『古代に真実を求めて』第十九集へ
九州王朝の難波天王寺建立 古賀達也(『古代に真実を求めて』第十八集)
聖徳太子は九州王朝に実在した -- 十七条憲法の分析より 服部静尚(『古代に真実を求めて』第二十三集)
YouTube講演 2020年5月 聖徳太子の実像 @その1、天王寺と四天王寺 服部静尚
服部静尚
古賀達也氏は、『二中歴』「年代歴」の天王寺創建記事(倭京二年・六一九年)と四天王寺創建瓦の考古学的編年(六二〇年代)がほとんど一致する事実などから、「四天王寺の本来の寺名は天王寺であり、日本書紀成立以後のある時期にその影響を受けて四天王寺という名称に変更され、他方、地名としての天王寺は本来の名称のまま残った」という説を、古代に真実を求めて第十八集「盗まれた聖徳太子伝承」二〇一五年の中で、提起されました。
ここでは別の角度からこれを検証し、七世紀初め九州王朝によって「天王寺」が建立されたが、七世紀後半から八世紀にかけて起った四天王信仰呼応し、九州王朝の事跡を消し去るためにすり返られたのが「四天王寺」であるという仮説をを述べます。
「お寺さん入門」渋谷申博著によると、仏さまのお姿を像としたものを仏像といい、仏には次があります。
①如来――悟りを開き真理を体得した仏さま。釈迦・阿弥陀・薬師など
②菩薩――悟りを求め人々に救済をもたらす仏さま。観音・弥勒など
③明王――怒りの形相で人々を導く密教の仏さま。不動・五大など
④天部――仏様を守る古代インドの神々で現世利益をもたらす。帝釈天・梵天・四天王など
仏(=仏陀)とは悟った者という意味ですから①が仏です。②~④は未だ悟っていないのですから、本来の仏および仏像は如来および如来像です。お寺のご本尊(もっとも主要な仏像)は如来像、もしくは菩薩像というのが普通です。
ちなみに四天王寺のご本尊は、お寺のHPによると、「創建当時は、四天王寺の名前のとおり、四天王(仏教の世界の東西南北を守護する仏)がご本尊でしたが、平安時代から救世観音をご本尊としています。」とあります。
この四天王とは、④の天部の中でも帝釈天の配下で四方を守る役目の天(いわゆるボディーガード)のことです。
五世紀初期から隋・唐の時代にかけて漢訳された金光明経(金光明最勝王経、または最勝王経)の中で、「正法として金光明経を護持する国王を四天王が守護し、その国民を安穏ならしめる」とされたことから、信仰が始まったものです。(「日本の仏教を知る事典」奈良康明著などより)以上より四天王は、仏教ではかなり異質の信仰対象であり、寺院名称でもあると考えられます。
四天王寺という寺院名は、金光明(最勝王)経の四天王(護国)品から生まれた名称に間違いはないと思います。
この金光明経は、法華経・仁王般若経と併せて(少なくとも奈良時代には)護国三部経とされ、国家事業として奉じられ読経されています。
この三経の護国主体は、「法華経では諸天・諸菩薩」、「仁王経では数多の鬼神」、「金光明経では四天王」とそれぞれ異なっていて、金光明経にとって四天王による護国というのは重要なところです。
以下に四天王護国品の概略を示します。(「金光明経」壬生台舜著、大蔵出版より抜粋)
――先ず、世尊(お釈迦様のこと)が四天王に対して「人王ありて、この金光明経を恭敬供養するならば、汝ら(四天王)はこれを守護せよ」と説く。これに対して四天王は「国土のいかなる場所であっても、金光明経が流布し受持されるなら、必ず国王と人民を護り、憂苦を遠離し寿命を増益し安穏ならしめる。もし隣国の怨敵が国土を侵攻するなら、夜叉諸神と共に形を隠して援助し、降伏させる」と誓うというものです。――
(一)日本書紀に「用明二(五八七)年廐戸皇子、~乃ち白膠木ぬりでを切取りて、疾く四天皇像を作りて、~今もし我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王のために寺塔を立てんとのたまう」「推古元(五九三)年廐戸皇子、攝津國に四天王寺を造る」とあるので、少なくとも日本書紀が編纂された時期(七二〇年)においては、四天王信仰の芽生えがあったことは間違いありません。
(二)その後の四天王寺については、「古代の辺要国と四天王法」二〇〇三年、三上喜孝著に詳細な報告があります。
・ 類聚るいじゅ三代格によると、宝亀五(七七四)年の太政官符で、「(大野城の)四王院は新羅との軍事的緊張を背景に、国家鎮護を目的として設置され、そこで行なわれる四天王法については、僧四人が四天王の各像の前で、最勝王経四天王護国品によって、昼は経巻を読み夜は神咒かじりを誦となえること、春秋の四天王修法を行なうべきこと、供養の布施は大宰府の庫物ならびに正税を用いること。」が定められている。
