『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について
川西市 正木 裕
古田武彦氏は、『壬申大乱』において、『書紀』「持統紀」の吉野行幸が三四年遡上した白村江以前の九州王朝の天子の、佐賀なる吉野への行幸記事からの盗用であるとされた。(註1)
この三四年遡上盗用は、持統吉野行幸に留まらない。例えば、持統二年(六八八)末から三年(六八九)に記す蝦夷の朝見人数と出身地域が、斉明元年(六五五)記事と整合・一致する。これは、「持統紀」の蝦夷朝貢記事が「斉明紀」から盗られた事を示している。
あるいは『書紀』の天武十四年(六八五)十一月、周防・筑紫に軍事物資を送り、十二月に筑紫の防人が海中に漂うとの記事は、天武時代では意味・背景が不明だが、三四年前の白雉二年(六五一)是歳の、「新羅討伐」と、「難波津から筑紫海の裏に船を連ね威嚇すべし」との奏請と整合する。
その他にもこうした盗用は『書紀』「天武・持統紀」に多くの例が見受けられ、古田説の正しさを裏付けるものとなっている。(註2)
本稿では、「持統紀」のみならず「天武紀」の蝦夷記事も、九州王朝の「常色」年間の事績の盗用である可能性が高い事、その分析によって、九州王朝の白村江前の蝦夷地を含む全国支配の経緯が浮かび上がることを述べる。
一、「天武紀」の蝦夷記事
『書紀』の「蝦夷」の語の出現回数(蘇我蝦夷・鴨君蝦夷の人名を除く)を見ると、景行・応神・仁徳・雄略といった六世紀以前の説話性の高い部分を除けば、「推古紀」〇回、「舒明紀」五回・「皇極紀」三回・「孝徳紀」三回・「斉明紀」三二回・「天智紀」二回・「天武紀」二回・「持統紀」七回と、「斉明紀」に集中している。
このうち、「持統紀」の蝦夷朝貢記事は先述のとおり、蝦夷討伐が繰り広げられた「斉明紀」からの盗用であったが、「天武紀」にも、次の二か所に「蝦夷」の語が見えている。
(1).『書紀』天武十一年(六八二)三月乙未(二日)に、陸奧国の蝦夷廿二人に、爵位を賜ふ。
(2).『書紀』同年四月甲申(二二日)、越の蝦夷、伊高岐那等、俘人(とりこ)七十戸を一郡とせむと請す。乃ち聽す。
「俘人 (註3) 」が発生するのは蝦夷討伐の最中、あるいは直後のはずであるが、「天武紀」には蝦夷討伐どころか蝦夷に関する記事は他に一つもない。従って、なぜ天武十一年に唐突に「越の蝦夷の俘人」が記され、七十戸一郡に組織されたのか全く不明なのだ。
二、孝徳大化期の蝦夷記事
一方、陸奧の蝦夷・越の蝦夷に関する記事は、「皇極・孝徳・斉明紀」に見える。そして、次の天武十一年から三四年遡った大化四年(六四八)や前年の大化三年(六四七)記事を見れば、こうした「天武紀」の蝦夷記事の謎が解けるのだ。
(3).『書紀』孝徳大化三年(六四七)是の歳。七色十三階の冠を制る。
冬十月。渟足柵(新潟県新潟市沼垂)を造りて、柵戸(きのへ)を置く。
(4).『書紀』孝徳大化四年(六四八)是の歳。磐舟柵(新潟県村上市岩船)を治りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃の民を選びて、始めて柵戸に置く。
1、「孝徳紀」の越の蝦夷の磐舟柵配置と「天武紀」の俘人の組織
(4).によれば、大化四年に「磐舟柵」が造られ、「越と信濃の民」が「柵戸」に配置されている。「柵戸」は、戦時に城柵の防衛に携わり、平静はその造営・修理を行いつつ、土地を開墾し自活する人々の集団を言うが、具体的に「越と信濃の民」がどのような者達であるか『書紀』は明らかにしていない。
ただ、『書紀』では舒明末から皇極元年にかけて、蝦夷討伐とその帰順が記されている。
(5).『書紀』舒明九年(六三七)是歳。蝦夷叛きて朝でず。(略)蝦夷を撃ちて大きに敗りて、悉(ことごとく)に虜にす。
(6).『書紀』皇極元年(六四二)九月癸酉(二十一日)。越の辺の蝦夷、数千内附(まうきつ)く。
