2005年12月 8日

古田史学会報

71号

1宣言
新東方史学会設立
 古田武彦
会長に中島嶺雄氏
 事務局

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史
考察1
 藤本光幸

筑後風土記
の中の「山」
 西村秀己


壬申の乱に就いての考察
 飯田満麿

5私考・彦島物語 I 
筑紫日向の探索
 西井健一郎

6【転載】
『東かがわ市歴史民俗資料館友の会だより』第十九号
平成十七年度にあたって
 池田泰造

なにわ男の
「旅の恥はかき捨て」
 木村賢司

古層の神名
 古賀達也

『和田家資料3』
--藤本光幸さんを弔う
 古田武彦

10浦島太郎
の御子孫が講演
事務局便り

 

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講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦へ


壬申の乱に就いての考察

奈良市 飯田満麿

始めに

 従来、壬申の乱は学問的に解決済みの問題として扱われて来た。「天武紀」上巻、及び『万葉集』巻一の柿本人麿歌に詳細克情熱的記載が存在することがその理由である。しかしながら、心ある人々にとってこの争乱はその政治的性格の曖昧さと戦略的矛盾に依って、釈然とした理解の得られぬ問題で在り続けていた。然るに二〇〇一年十月に至り古田武彦氏は『壬申大乱』を上梓し、世の悩める多数の学徒の迷いを一挙に払拭された。古田氏がその論証のため依拠した資料は下記の通りである。
(一) 万葉集巻一「吉野の宮に幸しし時、柿本人麿の作る歌」(三六)(三七)(三八)(三九)
(二) 万葉集巻二「高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本人麿の作る歌」(一九九)(二〇〇)(二〇一)(二〇二)
(三) 万葉集巻一「天皇御製歌」(二五)(二七)
 古田氏は上記(一)及び(二)の内容を詳細に分析し、其れが従来説の壬申の乱の描写では断じてなく、「白村江の海戦」及びそれに先だって戦われた「州柔城の戦い」の事実と、その戦いの最中戦塵中に消え去った倭国大王を悼む挽歌であると論証された。又吉野の地名が大和でなく肥前の吉野であることも併せて極めて説得力に満ちた筆致で描き出された。
 古田氏は其れに止まらず、(三)の資料を駆使して、大海子の向かった先は、当時「白村江戦」の戦後処理のため進駐していた唐の艦隊根拠地「吉野ヶ里」であり、ここで大海子は郭務宗*に接触して壬申の乱の強力な後ろ盾を得たとの推量を示された。
郭務宗*(かくむそう)、宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5

 この古田武彦氏の偉業は、多元的歴史理解者の間に俄に壬申の乱に対する本格的研究開始の機運を醸成した。その一つの表れが『古田史学会報』六九号に掲載された古賀達也氏の「『古事記』序文の壬申大乱」である。太安万侶の作として知られる、この著名な文書中に、壬申の乱が描かれていることを私は全く気づかなかった。世の多くの人々も或いは同然かもしれない。大発見と言うべきである。古賀氏はこの文書の読み解きの中で、天武天皇(当時大海子皇子)は夢の告知で高良山に籠もって時を待ち、援軍到来と共に一気に筑後川を渡り東国に攻め入ったと解釈された。古田武彦氏の業績と併せて「壬申の乱」の全貌をほぼ完全に解明されたと判断して誤り無い。
 しかしながら真理を探究するものにとって、疑問は無限である。上記二氏の画期的研究にも一つの疑問が潜在する。其れは何故郭務宗*大海子を支持したのか?大唐帝国を代表して、異国に進駐する敏腕の政務官が、無償でかくの如き危険を伴う行為に許諾を与える所以は絶対に存在しない。如何なる利害が存在したのか?以下この問いに対して、自らの非力を承知の上で取り組みたいと決心した。
 今年九月私は古田武彦氏の論文『「高良山古系図」明暦・文久本について』(会報三五号)に基づきその実年代を追求する試論を発表した。その過程で壬申の乱(六七二年)の前年(六七一年)筑紫君薩夜麻(薩野馬)が帰国していることに初めて気づいた。壬申の乱と薩夜麻の帰国に密接な関係在りやなしや?私のこの問いに識者の返事は多分から絶対の間で肯定的返事が返ってきた、と同時に証拠に欠ける点も異口同音であった.

