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続『日本書紀』成書過程の検証(『市民の古代』16集)へ
三宅利喜男
昭和一三年の旧制中学の入試は「歴史一本槍」というキャッチフレーズで、あとにもさきにも歴史一科目の入試はこの年だけであった。皇国史観最強制期に中学に進み、いま、『日本書紀』について私見を草するのは、(学徒兵としてたたかいに参加した)私にとって最高の幸である。
天武一〇年三月一七日(丙戌)「天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦中阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。大嶋・子首、親ら筆を執りて以て録す。」とみえるのが『書紀』編纂の出発点といわれる。これら編集者のうち上毛野君三千は同年一〇月死亡、六九一年川嶋皇子・七〇五年忍壁皇子・七〇八年三野王・七一五年竹田王とあいついで死去、約半数が完成をみることなく死亡している。
また『続日本紀』和銅七年二月一〇日(戊戌)「従六位上紀朝臣清人と正八位下三宅藤麻呂に詔して、國史を撰修させた。」の記事があり、同養老四年五月二一日(癸酉)「一品舎人親王は勅命をうけて『日本紀』を撰修した。このたび完成し奏上した。『紀』三〇巻と系図一巻である。」との記事が完成である。これはあくまでも建前上の編纂者で(一部は完成後撰上迄に実務にたづさわったか)、実際に主として編述にあたったのは別人であろう。
従来の研究では『古事記』『万葉集』の仮名は呉音系、『日本書紀』は漢音系、推古期遺文は魏・晋以前の古音をふくむといわれている。『書紀』の完成にはさまざまな分担を受けもった人々がいたであろうが、その区分と成書過程を明らかにすることは重要である。いままでの研究では、「岩波古典大系『日本書紀』解説」(小島憲之)の分類や、『書紀』の歌謡や訓注に使用される語句の偏在による区分(鴻池集雄)、「之」の偏在や歌謡の仮名の偏在による区分(西宮一民)、さらに音韻による中国漢音と、倭習の強い文章との音韻による区分(森博達)があり、三〇巻の『書紀』は大きく二区分される〈表1〉。
森博達氏によれば、音韻で、北方中国原音で正確に書かれた巻「α群」と、漢音・呉音のいりまじったものと倭音にもとづく仮名を混在させている巻「β群」にわかれ、αは中国人、βは日本人によるものと分類されている。また明らかに二分される記事があり、一四巻の「雄略紀」にありながら、安康天皇の崩御の経緯がくわしく書かれている。一方一三巻の「安康紀」では、「三年秋八月甲申朔壬辰、天皇為二眉輪王一見殺」ときわめて簡単にのべられ、その直後に「辞具(コトツブサニ)在リ二大泊瀬天皇紀ニ一」と分注がある。編年順であれば安康崩御の詳細は「安康紀」に、「雄略紀」は必要事実のみ記すのが普通である。また「雄略紀」冒頭に「妻を称して妹(イモ)とするは、蓋(ケダ)し古(イニシエ)の俗か」と分注がある。
一三巻までは妹が妻の意味に用いられていても注釈はない。一四巻以降は日本の習俗に暗い外国人が編述にあたったのだろう。外国人とは、中国人の音博士と記事のみえる續守言と薩弘格である。守言は斉明七年「日本世記に云はく、一一月に福信が獲たる唐人續守言等筑紫に至る。」とみえる百済より送られてきた捕虜である。 (1) 持統五年九月、音博士として薩弘格とともに銀を賜わるとみえる。薩弘格は後に「大宝律令」の選定にもかかわって藤原不比等とともに禄を賜わっている。
日本人により一三巻までが編述されたが、「神代」と倭国史の改竄は倭国の歴史官僚によると思われる。持統五年正月一四日(丙戌)詔して曰く「直広肆(従五位下)筑紫ノ史益(フヒトマサル)、筑紫大宰府ノ典に拝されててより以来今に二九年。(注、白村江敗戦以来)清白き忠誠を以て、敢えて怠楕(タユ)まず是の故に、食封五〇戸、施*(フトギヌ)五匹・綿二〇屯・布五〇端・稲五千束賜ふ」とあり、倭国の歴史官僚であった史益は、白村江敗戦後に大和のために、倭国史の改竄にあたった報奨と思われる。「仁徳紀」から「安康紀」は倭国史盗用がすくなく、大和の記事がほとんどである。紀朝臣清人等大和側の日本人によるものと思われる。『續日本紀』和銅七年にみえる紀朝臣清人は従六位上であり、三宅藤麻呂に至っては正八位下で『書紀』編纂の高官たちにくらべて官位がかなり低い。おそらく実務官僚であろう。
