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お断り:この講演記録は、現在の古田氏の考えと違っております。現在の考えを理解する一助で公開します。
<古田武彦
それでは後半に入らせていただきます。後半は二つのテーマについて申し上げたいとおもいます。最初のテーマは簡単に短く申し上げ、後の時間で大きなテーマを申し上げたいと思います。
それでは『日本書紀』神代上第五段を見てください。
『日本書紀』神代上 第五段(一書第十)
一書に曰はく、伊奘諾(いざなぎ)尊、追ひて伊奘冉(いざなみ)尊の所在(ま)すに至りまして、便ち語りて、曰はく。「汝を悲しとおもふが故に来つ」とのたまふ。答えて曰(のたま)はく、「族(うがら)、吾をな看ましそ」とのたまふ。
・・・
乃ち唾く神を号けて、速玉之男(はやたまのを)と、曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男(よもつことさかのを)と号く。凡て二の神ます。其の妹と泉平坂(よもつひらさか)に相闘ふに及りて、伊奘諾尊の曰はく。「始め族の為に悲び、思哀びけることは、是吾が怯きなり」とのたまふ。時に泉守道者(ヨモツ・モリミチビト)曰して去さく、「言有り。曰はく、『吾、汝と巳に國を生みてき、奈何ぞ更に生かむことを求めむ。吾は此の國に留まりて、共に去ぬべきからず』とのたまふ」。
・・・但し親ら泉國(センコク)を見たり。此既に不祥し。故、其の穢悪を濯ぎ除はむと欲して、乃ち往きて、粟門(あはのみと)及び速吸名門(はやすひなと)を見(みをなは)す。然るに、此の二の門、潮既に太だ急し。故、橘小門に還向りたまひて、払ひ濯ぎたまふ。時に、水に入りて、磐土命を吹き出す。
・・・
『日本書紀』神代上第五段(一書第六)
時に、伊奘諾(いざなぎ)尊曰はく、「愛しき吾が夫君し、吾は當に汝が治す國民、・・・
・・・
其の泉津平坂(よもつひらさか)にして、或いは所謂ふ。泉津平坂といふは、復別に処所有らじ。但死るに臨みて気絶ゆる際、是を謂ふか。所塞がる磐岩といふは、是泉門(いずみ)に塞がります大神を謂ふ。亦の名を道返大神といふ。
・・・
これは、ご存じのイザナギ・イザナミの話です。イザナギが、イザナミのところに追いかけていくという話です。ここに「橘小門」がありますが、これは、筑紫の博多湾岸のことであると思います。しかしその前に「乃ち往きて、粟門及び速吸名門を見そなわす」とありますが、この粟門及び速吸名門とは何か。結論から先に言えば、わたしは、これは鳴門海峡のことであると考えます。わたしだけでなく岩波古典体系の注にも、そう書いて有ります。その証拠を提示しますと、鳴門海流の回りの地図を見てください。鳴門海峡は、我々が知っている海峡のほかに、小鳴門(こなると)という海峡があります。小鳴門橋という橋もある。この小鳴門橋は、四国本土と島田島の間に架かっていますが、ここの海流を見おろしますと、激流で泳げるようなところではありません。言うならばわれわれが知っている海峡は「大鳴門」で、子鳴門橋のあるところは「子鳴門」という形で、相並んでいる。それで『日本書紀』には「粟門あわと」と書いてある海峡。ここは対岸の一方が徳島・アワ國ですから、一方の対岸の名前を取って名前を付けるやり方と考えると、ここで「粟門あわと」と言っているのは「子鳴門 こなると」のことではないか。それに対して「速吸名門 はやすい の なのと」とは何か。速吸は字面どおり、目で見たそのとおりです。「名ナ」は、九州博多である那の津(なのつ)もそうですし、信濃(しなの)もそうです。海でも河でも「水辺の土地」を意味する「ナ」です。「ト」は入り口の意味です。そうしますと「名門ナノト」が、ここ鳴門海峡の名前ではないか。
それで「鳴門海峡」という呼び名ですが、あまりに知りすぎて考えたことはなかった。ですが、あらためて考え直してみると、これもおかしいですね。「鳴門海峡」の「鳴門ナルト」という字面ですが、耳に鳴る海峡、耳のためだけの海峡のような名前が付いています。ですが見るとすごい海峡であって、「鳴門」という名前と違っています。
字は当て字なのです。やはり、ナルトのナは、先ほどと同じ「水辺の土地」の意味の「ナ」を指す。そこにルという接尾語が付いたもの。この「ル」という接尾語が付いた形式の日本語はたくさんあります。たとえば敦賀(つるが)という京都府の地名ですが、「ツ」はもちろん「津」です。「ガ」は「場所のありか」という「カ」の音便変化です。ここは「ツ」という言葉に、「ル」という接尾語が付けて、「ツル」と言っている。鳥の鶴とは関係ない。山梨県にも「ツル○○」という地名があります。これも同じではないか。考えてみれば、わたしの名前の古田も、「新しい田」に対して「古い田」という意味ではなく、一定の土地の単位を表す「フ」という地名があって、それに「ル」という接尾語が付いたもの。第一、さきほど出てきた「クシフル」という地名も同じです。「クシ」は筑紫(ちくし)の「クシ」で、そこに「フル」が付いたもの。別にオールドの意味の「フル」ではない。「フル」は地形名詞で、「フ」に「ル」いう接尾語が付いた言葉です。恐い話ですが、同じように「ソウル」の「ル」も、この接尾語の「ル」と考えることができるという問題もあります。課題として考えています。
元に戻り、名詞+接尾語の「ル」などが付いたスタイルの日本語があります。そうしますと「鳴門ナルト」の「ナ」は、先ほどと同じ「水辺の土地」の意味の「ナ」です。そこに「ル」という接尾語が付いたもの。ですから先ほどの「名門ナノト」と同じことを表しています。「ナ」を原点にして、入り口の「ト」を付けたものです。それを「鳴」という字を、音が同じですから便宜的に当てたものだ。耳にすごい海峡ではない。ですから字の意味から入ると間違う。
以上のように『日本書紀』のこの表現は、ひじょうに正確に鳴門海峡を表現している。われわれは普通、鳴門海峡を二つに分けて言わない。それを正確に、現地に大鳴門・小鳴門があるという情報をキャッチして名前を付けています。もちろん今の地形とは多少は違っていたでしょうが、弥生時代などには概略には同じだったのでしょう。このように分析してみて、わたしは驚嘆した。
さて、問題はその次です。「粟門及び速吸名門」の前です。そこに「但し親(みずか)ら泉國(センコク)を見たり。」とあります。この振り仮名センコクはわたしが付けたものです。それを従来の解釈では、岩波の『岩波古典体系』その他なんであれ、「よもつこく」として、死者の國と解釈している。原点は同じく本居宣長です。同じくその前の「泉守道者 ヨモツモリミチビト」を、死者の国を守る者と解釈する。また「泉平坂 よもつひらさか」を、死者の国の坂。それに「泉津事解之男 よもつことさかのを」を死者の国の港を守る男のように解釈している。
