古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店 『親鸞』ー人と思想ー

 これは清水書院刊(1970年4月15日発行)のI. 半生(はんせい)の霧 
伝説から光が!です。今も発刊されています。(850円+税)

 なお厳密な論証は、 親鸞思想ーその史料批判ー若き親鸞の思想 新史料「建長二年文書」の史実性で、論旨を確認して下さい。


親鸞

ー人と思想ー
古 田 武 彦 著

I. 半生(はんせい)の霧

伝説から光が!

 霧の中の真実

 わたしは、この本を書こうとして親鸞の伝記を一つ一つしらべなおしてゆくうちに、ある一つの文をみて、息がとまってしまった。
 そこには、これまでの学界の常識を、すっきりくつがえすような親鸞伝の一角がキラリと、光っていたからである。そこでいろいろしらべてゆくと、これまでまっかな偽作とされて、はなもひっかけられなかった、この一文が、まさに親鸞の真作であることが、疑いようもなく明らかとなってきた。そのうえ、それが基(もと)となって、これまで、わかりにくかった親鸞の若いころの姿や、学者がくりかえし論争して、どうしても解決しなかった吉水入門のいきさつなど、名題(なだい)の難問題がつぎからつぎへと、もつれた糸のほどけるように解けてきたのである。

 今、その問題の一文を、まず、かかげてみよう。
 『親鸞夢記(むき)』という本に、三つの夢告の偈文(げぶみ 詩句)をしるした、建長二年の親鸞の文書がのっている。

(一)建久(けんきゅう)二年九月十四日の夜
 聖徳太子がわたし(善信)に告げて(告勅して)言うのに、
 我が三尊は塵沙(じんさ)の界を化(け)
 日域は大乗の相応の地なり
 諦(あきらか)に聴(き)け諦に聴け我が教令を
 汝(なんじ)が命根は応(まさ)に十余歳なるべし
 命終りて速(すみやか)に浄土に入(い)らん
 善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩(ぼさつ)

(二)正治(しょうじ)二年十二月上旬
 比叡山の南の旡動寺(むどうじ)の中にある大乗院に、わたしはいた。
 十二月三十日の四更(しこう)に、如意輪観音がわたしに告げて(告命して)言うのに
 善いかな、善いかな、汝の願将(まさ)に満足せんとす
 善いかな、善いかな、我が願、亦(また)満足す

(三)建仁(けんにん)元年四月五日の夜の寅時(とらどき)
 六角堂の救世(ぐぜ)大菩薩(観音)がわたし(善信)に告げて(告勅して)言うのは、
 行者(ぎょうじゃ)宿報(しゅくほう)にて設(たと)ひ女犯(にょほん)すとも
 我は玉女(ぎょくにょ)の身と成りて犯(ほん)せ披(ら)れむ
 一生の間、能(よ)く荘厳(しょうごん)
 臨終(りんじゅう)、引導(いんどう)して極楽(ごくらく)に生(しょう)ぜしむ

右の三つの偈文(げぶみ)を今、書写したのは、建長二年四月五日であって、愚禿釈(ぐとく しゃく)親鸞(七十八歳)がこれを書いた。
<奥書>

 この三つの夢告の偈文を
 娘の釈覚信尼へ送る


 こんにちの学界では、この文を問題にする学者すらほとんどいない。その例外として、現代の親鸞伝研究者、梅原隆章はこの文を写真版とともにのせた(『御伝鈔の研究』)。そして、これは親鸞の筆跡に似せてはあるが、明らかに真作ではないから、偽作であることは、はっきりしている。ただ、このような更生の伝説が作為的につくられてきたことを知る参考にのせるのだ、と断っている。しかし、この論は不思議だ。この文書は『親鸞夢記(むき)』という本から、後世の人が引用して書写したものだ。明らかに、そういう体裁(ていさい)になっている。このことは、右にかかげた文を見たら、すぐわかることでもある。だから、この文書が万一、親鸞の真筆であったなら、それこそミステリーではないか。ところが梅原は、この文が真筆でない、ということ意外に、この文書が偽作だという証拠をまったくあげていないのである。