施*(フトギヌ)は、方の代わりに糸。 JIS第三水準、ユニコード7D41
森氏によれば、四巻「綏靖紀」〜「開化紀」は正確な漢文で書かれていて、なんらかの原資料をそのまま転載したもので、「綏靖紀」末尾に「是即多臣之始祖也」で結ばれている。他の「開化紀」までも同様スタイルである。当時多氏の族長であった太安萬侶によるものと思われる(2)(古事記序文も同様立派な漢文である)。
以上のことをもとに、一歩進めて九州王朝説にたって検証すると(〈表2〉参照)。
1倭国史の盗用
倭国史の盗用については、古田武彦氏の『失われた九州王朝』以来数々の論証があるが、盗用改竄は同時代だけでなく、時代をかえて巧妙におこなわれている。一例をあげれば、瓊瓊杵尊と木花開耶姫・磐長姫との出会にある短命説話が『紀』の「神功紀」一伝(御孫尊)仲哀の若死であり(もとの倭国史では天孫は筑紫上陸後先住者(仲哀紀では熊襲)の矢にあたり若くして死亡)、筑紫平定は妻の木花開耶姫(鹿葦津姫=香椎津姫)〈拙稿「播磨風土記と大帯考」『市民の古代13集』参照〉香椎の女王に託される。つぎに「仲哀紀」の熊鰐が出迎える周芳の沙麼(サバ)は「景行紀」の九州平定(前ッ君の九州平定 ーー古田説)から日本武尊の東征(倭武天皇の関東平定『常陸国風土記』)につながる。「神代紀」から「神功紀」まで時代を前後して大改竄されている。
日本書紀の倭国史盗用と改変後の紀
もとの 倭国史 |
1瓊瓊杵尊 の短命 |
短命 説話 |
2香椎女王 の筑紫平定 (大帯比賣) |
周防 の 沙麼 |
3前ツ君 の九州平定 (大帯比子) |
常陸の国 風土記 |
4倭王武 の関東平定 (倭武天皇) |
---|---|---|---|---|---|---|---|
改変後 の紀 |
3仲哀の 若年の戦士 |
4神功 の筑紫平定 (息長帯比賣) |
1景行の 九州平定 (オシロワケ) |
2日本武尊 の東征 (オウス) |
「神代紀」二巻は九州神話で、三巻の「神武紀」と巧みに接合されて大和王権の始祖として利用されている(新唐書日本伝の天皇系譜)、その他小盗用改竄は「α群」にもかずかずみられる(〈表2〉倭国史盗用欄)。
2百済三書の引用
三書のうち「百済記」の引用は、「神功紀」「應神紀」にあり、筑紫史益によると思われ貴国と書かれている。同じ「百済記」でも一四巻以降の大和側による引用では、貴国とは書かれていない。「百済新撰」「百済本記」引用にも貴国はあらわれない。『紀』撰上直前に大和の手に入った時点(後述)で引用されたと思われる。「百済本記」の「継体紀」「欽明紀」引用には日本と書かれている。「百済記」は貴国(基山 ーー基肆城に権力中心があった)の時代、「百済本記」は日本と改号されたあとの時代と考えられる。日本については古田氏の『失われた九州王朝』に論証されているように、九州が改号後に大和が盗用したと思われる。つぎにふれるが三書の一四巻以降の引用には「未だ詳(ツマビラカ)ならず」の表現が多出する、大和は資料を充分理解できていない。
3「未だ詳(ツマビラカ)ならず」と「名を闕(モラ)せり」
一四巻「雄略紀」から二七巻「天智紀」の称制期間まで、つまり天智による日本国の権力掌握まで「未だ詳ならず」二六例、「名を闕せり」四〇例、計六六の多数にのぼる。中間の「敏達紀」を境に前半が「未詳」、後半は「名闕」と書き方が一変する。前半一四巻から二〇巻迄と、後半の二一巻から二七巻までを續守言と薩弘格が二分して担当したものか。
一三巻までと天智即位後はこの種不確定な表現はまったくない。一三巻までは筑紫史益による倭国史改竄が大部分であり、天智即位以後は大和の単一権力下の記事であるから、この種不確実な表現がないのは当然であるが、一四巻から天智即位までの百済資料や筑紫資料の人名・事跡が不消化で利用されたことは明らかである。
