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『古代に真実を求めて』 第二十五集

「聖徳太子」と「日出づる処の天子=多利思北孤」論文一覧

YouTube講演 仏教はいかに伝わったのか -- 現世利益の経典 服部静尚 追加【速報】石井公成氏よりお答えをいただけました
     奈良新聞 令和4年8月4日木曜日 企画8


聖徳太子と佛教

石井公成氏に問う

服部静尚

一、はじめに

 良書との評判を聞いて、石井公成氏の『聖徳太子―実像と伝説の間』を入手した。石井氏は、この本の題名には「初期の基本史料を出典と語法に注意しつつ正確に読むことにより、そうした資料から浮かんでくる聖徳太子の実像を少しでも明らかにしてゆきたい。」と言う願い、「生前から太子を仏菩薩のように尊崇していた人たちの心情についても明らかにしたい。」という意図を含んでいるとする。そして、「古代について考えるには、古代の人々の常識、思考法、心情を理解する必要がある。」とする。冒頭の氏のこの姿勢に首肯して、読み進めていく中で、若干の疑問が出てきたので、本稿では自説を交えて批判を行いたい。

 

二、金光明経によると、四天王に祈願するのは筋違いではないか

 先ず、物部守屋との合戦における聖徳太子の戦勝祈願であるが、石井氏は「戦闘に当ってまず頼るべき対象は、武神である四天王でしょう。年少の厩戸皇子が先に四天王の擁護を願い、大臣として権力を有していた馬子が四天王以外の神々の擁護を願うというのは不自然すぎます。寺塔の建立を誓って戦勝を願うのであれば、まず四天王に呼びかけるか、四天王とそれ以外の佛教擁護の神々に呼びかけるかのいずれかでしょう。つまり、二人の誓願は、一つの誓願を二つに分けて記したように見えるのです。戦闘にあたって、仏教信者が仏教の神々に戦勝を願ったり自分自身の無事を願ったりするのは不思議ではなく、軍勢の士気を高めるため、戦勝を願う大がかりな儀礼を行うのは古今の通例です。(後略)」とする。本当にそうなのだろうか。
 その前になぜ四天王かという問題だ。四天王とは、仏教の神々の中でも如来の下の、菩薩の下の、明王の、そのまた下の天の中でも帝釈天の配下で四方を守る天である。五世紀の初期、曇無讖(どんむせん)により漢訳された『金光明経』の中で、「正法として金光明経を護持する国王を四天王が守護し、その国民を安穏ならしめる」とされたことから、この信仰が始まったものだ。他に四天王が護国するという経典はない。

 以下に『金光明経四天王護国品』の概略を示す。(注1)
◆先ず、世尊(お釈迦様のこと)が四天王に対して「人王ありて、この金光明経を恭敬供養するならば、汝ら(四天王)はこれを守護せよ」と説く。これに対して四天王は「国土のいかなる場所であっても、金光明経が流布し受持されるなら、必ず国王と人民を護り、憂苦を遠離し寿命を増益し安穏ならしめる。もし隣国の怨敵が国土を侵攻するなら、夜叉諸神と共に形を隠して援助し、降伏させる」と誓う。

というものだ。普通の人の常識でこの経典を読めば、あるいは聞けば、厩戸皇子の四天王への祈願が筋違いであることが判る。いくら四天王にお願いしても、金光明経を読むなど恭敬供養しないとその願いは届かない。三上喜孝氏(注2)の著書によって、後の時代の人々の祈願例を見ると、彼らは経典通りの誓願をしているのだ。

◆類聚(るいじゅ)三代格によると、宝亀五(七七四)年の太政官符で、(意訳)「(大野城の)四王院が、新羅との軍事的緊張を背景に、国家鎮護を目的として設置され、そこで行なわれる四天王法については、僧四人が四天王の各像の前で、最勝王経四天王護国品に従って、昼は経巻を読み、夜は神咒(かじり)を誦となえること、春・秋二回の四天王修法を行なうこと、供養の布施は大宰府の庫物ならびに正税を用いること。」と定められている。
◆日本三代実録でも、貞観九(八六七)年、(意訳)「寸法八尺の四天王像を五本造り、各を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の国に与える。これらの国は西の極みにあり、境は新羅と接するため、他国に増して警護の必要がある。そこで四天王法を行い、災いを消すべきである。その方法は四天王像を安置して、国分寺および部内の優秀な僧四名に頼んで、像の前で最勝王経四天王護国品に基づいて、昼は経巻を読み、夜は神咒を誦え、春・秋二回、十七日間にわたる法要をすべき。」とある。

