『古代に真実を求めて』 第二十二集

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九州王朝の天子の系列(下改め3) 『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績 正木裕 (会報166号)

『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について 正木裕(会報113号)

丹波赤渕神社縁起の表米宿禰伝承

古賀達也

一、赤渕神社縁起の「常色元年」

  『古事記』よりも成立が早いとされる『粟(あわ)鹿(が)大神(おおがみ)元記』活字本の所在調査をしていたら、粟鹿神社が鎮座する兵庫県朝来市には赤渕神社という神社があり、その縁起書に九州年号の「常色元年」(六四七)が記されていることを偶然に知りました。縁起には御祭神の一人で表米宿禰(ひょうまいのすくね)命という人物の伝承が記されており、それは常色元年に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。
 表米宿禰命は孝徳天皇の第二皇子という伝承もあるようで、当地の日下部氏の祖先とのことです。『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えませんし、この時期に新羅との交戦をうかがわせる記事もありません。倭国(九州王朝)と新羅の関係が悪化するのはもう少し後のことですので、何とも不思議な伝承なのです。しかし九州年号の「常色元年」という具体的な年次を持つ伝承ですから、何の根拠もない創作や誤記誤伝とも思えません。もしかするとこれは九州王朝の王族に関する伝承ではないかと考えました。
 表米宿禰命が現地氏族の日下部氏の祖先とされていることも気にかかります。というのも、九州王朝の天子の一族の家系と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫が日下部氏(草壁氏。後に稲員(いなかず)を名乗り、現在に至る)を名乗っているからです。偶然の一致かもしれませんが、何とも気になる伝承です。ちなみに、丹後半島の「浦島太郎」の御子孫も「日下部」を名乗っています(古田史学の会ホームページ連載「洛中洛外日記」五八話「浦島太郎は『日下部氏』」を参照)。

 

二、「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことで、『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記す)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。
 「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。

 「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(六八四、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」※( )内は古賀による注です。

 ここに九州年号「朱雀」が使用されていることは注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(六四七)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(六四八、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(六四八、常色二年)に養父評の評督に任命されたことが記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(六五三、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(六五九、白雉八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(六八三、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

六四八(常色二年) 養父評の評督に就任。
六五三(白雉二年) 長男の都牟自が養父評助督に就任。
六五九(白雉八年) 長男の都牟自が評督に転任。
六六二頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
六八三(白鳳二十三年) 長男の都牟自没。
六八四(朱雀元年) 表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(一五三三)まで系図が続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による七世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木裕説によれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。

 

三、『赤渕神社縁起』(活字本)を実見

 先に「浦島太郎」の御子孫も日下部氏を名乗っていたことを紹介しましたが、その御子孫の森茂夫さん(京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたもの)の写真ファイルが送られてきました。森さんも九州年号が記されている史料として『赤渕神社縁起』に注目され、現地でこの縁起(活字本)を写真撮影されていたのです。
 その写真によれば『赤渕神社縁起』は複数あり、最も古いものは天長五年に成立したものの写本で、再写が繰り返されています。より古い『赤渕神社縁起』写本(赤渕神社縁起1)には九州年号の常色元年(六四七)、常色三年(六四九)、朱雀元年(六八四)が記されていますが、再写の過程で、それら九州年号を不審として、表米の没年「朱雀元年甲申三月十五日」が『日本書紀』に見える「朱鳥元年丙戌三月十五日」(六八六)に書き換えられている史料(赤渕神社縁起2)も見られました。
 このような史料状況ですので、どの史料が最も史実を伝えているのかを判断する作業、すなわち史料批判が必要です。しかも、天長五年成立の『赤渕神社縁起』も、既に改変されている可能性が高く、記事の内容ごとの個別の史料批判も必要です。

 

四、『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰

 森茂夫さんから送られてきた「赤渕神社文書」写真の中に『多遅摩国造日下部宿禰家譜』がありました。「群書類従」の『日下部系図』には「表米宿禰」は孝徳天皇の子供、あるいは孫とされ、『赤渕神社縁起』にも孝徳天皇の皇子と記されています。ところが赤渕神社蔵の『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では開化天皇の末裔とされています。
 具体的には、家譜冒頭に「稚倭根子日子大毘毘命」(開化天皇)が記され、続いて「日子座王」「山代之大筒木真若王」「迦禰米雷王」「息長宿禰王」「大多牟坂王」とあり、その十代後に「赤渕足尼」が記されています。この「赤渕足尼」は「表米宿禰」とともに赤渕神社の御祭神として祭られています。「赤渕足尼」の四代後が「表米宿禰」とされています。このように『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では、「表米」は孝徳天皇の皇子ではなく、開化天皇・日子座王・息長宿禰王・大多牟坂王、そして赤渕足尼らを先祖としています。この系図がどこまで信頼できるのかは不明ですが、ともに赤渕神社の祭神とされている「赤渕足尼」の子孫と見るのが穏当のように思われます。
 それではなぜ『赤渕神社縁起』では孝徳天皇の皇子とされているのかが新たな問題となります。『赤渕神社縁起』も『多遅摩国造日下部宿禰家譜』も赤渕神社にある文書ですから、不思議です。なお、今回紹介しました「家譜」の人物名は写真版からわたしが判読したもので、不鮮明な文字を誤読しているかもしれません。