 そこで、この文書の中身を、わたしが徹底的につきとめていくうちに、まず、これが江戸時代人たる五天良空の創作などでなく、まぎれもない鎌倉期の文書であることが判明した。第二の夢告の中で、「叡南旡動寺在大乗院」という一句がある。これは「叡南(えいなん)旡動寺(むどうじ)ニ大乗院ニ在リ」という形で、文法上「ニの畳用(ちょうよう)」と呼ばれる平安末期〜鎌倉中期独特の語法なのである。

 たとえばつぎの例を見よう。

○彼ノ蓼原ニ堂ニ詣ヅ(『今昔物語集巻十二』)
 後代ならば、当然、「彼ノ蓼原ノ堂ニ詣ヅ」というところである。

○横河ノ北ナル谷ニ大ナル盾ノ木ノ空ニ在テ(『今昔物語集巻十九』)
 の場合は「〜ニ〜ニ在テ」という形でまったく同形である。

 これらは『今昔物語集』の鈴鹿本という鎌倉中期以前の古写本にのっている。このような文章は、後代においては、まったく記憶の失われた語法であるから、江戸時代の偽作者などの作りうる文章ではないのである。
 しかしこれだけでは、この文章が鎌倉期につくられたものであることが証明されただけである。けっして親鸞の真作であるという証拠にはならないのである。しかも、一つの文章が特定の時代のものだという論証以上に、特定の個人のものだという証拠をあげるのは、一般に困難なことである。

 ところが天は、意外な秘密の鍵を、この文献の中にひそめていた。その奥書の中に「愚禿釈親鸞」という署名がある。この仏教徒であることをしめす「釈」の字を冠した署名は、親鸞の文書の奥書中のものとしては、比較的めずらしいものである。そこで現在、年代のハッキリしている親鸞の署名を全部しらべてみたところ、全三十八例中、この「愚禿釈親鸞」の形の署名が現れる時期が、一定しているのである。それはおよそ、七十四歳(寛元四年)より八十三歳(建長七年)の間の十年間に属しているのである。
 ところが、この問題の文書は、親鸞七十八歳(建長二年)のものであるから、右の「釈の十年」にピタリと適合しているのである。
 とくに重要なのは、つぎの点である。このような親鸞署名の形式についての統計的事実は、現代のように各寺院秘蔵の親鸞自筆本、古写本が開放された時点において、はじめて統計的に知ることのできる知識だ、という一点である。
 してみると、たとえば江戸時代の偽作者のごときが偶然に書き、偶然に的中することは至難の業(わざ)に属するのである。したがって、この「釈」の問題は、この文書が親鸞の真作である、という決定的な証拠となるのである。
(そのほか、いくつもの補強的な証拠を発見したのだが、それらはいちいち、ここに書くまい。)


礒長の夢告

 かれの青年期のはじめに、有名な夢告があったことを、五天(ごてん)良空の『正統伝』は伝えていた。 十九歳(建久二年)の九月十二日のことである。河州石川郡東条礒長(大阪府)にある、聖徳太子の御廟(ごびょう)へ、範宴(はんえん 親鸞の、そのころの名)は参詣(さんけい)した。十三日より十五日の三日間、“おこもり”をしたところ、第二夜(十四日)に、つぎのような夢告をこうむった、という。そのことを範宴自身が書いた「記文(きもん)」として、つぎの一文がのせてある。

