『日本書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城 正木裕(『古代に真実を求めて』第十九集)../sinjit19/tafumine.html
正木裕
『日本書紀』斉明紀には、斉明天皇が「狂心たぶれごころ」とまで呼ばれるような「渠(みぞ *水路)」「石の山丘」「天宮・吉野宮」など巨大な土木施設を造営したとの記事があります。
これらは当然のように近畿天皇家の事績とされていますが、古田武彦氏は、こうした施設は、九州王朝が、大宰府や筑紫主要部を囲む「神籠石こうごいし」と同様に、唐・新羅との戦に備えるために「九州」で造営したものであり、また『書紀』で「斉明」とされる人物は九州王朝の天子だとされました。さらに、この天子の九州「佐賀なる吉野宮」行幸記事が三十四年後の持統紀に「持統の奈良吉野行幸」記事として盗用されていることも論証されています。(註1)
本稿では、こうした古田氏の論証をもとに、『書紀』斉明紀に記す「田身嶺たむのみね」や、持統紀の「多武嶺たむのみね」とは「筑紫大野山(大野城)」であること、また、九州王朝の天子の大野城視察記事が、三十四年後の持統の多武嶺行幸記事として盗用されていることを示します。
『書紀』の持統七年(六九三)九月辛卯(五日)記事に、持統天皇が「多武嶺たむのみねに幸いでます」とあり、通説では「多武嶺」とは大和飛鳥(桜井市南部)の山に比定されていますが、何故このような時期に、何の目的で持統が多武嶺に行幸したのか、一切記されていません。
一方、『書紀』斉明二年(六五六)(九州年号では白雉五年)「是歳」記事に「田身嶺たむのみね」での工事記事が見えます。
◆田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。〈田身たむ。山の名。此を太務と云ふ。〉復た嶺の上の両の槻つきの樹の辺に観(たかどの*楼閣)を起つ。号けて両槻宮ふたつきのみやとす。亦は天宮と曰ふ。時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿みぞほらしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百雙を以て、石上山の石を載みて、流の順ままに控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人謗りて曰はく、『狂心たぶれごころの渠。功夫を損し費やすこと、三萬餘。垣造る功夫を損し費やすこと、七萬餘。宮材爛ただれ、山椒(すえ「山頂」の意味)埋れたり』といふ。又、謗りて曰はく、『石の山丘を作る。作る随ままに自づからに破れなむ』といふ。」
この「田身嶺」も「大和なる多武嶺のこと」とされ、こうした垣や楼閣、宮の遺跡の探索が試みられていますが、未だ発見されていません。一方、先述の古田武彦氏の論証を踏まえれば、この田身嶺記事も「狂心の渠」等と共に九州王朝の天子の事績で、唐・新羅戦に備えたものとなるでしょう。
そこで、九州筑紫に目を転じると、『書紀』における田身嶺の記述にぴったりの山があります。それは、大宰府の裏に聳える「大野山(四王子山)」で、山上には山城「大野城」が築かれ、山頂部は、尾根筋に沿う全長約八㎞の石垣や版築土塁で「冠状に取り囲まれ」ています。(「大野城案内板」参照)。現在石垣は五か所で残っており、中でも「百間石垣」は百八十mを超す国内最大規模のものです。
大野城にはこうした「周れる垣」だけではなく、今までに七十棟以上の礎石建物、八か所の城門、水場などの遺構が確認されています。礎石形式の門は二階建て楼門となっており、門の上に「望楼(観)」が設けられていたと推測されています。
そして、「田身を太務と云ふ」とありますが、「大務たいむ」とは、『漢書』に「国家の大務」、『宋書』に「経国の大務」、『旧唐書』に「国の大務」、『新唐書』に「軍国の大務・国家の大務」などと記すように、国家の果たすべき重要な責務のことをいいます。
陳寿が編纂した『諸葛亮集』に収められていたとされる諸葛孔明の兵法書『将苑』(戒備編)には「夫れ国の大務は、戒備に先んずる莫なし」(国家にとって重要なのは、まず国防である)とあり、「田身嶺=太(大)務嶺」は、「何より重要な国防の山」という意味となります。
このように大野山が田身嶺(太務嶺)であれば、記事に記す「周れる垣等の施設内容」と「現地(大野山)の遺跡」が一致し、かつ「時期的」にも唐・新羅戦に備えるという国防の要請に応えたもので、「太務嶺」と呼ばれるに相応しいものとなるのです。
