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九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証(『市民の古代』15集)へ
三宅利喜男
前号「市民の古代一五集」に続いて、さらに詳細に検証を加える。『日本書紀』は、『古事記』に比べて、様々な資料を多用して、本来の「帝紀」(1天皇名・2系譜・3治政年と宮・4后妃・子女とその事跡・5治政記事・6宝算と薨去年・7山陵・8臣下とその関係)に、対外記事をかぶせている。一つの記事を利用すると、つじつまを合せる為、前時代に関連記事をそう入している。しかし中国史書にある委奴国の金印や、邪馬壹(台)国・倭の五王の記事は全く現れない。わづかに「神功紀」の分注に倭女王の記事をそう入しているが、神功以外に比定する女王が無かったことを物語っている。本来、大和王権の外交は、朝鮮とは北陸から上がって来た、新来の継体から、中国とは「推古紀」の遣唐使が初交である。それ迄の時代の、『紀』にあらわれる朝鮮(高句麗・新羅・百済・任那(伽耶))や、中国(呉との交流)記事はすべて造作や盗用である。以下これ等について検証する。
テレビに登上する女性タレントの、厚化粧について、よく話題にのぼるが、それに劣らぬ厚化粧ぶりである。「神功紀」から「欽明紀」迄、百済三書(「百済記」「百済新選」「百済本記」)が多用されている。此の間を時代をさかのぼって検証したい。
「欽明紀」は八○パーセント以上が朝鮮記事で、三書多用は本文迄も及んでいる。任那や日本府は(任那一三二・日本府三四・[日本二九])合計一九五の多くにのぼる。任那は「崇神紀」に初出、「欽明紀」に滅亡、以後白村江で百済が滅亡るす迄、再参「任那を建てる」というフレーズで書かれている。『三国史記』の「新羅本紀」では五三二年金官国の投降として書かれ(『書紀』では南加羅・卓淳・碌*己呑)、五六二年伽耶の降服(『書紀』の任那十国「總言任那、別言加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞[冫食]国・稔禮国」)として書かれている。『書紀」は任那を總称としているが、『三国史記』には任那と書かれず、伽耶と書いている。(列伝に一ヶ所任那とある)任那という呼び方は、外国の文献や、金石文では次の様にあらわる。(1)
[冫食]は、JIS第4水準、ユニコード98E1
碌*は、石の代わりに口。
1広開土王碑・・・任那加羅(第二面九行)
2『三国史記」列伝・・・臣本任那加良人(強首伝)
3宋書・・・倭五王の将軍号の中
4翰苑・・・地總任那・加羅任那・任那加羅(蕃夷部)
5通典・・・加羅任那諸国滅亡之(新羅)
『書紀』にあわれる任那は東半分が小国家群・西半分は倭国の直轄地としてとらえられている。「欽明紀」本来の「帝紀」は二〇パーセントにすぎない。
大伴金村の継体を三国に迎える記事と、百済えの四県割譲に始まり、物部麁鹿火の磐井の乱平定が、中心の記事である。金村と麁鹿火は登上から消える迄、重大な造作がある。
A大伴金村
大伴金村の記事は造文や、そう入の為かなり混乱して記録されている。
1、金村は大連(武烈紀任命)になる前に、大連と書かれている。(仁賢一一年一一月)
2、武烈二年一一月、大伴室屋大連に詔して「信濃の国の男丁を微発して、城を水派の邑に作れ」とあり、此の時点の大連は金村のはずである。(大和え來る前なのか?)
