万葉集第二歌

”大和には 群山あれど

とりよろふ 天の香具山”

案内

1 英文解説
(これは大和の歌でない)

2 国見の歌

3 天の香具山 登り立ち 国見をすれば

4 別府湾にあった天の香具山
 正木裕 解説

制作 古田史学の会

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古田武彦講演会 万葉学と神話学の誕生
99年6月27日  天満研修センター 五階

以上で総論を終わり、時間の許す限りそれぞれの歌について、論証してゆきたい。

国見の歌

万葉集 巻一 第二歌
やまとには,むらやまあれど,とりよろふ,あまのかぐやま,のぼりたち,くにみをすれば,くにはらは,けぶりたちたつ,うなはらは,かまめたちたつ,うましくにぞ,あきづしま,やまとのくには
 大和には 群山あれど 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

原文
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等  取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

A 扁左[忙]旁[可] は外字 です。

校異
なし

 この歌も1月に詳しく述べたので簡単におさらいを致します。
 講演会では何回も「なぜ大和盆地で海が見えるのですか。」と質問を良く受けてまいりました。今までは「良く考えておきます。」とその度保留してきた。今回はこれを正面から取り組んでみて、確かにおかしい。万葉学者が「おかしくない。」と言ってみても、常識ある人間からはおかしい。池のことを海原と言い換えても、他にそのような例があるかと確認すれば全然無い。
 典型的なのは「山常庭 村山有等 取與呂布 やまとには むらやまあれど とりよろふ」の中の「とりよろふ」の解釈に疑問を持った。なぜかというと万葉学者の解釈にはいろいろ有るけれでも、どんな解釈をしても、大和盆地にいろいろある岳(やま)の中で天の香具山が一番目立っているという意味には違いない。しかしこれは知らぬが仏で、奈良県の飛鳥に行ったことのない人は騙されますが、実際に行ってみたら一番目立たない山である。澤潟久孝氏の『万葉集注釈』という本の写真を使わせていただきますが、畝傍山、耳成山は立派ですね。香久山は目立たない平凡な山ですね。これは写真に撮れば良く分かる。上の二つは良く撮れる。香久山は写真に撮れば逆にどこかと探すぐらい分からない。よほど現地の人に確認しないと分からない。この写真には立派に写っているが、素人が撮ればそんなにうまく写らない。
 しかも高さは百六十三メートルしかなく、奈良盆地自身が海抜百メートルぐらいありますので、山の麓(ふもと)に立っている高さは、五十メートル位であるので、私が歩いても頂上までさっと十分ぐらいで上がって行けた。
 非常に低い丘である。それが山の中でも目立つ山とは言えない。これは明らかにおかしいと、おそまきながら気が付いてきた。
 次のポイントは「大和」という言葉が、二回出てくる。二回ともあやしい。原文では先頭の大和は「山常」と書いてありますが、「常世 とこよ」の「常 とこ」だから、上を取って「常 と」と読めないことはないけれども、下の発音を採るのが(万葉かなでは)普通ですから、「山常 やまこ」と読むのが普通だ。又もう一つの読み方「常 つね」を取れば、「山常 やまね」と理解するのが普通だ。第一大和の表記はいっぱい出てくるが、「山常 やまと 大和」の表記は他に全くない。ここだけだ。これを本当に大和と読んで良いのか。むしろ後の読み方の下のほうを取って「山常 やまね 山根」と読むべきだ。小学校・中学校を通して山根君が居ましたし普通の呼び方だ。島根県の「島根」と同じ接尾語である。
 「山根には」というと、山の幹に対して、根がずっと広がっている。これに対して幹になる中心になっているのが高い香具山である。かなり高い山ですよ。

山常庭 村山有等 取與呂布
山嶺には 群山あれど とりよろふ

(『別府史談』入江秀利さんのご協力により「山嶺 やまね」と後日改訂)

