正木裕講演 盗まれた筑紫の万葉歌 -- 舞台は大和・飛鳥などに変えられていた 正木 裕
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和泉史談会 2022年4月12日14時~16時。於:和泉市コミュニティセンター
講演 誰も知らなかった万葉集:盗まれた筑紫の万葉歌 正木裕
(要約)横田幸男
盗まれた筑紫の万葉歌
舞台は大和・飛鳥などに変えられていた
別府湾にあった天の香具山
表題の「盗まれた」という言葉は少しきつい表現ですが、和歌の世界ではご存知だと思いますが「本歌取り」という考えがあります。元の歌から採ってきて新しい歌を作る。あるいは改変する。和歌の世界では、元々の歌を創り変えるということは認められた手法です。
中身を換えるのが「本歌取り」ですが、「万葉の歌」を分析していきますと、そうではなくて歌には「△△宮御宇天皇代もしくは【〇〇天皇】が□□之時に行った」という「題詞」が付いています。それが換えられています。実際に造った場所や実際に歌われた人が替えられている。もともと九州の歌やあるいは九州を題材にした歌が大和の歌に換えられている。実際に歌われた人が替えられて「〇〇天皇」になったという話をさせていただきます。またなぜそういうことになったのかという話もさせていただきます。
1、隠された「万葉集の編纂」と「変えられた万葉歌」
万葉集は760年~780年ころに編纂され、全20巻に4516首が掲載され、大伴家持は約一割473首を詠んでいる。
『万葉集』を編纂したのは大伴家持(やかもち)ですが、大伴旅人の息子です。大伴旅人は、ご存知「令和改元の万葉歌」を九州太宰府で歌い、かつ隼人討伐の大将軍です。
大伴家持自身も筑紫歌人の一員で太宰府筑紫歌壇の人ですから、九州の歌がたくさんあっても不思議ではないのですが少ない。
掉尾を飾る4516番は、家持が759年に詠んだ、「新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事」。従って、家持が編纂に寄与したことは疑えない。
これも一言言わせていただくと、一見愛でたいように見える歌ですが、実際はそんなことはありません。天孫降臨以来の由緒ある大伴家ですが、藤原家の台頭で圧迫されている。一族の者もいろいろな言い掛かりを付けられ謀反の罪を着せられ次々と殺されている。大伴家持はそういう状況を踏まえて「油断するな。気を引き締めろ。」と一族を鼓舞しながら諌める歌を詠んでいます。そういう大伴家持の苦しい状況の中で詠まれた歌ですから、この苦しい状況を一族が何とか乗り切れる良い年でありますようにいう願いを込めた歌です。
ところが『万葉集』には「奥書」がない。したがって編者や編集過程は判らなくなっている。家持が編纂に寄与したことは疑えないが、そのようなことははっきりとは書かれていない。
かつ万葉集を代表する歌人である「柿本人麻呂」の生涯も不明となっている。そして『続日本紀』には「万葉集編纂」に関する 記事は一切載せられていない。これは「万葉集には大和朝廷にとって不都合なことがあった」からと考えられる。
2、前王朝(倭国(九州王朝))の歌と事績を残す万葉集
『万葉集』では、古い時代の歌がたくさん残っている。それがどこで判るかといいますと、『万葉集』では「九州年号」という年号がもちいられていた痕跡がある。『万葉集』で一番古い写本が「元暦校本」ですが、そこに藤原顕家の校合と考えられる奥書がある。見にくいですが朱筆で書かれています。その朱筆ですが、「裏書云 太上天皇 持統天皇也 大化三年譲位於軽皇太子尊号曰太上皇」と書かれています。これは「大化三年に、持統天皇が軽皇子に位を譲った」と書かれています。
皆さんがご存知の中大兄皇子・藤原鎌足が蘇我入鹿を切った「大化の改新」に当たる年は、『日本書紀』では大化元年・六四五年です。ですから「大化三年」は六四七年です。
ですが、この『元暦校本万葉集』の奥書の「大化三年」は、持統天皇が軽皇子(文武天皇)に譲位した持統十一年であり六九七年に当たります。この年は「日本書紀大化、孝徳大化」の六四七年と違います。
これを私たちがいう「九州年号」(『二中歴』で示されている「善記」から「大化」まで連続して続く年号)で考えてみますと、「大化元年」は六九五年にあたり、「大化三年」は「九州年号」では六九七年に当たります。それで『元暦校本万葉集』の「裏書」と「九州年号」は、同一の年となります。これは裏書きですから元々(元)の『元暦校本万葉集』の写本は、九州年号で書かれていた。あるいは平安時代に裏書きを加えた人物は万葉歌を九州年号で理解していたことになります。
同じく、六九五年を元年とする大化は、古代史の学者は「持統大化」と読んでいる。原秀三郎氏は『日本古代国家史研究』という本の中で、「歴史の真実としては、『書記』編纂過程で持統大化が抹殺され、孝徳大化として遡上追建せしめられていったことが明らか。」とする。こういう評価が大化の改新否定論者から出ております。
また『万葉集』三四番歌、四〇番歌、五〇番歌にも朱鳥四年・六年・七年と「九州年号」と一致する年号が使われています。
(『日本書紀』で朱鳥年号が使われているのは元年のみで、かつ一年ズレています。)
ですから「九州年号」で『万葉集』が書かれていると考えられる。
それで何を言いたいのか。『旧唐書』によれば、「倭国」と「日本国」は「別国」で二つ国があると書かれています。
①倭国は志賀島の金印を下賜された倭奴国以来続く九州の国(九州王朝)。
②日本国は8世紀初頭に倭国を併合した大和朝廷だとする。