3、継体を三国に迎えるが、継体は河内の馬飼の首荒籠の情報により、安閑・宣化の息子を従えて、みずから畿内に上って来たので、金村が大和の豪族達と議(ハカ)って迎えたのであれば、二〇年も大和に入れない事などない。(陵も大和でなく、摂津である。)
4、磐井の乱に出発する麓鹿火の言葉に「・・・在昔道臣(ムカシミチノオミ)より、爰に室屋(ムロヤ)に及(イタ)るまでに、帝を助(マモ)りて・・・」と大伴氏の先祖の名が出て、物部の先祖の名が出ない。
5、「敏達紀」、一二年に天皇に召された火葦北(ヒノアシキタ)国造、阿利斯登(アリシト)の子日羅の言葉に、「檜隈宮(ヒノクマノミヤ)御寓天皇の世に、我が君大伴金村大連、・・・」とあり、かつて金村が火の国の主君で、九州王権下での百済えの四県割譲の失政によって、大和え逃亡した事を物語る。(四県割譲は大和ではない。) ーー(追記参照)
B物部麁鹿火
麁鹿火は物部尾輿とは別系で、本流でなく一代で消える。次項(武烈紀)でのべる影姫という娘は造作である。「武烈紀」で急にあらわれ、「宣化紀」で死亡し消える。磐井の乱の為だけの登上である。同じ様に乱の前に登上し、歌まで入れて念を入れている毛野臣も継体末に死んで消える。毛野臣はあきらかに麁鹿火の書きかえである。磐井の言の「いまでこそ使者だが、昔はわが伴として、肩をさすり肘をふれて、同じ釜の飯をくった。なんでにわかに使者となり、余(ワシ)をきさまの前に自ら伏させようとするのか」は麁鹿火であってこそ、ぴったりとくる。
(矛盾その一)
六万の大軍で,朝鮮に向う毛野臣を、磐井が遮(サエギ)って反乱を起こしたことになっているが、戦争の常識から考えて、これはおかしい。大軍を朝鮮に渡らせてから、反乱を起こせば、国内は手薄で成功の確度が高い、六万の軍を前にしての反乱は、はじめから結果は見えている。一軍を掌握する指揮官が、知らないはずがない。『風土記』逸文にある様に「・・・・突如として・・・」が真相で、磐井の反乱でなく、継体(麁鹿火)の反乱であろう。
(矛盾その二)
毛野臣(麁鹿火)は兵六万を率いて朝鮮に渡り、新羅に破られた南加羅と碌*己呑とを復興すると書かれているが、(五二七年)此の時点は任那は破れていない。五年後の(五三二年)金官国の投降に始まり、五六二年に滅亡する。まだ起っていない未来の出来事に六万の大軍を送るとはナンセンスで、あきれるばかりである。
己[水文](コモン)の[水文]は、三水編に文。JIS第3水準、ユニコード6C76
2、夏四月、物部連は帯沙江にとどまること六日。伴跛が軍をおこして来攻した。(この時点の伴跛(任那東北部の小国)は新羅に備えて城を築き、倭には貢使を送るが己[水文]は百済にあたえられた為、武力で取ろうと備えていた。)衣装を剥(ハ)ぎ取り、所有物を劫椋(カスメト)って、ことごとく帷幕を焼いた。物部連らはおそれおののいて逃れ、わずかに身命をながらえて、[水文]慕羅(モンモラ)に泊まった。([水文]慕羅は島名である)・・・この時点で麁鹿火は大和え逃亡した。 ーー(追記)
3、一〇年夏五月百済が、前部(百済は王城域を上・前・中・下・後の五部に分けていた)の木恊*不麻甲背(モクラフマコウハイ)を遣わし、物部連を己[水文]に迎えてねぎらい、ひきいて国に入った。群臣は各衣装(オノオノ)・斧鉄帛布を出して、国の産物に加えて、朝庭に積んで置いた。慰問もねんごろで、賞祿(タマイモノ)が特に多かった。・・・(前年の戦で失った己[水文]を得て百済が物部軍を大歓迎している。(物部のひきいる大和の軍) ーー(後注参照)
恊*の阜偏なし。JIS第4水準、ユニコード52A6。
4、継体一〇年(五一六)五月一四日百済が、灼莫古(ヤクマコク)将軍と、日本の(任那の官人)斯那奴阿比多(シナノノアヒタ)を遣わして、高麗使安定に副え、來朝して好を結んだ。・・・(高麗との初交の様に書かれているが、継体に対する百済の初交であろう。(己[水文]を得た答礼使) ーー(この時代迄百済は九州と国交、新來の継体とは物部・大伴を通じて初交となり、高句麗とは交戦が継き国交などありえない。) ーー注(磐井の乱は九年と十年の間に起り、「継体紀」は引延されているとの説あり。)(2)
