『古代に真実を求めて』第二集(一九九八年十月 明石書店)へ
九州年号総覧(二中歴による)へ
古賀達也
金の品位判定に用いる石を試金石といい、転じて、価値・力量などを判定する材料となる物事を「試金石」と呼ぶが、九州年号原型論および九州年号実在論の試金石ともいえる二つの金石文について論じたのが本稿である。その一つは滋賀県蒲生郡日野町小野の鬼室神社にある鬼室集斯墓碑(朱鳥三年戊子)、もう一つは茨城県岩井市出土(冨山家所蔵)の大化五子年刻書土器である(以下、大化五子年土器という)。
この二つの金石文には朱鳥と大化という九州年号が彫られているという共通点の他、文字や碑面が故意に削られた痕跡を共に有している。これら二つの「試金石」を多元史観の立場から再検討し、九州年号原型論や実在論の一助とすることが本稿の目的である。読者諸賢の御批判をお願いする。
古田武彦氏が提唱された九州王朝説とその中心テーマの一角をなす九州年号論は通説側(大和朝廷一元通念)からの有効な反論を見ないまま今日に至っているが、古田説支持者内部では盛んな論争が展開されてきた。中でも丸山晋司氏が提唱された九州年号原型モデル(丸山モデル)は本朝皇代記などに見える九州年号群史料の精力的な収集と分析により作られたもので、九州年号研究の飛躍的発展をもたらした。ところが、後に古田武彦氏により、現存最古の九州年号群史料である『二中歴』(平安末期の成立と見られる)所収の「年代歴」に記された九州年号群モデルが原型であるとの見解が示され、以後、それに対する丸山氏からの批判があり、今日に至っている。(注1)
丸山モデルと『二中歴』の違いの中で最も論争テーマとなったものの一つは「朱鳥」が九州年号かどうかという問題であった。丸山モデルには朱鳥がなく、替わって「大化」(元年丙戌、六八六年)が六年続き、次いで「大長」(元年壬辰、六九二年)が九年間続いている。『二中歴』の場合は『日本書紀』と同じ六八六年丙戌を元年とする「朱鳥」が九年間続き、次いで「大化」(元年乙未、六九五年)が六年続く。そして「大長」はない。
このように、朱鳥の有無が両モデルを分ける争点となっていたのだが、九州年号に朱鳥はなかったとする丸山説にとって、二つの深刻な難題があった。一つは、『日本書紀』に見える朱鳥(天武十四年条、六八六年。元年のみで終わる)の存在である。『日本書紀』に記された三つの年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「大化」と「白雉」を九州年号からの盗用としながら、残る一つ「朱鳥」だけは『日本書紀』編者の造作としなければならない丸山氏の説は一貫性と説得力を欠き、丸山氏自身もこのことに苦慮されていたようだ。(注2)
もう一つの難題は鬼室集斯墓碑に刻まれた「朱鳥三年」の存在であった。もし、これが同時代金石文であれば、朱鳥年号が存在した一級史料となり、丸山モデルは否定されるからだ。そこで、氏は蒲生郡の郷土誌『東桜谷志』(日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)に掲載された同碑文後代(江戸期)偽刻説に依拠され、この難題をクリアーされようとした。
鬼室集斯墓碑は江戸期文化二年(一八〇五)に仁正寺藩(のち西大路藩)の藩医西生懐忠(にしなりあつただ)らによって蒲生郡日野町小野から「発見」され、銘文が解読、広く世に紹介された(発表は翌文化三年)。墓碑は高さ四八・八センチのほぼ八角柱状で、頭部は擬宝珠状になっており、下部の水平断面は一辺約八~九センチのほぼ正八角形である。石質は小野の石小山産黒雲母花崗岩とのこと。(注3)
・写真1 鬼室集斯墓碑:筆者撮影
・図2 鬼室集斯墓碑拓本:胡口康夫『近江朝と渡来人』より転載
その正面に「鬼室集斯墓」、向かって左側面に「庶孫美成造」、向かって右側面に問題の「朱鳥三年戊子十一月八日<一字不明。「殞」か>」(戊子の二字は小字で横に並んでいる)と彫られてあり、この銘文をめぐって発見当時から真偽論争が起きている。近年の偽作説の中で影響力をもったものが、丸山氏が依拠した『東桜谷志』所収、瀬川欣一氏の「鬼室集斯をめぐる謎」に展開された江戸期偽作説である。そこでは次のような点が偽作の根拠として掲げられている。
(1). 西生懐忠と同時代の坂本林平という人が書き残した『平安記録 楓亭雑話』に次の記事がある。
「小野村の三町ばかり上み、西明寺へ行く道の左側の方に高さ三尺ばかりの自然石あり、昔より隣郷の里人人魚塚と言い伝えり、また同村西宮と称する社地に、高さ三尺に足らぬ子石立てり、是も人魚塚と唱へ来れり、然るに此石を西生と申す医、佐平鬼室集斯等の墓なりと申し出て、高貴の御聞に達し人を惑す罪軽からず、元より右の石は能くしりはべりしに文字は決してなし。本より拠なし、只此の辺石燈篭に室徒中とあり付ければ、 是にて思い付きしならんか。」
この記述でもわかるように、直接西生懐忠と出会っている坂本林平は、この石のことをよくよく前から知っており「文字は決してなし」と前に掲げた墓石の文字がこの時には無かったことを記し、鬼室集斯の墓でないと、この時にはっきりと否定している。
