海幸・山幸と『吠ゆる狗・俳優の伎』 正木裕(会報123号)
九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎 合田洋一(『古代に真実を求めて』第十九集)../sinjit19/syousou2.html
合田洋一
九州王朝には「陸の正倉院」と「海の正倉院」があった。「陸の正倉院」とは古田武彦先生が明らかにされた筑後国生葉郡にあった正倉院のことであり(『久留米市史』第七巻資料編―古田武彦著『俾弥呼ひみかの真実』ミネルヴァ書房刊)、「海の正倉院」とは当代そう呼ばれている玄界灘に浮かぶ孤島・宗像大社所有の沖ノ島のことである。
国はこの沖ノ島を、「世界遺産」に登録すべく目下申請中であるという。これは、この島が国宝に指定されている遺物八万点以上(指定外も含めると遺物約十二万点以上)もある文字通りの「宝ノ島」だからである。それに、この島は宗像大社の「沖津宮」が鎮座する「神ノ島」であることから、古より奉納されて来た“宝物”が現代までこの島に保存されているのである(沖ノ島の宝物に関しては、古田武彦著『ここに古代王朝ありき』第四部失われた考古学・第二章隠された島―ミネルヴァ書房復刊に著しい)。
ところで、NHKのテレビ報道によれは、この島は大和政権が四世紀から「海の守り神」として祀ってきたという。古田史学を学んでいる人達にとっては何と馬鹿げていると思われることであろう。ここから出土する土器は縄文・弥生・古墳・歴史時代と続いているが、これらは北部九州産が殆どで一部山口産があるだけという考古学上の裏付けがあるからである(前掲書)。しかもここは、九州王朝・宗像大社の所産でもある。
従って、NHKの報道の虚偽はこれで明らかであろうが、況や当時の日本の宗主国でもない大和王家が、四世紀から祭祀を行っていたなどとは決して有りえない。
正倉院が二ヵ所あったということから推して、王統にも大きく二系列があったのではないか、と思うのであるが如何であろうか。それは、「陸の正倉院」があった玉垂命たまたれのみこと系列(髙良こうら系と大善寺系がある)と「海の正倉院」がある宗像大社系列である。
申すまでもなく、両玉垂命系列が九州王朝の正統であるということは古田史学では異論のないことであろう。
一方の王統・宗像大社系列はとなると、日本最大の横穴式古墳(奥行二十二~二十三メートル)を持つ宮地嶽古墳の存在(築造年代については、「森浩一氏は六世紀の終わり、小田富士男氏は七世紀の終わりといわれており、六世紀終わりから七世紀終わりの間ということになる」―古田武彦著『古代の霧の中から』ミネルヴァ書房復刊)から推して、これはどう見ても「王墓」である。つまり、この「宮地嶽王墓」と「沖ノ島正倉院」があることが、一方の宗像大社系列の王統であったことを雄弁に物語っているのである。
図1 二ヵ所の「正倉院」
前述の二ヵ所の正倉院がその後どのような変遷を辿ったのかを以下に述べてみたい。
七〇一年新生「日本国」の誕生で九州王朝から近畿天皇家に覇権が移って以降、「陸の正倉院」が史書にその痕跡を留めただけで、その遺構も宝物も跡形もなく消え失せてしまったのに対し、「海の正倉院」はそこに奉納された宝物を一つも失うことがなかったと考えられていて、現代まで一六〇〇年以上の時空を越えて存在しているのである。これは一体何故であろうか。
それには、大海人皇子おおあまのみこのちの天武天皇が、その鍵を握っていたのである。その訳は拙論の大海人皇子が、九州王朝の天子・斉明さいみょうの弟すなわち大皇弟であったことによる(『古代に真実を求めて』第一七集所収「天武天皇の謎―斉明天皇と天武天皇は果たして親子か」明石書店)。