・ 日本三代実録でも、貞観九(八六七)年、「八幅の四天王像を五鋪ほ造り、各一鋪を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の国に下す。これらの国は西の極みにあり、堺は新羅と接するため、他国に増して警護の必要がある。そこで四天王法を行い、賊心を調伏し、災変を消却すべきである。その方法は尊像を安置し、国分寺および部内の錬行精進僧四名を請い、各像の前に最勝王経四天王護国品に基づき、昼は経巻を転じ夜は神咒を誦え、春秋二時ごとに、十七日清浄堅固にして法によりて薫修すべき。」と同様に定めている。
(三)朝鮮半島では、白村江戦の直後の新羅に四天王寺の建立記事があります。
・ 三国史記(東洋文庫版、井上秀雄訳)新羅本紀によると、「文武王十九(六七九)年、四天王寺が完成した」とあります。
・ 三国遺事(三一書房、林英樹訳)に、この記事が詳細に記述されています。長くなりますが概略引用します。
――「(六六八年)この時に唐の兵が鎮に留まって、まさに新羅を襲おうと謀っていたので、新羅の王は兵を動員した。明年、唐の高宗が仁問(新羅の重臣)を呼んで、汝らは我が国の軍を請うて高句麗を滅ぼしてからは、我が国を害するのはどうしたわけかと𠮟って獄にいれ、兵五十万をして新羅を討とうとした。
この時、義相法師が留学で唐に渡り仁問にあって事情を聞き、帰って新羅王に奏上した。王が群臣を集め防禦策を聞いた所、近頃明朗法師が龍宮に入り秘法を学んできたので彼に聞こう、と言うことになった。法師は狼山の南の神遊林に、四天王寺を建てて道場を開設すればよいと奏上した。
唐兵が国境に迫り逼迫したので、彩色の絹で寺をつくり、草で五方に神像をつくり、密教僧十二人と首席の明朗が、秘密の術法をつくると、交戦前に唐船が全て沈んだ。後の寺を改めて建て四天王寺とした。その後(六七一年)再び唐が五万の兵で攻めたが、この術法で敵船は沈没した。
高宗は獄中の新羅重臣に二度の敗戦の理由を聞いた所、重臣は四天王寺のことを隠して、『新羅では唐の恩で三国統一できたので、狼山の南に天王寺を建てて高宗の万寿を祈っている』と答えた。高宗は新羅に使いを送り、その寺を調べさせた。新羅王は唐の使者がくると聞いて、この寺を隠すために新しい寺を建てて待った。使者が来て新しい寺を案内した所、これは四天王寺ではないと言いながら入らなかった。使者に賄賂を贈ると、使者は帰って高宗に『新羅が天王寺を建てて皇帝の万寿を新しい寺で祈っていた』と奏上したのでうまくいった。」――
この話から、4点のことが判ります。
①七世紀後半の新羅で四天王寺が建立された。
②この四天王寺は唐軍から新羅を護る目的でつくられた。
③「近頃明朗法師が龍宮に入り秘法を学んだ」とあることより、四天王が護国するという信仰は、当時の最先端の信仰であった。
④(新羅が唐に対して天王寺であると言って四天王寺を隠したことより)四天王寺は護国のための寺、天王寺は皇帝の万寿を祈る寺と、全く異質の寺名であった。
この内②~④は、少なくとも三国遺事が書かれた十三世紀(著者の一然は一二〇六~一二八九年の人)の朝鮮半島の人の認識であったことは間違いありません。
平安時代に、四天王寺の四が死に通じて縁起が悪いので天王寺と言うようになったという説(根拠出典不明)があるのですが、この話からみると違っているようです。
(イ)で四天王が出てくる部分は「四天王品第六品」一品のみです(「国訳一切経」赤沼智善訳、大東出版社)が、(ハ)では「四天王観察人天品第十一」「四天王護国品第十二」他、四~五品に拡大しています(「金光明経」壬生台舜著大蔵出版)。つまり四天王信仰に至る話が後代にいくほど膨れ上がるわけですが、四天王による護国の話は両者でほぼ共通しています。
つまり(イ)が日本に伝わった早い段階で(理解および信仰の有無は別にして)四天王信仰のエッセンスは伝播していたものと考えられます。
続日本紀聖武天皇の神亀二(七二五)年七月十七日条に「七道諸国に詔して、~国家平安のために僧尼に、金光明経を読ましめ、もしこの経が無ければ、最勝王経を転ぜしめよ」とあって、八世紀前半までは(イ)が用いられていたようです。
日本書紀および二中歴での金光明経に関わる記事を順に並べてみると、下の(表1)のようになります。
西暦 |
九州年号 |
日本書紀 |
記事 |
421年 |
|
