『古代に真実を求めて』第十八集
盗まれた分国と能楽の祖 -- 聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤 正木裕
盗まれた「聖徳」 正木裕

聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集

「九州を論ずーー国内史料に見える「九州」の変遷」古賀達也『市民の古代』十五集


「聖徳太子」による九州の分国 

古賀達也

一、はじめに

 九州。それは日本古代史の真実の扉を聞くキー・ワードである。九州とはただ国が九国に分かれているという意味ではなく、古代中国において天子が支配領域を九分割して治めるという政治用語であり、天子の支配領域そのものを表し、その国を「九州」と称することとなる。従って「九州」には天子が君臨しており、「九州」と天子はワンセットでもある。わが国においては現在も「九州」と呼ばれる領域(九州島)が存在し、古代においてそこに天子が君臨していたことの名残なのである。これこそ古田武彦氏が提唱された九州王朝に他ならない。
 わが国において九州島を「九州」と表記する史料とその時期については既に論じてきた(注1)。本稿においては、その分国の時期について、いわゆる「聖徳太子」伝承などから考察し、その分国が九州王朝の天子、多利思北孤によるものであることを明らかにする。

 

二、 「分国」記事管見

 九州王朝が自らの直轄領域を九つに分国し、「九州」と称した時期について、古田氏が指摘されているとおり、論理の上から見れば、隋への国書で天子を自称した多利思北孤であれば、同時に「九州」意識を持っていたとしても不思議ではない。こうした思惑もあって、多利思北孤の時代(七世紀初頭、近畿天皇家であれば推古の時代)には「九州」の分国は成立していたと考えられるのであるが、この分国の時期について、具体的年次を記した国内史料を見いだしたので報告する。

 

三、 『聖徳太子傳記』の分国記事

 数有る聖徳太子の伝記中、文保二年(一三一八)頃に成立したとされる『聖徳太子傳記』に問題の分国記事が見える。次の通りだ。(注2)

 太子十八才御時
 春正月参内執行國政也、自神代至人王十二代景行天皇ノ御宇國未分、十三代成務天皇ノ御時始分三十三ケ國、太子又奏シテ分六十六ヶ国玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ作九ケ國、名西海道也、(後略)

 この記事によれば、聖徳太子十八歳(『聖徳太子傳記』によれば、崇峻二年にあたる。五八九)の時、それまで三十三国であった日本国を六十六国に分割するよう聖徳太子が上奏し、九州の場合、六国を九国に分国したとされる。ちなみに、この『聖徳太子傳記』には九州年号が散見される。たとえば聖徳太子の生まれた年を「年号ハ異説金光三年壬辰歳也(五七二)」と記している。この他にも、「勝照三年(五八二)」「勝照四年戊申(五八三)崇峻天皇御即位」「太子廿二歳御時年号ハ端政五年発丑(五九三)」などの使用例が見える。
 このように、九州の分国を五八九年とする史料であるが、この聖徳太子の事績とされる分国の上奏は、同書中に散見される九州年号の存在から、本来、九州王朝内部での分国上奏記事だったのではあるまいか。そうすると、この五八九年は九州年号の端政元年にあたり、おそらくは多利思北孤即位の年のことと思われるのである。何故なら、法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える多利思北孤の年号、法興は元年が五九一年であり、いわゆる九州年号の端政三年にあたる。(注3)
 また、『太宰管内志』によれば、玉垂命たまたれのみことが三瀦みずまの大善寺玉垂宮で端正元年(『二中歴』では「端政」)に没したという(注4)。この「玉垂命」は筑後遷宮期における歴代倭王の呼称であり、端正元年に没した玉垂命は、多利思北孤の前代と思われるからである(注5)。玉垂命の崩御にともない、九州年号の勝照が端政と改元されたのであろう。すなわち、多利思北孤は自らの即位と同時に九州の分国と天子の呼称を用いたのではあるまいか。天子と九州のワンセットともいうべき状況が、『聖徳太子傳記』の分国記事と九州王朝の多利思北孤即位年と見事に一致しているのである。これを偶然の一致と見るよりも、九州王朝の天子多利思北孤による分国記事が、後代において聖徳太子の事績として盗用されたものと見なすべきではあるまいか。

 

四、 『日本略記』の分国記事

 いまひとつ、分国を伝える史料がある。先の『聖徳太子傳記』よりも時代の下がる史料であるが、それは『日本略記』(文禄五年成立、一五九六)という文書である。その冒頭に次のような記事が見える。