しかしこれは、わたしには、おかしい。『日本書紀』が鳴門海峡を、あれだけ精密に正確に、現在の地形を表現している。そうであるなら『日本書紀』の前の行の、その直前の「泉國 センコク」は、ごぞんじ大阪府和泉(いずみ)の国ではないか。
「和泉」は、大和朝廷が八世紀に佳字として二字にしなさい。そのような指示が出されて付けた名前である。本来は「和」がなく「泉」である。「和泉」では、ほんとうは「いずみ」とは読めないが「和泉 イズミ」と読ませた。ほんらいは「泉」です。そうしますと大阪府の「泉国 いづみのくに」であり、死者の国とはとんでもない。
そうしますと、あとの「泉門」とは、これは紀淡海峡のことではないか。泉国(いづみのくに)が横にある海峡ですから、「泉門」と言っているのではないか。おなじく「泉津」が出てきます。これは今わたしたちがいる大阪市内のことです。ここは「摂津」と言われていますが、変わった字を書くからだまされてしまう。日本語としての意味は簡単です。意味は「瀬津」です。瀬にある港です。それを促音便で言っているだけです。ここは、全体が海の底だった。大阪湾からもう一つ入り込んだ河内湾、やがて河内湖になったという問題は、別に説明しましたが。つまり大阪市内は、泉の国の瀬である海の部分。そこには人間は住めない。ですが入り込んだ湾岸部の泉国(いずみのくに)の一部の瀬津(せつ)です。そうします「泉津」とは、わたしたちが今いる大阪市内のことを言っています。
それで土地勘があり大変リアリティのある地名を、観念論でねじ曲げて、読んでいたという問題にぶつかってきた。
これも言っておきますが「黄」が付けば、その「黄泉国よもつくに」は、中国思想の「死者の国」です。少なくとも『日本書紀』に関するかぎり中国思想の「黄泉国」が出てきているのは、神代上第五段(一書第六)のひとつだけです。後はぜんぶ、「黄」がない「泉」ばかり。ですが「黄」がないものを、それに全部「よもつくに」と仮名をつけて、「泉國」を死者の国であるとして読んできた。これは凄いと思いませんか。本居宣長から西郷信綱さんという有名な人まで、全部大阪府を死者の国に読み変えて論じている。
では、なぜそのような間違い、わたしが正しければ間違い。「泉國」を、そのような死者の国にしたのか。その原因は『古事記』にある。そこにはすべて「黄泉」である。
『古事記』神代
・十拳剣を抜きて、後手に布伎都都(ふきつつ 此の四字は音を以いよ)逃げ來るを、猶追ひて、黄泉比良(よもつひら 此の二字は音を以いよ)坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃てば、悉に迯げ返りき。爾に伊邪那岐命、其の桃子に告りたまひしく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中國に有らゆる宇都志伎(うつしき 此の四字は音を以いよ)青人草の苦しき瀬に落ちて患ひ惚(くるし)む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと 意より美までは音を以いよ)と号ひき。
・・・・是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊邪那美神命を号けて、黄泉津大神(よもつおおかみ)と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯(おひつきし この此の三字は音を以いよ)を以ちて、道敷大神と號くといふ。亦其の黄泉(よみ)の坂に塞りし石は、道反大神と號け、亦塞り坐すとも謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲國の伊賦夜坂と謂ふ。
『古事記』では、黄泉比良「(よもつひら)」、黄泉津大神(よもつおおかみ)、黄泉戸(よみど)大神など、すべて「黄泉」です。『日本書紀』とはがらりと代わっている。だから、われわれは普通、『古事記』を先に読んで、後から『日本書紀』を読むのが普通である。ですから、われわれはイザナギ・イザナミの話は、死者の国の話である。そのように頭の中を先にセットされてしまっている。それで『日本書紀』を「黄」がなくとも、「泉國 いずみのくに」を「黄泉國 よもつくに」に変換しても、疑問を生じないで読んでいる。もちろん、これをおこなったのは本居宣長である。彼は『古事記』を元に、『日本書紀』を読みますから。ぜんぶ「泉國」を「よもつくに」の振り仮名をふって読んだ。それを岩波古典体系もはじめ、すべてが従った。
それでは『古事記』は、なぜ全て「黄泉」になったのかという問題がおきる。これは『古事記』の序文を見てください。『古事記』は、太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇に出したものですが、その『古事記』は天武天皇のことを、たいへん誉め称えている。
日本文学古典体系(岩波書店)
『古事記』の序文
臣安萬侶言す。それ混元既に凝りて、氣象未だ效れず。名も無く爲も無し。・・・
飛鳥の清原の大宮に、大八洲天皇御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體して・・・
歳大梁に次り、月侠鍾に踵り、清原大宮にして、昇りて、天位に即きたまひき。道は、軒后(けんこう)に軼(す)き、徳は周王に跨(こ)えたまひき。乾符を握りて、六合を総(ス)[ベ]天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しさに乘り、五行の序を齊へ、神理を設けて俗を奬め、英風を敷きて國を弘めたまひき。重加、智海は、浩瀚として、潭く上古を探り、心鏡は[火韋]煌として、明らかに先代を覩たまひき。・・・
ところが序文で、天武天皇について問題になる一節がある。天武天皇の御世(清原大宮)になってから、「・・・道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、・・・」とある。これは変な文章である。「軒后」は中国の黄帝のことであると書いてありますから、ここは「天武天皇のお示しになった道は黄帝以上にすばらしい。」と書いてある。これを見たら中国は怒りませんか。大軍をもって、日本に攻めてきても不思議ではない内容です。