(1)『古事記』の「清寧条」にある平群鮪(シビ)との女を争う話が、『書紀』では「武烈紀」に移され、女(オオウオ 大魚)と、その父(菟田首 ウダノオビト)が、物部麁鹿火大連(大連任命記事なく、いきなりあらわれる)とその娘(影姫)として書き換えられている。また、平群鮪を亡ぼすのが大伴金村である。次の「継体紀」登上の伏線として二人を出したものである。
(2)「武烈紀」の暴虐記事、「刑理(ツミナエコトワルコト)」を好みたまふ。法令分明(ノリワキワキ)し。口晏(ヒクタ)まで坐朝(マツリゴトキコ)しめして、幽柾(カフレタルコト)必ず達((トオシシロ)しめす。獄(ウタヘ)を断(コトワ)ることに情けを得たまふ。又頻(シキリ)に、諸悪を造(シ)たまふ。一(ヒトツ)も善を修(オサ)めたまはず。凡を酷刑(カラキノリ)、親ら覧(ミソナ)はさずといふこと無し。国の内の居人、咸(コトゴトク)に皆震ひ怖づ。・・・前半は法令にくわしく、無実を見ぬいてはらす等、大へんほめているのに、又、以後は突然悪意に満ちた書き方に変わる。又、以後は後日の造文であろう。
大和の記事で終りかけた「顕宗紀」に木に竹をついだ様に、朝鮮記事があらわれる。「是歳、紀生磐宿禰が任那を占有してよりどころとして、高麗と交通した。まさに西三韓に王となろうとして、官司を整理し、神聖を自称した。任那の左魯(サロ)、那奇他甲背(ナカタコウハイ)らの計を用いて、百済適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム)で殺した。帯山城を築いて、東道をふせぎ守った。粮を運ぶ港を断して、軍を飢えさせ困らせた。百済王は大いに怒り、領軍古爾解(コニゲ)、内頭莫古解(マクコゲ)らを遣して、衆をひきいて帯山に出向き攻めた。そこで生磐宿禰は、進軍して逆襲した。胆気はますますさかんで、向うところみな破った。一で百に当った。にわかに兵器が尽き力もつきた。事のならないのを知り、任那より帰った。それで百済国は、左魯、那奇他甲背ら三百余人を殺した。」とある。これは「欽明紀」にある「百済本記」引用本文の前説(マエセツ)としてここに挿入されたもので、『書紀』最終編集者、紀清人による紀氏に伝わる伝承と思われる。
大伴金村の四県割譲(上・下[口多][口利]等)の前説(マエセツ)として「二一年春三月、天皇、百済、高麗の為に破れぬと聞いて、久麻那利(コムナリ)を以て[水文]洲王に賜ひて、その国を救い興す。時ノ人皆云はく、「百済国属既(ヤカラスデ)に亡びて、倉下(ヘスオト)に聚(イハ)み憂ふと雖き、實に天皇の頼(ミタマノフユ)に、更(マタ)其の国を造(ナ)せり」といふ。[水文]洲王は蓋歯(カロフ)王の母の弟なり、日本舊記に云はく、「久麻那利を以て、末多王に賜ふといふ。蓋し是、誤ならむ。久麻那利は、任那国の下[口多][口利]の別邑なり。」と九州王朝の「日本舊記」が盗用されているが、大和側は朝鮮の地理を理解していない。久麻那利を後の四県割譲時の下[口多][口利]の別邑としてとらえ、日本舊記の記事があやまりと書いているが、現地の久麻那利=熊津(現公州)を理解していない。此の時代は百済と大和は国交の無い時代で、地理や出来事を充分理解せず書いている。もちろん九州王朝と百済との出来事である。
下[口多][口利]の[口多]はJIS第3水準、ユニコード54C6。[口利]はJIS第3水準、ユニコード 540E