 これに対してもっとおかしいのが最後の「八間跡 大和 やまと」である。こんな大和は他に全くない。本当に大和か。「八間跡」は「はまと」ではないか。ハブの港ではないが。それで大和が二つあるから間違いないと思っていたのが、これで二つとも駄目となり、大和と言うことがあやしい。大和とは読めないのではないか。
 それに代わって出てくる固有名詞が「うまし国ぞ 秋津島 大和の国は」の最後のほうに「秋津島」がある。これについて私の『盗まれた神話』で分析したことがありまして、これは『古事記』などに「豊秋津島」と言う形で出てまいります。この「豊秋津」に対して私は、これは「豊」は豊国のことであろう。豊前・豊後の豊国。「秋」と言うのは、例の国東半島の所に安岐町、安岐川がある。大分空港のあるところである。そこの港が安岐港である。しかしこの「秋津」は安岐川の小さな川口の港ではなくて、関門海峡からやってくると、安岐町のところが別府湾の入口になる。そうすると「秋津」は別府湾のことではないか。別府湾を原点にして、九州島全体を指すのが「豊秋津島」ではないか。そう考えた研究の歴史がある。そうするとこの歌の「秋津島」とは九州島のことではなかろうか。そう思い始めた。これを考えたときはおっかなびっくりだったのですが、さらに進んで別府湾なら「海原」があって「鴎(かもめ)立ちたつ」も問題なし。のみならず「国原に煙立つ立つ」も問題がなくなった。私の青年時代、学校の教師をやったのが松本深志高校。そこに通うとき浅間温泉の下宿させていただいた。坂を下り学校に通うとき、冬など温泉のお湯がずっと溝に流し出され、それが冷たい外気に触れて湯気が立ち上がっていて、本当に「煙立ちたつ」の感じだった。そこをぬうようにして降り、なかなかいい光景だった。浅間温泉のような小さな温泉でそうだから、別府となりますと日本きっての温泉の一大団地。そうすると、まさに「煙立ちたつ」ではないか。学校の授業の時は「民のかまどの煙が立ちこめ」と注釈にもそう書いてあったので「家の煙」だと解説していた。しかし良く読んでみると、「海原は鴎立ちたつ」は自然現象。鴎が自然発生しているのと同じように、それと同じく「国原煙立ちたつ」も自然現象。煙が自然発生しているのと同じ書き方である。同じ自然現象です。それで熱中して調べて見た。