(2). 江戸時代の洋風画家司馬江漢が、天明八年(一七八八)に江戸から長崎へ旅する途中、日野に立ち寄り、八月十二日にこの八角石を見に来ている。司馬江漢がこの旅のことを詳しく書き留めた『江漢西遊日記』という旅日記が後年刊行され、この石のことを次のように記されている。
「夫れより田婦案内にて人魚塚を見んと行く事四五丁、路の傍に四角なる塚を指し示す。吾が聞く八角なりと云ふに、又一人の老婦来りて、此処より西の方不動堂の前に有りと教ふる。行き見るに小さき草葺きの堂あり。ガマの大樹ありて其傍ら八角の塚あり。是れ人魚塚なり。前に僅の流れあり蒲生河是れなり。人魚塚は八角にして文字見えず。高さ一尺一二寸、下の台石横一尺三寸位、また四角の塚は救世菩薩の塚といふ。」
以上の記述が『江漢西遊日記』の本文部分であり、その時の江漢のスケッチ(別掲の図参照)にも八角石の解説として「文字ナシ」と記している。画家であり進歩的な科学者でもあった司馬江漢が、天明八年のこの時にかすかでも文字の形跡が、この珍しい八角石に彫られてあったとすれば「人魚塚は八角にして文字見えず」と日記に書くはずがなく、その文字を見落とすとは到底考えられない。
この天明八年(一七八八)より十八年後の文化三年(一八〇六)に、西生懐忠が同輩の谷田輔長とともに、この八角石が鬼室集斯の墓であると発表するのである。しかも、この石を小野から仁正寺藩庁へ持ち運び、調査したら「鬼室集斯之墓」その他の文字が陰刻されていたとしている。現在でもそれらしく読める文字が、司馬江漢にも坂本林平にもなぜ読めなかったのか。それは仁正寺藩へ持ち帰った間に、何らかの工作がされたと考えてしかるべきではないだろうか。
(3). 日野町で刻銘されている最古の石造物中山金剛定寺の三重層塔でも建長四年(一二五二)であり、昭和五八年までに七三一年経っている。石質は小野の八角石とは少し違いこそすれ、七百年もの年を経ると風化が進み、文字は殆ど読めないようになるのが普通である。一千二百年も経ての擬灰岩質の脆い石質に刻まれた文字が、日野の気象条件の中で果してそのまま残るのかどうか、日野町内各所に散在する他の石造物から比較して、甚だ疑問視せざるを得ない。
(4). 日野区内の残っている無数の中世の墓石を調査しても、葬者の名や建立の年月が彫ってあるのは未だ一個も発見されていない。葬者の名を刻するのは余程の位のある人などであり、普通に墓石に戒名などを彫るのは江戸初期以降なのである。まして七世紀後半のこの時代には墓石を建てる風習はなく、「鬼室集斯之墓」というように、何々之墓という字を彫り込む一般的な墓石の様式は、明らかに江戸時代も後期のものなのである。この形式の日野町内での墓では承応二年(一六五三)が最も古い。
概ね、以上のような疑問点を掲げ、当墓石を「発見者」西生懐忠らにより偽作されたものとしている。丸山晋司氏も自著で当偽作説を詳しく紹介し、「この碑文を(六八八年ころの作成の)本物とするためには、まず右の諸点の批判からはじめねばならぬと思われるが、それはかなり骨の折れる作業だと思われるのである。」と結ばれている。(注4)
私はこの「骨の折れる作業」を行い、すでに報告してきたところだが、それらをまとめると次の通りである。(注5)
(1). 坂本林平という西生懐忠と同時代の人物による「文字は決してなし」という証言はその石が問題の八角石を指していない可能性が高い。
なぜなら、坂本の記録『平安記録楓亭雑話』によれば、その石を「三尺に足らぬ小石」と表現しており、西生懐忠の報告に記された「一尺六寸」や司馬江漢が記した「一尺一二寸」とは大きさが異なるのである。一尺ちょっとの石碑を三尺足らずとは表現できないであろう。また、八角柱という特異な形についても触れず、単に「小石」と表現していることからも、坂本は別の石と間違っている可能性が高い。
(2). 司馬江漢はこの時の旅行記を別に『西遊旅譚』として刊行している。同書は旅行から帰った翌年の寛政二年(一七九〇)四月に出版のための原稿が成立しており、その年に出版されているようである。(注6)
その『西遊旅譚』の日野に立ち寄った当該記事にはこの八角石について「人魚墳八方なり文字あれども見えず」と記している。すなわち、文字があったと司馬江漢は述べているのだ。「文字見えず」あるいは「文字ナシ」とした先の『江漢西遊日記』とは異なっているが、史料の信憑性から見るならば、旅行から帰った翌年に成立した『西遊旅譚』に比べ、『江漢西遊日記』の成立は文化十二年(一八一五)、『西遊旅譚』に遅れること二五年であり、司馬江漢最晩年のものだ(司馬江漢の没年は文政元年、一八一八)。したがって、旅行と刊行時期が近い『西遊旅譚』の方が信頼できるのである。
こうした史料状況から見れば、江漢の『江漢西遊日記』の記事をもって、八角石に文字無しとするのは軽率のそしりを免れ得ないであろう(この件については、後に紹介する胡口康夫氏の『近江朝と渡来人--百済鬼室氏を中心として』雄山閣刊、一九九六年十月、にも同様の指摘がなされている)。
