古田武彦・古代史コレクション15 『多元的古代の成立(下) -- 邪馬壹国の展開』 へ
第七篇 シルク・プルーフ(絹の証明) 古田武彦
あとがきに代えて -- 江向栄氏の批判に答える 古田武彦

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第六篇

考古学の方法

王仲殊論文をめぐって

古田武彦

    はじめに

 昭和五十六年の秋、わが国の考古学界・古代史学界に対して激震を与える論文が出現した。王仲殊氏の「関于日本三角縁神獣鏡的問題」(「考古」第四期)がこれである。
 その論旨は、従来考古学界の「定説」の観を呈していた「三角縁神獣鏡、魏鏡説」を正面から否定し、当鏡は中国に一切出土せず、それゆえ中国鏡に非ず、とされたのである。従って当然“魏の天子から卑弥呼に送付した魏鏡”などではありえない、とされる。これが右の論文を貫く、基本の骨格であった。ためにこれに対する賛否の反響の、新聞紙上、雑誌上に増幅されていったこと (1)、周知の通りであったけれども、今改めて王氏の立論の次第に再検討を加え、もって将来の当問題の進展に資したいと思う。

 

      一

 この問題を考察する上で、先ず注意しておかなければならぬ一事がある。それは王氏の所論が必ずしも「新説」に非ず、わが国において相当に研究史上の先行研究を辿ることができる、という事実である。
 その筆頭にあぐべきは、森浩一氏の「日本の古代文化 -- 古墳文化の成立と発展の諸問題」(『古代史講座3、古代文明の形成』、学生社刊、昭和三十七年)であろう。ようやく「定説」化しつつあった小林行雄氏の「三角縁神獣鏡、分与の理論」に対し、鋭く批判の刃を向けた内藤晃氏の「古墳文化の成立」(「歴史学研究」、二三六号、昭和三十四年)等の先行研究をあげながら、森氏独自の直観と論理をもって、三角縁神獣鏡の「大半」を国産と目する、大胆な所説を展開された。
 「小林氏も、鏡そのものの説明から魏鏡としたのではなく、この鏡が大和を中心に分布する実態を魏鏡であることの傍証としているが、これは大和が邪馬台国であるとの先入観にたってのことであり、三角縁神獣鏡が魏鏡であることについては何の証明にもなっていない。・・・・(中略)・・・・以上のように私は三角縁神獣鏡の大部分はイ方製鏡であり、国内での鏡製作の当初には帰化系工人が製作を担当したから、三角縁神獣鏡に限らず一般にイ方製鏡としては優秀なものを製作できたであろうと考えている。」
 今回、王論文に森氏の所論があげられていることからも判明するように、明らかに王氏にとって先行研究者の位置に森氏があったことが知られる。ただ森説が「大半、国産(イ方製)説」であったのに対し、王説は「全面、国産説」であるから、そこにはおのずから差異があり、しかもその差異の意義は、学問の方法上、必ずしも小に非ずというべきであろう。
 なぜなら森説の場合、少数の三角縁神獣鏡(たとえば、「重層式」の神獣鏡たる、□正始元年鏡〈群馬県高崎市出土・兵庫県豊岡市出土〉や山口県宮洲古墳出土鏡等)に対しては、これを「舶載鏡」として認めているわけであるから、これを翻してみれば、“三角縁神獣鏡は先ず中国で少量作られ、やがて日本で大量に作られるに至った。”というのが(当時の(2) )氏の立場である。すなわち右の「舶載、三角縁神獣鏡」に対する認定は、その根拠をなす“中国内部出土の三角縁神獣鏡”という挙証をあげることのないまま行われているわけであるから、この点、「定説」流の論者と学問の方法上、あるいは五十歩・百歩の立場に近しと、これを評しうるかもしれぬ。なぜなら“中国側に母鏡の出土事実を見ないまま、舶載と認定する”というこの一点において、両者はまさに共通しているからである。
     □正は、□正始元年鏡です。