「未だ詳ならず」は百済三書と百済記事がほとんどである(百済記3・百済新撰1・百済本記11・百済記事8・其の他〈任那・新羅・筑紫記事〉6合計二九・・・〈このうち百済記3は「神功記」に「知らざる人なり」と表現されている。「β群」)「α群」の大和編纂は二六である。「名を闕せり」は臣・連が特に多い。(臣(オミ)18・連(ムラジ)14・造(ミヤツコ)4・君3・直(アタイ)3・首(オビト)1・法師1計四四・・・〈うち重複四〉・・・)。これら官名は出雲や倭国で早くから使用されていて、大和はのちに利用している。ここにあらわれる氏族は本貫を筑紫にもつものがほとんどで、筑紫や韓半島南部の倭地の人名である〈表3〉。
4編集完了後の挿入記事
(1),『紀』の漢籍利用は今までさまざまに論じられてきたが、「仁徳紀」「允恭紀」「継体紀」「舒明紀」の即位記事は編集完了後に挿入改変されたものである(漢書文帝紀と呉志孫休伝)。とくに「継体紀」は大きく手が加わっている。磐井戦争の芸文類聚利用はとくに知られている
(2),「斉明紀」の分注「伊吉博徳書」も後日(天武一二年以後に己の功績を申し立てた手記)の挿入である。
5「α群」のなかの「β群」
一四巻から担当した中国人がなぜ三〇巻まで受けもたなかったのだろうか、「推古紀」「舒明紀」「天武紀」が「β群」に属し日本人の担当になっている。
(1).「推古紀」「舒明紀」は倭国(当時はイ妥国)の多利思北弧と同時代であり、「仁徳紀」から「武烈紀」までは中国史書の倭五王と同時代である。『書紀』は漢籍を多用している(史記・漢書・後漢書・三国志・梁書・隋書・芸文類聚百巻・文撰一四巻・金光明最勝王経等)。宋書は直接利用はないが、梁書利用から考えても参考にしたと思われる。これらに出てくる多利思北弧や倭五王は、中国との国交の中でくわしく書かれていて、同時代の大和の権力者とはあまりにも符号しないため、「景行紀」や「神功紀」のように大幅な改竄がむつかしい。冠位一二階や一七条の憲法(法華義疏が九州の上宮王の収蔵本であれば ーー古田氏『古代は沈黙せず』・・・義疏に「万善は是浄土の因なりと明かす中について凡て十七事あり」と十七の数をあげている。(3) 憲法も上宮王の作となる)など読む人が大和の天皇家の事と思ってくれればよいという編集で、後代の松下見林や、現代の学者先生たちのように無理なこじつけをやっていない。『紀』の編者の方がよほど賢明である。
(2).「天武紀』は壬申の乱記事がメインである。編集者のなかには忍壁皇子・三野王・中臣大嶋・平群子首等のように乱をみてきたり、参加した者が多い。正に近代史である。「天武紀」は日本人の乱参加者の筆になる。
七百二十年元正天皇養老四年撰上の一三年前から、『續日本紀』に九州王朝滅亡を思わせるつぎのような記事がある。□□内を変えて三回同文があらわれる。(□□は、インターネットは青色)
亡二命シ山澤ニ一挾蔵□□百日不ンバレ首セ復スル罪如クレ初ノ
□□内は(1),七〇七年慶雲四年七月軍器
(2),七〇八年和銅元年正月禁書
(3),七一七年養老元年一一月兵器
(1),は集団で山城(神護石)にたてこもって反乱。
(2),は大和に都合の悪い九州王朝史料(大宰府の政治・歴史資料や百済資料・律令等)。
(3),武器をもった残党。
(2),と(3),の間に七一四年和銅七年二月に、前記の紀清人と三宅藤麻呂に詔して国史を撰修させたとある。七〇八年以後六年で禁書の大部分が大和側の手に入ったための選任である(この時、一四巻以後の百済三書引用か)。最終段階の改竄は紀朝臣清人が中心であろう。先の筑紫史益と同様の報奨記事がある。清人は学士として優遇され、その後も文章にすぐれた者として何度も報奨を受けている。『續日本紀』の記事は、
和銅七年二月一〇日 國史の撰修を命ぜられる。(従六位上)
霊亀元年正月一〇日 従五位下に上る。
〃元年七月一〇日 穀百斛を賜う。
元年七月二三日 穀百斛を賜う。
◎養老五年正月二七日 施*(フトギヌ)一五疋・絹糸一五狗・麻布三〇端・鍬二〇口を賜う(歴史の学にすぐれた者として)・・・撰上後の報奨