 「ここに、若い仏弟子であるわたし(範宴)は、母の胎内にはいるとき、如意輪観音より五葉の松の夢告があったことをおもい、観音の垂迹(すいじゃく 仏が日本の神として姿をあらわすこと)である聖徳太子の御徳によって、このわたしの生涯をみちびかれることを仰ぎ願ってきた。今、幸いに聖徳太子ゆかりの、この礒長の廟窟(びょうくつ たまやのほこら)におまいりし、三日間“おこもり”していっしょうけんめい祈り念じた結果、失神してしまった。第二夜にあたるときの四更(しこう 午前二時)に、夢のように、幻のように、聖徳太子が廟(たまや)の中から、自ら石の戸(せきけい  石[戸/向])を開き、光明があかあかとして、いわや(窟)の中を照らした。そのとき別に、三つの満月の光があって、金赤(こんじゃく)の相(そう)をあらわした。そして聖徳太子が、告勅(ごうちょく 尊いことばの告げしらせ)を下して言うには

[戸/向] は戸編の下に向。

 我が三尊は塵沙(じんさ)の界を化(け)
 日域(にちいき)は大乗(だいじょう)の相応(そうおう)の地なり
 諦(あきらか)に聴(き)け諦に聴け我が教令(きょうれい)
 汝(なんじ)が命根は応(まさ)に十余歳(よさい)なるべし
 命(いのち)終りて速(すみやか)に清浄土(しょうじょうど)に入らん
 善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩(ぼさつ)

 わが三尊(弥陀仏、観音、大勢至の三菩薩)は、ちりのようなこの世をみちびこうとしている。
 日本は大乗仏教(多くの人々のための、愛の願いを中心とする仏教)のさかえるにふさわしい土地である。
 耳をすましてよくきけ、よくきけ、わたしのおしえを
 お前に今からあまされたいのちは、もう十年あまりか、ないだろう。
 その命(いのち)が終わる時がきたら、お前は、すみやかに清らかな場所へはいってゆくだろう。
 だから、お前は今こそほんとうの菩薩を心から信じなければならぬ。

  時に、建久二年九月(暮秋)十五日、午前初刻、前の夜(十四日)の告令(こくれい)を記し、終わった。 仏弟子(ぶつでし)、範宴」


 話が奇怪である。聖徳太子が石の扉を開いて出てくるなど、まるで、スリラーもどきだ。弥陀・観音・大勢至という、後年の親鸞の信仰の対象が出てきているのは、話がはやくから、ととのいすぎている。「善信」という、法然の吉水入室後、親鸞の名のった名まえが、偈文(詩句)の中に、二回も出て、もじってあるのは、よくできすぎて、かえって偽作の馬脚(ばきゃく)をあらわしたものだ。
 こういうふうに考えて、現代の学者は、この夢告は、「後世の伝説」と考えてきた。


