『新・古代学』 第7集 へ
新・古典批判 続・二倍年暦の世界 古賀達也(『新・古代学』第八集)
古賀達也
古代日本列島において、倭人は一年を二つに分けて二年とする暦法、即ち「二倍年暦」を使用していたことが、古田武彦氏により明らかにされた。(1) それは魏志倭人伝と魏略の次の記述から導き出されたものだ。
「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(倭人伝)
「その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計して年紀となす」(魏略)
倭人伝に記された倭人の年齢、「百歳あるいは八、九十歳」を従来の論者は「誇張」として退け、真面目に取り扱ってこなかったのであるが、古田氏『『魏略』の倭人記事は一年を春と秋とで区切る、二倍年暦を指し示したものであり、従って倭人の年令は五十歳、あるいは四十〜四五歳と理解できるとされた。
一方、『三国志』に死亡時の年齢が書かれている九十名(全三百三十二名の二十七%)について、その年齢を調査した結果、平均は五十二・五歳であり、このうち、とくに高齢者であるため記載された例をのぞくと、その没年齢は三十代と四十代が頂点となっていることを明らかにされた。
これらの年齢に比べると倭人は「約二倍の長寿」となっていることからも、倭人の年齢が二倍年暦によっていることを、実証的に論証されたのであった。
この二倍年暦の発見により、『古事記』『日本書紀』の天皇の寿命が平均九十歳くらいである点も、リーズナブルな理解が可能となること(2) 、また浦島太郎の伝説(丹後風土記)が六倍年暦で書かれていること、聖書の『創世記』には、一四倍年暦(アダムの系図)、十二倍年暦(セムの系図)や二倍年暦による記載があることなども指摘され、これらを多倍年暦と名づけられた。(3) 更には二倍年暦の淵源がパラオ諸島を含む太平洋領域であったとする仮説へと展開されたのである。(4)
また、古田学派研究者からも二倍年暦をテーマに好論が発表されている。(5) わたしもこれまで二倍年暦の研究を手がけてきたが、最近、東洋や西洋の古典中に多くの二倍年暦の痕跡を見出すに至った。本稿で取り上げる仏教経典の他、それはヨーロッパ古典 (6)、中国古典(7) に及び、その論理の赴くところ、従来の古代像とは異なった新たな古代像が見えてきたのである。
鳩摩羅什(三五〇〜四〇九頃)訳、『妙法蓮華経』「信解品第四」に長者窮子の比喩が見える。そのあらすじは次の通りだ。
家出した長者の息子が他国を五十余年間放浪し、困窮して故郷へ帰ってきた。息子には長者が父であることがわからなかったが、長者は家出した息子であることがわかり、父親であることは伏せて、息子を下僕として雇い二十年間働かせた。長者が病にかかり命が終わろうとする時、国王や大臣、親族を集め、その下僕が息子であることを明らかにし、相続させた。
このような説話であるが、長者と息子の年齢に注目すれば、仮に息子が二十歳の時、家出したとすれば、その後五十年の放浪と二十年の下僕生活が経過していることから、長者が親子の関係を明らかにした時、息子は九十歳近くであり、長者は百歳を越えてしまう。当時のインド人の平均寿命が何歳かは知らないが、現代でも考えにくい高齢説話である。ところが、この説話が二倍年暦であれば、この時、息子の年齢は約五五歳(家出時二十歳+二五年間放浪+十年間下僕)となり、父親も七五歳ぐらいとなり実在可能な年齢による説話として理解しうるのである。
「法師功徳品第十九」にも次のような表現が見え、一年間が六ヶ月と見なしうるようである。
「次第に法のごとく説くことが、一ヶ月・四ヶ月から一年に至るであろう。」(8)
最初の一ヶ月から三ヶ月たった四ヶ月、それから同じく三ヶ月たてば、合計六ヶ月となり、それが一年ということであれば、これは二倍年暦を前提とした月数表現と思われるのである。もし一倍年暦での表現であれば、一ヶ月、四ヶ月からいきなり十二ヶ月たる一年へと飛ぶのは不自然ではあるまいか。
先の「信解品第二」の比喩は、弟子の須菩提(スブーティ)らが仏陀(世尊)に述べた話しとして記されていることから、仏陀や弟子達は二倍年暦を前提として会話していたことになる。そうであれば、釈迦の時代のインドは二倍年暦であったことになるのだが、法華経の成立は紀元五十〜百五十年頃とされており、これは釈迦没後数百年後のことである。従って、同説話が正しく伝わったものなのか、あるいは本当に仏陀と弟子の会話であったのかが問題となろう。この点が証明できなければ、法華経を史料根拠として仏陀の時代が二倍年暦であったとは即断できないのである。
仏陀の言行を忠実に祖述するという姿勢で編集された初期経典に阿含経がある。その中の『長阿含経』は四一〇年頃、竺仏念と仏陀耶舎によって漢訳されているが、パーリ語経典にも現存している。これら阿含経典群の成立には諸説あるが、紀元前一世紀にはほぼ現在の形に編集され、文字に記録されたようである。(9) いずれにしても、仏典の中では古い部類に属するものだ。
この『長阿含経』の中に、昔は人の寿命は八万歳だったが今では百歳以下になったという仏陀の言葉が記されている。
「我れ今、世に出づるに、人寿の百歳は、出でたるが少なく、減ずるが多し。」(巻第一、第一分初、大本経第一)
「此の三悪行の展転して熾盛となり、人寿は稍やや減じて三百、二百となる。我が今時は、人は乃至ないし百歳なり。少しく出でて多く減ず。」(巻第六、第二分、転輪聖王修行経第二)(10)
人の寿命が段々と減少してきたという仏陀の認識は、「創世記」(『旧約聖書』)の記事に類似していて興味深いが、今、問題となるのは仏陀の時代の人の寿命が、多くは百歳以下で百歳以上は希であるという仏陀自身の発言である。これが一倍年暦であれば高齢化社会と言われる現代日本以上の超高齢化社会となってしまうが、二倍年暦であれば「五十歳以下」ということになり、古代人の寿命としては極めてリーズナブルである。こうした仏陀の言葉とそれを伝えてきた弟子達を信じる限り、先の法華経の分析でも述べたように、仏陀の時代のインドでは二倍年暦が使用されていたと考えざるを得ないのである。そして、少なくとも法華経の説話部分は仏陀の時代の二倍年暦による説話が比較的正確に伝承されていたという、大乗経典成立に関わる史料批判へと連なっていくのであるが、本稿のテーマではないので触れない。
この他にも『長阿含経』には次のような注目すべき年齢表記がある。
「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋すばつと曰う。年は百二十、耆旧きぐにして多智なり。」(巻第四、第一分、遊行経第二)