(3). 刻銘の風化については、おかれている状況によって大きく左右されるものであり、江戸時代以前の同碑についての知見がない以上、その保存状態は不明とすべきであり、したがって「風化」という一般論によって真偽の決定的判断材料とはなり得ないのではあるまいか。また、石質も近年の調査により当初の流紋岩質擬灰岩から黒雲母花崗岩と変更されていることも、風化問題についても再検討の必要性を感じさせる。
4) 百済からの渡来人鬼室集斯の墓石様式を論ずるのに、日野地域のしかも中世の石造物と比較するという方法論は不当だ。比較するのであれば、少なくとも東アジアの古代石造物とするべきである。しかも、「鬼室集斯墓」とある墓碑銘を「鬼室集斯之墓」と間違ってとらえ、「何々之墓」という一般的様式は江戸後期からとする論法は、史料事実の誤認から出発したものであり、とうてい納得できるものではない。
ちなみに「何々墓」という様式は、阿波国造土製小碑(養老七年、七二三)の刻銘に
「阿波國造
名方郡大領忌寸部
粟凡直弟臣墓」(正面)
「養老七年歳次癸亥
年立」(側面)
とあり、江戸期の墓など持ち出すまでもなく、古代から存在する様式なのである。
以上、論じたように偽作説は「説」として成立しているとは言い難いようだ。また、何よりも、後代偽作説では、偽作者がわざわざ疑われるような『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記したりするだろうか、という基本的な疑問をうまく説明できない(『日本書紀』では朱鳥は元年で終わっている)。すなわち、偽作者を『日本書紀』天智紀の鬼室集斯を知っている博学な知識人とする一方で、『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記す「うかつ者」とする、矛盾した人格に仕立て上げる「無理」を偽作説では回避できないのだ。
従って、わたしは論理の上から、同墓碑は七世紀末に成立した同時代金石文と見て問題ないという立場に至ったのである。
鬼室集斯墓研究の第一人者に胡口康夫氏がおられる(神奈川県立相模台工業高校教諭)。氏は二十年にわたって鬼室集斯墓碑を中心に研究を進められており、現地調査なども熱心に取り組まれてきた。その胡口氏がこれまでの研究の集大成ともいうべき『近江朝と渡来人 百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、一九九六年十月)を著された。
同書において胡口氏は、先に記した司馬江漢の『西遊旅譚』の他、それに先行する村井古厳『古廟陵併植物図』に当八角石の初見記事があり、「人魚墓 文字有不見 八角高サ墓トモ二尺二三寸」と記されていることを紹介。また、同書が司馬江漢の『西遊旅譚』より早く成立しており(村井古厳は天明六年に没している)、司馬江漢は村井古厳の『古廟陵併植物図』を知っていた可能性が高いことも指摘された。
・図5 村井古厳『古廟陵併植物図』:胡口康夫『近江朝と渡来人』より転載
この新史料の発見により、同墓碑の江戸期偽作説は成立し難いとされ、更に鬼室集斯の末裔を称しておられる小野の辻久太郎家に伝わる『過去帳』の次の記事を紹介された。
「鬼室集斯が庶孫ニシテ室徒中ノ
筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士
トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ名ハ代々
久右衛門ト称ス
近江国蒲生郡奥津保郷小野村
ノ住人(略)
辻久右衛門尉
宝永三年(一七〇六)正月 釈 念心」
この記事などから、小野では鬼室集斯の末裔が鬼室神社の氏子や神職として代々続いていたことも判明したのであるが、胡口論文中白眉をなすのは、碑文の字体から、同碑文が古代にまで遡る可能性を指摘されたことだ。
碑文の「室」という字のウ冠の第二画が筆を勢いよく抜き先端が細く尖った「撥形」になっていることに注目され、この形が古代に多くみられる筆跡であることから、現地の金石文調査や古代金石文との比較調査を精力的に行われた。その結果、日野地域に存在する中近世金石文には「撥形」がほとんど見られず、逆に国内各地に存在する古代金石文に多く見られる傾向であることを確認された。そしてその結論として、氏の自説であった鬼室集斯墓碑の平安後期から鎌倉後期造立説に加えて、「筆跡から考察すると造立年代を古代にまで遡らせる可能性があながち否定できない」とされるに至ったのである。
この新視点は衝撃的である。わたしは論理の上から同時代金石文と見て問題ないとしたのだが、氏の筆跡研究からの新視点は、同碑を古代墓碑と見るべきという積極的論点であるからだ。そしてそのことは朱鳥年号の実在証明へと連なり、朱鳥と同様に朱雀・白鳳(『続日本紀』神亀元年十月、聖武の詔報に見える)や本稿後段で述べる大化年号の存在ともからんで、九州年号実在の直接証拠へと進まざるを得ない論理的性格を有するのである。もちろん、胡口氏は朱鳥を九州年号として捉えておられるわけではないが、年号というシステムはひとり「朱鳥」のみが独立して存在しうるわけではないという性格を持ち、そしてその朱鳥を含む連続した年号群が近畿天皇家各天皇の在位期間と無関係に改元・継続されていること、しかも『日本書紀』にそれら「群」としての年号の存在が記されていないという史料事実は九州王朝(年号)説でしか論理的整合性を持って説明できない。従って通説が近畿天皇家一元通念に立つ限り、『日本書紀』の三年号「大化」「白雉」「朱鳥」すべてを書紀編者の造作とする立場に向かわざるを得ないのだ。
