとるんでしょうが、当時はコピーなんてありませんのでもっばら写したのでございます。そのなかで茂吉がとくに力を入れましたものに『鴨山考』というのがございます。人麿力作のハイライトと言ってもいいだろうと思います。
そこで茂吉は、人麿がどこで死んだかという問題にしつっこく迫っていくわけです。彼はうなぎが大好きだというだけあって非常に油っこいというか、しつっこい追求力をもって迫っております。今これを読み返しても感心しますのは、彼が何回も現地に足を運んでいる。それも今のように交通便利な時代ではないですね。戦前から戦後にかけて、繰り返し現地に足を運んでいる。これはやはり普通の万葉学者以上に熱を込めて現地に足を運んでいたんじゃないかという感じがいたします。
その結果、どういう結論に達したか、これは皆さんもご存知だと思いますが、今、簡単に要約させていただきます。彼は人麿の奥さんの依羅娘子(よさみのをとめ)に当然ながら関心をもった。
今日今日とわが待つ君は石川の貝に 一に云ふ谷に 交(まじ)りてありといはずやも
直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
この両方に出てくる石川というのはどこかということを、彼は鴨山さがしのキイポイントにおくわけです。その結果、彼が見つけたのは江川(ごうのかわ)であった。この川こそが石川である。これを石川と思わない人は歌を知らない者である、というようなすごい大独断を行うわけです。
実は、恥ずかしながら、私去年、初めて江川の中流・下流へまいりました。恥ずかしながらというのは理由があるので、私は実は江川のそばで育ったのです。江川といいましても上流、広島県になりますが、広島県の三次(みよし)盆地、そこの三次市、当時十日市町といいました。そこで少年時代を過ごしたことがございます。小学校の三年くらいから三次中学の一年までいました。二年生の途中で父親の転任に従いまして転校したわけでございます。十日市町というのは江川が貫流している町ですから江川は子供時分そこで泳いだり遊んだりした懐かしい川であるわけです。実にもうよく知っている川であった。
ところが、中流・下流、島根県石見国のほうへ行ったことがなかったんです。それで今回行ってみますと、まあ実にこれは美しい川ですね。上流の三次盆地のところは三つ又になっていて観光案内の地になっております。しかし、それとはまた別の意味で、あれくらい川が川らしいというんですかね、人間の手で変形させられていない豊かな川の美しさを保ちつづけている川というのはあんまりないんじゃないか。私など日本中あちこち講演したり、また研究旅行したりして歩きますけれど、ちょっと珍しいのではないかと思うほど美しい川でございます。
そこで初めて、あっ、茂吉はこれが気に入ったんだなと。今でもそれくらいですから、戦前はもっとだったんでしょうね。すっかりいかれて、いかれてしまってというのは悪いのですが、もうこれだと。ですから思うんです。茂吉の考え方というのは、いきなりこういうことを言っては申しわけないんですが、結論を言いますと、茂吉の探し方は、人麿という一つのドラマを頭に描いて、その舞台として最も好適な場所はどこか、というような探し方をしてたような気がします。たしかにそういう探し方をすれば、他の貧弱な川、といってはおかしいですが、いろいろ島根県だって川はありますよ。しかし他の川より、この江川をバックにしてあの歌を鑑賞すれば一番うまくいくっていうのはわかるんです。
ですから、ずいぶん強引だと思いますけど、その強引さの秘密はこの江川の美しさにあったと。この辺はみなさんが何かの機会にここへ行かれましたら、私の言うことに思い当たっていただけると思います。江津から海に臨むところにありまして、そこから今はJRが三次のほうへ行っております。私の少年時代にはなかったですけどね。三江線と言いましたかね、川のそばを通っていますから、もちろん普通列車ですが、それに乗って行くと川の美しさが非常によくわかります。
さて、茂吉はそういうふうにして石川はここだと、あっちこっち歩いた結果ですが、結論を出したわけです。ですから当然ながら人麿本人の歌である。
鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
と、こういった鴨山はこの江川のそばになければならぬ、というところから入っていったわけですね。ところが、うまい具合に江川のそばに鴨山がなかったわけです。それで、かなり強引に仕立て上げました。江川の上流に湯抱(ゆがかい)というところがございます。そのそばに亀という部落があった。そしてそばに山があった。亀という部落のそばにある山だから亀山と呼んでよかろう、と。土地の人が亀山と呼んでいるじゃないんですよ。それを呼んでよかろうというんで亀山と名をつけたわけです。しかし亀山じゃまだいかんのですよ。つまり鴨山とならなければいかん。
そこで今度は「カモ」が「カメ」になまるという原則を立てようとして悪戦苦闘するわけです。これもねちっこく何ページにもわたって「カモ」が「カメ」になまることはないとはいえない、ということを延々と書きつづっている。私は延々とそれを写しましたけどね。その時はまあすごいことを調べる、やはりたいしたもんだなあと感心して写したと思います。それで、ここが鴨山である。本来、鴨山であったのが亀山になったんだと。ここの本当の名前は津目(つのめ)山と言います。津目山が元亀山であっただろう、それは鴨山がなまったものであろう、ということで、ここが人麿が死んだところであるという結論になっていくわけなんですね。ここは邑智郡粕淵(かすぶち)村と言います。
今お聞きになったように、かなり強引な決め方だったんですが、これを発表したのち、さらに事件が起こったわけです。津目山の近くの湯抱の青年から手紙がきたんです。その手紙によりますと、自分の住んでいる湯抱には鴨山という山があります。それは柴刈り山であるが、われわれは鴨山と名をつけて呼んでおります。普通の地図にはありませんが、という手紙が飛び込んできたわけです。それで茂吉はびっくりして地名台帳、土地台帳を取り寄せる。その点なかなか手堅いんですね。取り寄せてみたところ確かにそこには鴨山という地名が書かれている。そこで早速またそこへ行くわけです。この辺がえらいんですね。
その青年は苦木(にがき)虎雄さんと言って、二三歳ぐらいの時だったようですが、それで茂吉はとんで行ってみたところが、たしかに鴨山というのがあった。柴刈り山というイメージからいうと小さな山かと私、思っておりましたが、昨年行ってみて、かなり大きい山で、しかも形がいいんです。富士山を圧縮したような非常に形のいい山なんです。この辺も茂吉は、どういう状況のなかで死んだと考えれば歌が生きるか、というあの方法から非常に気に入ったんだと思います。それでここを最後の鴨山の地に定めようというんで歌を詠んでおります。浜原五首というのは最初の粕淵村、津目山が鴨山だといったその時の歌で、『白桃』という歌集にのりました。
浜原五首 (歌集『白桃』より)
