古田武彦・古代史コレクション15 『多元的古代の成立(下) -- 邪馬壹国の展開』 へ
第六篇 考古学の方法 -- 王仲殊論文をめぐって 古田武彦
第七篇 シルク・プルーフ(絹の証明)

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あとがきに代えて

汪向栄氏の批判に答える

古田武彦

 本書(上・下巻)は、昭和四十四年以来の(下巻第四篇を除く)、わたしの古代史学の論文を掲載した。それは従来の日本の古代史学の「定説」に対する、わたしの批判である。
 この学術論文集によって、わたしは日本の古代史学界に対する異議、八世紀以来、千二百年に及ぶ「定説」の根本概念に対する、いわば“正式”の抗議を提出したこととなる。
 なぜならわたしの古代史に関する第一書『「邪馬台国」はなかった』以来、次々と日本古代史学界に対する、学的挑戦を行ってきたのであったが、それらは必ずしも学界より多く酬いられることがなかった。ここで“酬いられる”と表現したのは、すなわち賛否の学的見解の出現である。
 もちろん真理の学的探究が真に“酬いられる”ゆえんは、永遠の彼方にあろう。決して近々数十年や数百年内の反応のことではない。けれども、近代の学問的研究が交互の批判と反批判を通じて着々と進展してきたことは、いかなる学的領域を問わず、研究史上の常態もしくは本来の形姿であろうから、わたしはただ日本古代史学という学問の進展のために、この一事を望んだのである。ことに、もしわたしの提起が正しければ、従来の日本古代史学・考古学の基本をなす眼晴が失われることは、明らかである。その眼晴とは何か。すなわち日本列島内における中心的権力者は近畿天皇家のみ、という根本の立場である。これに反し、“この中心視点を固持する限り、平静にして客観的な日本古代史の把握は不可能。”これがわたしの提起の根本問題だからである。
 しかしながら、従来のわたしの提起が多く一般書の形をとっていたために、古代史学・考古学の学界からの学的反応の乏しかりしかと思量し、それを憂え、今回、学術論文集の形をもつ、本書を世に問うに至ったのである(ただ、一つ異形の「九州王朝の証言」は、わたしの立場の概観に便ならしめるために加えたものである)。
 もって、一般の探究者と共に、ことに関係学界の専門的研究者による忌憚なき反応と批判を期待したい。

