俀王の都への行程記事 -- 『隋書』俀国伝の新解釈(会報158号)
「自A以東」の用法 古田・白崎論争を検証する 野田利郎 (会報166号)
女王国論 野田利郎(会報161号) ../kaiho161/kai16101.html
野田氏の「女王国論」について 藤井謙介 (会報162号)
女王国論
姫路市 野田利郎
はじめに
古田武彦氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』で従来説が解明できなかった、次の三つのことを証明された。
第一に「邪馬台国」ではなく、原文は「邪馬壱国」であること。
第二に「里」は「短里」であること。
第三に部分里程の総和は総里程(万二千余里)であること。
それまでの「邪馬台国」論は郡からの里数を単純に合計した数値と総里程(万二千余里)との差が日数記事に相当すると考えて「邪馬台国」を探求してきた。それに対し、古田氏は部分里程の総和が総里程であることを証明し、不足分をゼロとした。
その結果、これまでの「邪馬台国」論は破綻することになった。古田氏の論が古代史の研究者に衝撃を与えたのは当然である。古田氏は不弥国が万二千余里にあることを論争史上はじめて証明されたのである。倭人伝の「郡より女王国に至る万二千余里」の女王国とは氏の論理の帰結から不弥国となる。しかし、古田氏は次のように女王国を邪馬壱国とされた。
「最終里程記載の地たる『不弥国』(博多湾岸)こそ、『女王国の玄関』であるという命題が浮かび上がった。すなわち、女王の都した所たる『邪馬壱国』の所在は博多湾岸とその周囲にあり、とする、それまで著者自身予想だにしなかった帰結へと到着したのであった。」(『九州王朝の歴史学』)
おそらく、氏も従来説と同様、邪馬壱国に「都」の文字があることから、邪馬壱国を女王国とされたのであろう。ただ、万二千余里に不弥国があることを確実な論証と考えると、逆に、「南至邪馬壱国、女王之所都」の解釈の方が誤っていたことになる。ここから、わたしは邪馬壱国の中に不弥国(=女王国)があったと解釈して、女王国を不弥国と考えるに至った。
このように古田氏の論証から二つの結果が生じる。いずれが正しいのか。つまり、女王国とは邪馬壱国なのか、それとも不弥国なのかを検討した結果を報告する。
本稿は「邪馬壱国」を二つの方向から検討した。ひとつは邪馬壱国が郡から万二千余里にあったかの検証である。あとひとつは「南至邪馬壱国、女王之所都」の文の解読である。
検討にあたり、女王国を「邪馬台国」とする旧来の説を「邪馬台国説」と呼び、古田氏の女王国を邪馬壱国とする説を「新・邪馬壱国説」と呼ぶことにする。
一
まず、はじめに、邪馬壱国が郡から万二千余里にあったかを検討する。
邪馬台国説では邪馬壱国が万二千余里にあることを前提に研究されたため、特に証明もされていない。
しかし、新・邪馬壱国説の場合には万二千余里に不弥国があると論証したため、新たに邪馬壱
国が郡から万二千余里にあることを論証する必要がある。古田氏は『「邪馬台国」はなかった』の中で概略、次のように説明する。
(イ)「女王の都する所」とは邪馬壱国の説明だけでなく、「郡より倭に至る」行程の「終着点」であることを示している。「水行十日・陸行一月」の「陸行一月」は九州島内ではありえず、「郡より倭に至る」全行程の全所要日数である。
(ロ)次に、独自の分析による「道行き読法」から行路記事を主線行程と傍線行程に区分する。奴国と投馬国は傍線行程の国として主線行程から分岐する。そのため、不弥国と邪馬壱国とは接するが、その間の距離が記せられていなく、国間距離が「0」となると考えた。
(ハ)倭人伝の各国間の距離は邪馬壱国に近づくにつれ、短くなる傾向がある。「不弥国❘邪馬壱国」間、距離「0」こそ、むしろ記載方法の自然な帰結であり、「不弥国」は女王の首都「邪馬壱国」に密接した、その玄関であるとする。
この論の骨子は、不弥国と邪馬壱国とは接しているから、この間の距離は「0」であり、不弥国までの万二千余里は邪馬壱国までの距離に等しいとする。氏は、この論の証拠に三つの先例を挙げているので、その例を検討する。