 このような森氏の方法は、いわゆる“遼東の公孫淵の地をもって三角縁神獣鏡の優品の地域と見なす”という、独自の立論にも、同じく現われている。なぜなら、この場合にも、“当の遼東出土の三角縁神獣鏡”なるものの実例を提示しえぬままで、右の説がのべられているからである。
 王氏はこの森氏の遼東母域説にふれながら、あえて論評を加えておられないのであるけれども、“中国に出土せぬ鏡は中国鏡と認めがたし。”という格率に立つ王氏にとって、右のような遼東母域説の採用しがたかったことは、むしろ当然というべきであろう。
 以上、すぐれた先見をしめされた森氏と中国現地からの反応としての王説、この両者は、先行研究と後発研究という相互関係に立ちつつも、実は学問の方法上、見のがしえぬ差異点の認められることに先ず注目しておきたい。
 しかしながら、王氏の「全面、国産鏡説」にもまた、わが国に先行研究者の存在したことをここにのべさせていただくことは、思うに不当ではあるまい。
 その一は松本清張氏である。昭和四十八年に出た『遊古戯考』(昭和四十六年、「芸術新潮」所載)において、
 「わたしは、この鏡(三角縁神獣鏡をさす -- 古田)が大半ではなく、全部が日本製作であるという考えに立ってこの稿を書いた。」
 とのべ、全面国産説を明瞭に叙述された。そしてその当初の製作者を中国からの渡来工人に擬されたのである。この立場は昭和五十一年の『清張通史1、邪馬台国』においてものべられている。
 その二は、わたしの著作である。昭和四十六年の『「邪馬台国」はなかった』や昭和四十八年の『失われた九州王朝』や昭和五十四年の『ここに古代王朝ありき』でその立場をのべた。
 第一書では“魏帝からの卑弥呼への銅鏡百枚授与”の時点は、三国志原文(現版本)では「景初二年」であり、その時点で「装封」されたものであるから、「景初三年鏡」がそこに入ることは困難である旨をのべた。次いで第二書では、従来「景初三年鏡」和泉黄金塚古墳の画文帯神獣鏡・島根県神原神社古墳の三角縁神獣鏡)「□正始元年鏡」(先記)と読んで疑われなかった年号鏡に対し、そのような“読み取り”が字形上必ずしも客観的・実証的でないことを指摘し、この両者とも「景□三年鏡」「□始元年鏡」として処理すべきこと、従って絶対年代の判明した年号鏡としてこれを基準尺視することは、学問の方法上適正ならず、と論証したのである。この“読み取り”に関しては、王氏が日本側の「定説」に依拠されたため、新たに重大な問題点を生むに至ったこと、後述のごとくである。
 次いで、従来「定説」側の論者によって「舶載鏡」説の端的な根拠とされてきた「銅出徐州、師出洛陽」(河内、国分神社蔵鏡)の一句に関し、王氏は、この表現は通例の中国鏡には存在せず (3)、従って「舶載鏡」説の証拠となりがたい、と論ぜられたけれども、これは、わたしの右の二著において、すでに力説したところなのであった。(4)
 また王氏が「国産鏡」説の重要な“決め手”の一つとして提示された「海東鏡」(古田命名。河内、茶臼山古墳出土、国分神社蔵)に関する省察も、右の第三書においてすでに詳細に分析・立論したところであった、という事実をのべさせていただきたいと思う。
 この問題に関する先覚は、すでに江戸時代にあった。河内の僧、覚峰(一七二九〜一八一五)がこれである。
 「然者御持参被遊候古鏡扨々珍奇好古之悦候。鏡字御写とくと見極拝考候処、前漢の物と被存候。文字読かね申候処有之候へども、『銅出徐州、師出洛陽』と有之候へば決而漢代の物と覚候。一面の方には『用青銅至海東』と有之候へば、鋳工銅を持して我国にて鋳たるもしるべからず。漢土にては日本をも海東諸国の中に入申也。年号の見えざるも却て古き証なり。年号は漢第六主孝武に建元と始て年号をたてたり。然ば六主以前の物と定候てもよろしきか。猶追々考見申度もの也云々」(国分町、西尾良一氏所蔵書簡による。白井繁太郎『阿闍梨覚峰の伝』昭和三十三年、大阪府立図書館刊、八五ぺージ参照)
とのべ、「至海東」の一句から渡来鋳鏡者の存在を推定されたのである。(5)
 また、この三角縁神獣鏡に関し、呉の鋳鏡者の渡来を説かれた点、王論文の力説点の一つであったけれども、この点に関してもまた、右のわたしの第三書の指摘するところであった。
 さらにこの点も、すでにわが国に研究史上の経歴を辿りうることをのべねばならぬであろう。すなわち先の森説のほかに、高坂好氏の「三角縁神獣鏡は魏の鏡にあらず」(「日本歴史」二四〇号、昭和四十三年五月)、新野直吉氏の「初期大和国家と邪馬台、およびその地方制度をめぐる若干の考察」(「日本歴史」二八八号、昭和四十七年五月)等がこれである。高坂氏は三角縁神獣鏡が呉鏡に多い三角縁画像鏡と神獣鏡にその祖形をもつことに着目して非魏鏡説を力説され、新野氏はこの高坂論文をうけて呉と畿内との密接な関係を説かれたのである。
 また、王氏は三角縁神獣鏡に笠松形の文様のあることを指摘し、このような文様は中国出土鏡に存在しないことをのべ、当鏡の中国鏡に非ざる一証とされた。しかしながら、この論点もすでに奥野正男氏が「邪馬台国九州論 -- 鉄と鏡による検証」(「季刊邪馬台国」五号、昭和五十五年七月)において「幢幡紋」として力説されたところであった。
 以上のごとく、王論文の各論点は、その各条において、すでにわが国において相当の先行者を見ているのである。従ってたとえば樋口隆康氏が、
 「そして『師出洛陽』の銘がおかしいこと、また日本へ渡ったことを示す『至海東』の銘があることは、古田氏が主張しておられ、とくに、中国の工人が日本へやってきて作った鏡であるという結論も古田氏の主張と同じである。
 古田氏がこれらの説を発表したときには、あまり間題としないで、中国の学者が書くと、それで結論が出たように大騒ぎするのはどうしたことであろうか。日本人は外人に弱いという通弊がまたここでも出たのかもしれない。」(「中国・王仲殊氏の論文を読んで」サンケイ新聞、昭和五十六年十一月十六日)とのべられたのも、必ずしも肯綮(こうけい)を失ったものとはなしがたいであろう。
 しかしながら反面、王論文独自の価値は決して見失わるべきではない。わたしはその点を強調したいと思う。
 なぜなら、第一に、顧慮すべき点は、当の王氏が、異国なるわが国における右の諸研究に対しておそらくは精通しておられなかったものと思われることである。右の諸研究はいずれもわが国一般にかなり知られた書籍、また日本歴史の専門誌に掲載されたものであり、わが国で古代史に関心を有する人士の多くがつとに熟知していたところであったにもかかわらず、わが国の考古学界は右のような(ことに在野の)「異説」に対しては正面から相対することなく、「黙殺」にうちすぎようとする傾向にとじこもっていたため、王氏は(日本の考古学界の人士を歴訪されながらも)右の諸研究の存在を看過されたのではないかと思われる。
 第二に、積極的に強調すべきは、次の一点である。“中国に三角縁神獣鏡の出土なし”という声は、国交回復前の考古学者の中国訪問当時からしばしばわが国の学界内外に伝聞されながらも、必ずしも十分な、現地側の確認をえざることを遺憾としてきた。その点、歴年の古鏡の専門的研究者である上、その研究上の職務(社会科学院考古学研究所副所長)からしても、中国各地出土の鏡に関して十二分に情報と渉猟力を有せられる氏によって“当鏡の出土例なき事実”の率直な確認をえたこと、その上、“それゆえ、これを中国鏡とは認めがたい。”と明言されたこと、その意義は、これをいかに過小評価しようとしても、到底不可能であろう。