               ※      ※

 昨年(昭和五十六年)の秋、電光のごとくわが国に渡来しきたった、一個の論文があった。本論文集にも、それに対するわたしの応答を掲載した、王仲殊氏の論文である。
 次いで、今年(昭和五十七年)の春から夏、第二の佳音が聞こえてきた。汪向栄氏の『邪馬台国』(三月。北京、中国社会科学出版社刊。以下、汪著と呼ぶ)。「弥生中・後期における近畿地方の生産力発展状況と邪馬台国所在地」〔弥生中後期近畿地区生産力発展状況和邪馬台国的地理位置〕(中国社会科学、一九八二・三号。通巻第一五号、五月十日刊。以下、汪論文と呼ぶ)がこれである。
 中国側の研究者から「邪馬台国」問題に関する単刊本や論文を得る。このようなことは、まことに古来稀な現象である。その一点のみにても、わたしたちはもって大いに珍とし、これを貴としなければならぬ。
 しかも汪氏は、汪著の中で、わたしの邪馬壹国説を再度にわたってとりあげ、しかもかなりの紙数を費して、かつは評価し、かつは批判を加えて下さった。いよいよ、わたしとしては、感慨深きもののあったことは、誰人にも察していただけることであろう。従ってその学恩に酬いるため、以下簡明ながら学的な応答をさせていただき、もって跋文の終尾を飾らせていただきたいと思う。
 第一に、氏は、わたしの邪馬壹国説に対して、
「“邪馬臺国”かそれとも“邪馬壹国“かという問題においては、私の立場は極めてはっきりしている。宋版の『三国志』において、絶対確実なことは、“邪馬壹国”という字句を用いていることで、この様な事は以後の史書(正史)にも用いているものもある。しかし、そのもともとの初版本もそうだとは考えられない。つまり、伝承の間の誤りの可能性が極めて大きいのであって、版をほる時に至っても訂正しないでもと通りにひきついできたのである。
 以上によって“邪馬臺国”が“邪馬壹国”に変った最大の可能性は伝承と刊刻のときの誤記にあって、『魏志』『魏略』の編さん者陳寿・魚豢とは無関係である。」(北山訳。巻末参照)
として反対される。
 そのために、以下のような論拠をあげられた。
「いわゆる“邪馬壹国”説の根拠はただ次の一点である。即ち、現存の『三国志』の最古の刻本すなわち紹興本あるいは紹煕本では、邪馬台国の台の字のところはすべて“壹”とし、“臺”となっていない事である。後の比較的良好な版刻本 ーー汲古閣本や武英殿本のようなでさえもーー “壹”となっていて、“臺”とはなっていないのである。このため、正確な表わし方は、“邪馬壹国”でなくてはならず、“邪馬臺国”であってはならないのである。証明のために、また“臺”と“壹”の用法上の違いが取りあげられ、“臺”の字は“特殊で至高な文字”であって、尊び敬うところにしか用いられず、夷蛮の国の称号に用いることはそもそも不可能であるとした。
 事実も、たしかにその通りで、我々が、現在比較的古くて良好な版刻本に見ることができるものは、すべて“邪馬壹国”となっており、“邪馬臺国”とはなっていない。しかし、だからと言って陳寿の『魏志』・魚豢の『魏略』の原文が“邪馬壹国”であって、“邪馬臺国”となっていなかったとみなすことができるだろうか?
 中国の史書で“邪馬台国”を取りあげているのは『魏志』一冊ではない。正史の中でさえ『後漢書」『梁書』『北史』『隋書』等がある。これらの史書の大多数は、『魏志』にもとづいて書かれたもので、だからこれらの史書の中で用いる字に対して、“壹”と“臺”の二字をきめる時に、判断参考の用に充てることができた筈である。」
 そして後漢書や梁書・北史・隋書等に「邪馬台国」とあるをもって、「邪馬台国」の正当な証とし(巻末訳文参照)、もって、三国志の紹興本や紹煕本などにのみ目をやった、古田の論は成立しがたい、とされたのである。
 けれどもわたしの第一論文「邪馬壹国」や第一書『「邪馬台国」はなかった』を実際に御覧いただければ、直ちに判明するように、“これら(後漢書・梁書・隋書・北史・太平御覧等)の後代史書の邪馬臺国の字面を是とし、先行史書たる三国志の全版本が一致して伝える邪馬壹国の字面を非とする、従来の見地が果して史料批判上妥当かどうか。”
 それを問うことこそが、まさにわたしの研究の出発点となっていたのである。
 従って“古田は三国志にばかり目をそそぎ、後漢書以下の邪馬臺国に目をそそぐことをしなかった。”というごときていの、氏の把握は、研究史上の事実と全く相反していることを遺憾とする。
 また氏は「古田は、中国の古書の中で、“台”の字が一般にすべて比較的崇高な事物をあらわすのに用いられ、蛮夷の国名としては用いられ得ないということを提起した。」(古田提出、在中国的古籍中、“台”字一般都是用来表示比較崇高事物的、不会用来作為蛮夷等国名上。(傍点、古田、インターネット上は赤色表示))として、わたしが“中国古代史書一般にすべて、「臺」字は(夷蛮の国名表記としては)用いられえない。”と主張しているかのように、理解されているようであるが、これもまた全くの誤断である。それはあくまで三世紀の問題であり、なかんずく三国志それ自身の問題である(その点、西晋代初頭までに成立した王沈の魏書すら、必ずしも三国志とその立場を同じくしていないこと、「多元的古代の成立」〈本書上巻所収〉の冒頭にのべた通りである)。
 従ってもし氏のような理解に立ったならば、すなわち後漢書以降の後代史書の「邪馬臺国」字面の存在の指摘をもって、わたしへの反論となしうるであろうけれども、遺憾ながら、その肝心の(わたしの所論そのものの把握の)真を失えること、右のごとくであった。
 また氏は、翰苑所引の広志中の「邪馬嘉国」をもって“邪馬臺国に近し”として、これをも「臺」の方の正しきことの一証とされているけれども、この点、すでにわたしには、実証上の史料批判がある。それは次のようである。“この国名(邪馬嘉国)は、翰苑の倭国の部の中の「中心国記載」ではなく、「傍国記載」の項に引用されているものであるから、これは文字通り「山鹿(ヤマカ)」(熊本県北部)であって、決して(中心国名としての)邪馬壹国や邪馬臺国のあやまりと見なすべきに非ず。”としたのである(『邪馬一国への道標第四章)。
 氏は右の本をわたしの主著の一にあげておられるけれども( (1) 不審にも『「邪馬台国」はなかった』は入っていない)、その内容たる、右の「邪馬嘉国」問題へのわたしの史料批判に対して、全く顧慮をはらわれた形跡の見られないことを遺憾とする。
 またわたしが、第二著『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、角川文庫所収)以降で展開した“後漢書の「邪馬臺国」はあやまってはいない。それは著者范曄の当時たる五世紀における倭国の中心国名である。”という命題についても、目にしておられぬように見えることをもまた遺憾とせざるをえない。
 また氏は、わたしが中国史書無謬説や宋刊本無謬説の類に加担しているかのように、わたしの説をうけとられているようであるが、全く左に非ざること、すでに読売新聞紙上における榎一雄氏との短期集中的論争(「邪馬壹国への道」として、『邪馬壹国の論理』朝日新聞社刊、所収)において、一々詳説したごとくである。
 もし氏がこれらのわたしの年来の論点に実際にふれておられたならば、氏の反論は、あるいは精徴・深切の論となりえたであろうことが、わたしには惜しまれるものである。
 なお、三国志における「壹、是。臺、非」を裏付ける、わたしの最新の論証として、「闕の論証」の発見されたこと、本書所収の「多元的古代の成立」の冒頭に論じたごとくであるから、今後のこの問題の論争には、この点の吟味と応答とが学問上必須となろう。この点を特に付言したい。
 第二に、汪氏における「邪馬台国」近畿説の独自の論点は人口密度の問題である。氏は、小山修三氏の論文「縄文時代の食糧と人口」〔“Jomon Subsistence and Population” Miscellanea 1, Senri Ethnological Studies 2,1978〕(大阪府吹田市千里、国立民族学博物館)によって、弥生後期における人口として、
  近畿 ーー 一〇九、四〇〇人
  中国 ーー 五九、四〇〇人(注、略)
  四国 ーー 三〇、五〇〇人
  九州 ーー 一〇六、三〇〇人