 さらに石井氏は、戦勝祈願を広義に捉えて「古今の通例」とされたが、調べた所この『類聚三代格』等が四天王法と呼ぶものの初見は、左記『三国遺事』(注3)での七世紀後半の唐・新羅戦の記事である。長くなるが概略引用する。
◆(六六九年)唐の高宗が仁問(新羅の重臣)を呼び、汝らは我が国の軍を請うて高句麗を滅ぼしてからは、我が国を害するのはどうしたわけかと𠮟って獄にいれ、兵五十万をして新羅を討とうとした。義相法師が留学で唐に渡り、仁問に会って事情を聞いて帰り新羅王に報告した。王が群臣を集め防禦策を相談した所、近頃明朗法師が龍宮に入り秘法を学んできたので彼に聞こうと言うことになった。法師は狼山の南の神遊林に、四天王寺を建てて道場を開設すればよいと奏上した。

 唐兵が国境に迫ったので、急遽彩色の絹で寺をつくり、草で五方に神像をつくり、密教僧十二人と明朗法師で秘密の術法を行うと、交戦前に唐船が全て沈んだ。後にこの寺を改めて建立し四天王寺とした。その後(六七一年)再び唐が五万の兵で攻めたが、この術法で敵船は沈没した。高宗は獄中の新羅重臣に二度の敗戦の理由を聞いた。この重臣は四天王寺のことを隠して、「新羅では唐の恩で三国統一できたので、狼山の南に天王寺を建てて高宗の万寿を祈っている」と答えた。高宗は新羅に使いを送り、その寺を調べさせた。新羅王は唐の使者がくると聞いて、この寺を隠すために新しい寺を建てて待った。使者が来て新しい寺を案内した所、これは四天王寺ではないと言いながら入らなかった。使者に賄賂を贈ると、使者は帰って高宗に「新羅が天王寺を建てて皇帝の万寿を新しい寺で祈っていた」と報告したのでうまくいった。

 「近頃秘法を学んだ」とある。ここから、いわゆる四天王法は七世紀後半より広まったと考えられるのだ。六世紀後半の蘇我物部戦争の時代においては未だ「古今の通例」ではなかった。その後、七〇三年、唐の義浄により『金光明最勝王経』が成立する。『金光明経』の「四天王品第六品」(注4)が、義浄により「四天王観察人天品第十一」「四天王護国品第十二」他、四~五品に拡大されて(注1)いることからも推測される。
 つまり、厩戸皇子のこのエピソードは七世紀後半以降の人々(想像するに仏教関係者ではなさそうだ)の認識で、天王寺(注5)を四天王寺と呼び変えるために創作されたものだと私は考える。

 

 

三、推古天皇は初めて仏法興隆に努めた天皇とするが、仏教的に妥当なのか

 推古天皇は、初めて仏法興隆に務めた天皇であって、厩戸皇子はそれを支えた摂政とするが、それは仏教的に見て妥当なのか。 『法華経・提婆達多だいばたった品』を読んで、我が国の(推古天皇を含む)女性たちが仏法を興隆させようと考えた、とは私には到底思えない。その理由を示すために、ここでは仏教初伝から順に辿ってみる。

 

1、仏教初伝記事

 『日本書紀』では欽明十三年(五五二)百済聖明王が経論若干巻を伝え、これが仏教初伝とされる。しかし、そこには一五〇年も後の七〇三年に義浄が成立させた『金光明最勝王経』(先にあげた曇無讖漢訳の『金光明経』とは異なる点、注意が必要)の一文が見られる。つまり、どのような経典で仏教が伝わったかについては、この記事からは不明だ。しかし、金光明経が特徴的に提示する現世利益を求めての仏教受容であるということは見てとれる。
◆(日本書紀欽明十三年)是法、於諸法中最為殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知此法、能生無量無辺福徳果報、乃至成弁無上菩提。