 

薩夜麻の帰国と壬申の乱

 郭務宗*は如何なる理由で大海子を支持したのか?この大疑問に立ち向かう決心をした私に薩夜麻の問題は恰好の問題提起であった。ここで先ず薩夜麻の存在について、出来る限りの情報を網羅してみよう。『日本書紀』には二度にわたって薩夜麻(薩野馬)の名前が記されている。一度目は「天智紀」十年十一月十日条に唐からの突然の帰国者として他の三名と共に筑紫君薩野馬の名が記されている。二度目は「持統紀」四年九月二二日条に大伴部博麻顕彰記事中に筑紫君薩夜麻としてその名が記載されている。上記の記載は文字に微妙な異同があるものの、前後関係から同一人物と比定されている。しかし『日本書紀』は、筑紫君の称号を持つこの人物が、何故、何時、何処から渡唐したかは一切伝えていない。この性格不分明の人物に光を当て、歴史上の重要人物としての性格を付与したのは、又しても古田武彦氏であった。
 同氏は其の初期の古代史研究に於いて『失われた九州王朝』を世に問い、現皇室に先立ち、倭国として東アジアに広く認められた王朝が九州を中心に先在したことを論証した。この中で筑紫君薩夜麻こそ、白村江の海戦(六六三年)を主導した倭王であり、自ら前線に立って戦い、戦塵中に囚われの身となったと言う画期的新説を発表された。ここまでの記述は薩夜麻の渡唐の何故、何時、何処からについて明確に答えている。
 然らば大唐帝国は一旦捕囚とし、八〜九年間もの長期間抑留した倭王を何故この時期に帰国させたか?この疑問に答える研究成果は存在しない。但し相当な確度で其れを推量することは可能である。『日本書紀』「天智紀」は天智三年(六六四年)五月を皮切りに、同十年(六七一年)十一月の薩野馬帰還まで六回に及ぶ唐の使者の往来を記している。これらの事実は、明らかに白村江の戦いの戦後処理を決定する折衝が、倭国と唐の間に行われた事の証左である。この際の唐の要求は間違いなく倭国の唐に対する臣従と天子の象徴「倭京」の破却であった可能性が極めて高い。
 倭王不在のこの危機に当たって、外交の責を担ったのは倭国王朝の分家、近畿王家の中大兄皇子(天智天皇)であった可能性が極めて高い。恐らく長く続く厳しい折衝だった事を思わせる。『日本書紀』はこの時期近畿王家の近江遷都と、高安城の築城を明記している。是は交渉決裂、唐・新羅連合軍の近畿侵攻まで予想した上での処置に違いない。如何なる条件で合意が成立したか、其れを示す記録は存在しない。しかし史書の示すところ、中大兄は交渉成立と時を同じくしてこの世を去っている。相当量の賠償と中大兄の寿命とを引き替えに、倭国は辛くも薩夜麻の帰国を許された。
 唐抑留中の薩夜麻の動向は、中国の同時代資料「新・旧唐書」には一切記されていない。しかし中国類書『冊府元亀』は、唐・高宗麟徳二年(六六五年)十月丁卯の高嶽(泰山)盟約に倭国王が新羅・百済・高麗の諸国王、その他と共に参加したことを記して居る。