 

      二

 以上のように研究史上、画期的意義を有すべき王論文であるけれども、当の三角縁神獣鏡の、わが国における作製時点をめぐる状況考察に入られたとき、にわかにその行論に首肯しがたい様相を認めざるをえないことを遺憾とする。以下、それについてのべよう。
 氏がこの問題を解明される上で、方法上の“要具”とされたもの、それは年号鏡の特殊なケースからえられた成果であった。すなわち鄂城出土の呉鏡に「揚州会稽山陰師唐豫命作竟」とありながら、「黄初二年十一月丁卯朔廿七日癸巳」という魏の年号の銘刻されている事例につき、これは呉の孫権が魏の大義名分を承認していた期間に当っているから、“呉において、呉の側が魏の年号を銘刻した”ケースとして認定されたのである。そして他にも「紹興出土」とされる「黄初三年銘の呉鏡」など、同種の事例群の存在することを挙証された。
 これはまことに興味深い指摘であり、“魏の年号があれば、疑いなき魏鏡”そのように判断してきた(6) わたしたちに対し、大きな啓発を与えるところである。(7)
 氏はこの成果を持し、転じてわが国で製作された年号鏡の理解に使用されんとした。すなわち“呉の鋳鏡者は日本列島にきたり、そこで三角縁神獣鏡を製作した。ところが当時(三紀前半)、この地においては呉ではなく、魏の勢威がはなはだ盛んであったから、呉の年号でなく、魏の年号(景初三年や正始元年)をもって自己の製作した鏡(三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡)に銘刻した”そのように考えられたのである。
 これはまことに巧妙な解説であり、一見大陸における作為年号鏡の成果の見事な転用とも言えよう。けれども子細にこれを検するとき、一種解きがたい疑惑の生ずるのを避けることができないのである。
 王氏のような思惟に対し、生起すべき疑問は次の三点である。
 第一、呉の鋳鏡者は右の時点(景初三年、正始元年)以前からすでに日本列島にきたり、三角縁神獣鏡の製作を開始していたこととなる。すなわち卑弥呼以前にすでに三角縁神獣鏡はわが国内で製作中だったこととなろう。このような想定は、いまだわが国において誰人も思い描かなかったところであるが、このような見地の内包すべき困難点につき、後に詳述しよう。
 第二、従ってこの点、わが国の研究史上、考えられてきた呉の鋳鏡者の渡来の仕方(たとえば古田『ここに古代王朝ありき』一五五ぺージ)と全く異る渡来時点が考えられていることとなろう。わたしの場合、その渡来時点を呉の滅亡期(天紀四年、二八〇)をもって可能性の大なるケースのひとつと目したのであるけれども、王氏の場合はさに非ず、卑弥呼以前の呉人渡来説、すなわち呉の孫権の勢威きわめて盛んなりし時期を渡来時点として想定されることとなるのである。
 第三、三角縁神獣鏡の最多出土中心地が近畿(たとえば山城、椿井大塚古墳)にあることは、よく知られたところである。従って右のような見地に立つとき、当然“魏の勢威が盛んであり、魏の年号を呉人(鋳鏡者)に銘刻せしめた”その土地もまた、近畿近辺である可能性が大であることとなる。とすると、「親魏倭王」の印を授けられた卑弥呼は、当然“近畿の女王”である可能性が濃密ならざるをえないであろう。
 王論文の末尾は、
「邪馬台国の所在地が九州か、はたまた畿内かは、当然、今後の継続的な研究をまつべきである。しかし、私は三角縁神獣鏡が東渡の中国工匠の手で日本でつくったものだといっても、このことによって、『畿内説』が不利な立場にはならないと思っている。」(杉本憲司氏訳、「歴史と人物」昭和五十六年十二月号)と結ばれている。当初これを王氏のリップ・サービスのごとく解するむき(8) もあったけれども、右の論旨によって見れば、さに非ず、王氏は“三角縁神獣鏡、魏鏡説を否定してのち、近畿「邪馬台国」説へとおもむくべき”、いわば必然の運命を蔵しておられた、その経緯が了解せられるであろう。
 思うに、王氏が近畿説をとられること、それはよい。また「卑弥呼以前」の呉の鋳鏡者渡来説をとられることも、またよいであろう。けれどもそのさい、看過すべからざる矛盾が確乎として横たわっている。それは次の一点である。
 王氏の立場からは、“三世紀前半において、すなわち「弥生後期」において、すでに年号鏡をふくむ三角縁神獣鏡が近畿近辺で作られていた”こととなる。しかしながらわが国では、周知のように“近畿はもちろん、日本列島のいかなる弥生遺跡からも、いまだ一面の三角縁神獣鏡も出土していない。”これが、問題の基本をなす出土事実である。いいかえれば、三角縁神獣鏡はすべて古墳期、すなわちほぼ四世紀以降の遺跡(古墳)からしか出土していないのである。
 この困難を救うために“案出”されたのが、あの「伝世鏡の理論」であった。富岡謙蔵氏をうけた梅原末治氏にはじまり、小林行雄氏が大成された著名の議論であるが、その骨子は次のようだ。“三角縁神獣鏡は、三世紀前半、近畿なる卑弥呼へと下賜された。しかるにこれを彼女から分与された配下の豪族たちは、自己の墓(弥生墓)にはこれらを一切埋納せしめず、もっぱら次代、次々代へと地上で「伝世」せしめ、四世紀以降(五〜六世紀に至る)の古墳期において、はじめて墓(古墳)の中に埋納することとなった。”と。
 ここで注目すべきは、この梅原 -- 小林説には“一定の論理的整合性”の存することである。なぜならこの場合、
 (一) 三角縁神獣鏡を魏鏡と認定する(鋳上り、文様の鮮明さ、文字による。それにともなう「年号鏡」問題は後述)。
 (二) 従ってその空間上の母域(製作地)を中国本土と認定する(現実の出土例無きことを支障視せず。 ーー「特注鏡」の理論)。(9)
 (三) 従ってまた、時間上の母域(当初の舶載時点)を弥生時代(三世紀前半)とする(現実の出土例が弥生遺跡になきことを支障視せず。 ーー「伝世鏡」の理論)。