江の川濁り流れる岸にゐて上(かみ)つ代(よ)のこと切(しき)りに偲ぶ
夢のごとき「鴨山」恋ひてわれは来ぬ誰も見しらぬ
その「鴨山」を
あかり消してひとり寝しかばあな朗(ほが)ら浜原の山に鳴くほととぎす
人麿の死(しに)をおもひて夜もすがら吾は居たりき現(うつつ)のごとく
いつしかも心はげみて沢谷(さわだに)村粕淵(かすぶち)村を二日(ふたび)あるきつ
その時の感じがよく出ている歌でございます。次は『寒雲』という彼の歌集に出た湯抱五首。
湯抱五首 (歌集『寒雲』より)
年まねくわれの恋ひにし鴨山を夢かとぞ思ふあひ対(むか)ひつる
我身みづから今の現(うつつ)にこの山に触(ふ)りつつ居るは何の幸(さち)ぞも
鴨山は古(ふ)りたる山か麓ゆく川の流れのいにしへおもほゆ
「湯抱」は「湯が峡」ならむ諸(もろ)びとのユガカイと呼ぶ発音聞けば
人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ
この最後の歌が、茂吉の筆跡で、石碑が立てられております。
その前に立つと鴨山が非常に美しく見えます。現在公園になっております。そして彼は、苦木青年とのいきさつがあって三年目、苦木青年とのいきさつは昭和一二年ですから、昭和一五年に学士院賞をもらいました。ついでながら、敗戦がありまして、彼は失意のなかに ーー彼は戦争賛美の歌を作りましたので、よけい傷ついた心をもって鴨山へ行くわけです。昭和一四年の時の歌もあげておきます。
鴨山を二(ふた)たび見つつ我心もゆるが如しひとに言はなくに
そして昭和二三年の歌ーー
十年(ととせ)へてつひに来れりもみぢたる鴨山をつくづく見れば楽しもまた
その同年末に、
つきつめておもへば歌は寂しかり鴨山にふるつゆじものごと
いい歌ですね。晩年の茂吉の心境が非常によく出ている。茂吉の生涯は鴨山とともにあったというか、かなりの生涯の核心部分に鴨山が存在した、とこういってもいいだろうと思います。
ところがこれは、われわれにしみじみとした感動を与える話ではありますけども、論理の進め方からいうと非常に問題がある。この点を的確に指摘されたのが、梅原猛さんの『水底の歌 ーー柿本人麿論』上下でございます。この論証もお読みになった方が多いと思いますので、簡単に要約させていただきます。いろんな議論が展開されておりますが、今、全部は必要ございませんのでキイポイントを申しますと、先ず上巻で、斉藤茂吉を痛烈に批判しておられるわけです。それは、最初、私が申しましたように、石川というのは江川である。石川を江川と思わない人は歌を知らない人である、という論理は学問とすれば大変独断的な論理である。さらに、津目山が鴨山である、といっておきながら、苦木青年から手紙がくると一変して、柴刈り山、鴨山にしたと。その柴刈り山の鴨山は江川に面していない。支流には面しているでしょうけれども江川本流には面していない。ですから、あのすばらしい江川でなければこんな歌はできない、と言ったそのすばらしい川に面していないわけです。そこにさっと変えるというのはまさに豹変であって、学者としての節操に欠けるものだ、という形で非常に痛烈に批判されたわけでございます。
私は、この『水底の歌』を読んで、梅原さんの茂吉批判に対しては全面的に賛成、梅原さんの言われるとおり、とこう感じたわけです。少年時代から斎藤茂吉のファンでもありますけども、それは心情問題でありまして学問的な筋道とはまったく別でありますから。、学問としてみた場合はやはりこれはノーである、こう考えざるを得なかったわけです。
それでは梅原さんはその後、どういうふうに問題を進展させられたかといいますと、最も重要としてキイポイントにされたのは次の歌でございます。
丹比真人 名をもらせり 柿本朝臣人麿の意に擬へて報ふる歌一首
荒波に寄りくる玉を枕に置きわれここにありと誰か告げなむ
この歌の先頭にある「荒波」という言葉を抜き出されたわけです。そして、人麿は荒波の寄りくるところで死んだ。では荒波というのは、川の波にふさわしいか、海の波にふさわしいだろうかと、梅原さんの膨大な本のなかでも重要なキーワードになるところですね。その答えは海の波にふさわしい。川の波ではちょっと言いすぎというか、あまりふさわしくない。ところが海の波だったら荒波というのは当然ありうる、というところから人麿は海で死んだ、というテーマを導かれたわけです。そして、その海はどこかということで、島根県の益田市のほとりで死んだ、と。
益田市というのは石見国で第二の人口をもつ町なんですね。その沖合、湾の入口になるところに鴨島という島がある。現在はないんです。中近世に地殻変動があってこの島は海底に沈んでしまった。しかし、当然ながら奈良・平安という時代にはあった、文献からも証明できるというわけです。ですから鴨島に、だいたい島というのは平地ばかりの島というのは珍しいので、山島ですわね。ですから鴨島の山部分を鴨山と呼んだであろうと。これもまた、鴨山と呼んだという証拠は出てこないんです。でも鴨島の山だから鴨山と言ったのであろうと、これもさきほど流に言えば、梅原氏が命名したような感じになるわけです。そこで、鴨山の沖合で死んだと。
ここでご存知のように、読んでいてびっくりするようなアイデアが出てくるわけで、人麿は処刑されたのである。流刑人でここにつれてこられて、舟から海に投げ込まれたんだと。重しか何かつけられて投げ込まれたんでしょうね。その投げ込まれる前に鴨島で詠んだのが、あの辞世の歌である。そういう驚天動地の見解を述べられた。もちろん若干のバックはあるんです。この益田市には柿本人麿神社があります。実は二つあるんですね。一つは益田市にあってこれは立派な大きな神社です。もう一つは「とたこはま」と呼ばれる駅がございます。そこにも柿本人麿神社があるわけです。そこの祭礼が行われる時期が人麿が流刑になった時期であろう、というような話も入ってくるんですけどね。
その投げ込まれる瞬間を、梅原さん独自の筆力で、まざまざと読む人を引きずり込むように書かれております。ですから人麿は海で死んだ。しかも海に投げ込まれて処刑された。それは益田市の沖合の鴨島のほとりであった。だからそこに人麿の墓があるにちがいないということで、海底考古学というんでしょうか、滋賀県の田辺さんなんかを誘って、ここを発掘しておられる。去年第二回か三回の発掘予定だったのが延期になったと、私が行った時書いてありましたけどね。そういうことでみなさんも新聞その他でご存知のとおりでございます。
さてそれでは梅原さんの言われる鴨山ですが、これはどうかと言われれば、私はやはりノーと、斎藤茂吉の場合と同じようにノーと言わざるをえないわけです。なぜかと言いますと、これは非常に単純な理由でございます。梅原さんが証拠にされた歌の詞書を読んでみますと、「丹比真人、名をもらせり、柿本人麿の意(こころ)に擬へて報(こた)ふる歌一首」。これは、丹比真人という名前がわからないんですが、人麿の気持になって奥さんの依羅娘子に報える歌だと。つまり奥さんが歌を詠んでいるわけですね。その奥さんの歌に対して、人麿が報えようとしても人麿は死んでいるから報えられないわけです。それでは私が代わって報えてあげましょうという形で作った歌だと。ですから歌の形としては報歌(ほうか)というものである、ということは依羅娘子の歌が下敷きになって、それに対して作られた歌ということです。