◆(金光明最勝王経)是金光明最勝王経、於諸経中最為殊勝、難解難入、声聞・独覚所不能知。此経、能生無量無辺福徳果報、乃至成弁無上菩提。

 その後、敏達六年(五七七)律師を受け入れ、敏達十三年(五八四)および推古元年(五九三)に佛舎利が見え、推古十四年(六〇六)に勝鬘経・法華経の講義がある。ここから『日本書紀』上では、我が国の仏教受容は(仏教なので当たり前と言えば当たり前だが)釈迦信仰で始まった。その後、舒明十二年(六四〇)に至り、無量寿経があらわれ、白雉三年(六五二)には内裏で無量寿経の講義がされている。つまり、続いて阿弥陀如来に対する信仰も取り入れられた。
 一方、『二中歴』細注によると、端政年間(五八九~五九三)に法華経が伝わり、僧要年間(六三五~六三九)に一切経三千余巻(当然ここには無量寿経も含まれるであろう)が伝わる。ここでも釈迦如来信仰そして阿弥陀如来信仰という順での仏教受容が考えられる。先ずは、釈迦如来信仰を代表する法華経での女性の扱われ方を見る。

 

2、法華経の変成男子(へんじょうなんし)

(1)『妙法蓮華経』に見える女性蔑視

 法華経の代表的な漢訳に、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(四〇〇年)があるが、ここに四九〇年法意によって加えられた「第十二品提婆達多(だいばたった)品」がある。そして、ここに「変成男子」に象徴される女性蔑視が見えるのだ。どういうものなのか、提婆達多品では、前半部で悪人成仏を説き、後半部で龍女成仏を説く。つまり悪人と女性を同列に扱っているのだ。
◆その時、舎利弗が(八歳で成仏したという)龍女に言った。「あなたは瞬時に悟りを得たと言うが信じがたい。なぜならば女身は穢(きたな)く法器にあらずとされるからだ。つまり女性は悟りを開けない。苦行や菩薩行の積み重ねで仏道はかなうものだ。女性には五障あって、一に梵天、二に帝釈、三に魔王、四に転輪聖王、五に仏身、これらにはなれないと言うのに、どうして女身で成仏できたと言えるのだ。」その時、龍女はすばらしい宝樹を持って仏に捧げ仏はこれを受け取った。龍女は舎利弗に言った。「あなたは今、私が成仏するところを見るがよい。」そして皆の目の前で、龍女は瞬時に自らの身を男子に変じて(変成男子)、菩薩行を修め宝蓮華に座して悟りを開き、全ての衆生のために妙法を説いた。

 つまり提婆達多品で、舎利弗(釈迦の弟子)の言葉で、「女身垢穢非是法器」「女人身猶有五障」と女性が差別されるものとした上で、その女性である龍女が皆の前で突然男子に変成して成仏する姿を描く。本来は成仏できない女性であっても、男性に生まれ変わって成仏できるとする。

 

(2)この変成男子を六・七世紀の中国ではどう解釈したのか

当時の注釈書では(注7)
◆『法華義疏』吉蔵(五四九~六二三)。亦男亦女 則龍女是也 本是女変為。
「男また男にしてまた女なり。則ち龍女がこれなり。本、これ女なり。変じて男となす。」
◆『妙法蓮華経文句』智顗(ちぎ 五三八~五九七)。南方縁熟宜以八相成道 此土縁薄秖以龍女敎化 此是権巧之力。
「南方の縁熟して、道、成じょうずべし。此の土の縁薄く龍女を以て教化せり。これ方便の力なり。」
◆『妙法蓮華経玄賛(げんさん)』基(き 六三二~六八二)。経当時衆会至演說妙法 賛曰 示現道成有二 一見因二見果
 「道成ずることを示現するに二つ有り。一は因を見せしむ。二は果を見せしむ。」