 それでは別府に「天香具山」はあるのか。まず「天 あま」はあった。別府湾に「天 あま」はあるのかと調べると、まずここは『倭名抄』では、ここら一帯は「安万 あま」と呼ばる地帯だった。この間行ってきた別府市の中にも天間(あまま)区(旧天間村)など、「あま」という地名は残っている。天間(あまま)の最後の「ま」は志摩や耶麻の「ま」であり、語幹は「あま」である。奈良県飛鳥は「天 あま」と呼ばれる地帯ではない。
 現在でも大分県は北海士郡・南海士郡というのが有り、南海士郡は大分県の宮崎県よりの海岸から奥地までの広い領域を占め、北海士郡は佐賀関という大分の海岸寄りの一番端だけになっている。点に近い所だけだが大分市や別府市が独立して喰いちぎられていったことは間違いない。これはもう本来は北海士郡は別府湾を包んでいたに違いない。それで海部族が支配していて「天 安万 あま」と呼ばれる地帯だったことは間違いがない。
 それでは香具山はどうか。別府の鶴見岳の存在です。別府へ行くといやでも一三五〇メートルの鶴見岳が正面に聳(そび)えている。そこに神社が平野と中腹の二つありまして、その神社を火男小売(ほのをほのめ)神社と言い、ここの祭神がいずれも火軻具土(ほのかぐつち)命です。
 ここの「土」は当て字でして、津(つ)は港、「ち」は神様を意味する言葉です。あしなずち、てなずち、八叉の大蛇(おろち)、大穴持命(おおなむち)の「ち」です。港の神が「つち」である。
 ですからもう一言言いますと、「土蜘蛛 津神奇藻(つちぐも)」というばあいも、「くも」というのは「ぐ、く」は不思議な、神聖なという意味、「も」は(海の)藻のように集まっているという意味で、「くも」は不思議な集落という意味で、「津神奇藻(つちぐも) 土雲」は「港に神様をお祭りしている不可思議な集落」という誉め言葉なのです。それをへんな動物の字を当てて卑しめていて野蛮族扱いにイメージをさせようとしているのが『古事記』・『日本書紀』です。それを見て我々は騙されている。本来はこれは良い意味です。岡山県には津雲遺跡などがあります。そういう知識がありましたので、「ほ」は火山のことになる。
それで平安時代に、この鶴見岳の火山爆発があり『三代実録』にめづらしく詳しい状況が書いてあります。頂上から爆発し、三日三晩かけて吹っ飛び、大きい磐がふっ飛んできて、小さい岩でも水を入れる瓶ぐらいの大きさの岩が飛んできた。又硫黄が飛び散って川に流れて何万という魚が全部死んだという非常にリアルな描写があります。現在はそれで一三五〇メートルで、今は隣の由布岳より少し低い。その鶴見岳は吹っ飛ぶ前は高さが二千メートル近くあったのではないかという話があり、もしそうであれば鶴見岳の方が高かった。
 それで元に戻り、鶴見岳には火軻具土(ほのかぐつち)命を祭っている。「か」はやはり神様の「か」で神聖なという意味で、「ぐ く」は先ほどの不可思議なという意味であり、「神聖な不可思議な山」が「香具山(かぐやま)」である。火山爆発で神聖視されていた山である。もう一つ後ろに神楽女(かぐらめ)湖という湖がある。非常に神秘的な湖ですが、その神楽女湖も、「め」は女神、「ら」は村、空などの日本語で最も多い接尾語で、これもやはり語幹は「かぐ」である。だから並んで山も「かぐ」、湖も「かぐ」である。ですからやはり本来のこの山の名前は「かぐやま」であろう。「香具山(かぐやま)」とは本来ここで有ろう。それで安万(あま)の中にありますから「天香具山(あまのかぐやま)」である。
 付け加えて言いますと、伊予の風土記と阿波の風土記に、いずれも「天山(あまやま)」と「アマノモト山」が出来た理由が書いてある風土記の断片がありまして、「天香具山(あまのかぐやま)」がいつも片割れです。あれはやはり鶴見岳である。何故かというとあれは火山爆発、吹っ飛んだというか、吹っ飛ぶ恐い火山として瀬戸内海で有名だったから、その吹っ飛ぶ火山の片割れが、同じ「天山」であったり、「アマノモト山」であったりする。そういう話である。奈良の飛鳥の「香具山(かぐやま)」はぜんぜん火山ではない。あの山も不思議な山である。何故かというと「天乞いの山」で神が祭られていて、不思議な名前で「櫛真智命(神名帳の記載例、同音異字)」と言い、それで雨ごいのお祭りをする。そうすると十回に九回は雨が降るという確率がよい不思議な山として伝説が伝わっている。しかし、ただの「香久山(かぐやま)」であり、言うのならば飛鳥の香具山であり、あるいは磐余(いわれ)の香具山である。あそこは海部族が支配した形跡はない。
ということを見ますと、やはり先ほどの別府の鶴見岳は「天香具山(あまのかぐやま)」である。奈良県の歌ではない。。初めはおっかなびっくりでしたが、最後は確信を持って鶴見岳という別府の天香具山であるということを主張出来ました。
 しかも決定打は1月に現地に行って直ぐ報告させて頂きましたが、「登り立ち 国見をすれば」の「国見(くにみ)」という字地名を探しておりましたら、『別府市誌』という非常にいい本がありまして、予想外な地名である「登り立」という字地名が二つあることが分かった。「のぼりたち」かと思っていましたら、「登り立(のぼりたて)」でしたが。一つは先ほど言った昔の天間村にある「登り立」である。この天間の「登り立」は周りの高原は良く見える。見下ろせるほど高いが、しかし海は見えない。ところがもう一つの「登り立」、別府駅の南側の浜脇区の「登り立」の方へ行くと、本当に良く見える。そこまで行かなくとも、「河内(こうち)」まで歩いて登って行くと目の下に温泉街と海が見え、国東半島の方まで良く見える。鴎(かもめ)はもちろん来る。もっともその時は「登り立」に鴎は居なかった。鴎もやってくる時間帯があるらしく、お猿さんで有名な高崎山の近くにあるアメリカンフードのレストランの所に集中して居た。鴎は雑食性でポテトチップスなど油ものが大好きらしい。ですから子供が少し与えると、わっと寄って来て小さい子供が泣き出すぐらい一杯来ていた。そのぐらい時期により鴎が集中しているということで御座います。もちろん渡り鳥で十一月から二月くらいに餌の小さな魚を狙ってシベリア方面から来るということです。ということで、「海原は鴎立ちたつ」ももちろん問題なし。
 (『別府市誌』は京都府向日町の図書館に頼んで、別府市の図書館から京都府向日町の図書館へ転送して頂いた。郷土資料は貸し出しできないので、向日町の図書館で閲覧し字地名を調べた。私が急ぐと言ったら非常に速いスピードで送っていただいた。感謝したい。そういうことが出来るので、研究される方のために、ご紹介させていただきます。)
 のみならず意外なことに、最初は気付かなかったのですが。別府湾から二キロぐらい入った所、鶴見岳寄りの別府の市街地を含めて温泉街がたくさんある。そこの字地名は「何々原」がいっぱい有る。私は「国原は 煙立ち立つ」の「国原(くにばら)」という言葉をただ国文学用語だと思っていた。そうでなくて「~原」という地名だった。「~原」という地名の所に温泉街がある。「原 はら」という地名を背景に「国原」と言った。
 「登り立」という言葉も今も残っているのは二カ所だけですが、今は住宅地となり少しずつ均されていますが、おそらく関西弁で「どんつき」・突き当たりとなる場所で、そこから崖に成っている所を、そこを「登り立」と言っているみたいだ。昔はもっと有ったようだ。そういう「登り立」の所へ行って、振り返って温泉街を望んだ歌である。ですから「登り立て」に行ったときから、間違いなく別府の歌であると確信した。また舒明天皇が作った歌ではない。時期は七世紀後半の舒明天皇の時期に作った歌かも知れないが、それを万葉集の編者が強引に舒明天皇の歌に仕立ててしまった。先程述べた雄略天皇の歌に強引に仕立ててしまったのと、同じように舒明天皇の歌に無理矢理仕立ててしまった。そのむりやり舒明天皇の歌に仕立ててしまったところから、そこから国学は出発していた。その出発したところから露出する第一史料である歌の矛盾は、色々のへ理屈を付け、無理矢理説明を重ねてきたと私には見える。そういう国学以来の伝統である。


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