ところが『諸橋大漢和辞典』で「軼」を引いてみると、そんなことはどこにも書いていない。これは「スギ」という動詞ではない。それでは何かと言いますと、「軼」の意味は、これは車編ですから、車に乗って先人が過ぎて行く。その先人の車で通った道を守って、後人がついて行く。つまり先人の作った道を、それを壊さずに、大事にその後を継いで行く。「軼」は、そのような意味です。
ですから「道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、」の意味は、
天武天皇は、黄帝のお示しになった道をたがえずにその後を継いで行く。
これなら中国は大軍をもって、日本に攻めてこなくとも良い。(笑い)
では、このような解釈、「軼」に「スギ」と振り仮名を付けたのは誰か。もちろん本居宣長です。本居宣長は、本文の注釈は詳しいですが、序文は簡単です。ちょっと注釈を二・三行付けたら終わり。ここに、彼が「スギ」と振り仮名を付けた。彼がこのような振り仮名を付けたのは、天武天皇を偉くさせたかったのでしょうが、これでは困る。正確に読まなければならない。
それで中国では、老荘の道は黄帝の道に始まると称されている。老荘の道を受け継いだと称するのが、道教の思想である。老荘や黄帝を尊崇するのが道教である。
ここで太安万侶が言いたいことは、天武天皇は、道教の道を正確にお守りになったと言っています。
そのとおりです。なぜかというと『古事記』ではすべて大阪府の「泉國」を「黄泉國」にした。書き直させた。ですから『日本書紀』が示してますようにに、元はすべて「泉」だった。もちろん一部は中国思想が入る一書があってもよい。しかし大部分の『日本書紀』の本文・一書は、大阪府の「泉國」しかなかった。それを天武天皇は、道教の死者の国の「黄泉國」に書き直させた。だから『古事記』は軒並み「黄泉國」です。ゾッとしませんか。太安万侶は、天武天皇の言われたとおりだと書いてくれています。
それで思い出すことがある。以下の話です。三重県伊勢市で、日本思想史学会の大会がありました。そこで鎌田さんという方。日本思想史学会の会員であり、皇學館大學の教授ですが、なりよりも伊勢の皇太神宮の学者のまとめ役。伊勢の皇太神宮を解説する学者で、生き字引のような方。その中でもっとも権威がある方。
その人が日本思想史学会の大会があったので、伊勢の内宮に会員を案内して説明役を引き受けてくれた。内宮で、その人から説明を受けた時に、えっと思ったことがある。ここ内宮は、普通は入れないけれども日本思想史学会の方だから特別に案内します。実は中の建物は、道教の方角とすべて一致している。だから、どうもこれは、天武天皇が道教に影響されたのではないかと、内部では意見を交換していますが、あまり世間では言わないことになっています。皆さんにはそっとお教えします。
わたしは聞いていたときは、そんなものかと簡単に聞いていた。ですが、これが今になって、この論証と結びついてきた。天武天皇が道教を尊崇したのは有名な話ですが、それだけでなく建物も方角その他を、道教に一致して建てさせている。
わたしは別に建物を測定して論証した論文を見たことはありません。ですが伊勢の皇太神宮の主のような鎌田さんが言うのだから、うそを言うとは思いません。
帰り道の雑談ですが、並んで「そのとき、天武天皇は、道教という最新の思想を取り入れたのではないですか。現代の学者が、マルクス主義という最新の思想を取り入れて、歴史を改竄したという話と同じですね。」と言って帰ってきた。この話には、その印象が強く残っている。
ですから、「泉國 いずみのくに」を「黄泉國 よもつくに」に変えたのは天武天皇。われわれは真面目ですから、
「・・・既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふ。」
と書いてあるから、ほんとうに誤っているから、正しく直させたと考えるます。ですが道教に合わさせている。道教に合わせるのが正しい。天武天皇は道教の思想に合わせて、歴史を改竄(かいざん)している。
以上、これも言い出すと、論証をもっと加えて説明しなければならないが、時間の関係で結論だけ言いました。
結論は、「イザナギ・イザナミは大阪府にいた」。今は三重県の熊野市にイザナギ・イザナミの墓と称するものがありますから、べつに大阪府にいても不思議ではない。イザナギ・イザナミは、関西弁をしゃべっていた。これが、このテーマの結論です。(笑い)
それで最後のテーマを移らさせていただきます。ここに『魏志倭人伝』と『後漢書』を示します。
◎『魏志倭人伝』
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳{革是}可七萬餘戸
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里
◎『後漢書』倭伝
自女王國東海度千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王
これも、経緯を言いますと、先ほど述べた松山の合田さんからお電話がありまして、狗奴国についてお話ししている中で、わたし自身も、思いもかけない答えが出てきて驚き、合田さんも驚いたという一幕がありました。
狗(=拘)奴国については、『魏志倭人伝』では、よく分からないのですが(狗と拘は同じと考える)。
次に奴國有り。此れは、女王境界の盡くる所。 其の南に狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官に狗古智卑狗有り。女王に屬さず
ここに書かれてある奴国のことは、たいへん有名です。この奴国はなぜ有名かと言いますと二回出てくるからです。そのことは研究史上ではだれでも知っていますが、一番知っていたのは、『魏志倭人伝』の作者の陳寿です。ですから陳寿は、この二つの奴国を区別しています。初めに出てくる奴国は、女王国の近くです。こんどの奴国は違います。女王国の領域の一番端にある奴国です。前の奴国とは別です。このように分かり切ったことをなぜ今まで分からなかったのか。これについて同じ奴国と考えて、円周上に並んでいるなど、いろいろ説明している人もいますし、わたしも今まで分からなかった。今度読んでみますと、同名だけど地理的にまったく別の国であると、陳寿は説明しています。
それで問題の狗奴国ですが、その奴国の南にあります。ところが「女王境界」とありますが、どのあたりか分からないから狗奴国が分からなかった。
加えて、もう一度「狗奴國」が出てきます。
『魏志』倭人伝 部分