第一に新・邪馬壱国説では「帯方郡治❘邪馬壱国」間は、「水行十日・陸行一月」と「万二千余里」の二通りの表記となるが、その先例に『漢書』西域伝の中に次の例があるという。
(難兜国)西南、罽賓けいひんに至る三百三十里。
(罽賓国)東北、難兜なんとう国に至る九日行。
この二つの国は一方が「西南」、一方が「東北」とあるから、両国間の同一ルートであり、その区間を一方では「里程」で、一方は「所要日数」で表記されているとする。
しかし、この例は、それぞれの国から相手国へのルートであるから、必ずしも同じ道とは限らない。二つの国に高度差がある場合は、方向が同じでも上りと下りの道が異なる場合がある。また、難兜(なんとう)への日数は「九日行」と、「行」の字がある。「行」は実地に「行く」ことであり、「所要日数」ではない。西域伝には日数の記事がこれ以外に八例あるが、すべて「行」があり、所要日数の例はない。
第二に倭人伝では、すべての国の間には距離が書かれている。そのため、「不弥国❘邪馬壱国」間の距離が「0」の概念、表記法はありえないとの疑問が生じるが、氏は、次のように説明する。
『漢書』西域伝に五十一の国が記され、「国間距離」は四十七個記載されているが、両国間が「接」している例が七十四例ある。この「接」は原則として両国の「国間距離0」の概念を表しているから、陳寿にとっておびただしい先例があったとする。
しかし、「接」とは国境が接していることであり、氏の言われる「国間距離」とは首都間の距離のことと思われる。「接」が「国境が接している」意味であることは、次の西域伝の大宛(だいえん)国の例からもわかる。
大宛国、王が貴山城に治し、(略)北は康居(こうきょ)の卑闐(ひてん)城に至る千五百一十里,西南、大月氏に至る六百九十里。北、康居と、南、大月氏と接す(略)。
「大宛国、王治貴山城,(略)北至康居卑闐城千五百一十里,西南至大月氏六百九十里。北與康居、南與大月氏接(略)」
この例をみると大宛国の北は康居と、南は大月氏と「接」している。しかし、大宛国の王の居城からの距離は康居まで千五百十里、大月氏まで六百九十里と書かれている。「接」が国境のことであり、国間の距離でないことが明白である。「国間距離」、つまり、首都間が「0」の例は見出すことができないのである。
第三に、古田氏は行路記事の途中に「接」の文字を使用しないで、「国間距離0」の例として、次の『漢書』地理志の黄支国から帰路を挙げている。
黄支より船行、八月なる可し。皮宗に至る。船行二月なる可し、日南・象林界に到る、と云ふ。黄支の南,已程不いていふ国有り、漢の訳使、此れより還る矣。
氏は、この例を「道行き読法」の傍線行路の例にも使用している。ここでは、「黄支国❘已程不」の両国間の国間距離が記されていなく、「接」の記載もない。しかし、已程不(いていふ)国は黄支国からの傍線行路にあたるため、已程不国は黄支国の南に接して、「国間距離0」と見られる例とする。なぜなら、漢の訳使がこの国までいたって還ってきたのだから、もし離れていたなら、当然、その間を「陸行幾日」と記されるはずという。
しかし、この行程文の直前に「平帝の元始中、王莽、政を輔け、威德を燿かすことを欲し、黃支王に厚く遣わし、使を遣わして、生きている犀牛さいを献じさせた」とあるから、そのときの犀牛(さい)を献じた行程が、この記事であり、伝聞の「云う」と書いてある。又、そのときの漢の訳使は已程不国から帰還したのかと推量するから、「還る矣」と書く。したがって、已程不国が傍線行程にあることの根拠はなく、ただ、黄支の南にある国として理解するしかない。このように方向だけで距離の記載もないが、実際は離れている例が『漢書』の西域伝にある。
(安息国)安息の東、すなわち大月氏。「安息国(略)安息東則大月氏。」
(大月氏国)西、安息に至る、四十九日行。「大月氏国、(略)西至安息四十九日行(略)」
安息国には大月氏国は、「東」とのみ書かれ、「接」や「距離」の記載がない。ところが、次の大月氏国では安息まで「四十九日行」と書かれ、離れていることが明確である。何も書かれていないから距離を「0」と断定できないのである。