「昔、此の斯波醯しばけいの村に一の梵志有りき。耆旧きぐ・長宿にして年は百二十なり。」(巻第七、第二分、弊宿経第三)(11)
初めの文は最後の仏弟子、須跋(すばつ スバッダ)の記事であるが、共に百二十歳の老人(耆旧きぐ)に関するものだ。これらも二倍年暦で理解すべきものであり(一倍年暦の六十歳に相当)、『長阿含経』は二倍年暦で基本的には祖述されていると判断できる用例と言えよう。更にここで注目すべきは、この「耆旧きぐ」という言葉(漢訳)だ。老人を表す漢字はいくつか存在するが、この「耆き」という字以外にも「耋てつ」「耄ぼう」そして最も一般的な「老」がある。そして、それらの意味は次のように説明されている。
「耆」 六十歳の称。また、七十歳以上の称。
「老」 七十歳の老人。あるいは五十歳以上をいう。
「耋」 八十歳の称。また、七十歳、または六十歳という。
「耄」 九十歳の称。また、八十歳、または七十歳ともいう。
(新漢和辞典による。大修館)
このように、それぞれ複数の意味を有しているが、今問題としている「耆」の第一義は六十歳とされていることは注目されよう。すなわち、『長阿含経』を漢訳した竺仏念らは、二倍年暦を知っていて、百二十歳の老人に対して、老齢を意味する数ある漢字の中から一倍年暦に換算した上で、六十歳の意味を持つ「耆き」の字を選んだのではないか。この可能性である。わたしには偶然とは思えない漢訳者の意志を感じるのだが、いかがであろうか。
ちなみに、竺仏念と共に漢訳に携わった仏陀耶舎はカシミール、あるいはガンダーラの出身とされているが、同地方には仏陀以後も永く二倍年暦の習慣が残っていたのではあるまいか。そうすれば、仏陀耶舎は二倍年暦の存在を知悉した上で、当時既に一倍年暦であった中国に伝えるため、漢訳にあたり、「耆き」の一字を選び抜いた、その可能性を無視できないように思われるのである。
さて、このように仏陀自らが二倍年暦で語っていたとなれば、その年齢は仏陀自身にも適用しなければならないこと、論理的必然である。とすれば、従来八十歳とされてきた仏陀の入滅は四十歳となり、これも当時の人間の寿命としては極めてリーズナブルである。そして二九歳(一説では十九歳)での出家も、十四〜五歳の頃となる。
こうして、二倍年暦という視点で仏陀の生涯を見なおしたとき、その様相は従来のものとは一変する。すなわち、早熟の天才思想家による伝導の生涯は実質二五年間の事となり、若き青年宗教家仏陀としてその伝記は書き換えを迫られるのである。
なお、史料批判上の厳密性から付言すれば、『長阿含経』には明瞭な一倍年暦の記述も存在する。仏弟子、迦葉(かしょう カーシヤパ)による次の発言部分である。
「此の間の百歳は、当まさに刀*利天上の一日一夜に当たるのみ。是の如くして亦また三十日を一月と為し、十二月を一歳と為す。」(巻第七、第二分、弊宿経第三)(12)
刀*は、JIS第3水準ユニコード5FC9
ここに現れる一倍年暦と他の部分の二倍年暦との関係は複雑だ。たとえば成立時期が異なるのか、あるいは二倍年暦と一倍年暦が混在・併用されていた時代であったのかも知れない。これは、他の古典においてもしばしば見られる現象であり、本テーマを論じる際に充分な注意を必要とする問題である。ちなみに、この弊宿経のみは「如是我聞」で始まらず、仏陀滅後の出来事が記されており、『長阿含経』の中でも特異な経とされる。
仏教の多数の諸聖典のうちでも最も古く、歴史的人物としての仏陀の言葉に最も近いとされる経典は『スッタニパータ』(パーリ語)であるが、その中にも二倍年暦が見える。
八〇四 「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。」
一〇一九(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」
中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。
同じくパーリ語経典で、仏陀の没伝が記されている『大パリニッバーナ経』にも次の記事が見える。
「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。」
「スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。スバッダよ。わたしが出家してから五十年余となった。正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。」
中村元訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』岩波文庫、二〇〇一年版。
これらパーリ語による原始仏教経典はいずれも漢訳されておらず、先の『長阿含経』や『法華経』とは趣を異にして、素朴である。ブッダの生の声を最も忠実に伝えているといわれるパーリ語仏典においても、「百二十歳」という二倍年暦としか考えられない年齢表記が見え、仏陀の時代が二倍年暦であったことは確実と思われる。そして、仏陀自らが八十歳の老齢に達したと述べていることから、これも二倍年暦であり、実態は四十歳のこととなる。
仏教史研究において、仏陀の生没年は大別して有力な二説が存在している。一つは仏陀の生涯を西紀前五六三〜四八三年とする説で、J.Fleet(1906,1909),W.Geiger(1912),T.W.Rhys(1922)などの諸学者が採用している。もう一つは西紀前四六三〜三八三年とするもので、中村元氏による説だ。他にも若干異なる説もあるが、有力説としてはこの二説といっても大過あるまい。(13)
前者は南方セイロンの伝承にもとづくもので、アショーカ王の即位灌頂元年を西紀前二六六年と推定し、その年と仏滅の年との間を南方の伝説により二一八年とし、仏滅年次を前四八三年と定めたものだ。(14)
後者はギリシア研究により明らかにされたアショーカ王の即位灌頂の年を前二六八年とし、仏滅の一一六年後にアショーカ王が即位したという『十八部論』などに記された説に基づき、仏滅年次を三八三年としたものである。(15)
すなわち、仏滅の約二百年後にアショーカ王が即位したとする南方系所伝(セイロン)と約百年後とする北方系所伝(インド・中国)により、二つの説が発生しているのだ。この現象はセイロンなど南方系所伝が二倍年暦で伝えられ、北方系所伝が一倍年暦により伝えられたため生じたと理解する以外にない。このように、仏滅年次の二説存在もまた二倍年暦の痕跡を指し示しているのである。
ちなみに、古代ローマの政治家・博物学者である大プリニウス(二三〜七九)は、最長寿の人間はセイロン島に住み、その平均寿命は百余歳だとしていることから、一世紀に於いてもセイロン島では二倍年暦による年齢表記がなされていたことがうかがえる。(16) 従って、セイロンでは仏滅やアショーカ王即位年などが二倍年暦で伝承されてきたこともうなづけるのである。