わかりきったことを繰り返すなと言われるかもしれませんが、これ大事なところなんです。そういう限定があるわけなんです。ですからその報歌を理解するには、元歌を基に解釈しなければいけないという制約があるわけですね。元歌を切り離して勝手に解釈していいというわけじゃないんです。その約束はみなさんそのとおりだと思われるならば、元歌には海はないわけです。石川は出てきます。川しかないわけです。そうすると、荒波とあったら石川の荒波と考えざるをえないですね。不満であっても約束からすると。依羅娘子の歌に出てくる石川なるものの荒波と考えざるをえないと、これが基本の約束なわけです。
それではさっきの、荒波は川の波にふさわしいか、海の波にふさわしいか、という問いかけは、元は非常に面白い、意味深い問いかけだったことが、この講演の最後におわかりいただけると思うのです。とにかく梅原さんがそう問われた。ところがそれに対する一応の答えはすぐ出るわけです。ある本の歌に曰く、としまして最後に出てくる歌ーー
天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生(い)けるともなし
「君」というのは当然、人麿です。そうするとこれを作ったのは奥さんということになりますね。しかし作者はいまだ詳(つまび)らかならず、となっているんですから奥さんが作ったわけではないわけです。つまり奥さんになり代わって作っている。おせっかいな人が多いですね。奥さんが死んだあとでしょうけど、そういう歌が万葉集にのっているんですね。そのなかに「荒野」という言葉が出てくる。「夷(ひな)」は中小路さんが夷問題を追求していて、非常に興味深い言葉なんですが、今それは省略します。
つまり、夷の荒野の一隅にあなたの死骸が横たわっているということを聞いて、さがしているが生きた心地もしない、という依羅娘子が作っているという形にして詠んだ歌です。ここに「荒野」と出てきますね。では荒野というのはどんな野原にふさわしいか。林があるほうがふさわしいか、無いほうがふさわしいか、家は何軒まで許されるか、こんなことを議論してもしょうがないと思いますね。要するにこの荒野というのは、家が何軒とか、家の高さは何メートルまで許されるとか、そんな話じゃないわけでしょう。人麿の死骸がむなしく横たわっている野原、という心情の世界としての「荒」である。こう考えるべきじゃないでしようか。
この点はすでに人麿自身が、この「荒」を使っているわけです。人麿が讃岐国、香川県ですね。そこへ行って水死人が岸辺に打ち上げられている。それを見て作ったという有名な長歌と短歌がございます。妻や子は帰りを待っているであろうに、それも知らずにご本人はここにむなしく岩に打ち上げられている、ということを長歌で、また短歌で歌っているわけです。そのなかに「荒床」という言葉が出てくる。私もここへ行きましたが、香川県内の教育委員会が立て札を立てて、この岩である、としているんです。たしかにそう言われればそうかと思うような大きな岩ですが、海岸べりで、上がわりと平べったいんですね。ですから、ここだと言われればそうかなという感じなんです。そこに水死人が波で打ち上げられていた。その岩を「荒床」と人麿は表現しているわけです。
ということは、その岩に苔が何センチ以下なら荒床と言えるとか、何センチ以上では荒床では無理であるとか、そんな話ではないと思うんです。妻子が今日か今日かと待っているだろうに、それをご本人は、船が遭難したんでしょうか、打ち上げられてここにいると。そのいわゆる空虚さ、むなしさ、荒涼たる気分、それを表現すべく荒床と言っているんだろうと思います。ですから、こういう「荒」は人麿自身も使っているし、人麿が死んだのち、依羅娘子に代わって作った歌にも表われている。ですから、丹比真人の「荒波」は、時間的にはその両者の間ですから、やはり基本的にそういうものとして理解すべきであろうと思います。「荒波」という単語を取り出して海か川か、いずれかを決定することは無理であろうと考えたわけです。したがって、ここを出発点にして、人麿は海で死んだというテーマをたてて鴨島へ行かれた梅原さんの手法は、力作ではあるけれど、茂吉の場合と同じように基本的な論理関係をあやまられたのではないかと考えたわけでございます。
それでは、茂吉もだめ、梅原さんもだめという、いったいお前自身の考えはどうだと問いかけられるだろうと思います。この答えは意外に簡単に出てまいりました。やはりこういう問題を考える上では人麿自身の歌、さっきは依羅娘子の歌を原歌と言いましたが、本当の原歌は当然ながら人麿の歌です。
鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
これが一番の原歌であります。この原歌を基本に考えなければいけない。それでその原歌の詞書をみますと、「柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌一首」とあります。この「石見国に在りて」という言葉を従来の人は、斎藤茂吉も梅原猛さんもいずれも、石見国のなかのどこかで死に臨んだ時と解釈されたわけです。つまりサムウエア、エニウエアという言葉を補って解釈され、そのサム探しエニ探しにエネルギーを使われたと言っていいだろうと思うんです。それは、正しくなかったのではないかと私は思うんです。
なぜかと言えば、石見国で死んだという言い方には日本語として ーーよその国の言葉でも一緒だと思いますが、今、問題は日本語ですから日本語として言いますがーー 約束がある。たとえば、私は京都に家があります。誰かが京都で死んだという場合、私の感覚ではできれば京都市内で死んでほしい。私の家がある向日町というのは京都の桂川の、文字どおり向こうで郊外ですが、まあその辺なら京都で死んだと言ってもそうウソとは言いません。しかし舞鶴で死んだのを、京都で死んだと言われると、それは京都府には入りますが、やはり京都府の舞鶴で死んだと言ってほしい。いきなり京都で死んだと言われると、何か言い方として的確でないという感じをもつ。ただ京都市で死んだのを、京都府の京都市で死んだ、と言ってもかまいませんが、それはちょっとご丁寧すぎる言い方であると私には感じられます。おそらく他の方でもそうだろうと思います。
ということは何か──石見国で死んだということは、石見で死んだという意味である。石見国の石見で死んだということを、石見国の石見で死んだと書いてもかまいませんよ。しかし、それは京都府の京都市で死んだという書き方で、普通の日本語としては丁寧すぎる。日本人はなるべくわかっていることは言わないんですから、そういう日本語でね、石見国の石見で死んだとは言わない。