以上、個々の論拠を検討した。総合的に考えても、次の通り、「郡から不弥国までの距離」と「郡から邪馬壱国までの距離」は一致することはないのである。
(1)倭人伝の距離は各国の政庁までが書かれて連続した距離となって空白地帯がない。海峡の
二島も隠された二島内の行程がある。そのために、陳寿は郡から女王国までを万二千余里と明言した。不弥国と邪馬壱国との距離が書かれていないのは、その方向へ進行していないからであり、距離が「0」の意味ではない。
不弥国までの距離が万二千余里とは不弥国にある女王の居城までの距離である。不弥国の西の境界までの距離ではない。ましては不弥国を通り抜けた東の境界などではない。郡使は卑弥呼に面談しているから、居城までの距離が示されている。
仮に邪馬壱国と不弥国が接していたとしても、それは不弥国の東の国境が接しているだけであり、不弥国の居城と邪馬壱国の居城の距離がゼロとはならないのである。
(2)新・邪馬壱国説は郡から不弥国を通り邪馬壱国へと一筋の行程があることを前提とする論理である。はじめから邪馬壱国が女王国であることを前提に邪馬壱国までの距離を万二千余里と説明するから、いわゆる循環論法となっている。そのため何の結論も得ることが出来ないことになる。
結論として、古田氏が証明された「部分里程の総和は総里程(万二千余里)」が正しく、新・邪馬壱国説は成立しないと考える。
二
次に「南至邪馬壱国、女王之所都」の文を検討する。この文の「都」と「所」の用法に区分して検討する。
はじめに「都」を検討する。
魏朝は卑弥呼を親魏倭王に任命したから、その都は「倭の都」と呼ばれるはずである。しかし、倭人伝には、「女王之所都」と書かれている。『三国志』の夷蛮伝で「都」の記載があるのは高句麗と倭の二つの国だけである。『三国志』の高句麗伝には、高句麗の「都」は次のように書かれている。
(高句麗)丸都がんとの下ふもとに都する。「(高句麗)都於丸都之下」
この「都」は高句麗の都であることは明白である。しかし、『三国志』でも魏書第二十八の毌丘倹かんきゅうけん伝の高句麗の都は次のように書かれている。
丸都に登り、句驪くりの都する所を屠ほうむり。「以登丸都、屠句驪所都」
ここでは「句驪の都する所」と「都」に「句驪」の修飾語がある。「都」だけでは天子の都と区別がつかないから「句驪の都」と書かれている。
しかし、倭人伝の都は「女王之所都」と都を「女王」が修飾し、しかも、「句驪所都」と「女王之所都」を比較すると女王の都には「之」の字があり、「之」の意味が不明であった。しかし、この疑問は後漢代の『独断』から解明することができた。(古賀達也氏の助言による)『独断』は後漢代の学者・政治家である蔡邕さいようの撰による後漢の諸制度を前代までと比較した書である。その中に、次の文がある。
天子の都する所は京師と曰う。「天子所都曰京師」
この「天子所都」と「女王之所都」とは、共に「王」を修飾語とし、文意、構成も同一である。
そのため「女王之所都」の「之」は無くても同じ意味であることが明白となる。女王の都の「之」は、「虚詞」であり、特別の意味がないことになる。ただ、「之」があることで「女王」が強調された表現となっている。おそらく、倭には女王を共立した以前の「倭の都」があったから、その旧の都と区別し卑弥呼の都を強調して、「女王の都」と書いたと思われる。
三
次に「所」を検討する。
「女王之所都」を岩波文庫本は「女王の都する所」と訳し、邪馬壱国は「女王の都する所」となる。もし、「女王之所都」が女王国のことであれば、なぜ、陳寿は遠回しの表現となる「所」の文字を加えたのであろうか。そこで、「女王之所都」の「所」を検討する。
『漢辞海』(三省堂)によると、「所」の用法には動詞あるいは述語構造の前に置いて名詞句を構成し、その行為や動作の対象を示すとある。
したがって、「所+動詞」は「動詞スルところ」の形となり、意味はふつう動作や行為が及ぶ対象を表すことから、「・・する事物」「・・する場所」などと文脈によって訳し分けることになる。