結論として、仏滅の実年代は中村元氏による西紀前三八三年とするべきであるが、生年はそれから八十年を遡った前四六三年ではなく、四十年前の前四二三年となること、仏陀の没年齢も二倍年暦による八十歳であることから明らかであろう。この二倍年暦の史料批判による仏陀の生没年「西紀前四二三〜三八三年」説をここに新たに提起したい。
(注)
(1) 古田武彦『「邪馬台国」はなかった』一九七一年、朝日新聞社。現、朝日文庫。
(2) 古田武彦『失われた九州王朝』一九七三年、朝日新聞社。現、朝日文庫。
(3) 古田武彦『古代史をひらく独創の十三の扉』一九九二年、原書房。
(4) 古田武彦『古代史の未来』一九九八年、明石書店。パラオでは六ヶ月が一年(RAK)で、その後、また同じ名称の月が六ヶ月続く。
(5) 和田高明「『三国史記』の二倍年暦を探る」、『新・古代学』第6集所収。二〇〇二年、新泉社。
(6) 西村秀己「盤古の二倍年暦」、古田史学会報五一号所収。二〇〇二年八月、古田史学の会編。
(7) ホメロス『オデュッセイア』、ヘロドトス『歴史』、『旧約聖書』、プラトン『国家』、アリストテレス『弁術論』、セネカ『人生の短さについて』、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』、他。
(8) 『論語』、『孟子』、他。
(9) 三枝充悳『法華経現代語訳(中)』一九七四年、第三文明社。
(10)三枝充悳・他校注『長阿含経I 』解題による。一九九三年、大蔵出版。
(11)三枝充悳・他校注『長阿含経I 』一九九三年、大蔵出版。
(12) 同上(10)。
(13) 同上(10)
(14) この二説の他にも西紀前六二四〜五四四年とする説もあるが、これは十一西紀中葉を遡ることができない新しい伝承に基づくものであり、学問的には問題が多いとされる。
(15) 中村元『釈尊伝ゴータマ・ブッダ』一九九四年、法蔵館。
(16) 同(14)。
(17) ジョルジュ・ミノワ『老いの歴史』(一九八七年。邦訳は一九九六年、筑摩書房刊)による。
司馬遷の『史記』によれば、黄帝・堯・舜の年齢が百歳を越えていることから、夏王朝前後の中国は二倍年暦であったことがうかがえる。他方、『三国志』では一倍年暦で記されているにもかかわらず、その倭人伝においては二倍年暦による倭人の高齢(八十〜百歳)が何の説明もなく記されていることから、この時代既に二倍年暦という概念が中国では失われているように思われる。
管見によれば、『管子』に次のような二倍年暦と考えざるを得ない記事があることから、周代の春秋時代は二倍年暦が続いていたと考えられる。
「召忽しょうこつ曰く『百歳の後、わが君、世を卜さる。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺きゅうを奪うや、天下を得うといえども、われ生きざるなり。いわんやわれに斉国の政を与うるをや。君命をうけて改めず、立つるところを奉じて済おとさざるは、これわが義なり』。」(『管子』大匡編)
※訳は中国の思想第8巻『管子』(徳間書店、松本一男訳)による。
斉国の王子、糺の養育係だった召忽が臣下の忠誠心のあり方について述べた件である。王子が百年後に死んだら自らも殉死すると主張しているのだが、ここでの百歳は二倍年暦と考えざるを得ない。当時の人間の寿命を考えれば、たとえ王子が幼年であったとしても百年後に世をさるというのは現実離れしていて、表現として不適当である。やはり、この百歳は二倍年暦であり、一倍年暦の五十歳と見るほかないのではあるまいか。それであれば、人間の寿命としてリーズナブルである。
同じく周代の戦国時代における二倍年暦の例として、『列子』に多くの記事が見える。
1) 「人生れて日月を見ざる有り、襁褓きょうほを免れざる者あり。吾われ既すでに已すでに行年九十なり。是れ三楽なり。」(『列子』「天瑞第一」第七章)
【通釈】同じ人間と生まれても、日の目も見ずに終わるものもあり、幼少のうちになくなるものもある。それなのに、自分はもう九十にもなる。これが三番目の楽しみである。
2) 「林類りんるい年且まさに百歳ならんとす。」(『列子』「天瑞第一」第八章)
【通釈】林類という男は、年がちょうど百にもなろうという老人である。
3) 「穆王ぼくおう幾あに神人ならんや。能く當身とうしんの楽しみを窮きわむるも、猶なほ百年にして乃ち徂ゆけり。世以て登假とうかと為す。」(『列子』「周穆王第三」第一章)
【通釈】思うに、穆王とても神ではない。一身の楽しみは皆やり抜いたが、やはり百年もすればこの世を去ってしまったのである。世間ではこれを遠く天に上ったと言っている。
4) 「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(『列子』「周穆王第三」第八章)
【通釈】この下僕がいうには、「人の一生の内、半分は昼であるが、半分は夜である。自分は昼の間は人のために働く下僕の身で、確かに苦しいには相違ない。けれども夜は人の上に立つ君主であって、その楽しみは比べるものとてない。してみれば、何も恨みに思うことなどありませんよ」とのことであった。
5) 「太形(行)・王屋おうおくの二山は、方七百里、高さ萬仞じん。本冀き州の南、河陽の北に在り。北山ほくざん愚公といふ者あり。年且まさに九十ならんとす。」(『列子』「湯問第五」第二章)
【通釈】太行山・王屋山の二つの山は、七百里四方で、高さが一万尋もある。もとも冀州の南、河陽の北のあたりにあった山である。ところが北山愚公という人がいて、もう九十歳にもなろうという年であった。
6) 「百年にして死し、夭ようせず病まず。」(『列子』「湯問第五」第五章)
【通釈】百歳まで生きてから死ぬのであって、若死にや病死といったこともない。
7) 「楊朱曰く、百年は壽の大齊たいせいにして、百年を得うる者は、千に一無し。設もし一有りとするも、孩抱がいほうより以て[民/日]老こんろうに逮ぶまで、幾ほとんど其の半なかばに居る。」(『列子』「楊朱第七」第二章)
【通釈】楊子がいうには、百歳は人間の寿命の最大限であって、百歳まで生き得た人間は、千人に一人もない。若し千人に一人あったとしても、その人の赤ん坊の時期と老いさらばえた時期とが、ほとんどその半分を占めてしまっている。
8) 「然しかり而しこうして萬物は齊ひとしく生じて齊しく死し、齊しく賢にして齊しく愚、齊しく貴たつとくして齊しく賤いやし。十年も亦死し、百年も亦死す。仁聖も亦死し、凶愚も亦死す。」(『列子』「楊朱第七」第三章)