これらの明白な論理性に目を背けない限り、鬼室集斯墓碑が九州年号金石文として歴史的試金石の位置を占めること疑いない。もちろん、多元史観を是とするか、近畿天皇家一元通念を是とするかの試金石である。胡口氏の朱鳥年号実在という論点は、氏の意図とは無関係に、論理の導くところ、やがて通説と真っ向から対決する運命にあるのではあるまいか。
一九九三年四月二五日、わたしは古田武彦、安田陽介両氏とともに茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問した(同家の門は元江戸城のものだそうである。葵の紋が入った瓦が遺されている)。同家が所蔵している大化五子年土器を実見するためだ。わたしたちは同家のご好意によりじっくりと手に取って観察することができた。
同土器は高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて
「大化五子年
二月十日」
と線刻されている。この大化五年を「子」の年とするのは、『日本書紀』の大化五年(六四九)己酉はおろか、丸山モデル(大化五年<六九〇>庚寅)や『二中歴』(大化五年<六九九>己亥)ともその干支が異なる。この点、後に詳述する。
九州年号実在論のもう一つの「試金石」、この大化五子年土器は江戸時代天保九年(一八三八)春に冨山家の近くの熱田社傍らの畑より出土したもので、大化年号が彫られていたことから出土当時から注目され、色川三中著『野中の清水』(嘉永年間<一八四八~一八五四>の記録)や清宮秀堅著『下総旧事考』(弘化二年<一八四五>の自序あり、刊行は一九〇五年)などに紹介されている。また、当時の領主も当土器を見に来たとのこと。冨山家には、その時領主のおかかえ絵師による同土器が描かれた掛軸がある(絵師の号は南海)。その掛軸の絵や、色川三中の『野中の清水』の絵にもはっきりと「大化五子年二月十日」と記されているが、現在では「子」の字が故意による摩耗でほとんど見えなくなっている。(注7) おそらくこれは『日本書紀』の大化五年(六四九)の干支「己酉」と異なるため、それを不審として削られたものと思われる。
出土地の熱田社は冨山宗家が代々守ってきたものだが、昭和初期にも十個ほど土器が出土したそうである。先代の当主冨山昇氏が駆けつけた時には全てが処分された後で、「物の値打がわからん奴らだ」と昇氏は残念がられていたとのこと(冨山家の奥様よりうかがった話)。
冨山家で土器を拝見し、出土地の熱田社を見学した後、わたしと安田氏は那珂湊市へ向かった。この土器を学界に報告された地元の考古学者佐藤次男氏にお会いし、茨城県の土師器編年をうかがうためだ。(注8)
翌日、那珂湊市の佐藤氏の御自宅へうかがい、大化五子年土器の編年をたずねたところ、平安時代の土器ではないかとのことだった。七世紀末頃の同時代金石文ではないかと期待していたわたしたちには残念な見解であったが、氏の説明がいま一つ歯切れが悪いようにも感じた。ところが安田氏の粘り強い調査により、事態は新たな展開を見せる。
一九九三年七月三一日、市民の古代研究会全国研究集会(京都市で開催)において、安田陽介氏より「九州年号の原型について」というテーマで研究報告がなされた。九州年号原型の復原にあたっては、丸山モデルや『二中歴』などの後代史料ではなく、まず同時代金石文あるいはより信憑性が高い古代史料に基づくべきであるという「方法論」と、それから得られた復原のための史料事実の紹介などが報告の要旨だったが、中でも、大化五子年土器を同時代金石文と見なすべきとする調査結果は衝撃的であった。
安田氏は一旦は平安期のものとされた大化五子年土器を再鑑定するため、地元の土師器の専門家を伴われて再度冨山家を訪れ、実物に当たって編年の調査を依頼された。その結果、次の鑑定結果を得たという。
(1). 同土師器は上総型瓶と呼ばれる種類に属し、それは六世紀初頭から一〇世紀まで続いている。問題の大化五子年土器は七世紀後半から八世紀前半に属し、八世紀後半には下らない。
(2). その根拠として、胴から首へのくびれ部分が大きく、「張り(出っぱり)」が比較的大きい。これは古いものに見られる特徴であること。縦縞のヘラによる線が底部から中央部(張りの部分)まで続いており、これも古いものの特徴で、八世紀後半には下から三分の一までしか縦縞はない。また、底部にもへらによる線(“みがき”という)があり、これは六世紀から七世紀のものに一般的に現れ、八世紀後半のものに“みがき”はない。更に、ろくろ使用による土器の下に敷いた葉の跡(木葉痕)がなく、これも古いものの特徴である。