の表をあげ、近畿・九州のそれぞれの、一平方キロ当りの人口密度を、
  近畿 ーー 三・三三人
  九州 ーー 一・五六人
とされた。そしてもって「邪馬台国」近畿説の証とされたのである。 (2)
 しかしながら、この論証の手法には、基本的な難点があるようにわたしには思われる。なぜなら○1 中国大陸の平野部とは異なり、山地の多い日本列島において単純に全体的な人口密度をとることは、中枢地のそれとしては、意義が少い。○2 近畿全体や九州全体をもって「邪馬台国」の範図とする論者は存しないようであるから、もし「邪馬台国」という「都の人口密度」を問題とするなら、近畿及び九州の中の問題の領域(都の地に擬したところ)そのものの人口密度を算出するのでなければ、的確な論証点とはなしえないであろうからである((3) 氏自身、汪著で再三表明されているように、近畿中の一部たる「大和」をもって都邑の地と見なされているのであるから、この論点は逸しえぬところであろう)。
 これに反し、小山論文の表からは、弥生期の当時においては、近畿と九州とそれぞれ相拮抗する人口を有していたこと、従ってこの表のみからは、いずれが問題の中枢権力地、つまり都の領域とは容易に断じがたい。 ーーこれが小山氏の研究成果に対する、「我田引水」ならぬ、客観的な使用方法なり、と見なすべきではないかと思われる。 (4)
 第三に、氏の論証の中心テーマたる生産力説について吟味しよう。
 氏は○1 銅の使用量において、近畿中心の銅鐸が北部九州中心の銅利器類より、格段に多くの銅材料を要すること、○2 銅利器が中国文化の模倣品にとどまるのに対して銅鐸は日本列島における独創的な器物であること、をのべ、このように量と質の両面において、日本列島の弥生銅文明の中心は銅鐸生産にあり、とされ、もって「邪馬台国」近畿説の最強の証拠と見なされたのである。この点について吟味を加えよう。
 最初の量問題については、誰人にも異論がない。だが、次の問題については問題がある。この点、A・B・Cの三点についてのべよう。
 Aは「模倣と独創」の問題である。
 北部九州の銅利器の原型が中国側のそれにあることは当然ながら、同じく銅鐸の原型は中国の鐸(金鐸 (5)・木鐸。いずれも銅製)もしくは編鐘、あるいは朝鮮半島の馬鐸にある。そして前者の中広・広型銅利器が中国の原型にはなき拡大型であるのと同じく、銅鐸もまた右のような中国、朝鮮半島の鐸類に対する拡大型と見なすべきは当然である。とすると、その一方のみを模倣物、他方は独創物と規定することは、大同小異の実状況に対する、あまりにも主観的な弁別、そのようなそしりをまぬかれがたいものではあるまいか。
 この点、実は注目すべき器物類が他にある。たとえばガラス(玻璃)の勾王・巴型銅器・銅釧等がそれである。ガラスの製法そのものは中国文明に源流することは当然ながら、当の勾玉はもちろん日本列島特産の器物である。その源流は九州の縄文期に由来する。従ってこのガラス製の勾玉が、日本列島独自の製作品であることもまた当然である。この鋳型は、北部九州の博多湾岸(春日市)と近畿の東奈良遺跡(大阪府茨木市)とに出土する(6) けれども、前者が巨大形であるのに対し、後者は微細形である。(7) 倭人伝にいう「青大勾珠」が巨大形の勾玉を意味するていである点からも、邪馬一国(いわゆる「邪馬台国」)問題を論ずるに、これは逸しえぬ器物である。そしてこれこそ倭国独自の器物である。従ってそのガラス製品は文字通り独創的な器物なのである。
 さらに今問題の銅製品についていえば、巴型銅器こそ日本列島独白の独創的製品であり、大陸側に出土例を見ない。また立体的突起物として、製法もかなり高度の技法を要するものである。そしてこれまた弥生期においては北部九州の特産品であること、周知のごとくである。
 また同じく銅釧は、縄文期以来の貝釧を源流とした銅製品であるから、これが日本列島における独創物であること、疑う余地がない。そしてこれもまた弥生期においては、北部九州最多の特産品であること、周知のごとくである。
 以上のように、真に“日本列島における独創”と称すべき器物を汪氏はあらかじめ切り捨て(あるいは存知されず)、その外で“模倣と独創の比較論”を立てておられるのは、失礼ながらきわめたる錯雑に類するものと称せざるをえないのではあるまいか。
 Bは「統一」の問題である。
 汪氏の学説の根本たる、生産力発展説の立場から、氏は“日本列島中いずれが生産力の中心か。”という問いを立てられ、それに対する回答として、“弥生前期には北部九州、弥生中・後期には近畿”という帰結をえられたのである。そしてそれをそのまま“近畿大和こそ「邪馬台国」”という、氏の結論を産み出す最大の論証とされたのである。
 けれども、ここに一個の肝要の問題がある。それはもし氏のいわれるように、弥生前期において北部九州が日本列島中最高の、銅器の生産力中枢地であったとしても(たしかにそれは事実である)、それが直ちに“北部九州の権力が日本列島全土を統一していた”ことをしめすものとはなりえない。考古学的かつ実証的に観察すれば、その銅利器の分布圏(淡路島以西)のみが、その勢力範囲すなわち統一支配力もしくは影響力の及んだ地域、 ーーそのように見なすことこそ客観的な観祭結果に他ならぬであろう。この点をのりこえて“北部九州の日本列島全土支配”を主張したならば、それは出土分布事実の裏付けなき揚言にすぎぬ、とせねばならぬであろう。
 それと同じく、かりに氏のいわれるごとき“弥生中・後期においては、近畿こそ銅器生産力のもっとも発達した領域”という主張が正しかったとしても、それは“近畿の勢力の日本列島全土支配”を証明しはしない。その支配と影響領域は、具体的な出土物、すなわち銅鐸の出土分布圏をそれと見なすべきこと、右のケースと論理上同一でなければならぬ。
 それは氏も記載しておられるごとく、西は広島県、東は静岡県までがその全分布領域であり、山口県以西や神奈川県以東にはいまだ及んでいないのである。 (8)
 この点、朝鮮半島に例をとってみれば、事態はより鮮明となろう。すなわちそこには高句麗・東沃沮・歳*・馬韓・辰韓・弁韓といった国々が分立していたこと、三国志東夷伝のしめすごとくである、しかるに論者あって、右の国々の中でいずれがもっとも生産力が発展していたかを銅器等について調べ、その結果にもとづいて、それと目された、たとえば高句麗が“他の国々を統一して朝鮮半島南岸に及ぶ大高句麗国をすでに形成していた”などと論ずるなら、明らかに歴史上、大なる誤断である。
     歳*(わい)は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA

 また当時楽浪郡(や帯方郡)が全朝鮮半島や全日本列島を通じて最大の生産力を集中所有していたことは、おそらく自明、もしくは大きな可能性をもつ、事実であろうけれども、かといって、それゆえに“朝鮮半島全域や日本列島全域はすべて中国の直轄領となっていた”かのように論ずるとしたら、これもまた歴史上大なる誤謬といわざるをえない。
 このことはまた、現代二十世紀の東アジアにおいて、最大の生産力をもつ領域をとり、“その地が全東アジアを統一していた”などという論議をなす後代の論者があったとすれば、いわずとも、この種の論法の非はおのずから明らかなところであろう。
 要するに、物質的生産力と政治的統一とは必ずしも同一レベルのテーマではない。従って短兵急にこの両者を同一視して論ずることは許されない。ことに銅鐸のような、武器ならぬ、非軍事力的な器物の場合、この点の注意は、一段と肝要であろうと思われる。
 汪氏の生産力論には、“当時の日本列島(の大半)は統一されていた”という、未検証の大前提があった。そこにこそ氏の論断の非論証的大前提、すなわち最大の弱点が存在しているのではなかろうか。逆に銅鐸の出土分布という「物」そのものの出土事実に即する限り、近畿の銅鐸生産中心の影響力は、広島県より西にはいまだ及んでいない、これが厳正な出土事実であった。そのことはすなわち、当時の日本列島は、いまだ統一されていない。 ーーこの一点を厳しく指示しているのである。
 Cは「中心」の間題である。
 従来の日本側の近畿説の論者は、“「邪馬台国」を「ヤマト」と読んで大和に当てる”という旧習にとらわれていたため、“銅鐸の生産中心(鋳型の最大集中出土地)が摂津(大阪府茨木市東奈良遺跡)にあって、大和にはない。”という、肝要の事実からながらく目をそむけてきた。これが問題のその一である。
 さらに従来三世紀に当るとされた弥生後期においては、大和は銅鐸の皆無地域をなしている。これが問題のその二である。
 このような、二個の重大な出土事実の実態に対し、銅鐸という生産力の最大集中存在という一点に論証の力点をおかれた氏が、意外にも目をおおわれたこと、それがわたしにはことに惜しまれる。氏のような、銅鐸という「物」の生産力という視点から論ぜられる論者の場合、旧習の「大和」を捨て「摂津」をとり、「摂津、邪馬台国」説の樹立を新たに試みられることこそ、氏の論理の赴くべき唯一の道ではなかったかと思われるのである。
 第四に、もっとも肝要な一点を最後にのべよう。
 氏のように、「物」から倭人伝の中心国(邪馬一国。いわゆる「邪馬台国」)を探究せんとする立場は、その基本においては、はなはだ正当な方法であるとわたしには思われる。ただそのさいは、倭人伝中にあらわれるすべての「物」がその考察の対象とならねばならぬ。それは「矛」「鉄鏃・骨鏃」「鏡」「五尺刀」「中国錦」「倭錦」「白珠」「句珠」「真珠」「鉛丹」「金」等である。
 右のうち「矛」(銅矛)が北部九州に集中していることは、自明である。さらに「鉄鏃」もまた弥生期において、銅鐸圏(広島県から静岡県まで)ではなく、銅利器圏(北部九州を中心とする)に集中していることは、著明である。さらに「中国の絹(錦)」も「倭国の絹(錦)」も、弥生期においては北部九州にしか出土しない。この事実もよく知られている。
 これらの点の“総合的な把握”の上に立つのでなければ、たとえ「邪馬台国」と名は称しても、その実体は“倭人伝中の中心国とは、似て非なるもの”となり終る他ないであろう。いわゆる“名存実亡”の非である。
 なぜなら倭人伝の中の邪馬一国(いわゆる「邪馬台国」)とは、“右のような諸物の物質的状況をともなった、中心国”なのであるから、その肝心の物質的な史料事実全体を無視した議論は、実は観念的な史料処理に過ぎず、ひっきょう“レッテルと中味は別”の非難を到底避けることができないであろうからである。
 このように論じきたれば、汪説の最大の脆弱点は、意外にも次の点にあることが明らかとなろう。 ーーいわく“倭人伝の邪馬一国には、銅鐸という物質の描写が皆無である。”と。この一点である。
 なお氏が汪著において論及された、さまざまの論点に対しては、あらためて詳論させていただくこととし、今はその論点のポイントのみをのべさせていただいた。
 さまざまの見解の相異にもかかわらず、否、それあればこそ、汪氏がわが国の古代史上の年来の課題に対して果敢に論述を及ぼされた上、わたしのような在野の一研究者に対して敢えて御批判を賜わったことを、厚く厚く深謝したい。
 そして他日、東京や関西ないし北京等の地において、氏と親しく相会し、学問の論議の友好交流の忌憚なく行われる日を鶴首待望させていただきたいと思う。