【通釈】それと同時に、すべての物は、一様に生存するようになった半面、一様に必ず死ぬ運命にあるもので、一様に利口である半面、一様に馬鹿なところがあり、一様に尊いところのある半面、一様に卑しいところもあって、一方的にばかりではあり得ない。たとえ十年で死のうと、百年で死のうとも。
9) 「百年も猶なほ其の多きを厭いとふ。況いわんや久しく生くることの苦しきをや、と。」(『列子』「楊朱第七」第十章)
【通釈】百年の寿命でさえ、長過ぎると思っているのだ。まして、いつまでも生き長らえて苦しみを重ねるなどということは、いらぬことだ。
※訳・通釈とも新釈漢文大系『列子』(明治書院、小林信昭著)によった。
以上のように、『列子』には随所に百歳や九十歳という二倍年暦と考えざるを得ない年齢表記が見えるのである。『列子』は戦国時代末期以降の成立と考えられている(1) が、収録された説話には、例えば1),2) は孔子の説話として紹介され、3)は周の第五代天子である穆王の説話として記されている。従って、先に紹介した『管子』の記事と併せて考えれば、周代においては二倍年暦が採用されていたこととなろう。したがってこの時代、人間の寿命は百歳まで、すなわち一倍年暦での五十歳と考えられていたことが『列子』よりわかるのであるが、「人間五十年下天のうちに」と、織田信長が好んで謡ったとされる「敦盛」の詞にも対応していて興味深い。
ちなみに、5)に見える「方七百里」は漢代の長里(一里約五〇〇メートル)ではなく周代の短里(一里約七七メートル)と考えざるを得ないことから、『列子』の成立は周代かそれを多くは下らない時期とするべきであろう。とは言え、『列子』「力命第六」第一章では、孔子の愛弟子顔淵(回)の没年齢が十八とされており、これは一倍年暦による年齢表記と思われる。この点、後述するが、『列子』成立過程や二倍年暦から一倍年暦への移行期の問題にもかかわる興味深い史料状況と言えるのではあるまいか。
春秋時代の覇者、斉の宰相だった管子(管仲、紀元前七世紀)と、戦国時代初期とされる列子(列禦寇)が共に二倍年暦を用いていたとすれば、ちょうどその間に位置する孔子もまた二倍年暦の時代に生きたこととなるが、『論語』にもその痕跡が散見される。次の通りだ。
「子曰く、後生こうせい畏おそる可べし。焉いづくんぞ来者の今に如しかざるを知らんや。四十五十にして聞ゆること無くんば、斯これ亦また畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕しかん第九)
※新釈漢文大系『論語』、明治書院。吉田賢抗著。以下、『論語』の訳は同書による。
「後生こうせい畏おそる可べし」の出典として著名。四十歳五十歳になっても世に名が現れないような者は畏るるに足らないという意味であるが、孔子の時代(紀元前六〜五世紀)より七百年も後の『三国志』の時代、そこに登場する人物で没年齢が記されている者の平均没年齢は約五十歳であり、多くは三十代四十代で亡くなっている。従って、孔子の時代が『三国志』の時代よりも長命であったとは考えられず、とすれば四十歳五十歳という年齢は当時の人間の寿命の限界であり、その年齢で有名になっていなければ畏るるに足らないと言うのではナンセンスである。従って、この四十歳五十歳という表記は二倍年暦によるものと考えざるを得ず、一倍年暦の二十歳二十五歳に相当する。これならば、名を為すに当時としてはリーズナブルな年齢であろう。
「子曰く、善人邦くにを爲おさむること百年ならば、亦また以もつて残ざんに勝ち殺さつを去る可べしと。誠なるかな是この言や。」(『論語』子路第十三)
善人でも邦を治めることが百年にもなれば、民を教化して残忍性や死刑を必要とするような大罪を犯すことを無くすることができる、という。この百年も二倍年暦であろう。従来、この百年を複数の善人が相次いで治めると解釈されてきたようだが、一倍年暦で理解する限り、このような原文にない解釈を導入するしかない。しかし、二倍年暦の百年であれば、一倍年暦の五十年に相当し、先に紹介した『列子』で示された人間の寿命に対応している。
このように『論語』においても二倍年暦でなければ理解困難な記事が存在する。こうした史料事実は孔子の時代が二倍年暦であったことを示唆する。孔子の前の『管子』、後の『列子』が共に二倍年暦で記述されているのであるから、その間に位置する『論語』が二倍年暦であることは当然とも言えよう。そうすると『論語』中、次の最も著名な一節をも二倍年暦として理解されなければならない。
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩のりを踰こえず。」(『論語』爲政第二)
最晩年の孔子が自らの生涯を語ったこの一節は、古来より聖人孔子の深き思想形成の過程を述べたものとして理解され、人口に膾炙(かいしゃ)してきた。たとえば次のようだ。
「【通釈】孔子言う、私は十五歳ごろから先王の教え、礼楽の学問をしようと決心した。三十歳にしてその礼楽の学問について独自の見識が確立した。四十歳ごろで事理に明らかになって、物事に惑うことがなくなった。五十歳になって、天が自分に命じ与えたものが何であるかを覚り、また、世の中には天運の存するということを知ることができた。六十歳ころは、何を聞いても皆すらすらと分かるようになったし、世間の毀誉褒貶(きよほうへん)にも心が動かなくなった。七十歳になっては、心の欲するままに行うことが、いつでも道徳の規準に合って、道理に違うことがなくなって、真の自由を楽しめるようになったようだ。」(同前)
しかし、ひとたび二倍年暦という概念を当てはめることにより、従来の孔子象は一変する。まず、「十有五にして学に志す」であるが、これでは遅すぎる。三十歳から四十歳代で多くは没していたと思われる当時の人間の寿命から考えれば、もっと早くから学問を志したはずである。これを半分の七〜八歳頃とすれば、学を志すに適切な年齢であろう。はるかに寿命が延びた現在の日本でも、七歳で義務教育が開始されるではないか。その頃が就学開始適正年齢だからだ。
「三十にして立つ」も同様だ。「立つ」の意味については諸説存するが、一般的に考えれば、就学が終われば次は就職ではあるまいか。立身出世の「立」だ。日本でも過去多くの人が中学を卒業して十五〜六歳で社会に出て就職した。従って、これも半分の十五歳のことと理解すればリーズナブルである。
「四十にして惑はず」も、実社会において学問が実体験に裏づけられ、二十歳にもなれば自信もついて惑わなくなったということであろう。
そして、「五十にして天命を知る」。すなわち当時の人間にとって人生の折り返し点でもある二十五歳で天職を得て、自らの進むべき道を決めるのである。孔子はこれを天命として受け入れたのだ。