その八年太守王[斤頁](おうき)官に到る。倭女王卑彌呼(ひみか)、狗邪國の男王卑彌弓呼と素より、和せず。倭の與載斯烏越等を遣して、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に假拜せしめ、檄を爲りて、これを告喩す。
その狗奴国と倭国は相攻撃する状態になり、中国が使者を派遣して攻撃させないように、今アメリカが中近東に使者を派遣しているのと同じように、そういうイメージのある文章がある。ですから邪馬壱国とは、仲が悪いという大変深い関係にある。しかも中国が仲裁に来るほど、仲が悪い。そこまでは分かるのですが、かんじんの狗奴国がどこにあるかは分からない。
これが分かるのが、『後漢書』倭伝です。これは『魏志倭人伝』を受け継いで書いてあるのもありますが、同時に独自史料もある。もっとも有名な独自史料は、九州博多湾志賀島から出土した金印に関する、
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀す。使人自ら大夫を稱す。倭國の南界を極むるや、光武賜うに印綬を以てす
の記事である。建武中元二年に後漢の光武帝が倭人に金印を与えたという独自史料で、南朝宋の范曄(はんよう)が、見つけてここに記載した。まさに志賀島から金印が出土したからリアルな記事であった。ところがもう一つ独自資料がある。
◎『後漢書』倭伝
女王國より東。海を度ること千餘里に至る。拘奴國は皆倭種、女王に屬せず。
同じ倭種であることは魏志倭人伝と同じ情報であるが、加えられた情報に「海を渡ること千余里」とある。この情報はまったく魏志倭人伝にはない。范曄が後漢代の独自史料を使ったと考えざるを得ない性質のものである。魏志倭人伝にあった文章をそのままひき写した文章ではない。それで合田さんと話していて、わたしも驚いたのだが、「これは長里かも知れませんね」という言葉が、飛び出した。
長里・短里の問題は、深く立ち入りませんが、中国には長里と短里があった。周代は短里である。周代にできた『四書五経』の史料は、すべて短里である。それを現代中国をはじめ、みんなが、長里で解釈するのは間違いである。そうわたしは言いました。それにたいして秦の始皇帝が陰陽五行の概念を信じて、長里という概念をつくった。今までの里を六倍にした。彼は六という数が非常に神聖であるとあると信じていたようだ。天子を引く馬の数も六頭にする。従う車の数も六の倍数にする。そのように変に縁起をかついだ。そのようなことは、司馬遷の『史記』始皇本記に書かれている。それで里単位も六倍にされた。それまでの周代の一里・七六メートルあまりから、六倍の四三五メートルに拡大された。その拡大された長里を前漢が受け継ぎ、後漢も受け継いだ。これに対して魏・西晋は、周の短里に復帰した。周を受け継いでいるとして復古した。ところが、その西晋が滅んで東晋になると、また長里に復帰した。その東晋以後、南朝劉宋・陳など、すべて長里です。以上が短里と長里の歴史です。
としますと、『後漢書』で范曄(はんよう)が、後漢代の独自史料を使ったと考えますと、この「千余里」は長里である。短里と見るべきではない。他は短里である。「一万二千里」、「四千餘里至侏儒国」などは、『魏志倭人伝』をそのまま写して書かれてある。ところが「女王國より東、海を渡ること千余里」の部分は『魏志倭人伝』にはない。
そうしますと金印の記事と同じく、後漢代の独自史料を用いて書かれていると考えるのが筋である。後漢代に短里が使われていた形跡はない。わたしも他の学者も後漢の時代は長里であると考えている。すると長里で千里は、短里では六千里になる。朝鮮海峡は三千里、海峡だけですが。六千里はその二倍になる。原点はどこか。迷っていましたが女王国と書いてありますから、原点は博多湾岸。そこから短里で六千里。関門海峡までは千里。そこから更に五千里、五倍。これでは瀬戸内海は収まらない。ハミだします。わたしも狗奴国については、以前からだいぶ苦労して考えていました。それで讃岐というサヌカイトがある古代文明の地も知ったのですが。それらは全てチャラ。すっ飛んでしまった。あるいは河野水軍の地ではないか。これは合田さんが、四国の郷土史家の見解を紹介して、どうでしょうかと尋ねていただいた。これも以前に、本居宣長が河野水軍が拘奴国ではないかと紹介しています。
またわたしが少年時代を過ごした広島県三次盆地は古来、甲奴(こうぬ)郡と言いましたし、友人がいた甲田市という町もある。これもあやしい。あやしいけれども、これも国の中心になりそうにもないし、鉄器の中心でもない。鉄器の中心は瀬戸内海では圧倒的に四国香川県の詫間が中心である。ですから鉄器を中心に考えれば、詫間が中心になるけれども、そこにはべつに「コウヌ」「コヌ」という名前はありません。ですから分裂していて、考えは星雲状態にあった。しかし今回の場合は整合性がある。後漢代の范曄が、金印とおなじく後漢代の独自史料を使ったと考えますと、范曄が短里を使ったはずはない。長里で表現している。すると瀬戸内海では収まりきれない。東まで、近畿まで来る。銅鐸国になるのではないか。そういう見通しになった。
それで近畿に「コヌ」という地名はあるのかと言いますと、存在します。『古代史の十字路 ーー万葉批判』(東洋書林)という本を二〇〇一年に出しましたが、その中で交野山(こうのやま)に触れています。これは奈良県側に生駒市高山地区といわれる所があり、そのつづきの一番高いところが交野山。今の行政区画で大阪府交野市になっていますが。ここへ奈良県の郷土史家の方に連れて行っていただいて、登ってみて驚いた。ここは三方が見おろせる。大阪府はほとんど見下ろせる。大阪城も。もちろん京都市内も、比叡山を含めほとんど見渡せる。奈良市も見える。若草山が見える。大阪・京都・奈良の三都が見おろせる。このときは「高山」の問題で訪れました。この交野山。これはもちろん当て字でしょう。交通に便利な山というわけでは、ないでしょう。この交野山は、ほんらいは神戸の「神」が付いた神野山(こうのやま)。「ノ」を「ヌ」と考えても同じことです。神の野が見おろせる山。この表現が最適なところです。
交野(かたの)市といっても、これは関西以外の普通の人には、これはほとんど、そうは読めません。交野(こうの)市と言ってしまう。しかし、これは交野(かたの)市です。それで、その「カタ」ですが、枚方もそうですが、ほんらい潟(かた)のあるところという地形名詞の日本語ですが、なぜか「交かた」と字を当てます。これは古いこの地名の呼び方。それは、譲りたくない。ですから交野(かたの)と、読めなくとも読ませれば良いのだ。そのような強引な字で、コウノまたはコノという読み方が残ったものと考えています。それで、あの山や平地は、神野と呼ばれる一大地帯です。この神野と呼ばれる地帯の一画に、銅鐸の鋳型の出るところ東奈良遺跡(茨木市)もあります。ですから拘奴(コノ)国と呼ばれる地帯は、簡単に言えば兵庫県南部・大阪府北部・京都府南部の地帯を、そう呼んだのではないか。