これは、さきほど出ました筑紫の場合にその経験をしたわけです。といいますのは筑紫舞という、これも最近、面白い問題が続出して調べたいことが山ほどあるのに時間がなくて困っているんですが、筑紫舞という九州王朝の舞ではないかと言われているものですね。これを求めて宮地嶽へ行った時のことです。むかしは博多から宮地嶽のほうに馬車鉄道というのが通っていた。レールが敷かれて機関車の代わりに馬が鉄道を引っ張っていたわけです。これが大正から昭和の初めにかけてあったわけです。最初は朝倉のほうにも馬車鉄道がありましたが、こちらはもう早く廃止されて、残ったのは宮地嶽行きだけです。その馬車鉄道に乗って古墳の横穴みたいなところで筑紫舞を見た、と西山村光寿斉さんは言われたのです。それは正にこの馬車鉄道で、その古墳は宮地嶽古墳の横穴であったということが判明したわけです。このことは角川選書の『よみがえる九州王朝』に書かれております。
その時に馬車鉄道の馭者の生き残りの方にお目にかかってお話を聞いたんですが、「ああ、舞を奉納しに宮地嶽の古墳の穴のところにきとりました。一つは日向の国から、一つは筑紫からきとりました」。その時、私は瞬間混乱したんです。福岡県ですから筑紫国にきているつもりだった。ところが筑紫からきておったと言われてちょっと混乱したんですが、何秒かのうちに、ああそうかと、さっきの話 ーー筑紫郡筑紫村大字筑紫小字筑紫というのがあるというのを聞いた後だったので、ああそうか、この人が筑紫と言っているのは、筑紫国ではなくて大字筑紫のほうで、つまり太宰府のほうのことだと理解しました。この場合もその方は、「筑紫からきた」とおっしゃつたので、「筑紫郡の筑紫村からきた」とか、「筑紫国の筑紫からきた」とか、そういう言い方はされなかった。日本語じゃそういう持って回った言い方はしない。「筑紫からきた」でいいわけです。
そういう経験がありましてね、そういう例からみますと、石見国で死んだということは、石見国の石見で死んだと理解すべきである。これは石見国の国府のあるところ、現在の浜田市ですね。そこで死んだという意味に理解しなければならない。浜田市は現在、石見国で人口最大の町でございます。
ここで私の失敗談を申しますと、初め私は地図を開けましたら、広島県に近い山間部に石見町というのがありまして、そこかと思ったんです。で、出雲へ行った時にそこへ寄りましょうと、「市民の古代」の大阪のグループの人たちといっしょに行ったんです。そこからバスで帰る時に三木カヨ子さんという大阪の主婦の方ですが「先生、ここは昔から石見町と言ったんでしょうね。そんなことはもうお調べですわね」と言われた。「ああ、そうですね、それ調べてきます」と。うかつなことですが、帰って調べてみましたら真赤なウソだったんです。現在の石見町は昔はまったくなく、市町村合併の時に、みな自分の町名を残したいと譲らないので、どの町村名にもない、石見国だから石見町という名前をつけた、といういきさつを知りました。本当に顔が赤くなったわけでございます。
それでもう一ペん調べ直してみると、『和名抄』に出てくる石見というのは現在の浜田市、ここに石見国の国府があったということがわかってきました。そして現地へ行って確認しました。ここに石(いわ)神社、石見社とも言うんですが、石(いし)神を祀っている神社が浜田市の真ん中にある。「いわみ」というのは「み」は神様の「み」でしょうから、石神という意味なんですね。で、石神を祀った石見社というのが、さきほどの言い方で言いましたら、石見国石見郡石見村大字石見小字石見に当たるような石見なんです。浜田市の繁華など真ん中にあります。昔はその境内に岩があったそうです。今はもう壊れたのしかございませんけど。というようなことで、石見国府のあった土地、浜田市、ここが人麿の死んだ場所である、という結論に達しました。
私が最初に浜田市へ行きましたのはもう数年前になりますが、市役所へ行きまして、図書館へいらっしゃいと言われて図書館へ行きました。そうしますと図書館の館長さんが私の名刺を見て非常に歓待してくださいました。「よくいらっしゃいました、どうぞどうぞ」と。石見の人は丁寧なんだなと。たしかに丁寧なんですが、よく聞いてみると実はそれだけではなかった。と言いますのは、関ケ原の戦いの時、それまでの城主が西軍に味方して負けたわけです。その後、東軍のほうから新しい城主がやってきた。それは三重県からやってきたそうですが、それが古田某という城主であったわけです。それで私の名刺を見て「ああ、よくいらっしゃいました」。全然もう私関係ないんですけどもね。古田という姓で得したのは初めてでしたけども。
あっ、もう一回ありました。京都(妙心寺)で、糟屋の評というのが出てくる日本最古の鐘があるんですが、そこへ行った時に、そこの責任者の方が私の名刺を見て「あ古田か、わしも古田じゃ」と言ってですね、「岐阜の古田じゃ、お前はどこの古田じゃ」と言うんでえらい親切に、中までよく観察させてくれたことがあるんですが、まあその時以来二回目でございますかね。
そこで、いろんな文書を沢山出して、みなコピーしてくださったんですが、それでわかったことは、この浜田城は浜田市の真ん中の丘の上に建っているのですが、関ケ原までは、その浜田城の建っている丘が鴨山と呼ばれていた。ところが古田某が、鴨山なんて名前をもっと縁起のいい名前に代えろと、まあこれ無知だったんですね。おそらく鴨山の「カモ」は神様の「カミ」と同じで神聖な山という意味なんです。ところが古田某はそういう知識がないから、鴨がヒョコヒョコ歩いている山みたいに理解したんでしょう。それでもっとおめでたい名前に変えろと、土地の人は鴨山と昔から言ってきたのを、あまり違う音にしたくないので、似た音でおめでたい亀山と直したというわけです。有りがたいことに、関ケ原ぐらいだったら証拠文書がいっばいあるんですよ。それをいろいろコピーして出してきてくれましてね。それで鴨山が国府のど真ん中にあったということがわかったわけです。
これは私にとって満足できる結果でした。なぜかと言いますと、私は少年時代に一所懸命、斎藤茂吉の『鴨山考』を写しながら、ふと抱いた疑問があったんです。人麿は「鴨山の」といきなり始めているんです。これが、もしわかりにくい鴨山でしたら、どこどこの鴨山というはずだと。といいますのは、人麿の歌をみていたからですね。枕詞がやけに出てくるじゃないですか。もうひどいのは、五・七・五・七・七のなかで最後の七以外は全部枕詞みたいなのもあるではないですか。それでけっこう読み終わったら全体が強烈な主観を表現しているというね。それが歌の名人たるゆえんですね。そういう人麿ですから、歌が五・七・五・七・七の関係で省きましたなんてことはないわけです。もしこれが湯抱の鴨山なら、江川のなんとかなる鴨山に、とか、そう言わなければわからないじゃないですか。また鴨島だって、人が鴨山といえば誰でも石見の人はあそこしか思わない、ということはないから、益田なる何とかの海の上なる鴨山の、とか言うべきである。