 このように論理は進行している。すなわち(二)(三)は(一)という大前提の必然的帰結であり、そのいずれにおいても「母域になし」という事実に、頓着せぬ立場である。いいかえれば、(二)(三)は帰納的方法の帰結ではなく、もっぱら演繹の論理にもとづくものなのである。すなわち、それなりに“一貰した倫理整合性がある。”そのようにこれを評しうるであろう。
 しかるに王論文の場合、第一命題としては“三角縁神獣鏡は中国に出土せぬゆえ、中国鏡〔魏鏡)に非ず。”の立場、すなわち母域実証主義というべき立場に立ちながら、第二命題では、“当鏡は弥生期(三世紀前半)に日本で製作された。しかし、その時期の遺跡(弥生遺跡)には現われず、(伝世されて)次の古墳時代に至って出現した。”という立場に立たざるをえない。すなわちここでは“弥生という、出土事実において皆無の時間領域を母域(製作時点)とし、それが別の時問帯(古墳期)に大量に出現した”とする、母域皆無説、すなわち母域実証主義に立っておられるのである。(10) すなわち、この両命題、全く相矛盾している、そのように見なさざるをえない。
 これをわたしの立場から分析しよう。わたしはこれを横軸(空間軸)と縦軸(時間軸)の問題として認識する。すなわち「その存在(ここでは三角縁神獣鏡の出土事実)の空無なる領域をその『物』の母域と見なしてはならぬ。」これが根本の格率である。従って横軸の場合は、“当鏡の出土例のない中国〔遼東半島もふくむ)を当鏡の製作中枢地と考えてはならない。”のであり、同じく縦軸の場合は、“当鏡の出土例のない弥生遺跡の時代を、製作期ないし当初の分布時点のごとく見なしてはならない。”のである。すなわち両者とも同一の格率、同一の論理構造にもとづくものであって、全く異なるところはない。
 このように一貰した視点から見ると、王説の場合、横軸問題と縦軸問題と、全く相背、反した原理に立っている。遺憾ながらそのようにいわざるをえない。いいかえれば、一方では梅原・小林氏の「三角縁神獣鏡、魏鏡説」を一刀両断に斥けながら、他方では両氏の、右と同じ原理に立つ「伝世鏡論」の背面に依拠する、そういう矛盾に陥っておられるのである。

 