この考えの良いところは、問題の高地性集落が対象となる。高地性集落、これはその山のかなり高いところに集落を作っている。森浩一さんが、うまいことを言われる。「かなり登って行って、ふうふうと息切れがする。もうたくさんだと思ったところが、だいたい高地性集落にたどり着いたころである」と。このように、かなり高いところにある。これはたいへん不便な話で二重生活。普段は田を耕しているのは平地である。水があるのも平地である。弥生時代の主たる生活の基盤は平地にある。ところがこんな高いところに集落を作っても、水はないし、ふだんは住めない。簡単に言えば逃げ城である。神護石山城のようなもので、敵が攻めてきたときに逃げ込む、第二の集落です。いつも二重生活を強いられる。たいへん不便です。ところが、このような高地性集落が、瀬戸内海の北岸部、広島県・岡山県・兵庫県のところに、点々とあることはご存じのとおりだ。それが一番密度が濃いのは、兵庫県西南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部。この地帯の人は、恐怖すべき敵が目の前にいた証拠である。現実の敵が目の前にいないのなら、あんな不便なものは、わざわざ作りはしない。そこに拘奴国が存在すれば、考古学的見地から兵庫県東南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部の地帯であることが言える。
この問題もわたしの目から見ますと、倭国が国家であることに反対する人はいないと思います。弥生時代から国家は始まる。これは教科書にも書いてあります。当然文句なしに、三種の神器を中心に祭祀とする博多湾岸の国家である。それはよいのですが、それに対立する銅鐸圏ありという言葉。これも変な言葉で、そこだけ「銅鐸圏」で、国家ではない。これは、おかしいでしょう。言葉は悪いが、あの三種の神器如きのレベルのものが出ても国家なのです。それに比べて銅鐸は、銅製品のレベルから言えば三種の神器よりも、もっと技術的レベルは上回っている。しかし、それを作るところが、単なる原始共同体で国家ではない。この共同体という考えは、(京大の)小林行雄さんがマルクスの言葉を使って言ったから、その時点ではだれも反対しなかった。マルクスの言葉に逆らうものは、マルクスの敵である。反動である。いまから考えれば、思いもよらない時代の考えでした。しかし、それは過去の迷信となりましたから、それにこだわらずに考えれば、三種の神器を中心に祭祀とするものが国家なら、銅鐸を中心に祭祀とするものも国家である。その二大国家が対立していると、考えても、おかしくはない。ですから考古学的分布図との関わりが、すんなり収まってきたと考えます。
その点が仮説ですが、これで良いのではないか。文献解読でも後漢代の史料だから、長里で記載してあると考えることは筋論として正しい。それと考古学的分布図と対応していると考えることができる。
これは仮説というか、試案が入ってきますが。この二回目の「奴國」。これは京都府舞鶴近辺ではないか。籠(この)神社がある。この神社は「ノ」をいれて、かならず「コノ」神社と言う。ですから、先頭の「コ」が、神様の「コ」か、子供の「コ」か知りませんが接頭語を付けた「コノ」ですから、むしろ語幹が「ノ」で、実体を表している。
それで、この「奴ノ国」。昔は「奴ヌ国」と読んでいましたが、最近では奴隷の「奴」は、「ノ」と読んで良いのと言われていますので「奴ノ国」。なぜ舞鶴近辺かと言いますと、とうぜん「国ゆずり」という奪権の後では、出雲は倭国の支配下に入っています。広く考えれば越の国(福井・石川・富山)も出雲と仲が良かったから、そこも支配下に入ったと考えられないこともありません。ですが、それでは新潟県まで女王国の支配下に入って、その南のほうに狗奴国があるということになる。そうであってもかまわないが、それでは、そんな遠くの狗奴国と倭国が戦争していたことになり、もう一つぴんと来ない。また高地性集落が関東・東海あたりに比較してたくさんあるという話も聞かない。そうしますと越の国は、独自の勢力を持って、屈服しなかった。
それで越の国は、ストレートに倭国・天照大神の支配下に入らなかったと考えてみました。そうしますと、女王国の勢力は、舞鶴止まりである。そうしますと二番目の奴(ノ)国は、籠(この)神社のある舞鶴となる。
この考えは仮説を入れた考えですから、ぜったい間違いないというつもりは、ありませんが、一つの見通しとして考えて良いのではないか。
ここから先は研究の判断領域がガラリと変わります。今までの話とレベルが違う問題です。今までの研究とレベルが同じであると考えると間違います。「邪馬壱国は博多湾岸である」。これをわたしは疑っていない。“定説”で「邪馬台国の位置は分からない」とか。「邪馬台国は大和である」とか。そう言われても、わたしにはピンと来なかった。言うまでもないことですが、「部分里程を加えれば総里程になる」。この問題にだれも知らない顔をしている。だれも知らない顔をして「古田説」はなかった。そういうことに現在は、なっている。しかしいくら、新聞が「邪馬台国は大和である」であると書きまくり、「部分里程を全部加えても、総里程にならなくともよい」と言ってみても、それで問題が消えるわけではない。消えていくのは新聞の方であって、人類共通の論理が消えるわけでもありません。ですからいくら新聞が騒ごうが、邪馬壱国の中心は博多湾岸であるということを疑ったことはありません。ですが、全体図が分からなかった。ところが今回、最大のライバルが分かりました。すると『魏志倭人伝』の示す構図が。西日本だけだと思いますが、構図が分かってきました。それだけでも、たいへんな喜びをあじわっています。そうしますと、例の三十国の話、その範囲で考えてみたらどうなるか。これは地名比定という全然レベルの違う話です。わたしは、(安易な)地名比定について、非難をしています。これは地名比定が全部悪いと言ったのではない。誤解して、古田は地名比定そのものを比定している。そのように理解された方もあるのではないか。ですが、そうではありません。
『魏志倭人伝ぎしわじんでん』
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