それを言わずにいきなり「鴨山の」と言っているのは、いきなり鴨山でわかると、聞いた人もわかると、まあ、あれだけのプロですからね。聞く人をいつも意識して作っています。聞くほうもわかるという立場で作っているんではないかと。要するに、そんなにややこしい鴨山かなあと、少年なりの、少年と言えばどの少年もみな直観の天才でしょうからね。私も当時は天才だったわけで、そういう感じをもったんです。そうすると、その私の出発点の疑問からすると、ここの鴨山は正に国府のど真ん中、町の中心の山が鴨山なんですから、これを、何とかの鴨山という必要はないわけです。もう鴨山といえば誰でもここを考える、ということで、浜田市の鴨山はドンピシャリ、その条件に、私の基本的な疑問に対応できた。まあ、ここまでよかったんです。ここまでの話はもう聞いた方もあると思うんですが、実はそこからあとの問題に、去年の秋、当面することになったんです。
と言いますのは、私の学校の授業でこの話をしましたところ、一人の女生徒がきて「私は浜田市の出身です。何かお役に立つことがありましたら何でもおっしゃってください」と言ってくれたわけです。「それじゃ調べてほしい」「何ですか」「石川というのは何か、調べてほしい」「わかりました」。真面目なお嬢さんで、ちゃんと調べてきてくれて「こういうのがあります」。そうしたらちゃんと石川というのがあるんです。浜田市の真ん中を流れている川です。現在、浜田川と言っているんですが、昔はこれを石川と言ったというんですね。それは『浜田の歴史と伝承』という本が出ておりまして、そこに出ております。
石見川 本村北方ニアリ。今浜田川ト唱フ。石川ト同川ナリ。勅撰ニ出ス。
石見潟 本村北方ニアリ。石見郷ノ海辺ヲ云フ。名寄セニ出ス。
石見海 本村北方ニアリ。石見郷ノ海ヲ云フ。類字名所集ニ出ス。
とありましてね、浜田川というのが昔、石川と言った、ということで石川が浜田市のど真ん中にあったわけです。
これはもう決まりだなあという感じをもちましてね。しかし、やはり現地を足で踏まなければと、秋田孝季が言ったように、「歴史は足にて知るべきものなり」というので現地へ行ったわけです。そうしますと行ってよかったんです。行った時は台風のあとでした。そして石川の上流へ行ったんです。なぜ上流へ行ったかと言いますと、茂吉に従って「石川の貝に交(まじ)りてありといはずやも」という、貝殻の貝が本文に書いてあるんですが、注釈で「一に云ふ、谷」という字が書いてあるんです。茂吉もこの問題に一所懸命に取り組みまして、峡谷の谷がいいだろうと、こう理解して江川の中流域の湯抱へ行ったわけです。
私も少年時代から、峡谷の谷だろうと思ってきたんです。ところが、浜田市の下流は町のなかを流れている平凡な川であって、全然、峡谷なんて感じじゃないんです。ですから峡谷がないかなと思って、朝早く起きてタクシーでずっと上流へ行ってみたわけです。そうしますと、たしかに上にダムがありまして、その界隈はかなり深い峡谷になっている。これでいい、と思いながら帰ってきたわけですが、途中で待てよ、峡谷は浜田川の上流にあるわけです。ところが鴨山というのは浜田城のあるところ、河口なんですね。海に臨んだところなんです。鴨山で死んだということは、海際で死んだことになりますね。「石川の谷(かい)に交(まじ)りてありといはずも」というのは上流になるじゃないですか、分裂するわけですよ。もう決まりだと思って、しかし念のため現地に足を運んだら、ばらばらに分裂して、この話が成り立たないということに気がついたわけです。これはやはり現地を足で踏むご利益ですね。
そしてその後、気がついたことがあるんです。タクシーの運転手さんから聞かされていた「この浜田川というのはおとなしそうだけども、一度、洪水になると始末におえんのですわ、よく人が死にます」と。そしてまた私のところの生徒のお父さん、お母さんがわざわざ案内してくださったんですが、そのお二方からも、この浜田川というのはよく洪水で人が死ぬ川です、と。戦前の昭和一八年頃、戦後の昭和三十何年か、ダムができてからでも昭和五七、八年頃ですか、ひどい時には二〇人ぐらい死んだことがある、という話を聞かされていた、それを思い出したんです。
つまり、これは本文どおりの貝殻の貝でいいのではないかと。「貝に交りて」というのは洪水ですね。この洪水の時、人麿が鴨山のほとりで死んだのではないか、ということに気がついたわけです。
そうなりますと、
柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首
今日今日と わが待つ君は 石川の貝に 一に云ふ谷に 交(まじ)りてありといはずやも
直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
あとの歌はこれは原文を見ましても文字どおり、石川となっております。ところが前のほうは、読み下しでは石川となっていますが、原文は石水となっています。それを両方、石川、と従来カナを振ってきたわけです。しかし、これはおかしいですよね。同じ人が詠んで同じ時に書いたものを、片方を石川と書き、片方で石水と書くのはおかしいじゃないですか。これはやはり読みが違うと考えるほうが、原文尊重から言って自然じゃないでしようか。「石」は石見国ですから「イワ」と読んでいいと思うんです。「イワミヅ」ではないかと思いました。「ツ」というのは「津」、石見潟とか石見海とか並んでおりましたね。そこは港になっておりますので「イワミヅ」と呼ぶことができる。「いわみづの貝に交りてありといはずやも」。貝はあんまり川にはいない、海にいるんだという話がありますけれども、まさにこれは石水の海の貝、それにまじって人麿の死骸がある、ということで洪水で人麿は死んだのではないか、ということに気がついたわけです。
そうしますと、梅原さんが出された問いがはからずも非常に意味があったわけです。荒波と言えば海の波か川の波か。これは正に石見津の石川の荒波ですから、川が荒波を生ずるのは洪水の時です。ですから石川が氾濫したその荒波のなかで、人麿は流され、鴨山に打ち上げられて、おそらくもう自分の死期は近いということで作ったのがこの歌なのでしょう。依羅娘子というのは江川の入口の江津の出身だと言われているんです。驚きましたがね。依羅娘子のご子孫が今いらっしゃるんです。思いもしませんでした。この間までいらっしゃったんだが、現在はご主人が亡くなられて娘さんが二人。一人は大阪に、一人は仙台にいらっしゃって、お母さんのほうは大阪と仙台行ったりきたりして、今大阪にいらっしゃいますという話なんです。それから人麿記念館が最近できたんです。あの湯抱にね。村おこし一億円でしたか、そのお金で作ったそうです。その時に、そのお母さんが依羅娘子の子孫ということでいらしたそうです。依羅娘子の子孫ということは江津の人たちはそう言い伝えている。これは不思議な話ですね。まあこれは余計と言っちゃ何ですが、面白い貴重な話です。
とにかく依羅娘子は江津で作っている。人麿は鴨山で死んだと。それでですね、もう一つ最後に、依羅娘子のあとの歌ですが、これは従来の読みが少し違うのではないかと思っております。「ただの逢ひは逢ひかつましじ」と読まれております。直接、逢うことはできないだろう、だから石川に雲立ち渡れ、見ながら偲ぼう、と。これも変な話で、遠いから行くのがめんどうくさい、雲を見てがまんしようといった感じですね。しかし石川に雲が立つのが見えるくらいだから、あまり遠くはないはずですよ。それなのに直接行かずにすまそうなんてね、この奥さん依羅娘子、えらい怠け者だなあと。心ではえらい痛切なようなことを言いながら行動はさぼっているなと、こんな注釈した人は、ないと思いますが、感じて言うならばそんな感じがするんです。