本論の「所都」も「所+動詞」の形であり、「都する場所」の意味となるから、邪馬壱国自体が都であるとは言ってないことになる。もし、邪馬台国説や新・邪馬壱国説が主張するように邪馬壱国が女王国であるなら、邪馬壱国と「都する場所」とは同一でなければならない。「倭人伝」の行程文には、「所+動詞」の例が、邪馬壱国を除き四例ある。そこで、この四例の「所で示された場所」と「対象領域」を比較して、同一であるかを確認することにする。
(イ)「倭人、(略)旧百余国、漢時有朝見者。今使訳所通三十国。」
この文の「今、使訳通ずる所三十国」とは倭人の領域の中で使訳が通じている場所が、三十ヵ国あるとの意味である。三十ヵ国が倭人の領域のすべての国であるとは、この文は述べていない。
(ロ)「対海国。(略)所居絕島、方可四百余里。」
この文の「居る所絶島」とは対海国の所在する場所は絶島であると述べている。しかし、絶島のすべての領域を対海国が占有しているとは述べていない。
(ハ)「伊都国。(略)世有王、皆統屬女王国。郡使往来常所駐。」
この文の「郡使の往来常に駐とどまる所なり」とは伊都国は郡使が往来するときに常に駐まる場所である。しかし、伊都国のすべての領域が郡使の駐まる場所に使用されているとは述べていない。
(ニ)「其余旁国遠絶、不可得詳。次有斯馬国(略)次有奴国。此女王境界所尽。」
この文の「次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり」とは奴国は女王の境界が尽きる場所にある。しかし、其の余の旁国のすべてが境界の尽きるところであるとは述べていない。
(ホ)倭人伝ではないが、前述の句驪の都を検討する。
「丸都に登り、句驪くりの都する所を屠ほうむり」(以登丸都、屠句驪所都)
丸都の全域は都ではなく、丸都の中にある「句驪が都とする場所」をせん滅したのである。
(ヘ)次が問題の文である。
「南至邪馬壹国、女王之所都。」
「女王之所都」とは「女王の都を定めた場所」の意味である。邪馬壱国は「女王の都を定めた場所」であったが、邪馬壱国の全領域が都を定めた場所とは書かれていない。つまり、邪馬壱国自体が女王国とは言えないのである。以上のとおり、「所」を使用した意図は、対象領域に「所+動詞」の場所があることを示すことであった。この文を根拠に邪馬壱国自体が女王国であるとはいえないことになる。従って、邪馬壱国内に女王国(=不弥国)があったとする理解が成立する。
四
以上の検討から女王国は不弥国となった。このことが倭人伝全体の記述内容と合致するかを確認する。はじめに、古田氏の二つの説明を検討する。
(1)古田武彦氏は郡から万二千余里にあるのは不弥国と証明していたが、女王国を邪馬壱国として、著書『「邪馬台国」はなかった』を出版された。その著書には邪馬壱国とされた動機の記述はなかった。しかし、七年後に出版された著書『邪馬一国への道標』では、その動機と思える記載がある。氏は、魏使は伊都国でストップしそれ以降は行かなかったとする説を批評して、次のように不弥国に言及された。
「魏使の最終到達点は当然不弥国でなければなりません。ですが困ったことに不弥国はあまりにも『普通の国』でありすぎるのです。長官名(多模)と副官名(卑奴母離)それに戸数(千余家)が書かれただけの、そっけなさ。これでは、魏使が遠路はるばる来た一万二千余里の旅路でここを最終目的に選定する、そのいわれがありません」
と赤裸々に書かれている。氏が云われるように不弥国の記載は「普通の国」であったのであろうか。倭人伝の内容から確認する。
倭人伝には狗邪韓国から邪馬壱国まで九ヵ国があるが、各国の説明に濃淡がある。その記載した意図を解明するために、国別の記事から方向、距離、官名、戸(家)数を除いた残りの文字数をエリア別に区分して、その理由を記載した。
(イ)「狗邪韓国、ゼロ」
官名、戸数の記載もない。倭国でないからと考える。
(ロ)「対海国、三十七字」、「一大国、二十五字」
この二つの国は海峡の国である。倭国の本土とくらべて異なる習俗をそれぞれに記載している。
(ハ)「末蘆国、二十六字」
倭国の本土の西辺にある山海に浜う国である。本土と異なる習俗を記載している。
(ニ)「伊都国、十六字」、「奴国、ゼロ」、「不弥国、ゼロ」