養老七年正月一〇日 従五位上に上る。
天平四年九月一七日 右京亮に任ぜられる。
天平一五年五月五日 正五位下に上る。
天平一六年二月二日 平城京留守官。
天平一六年一一月二一日 従四位下に上る。
天平一八年五月二日 武蔵守となる。
天平勝宝五年七月一一日散位にて死亡。
『書紀』完成後、官位も進むが天平一八年武蔵守で終り、散位にて死亡、『紀』撰上前、国政の中心に参加していた紀氏はのちに没落し、一〇世紀はじめの『竹取物語』(源順作といわれている)でカグヤ姫に振られ虚仮(コケ)にされる貴公子たちは『書紀』撰上時の高官達(紀氏を除く)がモデルで、倉持皇子(ミコ 車持氏に養育された藤原不比等)・大伴大納言(大伴御行)・右大臣阿倍みむらじ(阿倍御主人)そして石上磨足(石上麻呂)等を椰楡(ヤユ)したもので (4)、ほんとうの作者は紀氏の子孫、紀貫之ではないかとの説がある。
『紀』撰上の黒幕といわれている藤原不比等は、大宝律令には関係したとの記事はあるが、『紀』撰上にはかかわったとの記事はない。不比等は史(フヒト)とも書かれ中臣氏と藤原氏に関し大幅な改変をさせた疑がある。政治の世界では、いまもむかしも表面にあらわれぬ者のなかに最もうたがわしい者がある。「欽明紀」に出てくる物部尾輿とともに、堀江に佛像を流した中臣鎌子連が九二年後の「皇極紀」に鎌足の前名(中臣連鎌子)としてあらわれる。本来天兒屋根命系氏族中臣氏は藤原氏とは関係ない。『紀』編纂者の一人中臣大嶋が後に藤原朝臣と改名されるなど、藤原氏に取り込まれてしまう。藤原氏はのちの繁栄にかかわらず出所不明である。いつの時代も権力は歴史を創作していく。
〈注〉
(1)森博達『古代音韻と日本書紀の成立』
(2)森博達『日本の古代(14)ことばと文字』
(3)坂本太郎『聖徳太子』
(4)阪倉篤義『竹取物語』
巻 | 代・天皇 | 音韻 による区分 |
歌謡・訓注 の語句編在区分 |
「之」・歌謡の 仮名の編在区分 |
岩波古典大系 の書紀解説の区分 |
音韻区分に よる中心編述者 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 |
神代上 | β |
B |
A・B |
日本人 |
|
2 | 神代下 | β |
B |
A・B |
日本人 |
|
3 | 1神武 |
β |
B |
B |
B・C |
日本人 |
4 | 2綏靖 〜9開化 |
β |
B |
B |
B |
日本人 |
5 | 10崇神 |
β |
B |
B |
B |
日本人 |
6 | 11垂仁 | β |
B |
B |
B |
日本人 |
7 | 12景行 〜 13成務 |
β |
B |
B |
B |
日本人 |
8 | 14仲哀 | β |
B |
B |
B |
日本人 |
9 | 神功 |
β |
B |
B |
B |
日本人 |
10 | 15應神 | β |
B |
B |
B |
日本人 |
11 | 16仁徳 |
β |
B |
B |
B |
日本人 |
12 | 17履中 〜18反正 |
β |
B |
B |
B |
日本人 |
13 | 19允恭 〜20安康 |
β |
B |
B |
B |
日本人 |
14 | 21雄略 | α |
A |
A |
A |
中国人 |
15 | 22清寧 〜24仁賢 |
α |
A |
A |
A |
中国人 |
16 | 25武烈 | α |
A |
A |
A |
中国人 |
17 | 26継体 | α |
A |
A |
A |
中国人 |
18 | 27安閑 〜28宣化 |
α |
A |
A |
A |
中国人 |
19 | 29欽明 | α |
A |
A |
A |
中国人 |
20 | 30敏達 | α |
A |
A |
中国人 |
|
21 | 31用明 〜32崇峻 |
α |
A |
A |
中国人 |
|
22 | 33推古 |
β |
B' |
B |
B |
日本人 |
23 | 34舒明 |
β |
B' |
B |
B |
日本人 |
24 | 35皇極 | α |
B' |