 

五、表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(六四七)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事についてですが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると一旦は考えました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(六四七)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の記述に基づき、書き加えられた(伝承年次の改変)と思われるのです。少なくとも系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長五年成立・八二八年)の記事の信憑性が史料批判の結果から優先されます。それでは常色元年の「新羅」との交戦記事は何だったのでしょうか。

 

六、表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長五年(八二八)成立の『赤渕神社縁起』に見える、常色元年に行われた「新羅」との丹後における常色元年二月の交戦記事は次のようなものです。

 「十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」
 「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」
 「新羅退治」
 「常色元年九月三日、怱平悪鬼」
  (「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年の『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(七二〇年成立『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。

 

七、表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」

 『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(六四七)戦闘」に記された「鬼神」「悪魔」「悪鬼」が新羅でなければ、その正体は何だったのでしょうか。
 『日本書紀』には、常色元年に相当する孝徳紀大化三年(六四七)七月条に「渟(ぬ)足(たり)柵を造りて、柵戸を置く。」という記事が見え、翌大化四年是歳条には「磐舟柵を造りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く。」とあります。岩波文庫『日本書紀』の注によれば、渟足柵は新潟県新潟市沼垂、磐舟柵は新潟県村上市岩船のことと説明されています。これらの記事から、常色元年頃に倭国と蝦夷国は緊張関係にあったことがうかがえます。「柵」を造り「柵戸」(柵を防衛する屯田兵)を新潟に配置しているのですから、現実的な蝦夷国からの脅威にさらされていたと思われます。
 他方、『日本書紀』孝徳紀大化三年(六四七)七月条には新羅から金春秋の来倭記事がありますし、翌年の是歳条には「新羅、使を遣して貢調(みつぎたてまつ)る。」とあり、両者の関係は親密です。こうした『日本書紀』の記事から考えると、『赤渕神社縁起』の「常色元年戦闘」伝承で表米宿禰が戦った「鬼」とは、新羅ではなく蝦夷ではないでしょうか。斉明紀になると倭国による「蝦夷討伐」記事が現れますが、おそらく倭国からの侵略・攻撃だけではなく、蝦夷国からの倭国への攻撃・侵略もあったはずです。そうでなければ新潟に「柵」が造られたりはしないでしょう。こうした理解が正しければ、『赤渕神社縁起』に見える「常色元年戦闘」伝承こそ、蝦夷国による丹後への侵入と交戦の貴重な現地伝承だったことになります。
 以上、史料批判と分析から導き出された仮説ですが、是非とも現地を訪問し、より詳しい調査を行いたいと思います。また、丹後以外にも日本海側に蝦夷国との交戦伝承が残っている可能性もありそうです。

 

八、『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)が『日本書紀』天武紀持統紀の記事に三四年前の記事が移動挿入されているという「三四年遡上」説を発表されたとき、三四年前の記事なのか本来その年の記事なのかの判断に恣意性が入り論証は困難ではないかと、わたしや西村秀己(古田史学の会・全国世話人、高松市)さんから度々批判がなされ、論争が続きました。そうした数年にわたる学問的試練を経て、正木さんの「三四年遡上」説は検証され、今日に至っています。
 しかしそれでもなお「三四年遡上」説の中には半信半疑のテーマもありました。たとえば『古田史学会報』八五号(二〇〇八年四月)で正木さんが発表された「常色の宗教改革」という仮説です。九州年号の常色元年(六四七)、九州王朝により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そしてその「常色の宗教改革」の詔勅が三四年後の天武十年(六八一)に「神宮修理の詔勅」として『日本書紀』に記されているとされたのです。次の詔勅です。

 「天武十年(六八一)の春正月(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。」

 この記事について、正木さんは次のように指摘されています。
 「この記事は本来三四年遡上した常色元年の『神社改革の詔勅』であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。」正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』八五号(二〇〇八年四月)
 この正木説に対して、そうかもしれないが本当にそうだと断言してもよいのかと、わたしは半信半疑でした。ところが今回知った『赤渕神社縁起』に次の記事があることに気づき、わたしは驚きました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(六四九)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘した通り、天武十年正月条の「宮を修理らしむ。」という詔に対応しているのです。時期(常色年間)だけではなく、「修理」という言葉も一致しています。しかも『赤渕神社縁起』では九州年号の「常色三年」の出来事として記録されていますから、九州王朝による「神宮修理」の詔勅(常色元年の詔勅)が出されていたことの史料根拠となります。『赤渕神社縁起』により、正木さんの「三四年遡上」説の一例としての「常色の宗教改革」が史料根拠を持つ有力説であることが判明したのです。

 

