古田武彦・古代史コレクション15 『多元的古代の成立(下) -- 邪馬壹国の展開』 へ
第六篇 考古学の方法 -- 王仲殊論文をめぐって 古田武彦
あとがきに代えて -- 江向栄氏の批判に答える 古田武彦

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第七篇

 シルク・プルーフ

絹の証明

古田武彦

 日本古代史界は、一種不透明な視界の中にある。いわゆる「邪馬台国」論争をめぐる、現今の姿がこれである。
 昨年(昭和五十六年)、王仲殊論文(「考古」、第四期)によって、従来日本考古学界の「定説」のごとき位置を誇ってきた「三角縁神獣鏡、魏鏡説」に対して、中国の専門的な学者からの否認の声が投ぜられた。けれども反面、王氏は“これこそわが見るところの魏鏡”そういう新見地はこれを提示されなかったため、「邪馬台国」問題は解決するどころか、当惑と混迷が一段と増大したかの観さえ呈しているのである。そのような時期にあたって、朝日新聞昭和五十七年四月十二日に掲載された布目順郎氏の論稿「日本絹文化、その起源」は、まさに一服の清涼剤というべき観をもっていた。
 その理由は、氏の提示されたところが、第一、魏鏡の何たるかに関せぬ、絹の問題であること。第二、ともすれば主観に奔りやすかった文献解釈でなく、顕微鏡による観測と写真撮影という、純粋に自然科学的方法による成果であること。第三、三国志の倭人伝にはひんぱんに“絹の交流”(卑弥呼の「倭錦」献上、一与の「異文雑錦」献上、魏帝からの多種・多様の中国絹下賜)の状況が書かれてあり、邪馬一国(いわゆる「邪馬台国」)の研究にとってこれは不可欠の課題であること。しかるに布目氏の研究以前、未開拓の分野であった。
 さて氏の説かれるところでは、弥生期の絹の分布は次のようである。立岩(飯塚市)・門田(春日市)・須玖岡本(同上)・吉ヶ浦(太宰府町)〈以上、筑前〉、三会(南高来郡)〈肥前〉。
 これによると、分布範囲はきわめて局限されている。そこで氏は「邪馬台国」の所在について「いまのところ九州説に傾かざるをえない。」といっておられるけれども、九州といっても北九州、それも右の分布のしめすところ、博多湾岸(博多駅 ーー 太宰府の間を中枢とする)を中心域とするものであることが注目されよう。決して筑後山門や宇佐、または甘木を中心とする分布にはなっていないのである。この点、奇しくもわたしが『「邪馬台国」はなかった』以来、『ここに古代王朝ありき』(布目説引用)に至るまで説ききたったところと一致している。
 その上、この地帯(「筑前中域」と名づける。糸島・博多湾岸・朝倉)には、古墳時代になっても「日本編」が出土している(銚子塚古墳〈糸島〉等)。しかも氏が「(古墳)前期においては北九州のものが上質である。」といわれるように、日本列島の“先進絹文明の中枢”としての姿をしめしている。してみれば、この地帯において「絹の王朝」は、まさに“弥生から古墳へ”と継続していたのである(この点、氏の推定とは逆に、「邪馬台国」という権力中枢の東遷説には無理があろう)。
 最後に布目氏の論稿中の最大の問題点にふれよう。氏によれば、「筑前中域」において、弥生後期(二〜三世紀)のみが絹の「皆無」の時間帯となる。その前(弥生中期後半)とその後(古墳前期)には、各時代の(日本列島中)最上質のものがこの地帯に集中している旨、のべられた。ところがこの間題の「皆無」期こそ、倭人伝に豊富な絹の交流が描かれ、シルク・シー・ロード(絹の海上の道)の成立していた文献的証拠をもつ、まさにその時期に当っているのである。この不可解の矛盾は、一体なぜであろうか。
 布目氏はいわゆる「倭国大乱」問題にその一因を求めようとされているが、これはことの道理において無理であろう。なぜなら当事件のあとにおいて卑弥呼の治政期に入り、そこで先のように中国との問で絹のけんらんたる交流期を迎えているのであるから、右の「大乱」期を断絶の原因としたのでは筋が通らないからである(「大乱」問題については、古田『邪馬一国への道標』参照)。
 この点、実は氏が筆頭にあげられた「甕棺」問題の中にこそ、その真をうべき示唆があるようである。なぜならその甕棺の中には、問題の日本絹と共に、鏡(従来「漢鏡」とされたもの)が多量(王墓では三十面前後)収納されているからである。さらにその中には「中国絹」と目すべきものもまた存在していたこと、かつて氏の検証された通りである(須玖岡本の王墓。『立岩遺跡』参照)。
ところが、その鏡に対する判定によって、従来絶対年代(一世紀頃とする)の決定が行われてきた.これが研究史上の事実である。ところが、かつて森浩一氏も示唆されたように、これらの鏡を「漢鏡」と限定する見地は、先の三角縁神獣鏡を「魏鏡」とする見地と不可分のワン・セットであり、いわば一蓮托生の概念なのであった。しかるに「三角縁神獣鏡、魏鏡説」に疑惑が深まった今、このようなワン・セットの概念をいったん“棚上げ”してみるとき、倭人伝に描く“絹と鏡と矛(女王の宮殿は儀仗矛によって「守衛」されていた旨、記されている)の集中する地帯”それはどこか。中広・広矛の鋳型(これは二〜三世紀とされてきた)が百パーセント集中して出土している「筑前中域」をおいて、他にそれを求めがたい。それは誰人にも自明の帰結ではあるまいか。とすると、従来の考古学上の編年には、大きな間題点の存したことがクローズ・アップしてこざるをえない。布目氏の刻明な自然科学的な検証は、その透明性と即物性によって、この矛盾点をクリアーに映し出すこととなったのである。この点、考古学界・古代史学界各位の虚心の批判を待ちたい。

          昭和五十七年四月二十一日稿

〈補〉この後、福岡県甘木市栗山遺跡(弥生中期前半)の甕棺からも、絹の付着した人骨の発見が報告された(昭和五十七年十一月四日、西日本新聞、毎日新聞等)。


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