 吉蔵は「変成男子」という表現のみに注目し「龍女は男子でありかつ女子であり、変化前が女子、変化後が男子である」というように、女性蔑視の部部分には触れず、龍女は男女両性をそなえるので男子に変わり得ると解する。智顗も又、物語の構造にのみ注目し、「南方世界において、龍女が菩薩であることを衆生が受け入れる縁はすでに成熟しており、龍女は〈成仏の姿〉を示現する。一方この世では衆生が受け入れる縁は薄い、つまり未だ成熟していないので龍女は〈龍女の姿〉を通じて教化する」と解釈し、龍女の〈成仏の姿〉及び〈龍女の姿〉の示現は方便であるとする。基もまた同物語の構造に注目し、「龍女は成仏の因と成仏の果を見せる」と解釈し、龍女はこの世において成仏の因である菩薩行を具える〈菩薩の姿〉を見せ、南方世界において成仏の果である〈仏の姿〉を見せるとする。このように、七世紀に至ると、「女性は仏になれない」という前提に触れず、方便としての龍女変成男子論で、根本の所に蓋をしての解釈に逃げるようになったようだ。

 

(3)鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』に見える変成男子論

 中村元氏(注8)によると、維摩経は、出家の生活を否定して在家の世俗の生活の中に仏教の理想を実現させようとする経典である。そこに天女と舎利弗の問答があって、先に引用した釈迦の男女観がみえる。
◆舎利弗が天女に、「あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのか」天女「幻に一定の特性はない。なぜそれを転ずる必要があるのか」天女は神通力で、舎利弗を天女に、自らを舎利弗にならしめ、舎利弗に問う。「どうして女身を転じて男の身にならないのか」舎利弗は天女の姿で答える「私は女人の身となったが、どうしてこうなったか解らない」天女が言う「もしあなたがご自分の女人の身を転ずることができるなら、一切の女人もまた女身を転ずることができるでしょう。あなたがじつは女でないのに女人を現されたように、一切の女人も同じです。かれらは女身を現しているが、じつは女ではないのです。だから仏は一切のものは男に非ず、女に非ずと説いたのです。」

 さらに中村氏は、在家女人の勝鬘夫人の教えを釈迦が賞賛する求那跋陀羅(ぐなばったら)訳『勝鬘経』の解説の中で、「注目すべき所は勝鬘夫人という女人が未来に仏となるのであって、男子に生まれ変わってのちに仏になるとは説かれていない。変成男子ということはしょせん仏教の一部の思想であったということがわかる。」とされる。極めて強引な解釈である。少なくとも法華経には「変成男子」が書かれているのだから。

 

(4)推古天皇は「変成男子」を包含する仏教を興隆したいと考えたであろうか

 女性読者にお聞きしたい。右に説明した「変成男子」に象徴される女性蔑視の仏教をあなたは受け入れるだろうか。逆に「変成女子」男性蔑視の仏教であれば、男性である私はこれを興隆させたいと決して思わない。
 女性である推古天皇のもとでの、この時期の仏教受容は有り得ないと私は考える。『日本書紀』における厩戸皇子の時代の仏教興隆政策が事実であれば、これは推古天皇とは異なる男帝によって行われたと考えるべきである。それは誰か、『隋書俀たい国伝』には倭国の男王である阿毎多利思北孤(あめのたりしほこ)の名がある。

 

(5)ではその後、女帝はどのようにして仏教を受け入れたのであろうか

 三の1項で触れたように、『日本書紀』によると七世紀中葉になって、政権の中央(内裏での講義)で無量寿経を受容されたと考えられる。この無量寿経の教えは左記である。
法蔵菩薩が四十八願の成就を果たして、極楽浄土に阿弥陀如来として出現する。この成就した四十八願によって、衆生を極楽浄土への往生に導くと説く。魏の康僧鎧(こうそうがい)による二五二年頃の漢訳『仏説無量寿経』にある四十八願の内の第三十五目の願を次に示す。
◆設我得佛。十方無量不可思議諸佛世界。其有女人聞我名字。歓喜信楽発菩提心厭悪女身。寿終之後復為女像者。不取正覺
「たとえ私が仏になったとしても、十方の無量不可思議の諸仏世界に女人がいて、わが名を唱えて菩提心を発してその女身を憂いたのに、死んだ後にまた女として生まれ変わるというのであれば、私は悟りを開かない。悟りを開いてもしかたがない。」