|
曇無讖による漢訳金光明経ができる。 |
570年 |
金光元年 |
|
金光年号 |
587年 |
|
用明二年 |
物部戦争、厩戸皇子が四天王像に祈願する。 |
589年 |
端政元年 |
|
唐より法華経始めて渡る。 |
593年 |
|
推古元年 |
摂津國に四天王寺造る。 |
619年 |
倭京二年 |
|
難波天王寺を聖徳造る。 |
623年 |
仁王元年 |
|
唐より仁王経渡る。仁王会始まる。 |
635年 |
僧要元年 |
|
唐より一切経三千余巻渡る |
651年 |
|
白雉二年 |
味経宮に於いて二千一百余の僧尼に一切経を読ませる。 |
652年 |
白雉元年 |
|
国々最勝会初めて之を行なう |
660年 |
|
斉明六年 |
有司奉勅造一百高座。一百衲袈裟。設仁王般若之會。 |
676年 |
|
天武五年 |
遣使於四方國。金光明経、仁王経を説く。 |
680年 |
|
天武九年 |
始めて宮中及諸寺で金光明経を説く。 |
686年 |
|
朱鳥元年 |
宮中にて一百僧をして金光明経を読ませる。 |
692年 |
|
持統六年 |
京師及四畿内で、金光明経を講説する令を詔す。 |
693年 |
|
持統七年 |
始めて仁王経を百國に講じ、四日で終える。 |
694年 |
|
持統八年 |
金光明経一百部を以って諸國に送り置かせる。 |
696年 |
|
持統十年 |
金光明経の読経のため、毎年~一十人を得度させる勅旨を出した。 |
(表1)
(表1)には九州年号の「金光」も一応加えましたが、この「金光」年号については福岡市元岡古墳出土「四寅剣」が造られたことを記念した改元とする正木裕氏の説があることと、金光明経の「金光明」は仏さまが金色の輝きを示されると言う意味で「金」と「光明」と別けられても、「金光」と「明」を別ける用法は考え難いことから、この九州年号は金光明経とは関係しません。
そうすると、(表1)から六世紀末の厩戸皇子の四天王寺話を除くと、七世紀中頃以降に、金光明経の読経・最勝会(金光明最勝王経からとった法会)の実施など四天王信仰に関係する記事が頻発してきます。
つまり日本書紀が伝える厩戸皇子の四天王寺話は時期的に少し早すぎると考えられます。
日本書紀で厩戸皇子の四天王話は物部戦争の勝利を祈願しています。少し解釈を拡げても仏教興隆を祈願するお話です。これと新羅および筑紫四王院、伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の国で行なう四天王信仰を比べると、明らかに違いがあります。
後者は金光明経の記述と合致する「いわゆる護国」祈願ですが、前者は国内の内部抗争です。
本来の金光明経における「世尊に対して、この経典を護持する国の国王や人民を守る」という四天王の本願とは違っています。何よりも、後者は金光明経を奉じて唱えると言う本来の信仰ですが、前者では厩戸皇子が四天王像に祈願する形になっていてここには金光明経が不在です。
金光明経の精神から言うと、前者は生半可な理解と言わざるを得ません。
これは私の想像になりますが、日本書紀編纂時において近畿天皇家周辺では、未だ充分な金光明経の理解ができておらず、七世紀後半になってやっと、本来の金光明経の理解が進すんだのではないでしょうか。
以上、金光明経から見て四天王寺の四は省略できるものではない。
日本書紀が伝える厩戸皇子の四天王寺話も本来の護国信仰とは異なる。
その六世紀末という時期も早すぎる、等の検証を行ないました。
特に、三(三)④項で、「(新羅の)四天王寺は護国のための寺、天王寺は皇帝の万寿を祈る寺と、全く異質の寺」と言う結論は決定的です。
最後に、これを上記の検証結果を踏まえて、摂津四天王寺に適用すると、
(一) 摂津四天王寺は、その成立時期より、当初は四天王寺ではなかった。
(二) つまり創立時は(難波)天王寺であったが、これが七世紀後半以降に四天王寺と名称変更された。
(三) 難波天王寺は天子を祀る寺として創立された。この時期に天子と名乗っていたのは、隋書に「日出ずるところの天子」として現れる九州王朝の多利思北孤(もしくは、その息子の上塔の利)です。
(四) これが七〇一年九州王朝の滅亡によって、四天王寺へ名称変更、護国のための寺と化し、併せて聖徳太子伝承ともつながったのです。
当論考の作成にあたり、数々の助言をいただいた、水野孝夫氏、古賀達也氏、大下隆司氏に感謝致します。
新古代学の扉事務局へのE-mailはここから
制作 古田史学の会