郭務宗*の謀略

 『冊府元亀』麟徳二年(六六五年)記事中の倭王は、時期的に薩夜麻である。抑留二年目で唐の権威に敬意を捧げたとすれば、薩夜麻は唐の文化に完全に洗脳されたものと判断できる。短期間に唐の東アジア政策の遂行上恰好の存在と化した。唐・倭国間の講和条件が整い次第、対倭国政策遂行上の重要人物として、その利用価値を認識されたと推量して誤りあるまい。

 唐政府の代表として、薩夜麻の帰国に同道して来倭した郭務宗*は在倭国政務官として既に倭国内に効果的な情報網を確立していたと思われる。直後彼にもたらされた情報は倭国内の薩夜麻拒否ム〜ドだった可能性が極めて高い。恐らく留守司高坂王、及びその後ろ盾近畿王家の大友皇子も、強力な同調者で在るとの情報も届いたはずである。
郭務宗*(かくむそう)、宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5

 考えてみれば是には尤もな理由がある。無謀とも言える戦争にのめり込み、幾多の兵士を失い、幾万人にも上るその家族を悲嘆のどん底に陥れた罪は、七〜八年の短期間で拭い去られるものでは無かった。この情勢打破には、強権発動が不可欠である。しかし外国内での政治的陰謀は多大のリスクを伴う。乾坤一擲の決断を前に、郭務宗*の脳裏をよぎった人物こそ、近畿王家の重要人物、大海子皇子であったと考えて、是を夢想と捨て去れるだろうか?すでに彼の情報網は、近畿王家内の政治的不一致から、亡命同然のこの近畿の貴公子が肥前に滞在中の事実を認識していた可能性が高い。
 ここからは私の推論になる。白村江戦の講和会議の際、天智の皇弟として実務執行を通して、郭務宗*と大海子皇子は旧知の間柄であったと考えて何ら不審はない。『万葉集』巻一「天皇御製歌」(二七)の最後の七語が、古田武彦氏の解読の通り「多良人よく見」であれば、大海子は当時有明海の西岸、多良(現在の太良)に居所を構え、多良の国人の庇護下にあったと考えられる。大海子の有能を確信していた郭務〜は、多良の国人に密かに大海子との面談の仲介を依頼した。この知らせが幸運を呼ぶと確信した多良人の激励を受け、大海子は単身孤舟を駆って嶺(現在の三根)に上陸し、徒歩吉野が里の郭を訪問した。
 ここでの会談は薩夜麻に対する忠実な臣従、太宰府留守司の制圧、及びその庇護者近畿王朝の制圧であった。同時に反対給付として示された条件は大海子の近畿王権奪取行為の許容であった。是こそ私の描く壬申の乱の核心である。諸賢の忌憚なき論評を期待する。

 

壬申大乱の戦略

 郭務宗*の要請を受諾した大海子の次の行動は、薩夜麻との邂逅であったであろうと推察される。その場所は『古事記』序文の表現を借りれば南山(高良山)であった。ここでは恐らく戦略の策定と、味方糾合の方策が話し合われた筈である。まもなく戦略は確立し、味方は続々と参集した。
 ここで確立した基本戦略は、まず隠密裡に河内の高安城を無力化し、続いて近江不破の関を閉鎖する謀略を行うこと、しかる後に太宰府を実力で制圧し、これと並行して主力軍を瀬戸内海経由近畿に侵攻させ、大津宮及び飛鳥地方を制圧する。
 この戦略に基づく動乱を勝利するために、糾合された面々は『日本書紀』の記述に基づけば、大分君恵尺、黄書造大伴、縫臣志摩等であった。後に倭国王族、栗隈王も加わった可能性が高い。

 『日本書紀』「天武紀」上巻は壬申の乱について、臨地性に富んだ詳細な記述を行っている。従来この故に壬申の乱は解明済み、とする識者が多数を占めていた。しかし『日本書紀』に於ける史実の盗用、変改、の数々に直面してきた多元論者間には、是を俄に信用できないという風潮が強かった。前述の古田武彦氏の『壬申大乱』は正に「天武紀」上巻の否定から論証が開始されている。しかしながらこの詳細を究める記述が全くの創作とする見地には相当な無理が内在する。真実は壬申の乱の一局面の記録を拡大脚色したのではないのか?以下この見地に立って論証を進めよう。