A |
A |
中国人 |
25 | 36孝徳 | α |
B' |
A |
A |
中国人 |
26 | 37斉明 | α |
B' |
A |
A |
中国人 |
27 | 38天智 | α |
B' |
A |
A |
中国人 |
28 | 40天武 | β |
B' |
B |
C |
日本人 |
29 | 〃 | β |
B' |
B |
C |
日本人 |
30 | 41持統 | α |
B' |
A |
A |
中国人 |
区 分 者 |
森博達 | 鴻池集雄 | 西宮一民 | 小島憲之 | 森博達 |
巻 | 代・天皇 | 音韻 区分 |
倭国史盗用 | 百済三書引用 | 「未だ詳ならず」 「名を闕せり」 |
漢籍 利用 |
備考 | 中心 編者 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 |
神代上 | β |
天地開闢 | B |
||||
2 | 神代下 | β |
天孫降臨 | B |
||||
3 | 1神武 |
β |
分流の接合 | B |
||||
4 | 2綏靖 〜9開化 |
β |
多氏資料 | D |
||||
5 | 10崇神 | β |
出雲振根 | B |
||||
6 | 11垂仁 | β |
都怒我 |
B |
||||
7 | 12景行 |
β |
九州平定 (前ツ君) 関東平定 (倭 武) |
B |
||||
8 | 14仲哀 | β |
天孫若死 | B |
||||
9 | 神功 |
β |
筑紫平定 瓊瓊杵尊の 短命説話 |
○47年 ○62年 |
△46年
△47年 △49年 |
日本貴国 46年本文 貴国 (百済記) |
B |
|
10 | 15應神 | β |
○ 8年 ○25年 |
○即位前記 | 貴国 |
B |
||
11 | 16仁徳 |
β |
倭五王 | 即位記事 | C |
|||
12 | 17履中 〜18反正 |
β |
C | |||||
13 | 19允恭 〜20安康 |
β |
即位記事 | C |
||||
--- | -------- | ----- | --------------- | -------------------- | -------- | -------- | ------ | |
14 | 21雄略 | α |
●2年 ●5年 ○20年 |
●即位前記 ○元年 ○○即位前記 ○9年 |
A |
|||
15 | 22清寧 〜24仁賢 |
α |
○3年 | A |
||||
16 | 25武烈 | α |
●4年 | ○元年 ○4年 | A |
|||
17 | 26継体 | α |
磐井戦争 目頬子 |
△3年△7年 △9年△25年 |
○3年 ●9年 ○23年 ○24年 |
即位記事 磐井乱 詔勅 |
日本、3年 (百済本記) 日本、25年 (百済本記) |
C(後) ・A |
18 | 27安閑 〜28宣化 |
α |
屯倉記事 宣化(磐井) の詔勅 |
○元年 | A |
|||
19 | 29欽明 | α |
安羅日本府 大伴狭手彦 |
△2年 △△△△ △△△△5年 △6年△7年 △11年△17年 |
●○○2年 ○○○ ○○○○5年 ○23年△23年 |
日本、5年 (百済本記) 日本、11年 (百済本記) |
A |
|
20 | 30敏達 | α |
日羅 | ○6年 ●●13年 |
A |
|||
21 | 31用明 〜32崇峻 |
α |
豊国法師 | ●2年 ○●即位前記 |
A |
|||
--- | -------- | ----- | --------- | --------------- | ------------------- | -------- | -------- | ------ |
22 | 33推古 |
β |
イ妥国 多利思北孤 |
●8年●22年●26年 ●31年●32年 |
C |
|||
23 | 34舒明 |
β |
●元年 | 即位記事 | C |
|||