      三

 以上のような王説の逢着した矛盾、それは一体いかなる原由によるものであろうか。
 その核心は先にあげた年号鏡の問題にある、とわたしには思われる。すなわち「景初三年鏡・□正始元年鏡」という形で表記した上、王氏は従来のわが国の「定説」流の見解のままに、“その両者とも、魏の年号である。”という基本認識をうけつがれた。そしてこれを先にのべた「作為年号」として処理されたのである。
 ところが、右の年号鏡(三角縁神獣鏡三、画文帯神獣鏡一)は、いずれも明確な字体をもつものではない。「景□三年」の第二字は不分明であり、これを“魏鏡である。”という前提に立ったとき、はじめて第二字を「初」として推認しうるのにすぎない。しかるに“三角縁神獣鏡は魏鏡に非ず”とし、“画文帯神獣鏡(和泉黄金塚の「景□三年鏡」の場合)をも魏鏡として認定しているわけではない”その王氏が、これを「景三年鏡」として処理されるのは、明白な論理矛盾なのである。
 次の「□始元年鏡」についても同様である。高崎・豊岡の二鏡とも、第一字は完全に欠失している。従ってこの場合も、これを“魏鏡である”という前提に立ったとき、「正始」と推読しうるのであって、決してその逆ではない。また最近、山口県の新南陽市竹島の御家老屋敷古墳出土の破片鏡(五十九片)について、それを集積した結果、(第一字の字画不分明であったけれども)“「泰」ではなく、「正」であろう”という判読をえた旨の報告があったが(西田守夫氏「竹島御家老屋敷古墳出土の□正始元年三角縁階段式神獣鏡と三面の鏡」「MUSEUM」三五七号、昭和五十五年十二月号)、これも判読者側に“この鏡は魏晋鏡である”という前提があり、ならば、この「〜始」の場合、“魏の「正始」と西晋の「泰始」といずれが妥当するか”という設問を立て、その結果、“後者とは読みがたし”という判断から、反転して前者へと判断を帰結されたようである。すなわちこのさいも「魏晋鏡」説が「論証以前」の前提とされているのである(この点、『失われた九州王朝』第一章III 参照。)。従って当鏡について、魏晋鏡はおろか、一切の中国鏡であること自体を拒否された王氏が、右の類の年号認定に従わるべき論理性は全くない。
 このように吟味を加えてくると、王氏がわが国の「定説」者流の「景初三年、□正始元年」鏡説の下地に依拠したまま、その上に自家のアイデアたる「作為年号の理論」を上のせして理解しようとされたことは、学問としての方法論上、根本の論理において、厳格性を欠くものであったこと、それが遺憾ながら判明しよう。

 

      四

 以上によって王論文自体に対する再吟味を終えた。次にその地点から出発すべき、二つのテーマについて論及しよう。
 その発端は、“魏朝から卑弥呼に送られた鏡は、日本列島出土のどの型式の(あるいはいくつかの型式の)鏡と対応するか。”という問題設定である。
 倭人伝に「銅鏡百枚」の下賜が明記されている。これを“実数ならず”とする論者(11) があるけれども、もし“実体は一〜二面か数面、それを誇大に「百面」と記したもの。”と見なした上、“だから日本列島出土の「この(型式の)鏡」という特定はできない。”という不定論へと問題を帰せしめようとするならば、それはあまりにも恣意の立論といわざるをえないであろう。なぜなら〇イ “中国(ことに魏朝)の天子の詔書には数面前後を百面と虚偽記載する慣例あり。”とするような、具体的な実証を欠く上、〇ロ 何よりも、同じ魏帝の詔書中の下賜物に「金八両・五尺刀二口」などとあり、これらの数値を「金百両・五尺刀百口」などと誇大表示した形跡は見当らないからである。以上のような史料事実から見ると、「銅鏡百枚」は、やはり実数(たとえ大約であったとしても)と見なすのが当然である。
 従ってこのような“大量の日本列島への正式かつ一括した流入”が同時代史書(三国志)に明記されている以上、それがわが国の考古学的な出土事実として、全くその痕跡(大量の銅鏡の集中のあと)が存在しないとしたら、不可解。そのように見なすのがきわめて自然な思考の導くべきところであろう。
 この点は、多くの論者、また一般の古代史に関心のある人々にとっても、むしろ常識をなしてきた見地(12) であろうけれども、実は反面、従来ながく盲点をなしてきた問題もまた、存在することを見出したのである。
 それは魏帝(明帝)の詔書中の、次の一節である。
 「・・・・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重に汝に好物を賜うなり。」