とりわけ、皇極元年記事では「越の蝦夷数千人の帰順」が記されている。この「一戸」が律令時代同様に二〇〜三〇人だとすれば、七〇戸一郡で二千人弱となり、渟足・磐舟の二郡であれば四千人で「数千内附」と整合する。
天武十一年(六八二)四月条の記事(2).が三四年前の大化四年(六四八)のものであれば、「越の蝦夷の俘人七〇戸一郡」とは、ずばり既に帰順(内附)していた「越の辺の蝦夷、数千」の集団組織を意味することとなるのだ。
「越」では皇極元年(六四二)に数千の蝦夷が帰順した。そして大化三年(六四七)に「柵戸」が設けられ、翌大化四年(六四八)に「越の蝦夷の俘人」等が配置された。そして「俘人」等は伊高岐那等の請により七十戸一郡に組織された。つまり、「伊高岐那等の請」とは、「始めて」設置される「柵戸」について「七十戸一郡制」を適用したいとの奏請だったのだ。
天武十一年時点で「今更なぜ蝦夷組織化の奏請なのか」という疑問は、三四年遡上した大化四年(六四八)に、初めて設置した「蝦夷の柵戸」に蝦夷の俘人を配置する制度を整えるための奏請だったとすれば氷解する。
蝦夷討伐戦が進められていた舒明・皇極・孝徳期なら、天武十一年では不可解な、「蝦夷の俘人」記事と、七十戸一郡制の新たな採用は極めて合理的な内容を持つものとなるのだ。
さらに、『書紀』記事(7).,(8).によれば、斉明元年や四年に「柵養の蝦夷」数人に官位が与えられるとともに、「郡」には「大領・小領」が置かれ、これには蝦夷(沙尼具那・宇婆左とある)が任命されている。これは、柵に配置された多数の蝦夷の管理者として、蝦夷の長らを任命し官位を与えたものと考えられ、この任官も蝦夷の俘人を七十戸を一郡とし管理していた事と整合する。
(7).『書紀』斉明元年(六五五)秋七月己巳朔己卯(一一日)、難波の朝にして、北、<北は越ぞ。>の蝦夷九九人、東、<東は陸奥ぞ。>の蝦夷九五人に饗へたまふ。并て百済の調使一五〇人に設へたまふ。仍、柵養(きかふ)の蝦夷九人・津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。
(8).『書紀』斉明四年(六五八)夏四月に、阿陪臣、名を闕(もら)せり。船師一百八十艘を率て、蝦夷を伐つ。齶田・渟代二郡の蝦夷、望(おそ)り怖(お)ぢて降(したがは)むと乞ふ。(略)
七月甲申(四日)に、蝦夷二百余、闕(みかど)に詣でて朝献(ものたてまつ)る。饗賜ひて贍給ふ。常より加れること有り。仍、柵養蝦夷二人に位一階授く。渟代郡の大領沙尼具那には小乙下(略)、小領宇婆左には建武(略を賜ふ。
また、天武十一年(六八二)の(2).記事を三四年遡上させ、大化四年(六四八)に越国に郡制が敷かれたとすることは、『書紀』斉明五年(六五九)に、越国以遠の飽田・渟代・津輕よりさらに以北と考えられる後方羊蹄(しりへし)に郡制が敷かれたとあるのとも整合しているのだ。
(9).『書紀』斉明五年三月是月。問菟(うかひ)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)・菟穗名(うほな)、二人進みて曰はく、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所とすべし」といふ。(略)政所は、蓋し蝦夷の郡か。(略)胆鹿嶋等が語に隨ひて、遂に郡領(こほりのみやつこ)を置きて帰る。道奧と越国司に位各二階、郡領と主政に各一階授く。
そして、三四年遡上記事は、基本的に九州王朝の史書の盗用と考えられるうえ、蝦夷討伐の大功労者「阿陪臣」が闕名となっていること等から、蝦夷討伐も九州王朝の事績であり、かつ蝦夷らが朝見してきた「難波の朝」とは、九州王朝の事であり、場所としては副都たる難波宮を指す事となろう。
2、「信濃の民」も「信濃の蝦夷の俘人」だった
なお、柵戸には越の蝦夷だけではなく「信濃の蝦夷」も配置されている。