つまり、大海人皇子が近畿天皇家の天智天皇の入り婿になるために、「白村江の敗戦」のどさくさに紛れて、「陸(生葉郡)の正倉院」にあった「七支刀」(国宝・奈良県天理市にある石上いそのかみ神宮所有)などの“御神宝”を手土産に持参したと考えられるからである。それは大海人が大皇弟であったことから出来得たことであろう。なお、これが七〇一年以後のことならば何らかの史料に遺っているなり、或いは「奈良の正倉院」にあっても良さそうであるが、これが大和の石上神宮にあるということは、大海人の大和入り以降七〇一年までの間の移動と考えざるを得ないのである。
そして、古田先生が明らかにされているように(前掲『俾弥呼の真実』)、新生日本国になってからの天平十年以降(七三九年~)、「奈良(寧楽)の正倉院」へ筑後国から夥しい宝物が献上されていることが(「筑後国正税帳」にあり、事実は移し変え)それを物語っており、そのため「陸(生葉郡)の正倉院」が跡形もなく消えてしまったようである。
一方、「海(沖ノ島)の正倉院」はとなると、大海人皇子は宗像大社の宮司・胸形君むなかたのきみ徳善とくぜんの娘・尼子娘あまこのいらつめを娶っており、義父・徳善が「壬申大乱」の際に大海人皇子の有力なバックボーンになったと考えられることから、「天武系王朝」はこの「海の正倉院」には全く手を付けることがなく、それ以後の近畿王朝もこの“遺訓”を連綿と引き継いだことと思われる。
次に『隋書』「俀国伝たいこくでん」に登場する「秦王国」について言及したい。
「俀国伝」には「又竹斯ちくし国に至る。又東して秦王国に至る。其の人華夏かかに同じ」とあって、距離の記載はないが方角と種族は示されてある。
中国での「秦国」は、皇帝の兄弟が治める国を指すとも言われており、隋の使者裴世清は現地を鑑み、中国と同じようにそれを当てはめ命名したのではなかろうか。それでは「秦王国」は一体どこにあったのか。
当時の九州王朝俀国(大倭国)の天子・天多利思北孤あまのたりしほこが居たと思われる筑後の久留米近辺の東に位置している(実際は北部に位置しているが、筑紫国の玄関口・博多の東とみなす)宗像大社を中心領域として、遠賀川流域、筑前東部(現在の北九州市)一帯が兄弟国ではなかったのか。これについては古田先生の、
「其の人華夏に同じの其の人は、俀国の人の意、そのように解すべき」(『古代は輝いていたⅢ』―法隆寺の中の九州王朝、ミネルヴァ書房復刊)
と述べておられることも拙論のベースとなった。つまり、「秦王国」とは筑前東部を治めていた宗像氏の国であった、と。九州王朝内での有力な二系列の王統の一つとして考えると、最も相応しく信憑性があると思われるからである。
さて、この二系列の王統に関連して、天多利思北孤の時代より八〇年前の『日本書紀』に言う五二七年の「磐井の乱」について私見を述べてみたい。
古田先生はこの乱は“なかった”とされている。これについて『古田武彦の古代史百問百答』(ミネルヴァ書房刊)に、
質問 継体天皇が大和入りしてまもなく、五二七年六月筑紫の磐井が反乱を起こします。就任すぐで遠く九州の反乱を鎮圧しますが、二十年も大和入り出来なかった天皇にどうして急に結束力ができたのですか。
回答 言われる通りです。その点も、「いわゆる『磐井の乱』は架空の造作だった。」という命題によってのみ、解決するのです。
そして、継体の「戦後の国土分割案」や戦勝の代償として九州側から継体側へ「糟屋の屯倉献上」したということは、様々な理由を挙げてこれはおかしい話であり、従って磐井と継体の戦いは“なかった”と述べておられる。
しかしながら、私は思うに『日本書紀』の「磐井の乱」は九州王朝の磐井と大和の継体との戦いではないことは言うまでもないが、前述している九州王朝内にあった「二系列の王統」の権力争いではなかったか、と。それを『日本書紀』はおのが王朝の始祖・男大迹王(おおどのおう 後の継体天皇、越国三国の豪族、大和の古王国は武烈天皇で断絶)を飾るため、この争いを「九州王朝の史書」から“盗用”して“造作”したと考えたい。これならば、玉垂命系列の磐井側と宗像大社系列側の“間”に位置している博多湾岸の「糟屋の屯倉」を、戦いの代償として宗像大社側に“献上”したということも納得できる。また、「屯倉」は朝廷の直轄領(『広辞苑』)ということでもあり、正統な政権を担っている九州王朝側から宗像側へ割譲したのであれば“的を射ている”ことになる。