應神三年の記事に、「是歳、百済の辰斯(シンシ)王立ちて、貴国の天皇のみために失禮(ヰヤナ)し、故、紀角宿禰・羽田矢代宿爾・石川宿爾・木菟(ツク)宿禰を遣して、其の禮无(ヰヤナ)き状(カタチ)を嘖譲(コロ)はしむ。是に由りて、百済国、辰斯王を殺して謝(ウベナ)ひにき。紀角宿禰等、便(スデ)に阿花を立てて王として帰れり。」とあるが辰斯王の時代は、高句麗好太王の時代であり、百済は何度も攻められ、王は出先で死んでいる。辰斯王は三九二年薨で、『書紀』の應神の時代ではない。 ーー(後述)百済三書引用は神功・應神の次は五代を飛ばして雄略になる。間の仁徳・履中・反正・允恭・安康は三書引用は無く、その間の朝鮮や呉の記事(後述)は大和の造作である。
「神功紀」に朝鮮の王達が多数登上するが、
A、波沙寐錦(ハサムキチ 新羅五代姿婆尼今 AD80〜112)
B、微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ 未斯欣新羅十七代奈勿尼師今の王子 AD418)
C、宇流助富利智干(ウルソホリチカ 干老・新羅十代奈解尼師今の子 AD196-230)
の様にAD80〜418年にわたる様々な時代の王の話を集めている。『書紀』編集者は神功を中国史書の邪馬壹(台)国の卑弥呼女王に比定させる為、魏志を引用しているが、これは干支一二〇年持上げている為、無理な造作である。(後述)
以上時代をさかのぼって欽明から神功迄、見て来たが一つの造作が次ぎの造作を生む結果となっている。
1、「百済記」「百済新撰」「百済本記」を百済三書と云う。『書紀』編年の基準として利用されている。その時代は、
「百済記」近肖古王ーー蓋歯王(九代間)(三四六 ーー 四七五)
「百済新撰」蓋歯王ーー武寧王(五代間)(四五五 ーー 五一三)
「百済本記」武寧王ーー威徳王(三代間)(五〇一 ーー 五五七)
三四六 ー 五五七の二〇〇年余をのべたもので、四〜六世紀を知る上で貴重な記録である。しかし「市民の古代一五集」の拙文でのべた様に、「未だ詳ならず」「名を閾せり」と不明瞭な記事が多出する。『書紀』編者には、充分理解されぬまま利用された。
2、百済三書に使用されている音仮名については、木下礼仁氏の研究「日本書紀と古代朝鮮」がある。(3) 大正一五年一月の北里闌(タケシ)氏の、「日本古代語音組織考表図」をもとに百済資料を研究され、百済三書に使用されている音仮名は、他の古典(日本書紀・古事記・風土記・万葉集等)にあらわれないものがあるとされる。これによって『書紀』の分注以外にも本文に迄、三書から引用された部分があるのを知る事が出来る。
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A百済資料のみ使用の音仮名
尉(イ)・移(イ)・印(イ)・有(ウ)・意(オ)・我(カ)・哥(カ)・支(キ)・跪(ク)・己(コ)・既(コ)・紫(シ)・支(シ)・酒(セ)・麁(ソ)・直(チ)・至(チ)・奴(ト)・枕(ト)・直(ト)・非(ヒ)・不(フ)・[足皮](ヘ)・本(ホ)・慕(厶)・移(ヤ)・歯(ロ)(二七字)
B日本書紀字音仮名 (4) と百済三書共用の音仮名
阿(ア)・意(イ)・加(カ)・岐(キ)・既(キ)・久(ク)・胡(コ)・沙(サ)・佐(サ)・斯(シ)・資(シ)・陀(タ)・多(タ)・致(チ)・都(ツ)・都(ト)・那(ナ)・尼(ニ)・爾(ニ)・比(ヒ)・麻(マ)彌(ミ)・武(厶)・羅(ラ)・利(リ)・魯(ル)・留(ル)・禮(レ)・為(ヰ)・委(ヰ)・烏(ヲ)(三一字)
注)既のみ読みにより両方
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Aの百済資料音仮名は他の史書にはあらわれない。例外として推古遣文(1伊予道後温泉碑文・2元興寺露盤銘・3元興寺丈六光背銘・4法興寺金堂釈迦佛光背銘・5天寿国蔓茶羅繍帳銘・6法隆寺三尊佛光背銘・7上宮記逸文・8上宮太子系譜)と上代三金石文(1江田舟山大刀銘・2隅田八幡鏡・3稲荷山鉄剣銘)は百済音仮名と、かなりな親近性をもつ。(但し伊予温泉碑と法隆寺三尊佛光背銘は音仮名は僅少の為、対象よりはずす)