 (1) 汪向栄氏の註は左記の通りである。
   古田武彦が一九六九年以降、、邪馬壹国に関して発表した論文、著書及びに報告はかなり多いが、その中で比較的主要なものは、
  「邪馬壹国」(「史学雑誌」第七八巻九期、一九六九年九月)
  「邪馬壹国か邪馬臺国か」(「日本史研究」第六九期、一九七〇年六月)
  『邪馬壹国への道標』(一九七七年、講談社)

 (2) 汪氏の小山論文引用に関して、先ず二つの問題点がある。
  第一、汪氏は引用数値を「弥生後期」のものとして扱っておられるけれども、小山論文(五六ぺージ)自体の表によってみると、これらはYayoi(1/3)の数値であり、弥生の前・中・後期を通しての数値となっている。
  第二、九州の人口密度「一・五六人」は「二・一五三人」のミスである旨、古田からの疑問に対して、小山氏自身が訂正された(昭和五十七年十一月十二日午前)。

 (3) 森浩一氏も同類の趣旨を「歴史と人物」昭和五十二年十月号(一〇九ぺージ)の、小山氏との対話でのべておられる。

 (4) 小山論文は一般に巨視的・俯瞰的な視野に立つ研究であり、「邪馬台国」の所在を決すべき資料としては、不適切であること、小山氏自身も肯認されるごとくである。

 (5) 木鐸・金鐸 ーー 『周礼』地官・鼓人、注。『日知録』経義、木鐸(古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社刊、一九五〜六ぺージ参照)。