なお、穿った見方をすれば、糟屋は宗像に近いことでもあり抑もここは両者の紛争地帯で、この戦いの根源は糟屋の帰属に端を発していたのではないのか。また、すぐ近くに香椎宮(かしいのみや 祭神は仲哀天皇であるが「神功皇后の廟」も併置されている。事実は神功皇后ではなく「卑弥呼の廟」ではないか。―古田武彦著『俾弥呼』)もあることから、これも関係していたのかも知れない。何れにしても、この戦いで磐井は殺され、一時的には宗像側の勝利に帰し「糟屋の屯倉」を得た。このことは、その後考古学的にも遠賀川流域にある最大の前方後円墳「王塚古墳」(嘉穂郡桂川けいせん町にある装飾古墳、全長八十六メートル・高さ九メートル、六世紀中頃築造)が出現していることもその証左と考えたい。
だが、何と言っても相手側つまり玉垂命系列側は前代までは「倭の五王」の国であることから、底力はあった。そこで、王朝内・肉親間の争いでもあり、話し合いも出来て、そのあと磐井の息子の葛子が九州王朝の正統である「玉垂命系列」の王朝を引き継いだ。これにより、葛子の墓と伝えられている「鶴見山古墳」(全長八五メートル)の築造もあり、後の世の“天多利思北孤の栄華”に繫がることができたと考えている。
ところで、内倉武久氏は『多元』№一二八で、
『古事記』『日本書紀』(記紀)に記す継体天皇と磐井の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。
と述べている。しかし、九州政権内の権力争いというのは拙論と同じであるが、その内実は全く違っている。氏が言われることは、
継体天皇の御陵として「記紀」に記されていた「三嶋の藍」・「藍の(野)陵に葬る」の地名を福岡県朝倉市に発見したので、同天皇は九州王朝内の天皇であり、「九州年号」の創始者である。
と。また『多元』№一二九でも、
継体天皇の次の安閑天皇の都(勾金)や后の出身地(春日)も北部九州・田川郡香春かわら町一帯に見つけたので、この天皇も九州王朝内の天皇である、そして倭国の所在地は田川、京都みやこ郡である。
としている。
これについて私は、「記紀」にある継体天皇と安閑天皇にまつわる地名が九州北部にあったからといって、大和王家の両天皇が九州王朝内の天皇で、しかもそこに居たというのはあり得ないことと思う。これでは大和王家の存在を否定するばかりか、九州王朝の存在をも否定することに他ならないからである。
そして、その継体天皇が「九州年号」の創始者というのなら磐井が造った「岩戸山古墳」(全長一三二メートル)の裁判の模様を示す「石人・石馬」、つまり「律令制度」開始との整合性はどうなるのか。あまりにも史料根拠を逸脱して、飛躍し過ぎではなかろうか。
これは、古田先生が述べておられる通り、九州王朝の正統な王統である磐井が、中国南朝から独立して、その体制を継ぐの意から「継体年号」を創設したのであって、大和の男大迹王に対する天皇諱号「継体」は、大和の古王朝の体制を継ぐの意であり、奈良時代以降に冠せられたと考えるべきである。
思うに、発見された地名も何らかの事情で、「磐井の乱」の“盗用”のついでに換骨奪胎をして「記紀」の「継体紀」「安閑紀」に当てはめた可能性もなきにしもあらずではないのか。
正木裕氏は『古田史学会報』一二三号で、「海幸・山幸と『吠ゆる狗・俳優の伎』」と題し、『日本書紀』「神代紀」にある「海幸彦・山幸彦」の神話について極めて明晰・素晴らしいの一語に尽きる論旨を提起しておられる。