 右に第三十五願を示したが、実は法蔵菩薩はすでに第十八願において男女老少のあらゆる衆生が救われると誓っている。これに加えてさらに第三十五願で女人往生の願をかけているのだ。これは判り易い。もちろん変成男子を土台にしているのだが、この世から極楽浄土へ往生しようとする場面においては男女平等だ。極楽浄土に生まれ変わる時に男性になっているというのだ。「変成男子」という毒薬をオブラートに包んだかのような展開である。これは女性にとって受け入れ易い。七世紀中葉になって、政権の中央で受容された無量寿経(阿弥陀如来信仰)は、女帝であっても興隆させたいと思わせる仏教である。

 

 

四、十七条憲法とは何か

 石井氏は「作成当初から憲法十七条と名づけられていたのか、憲法という名だけだったのか、それとも別の名の規定であったものを書紀が憲法と呼んだのか、わからない。(中略)内容を見る限り、律令制以後のものとは考えがたいものばかりです。多少手直しした個所があったとしても、基本は推古朝のものと見るのが妥当」とする。
 憲法という名についての考察には次に示すように多少異議があるが、その内容は推古朝のものとする見解には同意できる。ただ、その内容で根本的な所を氏は見落とされている。以下に自説を述べる。

 

1、憲法とは

先ず、十七条憲法がこの時期の東アジア史上においても、他に例をみない独特のものであることを示す。
「憲」の字は、『学研漢和大辞典』藤堂明保によると、目と心の上に害の上部と同じ覆いをかぶせた形で、害の口の代わりに目と心が入ったにすぎない、「人間の勝手な言行心慮をおさえ止めるきまり」という意味であって、「塞ぎ止める」という基本義を含んでいるとする。中国戦国時代の『墨子』に、
◆是故古之聖王 発憲出令 設以為賞罰以勧賢
(是れゆえに古の聖王は憲を発して、令を出だし設けて以て賞罰を為し、賢なるを勧める。)

とあって、藤堂氏の説明どおりである。次に「憲法」だが、これも同じ時代の『国語』にある。
◆中行穆子帥師伐狄囲鼓 鼓人或請以城叛 穆子不受。軍吏曰「可無労師而得城 子何不為?」穆子曰「非事君之礼也。夫以城来者 必将求利于我 夫守而二心 奸之大者也 賞善罰奸 国之憲法也 許而弗予 失吾信也。若其予之 賞大奸也 奸而盈祿 善将若何?且夫狄之憾者以城来盈願 晋豈其無?是我以鼓教吾辺鄙貳也。夫事君者 量力而進 不能則退 不以安賈貳。」
(中行穆子(ぼくし)が兵を率いて狄てきを攻め、鼓(こ)を包囲した。鼓人が城を挙げて投降してきたが、穆子は受け入れなかった。軍吏が「兵の労無く城を得るのに何故拒否するのか」と聞くと、穆子は「これは主君に仕える礼ではない。城を守りながら二心を持つのは大いなる奸である。善を賞し奸を罰するのが国の憲法だ。もしこれを許した上で、利を与えなかったら我々は信を失い、利を与えたら大奸を賞すことになる。後略」)

 又、歴代の中国正史(史記から旧唐書まで)を検索したところ、後漢書の蔡邕列伝・方術列伝・鮮卑列傳、晋書の慕容徳伝、魏書李崇崔亮列伝、隋書循吏列伝、旧唐書高祖二十二子列伝・尉遅敬徳列伝・尹思貞列伝に「憲法」が出てくる。例えば『隋書循吏列伝』、「汝等憲法を犯すと雖も、枷(か)(さ)の刑は大辛苦だろう。」とあるように、ここで言う憲法はやはり「違えれば罰を伴う行動規範」である。そしてこれら憲法が誰によって何処で定められたと言う記述がないのだ。いわゆる「不文律」のようなものであったと考えざるを得ない。

 この「不文律」が、我国の七世紀初頭に、十七条の成文憲法として前例無しに出現するのである。
 古代の「憲法」とは罰を伴う行動規範で、不文律であったと考えられる。現代憲法のような「統治の根本規範(法)」ではなく、「これに違えれば罰を伴う行動規範」だった。