 ここには、この「銅鏡百枚」をふくむ下賜物に対する受領方法及び使用方法が明示されている。すなわち第一に、倭国側で記録をとった上で受け取る(録受)こと(その記録は中国側に送られると共に、倭国側にもその控えがおかれていることと思われる)、第二に、これらの下賜物は「国中の人に示す」ために使ってほしい、というのである。いいかえれば“倭国が魏朝に対する。臣属国であること”のPR用といえよう。
 このように使用目的まで明示してあるのであるから、倭国の女王側は当然これに従ったことと思われる。すなわちこれは“倭国の統一の王者(卑弥呼)が記録と共に厳重に保管し、その悉くをもって倭国人に展示する”ことの命令もしくは要求である。決して“倭国王が各地域国の各豪族に分与して彼等の使用にまかせよ。”といった要求ではない。いいかえれば“卑弥呼による悉示”が求められているのであって、決して“地方豪族への分配”ではないのである。
 論じてここに至れば、三角縁神獣鏡の広汎な分布状況(西はは九州より、東は東海地方に至る)、それにもとづいた小林氏の「分与の理論」が、この倭人伝の明記する実態と一致していない、という簡明な事実に気づかざるをえないであろう。
 もちろん、これに対して“なるほど中国側は、都における「集中展示」を期待したかもしれないけれど、倭国内の実情(統一権力と地域権力の相与関係)から、「分与形式」に軌換したのであろう。”というような解釈もなしうるであろう。けれども、それはいわば原文面を“自分の立場”の側にずらして合わせる手法であって、文献理解上、厳正な方法ではない。率直にいって、倭人伝の「銅鏡百枚」をふくむ文脈と三角縁神獣鏡の出土分布図とは、一致していない。 ーーそれが事実であった。ことに“「古墳」への埋蔵”という場合、完全な、地域権力者の“私有化”もしくは“死有化”を意味していることを考えれば、この背反は一段と見すごしがたいところなのではなかろうか。
 この点、従来の考古学界における「銅鏡百枚」論は、いわば単語のみ抽出して“勝手に使う”という使用方法であって、その単語をふくむ文脈をかえりみなかった、そのように評されても、やむをえないのではあるまいか。これを「集中保管・集中展示」の原則と名づける。
 その第二。さらに歩をすすめて、今後の論者にとって決して回避すべからざる盲点についてのべよう。「考古学の編年」問題である。
 わが国では従来、〇A 漢鏡(前漢鏡・後漢鏡)と〇B 魏鏡(三角縁神獣鏡)といった命名が行われてきた。ところが今、王論文の出現によって、このいわゆる「魏鏡」なるものに重大な疑惑が投げられた。というより、もう一歩遠慮なくいえば、中国側(鏡の専門家)で「魏鏡ではない。」あるいは「魏鏡とはいえない。」といっている以上、これをわが国の側でいつまでも「魏鏡扱い」しつづけることは、(いわゆる「勝ち組」主義に堕すると共に)、道理の上において無理、礼の上において失礼。これが率直にいって、今後の実状況となるのではあるまいか。
 ということはすなわち、右の〇Aの「漢鏡」という呼称もまた、再検討を迫られている、ということに他ならぬであろう。なぜなら〇Aと〇Bは一連の概念として、わが国の考古学上の編年基準尺となってきたものだからである。従って〇Bが崩壊して、〇A(の概念)のみ無傷、そういうわけにはいかない。これがことの道理の上において、自明の理である。
 このさい、注意すべきことがある。それは“「漢鏡」説の再検討”ということは、もちろん“この型式の鏡が漢朝において作られていなかった”ことを意味するものではない。重圏清白鏡・連弧文清白鏡・方格規矩鏡など、漢代に盛行したことはあまりにも著明の事実だからである。では、問題はどこにあるか。それはこれらの鏡が“漢朝においてのみ作られ、廃棄されて、その後は作られも使用されもしなかった”鏡か、また“魏朝は漢朝から継受した彪大な「漢鏡」を、すべて無用視して廃棄した”と見なしていいのか、またこの型式の鏡は“漢朝から倭国への下賜鏡”たることを意味するものか、といった問題である。これに対し、その実体は“漢朝に淵源し、魏晋朝にも所有ないし製作が及んだ”ものではないのか、いいかえれば“魏朝からの下賜鏡”でありうることをさまたける、何があるか。 ーーこれが問題のポイントである。
 そしてもし、後者の場合、「漢鏡」よりも「漢式鏡」(周知のごとく、後藤守一氏にこの名の書がある)の名が適切であろうと思われる。
 しかしながら近年の考古学者の中には「漢式鏡」でなく、「漢鏡」の名で呼ぶ者の多いのは、「漢鏡=漢朝下作製の鏡」「魏鏡=魏朝下作製の鏡」という整然たる概念体系(小林理論と対応)を好んだからである。(13)
 これに対してわたしは、ことの道理を基本から考え直すとき、
 (一) 弥生遺跡出土鏡(従来の「漢鏡」や「多鈕細文鏡」など)
 (二) 古墳出土鏡(従来の「魏鏡」たる、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など)

として処理しはじめるのが妥当であると考える。
 そしてこの(一)の弥生遺跡出土鏡(漢式鏡など)に対して“紀元一世紀前後”をあててきた基準尺は、(二)の古墳出土鏡(三角縁神獣鏡)に対し、“三世紀前後”にあててきた基準尺と一連のものであるから、これをともに“廃棄”もしくは“棚上げ”しておいて、新たに、慎重に考えはじめるのが、学問のすじ道であると考えるのである。
 以上のような留意に立って、問題の“魏帝下賜の銅鏡百枚”が何物であるかを考えてみよう。
 その第一条件は、それが弥生遺跡出土鏡である、ということである。 ーーこれは「全面伝世鏡の理論 (14)」というような、奇道をとらざる限り、当然学問の正道に属すべき理解である。
 その第二条件は、先にのべた通り、一中心にその型式の銅鏡が集中して埋蔵されていることである。 ーーそれが倭国の統一権力者の墓域であることを意味する。
 その第三条件は、その鏡の型式が中国側にもまた存在する型式の銅鏡群であることである。 ーーこれは「魏帝からの下賜」である以上、当然である。
 右の三条件を満たすへき出土鏡は存在するか。 ーー然り。わが同の考古学界に周知の通り、糸島博多湾岸を中心とする「漢式鏡」群が、そしてこれのみが、これに妥当する。すなわち全体で約百五十面、その約九割が福岡県、さらにその九割、つまり全体の約八割が糸島・博多湾岸という、狭小の地帯に集中している。従ってこの地域を邪馬一国(従来の「邪馬台国」)の都域(と倭王の出土墓域)に当てること、そしてその時期をもって三世紀をふくむ時間帯と見なすこと、これ以外の見地は存在しえないのである。(15)