 夫、日本は昔一島にて有つる。人王十三代の帝成務天皇の御宇に三十箇國にわらせ給ふ也。其後、大唐より賢人来て言様は、此國はわずかに三十三箇國也、是程小國と不知、まことに五十二位に不足、いささか佛法を廣ん哉といふて帰りけり。其後、人王丗四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年癸卯六十六箇國に被割けり。郡五百四十四郡也。東西の聞は九百十一里、南北五百三十里なり。さる程に國の始は大和也、島の始は淡路也、郡の始は宇多郡也、寺の始は橘寺〈和州にあり〉、佛法の始は天王寺、聖人の始は聖徳太子〈用明天皇の御子也〉、人の始は伊弊諾伊弊冊也、神の始は伊勢の外宮、京の始は難波の京、市の始は三輪市〈大和にあり〉、橋の始は御幸が瀬の橋〈大和にあり〉、軍の始は異國退治也、王位の始は神武天皇、関の始は相坂の関、年號の始は善紀元年(『続々群書類従』第八地理部所収。「、。」とルピ、注は古賀による。〈 〉内は原文細注)

 敏達天皇の時、九州年号の鏡常三年(『二中歴」では「鏡當」)に聖徳太子の異見により、三十三国を六十六国に分国したという内容である。『聖徳太子傳記』に記された五八九年よりも六年早い五八三年の分国記事であるが、共に聖徳太子の上奏とする点が一致している。「鏡常三年」という九州年号による表記も、九州王朝による分国記事からの盗用をうかがわせ、この点もまた『聖徳太子傳記」と同様である。
 以上、二件の後代史料に見える分国記事を紹介したのであるが、いずれも聖徳太子の時代による分国であり、共に史料中に九州年号を持つというものであった。これらを九州王朝記事の反映と見なしたとき、その分国年次はいずれであろうか。聖徳太子の事績として記されていることから、これを多利思北孤の事績と考えると、鏡常三年(五八三)は多利思北孤の前代玉垂命在位中であるから、多利思北孤皇太子の時となろう。したがって、九州王朝の皇太子多利思北孤が分国を上奏し、その六年後の端政元年(五八九)、多利思北孤即位時に自らの手で分国を実行したと考えれば、これら二つの分国記事が、関連した一連の事件として理解可能となる。このことを作業仮説として提示しておきたい。

 

五、 『日本書紀』「葦北」記事の史料批判

 『日本書紀』推古十七年(六〇九)四月条に見える「肥後國」が、太宰府からの「発言」記事中にあることを重視すれば、このころには既に九州は分国されていたと見るべきである。
 この太宰府からの奏上記事に現れる「肥後國」は「肥後國の葦北津」という地名表記である。この「葦北」の地名は、『日本書紀』には次のように表記されている。

①海路より葦北の小嶋に泊まりて  景行十八年四月条
②葦北より發船したまひて、火国に到る。  景行十八年五月条
③火葦北国造、阿利斯登が子達率日羅  敏達十二年(五人三)七月条
④火葦北国造、刑部鞍部阿利斯登の子、臣、達率日羅  敏達十二年(五八三)是歳条
⑤使を葦北に遣はして  敏達十二年(五八三)是歳条
⑥葦北君等  敏達十二年(五八一三)是歳条
⑦肥後国の葦北の津に泊まれり。 推古十七年(六〇九)四月条