(3). 大化五子年土器は煮炊きに短期間使用された後、骨蔵器に転用されている。首から上の口縁部が割られており、これは当地の骨蔵器転用の際(再加工)の特徴である。
以上の状況から、同土器に刻まれた「大化五子年二月十日」は命日のことと理解しうること、しかも七世紀末頃の同時代金石文と見なして問題無いことを指摘された。鑑定された河合氏自身も実物を見るまでは平安期のものと認識されていたようで、その氏が実物を見た上で、七世紀後半から八世紀前半のもので八世紀後半には下らないとされたのは画期的なことである。こうして、安田氏の執念が実り、大化五子年土器は九州年号金石文としてわたしたちの眼前に再提出されたのである。この意義はいくら強調してもし過ぎることはない。しかも、骨蔵器として使用されたとする指摘は、「大化五子年二月十日」という線刻文字が命日(あるいは埋葬日か)として、その意味付けが可能となる。このことも後代偽刻説に不利であり、かつ同時代金石文説を裏づける重要な論点だ。(注9)
こうした大化五子年土器の史料批判を踏まえて、安田氏は九州年号復原にあたっては同時代金石文が優先するという視点から、共に五年が「子」の年とならない丸山モデルと『二中歴』を九州年号原型案としては不適当とされた。
これに対して、わたしは大化五子年土器と『二中歴』の大化とでは干支に一年のずれがあり、これは干支がずれた暦法が同地域で使用された場合にも起こりうる現象である。『類聚三代格』に常陸の国の戸籍の干支に一年のずれが存在したとも解しうる記事が見えるが、この点どのように考えられるかと質したところ、安田氏より、可能性としてはあるが、一年のずれが明確にわかる史料がなければ、あくまでも可能性の問題に留まる、との返答を得た。よって、次にこの「干支の一年ずれ」問題について論じたい。
古代の戸籍として「庚午年籍」は著名だが、常陸の国の庚午年籍に関して一年の干支のずれの痕跡とも思える記事がある。『類聚三代格』に見える次の「太政官符」だ。
太政官符
応以辛未年籍爲甲午年籍事
右得常陸國解稱。依令。近江大津宮庚午年籍不除。而今無有其籍。仍去弘仁二年具状言上。即依太政官同年七月四日符。就民部省令寫之。而依無庚午籍。僅寫辛未籍。午未両 年。歳次相比。定知庚午始作。辛未終成。名実之違。識此之由也。望請。依件爲定者。大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣宣。依請。
弘仁十一年五月四日
(『類聚三代格』国史大系本。異体字・旧字体は古賀が適宜改めた)
この太政官符に引用された常陸国からの解には、 (1) 常陸国には庚午年籍(六七〇)が無い。 (2) 辛未籍(六七一)がわずかにある。 (3) 従って、庚午籍の代わりに辛未籍を写すことにしたい。
(4) なぜなら、庚午の年に戸籍を造り始め、辛未の年に完成したと考えられ、両者は同一の戸籍とみなせる。といった内容が記されている。このうち、(1) と (2)
は事実を報告したもので、 (3) は要望、(4) は事実に対する解釈、といった性格であるから、ここで重視すべきは(1) と(2) の「事実」の部分である。この「事実」に対して、(4) のような解釈も不可能ではないが、ある特定の時点における人名や年齢、戸数を公的に記録するという目的を有する「年籍」である以上、そこに記された「年」は特定された一時点と解するべきではあるまいか。従って、「辛未」とあっても、その前年(庚午)のこととする(4) の解釈は、「常陸国の役人」にとっては役職上の立場や必要からなされたものであろうが、学問的史料批判の立場からは取りうる理解ではない。
そうすると、それ以外の理解がなされるべきだが、一応次の二つの理解が可能だ。
(A)文字通り「辛未年(六七一)」に造籍されたものが「辛未年籍」として常陸国には存在していた。
(B)常陸国(あるいはその一部)では、干支が一年繰り上がった暦法が使用されており、六七〇年の干支は「辛未」であった。従って、庚午年籍と同年に造籍されたものである。
ただし、統一権力者(この時期であれば九州王朝)が戸籍を制定する場合、全国一斉に造籍を命じるであろうから、常陸国がそれとは一年遅れて造籍した理由の説明がしにくく、かつ、他に「辛未年籍」の存在が見えないことから、(A)の理解はやや困難のように思われる。次に(B)の理解であるが、この場合干支が一年繰り上がった暦法の存在証明が必要である。ただ、ここで注目すべきは、この一年繰り上がった年干支の使用が事実であれば、大化五子年土器と『二中歴』の干支のずれと、同方向・同年数となっていることである。
しかも、大化五子年土器の出土が常陸国の近接した地域からであることも偶然ではないものを感じさせる。
それでは次に古代における干支のずれ存在の根拠となる別の例を紹介しよう。
(3)豊前国戸籍の証言
現存最古の戸籍である大宝二年戸籍群中の豊前国仲津郡丁里戸籍に特異な事実の存在が岸俊男氏より指摘されている。(注10) それは古代戸籍などに見える人名に十二支にちなんだものがかなりあり、それらはもともと生まれた干支に基づいて命名されたものと考えられる。しかし、豊前国仲津郡丁里戸籍に関してはある年齢層において生年干支と一年ずれる名前がかなり認められ、それらのずれが生年の翌年の干支に一致している、という現象である(岸俊男氏作成別表参照)。