「六十にして耳順う」とは、当時としては三十歳は年齢的にもリーダーシップをとる世代だ。従って、様々な意見や事物を冷静に判断、理解できる年齢であり、それを「耳順」と表現したのではあるまいか。この六十歳がもし一倍年暦であれば、当時の殆どの人が鬼籍に入っている年齢であり、当時としては珍しいほど長生きしてようやく耳に順うようでは、やはり遅すぎるのであり、何の自慢話にもならないであろう。
「七十にして心の欲する所に従へども、矩のりを踰こえず」。これも二倍年暦として理解すれば三十五歳のことであり、まさに円熟した年齢と言えよう。従って、矩を越えないのだ。
以上のように、二倍年暦という視点から捉え直すことにより、わたしたちは等身大の生々しい人間としての孔子を発見することができるのである。従来のように殊更に聖人君子としての過大評価された孔子ではなく、生身の人間として孔子を見つめたとき、『論語』中に数多く見える、喜び、嘆き、怒り、慟哭する孔子の言動が無理なく理解できる。『論語』を二倍年暦で読み直すことこそ、真の孔子理解への道なのである。(2)
孔子が二倍年暦により述べた自らの生涯と類似する表現が『礼記』に見える。
「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す(元服)。三十を壮といい、室有り(妻帯する)。四十を強といい、仕う。五十を艾(かい 白髪になってくる)といい、官政に服す(重職に就く)。六十を耆(長年)といい、指使す(さしずして人にやらせる)。七十を老といい、伝う(子に地位を譲る)。八十・九十を耄(もう 老衰)という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、頤やしなわる。」『礼記』曲礼らい上篇。(『四書五経』平凡社東洋文庫、竹内照夫著)
おそらくは貴族やエリートの人生の、十年ごとの名称と解説がなされたものだが、百歳まであることからこれもまた二倍年暦であることがわかる。『礼記』は漢代に成立している(3) が、前代の周、あるいはそれ以前の遺制(二倍年暦、短里)が、その中に散見されるのは当然であろう。
この『礼記』の記事と『論語』の孔子の生涯を比較すると、まず目に付くのが「学」の年齢差であろう。『礼記』では十歳(一倍年暦では五歳)だが、『論語』では十五歳(一倍年暦では七〜八歳)であった。ということは、孔子は恐らく家が貧しくて学問を始める年齢が遅かったのではあるまいか。とすれば、先の『論語』の一節は、孔子の自慢話ではなく苦労話ではなかったか。わたしにはそのように思われるのである。
『礼記』の次の記事も二倍年暦の例だ。
「夫婦の礼は、ただ七十に及べば同じく蔵とじて間なし。故に妾は老ゆといえども、年いまだ五十に満たざれば必ず五日の御ぎょに与あずかる。(夫婦の間柄は、七十歳になると男女とも閉蔵して通じなくなる。だから〔妻は高齢になっても〕妾はまだ五十前ならば、五日ごとの御〔相手〕に入るべきである)」『礼記』内則だいそく篇。(同前)
これも説明を要さないであろう。やはり二倍年暦である。
孔子が「後生畏るべし」と評した最愛の弟子、顔淵(名は回、字は子淵)は若くして没した。そのとき、孔子は「天はわたしを滅ぼした」と嘆き、激しく「慟哭」したという。
「顔淵死す。子曰く、噫ああ、天予われを喪ほろぼせり、天予を喪ぼせりと。」(『論語』先進第十一)
「顔淵死す。子、之これを哭こくして慟どうす。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有るか。夫かの人の爲に慟するに非ずして、誰たが爲にかせんと。」(同前)
哭とは死者を愛惜して大声で泣くこと。慟とは哭より一層悲しみ嘆く状態という。孔子を慟哭させた顔淵は、『論語』によれば短命であったとされる。
「哀あい公問ふ、弟子ていし孰たれか學を好むと爲すかと。孔子對こたへて曰く、顔回なる者有り。學を好む。怒いかりを遷うつさず、過あやまちを貳ふたたびせず。不幸短命にして死せり。今や則すなわち亡なし。未だ學を好む者を聞かざるなりと。」(『論語』雍也第六)
『論語』には顔淵も孔子も、その没年齢は記されていないが、孔子七二歳の時、顔淵は四二歳で没したとする説が有力なようである(孔子の没年齢は七四歳とされる)。もし、この年齢が正しいとすれば、それはやはり二倍年暦と見なさなければならない。何故なら、顔淵の没年齢が一倍年暦の四二歳であれば、それは当時の平均的な寿命であり、「不幸短命」とは言い難いからだ。従って、顔淵は二一歳で没し、その時孔子は三六歳ということになる。これであれば「不幸短命」と孔子が述べた通りである。『論語』は二倍年暦で読まなければ、こうした説話の一つひとつさえもが正確に理解できないのである。
周代に成立した文献、就中『論語』は二倍年暦で読まなければならないことを縷々述べてきた。しかし、事はそれら古典だけには留まらないようである。たとえば、周王朝の歴代天子のやたらに長い在位年数も二倍年暦ではないかという問題さえも惹起されるのである。
○成王(前一一一五〜一〇七九)在位三七年
○昭王(前一〇五二〜一〇〇二)在位五一年
○穆王(前一〇〇一〜 九四七)在位五五年
○萬*王(前 八七八〜 八二八)在位五一年
○宣王(前 八二七〜 七八二)在位四六年
○平王(前 七七〇〜 七二〇)在位五一年
○敬王(前 五一九〜 四七六)在位四四年
○顯王(前 三六八〜 三二一)在位四八年
○赧王(前 三一四〜 二五六)在位五九年
※『東方年表』平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編による。
萬*王の萬*は、厂(がんだれ)に萬。JIS第3水準ユニコード53B2
このように周代の天子が二倍年暦で編年されているとすれば、その実年代は軒並み新しくなり、中国古代史の編年は夏・殷・周において地滑り的に変動する可能性が大きい。あまりにも、重大かつ深刻なテーマだ。今後の研究課題としたい。
さて、次章からはいよいよ西洋古典の史料批判へと向かう。そこにおいて読者は、ソクラテス・プラトン・アリストテレス等による二倍年暦の世界を見ることができるであろう。
(注)
1.新釈漢文大系『列子』(明治書院、小林信昭著)の解説による。
2.数ある孔子伝の中でも、古代人としての孔子の実像に迫った好著に白川静『孔子伝』(中央公論社)がある。
3.『周礼』のみは周代の成立。
〔補論〕
四書五経の一つ、『春秋』は孔子の作とも偽作ともされてきたが、同書は基本的に一倍年暦で著述されており、その点からすれば孔子よりも後代の作と見なしうるかもしれない。しかしながら、二倍年暦と一倍年暦が併用されていた時期も想定できるし、あるいは年代は一倍年暦で著述し、人間の年齢表記のみは二倍年暦が使用されていた可能性も否定できないように思われる。従って、後者の場合は「二倍年齢」と呼ぶ方がその概念上適切な命名であろう。この点、本連載においても今後留意していきたい。