この三つの国は相互の距離が百里(約八キロ)と隣接し、一団となって倭の本土にある。三つの国の習俗は倭人伝の本文に記載され、三つの国には習俗の記述は一切ない。ただ、本土の入口の伊都国には「世の中にある王は皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり」と女王国の意義と伊都国の役割が記載されている。郡使が女王国を訪問するとき常に伊都国に駐まることから、伊都国の先に女王国があり、次の国は東行と書かれている不弥国である。しかも不弥国は郡から万二千余里にある。伊都国では不弥国は、倭国の全体との関係を表す「女王国」と書かれているが、その国に到着すると、倭国の呼び名の「不弥国」と書かれ、官名と家数が書かれたのである。
(ホ)「投馬国、ゼロ」「邪馬壱国、五字」
日数記事の投馬国と邪馬壱国へ魏使は訪問をしていない。そのため、習俗を記述することができなかった。ただし、邪馬壱国にある女王の都へ魏使は訪問したから、邪馬壱国には「女王之所都」と記載したのである。
以上のように不弥国には習俗を記載する必要がなく、さらに、不弥国が女王国であることは伊都国に記述したから、不弥国には官名と戸(家)数のみが記載されたのである。不弥国を普通の国として、女王国から除外するいわれはないのである。
(2)古田氏は『続・邪馬台国のすべて』(ゼミナール・朝日新聞社、一九七七年四月三十日)で、概略、次のように述べられている。
・・「南、至邪馬壱国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」。これに対してすぐ直後に文章が現れます。「女王国より以北、其の戸数・道里は略載す可きも、其の余の旁国は遠絶にして得て詳かにす可からず」(略)「女王国」というのは、ふつうの理解のように、直前に「邪馬壱国に至る、女王の都する所」とあるのですから、それを簡約して「女王国」といったわけで、邪馬壱国それ自身をさす、というのが従来の大半の人々の理解ですが、私もそのとおりだと思います。・・・
氏は「女王の都する所」を簡約して「自女王国以北」の文で、「女王国」といったとする。
しかし、倭人伝の「女王国」の初出は伊都国である。伊都国から奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬壱国となる。
「女王の都する所」以前に既に「女王国」と書かれているから、そのあとの「女王之所都」を簡約したのが「女王国」とはならないのである。
五
不弥国を女王国とする論拠を二つ述べることにする。
(1)倭人伝の行程文には国名、方向、距離を列挙し、最後に「郡より女王国に至る万二千余里」で締め括っている。この締め括り文に書かれている「郡」、「女王国」の語句は次のように行程文中にある。当然、締め括り文の語句は行程文中の語句を指している。
第一に「郡」は、「從郡至倭」に「郡」がある。
第二に「女王国」は、伊都国の「世有王皆統属女王国」に「女王国」がある。
このように、行程文中に「女王国」の語句がある。この語句を差し置いて「女王之所都」を「女王国」と読むことは文献解釈から不可能である。さらに、文中の「女王国」の語句が指し示す国を除外し、それ以外の国を「女王国」とすることは文の読み方が誤っているといえる。
(2)倭人伝は郡からの国々を記述し、最後に「郡より女王国に至る万二千余里」と書いて、女王国は郡から万二千余里にあると明記した。
ところが古田氏は万二千余里に不弥国があるとする一方で、邪馬壱国を女王国とした。つまり、S氏は郡から万二千余里にある国を不弥国と邪馬壱国の二つの国とされたのである。陳寿が行程文の最終に「自郡至女王国万二千余里」と書いたのは万二千余里に該当する国は一つであることを前提としている。これは古今を問わず文を読む上の原則である。このことからも、新・邪馬壱国説は成立しないと考える。
以上によって、古田氏の「部分里程の総和は総里程(万二千余里)」は確かな論証であり、女王国とは不弥国であると考える。
(完)
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