 

2、北周の『六条詔書』など下敷きはあるものの、十七条憲法条文は独創的である

 神崎勝氏(注9)は、「十七条憲法のモデルについては、岡田正之(一九二九)が北周の六条詔書の存在を指摘したが、小島憲之(一九六八)は両者を比較検討した上で憲法が詔書の文章を直接参考にしたとは言えない」とする。他にも、西晋武帝の六条詔書や五条詔書、西魏の二十四条新制や十二条新制等の存在なども指摘されているが、現在文面が残っているのは『周書蘇綽(そしゃく)列伝』に記載された大統十年(五四四)の六条詔書のみである。谷川道雄氏(注10)の和訳の一部を利用して、以下に私なりにこの詔書の内容を解説する。
◆其一「心を治めることを先とする」。今日の方伯守令(地方官)の任務の重大さは、古の封建諸侯に比すべきものであって、治民の重責は中央の百官にもまして、これら地方官の双肩にかかるものである。治民にあたっての根本原則は「治心」につとめることである。故に為政者は心清水の如く形白玉の如く、自ら仁義・孝悌・忠信・礼譲・廉平・倹約を行い、たゆまぬ努力と明察を加えて、民を誘導すればその人畏敬し愛し自ずと見習うのである。
其二「教化を敦あつくする」。(この条では、人民に淳風・太和・道徳の気風を振興し、邪偽・嗜慾しよくの心を消滅させ、孝悌・仁順・礼儀を教えて、慈愛・和睦・敬譲に導く教化を論じている。)
其三「地の利を尽くす」(衣食が足りないと人民の教化はできない。この条では、地利を尽くすために春の耕土・夏の播種・秋の収穫時期方法の指導、農閑期・雨天日の農業技術指導を論ずる。)
其四「賢良を抜擢する」(臣下に賢者を得ることが治乱の岐路となる。この条では、家柄・本人の賢愚で州郡県の補佐官の選任する場合に、努力して適格者を選ぶことと、まず任用して実績で判断することなどを論ずる。)
其五「獄訟に情けをかける」(賞罰は適正であらねばならない。「至公の心」で、「愛民の心」で、公平に刑罰を実現することを論ずる。)
其六「賦役を等しくする」(租税は「平均」によって下層の者を不自由させないように、先富後貧の配慮があれば、役人の不正や民の怨みも生まれない。)

 『周書蘇綽列伝』の末尾には「太祖(宇文泰)は、この六条詔書を重視して座右に置き、百官に習誦させ、地方長官(牧守・令長)がこの六条詔書及び計帳に通じなければ官を外された。」とある。
六条詔書は、天子が地方長官へ課した規範書であることは自明である。これに対して、十七条憲法では官僚に対する行動規範の提示が大部分を占めるが、「篤敬三宝」「承詔必謹 君則天之 臣則地之」という根本方針が盛り込まれている。ここに大きな違いがある。
 十七条憲法には、第十二条のように明らかに地方に派遣する官吏・長官に対するものがあり、第十六条の農事について、第五条・第六条の訴訟に対する心得など、明らかに六条詔書の影響を受けている。しかし繰り返しになるが、十七条憲法には、他には見られない根本方針の盛り込みと、又個々の内容にも相違があって、これが独創的である。

 

3、十七条憲法の根本的なところ

 二葉憲香氏(注11)は、十七条憲法の条文について次の疑問点を指摘する。
① 「篤敬三宝~其不帰三宝、何以直枉」という仏教的立場は、僧尼令を成立させた天武・持統朝の仏教感とは合わない。
② 「承詔必謹の要求と篤敬三宝の要求とは、天皇自身が篤敬三宝による直枉(じきおう)の立場に立つことによってのみ、辛じてその矛盾の克服を考えるものであるとすることもできようが、現実には二つの思想の立場はたやすく相容れるものではない。」