たとえば末盧(まつろ)国。これを佐賀県松浦と関係があるだろう。たとえば大きな松浦湾の西の南の隅に、もう一つ小さな松浦湾がある。そこではないか。そのように地名との対応は無視はできない。
もう一つの大きな冒険だったのは、伊都(いと)国。これは末盧(まつら)国から見ると、直線方向は東北となる。しかし「東南陸行五百里到伊都國」と書いてあります。これは末盧(まつら)国からの先発方向が「東南」です。あとは流れにまかせて行く。そう言っていると考えました。これは伊都国については、福岡県前原市に「伊都(怡土)」という地名がありますから、やはりその関係を無視してはならない。
これも伊都国を佐賀県有明海の方へもっていく考え方もあるようですが、地名との対応は無視する考え方もありますが、これはやっぱいやりすぎだろう。この説は地名比定を完全に否定しなければ、成り立たない。
昔、その地名比定を完全に無視した説が出た。これは高木彬光氏です。彼はわたしの説をすっかりいただきながら、違うところは地名比定を完全に無視して良いのだと主人公である神津恭介に言わせる。彼は壱岐まで来て、そこから真東に向かい、宗像(むなかた)へ行く。宗像が末盧国です。宗像近辺に、「末盧」に関係する地名はないが、地名比定はすべきではない。そして最後の目的地は大分県まで行ってしまう。例の「南北市糴」の文言は、壱岐・対馬の間だけだと解釈して、壱岐からあとは方角が書いていない。東に行っても良い。このような形で話が進んで行く。推理小説として楽しんでいるので、その範囲ではかまいません。しかし学問としては、やはりそれはダメだろう。地名比定をぜんぶ否定したら、ぜんぶ自分の思うところへ地名をもっていけるから、たいへん便利ですがども、やはりそれは歴史学ではない。
ですから変な言い方をしますが、歴史学は数学ではなくて、物理学に似たものである。数学というのは抽象的な理屈だけで通します。ところが物理学になりますと、数学的な理屈を利用はしますが、対象自身を明らかにできるかどうかが決め所になります。その点で歴史学というものは論理は使いますが、論理だけで後は知りませんよでは、歴史学にならない。やはり実際の地名であるとか地元伝承であるとか、やはりそれとの対応を考えなければならない。地名比定全部がダメであると言っていたわけではない。
一番いけない地名比定は言うまでもない。「中心は大和である」。そのように決めておいて、邪馬台国はヤマトと読める。だから地名比定は、そこから始める。これが一番の大ぺけ。これが、ぜったいダメなのである。
今回の問題は『魏志倭人伝』の構図の大枠が分かってきました。そうしますとその大枠の中で、三十国を楽しんで、当てて考えてみたらどうでしょうと言うことです。当たっていれば幸い、そういう今までとぜんぜん違う話をしてみたい。この話は、皆さんの方がわたしより大変レベルが高いと思います。いろいろ地名を研究されている方もたくさんいますから。
そういう話をある方にしましたら、「出雲はきっと三十国の中にありますね。」、そのように言われた。博多湾岸を中心にしていて、舞鶴まで来ていて出雲がなければ、話にならないでしょう。それはそうですねと返事はしましたが、後で考えてみました。
たとえば「躬臣國」。この国、これは従来うまく読めませんでした。ところが、「躬」を辞書で引いてみますと、これの意味はかなり限定され、「躬」は、「自ら」という意味しかありません。もちろん「臣」は「臣下」という意味です。するとこれは、「躬臣國」は「自ら臣下となった国」という意味を持つことになります。これを、表音でつけた国名というかたちで理解していた。音と考えていたから、どうしてもうまく読めなかった。ところが、先ほどの「一大国」「対海国」のように、全部かどうか分かりませんが倭人が付けた表記だとします。そうしますと「躬臣」は「国譲り」の意味を持ち、自ら臣下となった国は「出雲」となる。言われた出雲は、とんでもないと言うかも知れません。ですが言ったほうの倭国は、そのような形で表現していたのではないか。読み方そのものは、「キュウシンコク」あるいは「キシンコク」と言っているかも知れませんが、意味内容は正確に、その政治と歴史関係を表現していると考えます。もちろん、これはわたしの全くの仮説であり、もちろんこれに全くこだわるつもりはありません。
「斯馬國」。これは福岡県糸島半島の志摩だろう。
もう一つや二つ、かなりハッキリしていると考える国もあります。わたしが言いたいのは、国名の二行目にあります「對蘇國」。これも解けたような気がする。「対海国」を、「海神の神霊にお答えする国」とした国名表記である。そういう理解が正しければ、当然「蘇」は、阿蘇の「蘇」です。地理的な山を言っているのではなくて、阿蘇の神霊にお答えする国。阿蘇山を含むその一角を「對蘇國」と言っているのでは。
『隋書』でも、噴火の説明ではなく、阿蘇の神霊にお答えする祭祀を含んだ説明をしています。おそらく火山の爆発で人々が全滅しないようにという祈りでしょう。そのように考えた、わたしのたんなる推量の試案です。
それから「鬼奴國きのこく」。これも、はっきり言いますと、岡山に鬼城(きのじょう)があります。
これも音が同じですから、同じところを指すとは限らないが、音が合うことは大事な問題です。「鬼奴國きのこく」は岡山の、あのあたりを指すのではないか。
ついでもう一つ。「彌奴國みのこく」、これは岐阜県の美濃国ではないと思いますが。古賀さんの郷里である久留米の南側にある水縄(耳納 みのう)連山と同じ読み方。かなり長い山並みです。これも、ここではないかと考えています。断定はできませんが。
次に、国名の終わりから二行目、そこに「支惟きい國」があります。これもキかシか断定はできません。いちおう「支惟きい國」と読んでみますと、この場合二つ可能性がある。一つは九州の場合なら博多の南、基山(きやま)の可能性がある。基肄(きい)城と呼ぶところがありますから。
ところが皆さんよくご存じ紀伊国の可能性もある。どちらを呼んでいるかは、いろいろ考えて決めたらよい問題では。
つぎは「有奴うの國」は、ご存じ高松宇野連絡船の宇野。これも音が合いすぎてこわい。これも宇野は最近の地名である。昔はそういう呼び名はなかったと言われるなら撤回します。時間がなくて、わたしも一つ一つの地名について丁寧に当たったわけではない。皆さんの方が、ずっと詳しい。どうか調べてください。