ソクラテス(七〇歳没)やプラトン(八〇歳没)に代表される古代ギリシア哲学者の死亡年齢が高齢であることは著名である。たとえば、 紀元前三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』によれば、〔表1〕の通りであり、現代日本の哲学者よりも高齢ではあるまいか。(1) これら哲学者はいずれも紀元前四〜五世紀頃の人物であり、日本で言えば縄文晩期に相当し、常識では考えにくい高齢者群だ。フランスの歴史学者ジョルジュ・ミノワ(Georges MINOIS)は「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした (2) 」とこの現象を説明しているが、はたしてそうだろうか。やはり、この現象は古代ギリシアでも二倍年暦により年齢が計算されていたと考えるべきではあるまいか。そうすれば、当時の人間の寿命としてリーズナブルな死亡年齢となるからだ。ヨーロッパの学者には古田武彦氏が提唱した二倍年暦という概念がないため、「ほとんどが長生きをした」という、かなり無理な解釈に奔るしかなかったのであろう。
その証拠に、古代ギリシアでの長寿は哲学者だけとは限らない。クセノファネス (3)(紀元前五〜六世紀の詩人、九二歳没)や、古代ギリシアの三大悲劇作家のエウリピデス(七四歳没)、ソポクレス(八九歳没)、アイスキュロス (4)(六九歳没)もそうだ。このほかにも六〇歳を越す詩人は少なくない。このように、古代ギリシアの著名人には長寿が多いのであるが、こうした現象は二倍年暦という仮説を導入しない限り理解困難と思われるのである。
〔表1〕『ギリシア哲学者列伝』のギリシア哲学者死亡年齢
名前 推定死亡年齢 ディオゲネス・ラエルティオスの注と引用
アナクサゴラス 七二歳
アナクシマンドロス 六六歳
テュアナのアポロニオス 八〇歳
アルケシラス 七五歳 ある宴会で飲み過ぎて死亡。
アリストッポス 七九歳
アリストン 「老齢」
アリストテレス 六三歳 ディオゲネスはアリストテレスの死亡年齢を七〇歳としたエウメロスを批判しており、それが正しい。
アテノドロス 八二歳
ビアス 「たいへんな老齢」 裁判の弁論中に死亡。
カルネアデス 八五歳
キロン 「非常に高齢」 「彼の体力と年齢には耐えきれないほどの過剰な喜びのため死亡」と言われている。オリュンピア競技の拳闘で勝利した息子を讃えていたときのこと。
リュシッポス 七三歳 飲み過ぎて死亡。
クレアンテス 八〇歳 B・E・リチャードソンによれば九九歳。
クレオブウロス 七〇歳
クラントル 「老齢」
クラテス 「老齢」 自分のことをこう歌っている。「おまえは地獄に向かっている、老いで腰がまがって」。
デモクリトス 百か百九歳
ディオニュシオス 八〇歳
ディオゲネス 九〇歳 自分で呼吸をとめて自殺したとも、コレラで死んだとも言われている。
エンペドクレス 六〇か七七歳 祝宴に向かう途中馬車から落ち、それがもとで死亡。
エピカルモス 九〇歳
エピクロス 七二歳
エウドクソス 五三歳
ゴルギアス 百、百五もしくは百九歳
ヘラクレイトス 六〇歳
イソクラテス 九八歳
ラキュデス 「老齢」 飲み過ぎで死亡。
リュコン 七四歳
メネデモス 七四歳
メトロクレス 「非常に高齢」 自殺。
ミュソン 九七歳
ペリアンドロス 八〇歳
ピッタコス 七〇歳
プラトン 八一歳
ポレモン 「老齢」
プロタゴラス 七〇歳
ピューロン 九〇歳
ピュタゴラス 八〇か九〇歳
ソクラテス 六〇歳
ソロン 八〇歳
スペウシップス 「高齢」
スティルポン 「きわめて高齢」 老いて病身、「早く死ぬためにワインを一気に飲みほした」。
テレス 七八か九〇歳 「裸体競技を観戦中、過度の暑さと渇きから疲労し、高齢もあって死亡」。
テオフプラストス 八五か百歳以上 「老衰で」死亡。
ティモン 九〇歳
クセノクラテス 八二歳
クセノポン 「高齢」
ゼノン 九八歳 転んで窒息死。
プラトンが著したソクラテス対話篇『国家』第七巻に、国家の教育制度と教育年齢についてソクラテスが語っている部分がある。その要旨は次の通りだ。(5)
十八歳〜二十歳 体育訓練
二十歳〜三十歳 諸科学の総観
三十歳〜三十五歳 問答法初歩
三十五歳〜五十歳 実務
五十歳〜 〈善〉の認識に対する問答法
これらの修学年齢も一倍年暦とすれば遅すぎる。国家の治者を教育するプログラムとしても、三五歳まで教育した後、ようやく実務に就くようでは教育期間としては長すぎるし、体育訓練が十八〜二十歳というのも人間の成長を考えた場合、これではやはり遅過ぎるのではあるまいか。ところが、これを二倍年暦と理解すれば、一倍年暦では次のような就学年齢となりリーズナブルな教育プログラムと言えよう。
九歳〜十歳 体育訓練
十歳〜十五歳 諸科学の総観
十五歳〜十七・五歳 問答法初歩
十七・五歳〜二十五歳 実務
二十五歳〜 〈善〉の認識に対する問答法
前回紹介した『礼記』や『論語』の年齢記述と比較しても矛盾の無い内容ではあるまいか。更に『国家』第十巻には人間の一生を百年と見なしている記述があり、これも二倍年暦による表記と考えざるを得ないのである。
「それぞれの者は、かつて誰かにどれほどの不正をはたらいたか、どれだけの数の人たちに悪事をおこなったかに応じて、それらすべての罪業のために順次罰を受けたのであるが、その刑罰の執行は、それぞれの罪について一〇度くりかえしておこなわれる。すなわち、人間の一生を一〇〇年と見なしたうえで、その一〇〇年間にわたる罰の執行を一〇度くりかえすわけであるが、これは、各人がその犯した罪の一〇倍分の償いをするためである。」
プラトン『国家』第十巻 (6)
この百年という人間の一生も『礼記』や『列子』に記された二倍年暦表記の百歳という高齢寿命とよく対応しており、この時代、洋の東西を問わず、人間の最高寿命が百歳程度(一倍年暦の五十歳)と認識されていたことがわかる。すなわち、ソクラテスやプラトン等古代ギリシアの哲学者たちは二倍年暦の世界に生きていたのである。
プラトンとほぼ同時代(紀元前四世紀)の哲学者アリストテレスの『弁術論』にも次のような興味深い記事が見える。
「ところで、壮年(最盛期)とされるのは、身体で言えば三〇歳から三五歳まで、精神のほうでは四九歳あたりである。」
アリストテレス『弁術論』第一四章年齢による性格(三)--壮年 (7)
古代よりはるかに寿命が延びているはずの現代においても、身体的能力の最盛期は二十代前半とされ、精神的能力も三十代半ばまでと一般的には思われるが、このアリストテレスによる身体と精神の最盛期はあまりにも遅すぎる。しかし、これも二倍年暦と理解すれば、一倍年暦に換算した身体の最盛期は十五歳〜十七・五歳、精神的には二四・五歳となり、これもまた寿命が現代よりも短い古代であれば極めてリーズナブルな年齢となるのである。ちなみに、プラトンは身体的最盛期を二五歳から五五歳、精神的最盛期を五〇歳とするが、これも二倍年暦による表記である。(8)