そこで注目されるのが持統七年(六九三)の「多武嶺」行幸記事です。先述のとおり古田氏は、『書紀』に記す「持統天皇の吉野行幸は三十四年前の九州王朝の天子の佐賀なる吉野行幸である」とされていますが、そうであれば、この「持統天皇の多武嶺行幸」も「三十四年前の九州王朝の天子の大野城行幸」と考えることが出来ることになります。
『書紀』斉明二年(六五六)に記す田身嶺・両槻宮造営工事記事には、「垣造る功夫を損し費やすこと、七萬餘。宮材爛ただれ、山椒埋れたり」とあるように、百間石垣や楼閣等の築造には、膨大な人員と資材を要することは明らかですから、完成には相当の期間を要したと考えられます。
従って持統七年(六九三)の行幸記事は、実際は三十四年前の斉明五年(六五九)のことで、三年間かけ築城した大野城、即ち「田身嶺の垣と両槻宮」の完成に伴う、九州王朝の天子の行幸記事を持統紀に盗用したものとすれば時期も見事に整合します。(註2)
これを九州年号で考えれば、斉明五年は「白雉“八年”」、持統七年は「朱鳥“八年”」ですから、「白雉と朱鳥」を入れ替えて盗用したことになります。
大野城は『書紀』では水城などと同様に白村江敗戦以降の天智四年(六六五)(九州年号では白鳳五年)建設となっています。しかし、白村江敗北後にそのような膨大な事業を遂行できるとも思えず、かつ大野城跡から出土した木柱の伐採年代は、Ⅹ線CTスキャナーにより六五〇年ごろとされ(*西日本新聞二〇一二年十一月二十三日)、白村江前の建設であることは疑えません。そして田身嶺の工事が大野城築城工事だとすれば、斉明二年は九州年号「白雉“五年”」、天智四年は九州年号「白鳳“五年”」ですから、これは「白雉と白鳳」の入れ替えです。
ちなみに天智三年(六六四)(九州年号「白鳳“四年”」)には「是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に防と烽を置く。又筑紫に大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ。」とありますが、これも「白雉と白鳳の入れ替え」で、本来斉明元年(六五五)(九州年号「白雉“四年”」)の記事なら、「狂心の渠」とは「水城」を指すこととなります。(註3)
こうして整備された「大野城と水城」が唐・新羅から九州王朝の首府「大宰府」を防衛する上できわめて重要な役割を持つことは明らかです。
結局、田身嶺とは九州王朝にとって「戒備(国防)の大務の嶺」たる「筑紫大野山」のことで、白村江前の九州年号「白雉“五年”」の大野城着工記事が、『書紀』では白村江後の九州年号「白鳳“五年”」に盗用され、斉明五年・九州年号「白雉“八年”」の完成視察記事が持統七年・九州年号「朱鳥“八年”」に盗用されたものでした。
そして、『書紀』記事で「九州年号同士の入れ替え」が行われているということは、原資料が九州年号で書かれていたこと、ひいてはこれらは九州王朝の事績であることを雄弁に物語っていると言えるでしょう。
『書紀』編者はこのような「盗用手法」によって九州王朝の事績を近畿天皇家のものとし、九州王朝の存在を隠したと考えられるのです。
(註1)古田武彦「壬申大乱」(東洋書林二〇〇一/ミネルヴァ書房二〇一二)、『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房二〇一四)他
(註2)大野城は大宰府の「宮の北の山」。『書紀』には「宮の東の山」とあるが、当時の斉明の後飛鳥岡本宮始め飛鳥諸宮の「東の山」には三万人を要する大水路や七万人を要する大石垣は存在しない。『書紀』編者は、九州王朝の大野城築造記事を盗用する際、飛鳥諸宮の北に山は無いことは明白なので、「宮の“東”の山」と潤色せざるを得なかったと考えられる。
(註3)『書紀』では斉明六年(六六〇)に「城柵を繕修し、山川を断ち塞ぐ」とあるから、水城の「完成」は大野城とほぼ同時期となる。これは、上部の「敷きソダ」(盤固め用の木の枝)の年代はC十四測定で六六〇年とされることからも裏付けられる。
なお、水城の築造工法・土質が基底部と上部大堤で異なり二段階で築造されたのではないか(九州歴史資料館小田学芸調査室長)とも言われ、中・下層から三~五世紀の「敷きソダ」も確認されているから、水城は九州王朝によって早くから段階を追って整備されたものと考えられる。
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