ところが、これは文章の読みが違うんじゃないかと思います。原文では「直相者 相不勝」となっております。これは「ただの逢いは逢いたえざらん」と読むのではないでしょうか。「かつまし」ではなくて「たえる」。杜甫の詩で「都を遠く離れているそのうちに自分は白髪になった。そして簪(しん)にたえざらんと欲す、白髪にかんざしがさせないような感じになってきた」というところで、この「勝」という字が書いてあります。「欲不レ勝簪」「簪に勝えざらんと欲す」あの「堪える」ですね。つまりこれは、「直接逢うことはお互いにがまんできないでしよう」。つまり使いの者から、人麿の死の惨状を聞いているわけです。足が折れたか、腹がどうなったか、むごたらしい死相を呈しているわけです。ですから「そういうあなたの顔を私は見たくない。私にとって、あなたはりりしく素晴らしい男子であったし、そのあなたを私は記憶しつづけたい。あなたもそんな自分を私に見られたくないでしょう」。「相不レ勝」「お互いに堪えることができないでしょう」というわけです。
これは現在でも交通事故で奥さんが警察にかけつける。死体安置室へ行って奥さんは見たくない。弟さんか誰かに「あなた見てきてください」、これは不人情ではないわけです。自分の愛する夫が変な顔に変形した、そういう顔を見たくないという繊細な心情です。怠け者の心情ではないわけです。それと同じような、ある意味ではもっとつっこんだ表現でしょうね。つまり、私はそういうあなたを見たくありません。あなたもそういう顔を私に見られたくないでしょう。これは「相勝えざらん」という「相」の意味ではないかと私は理解したわけでございます。まあ、この辺は主観ですからね、こうでなければいけないというわけではないんですが。遠いから行けない、というんではなくて、行けるんだけど私は行きたくない、という歌だと。そういう意味で、昔から好きな歌ではありましたが、一段と素晴らしい大好きな歌に現在なっているわけでございます。
ということで、私の鴨山論、結論に到達してみれば大変平凡な、わかりきった答えであろうと思いますけども、私はわかりきった答えに到着できたことで安心したわけでございます。
万葉学と言ってもずいぶん変わった発展をとげておりましてね。たとえば、人麿というのは歌俳優であって、万葉に出てくる歌はみんな本当の経験じゃなくて作られた歌にすぎない、とか、そういう説が学者によって出されているのです。そのあげくは、だからこの辞世の歌でも本当に死んだ時に作ったのではなくて、人麿が、私が死んでみたらどうだろうという頭で想像して作った歌だとかね。この石見というのは、大和にも石見があっただろうから、そこでイメージして、でも同じ石見なら辺境のほうが面白いというんで石見国に対して作ったんだろうとかね。なんだか読んでいて、へえ、と思うような説がいろいろあるんですが、私は最も素朴な、最も当たり前の歴史学の扱い方でこれを読んだら、こうなった、というところをお伝えしたわけでございます。
参考 人間、古田武彦さんとの出会い 難波収(『新・古代学』第一集)
最後にもう一つ申させていただきます。これも去年の、私の発見ではないのですが、大きな経験でございました。九月二〇日のことでした。今日もきておられるかもしれませんが、西江碓児さんという大宮の方がいらっしゃる。前からよく存じあげていたんですが、この方から初めてお電話がありました。私が青森県の石塔山神社のお祭りに行って帰ってきたその日、帰って二〇分ぐらいして電話がかかりました。「何ですか」と言いますと、「古田さんタジマモリの話ご存知ですね」と。「はあ知っています」「あれおかしいんじゃないでしょうか」「どこがおかしいんでしょう」「あれはトキジクノカグノコノミをもって帰ったと。で、それは橘である、と書いてありますね」「ああ、書いてあります」「橘というのは、『倭人伝』に橘があると書いてありますよね」と。「ああ、ありますね」「そうすると日本列島に橘はあったわけで、それを波涛万里取りに行ったというのは、『日本書紀』では一〇年かかったと。これはおかしいんじゃないでしょうか」と。「なるほど、それはそうですね」。
それともう一つは、「縵八縵(かげやかげ)」「矛八矛(ほこやほこ)」と従来読まれていた。これは『古事記』『日本書紀』ともに書いてある。タジマモリが垂仁天皇のところに持って帰ったその形が書いてある。帰った時は垂仁天皇は亡くなっておられたと。そこで墓のそばで泣き叫んだと、『日本書紀』ではそこで死んだと書かれている。ところが「縵八縵」というのは、岩彼『古典文学大系』の注釈によると、橘を紐でつないで、お祭りの時に飾りにして使ったんではないかと。まあこれはいいにしても、「矛八矛」はおかしい、橘をどんなにつないでみても矛の形にはなりません。西江さんは愛媛県のご出身で、みかんの名産地、だから子供の時おもちゃと言えばみかんしかなかったと、まあ極論でしょうけど。
みかんをいろんな形にして遊んだけれども、どうあれをつないでみても矛になりませんと、そりゃそうですよね。「あれはバナナじゃないでしょうか」。私は腹のなかでは、まあ何てつまらんことをと思ったんですよ。しかし、そうも言えないので「では後で『日本書紀』『古事記』をよく見てみますので」と、疲れていましたのでごめんこうむったのです。そこで次の日と次の日『古事記』『日本書紀』を読んでみますと、とんでもない、これはすばらしいアイデアであったわけです。
なぜかと言いますと、先ずこの場合、障害物になったは、『古事記』『日本書紀』ともに書いてある注釈である、原文注釈なんですね。つまりトキジクノカグノコノミというのは今の橘である、ということが『古事記』にも『日本書紀』にもちゃんと書いてある。だからそれによってわれわれは考えてきたわけです。ところがこれは、和田家文書『東日流外三郡誌』を扱う時に私が方法論として提出したものですが、資料に大きく分けて二種類ある。S資料とR資料がある。S資料というのはソース資料、R資料というのはリコメント資料。つまり原資料がS資料、後代資料がR資料。後代の学者の解釈で「トキジクノカグノコノミは今の橘である」と書いてある「今」というのは七、八世紀、『古事記』『日本書紀』が成立した七、八世紀現在の「今」である。七、八世紀の近畿天皇家の学者が、「これは今の橘である」という注釈をしている。
この文はR資料に属する。それ以外の説話全体がS資料である。というふうに分けて考えますと、そのS資料分に関しては、たしかに「倭人伝」という中国の同時代資料を基盤にして考える。その目で『古事記』『日本書紀』の内容を点検する、この方法は正しいわけですね。その目で見ると、やはり橘を遠くへ取りに行くというのはおかしい、ということになりますと、結論としてやはりこれはバナナと考えるほうがいいだろう。バナナだったら初めから矛の形をしていますからね。そしてまた房のようになっている。