 (6) 吉備にも可能性がある。

 (7) 東奈良遺跡のものは、微細勾王の連続製造型である。

 (8) 北部九州出土の小型銅鐸(実物・鋳型)は、別個の問題に属する(別に詳述)。

         昭和五十七年十月下旬稿、十一月十二日論書了。


資料 汪向栄著「邪馬台国」 抜粋

七十四ぺージ〜 邪馬壹国
 古田武彦はこの間に、その意見を提起し、過去の邪馬台国論争は根本的に問違っているとした。彼は一九六九年出版の「史学雑誌」に「邪馬壹国」と題する論文を発表、以後次々と著書・論文を出しその問題点を説明した。
 彼によると、原書では“邪馬壹国”に誤りなく、それを「邪馬台国」に改めるのは問違っているとする。彼は現存する「三国志」中最古の紹興本と紹照本及びその後の割合良好な版本である武英殿本・汲古閣本などを根拠にして、“邪馬壹国”の“壹”の字についてはすべて“壹”とし、“台”とはしていないから、原文はもともと“邪馬壹国”であって、“邪馬台国”ではなかったと主張する。この主張から出発して、彼は過去の論争はすべて誤りであるとし、従って従来の諸学者のこの方面の成果と主張を根本的に否定している。
 “邪馬壹国”かそれとも“邪馬台国”かというこの問題は、すでに一九六〇年橋川時雄が提起したことがある。しかし橋川は邪馬壹は島夷の二字の訛りと考えたに止り、古田のように従来の旧説をくつがえして、別の主張をなそうとしたものではない。
 古田は、中国の古書の中で、“台”の字が一般にすべて比較的崇高な事物をあらわすのに用いられ、夷蛮の国名としては用いられ得ないということも提起した。この理由によって彼が邪馬壹国の、原文に誤りがないと主脹することの、正しさを証明した。彼のこの種の論法は、日本の学術界に一つの波紋を投じたことは確かである。ところで事実はあくまでも事実であって、中国の古書中の刊刻(版木に彫ること)に見られる魯魚の誤(魯と魚を間違えること)を利用して一時的な好奇心をそそることはできても、学問的な価値から言えば、さして効用があるとは言えない。特に、「魏志、倭人伝」から当時の日本列島上の社会構造・政治・生産情況などの具体的な事実を理解し、乃至は邪馬台国の所在の問題を研究しようとする上にさしたる効用があるとは言えないのである。このため、現在に到るも古田は私見にもとづく論文、著書を次々と発表し頑張っており、かつ彼に付和する人々もいるが、しかし日本の史学界には彼のこの種の意見に反論するものが多く、理由も彼より充分であり、説得力も強い。事実、中国の古書にあっては、壹と臺の字は屡*々間違われ”しかも「後漢書」などのように宋本よりも早期のものは、すべて“臺”であって、“壹”ではなく、このため古田説には吟味の必要があるのである。ところで、これも最近十数年来のことで、日本における邪馬台国研究史に新しい一頁を加えるもので、その根拠は必ずしも充足していないが、充分な説得力をもっている。この敢えて推理する手法は学術研究にあって喜ばしいことであり、また価値あることでもある。更に注目に値することは、古田の説は、一般の、専門家でない愛好家の間に共鳴を呼んでいることである。
     屡*は、尸の中に婁。屡の異体字。JIS第3水準ユニコード5C62
                              ※   ※
二二五ぺージ〜 邪馬壹国
 第二次大戦以後、日本歴史学界は、ある種の研究領域で、以前には想像もできない程の飛躍発展を見た。ただ進展が早かったので、学術研究の範囲を越えるものもあった。この邪馬台国の研究の分野でもその他の古代史と同様に例外ではなかった。その中で、比較的顕著なのは松本清張と古田武彦の論点である。
 松本清張は、彼の書いた「古代史疑」と「陸行水行」等の著作の中で常に邪馬台国を取りあげ、しかもまだ誰もが用いなかった手法で提起した。この手法は比較的斬新ではあるが、ある人の批判している如く牽強付会で、学術研究として扱うことができないもののようである。
 もともと彼の試みた手法は、小説を書く際の題材となるもので、文学芸術上の真実は必ずしも、歴史上の真実とはならず、この両者は同じではないのである。文学者が、史料を認識解釈するに当り、歴史家と同じような正確さと精密さを要求するのは無理である。このため、この種の性質の論点に対しては、歴史の問題として注意を払う必要がなく、また学術研究として扱うには及ばないのである。
 ただし史学研究家の立場から提起し、特に専門史家刊行物に発表した古田武彦の論点即ち“邪馬壹国”の論点に対しては、重要視しないわけにはいかない。