「景行紀」には、陸奥の国の蝦夷を服従させた後も、「越と信濃の蝦夷」は共に抵抗勢力だったと記されている。
(10).『書紀』景行四〇年(一一〇)。是の歳。是に、日本武尊、則ち上總より轉りて、陸奧国に入りたまふ。時に大鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に廻る。横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。蝦夷の賊首、嶋津神*・國津神*等(略)自ら王船を扶けて岸に着く。仍りて面縛して服罪(したが)ふ。故、其の罪を免したまふ。因りて、其の首帥を俘にして、身に從へまつらしむ。(略)
是に、日本武尊の曰はく、「蝦夷の凶しき首、咸に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ。唯だ信濃国・越国、頗未だ化に従はず」とのたまふ。
神*は、神の異体字。示偏に申。JIS第3水準、ユニコードFA19。
ここで「信濃国・越国」の二国の民が「越と信濃の蝦夷」を意味しているのは明白だ。その後、吉備の武彦を越に派遣するが、討伐に成功したという記事は無い。
その「二国の民」が並んで「始めて」渟足・磐舟柵に配備されたのであれば、「信濃の民」も「信濃の蝦夷」であり、彼らが帰順し「俘人」となったのは、「越の蝦夷」同様舒明末か皇極元年ごろと考えられよう。
3、孝徳紀「七色一十三階の冠・渟足柵」と天武紀「陸奥の蝦夷への叙位」
それでは、(1).の「陸奥の蝦夷」が爵位を与えられた記事はどう考えられるだろうか。
「陸奥」がどこか判然としないが「景行紀」に見える上總や、葦浦・玉浦・竹水門(概ね千葉から茨城付近とされる)などの地名からは「常陸の奥(北)」を指すと考えられよう。(註4)
そして彼らは戦闘なしに自ら服したとある。こうした記事から判断すると、時代として景行四〇年(一一〇)はありえないとしても、陸奥の蝦夷は「越と信濃の蝦夷」に先んじて、いち早く倭国(九州王朝)に帰順していたと考えられる。斉明五年(六五九)に唐の天子に拝謁したのも「道(陸)奥の蝦夷」男女二人だったから、彼らと九州王朝の関係は非常に良好であり、九州王朝からも相当の信頼を得ていたと思われる。
そして、爵位を与えられる天武十一年(六八二)の三四年前は六四八年で、その前年六四七年(九州年号「常色元年」)に「七色一十三階の冠」が設けられている。他地域の蝦夷に先行して帰順していた、陸奥の蝦夷の長年の忠誠に報いるとともに、爵位を与える事で彼らをより強く九州王朝の組織(同時に兵力)に組み込み、渟足・磐舟柵の防衛にあたらせるための爵位だったと思われるのだ。
九州王朝は陸奥の蝦夷平定後、信濃・越と支配地を広げ、斉明期に至って秋田・津軽から渡嶋(「渡嶋」は青森県上北・下北・三戸郡、岩手県二戸・九戸郡付近か。 (註5) )を平定し、本州のほぼ全てを勢力下に収めたと考えられる。蝦夷を引率しての唐朝への拝謁は、そのアピールだったと思われる。
「斉明紀」に「時に興事を好む」とあるような大規模土木工事を行っていることと、蝦夷平定を合わせて考えれば、白村江敗戦前のこの時期が九州王朝の全盛時代だったのではないか。
三、蝦夷朝見記事の遡上盗用と九州王朝の全国支配
1、蝦夷が朝見した「難波朝」は九州王朝
ところで、斉明元年(六五五)七月記事で、各地の蝦夷が「難波朝」で朝見している。
この「難波朝」とは単に「難波宮」を指すだけではない。
蝦夷討伐が九州王朝の事績なら、この朝見も九州王朝に対してのことだったと考えられよう。距離的に見ても蝦夷地を含めた全国統治のためには、筑紫より難波が適しているのは明らかで、この時期九州王朝は難波で政を行っていたのだ。
『書紀』には飛鳥諸宮が頻繁に記され、「朝」といえば飛鳥の朝廷(近畿天皇家)に決まっているように思われるが、『書紀』に「飛鳥」が四二回記される内で、「飛鳥朝」の語は一度もない。