・図7 岸俊男「造籍と大化改新詔」(『日本書紀研究』所収)より転載
たとえば、大宝二年は寅年で、その年に生まれた一歳の者の名前が干支にちなんだ場合、「刀良」「刀良売」という名前になるのだが、実際は大宝一年生まれの人名に「刀良」「刀良売」が集中しており、大宝二年生まれの人名には翌年の干支「卯」にちなんだ「宇提」「宇提売」「宇麻呂」となっている。こうした一年ずれの人名が持統十年(六九六)生まれの者まで遡って存在しているのである。それ以前は生年干支に一致した名前が多く、持統四年(庚寅、六九〇)生まれまでそうした現象が続く。そして、持統四年以前になると干支に一致する人名が急に少なくなり、その関係が乱れている。
岸氏はこうした現象を造籍時の混乱による錯誤ではないかとされているが、その場合、持統十年の「丙申年籍」造籍時には正しく記録しえた役人が大宝二年籍作成時にはそうした人名と生年干支のずれに気づかず、「一年」間違ったまま六年分の新規戸籍登録を行ったことになる。(注11)
しかし、この場合も干支が一年繰り上がった暦法が持統十年を境に使用されたと考えれば、こうした史料状況をうまく説明できる。しかも、持統十年(六九六)から大宝二年(七〇二)の一年繰り上がった期間内に、大化五子年も入っていることから、やはりそうした一年のずれが無関係に発生し、発生時期も偶然一致したとは考えにくいのではあるまいか。更に推論が許されるなら、持統末年から文武にかけての、こうした「混乱」は、古田武彦氏が提唱されたONライン、すなわち九州王朝から大和朝廷への中心権力の移動が七世紀末(七〇〇)に発生した、という仮説と密接に関わっていることも充分考えられるのである。
以上、七世紀後半から末期にかけての干支の一年のずれの根拠として、二例を示したが、こうした干支のずれが史実であれば、大化五子年土器と『二中歴』のずれは説明がつき、『二中歴』に見える九州年号群はその史料的価値を更に高めるであろう。(注12)
以上、二つの九州年号金石文の史料批判を試みてきたが、いよいよ残された問題について論じなければならない。それは、「削られた金石文」というテーマだ。大化五子年土器の「子」の一字が、『日本書紀』の大化年号と干支が異なるため、出土後のある時点で削られたという史料状況については既にのべてきた通りだが、実は鬼室集斯墓碑にも同様の痕跡が存在するのである。なお、同墓碑銘については今日まで少なからぬ研究や考察が発表されてきたが、この問題について触れるのは本稿が初めてと思われる。
鬼室集斯墓碑にはその八側面中、三面に刻銘がある。まず、正面に被葬者名(鬼室集斯墓)、向かって右側面に没年月日(朱鳥三年戊子十一月八日<一字不明。「殞」か>)、そして同左側面に墓碑の造立者名(庶孫美成造)と一面おきに三つの情報が記されている。それほど大きな墓碑ではないので、墓碑として必要最小限の情報が記されたものと見なしうるが、本来記されるべきもう一つの重要な情報が欠落しているとわたしには思える。それは墓碑の造立年である。
被葬者と没年月日がセットとして記されていることに比べ、造立者名のみあって造立年が欠落しているのは不審だ。もっとも、スペース的に余裕がなければ仕方がないが、同墓碑には正面の反対面がまるまる空いているのだ。また、一面おきに刻銘があることを考えれば裏面に何も記されていないというのも不自然ではあるまいか。ところが、わたしが熟視したところでは、その問題の裏面は大きくえぐりとられた痕跡が生々しく存在しているのである。文字がある三面や文字が無い他の四面と比べても、その損傷が自然の風化とは明瞭に異なっている。これらの史料状況が、「削られた金石文」という新テーマを提起した由縁である。
既に削られた痕跡のみの碑面から何かを読み取るのは、もはや推測の域を出ないが、一作業仮説として述べてみたい。先に述べたとおり、その一面にふさわしい情報、それは造立年であろう。その時期は、庶孫美成が造ったとあることから、没年からそう遠く離れた後代ではあるまい。しかも、後に削られたという運命を見る時、その造立年は後代の認識や利害からして削るべき必要性があった、とうことがまず考えられる。これらの史料状況を説明できる一つの作業仮説がある。結論から述べよう。その一面には造立年表記として「大化」年号が刻まれていた。このケースだ。こう考えた場合、先の史料状況をすべて説明できるのだ。
『二中歴』の九州年号モデルによれば、朱鳥の次に大化がある。そして、朱鳥三年(六八八)に没した鬼室集斯の墓碑が九州年号の大化年間(六九五~七〇〇)に庶孫美成により造られたと考えると、裏面には「大化○年○月之建」といったような刻銘が存在することになろう。ところがこのような刻銘は『日本書紀』成立後の後代から見ると、朱鳥の後に大化があるという状況を示し、『日本書紀』の大化・白雉・朱鳥という順番とは反してしまう。そこで、『日本書紀』成立以後のある時点において、これを不審とした者がその一面を削りとった、という理解が可能なのである。先の大化五子年土器の「子」と同じ理屈だ。もちろん、すでに当該碑面が削られ、文字の痕跡さえ見えない現状において、この仮説を証明することは困難であろう。しかし、この仮説であれば史料状況を一応無理なく説明できるのである。今は作業仮説として慎重に留保し、未来の研究テーマとしてここに提起させていただく。