それを掻い摘んで述べると、山幸彦(火遠理命ほおりのみこと)を祖とする近畿王朝が、海幸彦(火照命ほでりのみこと)を祖とする海人族・隼人族(事実は九州王朝)を貶めるため、『日本書紀』によりおのが王朝を飾る神話を作成したというものである。
このことに関連して私は、政権争奪に関する抗争を見ると、歴史時代は日常茶飯事であるが神話の世界でも大いにあったと考えている。
例えば、海幸彦と山幸彦の兄弟間の争い以外にも、彼らの父親である天津日高日子あまつひこひこ番能邇邇芸命(ほのににぎのみこと瓊瓊杵尊)とその兄であり天孫族・尾張氏の祖ともされている天照国照彦あまてるくにてるひこ天火明命(あめのほのあかりのみこと天火明命)の兄弟間はどうであったか。この天火明命も瓊瓊杵尊からすれば敗者ではなかったか。天孫族が傍流とされたのがどうも気に掛かる。決して平穏ではなかったようにも思えるのである。
そこで、推測の域を出ないが、前述の九州王朝内にあった二系列の王統のルーツを考えると、特定できないもののこうした抗争は、瓊瓊杵尊の兄弟間に、または次の世代の海幸彦・山幸彦の間であったのか、ということになるのではなかろうか。
なおこれについては、西村秀己氏が『古代に真実を求めて』第十八集「もうひとつの海幸・山幸」で、
「海佐知毘古(以下海幸という)・山佐知毘古(以下山幸という)の説話に言及したい。これは邇邇芸命の息子たちの争いに仮託されているが、実は壱岐(本国)と筑紫(占領地)の闘争であると思われる。古田武彦氏が既に言及されている通り、天孫降臨後もその主流は天国にあった。」
「兄の天火明命の方が“正統的な”名前であるのに対し(中略)それ故、天照の直系は天火明命であって、邇邇芸命ではない。これが端的な結論だ。(古田武彦著『盗まれた神話』第八章 傍流が本流を制した)」
「ところが周知の如くその後の倭国史の中心は邇邇芸命の子孫たちである。とすれば、いつのことかは不明であるが、本国天国と新領土筑紫との権力交代劇があったことは確実だ。これに仮託したのが海幸・山幸の説話ではあるまいか。」
と述べておられる。
正に氏の説に私も同感であり、神話時代の九州における海人族の覇者争奪戦にまつわる説話を、「海幸彦・山幸彦神話」として『日本書紀』が盗用した。また、正木氏が述べておられるように、この説話により九州王朝を敗者として「海幸彦」に、近畿王朝を勝者として「山幸彦」に塗り替えた、と。
ところで、前述している通り磐井の時代の九州王朝内には、明らかに二系列の王統が成立していた。それは、神話時代の系統がそのまま引き続いていたのか、新たに王朝内部に興ったのかは解らないが、時には相携えて朝鮮半島の有事に対応し、時には抗争していたと思われる。
その海人族(海士族・天族)の一方は、山族と言うか山幸族とでも言うか、「邪馬(山)壹国」につながる一派であり、これが玉垂命系列となった。また一方は海族または海幸族とでも言うのか、海人族を標榜している安曇族であり、宗像大社系列の王統になったと考えたい。
九州王朝にあった二ヵ所の「正倉院」の存在から、王朝内に二つの王統があったことを推し計り、従来諸説紛々の「秦王国」はどこか、そして誰の国であったのかを論究し、更に古田先生の研究に導かれて「磐井の乱」にまで言及した。また、そのことから思いを馳せ、二系列の王統のルーツにまで及んでしまった。史料根拠も乏しいことから、全くのアイデアの域を出ないとご批判を被ることと思われるが、作業仮説として提起しておきたい。諸兄のご批判を願う次第である。
本稿の執筆にあたり古田史学の会々長古賀達也氏、当会事務局長正木裕氏よりご教唆を戴きました。
なお、当稿は『古田史学会報』一三〇号の拙論に加筆して転載しました。
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制作 古田史学の会