3、推古遣文については、百済より亡命の舟氏のかかわりがみとめられる。(大矢透説)推古遣文は周代の古音が存在し、中国から韓半島を経由して我が国に亡命した百済・伽耶の渡来人とのかかわりも考えられる。舟氏については裴世清と船氏王平、百済僧道欣と舟氏竜、蘇我氏滅亡時に、火中より「國記」を取り出し、中大兄に献じた舟氏恵尺等が知られるが、後の『新撰姓氏録』は「國記」と各氏本系が先行書であり新撰と書かれる由縁であろう。(6)
『姓氏録』序文に、
「・・・國記皆燔。幼弱迷二其根源一。文*強倍二其偽説一。天智天皇儲宮也、船史恵尺奉二進燼書一。」とある。『新撰姓氏録』には、舟氏は、貴須王・大阿良王(安羅か?)の後としている。
4、三書の性格については、
(A)日本の歴史を編纂した『書紀』に、百済の歴史書の如き記事が多数入っている。
(B)特に「欽明紀」は八三パーセントが百済記事で、本来の日本の記事は一七パーセントにすぎず百済の史書の様である。
(C)神功・應神・雄略・武烈・継体・欽明の六代は三書引用で、百済音仮名の頻度が高い。(表1)参照。
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表1百済音仮名 使用数
巻別 | 神功 | 應神 | 雄略 | 武烈 | 継体 | 欽明 | その他巻平均 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
A百済音 仮名使用数 |
14 |
20 | 7 | 2 | 30 | 80 | 1.3 |
百済記事 | 58% | 22% | 31% | 19% | 50.5% | 83% |
(武烈紀は暴虐記事と平群鮪滅亡談が大半をしめる為例外)
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(D)百済が五七〇年中国えの朝貢先を、南朝から北朝にかえた為、以後呉音と古代音が無くなっていく。また伽耶(任那)滅亡により、欽明二三年(五六二年)を下限として百済三書は終る。
(E)『書紀』成書の八世紀時点では、百済三書の内容を理解する者が大和には無く(渡来人にも)、「未だ詳ならず」が多出する。
以上の点から伽那(任那)で倭系伽耶人(混血)と、百済人により作成され、九州王権にもたらされていた本が、七〇八年の禁書狩で大和の手に入った後、紀清人等により利用されたと考えられる。
百済三書引用は、應神から雄略迄飛んでいるが、此の間の『書紀』の外国記事は、大和の造作記事だけである。應神崩御から雄略即位迄の一四六年間である。此の間を干支二巡持上げる事と、雄略二年「百済新撰」の「蓋歯王立つ」の記事を、(三国史記で四五五)二六年前の允恭一八年に、書きかえる(己巳の年と書いている)事により、干支二巡の一二〇年と、この記事二六年で、一四六年繰上げをはかっている。その目的は唯一の女王(神功)を倭女王の貢献記事と合わせ、この引き延ばした一四六年を中国の史書にある倭の五王の時代に置く為である。さすがに倭五王とは書けなかったが、後代の学者達はあれこれと比定して無理をしているのが現状である。(表2)
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表2 木下礼二氏の「日本書紀と古代朝鮮」より抜粋
記号 | 西暦 | 干支 | 天皇(年) | 三國史記 | 日本書紀 |
---|---|---|---|---|---|
A | 二五五 | 乙亥 | 神功55 | 肖古薨 | |
B | 二六四 | 甲申 | 〃64 | 貴須薨・枕流立 | |
C | 二六五 | 乙酉 | 〃65 | 枕流薨・辰斯立 | |
D | 二七二 | 壬辰 | 應神 3 | 辰斯殺・阿花立 | |
E | 二八五 | 己巳 | 〃16 | 阿花薨・直支立 | |
三〇八 | 戌辰 | 〃39 | 直支王(妹新斉都媛) | ||
A' | 三七五 | 乙亥 | 仁徳63 | 近肖古薨・近仇首立 | |