--- | -------- | ----- | --------- | --------------- | -------------------- | -------- | -------- | ------ |
24 | 35皇極 | α |
百済王子 豊章人質 |
→(舒明末年) |
●元年●3年 | A |
||
25 | 36孝徳 | α |
●元年●5年 ●●●● ●●●●●2年 |
A |
||||
26 | 37斉明 | α |
百済救援 | ●●2年●●4年 ●5年●●●6年 |
C(後) A |
|||
27 | 38天智 | α |
白村江敗戦 | ●元年●2年 ○7年(重出か) |
A |
|||
--- | -------- | ----- | --------- | --------------- | ------------------- | -------- | -------- | ------ |
28 | 40天武上 | β |
A |
|||||
29 | 40天武下 | β |
壬申の乱 | 乱参加者 | ||||
--- | -------- | ----- | --------- | --------------- | ------------------- | -------- | -------- | ------ |
30 | 41持統 | α |
A |
|||||
備考 |
森博達 倭習 β 漢音 α |
○百済記 ●百済新撰 △百済本記 |
○「未だ詳ならず」 ●「名を闕せり」 △其の他の不明記事 |
A中国人 1薩弘格 2續守言 B筑紫史益 C 1紀清人 2 三宅藤麿 D大安萬侶 |
年代 | 記 事 | |
---|---|---|
神功紀 |
46年 3月 | 斯麻宿禰は何の姓の人ということを知らず。(百済記) |
47年 4月 | 千熊長彦は分明しく其の姓を知らざる人なり。(百済記) | |
49年 3月 | 木羅斤資・沙沙奴跪是の二人は姓を知らざる人なり。(百済記) |
|
應神紀 | 即位前紀 | 然らは大神の本の名を譽田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂すべし。然れども見ゆる所無くして、未だ詳ならず。 |
雄略紀 | 即位前紀 | 大舎人姓字を闕せり。 |
即位前紀 | 舎人名を闕せり。 | |
即位前紀 | 擬(ツキ)の字、未だ詳ならず | |
元年 3月 | 娜[田比]謄耶[白番]麼珥(ナヒトヤハバニ)。此の古語未だ詳ならず。 [白番]は、ユニコード76A4 |
|
9年 5月 | 倭子連、未だ何の姓の人なるかを詳にせず。 | |
清寧紀 | 3年 7月 | 此の夫有りと曰へること、未だ詳ならず。 |
武烈紀 | 元年 3月 | 未だ娘子の父を詳にせず。 |
4年 | 嶋王は是蓋歯王の子となり、末多王は是[王昆]支王の子なり。 此を異母兄と曰ふは、未だ詳ならず。(百済新撰) [王昆]は、JIS第三水準、ユニコード7428 |
|
継体紀 | 3年 2月 | 久羅麻至支彌、日本より来るといふ。未だ詳ならず。(百済本記) |
9年 2月 | 物部連名を闕せり。(百済本記) | |
23年 3月 | 加羅の己富利知伽未だ詳ならず。(加羅) | |
24年10月 | 目頬子は未だ詳ならず。(任那) | |
宣化紀 | 元年 3月 | 阿蘇伽君未だ詳ならず。(金官国) |
欽明紀 | 2年 4月 | 吉備臣名字を闕せり。 |
2年 7月 | 紀臣奈率は、蓋し是紀臣の韓の婦を娶りて生める所、因りて百済に留りて、奈率と為れる者なり。未だ其の父を詳にせず。(百済本記) | |
2年 7月 | 加不至費直(カフチノアタヒ)・阿賢移那斯(アケコナシ)・佐魯麻都等といふ。未だ詳ならず。(百済本記) | |
5年 2月 | 津守連己麻奴跪といふ。而れども語託りて正しからず。未詳し。(百済本記) | |
5年 2月 | 河内直・移那斯・麻都といふ而るに語訛りて未だ其の正しきを詳にせず。(百済本記) | |