しかも私おどろきましたのは、私の学校に中村卓造さんという生物学の教授がいらっしゃるんですが、東南アジアへ三〇回前後、研究旅行をしていらっしゃる。行ったら一か月ぐらいおられるんですが、この方のところへ行って聞きましたら、実はバナナには二種類あるんだそうです。原種バナナというのは三十数種類あると辞書に書いてありまして、みな赤道近辺のインドネシアとかマレーシアとかインドとかにあるのですが、それを形態で分けますと二種類になるそうです。普通のバナナの実はしだれ柳のようになって、その先にわーっとついていて、重いので実が地に着いているそうです。ところが中村さんがマレー半島で見られたバナナは直立の幹、それに天に向けてバナナがなっている。下は何もなくて上だけで。だからあれを切って帰ったら正に矛八矛なんですね。しだれ柳をとって帰ったら縵八縵、これは本当は「きぬ八きぬ」と読んだほうがいいと思います。
諸橋『大漢和』で見ますと、縵というのは模様のない絹のことのようです。バナナは正に模様のないような感じですね。橘はつぶつぶで模様があるような感じですがね。「かげ」と読んだのは『延喜式』あたりで、蔭の読みをもってきて、かなを振ったんです。ですから本来、「かげ八かげ」と読むのはおかしかったんです。ということで、驚いたことに、矛八矛、縵八縵というのは原種バナナの二形態をそのまま表現していたんですね。非常にリアリティがある。この場所もおのずから決まるというか、かなり決まってくるんじゃないですか。
つまり、しだれ柳のバナナは赤道帯にかなりあるんですね。ところが直立のほうは割と珍しいですから、中村さん珍しがって盛んに写真をとっていらしたんだそうです。そうすると、両方がダブってある地域ということで、行った領域が限定できるんじゃないでしょうか。おそらく将来、植物学の本にのるでしょうね。というのは、今、植物学の本にのっているんですよ、この橘の話が。橘であるという解説で植物学の教科書にのっている。中村さんが見せてくれました。あれは書き直さなきゃいけないですね。
この経験は非常に重大な意味をもちます。なぜかと言うと、七、八世紀の天皇家の史官は大ポカをやったんですね。誤認したわけです。しかし誤認が素晴らしいわけです。なぜかと言うと、つまり七、八世紀の天皇家の史官にとってバナナというのは、手持ちの果物になかったということです。ですから一番似たものとして橘だろうとやったわけです。「橘かもしれない」くらいに書いておけばよかったんですがね。それを断定的に書いてしまったんです。
ということはつまり、S資料部分は彼等の造作ではなかったということですよね。津田左右吉は、『古事記』『日本書紀』の神話・説話はみな六世紀以後の天皇家の史官の造作で、でっち上げてあると、こういうすごい断定を下しましたよね。ところが、もしそうであったなら、自分たちがでっち上げた話を、自分たちで大ポカ、誤認するということはないわけです。この大ポカは、このS資料部分の説話が古くからの説話である、彼等のでっち上げではない、津田説は成り立たないという証明力をもっていたんですね。
もう一つある。邪馬台国問題にも関係するんです。なぜかと言うと、「倭人伝」によれば倭国には橘があったわけです。ところが、この七、八世紀の史官の目では、橘は昔はなかったと考えられているんです。昔からあったものだったら、よそへ取りに行く必要はないですから、七、八世紀現在では橘があって、みな食べておりますが、昔はなかったと考えている。こういう認識というのはばかにならない。たとえば、バナナというのはわれわれは明治以後のものだと知っていますよね。銭形平次がテレビでバナナを食べているという場面はないわけです。それがあったら視聴者がすぐ文句の電話をかけるでしょうからね。これは要するに、みながバナナは江戸時代になかったと思っているからなんです。その認識は正しいわけです。誰が証明したわけではないがみな知っている。
同じように『古事記』『日本書紀』の編者は、橘というのは昔はこの近畿になかったのだということを知っているわけ。ところが三世紀の「倭人伝」には「倭国に橘あり」と。そうだとすれば、近畿は邪馬台国ではないということになります。さきほどの木佐さんの軍団といい、この橘問題といい、こういう近畿説否定論は今までなかったんですからね。さまざまの効果をもちます。
例の海幸・山幸の話もなかなか私、解けずにいたんですが、この西江理論の効果によって解け始めたんです。あれは何となく対馬らしいと浅茅(あそう)湾の北岸部に海神(うみかみ)神社があって、天(あま)の真井(まない)もそばにあって、あそこが舞台じゃないかなと感じていたんですが、困ったことに「今、隼人が朝廷に犬のような格好をするのは、このせいである」というのがあって困っていたんです。ところが、今の方法、S資料とR資料によって、隼人が犬の格好をする、というのはR資料、近畿天皇家に関する学者の注釈、それを述べた部分がS資料で、これはどうも対島の海神神社をバックにした説話であろうということで、あっちこっちがすっきりしてきました。「今何々」というのがたくさんあるでしょう『古事記』『日本書紀』のなかに、あれはみな、西江理論によって見直されなければいけない、ということでバナナの威力は絶大でございます。
一市民の方のアイデアから、去年、私が教えられたというわけでございますので、一つ今年もみなさんのいろんなお知恵をいただいて勉強したいと。もう私なんかが思いつかないアイデアや考え方を提供していただいて、それに従って私が考えるという、私としては非常に楽しい、六五歳になった老人にふさわしい状況になっていますので、どうぞよろしくお導き、お願いいたします。
質問
柿本人麿は柿本佐留は同一人物でしょうか。また益田市で人麿が生まれたという説についてどうお考えでしょうか。
答
今おっしゃった二点とも、私も関心をもったテーマでございます。最初の問題は梅原猛さんが言っておられるんですが、『続日本紀』に出てくる柿本佐留というのが人麿なんだと。これもまあ一種の弁舌をふるっておられるように私には思えるんです。まあ率直に言ってあまり成功していない。これは梅原さんの構想からそれを結びつけたかった、ということはわかりますけれども、しかし客観的な分析からみて、「佐留」が「人」だっていうのはね。人麿を流刑にしたから、それをはばかって「サル」と書いたとか。これはまあ一つの解釈、思い込みではあっても、客観的な論証には耐ええないと私は思いました。
それから第二点の人麿が生まれた場所についてですが、益田市付近の「とたこはま」にある柿本神社の近く、五〇米も離れていないような感じですが、そこに人麿誕生地という場所があるんです。これは私は、かなり信憑性が高いんじゃないかという感触をもちました。というのは、どの家で生まれたとか、その家の名前とか、という伝承が伝わっているわけです。そういうのは『万葉集』にも『続日本紀』にも出ておりませんからね。これはかなり信憑性があるんではないかな、という感触をもっております。感触以上にこれは間違いないという論証はまだ得ておりません。ただありうることだなという感じをもっております。