またピュタゴラス(紀元前六世紀)は人生の諸年齢を四季に見立て、少年時代を春(〇歳〜二〇歳)、青春期を夏(二〇歳〜四〇歳)、青年期を秋(四〇歳〜六〇歳)、老年期を冬(六〇歳〜八〇歳)としたが、これも二倍年暦であればやはりリーズナブルである。そしてこのことから、古代においては一倍年暦で三〇歳から四〇歳は老人と見なされていたことが分かる。別の哲学者ソロンも平均寿命を七〇歳としているが、これも二倍年暦であり、一倍年暦の三五歳に相当する。(9)
古代ギリシアにおける二倍年暦はいつ頃までさかのぼることができるだろうか。管見ではギリシア最古の大英雄叙事詩『オデュッセイア』(ホメロス)が二倍年暦によると考えている。その理由は次のような事である。オデュッセウスが故郷イタケを二十年間留守にしている間、妻ペネロペイアに群がる求婚者とその息子テレマコスとの諍いさかいが描かれているだが、少なくとも二十歳以上となるテレマコスが幼く描かれている。(10) このことについては従来から疑問視されてきたようであり、たとえば次のような疑義が出されている。
「かりにテレマコスが、父の出征後に生まれたとしても、二十年の歳月が過ぎた現在ほぼ二十歳ということになるが、本篇ではせいぜい十代後半位のイメージで描かれているように思われる。」
「オデュッセウスが出征して二十年が経過していること、また出征時にテレマコスが既に出生していたことから推定すれば、オデュッセウスはおよそ五十歳、ペネロペイアも四十歳に近く、テレマコスもまた少なくとも二十歳に達していたとせねばならない。二十歳といえば既に一人前の男子であるが、冒頭で彼がまだ幼さの抜け切らぬ少年の如く描かれているのは、少々奇異な感を与える。」
※ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫、一九九四年刊。松平千秋訳)の訳注・解説による。
このオデュッセウス出征後の二十年間が二倍年暦であれば、一倍年暦の十年間となり、息子テレマコスの年齢も十歳プラスαとなり、彼が幼く描写されたことも自然な理解が得られるのである。また、オデュッセウスの年齢も三十歳代となり、帰国後、求婚者たちと戦って勝利することも可能な年齢となる。更に言えば、妻ペネロペイアの年齢も二十代後半位となり、求婚者が群がるほどの美貌が維持できる年齢ではあるまいか。
このように、『オデュッセイア』は二倍年暦で読まなければ、その描写や背景にリーズナブルな理解が得られないのである。また、次の場面も二倍年暦を指し示す例である。オデュッセウスが変装して自宅に二十年ぶりに帰ってきたとき、愛犬アルゴスはオデュッセウスに気づき尾を振り耳を垂れたが、近寄る力もなくそのまま息絶えてしまう。アルゴスはオデュッセウス出征前から優秀な猟犬であったと記されていることから、もし二十年が一倍年暦ならアルゴスは二十歳を越えることになり、犬の寿命としては長すぎる。二倍年暦であればアルゴスの年齢は十歳代となり、犬の寿命としてリーズナブルである。この点からも、『オデュッセイア』が二倍年暦で著述されていることは間違いないと思われる。
ホメロスは紀元前九世紀の人物とされていることから、ギリシアでは少なくとも紀元前九世紀以前から二倍年暦が使用されていたと考えられる(11) が、それがいつまで使用されていたのか、その下限はまだ不明であり、今後の研究課題である。
以上のように、古代ギリシアにおいて二倍年暦が使用されていたことを論証してきたのだが、ここに注意すべき問題が残されている。それは一倍年暦との併存、あるいは暦は一倍年暦で年齢のみ二倍年齢を使用するという可能性の問題である。たとえば、古代ギリシアの歴史家で「歴史の父」と称されるヘロドトス(紀元前五世紀)の『歴史』には、天文暦に基づき一年を三六五日と明確に認識している記述が存在する。
「さて人間界のことに限っていえば、彼らの一致していうところは、一年という単位を発明したのはエジプト人であり、一年を季節によって十二の部にわけたのもエジプト人が史上最初の民族である、ということである。彼らはそれを星の観察によって発見したのだといっていた。暦の計算の仕方はエジプト人の方がギリシア人よりも合理的であるように私には考えられる。なぜかというと、ギリシア人は季節との関連を考慮して、隔年に閏年を一カ月挿入するが、エジプトでは三十日の月を十二カ月数え、さらに一年について五日をその定数のほかに加えることによって、季節の循環が暦と一致して運行する仕組みになっているからである。」
ヘロトドス『歴史』巻二 (12)
この記述からわかるように、当時既にギリシア人は一年を三六五日と認識している。従って、彼らは一倍年暦のカレンダーを使用していたと考えざるを得ないのである。そうすると、明らかに二倍年暦としか考えられない年齢表記はどのような理由によるものであろうか。本連載前回(「孔子の二倍年暦」)末尾にて指摘したように、古代ギリシア人はカレンダーは一倍年暦で、年齢表記は古い二倍年暦の慣習に従っていた(二倍年齢)、というケースが想定される。もう一つは、古い二倍年暦と新しい一倍年暦の混在・併存のケースだ。あるいはその両方のケースもありうるであろう。これらのうち、個々の史料や当時のギリシア社会一般がどのケースであったのか、現時点では判断し難い。慎重に留保し、これからの研究に委ねたい。
ルネッサンス芸術の傑作の一つ、ラファエロ画「アテネの学堂」のソクラテスは老人の風貌で描かれている。しかし、本稿の結論からすればソクラテスやプラトン等古代ギリシア哲学者の高齢は二倍年暦に基づく表記、すなわち二倍年齢であることから、彼らの没年齢はほとんどが三十代、四十代となるのである。たとえば、ソクラテスは三五歳没、プラトンは四十歳没となり、いわゆる現代でいう「老人」とは異なる。こうした理解は既に論じてきた仏陀(四十歳)や孔子(三七歳)の没年齢とも対応し、古代の人骨の考古学的調査結果とも矛盾無く対応する。従って、古代ギリシア哲学は三十代から四十代の人々により完成されたのであり、そうした視点からの再理解が必要のように思われる。二倍年暦という概念はこうした古代の思想や宗教、哲学に対する従来の理解や学説にも影響を及ぼすことを避けられない。これが、本稿のもう一つの帰結である。
なお、古代ギリシアにおける二倍年暦の用例として、マケドニアのアレキサンダー大王や古代オリンピックに関する伝承などもあるが、今回、調査が及ばなかった。後日、報告したい。
(注)
