2017年2月15日

古田史学会報

138号

1,二〇一七年新年のご挨拶
 次世代に伝えたい
 古田先生の言葉
 代表 古賀達也

2,太宰府を囲む「巨大土塁」と
『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城
 正木裕

3,九州王朝の家紋
 (十三弁紋)の調査
 古賀達也

4,諱と字と九州王朝説
 服部静尚

5,「倭京」の多元的考察
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④
 九州王朝の九州平定 --
 怡土平野から周芳の沙麼へ
 事務局長 正木裕

 

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鞠智城創建年代の再検討 -- 六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説 古賀達也(会報135号)
太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼 (会報139号)

九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) 古賀達也 (会報137号)
九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (中編) (後編)


「倭京」の多元的考察 古賀達也

京都市 古賀達也

 九州年号「倭京」(六一八~六二二年)は太宰府を九州王朝の都としたことによる年号であり、九州王朝(倭国)は自らの都(京)を「倭京」と称していたと考えていますが、『日本書紀』にも「倭京」が散見します。ところが、『日本書紀』の「倭京」はなぜか孝徳紀・天智紀・天武紀上の六五三~六七二年の間にのみ現れるという不思議な分布状況を示しています。次の通りです。

○『日本書紀』に見える「倭京・倭都・古都」

①六五三年(白雉四年是歳条)
 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(攻略)
②六五四年一月(白雉五年正月条)
 夜、鼠倭の都に向きて遷る。
③六五四年十二月(白雉五年十二月条) 老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」という。
④六六七年八月(天智六年八月条)
 皇太子、倭京に幸す。
⑤六七二年五月(天武元年五月条)
 (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
⑥六七二年六月(天武元年六月条)
 (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑦六七二年七月(天武元年七月条)
 (前略)時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京は是れ本の営の処なり。固く守るべし」ともうす。
⑧六七二年七月(天武元年七月条)
 (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑨六七二年九月(天武元年九月条)
 倭京に詣りて、島宮に御す。

 これら『日本書紀』に現れる「倭京」について、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、会計、『古田史学会報』編集担当)から、壬申の乱に見える「倭京」は前期難波宮・難波京のことではないかとするコメントがわたしのフェイスブックに寄せられました。その理由は、当時の「倭」とは九州王朝のことであり、「倭京」は九州王朝の副都(西村説では首都)である前期難波宮のことと理解すべきというものです。このコメントに対して、わたしは当初半信半疑でしたが、『日本書紀』の「倭京」記事を再検討してみると、作業仮説としては一理あると思うようになりました。その理由は次の通りです。

1.『日本書紀』に「倭京」記事が現れるのは前期難波宮の時代(六五二年創建~六八六年焼失)に限定されている。通説のように奈良県明日香村にあった近畿天皇家の王都であれば、推古天皇や持統天皇の時代にも「倭京」は現れてもよいはずだが、そうではない。

2.壬申の乱では「倭京」の争奪戦が記されているが、当時の最大規模の宮殿前期難波宮が全く登場せず、従来から疑問視されていた。しかし、「倭京」が前期難波宮・難波京のことであれば、大友軍(近江朝)や天武軍が争奪戦を行った理由がより明確となる。

 以上のように、従来説では説明できなかった問題をうまく解決できることから、「倭京」=前期難波宮・難波京説は作業仮説として検討に値するのではないでしょうか。
 九州王朝では倭京元年に造営した太宰府条坊都市を「倭京」と読んでいたのであれば、副都の前期難波宮・難波京もある時期に「倭京」と称されていた可能性があります。その史料的痕跡が『日本書紀』の孝徳紀・天智紀・天武紀上だけに現れた「倭京」ではなかったでしょうか。引き続き、精査検討したいと思います。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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