5年 2月 | 那苛陀甲背(ナカタコウハイ)・鷹奇岐彌(ヨウガノキミ)と云ふ。語訛りて未だ詳ならず(百済本記) | |
5年 2月 | 朕當に印奇臣語訛りて未だ詳ならず。(百済本記) | |
5年 3月 | 印支彌未だ詳ならず。(百済本記) | |
5年 3月 | 我が印支彌を留めし後に至し既酒(コセ)臣が時にといふ。皆未だ詳ならず。 | |
5年11月 | 夫れ印岐彌を任那に遺ししは本より其の國を浸し害はむとには非じ。未だ詳ならず。(百済本記) | |
13年10月 | 今の新羅の牛頭方・尼彌方なり。地の名、未だ詳ならず。 | |
14年 6月 | 内臣名を闕せり。 | |
14年10月 | 鐃播(クスビサ)せる者鐃(クスビ)の未だ詳ならず。(百済) | |
23年 7月 | 「久須尼自利」此は新羅の語にして未だ詳ならず。(新羅) | |
23年 8月 | 鐵屋(クロガネノイヘ)は長安寺に在り。是の寺、何の國に在りということを知らず。(百済・高麗) | |
敏達紀 | 6年 5月 | 大別王は出でけむ所を詳にせず。(百済) |
13年 9月 | 百済より来る鹿深臣、名字を闕せり。 | |
13年 9月 | 佐伯連、名字を闕せり。 | |
用明紀 | 2年 4月 | 豊國法師名を闕せり。 |
崇峻紀 | 即位前期 | 宅部皇子は、檜隈天皇の子、上女王の父なり未だ詳ならず。 |
即位前期 | 春日臣名字を闘せり。 | |
推古紀 | 8年 2月 | 是歳、境部臣に命せて大将軍とす。穂積臣を以て副将軍とす。並に名を闕せり。 |
22年 6月 | 犬上君御田鍬・矢田部造名を闕せり。 | |
26年 | 河邊臣名を闕せり。 | |
31年 | 小徳大伴連名を闕せり。 | |
32年 4月 | 阿曇連名を闕せり。 | |
32年10月 | 阿曇連名を闕せり。 | |
舒明紀 | 元年 4月 | 田部連名を闕せり。 |
皇極紀 | 元年 7月 | 百済の使人大佐平智積及兒達率名を闕せり。 |
3年 7月 | 押坂直名を闕せり。 | |
孝徳紀 | 元年7月 | 馬飼造名を闕せり。 |
2年 3月 | 其ノ介富制臣名を闕せり。 | |
2年 3月 | 其ノ介朴井連・押坂連並に名を闕せり。 | |
2年 3月 | 阿曇連名を闕せり。 | |
2年 3月 | 大市連名を闕せり。 | |
2年 3月 | 涯田臣名を闕せり。 | |
2年 3月 | 小緑臣・丹波臣・是拙けれども犯無し。並に名を闕せり。 | |
2年 3月 | 羽田臣・田口臣、二人並に過無し。名を闕せり。 | |
2年 3月 | 平群臣名を闕せり。 | |
2年 3月 | 神社福草(カムコソノサキクサ)・朝倉君・椀子(マルコ)連・三河大伴直・盧尾直(ススキオノ)四人並名を闕せり | |
5年 3月 | 額田部湯坐連名を闕せり。 | |
斉明紀 | 2年 9月 | 中判官河内書首名を闕せり。 |
2年 9月 | 西海使佐伯連栲(タク)縄、位階級を闕せり。 | |
4年 4月 | 阿倍臣名を闕せり。 | |
4年 7月 | 都岐沙羅(ツキサラ)の棚造(キノミヤツコ)名を闕せり。 | |
5年 3月 | 阿倍臣名を闕せり。 | |
5年 7月 | 出雲國造名を闕せり。 | |
6年 3月 | 阿倍臣名を闕せり。 | |
6年 5月 | 阿倍引田臣名を闕せり。 | |
6年 9月 | 百済、達率名を闕せり。 | |
天智紀 | 元年9月 | 狭井連名を闕せり。 |
2年 5月 | 犬上君名を闕せり。 | |
7年 6月 | 伊勢王と其の弟王と、月接りて薨せぬ。未だ官位を詳にせず。 (斉明7年の重出記事か?) |
〈表の注〉
(1)弘仁六年以降の「新撰姓氏録」によれば、阿倍、紀、川邊、田口(石川同祖)、平群は、日本紀合と書かれ、百済記事からの孫引きである。
(2)「姓氏録」皇別の犬上、内、春日、吉備は、孝昭・孝霊・孝元・景行を祖とする(神功大和入り以前の九州分王朝時代)。
(3)大伴、物部、佐伯、阿曇、額田部湯坐、穂積は筑紫本貫の神別である。
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