(1) ジョルジュ・ミノワ『老いの歴史ーー古代からルネッサンスまで』(筑摩書房、一九九六年刊。大野朗子・菅原恵美子訳)所収の表を転載した。
(2) 同(1)、七二頁。
(3) ルチャーノ・デ・クレシェンツォ『物語ギリシャ哲学史 ーーソクラテス以前の哲学者たち』(而立書房、一九八六年刊。谷口勇訳)
(4) 同(1)、六六頁。
(5) 田中美知太郎編『プラトン〜』(中央公論社、一九七八年刊)の解説による。
(6) 同(5) 所収『国家』(615a)。
(7) アリストテレス『弁術論』(岩波文庫、一九九二年刊。戸塚七郎訳)
(8) プラトン『国家』(460e,540a)
(9) 同(1)、七七頁。
(10)西村秀己氏(向日市在住、古田史学の会々員)のご教示による。
(11)『イリアス』『オデュッセイア』の舞台ともなったトロイ戦争が紀元前一二〇〇年頃のことであるから、論理的可能性から言えば、ギリシアでの二倍年暦はその時点までさかのぼることも十分想定できよう。
(12)ヘロドトス『歴史』(岩波文庫、一九七一年刊。松平千秋訳)
〔筆者後記〕
本稿執筆にあたり、西洋古典はいずれも邦訳によった。そのため、史料批判上、一抹の不安がぬぐい去れない。ラテン語、ギリシア語に堪能な方のご批判とご援助を切にお願いする次第である。
「仏陀の二倍年暦」において、釈迦の没伝が南方系伝承では二倍年暦にて語られていたことを述べ、その傍証として大プリニウスの発言(セイロン島の長寿)を紹介した。しかし、これはヨーロッパ人の認識であり、より確かな一次史料、すなわちインド古典に、二倍年暦を探索したところ、著名な『マヌ法典』にその痕跡を見いだしたので報告する。
『マヌ法典』は紀元前二百年から紀元後二百年までの間に現形を整えたものと推定され (1)、その内容は今日でいう法律だけにとどまらず、宇宙開闢や万物の創造、儀式、行事、祭祀など多岐にわたり、全十二章二千六百八十四条からなっている。従って、年齢表記は随所に見られ、その中から明確な二倍年暦と思われる例は次の通りである。(2)
「十歳のバラモンと百歳のクシャトリヤは、互いに父子の関係に立つと知るべし。但し、これら両者の間に於て、バラモンはその父なり。」(第二章一三五)
「車中の人、九十歳以上の人、病人、荷を持てる者、婦人、灌沐者、王及び花聟に対しては道を譲るべし。」(第二章一二八)
「人の出生に際し、両親の受けたる苦痛は、百歳を経るも償ひをなす事を得ず。」(第二章二二七)、
「美と善徳を賦与せられ、富と名声を有し、欲望が充足せられ、而も、最も正しき彼等は百年を生く。」(第三章四〇)
これらの記事から、当時のインドでは百歳(一倍年暦で五十歳)が人間の最高年齢と認識されていたことがわかる。これは『列子」『礼記」やプラトンの『国家』の記述とも対応している。この他に、断定はできないものの、二倍年暦と考えた方がリーズナブルな例として、次の記事がある。
「盲人、白痴、跛者、満七十歳の老人、(これらの者)及び随聞者に利益を与ふる者は、いかなる(王)もこれに課税すべからず。」(第八章三九四)
「不妊の妻は八年目に、その子の(皆)死せる妻は十年日に、娘のみ生む妻は十一年目にこれを替えふるを得。されど、悪語を言ふ妻は遅延なくこれを替ふるを得。」(第九章八一)
ここの二例は二倍年暦の方が、当時の人間の寿命に対応していると思われる。このように、「マヌ法典」が二倍年暦で記されているとなれば、他の年齢表記の条文もすべて二倍年暦として理解し直す必要がある。
それでは、当時のインドにおける二倍年暦とはどのような暦であったのか。現時点での結論からいえば、おおよそ現在の半月を一ヶ月とし、それが十二ヶ月で一年とする二倍年暦のようである。そのことを指し示す、たとえば次のような記事がある。
「人間の祖霊は、定められたる規則に従ひて、胡麻、米、大麦、マーシャ荳、水、根、或は果実を供ふることによりて一ヶ月間満足す。」(第三章二六七)
「魚肉によりては二ヶ月、又鹿の肉によりては三ヶ月、更に羊肉によりては四ヶ月、又、更に鳥肉によりては五ヶ月、」(同二六八)
「山羊の肉によりては六ヶ月、班鹿の肉によりては七ヶ月、エーナ(羚羊の一種)の肉によりては八ヶ月、されどルル(鹿の一種)の肉によりては九ヶ月」(同二六九)
「されど、彼等は十ヶ月間、野猪及び水牛の肉によりて満足し、更に、野兎及び亀の肉によりては十一ヶ月(満足す。)」(同二七〇)
「牛の乳、及び乳粥によりては一年間、ヴァールドリーナサ(諸説あり、犀又は山羊の一種といはる)の肉によりては、その満足、十二ヶ年間継続す。」(同二七一)
この一連の記事において、一ヶ月から十一ヶ月続いた次が一年間となっていることから、十二ヶ月が一年となっていることは疑いない。問題は一ヶ月が何日であるかだが、『マヌ法典」に記された日数表記の最高は十六日である。したがって、一倍年暦の半月に相当する日数が一ヶ月となっているようである。すなわち、月の満ち欠けにより、新月から満月、満月から新月をそれぞれ一ヶ月としているのである。たとえば、月が欠ける期間を「黒月」と称していることも、この理解を支持している。
「(各月の)十六(昼)夜は、有徳なる者によりて非難せらるる他の四日(月経開始後最初の四日)をも含めて、婦人の自然の時期rtu と呼ばる。」(第三章四六)
「黒月(月虧くる半月)の十日以後は、第十四日を除き、祖霊祭のために、最もふさはしき日なり。而して他は然らず。」(第三章二七六)
これらの記事から、古代インドの二倍年暦は半月を一ヶ月とし、それが十二ヶ月で一年とする暦と理解されるのであるが、もう一つの可能性として、暦は一倍年暦で年齢表記は二倍年齢というケースがある。それは、次のような一倍年暦による記事も存在するからだ。
「この世に於ては、上記の規則に従ひて、祖霊祭を(少なくとも)一年に三度、即ち、冬、夏、雨季に施行すべし。されど、五大供犠に属するものは、日々、これを施行すべし。」(第三章二八一)
現時点ではどちらとも断定できないが、サンスクリット語原典や他のインド古典の研究も含めて今後の課題としたい。
《注》
(1) 田辺繁子訳『マヌの法典』(岩波文庫、一九五三)のはしがきによる。
(2) 以下、『マヌ法典』の文は、田辺繁子訳「マヌの法典」(岩波文庫、一九五三)による。()内は訳者による注。
〔初出一覧〕
※書き下ろし以外は一部修正のうえ転載した。
○はじめに・仏陀の二倍年暦 「古田史学会報」五一号(二〇〇二年八月八日、古田史学の会)、「古田史学会報」五二号(二〇〇一.年一〇月一日、古田史学の会)
○孔子の二倍年暦「古田史学会報」五三号(二〇〇二年十一、月三日、古田史学の会)
○ソクラテスの二倍年暦「古田史学会報」五四号(二〇〇三年二月十一日、古田史学の会)
○マヌ法典の二倍年暦 書き下ろし
新・古典批判 続・二倍年暦の世界 古賀達也(『新・古代学』第八集)