 “邪馬壹国”の提案は、ここ数年のことではなく、また古田武彦が言い出したことでもない。すでに一九五七年橋川時雄がこの種の読み方とこの問題を提起している。ただし彼は、“邪馬臺国”の臺は壹の誤りであり、“邪馬壹”は、島夷(やまい)の音から来たものと考えたに止り、その他の方面には論及しなかった。このように彼が提起してから後も適切な注意と重視をしなかった。しかし、今回の古田武彦はそうではなく、一九六九年の「史学雑誌」(七八巻九号)上に、論文を発表しただけでなく、以後たえず文章を書き、出版したり講演会で発表したりして、その主張を明らかにし、しかも今尚これによって論争をまきおこしている。今回の論争が今後の邪馬台国研究の方向に影響を及ぼし、日本古代史のある方面に波及し、しかも史料に対する牽強付会あるいは断章取義的な解釈ではないので、一考に値するのである。(※ 先記一九六〇とは別稿 -- 古田)
 いわゆる“邪馬壹国”説の根拠はただ次の一点である。即ち、現存の「三国志」の最古の刻本すなわち宋の紹興本あるいは紹煕本では、邪馬台国の台の字のところはすべて“壹”とし“臺”とはなっていない事である。後の比較的良好な版刻本 ーー汲古閣本や武英殿本のようなーー でさえも“壹”となっていて、“臺”とはなっていないのである、。このため、正確な表わし方は、“邪馬壹国”でなくてはならず、“邪馬臺国”であってはならないのである。証明のために、また、“壹”と“臺”の用法の違いが取りあげられ、“臺”の字は“特殊で至高な文字”であって、尊び敬うところにしか用いられず、蛮夷の国の称号に用いることはそもそも不可能であるとした。
 事実も、たしかにその通りで、我々が、現在比較的古くて良好な版刻本に児ることができるものは、すべて。“邪馬壹国”となっており、“邪馬臺国”とはなっていない。しかし、だからと言って陳寿の「魏志」、魚豢の「魏略」の原文が。“邪馬壹国”であって、“邪馬臺国”となっていなかったとみなすことができるだろうか?
 中国の史書で、“邪馬台国”を取りあげているのは「魏志」一冊ではない。正史の中でさえ「後漢書」「梁書」「北史」「隋書」等がある。これらの史書の大多数は、「魏志」にもとづいて書かれたもので、だからこれらの史書の中で用いる字に対して、“壹”と“臺”の二字をきめる時に、判断参考の用に充てることができた筈である。
 古代、特にまだ印刷術と言えるようなものを持たない時代には、一切の書籍は転々と写し伝わり保存されたものである。そして、写し伝わる過程で、誤りや脱落や乃至は文宇の追加・削除は免れがたいことであった。宋本の校勘は中国の過去の版刻本、写版の中では、正確さにおいては比較的厳格で慎重であるが、だからといって宋本に全く誤りがないとは言えない。
 上述の史書の中で、特に注目に値するのは「後漢書」である。「後漢書」の成立年代は「魏志」よりあとであるが、他の史書に比べると早く、しかも「魏志」の年代とはわずかの違いである。「後漢書」の編者・范曄は南宋の文帝の元嘉二十二年(四四五年)に死んでいるが、陳寿の死後約一五〇年にすぎない。しかも我々は現在「後漢書」に、「魏志」の内容の少なからぬ引用・剽窃を見出すことができる。その中には、訂正されて挿入された文字が少なからずある。このことは当の范曄が「後漢書」等を編集するとき、「魏志」などの当時の史料を見て参考にしたいということを物語っている。ところが現在「後漢書」を一読すると、邪馬台国のところに正に用いているのは“臺”であって“壹”ではない。「後漢書」中、この部分の原文は、“其大倭王居邪馬台国”である。范曄が見て参考にしたもの、即ち当時行きわたっていた「魏志」に書いてあって、用いたのは、“臺”であって“壹”ではないということを物語っているのである。
 この様な例は他にもある。宋の紹興版あるいは紹煕版の出版よりも前にすでにできあがっていた史書の中で使用しているのは、“臺”であって、“壹”ではないというのがそれである。
 「梁書」「北史」「隋書」はすべて唐代につくられた官撰の正史で、その編さん者の死んだ年はほぼ七世紀の前半であり、彼らは皆、記録し伝承してきた「魏志」を見、従ってまた引用する機会があったと言ってよい。このように、彼らの引用した文章は当然、根拠を判断することができるものでなければならない。従って彼らが引用するときに、ある別の字におきかえることは決してある筈がないし、またできないのである、まして引用した史料は一種類に止らず、また一人ではなく、また同一時期に要約したものでもない。従って彼らが引用した文章の文字は、改纂されないもとのままの文字である筈だ。