 以上が『日本書紀』に見える「葦北」の表記例である。なお、③④⑦は「天皇」「日羅」「太宰府」による「発言」中に見えるもので、基本的に発言者と同時代性を帯びた呼称である点は重要である。(注6)
 まず、①②の景行紀の記事は、九州王朝の「前つ君」による九州統一譚からの盗用記事であったこと、古田武彦氏が論証された通りだ。従って、その時期は弥生時代にあたり、「火国」という表記はきわめて妥当であろう。次いで現れるのが敏達紀だ。推古の時代の直前であるが、ここでも「火葦北国造」と表記されており、分国以前の呼称である。そして、問題の推古十七年条に「肥後国」という分国後の表記が初めて現れる。なお、『日本書紀』に見える、この一連の「葦北」関連記事から見れば、「火国」が分国され「肥前」「肥後」とされたのは、敏達十二年(五八三)より後、推古十七年(六〇九)より前ということになり、既に紹介したように、後代史料に見える端政元年(五八九)の分国が、ちょうどこの期間に入るのである。
 このように、『日本書紀』「葦北」記事の史料批判から導かれた分国時期と、後代史料に見える分国年次の一致は、偶然とは言い難いであろう。したがって、九州王朝による九州の分国、すなわち「九州」の成立年次は端政元年五八九年であり、それは『隋書』イ妥国伝に記された日出ずる処の天子、多利思北孤即位の年であったと思われるのである。そして、この五八九年は、倭国が永く臣従してきた南朝陳が滅亡したその年でもあるのだ。
 南朝陳が隋に滅ほされた事件は、東アジアの国々に激震をもたらしたであろう。その時、倭国では即位したばかりの倭王多利思北孤が自らの直轄支配領域を九つに分国し、「九州」と称した。すなわち、ここに日出ずる処の天子の国「九州」王朝が名実ともに成立したのである

 

六、 おわりに

 九州の分国時期について後代史料や『日本書紀』の史料批判により、年次の論究をすすめ、その年を五八九年としたのであるが、筆者には今なお釈然としない問題が残っている。その一つは九州年号建元の時期とのずれである。『二中歴』によれば、九州年号の建元は五一七年、「継体」を最初の年号とし、その他の史料では五二二年、「善記」を最初としている。なぜ九州王朝はこの建元をもって、天子を名乗らなかったのか。あるいは「九州」に分国しなかったのか。この疑問である。
 多利思北孤が南朝陳の滅亡を機に、天子を名乗り、自らの直轄支配領域を「九州」としたのは、東アジアの国際情勢から見ても納得できる。しかし、六世紀初頭の南朝梁が健在な時期に、南朝に臣従していた倭国九州王朝が突如として建元した理由が不明なのだ。南朝の年号から離れ、自らの年号を作るのであれば、その時にこそ天子を自称し、「九州」を成立させてもよかったのではないか。不審である。
 もう一つの疑問、それは「九州」の範囲である。本稿では「九州」の範囲を九州島として理解し、論述してきた。しかし、多利思北孤の時代の「九州」を九州島と同一範囲とすることは、はたして妥当なのか。この点、なお疑問を残すのである。たとえば、現北九州市(豊前)の対岸、下関市には「穴戸豊浦宮」があったとされる。この「豊浦」という地名は、同地が「豊国」の一部であった可能性をうかがわせるのだ。
 歴史の真実への道は、新たなる未知への挑戦、その繰り返しである。本稿において「九州の分国」について論じてきたが、新たに現れたこれらの未知にむけて、また挑戦が始まる。そして、「九州」というキーワードは新たな歴史の真実へ、また、わたしたちを導いてくれることであろう。

【注】
(1)古賀達也「九州を論ずーー国内史料に見える「九州」の変遷」『市民の古代』十五集所収(新泉社、一九九三年)。共著『九州王朝の論理』(明石書店、二〇〇〇年)に再録。

(2)『聖徳太子全集」第二巻収録。(臨川書店、一九九四年)

(3)法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える法興年号や記事が九州王朝の天子多利思北孤のものであったことを古田武彦氏が論証されているが( 『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』朝日文庫。本書はミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション」として復刊されている。) 、これらが聖徳太子の事績として、近畿天皇家により盗用されていたことが判明している。著名な「十七条憲法」も同様。

(4)『太宰管内志』「三瀦郡」の項に、次の記事が見える。
○御船山王垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者時端正元年己酉
○大善寺大善寺は玉垂宮に仕る坊中一山の惣名なり、古ノ座主職東林坊絶て其跡に天皇屋敷と名付て聊か残れり

(5)古賀達也「九州王朝の筑後遷宮--高良玉垂命考」『新・古代学』第四集(新泉社、一九九九年)にその概要と経緯などを記した。

(6)『日本書紀』景行十八年七月条に「筑紫後国」、神武即位前紀に「火前国」の使用例が見えるが、これらはその時代の「発言」記事中のものではないことから、『日本書紀』あるいはその原史料であろう九州王朝系史書編纂時の表記と見なして差し支えあるまい。少なくとも、同時代の「発言」記事とは、史料性格が異なると言わねばならない。


新古代学の扉事務局へのE-mailはここから


『古代に真実を求めて』第十八集

ホームページへ


制作 古田史学の会