 

壬申の乱の実態検証

 高良山会議で確立した戦略上の二大目標は太宰府と大津京であった。それぞれの目標の戦略的長短所を列記する。
(1) 太宰府留守司
 長所 駅鈴その他倭王のシンボル及び大量の武器を保持する。
 短所 近江 大津京が無力化すると、孤立して機能しない。
(2) 近江 大津京
 長所 後背に広大な琵琶湖を控え、万一の場合速やかに撤退可能。
 短所 前面の高安城を無力化され、後背の不破の関、愛発の関を封鎖されれば極めて脆い。
 恐らく確立した戦洛は上記の検討を経て策定されたと考えられる。ここから実際の進行を『日本書紀』「天武紀」上巻の記述に従って再現する。尚、ここでは「天武紀」における大海子皇子の行動とされている記述を全て、天武の側近村国連男依その他の行動に読み替えて記述する。男依等は天武の側近として、近畿での土地勘、人間関係に優れ、戦略実施上の最重要々員であったと考える。

天武元年(六七二年)
六月二二日
 高良山にあった大海子皇子は「先ず不破の関を塞いで、東国に軍勢を集めろ」と号令し、
村国連男依・和迩部臣君手、身毛君広等の側近数名に命を下し、夜陰密かに海路瀬戸内経由で近畿地方に忍び込ませた。
六月二四日
 大海子は大分君恵尺等に命じて、倭王のシンボル駅鈴の下賜を出願、却下される(或いは男依等の作戦を隠蔽する陽動作戦の感あり)。
六月二四日早朝〜六月二五日深夜(延べ四八時間)
 早くも大阪湾に達した男依等は高安城を密かに離反させ(論旨貫徹上の推論、既成事実の可能性在り)以下のコースを休み無く走破したと考えられる。生駒山→宇陀→室生→名張→伊賀上野→柘植→鈴鹿越え→鈴鹿→四日市(徹夜、馬匹利用の強行軍。大阪湾岸堺から約一〇〇〜)
六月二六日〜六月二九日
 四日市→桑名→関ヶ原(不破の関)(この地に止まって近江王朝の退路遮断の謀略活動、努力奏功、この情報は何等かの方法で大海子に伝達された。)
六月二九日
 大分君恵尺等太宰府留守司急襲、高坂王以下幹部投降。(駅鈴ほか倭王のシンボル及び大量の武器入手)
七月一日
 大海子皇子近畿遠征出発。(村国連男依等先遣隊、近畿の国人を糾合して軍隊を動員、大和、美濃、方面に戦線拡大、途中七月二日近江側の降将羽田君矢国及びその子大人に命じて愛発の関(敦賀市)の閉鎖を命令。
七月七日
 大分君恵尺等主力部隊、近江大津京の正面攻撃開始。この間大海子皇子は司令部を高安に置き(論旨貫徹上の推論)大和飛鳥京制圧の二面作戦統括。
七月八日〜七月十七日
 激戦十日遂に近江側全面敗北。退路を塞がれて何等為す術無く大津京陥落。大友皇子は自死した。
七月二二日
 大和一円大海子皇子側に帰属。さしもの大乱も終止符を打たれた。
八月二五日
 近江方の左大臣、蘇我赤兄を初めとする重臣八名を極刑に処し、右大臣中臣連金を朝井郡で斬刑、その他係累は流刑に処せられた。

結び

 ここまで縷々壬申の乱に潜在する疑問を追求してきた。後半は論証よりも私的推論が目立つこととなったが、なにがしかの真実が含まれるものと確信して論を進めた。ここまで読み進んで頂いた諸兄に深く敬礼し擱筆致します。
        二〇〇五年十月七日


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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