B' | 三八四 | 甲申 | 〃72 | 近仇首薨・枕流立 | |
C' | 三八五 | 乙酉 | 〃73 | 枕流薨・辰斯立 | |
D' | 三九二 | 壬辰 | 〃80 | 辰斯薨・阿花立 | |
E' | 四〇五 | 己巳 | 履中崩 | 阿花薨 | |
◎ | 四二九 | 己巳 | 允恭18 | 蓋歯立(百済新撰)雄略二年の記事 | |
◎ | 四五五 | 乙未 | 安康 2 | [田比]有薨・蓋歯立 | (安康崩四五六年) |
☆ | 四七五 | 乙卯 | 雄略19 | 蓋歯薨・文周立 | 蓋歯薨(雄略即位四五七年) |
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AとA' 〜EとE' はすべて一二〇年(干支二巡)差がある。『三國史記』に三九二年辰斯王が、高句麗好太王に攻められて出先で死んだとあることから、王の立・薨記事がすべて正しく『日本書紀」の記事がすべて一二〇年繰上げている事が証明出来る。この一二〇年は三品彰英氏によれば、應神三九年(三〇八年)から一二〇年目の次の年は允恭一八年(四二九年)にあたる。この允恭一八年は蓋歯王立(百済新撰)と雄略二年に書かれた己巳年は二六年引のばす為の造作である。新撰の記事を大和で改変している。ここに一四六年の造作が完成する。「百済新撰に云はく、己巳年に蓋歯王立つ。天皇阿禮奴跪(アレナコ)を遣して、來りて女郎(エハシト)を索(コ)はしむ。百済、慕尼(ムニ)夫人の女(ムスメ)を荘飾(カザ)らしめて、適稽女郎(チャクケイエハシト)と曰ふ。天皇に貢進(タテマツ)るといふ。」という記事で、この己巳年にあたる「允恭紀」に書かれず、雄略二年に(戊戌)記事としてあらわれる事は、允恭をはじめ一四六年間の王の事蹟は造作である事をしめしている。雄略一九年(四七五年)表2の☆印から『三國史記』と『書紀』の記事は『蓋歯王薨』と同一年代となる。この一四六年間別系統の三種の系図を縦につなぎかえて改竄したものである。(6) (系図1)
2、本来の三系統の系図A・B・Cを縦につなぎ一本にしたのがD (書紀造作後の系譜)である。
3、允恭は若子宿禰という特異な名を持っている。本来、宿禰は臣下の名である。中山千夏さんの「新古事記伝」人代上の「孝元条」に(隋書が言うところを倭語に直せば、「日が昇る前はオホエが政務をとり、日が昇ればスクナエが政務をとる」ではないか! 宿禰とはアマ倭国のカバネだったに違いない)とある。(6) 大国主に対するスクナヒコナに等しい、大臣的なともある。「孝元条」に武内宿禰の子九人(宿禰五人と女二人・葛城長柄曽都比古、そして最後に若子宿禰(允恭)がある。)他の宿禰は地名を冠しているが、若子宿禰にはない。『古事記』の「允恭条」は本人の事はわづかで、あとは死後の話である。『書紀』は一四年をすぎると、二三年、二四年、四二年と飛び、三年間の記事で終わる。引きのばした造作のあとがみえる。
4、應神と仁徳については、枯野という舟を造る話が、『書紀』は「應神紀」五年一〇月に、『古事記』は「仁徳条」に歌入りで書かれている。同一人物を二つに分けて書いたのではないかと、かつて直木孝次郎氏が「イリ王朝とワケ王朝という講演」で話されていた事がある。
5、他の履中・反正・安康治政は6・5・3年とみな短期間で、「安康紀」と「雄略紀」は前号「市民の古代一五集」の拙文でとりあげた様に、音韻による編集の切れ目である。以上により應神と雄略がつづき、その間の五代、一四六年間は(大和の別伝承を)造作挿入された事が判明した。その結果、神功は倭女王に比定出来ず、倭の五王も比定出来ない。