なぜ真実は隠されていたか

 今まで、比叡山時代は親鸞の歴史の空白時代だ、といわれてきた。ところが「礒長の夢告」は事実であった。先の「三夢記」がしめすように、親鸞がそのように書いているからである。
 こうしてみると、先にあげた、「礒長の夢告」のときの情景を、その翌日(九月十五日)に書いた範宴(若き親鸞)よる全文も疑えなくなってくる。しかも、その中には、「入胎五葉(にゅうたい ごよう)の夢」という親鸞が生まれる十一か月前の、承安二年五月二日の親鸞の母の夢さえ、親鸞の手で記されていることとなるのである。これも『正統伝』に記録されている。親鸞の母の夢に、如意輪観音があらわれ、五葉の松を母にさずけて、すぐれた子どもの出生を予告したという。
 現代人には、およそ想像を絶したこの事実。これは、はたしてどのような意味をもっているのだろうか。いったい、そんなことがありうるのか。このような疑問にこたえるために、わたしたちは親鸞と同時代の人として有名な、明恵(みょうえ)の場合を考えてみよう。現在、明恵自筆の『夢記』が京都の高山寺にのこされている。その中に明恵は、自分の見た夢を、つぎつぎと箇条書きに書きつけている。本の首尾が失われているのが、おしいけれども、全体では相当厖大(ぼうだい)な分量をもっていたとおもわれる。中には、自分の夢にあらわれた仏の姿などを絵に描き、それにていねいな解説を加えているのである。
 また、『明恵上人行状記』というのは、明恵の高弟、喜海によって書かれた、明恵の伝記である。その中には、数多くの明恵の見た夢がしるされてあり、それにたいする明恵自身の解説までのせてある。その二、三をあげてみよう。
 まず最初に、承安元年四月のころ、明恵の母が、彼女の妹とともに寝て、それぞれ見た夢のことがしるされている。いかにも和歌山という風土色豊かな、二つの甘子(みかん)についての夢である。この夢を見て九ヶ月たった、承安二年の正月八日、彼女は明恵を生んだのである。そしてこの甘子とは、華厳(けごん)・真言(しんごん)二宗を自分が学ぶことを予告したものだ、と明恵自身が解説しているのである。親鸞の夢告の場合と、あまりにもよく似ているではないか。
 また、明恵は十三歳の時、「今は十三になってしまったので、年すでに老いた。死ぬときもきっと近づいたのだ。」と思って、夜、ひとり、オオカミの山に出かけていく話が書かれている。
 また、十八歳の夢に、満月輪(まんげつりん)が、かがやきわたり、その中の角(かど)近くに。七、八尺(約二メートル)ばかりの黒色のかげ(釼)が、月輪の上におおいかぶさり、光を隠しているのを見たという。このような明恵の記録を見ると、わたしたちは、同じ時代の少年は、同じような夢を見るものだと苦笑しないわけにはいかない。
 明恵より一つ年下の親鸞は、明恵と同じように、誕生の一年前の入胎時の夢告について母に聞かされていた。また「余命はいくらもない。だから・・・」という、少年らしい精神の高揚の中で、明恵と同じく息づいていたのである。夢の中に満月輪が出てくることなどは、いわば、時代の約束であり、親鸞は欲ばって、それを三つもいっしょに見たというにすぎないのである。
 茶化(ちゃか)したようないいかたになったのを、許してもらいたい。わたしが、まじめにいいたいのは、つぎの点なのだから。
 現代の研究者が、この三つの夢告を疑ったのは、第一に、筆跡問題に対する盲信である。親鸞真筆であることは、真作決定のための有力な材料である。しかし、真筆でないからといって、真作でないことの証拠にはならないのである。辻の筆跡研究の成功に眩惑(げんわく)されて、この見えすいた道理を見失ってしまったである。第二に、親鸞ほどの人物が、夢告などをたやすく信ずるはずがない、というような現代人の好みを相手におしつけて、それを合理主義と盲信(もうしん)したのである。
 そのために、親鸞は中世のまっただなかに生きた思想家である、という単純明快な事実を忘れ去ったのだ。