ここで一つ、わたしも三十国に当たってみて、驚いたことがある。それは「邪馬國やまこく」、これは奈良県ではないか。このように可能性を考えた。普通は九州内部で考えるなら、大分県ですか、山国があるじゃないですか。あのあたりを考える人が多く、わたしもそういうイメージでとらえていました。ところが、このような問題がありませんか。『魏志倭人伝』の話は三世紀前半の話です。神武東侵よりあとなのです。神武は実在であると、いま一生懸命、力説しております。『新古代学』第六集でも「神武古道」という題で、それを論証しております。神武の侵略・侵入というところに、近畿天皇家のはじまりが位置する。その神武侵入の時期はいつか。弥生時代中期末・後期初めである。大和平野から後期はじめから銅鐸が一切なくなる。回りの滋賀県や愛知県・静岡市西部(浜松)では、巨大銅鐸が作られていくのに、地理的には中心の奈良県には巨大銅鐸はいっさい出ない、消滅する。
先ほどの小林行雄さんの理論でも、銅鐸は村々の祭祀の道具である。大和では、いちはやく統一権力が発生し、村々の祭祀をやめたから銅鐸をお祭りしなくなった。そういう説明をされた。そう言われて考古学界の中では、それで納得されても、わたしのように外部の人間の目から見るとどうもおかしい。
いま言いましたように小林行雄さんの説も一つの仮説である。その仮説で、事実が完全に説明できればよい。「いちはやく発生した統一権力が、金属は嫌いでした。金属器がない時代に入りました」。そういう説は、わたしには理解できない。銅の鏃(やじり)が少し出る以外は、弥生の後期には金属器が出てこない。金属器が嫌いな統一権力が誕生しましたという説は、わたしには納得できない。これに対して神武が熊野から入ってきて、反銅鐸勢力として大和盆地に侵入して、中からむしばんでいった。そういう仮説、『古事記』『日本書紀』に書いてあるとおり。それを肯定すれば、見事に説明できる。
神武は架空だと、津田左右吉は言いましたが、「それではあの断絶、銅鐸の消滅をどう説明しますか」。もし津田左右吉に合えば(わたしは)そう言いたかった。ところが津田左右吉は「少年時代のトラウマで、いや考古学と文献は合わなくとも良い。大正時代初めの宮崎県での発掘は失敗しましたから」。そのように答えただろう。しかしそれは津田左右吉のトラウマであり、宮崎県知事の思い違いであり、もっと言えば本居宣長が種をまいた取り違えである。決して本来の歴史学ではない。本来は、やはり文献分析と考古学的出土物とは対応すべきものである。ですから神武は、ほんとうはいなかった。そのように言う人がいても別に構わない。それでは神武東侵なしにして、銅鐸の消滅をどう説明しますか。そう問われて、それはわたしの専門ではない。知りません。そう言ってみて神武の出発地は宮崎だ。あるいは鹿児島だといてみても、その人の小説的なイメージとしては結構ですが、歴史学としては具合が悪い。歴史学としては、考古学的一致が必要です。それなしに神武は架空(かくう)だと言ってみても、それでは歴史学の場合、あなた方の立場から銅鐸の消滅をどのように説明しますか。責任をもって答えられなかったら、やはり学問とは言えない。小説の場合はそこまで言うのは酷ですが、わたしはそのように考えます。
もう一つ。神武東侵の時期ですが、弥生時代中期末・後期初頭である。奈良県の銅鐸が消滅するのが、この時期である。それを考古学編年ではAD一〇〇年ごろとされていた。ところが、年輪年代測定法から見ると違うのではないか。年輪年代測定法からの考えでは、どうも従来の考古学編年は、七・八割ぐらいは、従来の編年よりさかのぼる。ただ後の二・三割は、大阪の狭山池の例のように逆に一五〇年ぐらい下がるのもあります。ですから絶対とは言えないが、全体の傾向としては、百年位さかのぼる。この考えを取り入れますとAD一年頃=イエスの時代と重なる。彼は一年に生まれて、三〇歳代前半に死んだ。神武も、イエスとだいたい同年代であると考えたら合うのではないか。このようにわたしは考えています。
この立場で、いろいろの資料を見直すと、おもしろいことが分かってきます。それは神武がなぜ糸島・博多湾岸の糸島(福岡県前原市)を出て、東に向かわねばならなかったのか。大陸での変動、新の王莽(おうもう)派の敗北、光武帝の反乱の成功という問題と、関わりがあるのではないか。簡単にいうと、神武は「新しん」の王莽(おうもう)派の片割れであったのではないか。神武は新の王莽の貨泉(かせん)ルートで、瀬戸内海を東に行った。しかも一番に神武に味方した吉備は、いちばん貨泉が集まってたくさん出たところである。
元に戻り、神武はイエスとほぼ同年という形になってくる。なぜこのような話をしたかというと、神武はだいたい卑弥呼(ひみか)の時代よりも現在の考古学編年では百年前、年輪年代を考えに入れると二百年ぐらい前のことである。それで、この問題で大事なことは、卑弥呼の時代には、神武の後継者は大和盆地で頑張っておった。銅鐸国家は、それを嫌がりながら対峙していた。対立して戦闘したり、婚姻を結んで和睦したりしていた。そうしますと卑弥呼の時代には、大和盆地は女王国の勢力範囲に入っていたのではないか。そういうきわどい問題が出てくる。そうしますと大和(ヤマト)という言葉。「ト」が入口という意味であるなしにかかわらず、「ヤマ」が語幹であることに変わりはない。「ト」は接尾語である。それで、もしかしたら「邪馬國やまこく、これは奈良県のことではないか。」。言っているわたし自身が、思いもかけない頭の体操となり、こわくなりました。そうしますと、とうぜん神武たちは紀州・和歌山を通って行っているので、この「支惟きい国」が、和歌山県のことであっても、おかしくはない。そのようなことになり、後は追求できていない。今日までに行おうと考えたができなかった。古田武彦著作集の第二巻『親鸞思想 ーーその史料批判』の、わたしとしては大きな問題の追求に時間をとられた。ですが、この問題は、なにも急ぐ必要はない。議論百出して、おおいに議論して決めていただければ幸いです。これで本日のメインテーマを、お話しすることが出来ましたので質問をお受けします。
質問一
『魏志倭人伝』の「一大国」や「対海国」は、いままでの考えと違って、中国が付けた名前でないなら、それでは「瀚海 かんかい」は同じく日本側が付けた名前となりますが、どのように考えられていますか。
答
「一大国」や「対海国」は中国側ではなくて、倭人側が付けた。そこで「瀚海 かんかい」ですが、初め困って、どうしてもうまく理解できなかった。辞書を引いてみると「瀚」そのものは、広いという意味です。それで、あのような狭い海を、このようには理解できないので困りました。それでサンズイ扁をとりました「翰かん」。これは速いという意味である。これなら良いのでは。