本稿で取り上げた二つの金石文の他に、九州年号が記されたものとしては法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える「法興」がある。(注13)わたしは、三十幾つある九州年号のうち、法興・朱鳥・大化の年号をもつ三つの金石文のみが現存しているのは偶然だけが作用したのではあるまいと考えている。なぜなら、大和朝廷は、列島の中心権力者となった八世紀以後、自らの史書『日本書紀』編纂を初めとして、九州王朝の存在を抹殺してきたのだが、そうした時代を無事に九州年号金石文が経ることは至難の技だ。ところが、『日本書紀』中に何故だか残された「大化」「白雉」「朱鳥」は、いわば大和朝廷により公認されたこととなったため、大化と朱鳥を持つ二つの金石文は「存在」が許されたのであろう。
事は法興も同様だ。法隆寺に移管され、九州王朝の上宮法皇を聖徳太子のことにすり替えるという離れ技をもって、あの光背銘は削られる運命を免れたのではあるまいか。その離れ技を考えついた人物が大和朝廷側であったか、九州王朝側であったかは不明だが、いずれにしてもわたしはその人物に感謝せざるを得ない。貴重な九州年号金石文を守ってくれたのだから。
さて、本稿最後のテーマとして、「九州年号」というネーミングの持つ論理性にふれておきたい。九州年号という名称は、鶴峯戊申の著した『襲国偽僣考』(文政三年、一八二〇成立)に見える。それによれば、鶴峰戊申は「九州年号」という古写本を見たと記していることから、「九州年号」というネーミングはそれ以前に遡る。また、鶴峰十九歳の時の著書とされる『臼杵小鑑』にも、「日本逸年号(九州年号といふ)」「むかし九州にて立る処か。」とあり、豊後国臼杵の神主の子として生まれた鶴峰戊申(一七八八~一八五九)は「九州年号」という名称を早くから知っていたのであろう。
似たような例として、宇佐八幡文書の『八幡宇佐宮繋三全』(天明四年、一七八四成立)に「筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり」という記事が見える。これなども、九州年号の「教到」を「筑紫の年号」と理解したものと考えられ、意味するところは「九州年号」と同じだ。このように九州年号を文字通り「九州地方で作られ使用された年号」とする理解は、九州年号実在の論拠となる。なぜなら、各地の寺社縁起などに見える九州年号の分布が、九州地方に濃密であることは古田武彦氏の九州王朝説発表以後の調査により明確になった事実であり、それ以前に全国調査など行われた形跡はない。まして、江戸時代の鶴峰らがそうした分布状況を知ることは困難であり、誰かが想像でネーミングしたら、偶然その使用分布に一致したなどとは考えられのないのだ。従って、豊後地方には、古代九州王朝が制定し使用された年号の存在が「九州年号」という名称で伝承されていたと考えるべきである。
このように「九州年号」という名称自体が、その実在を証明するという論理性を持っており、この点、九州年号実在論の根拠の一つとして注目すべきである。(注14) そして、この論理性から、将来九州王朝の中枢領域より九州年号金石文が発見(出土)される可能性を指摘しておきたい。その有力候補の一つに磐井の墓、岩戸山古墳がある。同古墳は未盗掘とみられることから、将来の学術発掘により九州年号を記した磐井の墓碑銘などが出土する可能性なしとはできまい。磐井の没した当時、すでに九州年号が使用されていた時代に相当し、おそらく年号を建元したのも筑紫の君磐井その人の可能性が高い。自らが建元した年号を自らの墓碑に刻ませることは、釈迦三尊像の法興年号の例からも考えられるところ。本稿で示した二つの試金石の存在と、学理の上でも、九州王朝や九州年号の実在は動かぬところだが、この国の学界がこれを受け入れるのが先か、九州年号金石文が疑いを入れぬ学術発掘で出土するのが先か、未来は予想し難い。ともあれ、岩戸山古墳の早期の発掘調査を心から願いつつ、本稿を終える。
(1)丸山晋司『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』、アイピーシー刊、一九九二年。
(2)前掲書七九頁。「『日本書紀』中の「朱鳥」は何か」において、「朱鳥」の書紀編者による造作説を述べておられるが、論証に成功しているとは言い難い。
(3)日野町教育委員会の調査による。日永伊久男「鬼室集斯墓碑について」『滋賀文化財だより』二〇四所収、一九九四年。
(5)古田史学の会・関西例会(一九九六年八月)、同北海道例会(同年九月)、同仙台の会講演会(同年同月)で、「九州年号金石文の再検討」というテーマで研究発表した。
(6)『司馬江漢全集』1の解題による。一九九二年、八坂書房刊。