應神・仁徳・雄略に呉の記事があらわれる。中国江南の呉とは時代が異なる。(呉(ゴ)は二八○年西晋により減される。)前項の一四六年繰上げをなくすると、應神は三九〇年以後となり、中国の呉とは時代が異なる。高句麗との説もあるが、(三品彰英・上田正昭)この時代は倭王武の上表文や好太王碑等から考えても交戦にあけくれた高句麗でもありえない。金廷鶴氏によれば、「呉(クレ)」は百済と伽耶の境にあった求礼(クレ)の地とする。又、山尾幸久氏によれば、呉(クレ)織や呉(クレ)衣縫などの渡来人は伽耶地方とする見解がある。現在の馬山の東北で、金海と昌寧の間の城を築いた山地久礼との説もある。(7) 「坂上系図」を引く『新撰姓氏録』によれば、逸文、阿智王条は「譽田天皇御世、避二本国乱一、率二母並妻子一、母弟興徳、七姓漢人帰化」とある。阿智王祖先伝承をもつ七姓がある。その中に高向村主と牟佐村主がある。高向村主は未定雑姓右京条に「呉国人小君主後也」とある。続いて、阿智王奉請文が見え、「臣入朝之時、本郷人民離散、今聞編在二高麗百済新羅等國一、望二請使喚來一、天皇即使喚二問之一」とある。三国以外の本郷とは伽那の地である。
『播麿國風土記』揖保郡大田里条の「呉勝(クレノスグリ)」は韓国から渡来し、紀伊国名草郡大田村に定住したとある。彼もスグリ(村主)である。その付近にある岩橋千塚は伽耶式堅穴式横口石室ばかりである。その他呉(クレ)の名前のつく者も多いが、中国系でなくすべて伽耶か百済系である。(表3・4参照)
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表3 李永植氏の「伽那諸国と任那日本府」より
人名 | 出自伝承 | 推定系統 | 出典 |
---|---|---|---|
呉勝 | 韓国(カラクニ) | 加耶系 | 『播麿國風土記』 |
呉原忌寸 | 阿知使主 | 加耶系 | 「坂上系図」所引 『新撰姓氏録』逸文 |
呉公 | 雷大臣命(伊賀都臣) と百済女との混血 |
百済系 | 『新撰姓氏録』山城國神別 ・『続日本紀』天応元年七月条 |
呉服造 | 百済人阿漏史 | 百済系 | 『新撰姓氏録』河内國諸蕃 |
呉氏 | 百済人徳率呉伎側 | 百済系 | 『新撰姓氏録』未定雑姓右京 ・『日本書紀』「孝徳紀」 白雉五年七月条 |
呉織 | 阿知使主 | 加耶系 | 『日本書紀』「應神紀
」 三七年二月・四一年二月条 『古事記』應神条 ・ 『日本書紀』「雄略紀」 一四年正月条 |
呉服西素 | |||
呉衣縫 | |||
牟佐呉公 | 呉國王子青清王 | 加耶系 | 『新撰姓氏録』未定雑姓・摂津國 |
呉王 | 阿知使主との関連 | 加耶系 | 『日本書紀』「應神紀」 三七年二月条 |
磐余呉琴弾手屋 形麻呂 |
百済國人・呉國人 | 『日本書紀』「雄略紀」 一一年七月条 |
|
呉長丹 | 吉士長丹呉氏賜姓 | 『日本書紀』「孝徳紀」 白雉四年五月・七月条 |
|
呉原忌寸名妹丸 | 高市郡波多里人 | 韓南部系 | 『日本霊異記』下巻三〇 |
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表4 呉の出自伝承をもつ人名と出自推定表(前記 李永植による)
人名 | 出自伝承 | 推定系統 | 出典(『新撰姓氏録』) |
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高向村主 | 呉国人小君王 | 加耶系 | 未定雑姓右京 |
高向村主 | 魏武帝太子文帝 | 加耶系 | 右京諸蕃下 |
高向村主 | 阿智王 | 加耶系 | 「坂上系図」所引逸文 |
工造 | 呉国人太利須須 | 百済系 | 右京諸蕃上 |
工造 | 呉国人田利須須 | 百済系 | 山城国諸蕃上 |
祝部 | 呉国人田利須須 | 百済系 | 右京諸蕃下 |
祝部 | 呉国人田利須須 | 百済系 | 山城国諸蕃 |
和薬使主 | 呉国主照淵孫智聡 | 南朝系百済人 | 左京諸蕃下 |
松野連 | 呉王夫差 | ? | 右京諸蕃上 |
蜂田薬師 | 呉主孫権王・呉国人都久爾理久爾 | 百済系 | 和泉国諸蕃 |
小豆首 | 呉国人現養臣 | 和泉国未定離姓 | |