 前者は、石井氏の「基本は推古朝のものと見るのが妥当」という見解で説明がつく。問題はない。根本的としたのは後者の疑問である。「二に曰く篤く三宝を敬え、(中略)三宝に帰せずんば、何を以ってか枉(ま)がれるを直さん。」と、「十二に曰く、(中略)国に二君非ず」「三に曰く、詔を承けては必ず謹つつしめ。(中略)君は即ち天なり」がそぐわない、矛盾する、これが思想史の観点から大問題なのだ。仏教(精神面)のトップと政治(現実世界)のトップとどちらが上なのかという問題である。十七条憲法はどちらもトップだとするのである。
 実はすぐに自ら否定されたものの二葉氏はその答えを出されている。天皇自身が三宝の立場に立っているのだ。
 ここでまた『隋書俀たい国伝』の出番である。まさに、多利思北孤が日出処の天子と名乗り、隋の煬帝を海西菩薩天子と呼んでいるのだ。当然、同時に自らを海東菩薩天子と意識していたはずだと古田武彦氏(注12)はいう。多利思北孤は「海西の菩薩天子の仏法を学ぶために数十人の沙門を派遣した」とある。これを学び「海東の菩薩天子(天子であり、衆生を救う菩薩でもある)」として、十七条憲法を作ったのである。

 

 

五、まとめ

 ここまでの所をまとめると、断片的ではあるが、六世紀末から七世紀初頭にかけて仏教興隆に努めた天皇は推古天皇(女帝)ではなくて、『隋書俀国伝』に現われる阿毎多利思北孤(男王)であることが判る。
 この男王は隋の楊堅・煬帝が行った菩薩皇帝の思想・政策、国家仏教とも言える政策を学び、十七条憲法制定などの政策で、これを我が国に導入したことになる。そうであれば必然的に、『日本書紀』が描く厩戸皇子の業績は阿毎多利思北孤(男王)の業績であったことになる。
 そして、これらの業績とスケール・世界が異なる「筋違いの蘇我物部戦争に於ける厩戸皇子の祈願」は、後の七世紀後半以降の人々の認識で、天王寺隠すために創作されたものということになる。
 石井氏にお教え願いたい。
 聖徳太子伝承で用いられている九州年号の存在(注5)をどのようにお考えなのか。
 推古天皇と同時期に『隋書俀たい国伝』に現われる阿毎多利思北孤(男王)の存在をどのようにお考えなのか。
 この2点に蓋をされて、聖徳太子を語ることは可能なのでしょうか。

(注1)壬生台舜『金光明経』、大蔵出版

(注2)「古代の辺要国と四天王法」二〇〇三年、三上喜孝 山形大学歴史・地理・人類学論争5、二〇〇四年

(注3)林英樹訳『三国遺事』三一書房、著者の一然は一二〇六年~一二八九年の人

(注4)「国訳一切経」赤沼智善訳、大東出版社

(注5)壬生、前掲書

(注6)四天王寺が実は天王寺であったと見える史料は多くある。
①『平家物語』に(一一七八)年に「後白河法皇の天王寺灌頂」の話が出てくる。
②『二中歴』に「倭京二年(六一九 )難波天王寺を聖徳が造る」とある。
③『太平記』(一三三二年)に楠木正成が「天王寺に参り、未来記を見た」と出てくる。
 石井氏は意識的かどうかは不明だが、聖法輪蔵・聖徳太子伝記・聖徳太子絵伝などに九州年号が使われていることに触れられていない。これらには聖徳太子は金光三年に誕生し、倭京四年に入滅したと記されている。いずれも『日本書紀』に無い、②の文献などに出てくる年号である。

(注7)白景皓『法華経提婆達多品「変成男子」の菩薩観』東洋文化研究所所報第二〇号二〇一六年

(注8)中村元「現代語訳大乗仏典3『維摩経』『勝鬘経』」二〇〇三年

(注9)神崎勝『十七条憲法の構造とその歴史的意義』立命館文学五五〇号一九九七年 

(注10)『名古屋大学文学部研究論集(史学)』一九六七年に掲載の、谷川道雄『蘇綽の六条詔書について』 

(注11)二葉憲香『古代仏教思想史研究』一九六二年

(注12)『市民の古代第5集』一九八三年

(参考)楊曽文、菅野博史訳『中国の歴史における法華経と21世紀における意義』一九九九年
    戸田裕久「法華経提婆達多品龍女成佛譚の一解釈」二〇一三年


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