 

     五

 さらにこの問題を考察する上に、学問の方法上看過しえぬ点を指摘しておきたい。それは倭人伝中の「物」を問題にするさい、「銅鏡百枚」のみを抽出し、これが“日本列島出土のどの鏡に当るか。”といった目から対応関係を想定する、というやり方は、決して“公正な方法”とはなしがたいことである。なぜなら、倭人伝に記されている「物」は、鏡に限らない、魏帝の詔書中にも、
 A、今、絳地こうち交龍錦五匹・絳地[糸芻]粟ケイ*(しゅうぞくけい)十張・倩*絳(せんこう)五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。又特に汝に紺地句文錦(こんじこうもんきん)三匹・細班華ケイ*(さいはんかけい)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、・・・・。
     [糸芻]は、糸偏に芻。JIS第4水準ユニコード7E10
     ケイ*は、四頭の下に、厂。中に[炎リ] JIS第4水準、ユニコード7F7D
     倩*絳(せんこう)の倩*は、草冠に倩。
     [糸兼けん]は、糸編に兼。JIS第3水準ユニコード7E11

とあり、倭国側にも「矛」や「鉄鏃」がある。

 B、兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃なり。

 C、宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に大有り、兵を持して守衛す。

 もとより、ここに現われたるもののすべてが現在までに「出土」してわたしたちの眼前に姿を現わしているとは限らない。けれども、「銅鏡百枚」と同じく、数量のおびただしいものの場合、それらの出土の痕跡が全くないとは考えられないこと、当然である。
 このような見地から見るとき、Aでは「錦(材質的には絹)」(この点、本書第七篇「シルク・プルーフ(絹の証明)」参照)、Bでは「矛」がことに注目されよう。後者は、倭国の兵士が「儀仗」のごとく持して宮殿を「守衛」している、というのであるから、当然大陸からの、貴重な舶載品(王者の所有であろう)ではなく、「倭国産」の矛であることが考えられる。またその材質は、通例頻出物たる「銅矛」であろうと思われる。とすると、その銅矛を製産した鋳型が日本列島内に出土することが当然期待される。(16)
 右のような次第であるから、倭人伝の中の「物」を扱うさいは、特定の一物(たとえば「鏡」)のみ抽出するのではなく、これら「絹」や「矛」等と複合した形で処理し、もって日本列島の弥生期のこれら出土物との対応を考えるべきであろう。いいかえれば、「一物対応主義」を非とし、「複合対応主義」を是とする。これが対応判定上の正道である。この点、考古学上の方法として肝要の一点に属する、とわたしには考えられる。そしてまた世界の考古学界に通有の定則であろう、と思われる。たとえば、アメリカの考古学界において、このような“出土物の処理と対応証明のルール”が、学者間の論争の中で求められ、使用されているのを見るのである(C・L・ライリー他編、古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った』創世記刊、参照)。
 以上のように、客観的な、考古学の方法によるとき、ここでもまた、銅矛の鋳型を百パーセント算出する「筑前中域」(糸島・博多湾岸・朝倉。博多駅〜太宰府間を中心とする)が、そしてそこのみが三世紀倭国の都邑の中枢域として妥当している、そういう端的な帰結を見出さざるをえないのである。(17)

 

     六

 最後に問題の三角縁神獣鏡の史的性格について、二・三の問題点をのべておこう。
 (一)当鏡が四〜六世紀の古墳から出土している以上、その時代(古墳期)の文明の所産と見るべきであること。
 (二)当鏡がわが国のみに出土している以上、わが国の古代文明の所産と見るべきであること。
 (三)従来は、当鏡(の優品)を「舶載」と考えたため、その大量出土古墳(たとえば椿井大塚山古墳)をもって古墳期冒頭(四世紀初)の成立と考えやすい傾向があった。従って逆に、当鏡の「イ方製」と考えられたものをもつ古墳(たとえば、糸島の銚子塚古墳)の場合は、時期を下げて考える傾向と、これは表裏していたのである。けれども、「舶載」説そのものの斥けられた場合においては、このような“画一的な判断傾向”に対しては、さらに再考を加えるべきであろう。すなわち新たな前後関係を、鏡以外の副葬品等に注目しつつ、再考慮を加えねばならぬこととなるであろう。
 (四)“墓の中に鏡を好んで埋納する習慣”これがわが国の古代(弥生遺跡。古墳)を貫く、注目すべき出土傾向であることに異論をとなえる人はあるまい(わたしはこれを「多鏡墓文明」と名づけた、『ここに古代王朝ありき』参照)。そしてその傾向が弥生期の「筑前中域」に発祥したこともまた、万人の首肯するところであろう。(18)
 この点、重要なことは、九州の古墳期もまた原則としてこの傾向を継承していることが認められる事実である。たとえば「銚子塚古墳」(糸島、二丈町)「老司古墳」(福岡市)「江田船山古墳」(玉名郡菊水町)等がこれである。すなわち“鏡を(宗教上)尊重し、愛好する独自の文明は、九州の地において「弥生〜古墳」と継承されている。”これが、わたしの「九州王朝」として規定したところのもの、その考古学的な一反映である。
 ところが、古墳期に入ると、この九州多鏡墓文明の一派生勢力が近畿に波及(侵入)し、豊富な、日本列島中央部の産銅を背景にしていた、銅鐸文明の産銅と銅技術を母体とした一大銅文明(銅鏡等)を開花させることとなった。そしてこの土壌の上に立ってこそ、中国の鋳鏡技術者が迎え入れられたものと思われる。
 しかも九州の方が、中国を中心とする東アジア中枢の大勢に影響されてか、かつてのような莫大(三〜四十面)の多鏡墓を見なくなったのに対し、近畿は、九州の弥生期に次いで、莫大な鏡をもつ古墳文明へと、遅れて到着したもの、と見なされるのである。そしてその中で、問題の三角縁神獣鏡の分布状況が生じているのである。すなわち当鏡は、九州に淵源し、近畿に波及した古墳期文明の所産なのである。
 従って一方、倭人伝の「卑弥呼の鏡」とは、当然ながら右の型式の鏡ではなく、九州弥生期における、多鏡墓文明源流域(筑前中域)に埋蔵された銅鏡(漢式鏡)でなければならなかったのである。
      ※           ※
 以上が、銅鏡を通じて見た、わたしの日本古代文明の(九州と近畿の関係に対する)展望であるけれども、このような重大なテーマを検証する上で、 ーー周知のことながらーー 最大の障害の存在することを遺憾とする。それは近畿の古墳期文明の中枢をなすべき巨大古墳(いわゆる「天皇陵」古墳)の実体(埋蔵鏡等)が、ほとんど全く不明のまま、久しく“禁地”とされてきていることである。
 次々と古代遺跡を発掘し、調査し、その成果を世界の学界の面前に提供している中国考古学界の代表的研究者の一たる王仲殊氏に対し、わたしたちはいたずらにその論文における“不十分さ”を論ずるをもって足れりとなしえないこと、かえってわが国の学問的用意の“未開”なること、それを最後に深謝し、遺憾の意を表して本稿を結びたいと思う。(19)