わたしは、この時代は文字がかなり形成されて、まだ固まっていない時代。かなり形成された時代ですが一〇〇パーセント形成された時代ではないと思っています。だからサンズイがある文字とない文字が、ともに混用されている段階の時代です。例をあげると金印の「委」、これは本来は「倭」である。ところが両方とも使っている。ご質問の「瀚海」に戻ります。サンズイを取りますと、書簡の意味の「翰」、あるいは鳥が並んで速く飛んで行くという意味である。これは「広い」という意味ではなく、「速い」という意味です。そうしますと、この海は対馬海流上の速い海です。そう理解し納得しました。
質問二
狗奴国の話ですが、わたしは九州の南の方向にあると思っていました。わたしは交野山(こうのさん)の見えるところに住んでおいます。狗奴国が銅鐸の国であるというイメージですが、具体的には、どのあたりで邪馬壱国と狗奴国が戦争していたのか。狗奴国の中には獅子身中の勢力である神武がいた。それで狗奴国が挟撃されていった。地図上で、どのようなイメージで戦ったのか。それから韓国の「ソウル」という地名も倭語の可能性があるとのことですが、どのように考えておられるのか。
答
狗奴国の位置について、同じくわたしも、九州の南の方向にあると考えていました。
邪馬壱国と狗奴国の戦闘状況を説明しろという、たいへんおもしろすぎる問題です。一つ言えることは、高地性集落の分布図が示唆を与えています。これは動かないで残っている。それから見ると一番の激戦地だと想定されるのが、兵庫県東南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部の地帯です。それについで存在しますのが、瀬戸内海の広島県南部から岡山県南部・兵庫県東南部に高地性集落がたくさん連なっています。それで敵が攻めてこないのに趣味道楽では城は作りませんから、やはり抗戦地になっていたのではないか。そのような目で、高地性集落の分布を見直してみる。有名な山口県の先生の研究された厖大な高地性集落を調査した本がある。森浩一さんとお話ししたときに、読めば読むほどスルメのように味がある本である。わたしも、そう思います。ですから高地性集落が、この問題の重要な参考資料です。
もう一つある。これはそんなことを言われても困ると言われそうだが、戦いの結果は、おそらく瀬戸内海の海の底に沈んでいるのでは。わたしは海底考古学にひじょうに期待をしています。イタリアなどは、地中海で考古学調査のために潜水艇を作った。日本でつくれない理由はない。それでぜひ瀬戸内海あたりを潜水艇で探索してもらえば、思わぬ交戦のあとが出てくるのではないか。
二つ目の質問の、韓国の「ソウル」という地名。うかつに言うことは出来ませんが、話の骨格はハッキリしています。それは中国に『山海経せんがいきょう』という書物がありまして、その中に、「倭」という言葉がはじめて出てくる。
蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。(山海経、海内北経)
結論から言いますと、その「蓋国」は現在の北朝鮮平壌(ピョンヤン)付近を中心とする国である。
この文章の表現は、どう見ても海の向こうに、倭があるという表現ではない。現在の朝鮮半島の南半部は、倭と呼ばれていたと理解せざるをえない。
それに対して『三国史記』という本に百済のことが出てくる。何かと言いますと高句麗の建国の英雄に朱蒙がいます。その第二夫人が、第一夫人にいじめられて長男・次男を連れて高句麗を脱出した。そして今のソウル・扶余の方へきて、兄が海岸を、弟が陸地を治めた。兄が失敗し弟が統一したという有名な話だ。それで自分の国を、「十済」と称した。「十済」とは、「十姓済民」のことである。いろいろな十の姓を持つ民を、われわれが救済した。これは要するに天照(あまてる)の反乱を、「国ゆずり」と美しい言葉で言う。それと同じことである。実際は自分たちが侵略して征服した。それを十の姓を持ついろいろな氏族を救ったから「十済」と称した。そういう美しい大義名分を建てて、そう言った。それがさらに進展して百の姓を持つ民を救ったから「百済」と名乗った。言うならばさらに九十姓をもつ人々を侵略した。それを百の姓をもつ氏族を救ってやったと称して「百済」と名乗った。
ところが不思議なことに日本人はだれ一人「百済ひゃくさい」という中国式の読みはしない。また「百済 ペクテェ」という韓国・朝鮮の読み方もしない。みんな「百済 くだら」という言い方をします。この「百済 くだら」という言い方は、自然地名であると思います。下松(くだまつ)という地名が下関にありますが、果物の「くだ」と同じ「豊かな」という意味だと思う。羅(ら)は村・空の「ら」で接尾語です。指す地域は朝鮮半島南東部ですが、この言葉のもつ意味は日本語です。朝鮮半島に日本語ありという問題。これが第一点。
次に大事なことは、百済(ペクテェ)は間違いなく政治地名です。しかし百済(くだら)は実り豊かなところという意味の自然地名です。そこから先は、わたしの考えです。政治地名が先に出来てから、それをわたしは使いたくない。自然地名をあたらしく作って使います。そんな例をわたしは見たことはない。実際そんな例はない。そうであれば自然地名は先に消えたことになる。とうぜん自然地名の「百済 くだら」が早くでき、政治地名の百済(ペクテェ)が遅くできた。いかなるイデオロギーやナショナリズムにも関係なく、それが人間の理性による理解です。ですから朝鮮半島南西部は百済(くだら)と呼ばれていた地帯だった。そこへ騎馬民族の侵略と征服があった。救済してやったという大義名分をかかげて「十済」。さらに侵略を拡大して百済(ペクテェ)。ですから朝鮮半島南西部にいる人々は、百済(ペクテェ)を使え。それでなければ、われわれの支配を認めたことにならない。ですから、そこにいる人々はみんな百済(ペクテェ)を使います。
にもかかわらず、日本列島にいる人々は、そんなことは知らない顔をして、百済(くだら)と言っている。みんなが使っている。このような事実のもつ意味は絶大である。朝鮮半島南西部は百済(くだら)と呼ばれる日本語の使われる土地だった。そういう前提で考えなければ、事実を説明できない。
このような事実は『山海経せんがいきょう』と一致する。朝鮮半島南半は、「倭」と呼ばれていた。「倭」と呼ばれていたなら、倭人がいて、倭語が使われていて当たりまえです。倭人が「十済・百済」の被征服民。このように考えています。
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制作 古田史学の会
著作 古田武彦