(7)「子」の字を「寅」の異体字「刀」ではないかと丸山晋司氏は疑っておられるが、わたしたちが同土器を熟視した結果、「子」の第一画と横線の右端部分がかすかに認められ、やはり「子」であったことを確認した。
(8)佐藤次男「猿島郡岩井町矢作の土師器」『茨城県の土師器集成2』、一九六五年。同「篦書土器・刻印土器」『季刊考古学十八号』、一九八七年、雄山閣刊。
(9)「大化五子年」の後世偽刻説に対して、安田氏は同研究集会で次のように反論された。
1) 『日本書紀』の大化と干支が異なる内容で、後世の人が偽刻する必要はない。
2) 同土器は煮炊きに使用された後、骨蔵器に転用されていることから、同時代に地下に埋葬されたこととなる。江戸時代に出土した時、すでに文字は彫られてあったのだから、埋葬時に彫られたと考えざるを得ない。
この安田氏の反論は妥当であり、わたしも賛成である。更に補強するならば、次のようにもいえよう。
後世偽刻説の場合、後世(江戸時代以前)の人が偽刻した後、再度埋めたということになるが、そんなケースは考えにくい。また、土器の編年を知っていなければ「大化」とは記せない。偽刻者がたまたま「大化」と記した土器が、現代の考古学の編年と一致していたとするのは無理であり、やはり土器も大化年号が彫られたのも同時代と見るほかはない。
(10)岸俊男「十二支と古代人名--籍帳記載年齢考--」『西田先生頌寿記念日本古代史論叢』所収。
同「造籍と大化改新詔」『日本書紀研究』所収。
(11)ただし、持統十年「丙申造籍」の確定した史料上の証拠はないようである。
(12)『二中歴』「年代歴」に見える九州年号群史料には、九州年号と細注による当時の事件が記されている。筆者はその細注に見える「仏教経典記事」に注目し、大和朝廷に先行した経典受容時期の考察から、それら一連の記事に九州王朝仏教受容史を見ることができるとした拙論を発表した。拙稿「九州王朝への一切経伝来 ーー『二中歴』一切経伝来記事の考察」『古田史学会報』十二号、一九九六年二月。
(13)法興を九州年号とされたのは古田武彦氏だが、その後、九州王朝説支持者から非九州年号説も出された。わたしは古田説の通り、法興は『隋書』に見える多利思北孤による九州年号であることを論じた。拙稿「法興年号の一視点」『古田史学会報』四号、一九九四年十二月。
(14)「九州年号」という名称のほか、「九州」という名称の持つ論理性から、九州王朝実在論を展開した拙論も参照されたい。拙稿「九州を論ず--国内史料にみえる『九州』の変遷」『市民の古代』十五集、一九九三年。
九州年号の実在を考察する上で、無視し得ぬ論点の一つに、朝鮮半島諸国、高句麗・新羅・百済の年号問題がある。金石文や『三国史記』などから、これら三国に年号が存在していたことが判明しているが、その存在時期が九州年号とほぼ同時代にあたる点などは興味深い。金石文や文献に現れるこれら三国の年号の実在は認めても、同じく金石文や文献に見える九州年号の実在は認めない、というのが近畿天皇家一元史観、すなわち通説の立場のようである。こうしたイデオロギー(日本列島で年号を建元しうるのは古代より近畿天皇家だけ)に基づいた通説が、東アジアや世界の歴史学に通用しないこと、自明である。したがって、教科書や学界の大家たちが、国民や世界に対して九州年号の存在をひたかくしにしているのであろう。一度、九州年号の存在(九州王朝説)が広く国民や世界に知られたならば、わが国の歴史学界が「裸の王様」となることを疑えない。
百済王伝説を持つ、宮崎県南郷村神門(みかど)神社で、年号が記された古文書が発見されている。宮崎日日新聞(一九九六年九月十四日)の記事によれば、綾織の布に墨で書いた古文書が衣服に潜み隠れているのを発見し、解読されないままになっていたものを、前宮崎大学教授福宿孝夫氏が解読。その解読によれば、「記国號」という表題を持つ同古文書には百四十九字が記されており、「帝泉帝皇明雲廿六年<為> 福智帝皇白雲元年」(<>内は福宿氏による推定)と七世紀にあたると思われる年号が記されている。
百済の年号としては、「建興五年歳在丙辰」(五三六年あるいは五九六年とされている)の銘を持つ金石文(金銅釈迦如来像光背銘)が知られている。南郷村で発見された「百済年号」は、百済が連続した年号を持っていた可能性をうかがわせ、かつ、百済王自らが「帝皇」を名乗っていたことを示すものであり、九州王朝多利思北孤の「天子自称」との関連からも興味深い。私はまだこの古文書を実見していないので、現時点では推定の域を出ないものの、六世紀から七世紀にかけて新羅や百済が独自の年号を持っていたことは、九州年号の存在時期と対応しており、この時期、朝鮮半島や日本列島において、中国とは独自に年号を建元しうる政治思想的背景が存在していたのかも知れない。今後の研究課題としたい。
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『古代に真実を求めて』第二集(一九九八年十月 明石書店)
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