九、『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることを紹介しましたが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、うっかり大切なことに気づかずにいました。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、八二八年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(七二〇)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく七世紀にまで遡ることでしょう。そのため『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば七世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(六四七)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(六四九)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の「常色」を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし『赤渕神社縁起』には九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の「常色」が既に書かれていたことを意味します。もし元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味します。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、八二八年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性をわたしは見過ごすところでした。
 もともと九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがってわたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、六五二年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても反論もなく、無視が続いています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない「仮説」であるかは明白です。

 

十、朝来市「赤淵神社」へのドライブ

 二〇一四年四月五日、わたしは兵庫県朝来市を訪問しました。高速道路を使って京都から三時間ほどの行程で、途中、有名な竹田城を車窓から見ることもできました。このドライブの一番の目的は『赤渕神社縁起』を所蔵する赤淵神社を訪問することでした。地図などでは「赤渕神社」と表記されることが多いのですが、同神社紹介のパンフレット(旧「和田山町教育委員会」発行)には「赤淵神社」とありました。
 残念ながら宮司さん(国里愛明氏)はご不在でしたので朝来市和田山郷土歴史館に行き、『和田山町史』(平成十六年発行・二〇〇四年)をコピーさせていただきました。赤淵神社のパンフレットも同館で入手したものです。そこでの展示パネルを見て驚いたのですが、同地の円龍寺には白鳳時代のものと思われる小型の金銅菩薩立像(三二cm)がありました。
 更にこんな山奥の狭い地域にもかかわらず多くの古墳があり、三角縁神獣鏡などが出土していることも注目されました。朝来市発行の観光パンフレットによれば、朝来市和田山筒江にある「茶すり山古墳」は近畿地方最大の円墳(直径約九〇m、高さ一八m。五世紀前半代)とのことで、長さ八・七mの木棺からは多数の副葬品が出土しています。
 北近畿豊岡自動車道の山東パーキングエリアに隣接している朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」には同地の古墳などからの出土品が展示されていました。一般道路からも入れますので、おすすめです。展示品には「茶すり山古墳」出土の「蛇行剣」とその複製品に目を引かれました。
 天長五年(八二八)成立の九州年号史料『赤渕神社縁起』や、『古事記』(和銅五年成立・七一二年)よりも成立が古い『粟鹿大神元記』(和銅元年成立・七〇八年)で著名な粟鹿神社、そして近畿地方最大の円墳「茶すり山古墳」などが存在する朝来市は文化財や旧跡の宝庫であり、想像していた以上に素晴らしいところでした。

 

十一、永禄三年(一五六〇)成立『赤淵大明神縁起』

 朝来市の赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』の研究を「洛中洛外日記」で連載したところ、金沢大学のKさんからメールをいただき、『赤淵大明神縁起』松平文庫本の存在を教えていただきました。そのメールによると、『赤淵神社縁起』は朝倉義景が永禄三年(一五六〇年)に心月寺(福井市)の才応総芸に命じて作らせたとされる『赤淵大明神縁起』に酷似しているとのことでした。『赤淵大明神縁起』松平文庫本は福井県文書館に所蔵されており、同館のデジタルライブラリーで閲覧可能でした。パソコン画面で拝見しますと、赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』とほとんど同文のようです。
 この『赤淵大明神縁起』松平文庫本により、『赤淵神社縁起』赤淵神社所蔵本の書写原本、あるいは同系統本の存在が永禄三年までは確実に遡れることとなりました。
 心月寺の才応総芸に『赤淵大明神縁起』の作成を命じた朝倉義景は表米宿禰の子孫ですから、みずからの出自が七世紀の表米宿禰であり、表米宿禰は孝徳天皇の皇子であるとする『赤淵大明神縁起』やその伝承を重要視していたことは確かでしょう。ちなみに『赤淵大明神縁起には「常色元年(六四七)」「常色三年(六四九)」「朱雀元年(六八四)」が使用されており、才応総芸はそれら九州年号を『日本書紀』にある「大化(六四五~六四九)」や「朱鳥(六八六)」に書き換えていません。このことは才応総芸の「古代年号」認識を考える上で興味深い史料状況です。

 

十二、おわりに

 二〇一五年十一月十八日、わたしは「古田史学の会」の研究者(正木裕さん、服部静尚さん、茂山憲史さん)と赤淵神社を訪問し、神社所蔵古文書の撮影調査を実施しました。国里宮司のご厚意により、『赤淵神社縁起』など貴重な史料を三時間以上にわたり拝見することができました。活字本ではわからなかった数々の発見に恵まれ、古文書調査のだいご味を堪能できました。貴重な古文書調査を御了解いただいた国里宮司やご協力いただいた関係者の方々に感謝申し上げます。
 その調査概要については、二〇一五年十一月の「古田史学の会」関西例会で報告しましたが、本格的な調査報告のまとめは未だにできていません。調査の前月に古田武彦先生がご逝去されたことなどもあり、研究そのものも遅れています。撮影した史料を精査のうえ、調査報告書を作成したいと願っています。
(二〇一八年十月二八日、筆了)


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