 

  註
  (1) 初報は共同通信(杉山庸夫氏)。たとえば新潟日報、九月十三日。

  (2) 森氏の立場は、年号鏡(景初三年鏡・□正始元年鏡)に対する判断をめぐって再三変転している(最近では、「季刊邪馬台国」十一号、「王仲殊論文をめぐるQ&A」参照)。

  (3) 「銅出徐州」のみ、一例ありとする(遼寧省遼陽の魏晋墓出土の方格規矩鏡)

  (4) ただ王氏はこの一連の句を「虚詞」と見なす説を提出された(わたしの場合は文字通りの実体視説)。

  (5) 森浩一『古墳』保育社刊、昭和四十五年、一二六ぺージに紹介。

  (6) 梅原末治『漢三国六朝紀年鏡図説』参照。

  (7) しかしながら、ここに一個の、王氏に対する問いがある。それは“呉地で作られたにせよ、魏の年号(正朔)を奉じている以上、大義名分上、やはり「魏鏡」ではないか。”という問題である(先出の樋口倫文でも、この点にふれておられる)。

  (8)  たとえば註 (1) の報道。

  (9)  富岡謙蔵『古鏡の研究』二七ぺージ、「日本出土の支那古鏡」参照。

 (10)  もし王氏が、わが国の考古学界における、「三世紀、弥生期」説を否定し、年号鏡出土の各古墳をもって「三世紀遺跡」と見なされる、としたならば、そのための具体的な物証(鏡以外の副葬品をふくめて)が当然必要であろう。

 (11)  たとえば松本清張氏。『論争邪馬台国』平凡社刊、四五ぺージ、参照。

 (12)  森浩一氏は、現在の出現数を「せいぜい五面か十面」と見ておられる(右著、三一ぺージ〕

 (13)  たとえば田中琢『古鏡』(日本の原始美術〇8)、講談社刊参照。

 (14)  これに対し、“多数が同時代遺跡埋蔵、一部が後代への伝世。”という、「部分伝世」こそ自然のケースである。

 (15)  また、この「魏帝より卑弥呼への下賜鏡」が“魏朝新作鏡”とは限らないこと、かえって漢朝からの正統の禅譲を証明すべき“前代(漢代)の古鏡”である可能性について、『ここに古代王朝ありき』で詳述した。

 (16)  これに対し、鉄矛は弥生期において貴重物であり、「守衛」者の持ち物(儀仗)として、ふさわしくない。また石矛も、銅矛の分布と矛盾しない。

 (17)  『ここに古代王朝ありき』第一部参照。

 (18)  これはおそらく太陽信仰の宗教と関連するものと思われる(右著書第二部参照)

 (19)  最後に、看過すべからぬ重要な指摘を付させていただきたい。それは将来もしかりに中国本土や遼東半島や朝鮮半島から一面もしくは数面等の三角縁神獣鏡が出土したとしても、それは必ずしもこの別式の鏡が本来中国製や遼東半島製や朝鮮半島製であることを証明するものとはなしがたい、という一点である。なぜなら“日本列島(大量の原産)から大陸・半島側への流出(献上・交流等)”というケースの可能性があるからである。“量の多寡”という相対関係から見て、そのような方向の理解が(年代上の「新・古」の明白ならざる限り)、むしろ学問上の正道でなければならぬ。この点の注を特に喚起させていただきたい。


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