 「梁書」巻五十七「東夷伝」では次のように言っている。“南水行十日、陸行一月日、至祁馬台国、即倭王所居”。
 「北史」巻九十四「四夷伝」では、“居干邪摩堆、則魏志所謂邪馬台者也。”“邪馬台”という専用名詞を踏襲して用いているだけでなく、“邪摩堆”という三字を用いて音をあらわしている。、“臺”の字に当たるのは、“堆”であり、“堆”も無論昔も今も“壹”の音を発音することはできない。このことから、当時用いたのは“邪馬臺”であって“邪馬壹”ではないことが言える。
 「隋書」巻八十一「東夷伝」も同じく“都干邪摩堆、則「魏志」所謂邪馬台者也”を援用している。
 これらの「魏志」の言葉を引用した正史の用語から一つの結論をみちびくことができる。即ち、彼らの見た「魏志」の“邪馬台国”に関する部分で用いている字はすべて“臺”、であって“壹”ではないということである。しかも、ここで引用した初版本は二つの宋本よりも古いということである。
 さらに、正史でない類書中、「魏志」あるいは「後漢書」から引用している部分の用字を看てみよう。
 宋代出版の類書「太平御覧」巻七八二東夷伝三の“イ妥”(倭に当る)条中では、「魏志」の文章を引用しているのみならず、「後漢書」の文章も要約している。前者は、“又南水行十日、陸行一月、至耶馬臺国。戸七方、女王之都。”となっており、後者では、“イ妥王居邪馬台国、倭今名邪魔堆、音之訛反。”となっている。「太平御覧」は宋の太宗の太平興国二年(九七七年)の勅撰で、同八年(九八三年)漸く完成したのであるが、紹興本や紹照本よりも古い。すなわち、紹煕本がよりどころとした初版本である、咸平国子監本よりもなお、一〇年位古いのである。
 宋代出版の類書「太平御覧」のほか、唐の張楚金の編さんした「翰苑」中でも晋の郭義恭が編さんした「廣志」の中の関係ある文章を引用している。「翰苑」は、“邪届、伊都傍、連斯馬”の小題をつけて、「廣志」の」又を引用、説明している。原文は・・・・(略)・・・・。
 「翰苑」と「廣志」の成立は共に「三国志」刊刻の前で、これらの刊本の用例から判断すると、壹の字を用いたとみることは極めて難しい。“嘉”の音は通じないが、字の形を比べると臺により似ており壹には似ていない、また、直接的な説明つまり、当時の女王国は“邪馬壹国”と称しておって、“邪馬臺国”とは称していなかったということを証明するに足る説明はない。後世更に伝承のための版刻中作業中に誤りをおかさなかったとは保証できない。もっとも、それは、伝承するときの誤りで“臺”の字をもって、“壹”の字ととりかえることである。
 歴史研究の過程で、史料の識別・判断は極めて重要な作業である。史料を正確に判断するためには、根拠が充分で強力であること、即ち人を説得するに足る根拠が必要であって、個人的な主観・想像にもとづくことは許されない。あるいは、この主観的な論断から一つの全面的な根拠を見つけようとするかも知れない。“邪馬臺国”かそれとも“邪馬壹国”かという間題においては、私の立場は極めてはっきりしている。宋版の「三国志」において、絶対確実なことは、“邪馬壹国”という字句を用いていることで、この様な事は以後の史書(正史)にも用いているものもある。しかし、そのもともとの初版本もそうだとは考えられない。つまり、伝承の間の誤りの可能件が価めて大きいのであって、版をほる時に至っても訂正しないでもと通りにひきついできたのである。
 以上によって、“邪馬臺国”が“邪馬壹国”に変った最大の可能性は伝承と刊刻のときの誤記にあって、「魏志」「魏略」の編さん者陳寿・魚豢とは無関係である、また、宋本の中で“壹”になっているからといって、もとの本でも“壹”が用いてあったとは言えないし、宋版を絶対無謬とする根拠にもならない。
 このように、史学研究の根拠をおいたからには、我々は“邪馬台国”だけを用いるいることができるのであって、信頼できる根拠として、“邪馬壹国”という名称を使用することはできないし、また役立てることもできない。この言葉を根拠づけてしかる後分析・研究することである。
 “邪馬壹国”を“邪馬臺国”にかえて用いたいと思う人たちは、別の角度からも“邪馬台国”が乱丁で、“壹”を用いるべきで“臺”を用いるべきではなかったと説明して来た。しかし、その主な論点は上に述べた通り、原文が、“壹”であって、“臺”ではないとするところにある。今や、この主要な論点は成立し得ず、その他の副次的な論点も当然一刀両断に解決するのである。
           (註記、略。北山昌夫氏訳)


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