また、「朝」は三六〇回見えるが、そのうち○○朝と具体的地名を表すのは「斉明紀」に難波朝・唐朝・朝倉之朝、「天武紀」に近江朝が五回記されるだけだ。
「朝倉之朝」は筑紫(筑後)だ。そして「難波朝」が九州王朝の政所、近江は『海東諸国紀』に九州年号「白鵬元年」記事として「(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す」とあるから、九州王朝の遷都地とすれば、『書紀』で「唐朝」を除き地名を記した「朝」とは九州王朝を指すこととなる。
「難波朝」とは「難波宮で統治していた時代の九州王朝」を意味する言葉だった。
2、消された九州王朝の蝦夷討伐と全国統治
最後に、何故『書紀』は蝦夷記事を「天武・持統紀」に盗用したのだろうか。
『常陸国風土記』ほかから六四八〜六四九年頃、全国的に「評制」が敷かれたことがわかっている。七〇〇年までの地方制度が「評」であり、『書紀』では全て「郡」に直されていることは著名で、古田氏は「評」は九州王朝が設けた制度だとされている。
『書紀』は評制を消すことによって九州王朝の存在を隠した。そればかりか九州王朝が評制を施行し、全国的統治機構を作り上げた時代(概ね常色期六四七〜六五一前後)に、自らが郡制等の統治制度を樹立した九州年号大化時代(六九五〜七〇三)の事績を「大化年号(六四五〜六四九)」ごと被せることにより、九州王朝の事績をも近畿天皇家のものと見せかけた。
そして、同じく「天武・持統紀」に蝦夷記事を盗用することも、九州王朝の事績を近畿天皇家のものとするためだった。
「あの白村江以前の盛大な蝦夷討伐事業は、近畿天皇家の事績だった。その証拠に天武・持統の時代に蝦夷への授位・組織化が行われ、蝦夷の大規模な朝見があったではないか」
『書紀』編者はそのようにして、近畿天皇家が蝦夷を討伐し全土を統一したという歴史を創作した。
「持統紀」のみならず「天武紀」の蝦夷朝見記事も、三四年遡った九州王朝の事績の盗用だと考えるとき、歴史の真実、すなわち常色年間における蝦夷地域も含めた九州王朝の全国支配の事績・経緯が浮かび上がってくることになるのだ。(註6)
註
(註1)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林、二〇〇一年。ミネルヴァ書房より二〇一二年復刊)
(註2)拙論「日本書紀の編纂と九州年号」(『九州年号の研究』ミネルヴァ書房、二〇一二年)ほか。
(註3)「俘人」とは「いわゆる俘囚。夷俘(いふ)ともいい、政府に帰順し、その支配下に入った蝦夷」をいう。(岩波『日本書紀』注釈より引用)
(註4)蝦夷については古田武彦『真実の東北王朝』(駸々堂、一九九〇年。ミネルヴァ書房より二〇一二年復刊)に詳しい。
(註5)合田洋一『地名が解き明かす古代日本』(二〇一二年・ミネルヴァ書房)による。
(註6)なぜ「三四年」かについては、『書紀』編者は、白村江以前の九州王朝の事績を、天武・持統の事績とするため、次のような編集手法を用いた結果だと考えられる。
「持統紀」の末年である持統十一年(六九七・九州年号大化三年)に、白村江敗戦年の天智二年(六六三・同白鳳三年)記事を盗用し、以下大化二年に白鳳二年、大化元年に白鳳元年、朱鳥九年に白雉九年というように遡って、九州王朝の事績を盗用した。その間隔が三四年であったからである。
なお、三四年間隔であれば、大化 ーー 白鳳、朱鳥 ーー 白雉と九州年号同士の対応が取れ、記事の入れ替えが容易であったこともこうした盗用手法を採用した理由の一つであろう。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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