刑部造 | 呉国人李牟意爾 | 加耶系 | 河内国諸蕃 |
額田村主 | 呉国人天国古 | 百済系 | 大和国諸蕃 |
茨田勝 | 呉国王孫皓之後の意富加牟枳君 | 加耶系 | 河内国諸蕃 |
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この他にも呉のつく古代人名は多いが、祖先伝承を辿れる者のみとする。
呉が求礼(クレ)又は久礼(クレ)という伽耶地方であれば『書紀』の中国との国交は「推古紀」の遣唐使が初交記事となる。
注、松野連は、古田武彦氏が九州王朝との関連をのべられた事がある。
『日本書紀」を前号に続き検証する事により、以下の様な点があきらかになった。
1、外国資料を重ねて造作している事。(特に神功から欽明迄)
2、百済三書の造文・音仮名のさらなる検証により、一段理解が深まり、今後の音仮名の研究の端緒となった。
3、干支二巡と二六年(一四六年間)の挿入が明らかになり、神功を倭女王に合せようとした『書紀』の造作が判明し、倭五王と大和の各天皇を合せる作業が無意味となった。
4、呉の記事の検証により、大和と中国は遣唐使以前に国交を持たない事があきらかになり、世々貢職を修(オサ)む、と書かれた中国史書とはかけはなれたものである。
従来『日本書紀』の編年についての資料批判から、『書紀』の云う神功が倭女王に時代が合わないことは知られていて、邪馬台国大和論者は神功以前の様々な大和の女性を(崇神代の倭迹々日百襲姫 ーー肥後和男・景行代の倭姫命ーー 内藤虎次郎等)比定したり、箸墓が卑弥呼の墓(笠井新也・原田大六)としたり、現在から見ると無理な比定が多い。
大和の天皇家の正史である『日本書紀』には、委奴国の金印も、倭の五王も、そして多利思北孤のイ妥国など全くあらわれず、『書紀』みずから別国である事を語っている。今後一層の『日本書紀」の検証により、耶馬台国大和説は砂上の楼閣となり、消えさらざるを得まい。
(追記)大伴氏・物部氏について
大伴氏は肥後、物部は筑紫を中心に肥前肥後・豊前が本貫地である。
1、大伴氏の一部は神武東侵にしたがって(道臣から室屋迄と磐井の乱の前に物部麁鹿火の言葉の様に)大和入りし、天皇家の権力掌握と共に権力の中心にのぼっていった。九州本貫の大伴氏(大伴武日連・大伴談・大伴狭手彦・大伴磐そして大伴津麿呂・大伴部博麻等)は、「君が代、うずまく源流」に「海ゆかばの歌」と共に古賀達也氏の論証にくわしくのべられている。
2、物部氏は北九州一円に広がるが、一部は饒速日命と共に大和入りし(『旧事本紀』の天神本紀にあり)、天津麻良をはじめ物部二十五部(筑紫弦田物部・鞍手二田物部・肥後益城当麻物部・遠賀嶋戸物部・宗像赤間物部・豊前企救聞物部・鞍手贄田物部等)が従ったとある。 ーー谷川健一「白鳥伝説」
高良山の主神、高良玉垂命については諸説があるが、(武内宿禰説・彦火々出見説・筑紫君祖神説・物部氏神説等)物部氏が代々、大祝をつとめている。(物部胆咋連等) ーー太田亮・「高良山史」
金村と麁鹿火は九州王権下の失政(四県割譲)により、大和え鞍替えした。
★後注、継体二〇年九月、磐余玉穂に遷都。(一本に云はく、七年なり)とあり、十三年繰上ると磐井の乱(二二一年)は九年一一月となり、麁鹿火が九年四月朝鮮で敗走して、次に百済に大歓迎される十年五月との間に起ったことになる。「継体紀」は一三年間引延ばされている事になる。「欽明紀」三二年は「帝説」によれば四一年説あり。
(1)「韓国の古地名の謎」 光岡雅彦
(2)「任那滅亡と古代日本」 角林文雄
(3)「日本書紀と古代朝鮮」 木下礼仁
(4)「日本書紀字音仮名一覧」 大野晋
(5)「日本古代の政治と経済」 角林文雄
(6)「新古事記傳」人代の巻上・下 中山千夏
(7)「加耶諸国と任那日本府」 李永植
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