二十代の青春

 わたしたちは十代末の「礒長の夢告」をとおして、若い親鸞の精神をさぐってみよう。まず、中世人のいう「夢告」とは、いったい何だろうか。仏や神から与えられた偈文とは何だろう。実は、それはその当人の、心の底の、はげしい願望を物語ったものではないだろうか。
 「これが自分の考えだ!」と平生(へいぜい)思っているような、そんな通常の心の世界より、ずっとずっと深い潜在意識(心の奥底に、ひそんでいる強い意識)の世界。そこで自分が感じているもの。ほんとうにのぞんでいるもの、真実に考えているもの、それをズバリとあらわしたものではないだろうか。それは自分自身にさえ、かえって見なれないものと見えるだろう。けれども、それはあまりにも自分の心の底の底を深く打つのである。そのとき、中世人は、それを仏や神からの「夢告」だ、と信じたのではないだろうか。
 神が人間をつくった、といい、仏は永遠の目で人間を見つめている、という。しかし真実は、神をつくったのは人間である。仏の永遠の目をつくり出したのは、永遠なる人間の精神である。してみれば、「夢告」のほんとうのうみの親は、その「夢告」をさずかった、と称する人間の心である。そのことは、わたしはなんらの疑いをも入れない、明らかなことだ、と思われる。
 それでは、「礒長の夢告」をうんだ、十九歳の親鸞の魂はどんな姿をしていただろうか。偈文の中心生命は、「お前の命は、あと十余年しかないだろう。」という予告である。そういうタイムーリミットを前にしたことからくる緊迫性。それが、この偈文をささえる迫力なのである。十九歳のかれの前には、未来の十年間が、これまでと、まったくちがった光の中に見えていた、と思われる。
 いままでの生活は孤独だけれども、おだやかな日々だった。内外の書籍や教典を知識欲のおもむくままに読みあさった。世の人のたたえる多くの師に学んだ。十代の少年にしては、驚くような広い教養、教典の中の数多くの菩薩(ぼさつ)についての深い知識、きめられた戒律への従順な生活。それゆえ、比叡山の先達(せんだつ)、師匠たちの賞賛の中に、少年の日々は過ぎていた。
 しかし、少年親鸞の心の奥深いところでは、比叡山の学習コースの模範生となろうとする、そのような自己に対する深い嫌悪(けんお)がひめられていた。
 「これではならない!「このままで、一生を過ぎてはならない!」「単なる博識多才ではない、自分のいのちとひきかえにつかみとるような真実がほしい!」
 そういう内心の叫びは、ついにおさえきれず、ある日、聖徳太子の「夢告」として表面化したのである。石の戸を開いたのは、聖徳太子ではない。自分のいのちをうちくだいても、何物かをつかみとろうとする、十九歳の内心の叫びだったのである。石の戸から、あらわれたのは、三つの満月ではない。人間が真に決意することによって、眼前の生活と時間の意味が一変する。そのめくるめくような体験だったのである。あるいは今後も、範宴の生活は一見同じように見えるであろう。いっしょにくらす比叡山の仲間たちの目には。
 しかし、それは目に見えた世界にすぎない。若き親鸞の二十代の十年間は、いままでとは、まったくちがった切実な問いにつつまれることになったのである。
 「真の菩薩よ。わたしの生きる道はどれですか。わたしは、いったいどうしたらいいのでしょう!」このような問いの中に過ごされた十年間、その点にこそ、親鸞の生涯をつらぬく思想家としての資質が、ハッキリと予言されていたようにおもわれる。自分が自分に対して、深い問いを発し、あくまでもその問いをおしつめぬく中で生きてゆく。ーそういう生き方こそ、親鸞生涯の生き方の根本特徴だったからである。
 この点同時代の人ながら、先に述べた明恵の場合はちがっている。同じく自分の短命への予感の中で、いのちの高ぶりを感じながら、彼の場合、夜ひとりオオカミのいる山に身をさらす、という行動となってあらわれている。それは自分を犠牲にし、恐怖と苦行に身を置く、という性格を帯びている。後年、戒律と苦行の中に行いすましていた明恵の一生に、ふさわしいものであろう。
 親鸞の場合はこれとちがう。異常な課題を自分の未来に課し、限られた十年の中で、それを求めつづけてゆこうとするのである。このような厄介(やっかい)な問題をもった少年は、当然、いつかは比叡山の定(き)められたコースから、はみ出してゆくであろう。「礒長の夢告」は、そのような十年後の運命を、この十九歳の少年に予告していたのである。