質問
天孫降臨に追われたエミシはハヤトと同じと考えていいのですか。「愛瀰詩」とは美しい字です。エビスとかエゾを夷と当てていますがその関係はどうでしょう。またエビス信仰は強く残っていますが古代との関係はいかがでしょうか。
答
非常に面白い、またわからない問題のご指摘で、私としては整理させていただく程度のことしかできませんが、まず第一の問題、天孫降臨以前の博多湾岸、また糸島郡にも曲り田遺跡という縄文水田がございます。また唐津にも菜畑、これが今のところ一番古いんですが、縄文水田がございます。こういう人たちがエミシと呼ばれている人たちであろうというわけなんです。これとハヤトとの関係といいますと、要するに天孫降臨以前からいた人たちという意味では、北部九州のエミシも、南九州のハヤトも同じ性格をもつと思うんです。ただし、これは天孫降臨以前からいたという限りであって、それ以上、さらに進んで両者が同人種か同文明かってことになると、そこまでは今のところまだわからない。まあハヤトのほうは沖縄とかフィリピンとか南と関係の深い人たちであろうと思うんです。エミシもそうであるのか、エミシはまた違うのか、これは今後のテーマでございます。ということでお答えにならない答えが第一点ですね。
それから第二点のエミシが東北へ行ってエミシになったという話なんですが、エゾというのはうんと近世なんですね。これは明らかにアイヌのことをエゾと呼んでいるわけです。だからエミシとは分けて考えたほうがいいだろうと思います。
それから字面のほうですが、「蝦夷」は中国側が作った字であると私はかねて主張しています。大和朝廷が作ったように書いてあるのがありますが、これは間違いであろうと思います。なぜならば、中国の唐代の史料にこの字が使われておりますので。大和朝廷が作った字を中国側がまねして使うということはありえないです。とくにこういう夷蛮表記でね。彼等は自分が永遠の原点ですから、いつも自分を原点にしてしかものを言わないくせをもっておりますので。そういうことで、これは東夷のもう一つはるか、「蝦*」の字は、はるかという字なんです。虫へんは東夷・西戎・北狄を獣で表わす虫へんでございます。虫へんをとりますと、はるかなる東夷というね。つまり東夷のもう一つ向こうにいる人たちというイメージで作られた字であると思います。
蝦*は、虫編無し。JIS第四水準ユニコード53DA
では、音はどうかと言うと、これは「カイ」という音ですね。シべリアのほうで黒龍江の人たちが、アイヌのことを「クイ」と呼んでいるのが、東京国際大学教授の荻原真子さんの研究でわかっております。その「クイ」という言葉が「カイ」という音当てのバックにあるのではなかろうかと私は考えております。ちなみに青森県の太平洋岸、東南端のほうに名久井岳というのがありまして「クイ」がやはり入っております。この辺も面白いところでございます。
なお、今の問題に関連してもう一つこわい問題を申し上げますと、これは私の学校の副手の原田実さんが研究室で言いましたのに、「愛瀰詩」というのは非常にいい字じゃないんでしょうかね、と言うんですよ。ぞっとしましてね私。そんな無茶なと思ったんですが、しかし確かに理屈はあるんですよ。なぜかと言うと、ニニギ側が、侵略者側がつけたならもっといやらしい字を使うだろうと、ところがいい字ですわね。愛する、ポエジーの詩、瀰は深くたたえられた水、という意味です。みんないい字です。そんな良い字を侵略者がつけるだろうか、自分のほうならいい字をつけますよね。ですから理屈はあるんです。ただしかしねえ、という感じなんです。
ところが最近考えてみると、これは大変ありうるように私は感じているんです。なぜかと言うと、あの板付の縄文水田、あれがどこの影響かというのは、二つに分かれていて、考古学者の多くは北から、つまり楽浪郡・帯方郡からと言っていますね。人類学者のほうは江南からと言っています。まあ考古学者のなかでも江南からと言っている人もいます。樋口隆康さんなんかそういう意見になっていますがね。とにかくどちらからにしても、私は、それは周だと。つまり日本で言う縄文晩期は中国では周王朝ですから、それは周米であると、その点では共通しているんで、それを、こっちがウソならこっちが本当というような、そういう考え方をする必要がないんではないか、という考えを出したことがある。駸々堂から出ている『古代60の証言』でも述べております。
ところが、その問題を考えてみるともっと意味があるわけです。いずれにしろ周から米がきたということは、周というのは文字のある国なわけですよ。大篆・小篆。つまり文字のある土地から米をもってきたということです。あるいは向こうから技術者がやってきた可能性があるんですね。板付は非常に進んだ技術を示しています。堀割りにしてもノウハウが決して素朴なものじゃないです。そうすると向こうの技術者がかなりのり込んできている、もちろん協力したのはこちら側でしょうけどね。そうすると、その人たちは文字を知っている人たちである、という問題があるんです。江南でも同じですね、それは。
それからもう一つ。最近の話、吉野ケ里で銅器の製造跡が出てきた。弥生前期という時期。ところが弥生前期というのは天孫降臨以前ということですよ。天孫降臨は前末中初ですから。福岡県では前末中初(弥生前期の末、中期の初め)という言葉は考古学者の合い言葉なんです。その言い方でいうと、こんど吉野ケ里で出てきたのは前末中初以前なんです。ということは天孫降臨以前に、すでに銅器製産は行われていたということですね。当然これは、どう転んでも、中国はもうすでに夏・殷・周、銅器の盛りの国ですからね、そこから学んだに決まっているわけです。これも江南からであろうと、朝鮮半島からであろうと、中国からであることには疑いないわけです。
ところがその中国というのは、弥生前期ですから、これは周というよりは漢ですよ。漢ということになれば、大篆・小篆から、少なくてもオフィシャルには略体字としての漢字、われわれが旧漢字と呼んでいる字が略体字ですね。あの漢の文字どおり漢字に移った段階ですよ。ですから銅器ノウハウを学びに行ったお師匠さんは漢字を使っていたわけだし、もし向こうの技術者がきたんなら、その彼等は漢字を使っていたわけです。
そう考えると、天孫降臨以前から、大篆・小篆もしくは略体漢字は・日本列島に知られていたということになるわけです。そういう場合、一般論ですよ、情勢論からみるとね、原田さんがするどくつっ込まれた、「愛瀰詩」というのはエミシ側が書いた表記じゃないでしょうかという話も、むげにばかな、と言い切れないものがあるんです。こういうこわい問題に目下当面しておりますので、またいろいろお気づきのことがありましたらお教えいただきたいと思います。
〔市民の古代研究会・関東「新春講演会」、一九九二年一月一五日、東京・文京区民センター〕
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