堂僧

 親鸞は比叡山時代はどんな仕事をしていたのだろうか。それをしめす唯一の史料は恵信尼文書(えしんにもんじょ)である。大正十年、西本願寺の宝物蔵から発見された十通の手紙だ。親鸞の妻恵信尼から、娘の覚信尼(王御前)に出されたものである。その二通に、つぎの一節があった。
 「比叡山で、“タウソウ”をつとめていらしゃいましたが・・・」
 この「タウソウ」とは何か。発見者、鷲尾教導は、比叡山で有名な荒法師「堂衆」のことだとおもった。白河法皇が、「私の意のままにならないものは、賀茂の流れと双六(すごろく)の賽(さい)と比叡の荒法師だ」といった、という、あの歴史上有名な“無法”実力集団である。
 そのころ比叡山の大衆(僧侶たちの集団)は、二つに別れていた。「学生(がくしょう)」と「堂衆」である。「堂衆」は「学生」(正規コースで天台宗の教理を学ぶ僧)の従者(おつき)であったといわれる。人の知るように、平安末期、東国に、近畿に、地方武士団が急速に勢力をのばしてきた。それに先んじて京都では、比叡山の「堂衆」が独立武装集団として成長し、白河法皇を悩ませていたのである。体制内に権力者の意のままにならぬ、武装集団がうまれる。これは、その体制の末期症状だ。
 しかし、親鸞はほんとうにこの「堂衆」のメンバーだったのだろうか。山田文昭がこの問題を解決した。恵信尼文書の仮名書きどおりの「堂僧」だ、というのである。
 これは「堂衆」のように、時代の脚光をあびた、はなばなしい存在ではない。比叡山には横川(よかわ)の源信(げんしん)の流れをくむ「不断(ふだん)念仏衆」があった。源信は、平安中期『往生要集』をあらわし、念仏行を説いた人物である。その伝統を受けた「常行堂(じょうぎょうどう)」の不断念仏衆も「堂僧」と呼ばれていた。『中右記(ちゅううき)』によると、不断念仏には布施(ふせ 僧侶などに金品や品物などのほどこしを与えること)をとる順位は、「導師(どうし)ー僧綱(そうこう)ー凡僧ー堂僧」と、「凡僧」以下の最下位となっている。貴族出身といわれる親鸞が、なぜこのような身分にいたのか。かれは、はやくより父母を亡(なく)した孤児である。『源氏物語』の桐壷の更衣が父をもたぬおちぶれ娘としていやしめられたように、「血縁」を尊ぶ階級的な社会では、父母をもたぬ人の子には、容赦のない過酷(かこく)な仕打(しう)ちが待ち受けているのである。
 しかし、これは盾(たて)の反面だ。「礒長の夢告」にしめされたように、大いなる疑いの中に切迫した青春をおくりつつあった親鸞は、この下積みの場所に、格好(かっこう)な思索と探求の場を求めることができたのではないだろうか。
 親鸞の二十代の青春をつらぬいた、単調な日々。勤行(ごんぎょう)の日夜。それは、やがてきたる決断、比叡山の僧侶としての地位をも根底から捨て去る、決断の日のために、十二分に鎮静した魂をはぐくんだのではあるまいか。


大乗院の夢告

 比叡山時代の終りのときは近づきつつあった。「礒長の夢告」より十年たった正治二年上旬、二十八歳の親鸞は大乗院にこもりきった。大乗院とは叡南無動寺に属する寺である。中央の根本中堂から下り道を遠ざかり、深い霧と森林の海の中に突き出た青い岬のように見えるところ、この建物はひっそりと横たわっている。そして参籠(さんろう おこもり)の満願にあたる十二月三十一日の前日、親鸞はふたたび「夢告」にあずかった。
 
  「善(よ)いかな、善いかな、
  汝(なんじ)の願(ねがい) 将(まさ)に満足せんとす
  善いかな、善いかな、
  我(わ)が願(ねがい)、満足す」
 

 この短い偈文を解くマスターズ・キーは、「汝の願」である。このときのおこもりが、正治二年の末であることをおもい起こそう。
 この十二月の末日が明ければ、「礒長の夢告」によって、親鸞の命根がつきる、と予告された「十余歳」の日々がはじまるのである。このようにしてみると、このおこもりの中で、「汝の願」といわれたものが「礒長の夢告」を背景としていることが明らかになろう。その夢告の中の、「真の菩薩」とは何か。それはどのようにして自分を救うのか。私の生きる道は? このような問いへの回答を得ることこそ、親鸞にとっての今回のおこもりの課題であった。
 それに対する、如意輪観音の答えは、つぎのような意味をもっていたのだ。
  「回答を得る日は近い。絶望するな。」と。


内容は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。

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親鸞思想ーその史料批判ー若き親鸞の思想 新史料「建長二年文書」の史実性

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