その七〇〇年で滅びた倭国・九州王朝の年号が「九州年号」です。日本国・大和朝廷の年号は、七〇一年に「建元」した「大宝」からです。(『続日本紀』による。)万葉歌には滅びた倭国の九州年号が記されていた。
万葉歌には「滅びた倭国の歌」が含まれて、「倭国の歴史」を歌うものがあったことを示す。そうした歌は『万葉集』編纂時にカットされるか、大和朝廷の歌に相応しいように「題詞」などが改変された。題詞と内容が合わないところが痕跡として残っています。
3,万葉歌の解釈ー「文学」か「歴史資料」か
『万葉集』の歌の解釈は、「本文」と「題詞」を区別して考える。「題詞」は付け替えられたり、他の人に替えられている。「題詞」はそのようなことが出来ますが、「本文」の改竄(かいざん)、弄(いじ)ることは、歌そのものが滅茶苦茶になりますので、本文はほとんど弄れない。やはり「本文」から考えることになります。
万葉学者は『万葉集』を文学として解釈します。誰がいつどこで詠まれたのか、そういうことから解釈を初めます。そうでないと、この歌が何の歌か分からない。その助けになるのが「題詞」です。その「題詞」を信じて解釈します。そうすると中途半端な解釈になります。しかし『万葉集』の編纂は720年前後ですから、「題詞」は歌が造られたと考えられる持統天皇や舒明天皇の時期に造られたものではなく、一〇〇年も後です。
それでは「歴史史料」として解釈しょうとするとどうなるか。「題詞」や「左注」はあとからつけられたもので歴史史料としては二次史料、一次史料が本文です。「題詞」や「左注」は、後から付いたのだから解釈の助けにはなりますが、あくまでも二次史料です。題詞と本文が食い違ったときはどうするか。当然一次資料である「本文」のほうが大事です。
題詞と本文が矛盾するときは、「題詞」は捨て去って「本文」をもとに理解する。これが「歴史史料」としての解釈です。
4、移された「天の香具山」
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者
國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
外字 A 扁左[忙]旁[可]
この歌を詠んだのは舒明天皇と言われている。舒明天皇は大和朝廷を実際に造った天智・天武のお父さんですから、大和朝廷にとって重要な人物です。この人が香具山に登って国見をしましたというの歌です。
ですが実際の光景を考えますと、香具山の頂上から海原は見えないし、大和にカモメは飛んでこない。
仕方がないので、煙は、民の竈である。そのように見立てた。海原は池である。埴安池にカモメならぬ水鳥が飛んできた。このような無理な解釈をしなければならないのが通常の解釈である。
現地に即して言いますと、今ある香具山の頂上の木を全部切り、高殿を作れば大和平野が全部見えますという現地の案内看板がありますが、しかし看板のようには見えないと考えられる。
「とりよろふ」という言葉そのものは、「とりわけ立派」という意味ですが、大和の香具山そのものは目立たない山です。藤原宮から近いから、そのように詠ったと解釈してみても、そのようには言えない。大和三山の中では、独立峰の畝傍山が百九十八メートルと一番高く、同じく独立峰の耳成山は百三十九メートルです。香具山は2番目の百五十二メートルですが、独立峰でなく山の並びの一番端の山で一番目立たない。大和で一番立派に見えるのは、四百六十七メートルの三輪山です。遥かに高く形もよい。
この歌は大和の香久山には似つかしくない。国原と海原が見渡せる「香具山」は、大和の香具山ではない。
5、『日本書紀』にみる「天香山」
◎『日本書紀』神代紀第七段・一書第一「故に卽ち石凝姥を以て冶工(やこう)とし、天香山の金を採りて曰矛を作る。」
それでは他の香具山をに探ってみると、「『日本書紀』神代紀」にある。
この『日本書紀』でいう「天香山」は、ぜったいに大和の香具山ではない。「天香山の金を採りて曰矛を作る。」とありますが、大和の香具山では鉄も銅も金もとれない。
それに「神代紀」ですから、神武東征以前の話です。当然舞台は九州です。しかも矛も弥生時代以前から九州の遺跡からたくさん出土する。だから、この「天香山」は九州にある。
6、別府湾(安岐津)にあった「天乃香具山」
それでは、九州に歌の内容にあう「天の香具山」があるのかと言いますと、あるのは九州大分県別府にある鶴見岳です。現在の高さは千三百七十五メートルで、頂上までロープウェイがある。別府はご存知の通り温泉街です。
①、別府の鶴見岳の祭神は迦具土(かぐつち)の神。中腹に神楽女(かぐらめ)湖がある。
「かぐつち」の「つ」は港の「津」、「ち」は「神」の意味。語幹は「かぐ」
②、山裾の別府市浜脇区に「登り立」(鶴見岳登り口)という地名がある。
③、『倭名抄』をみますと、別府一帯は「安満(あま)」
④、(蜻蛉島)別府湾口に安岐。(安岐川、『和名抄』豊後国国埼郡に「阿岐」)
⑤、別府は鉄や銅の産地。
⑥、「鶴見山神社由来記」に「天の香具山」
一番明確なのは、山裾の別府市浜脇区にある「登り立」から見ると、別府湾と別府市内も一望できる。何が見えるか。別府平野には温泉の湯けむりがモウモウと立ち上っている様が見える。「国原は 煙立ち立つ」そのものである。「海原は 鴎立ち立つ」も、別府湾から本当の「鴎」が飛び立つのが見える。九州に香具山があった。
最後に『日本書紀』に「天香山の金を採りて」とありますが、別府は鉄や銅の産地です。かつ『万葉集』での「天の香具山」も、『倭名抄』で別府一帯は「安満(あま)」と呼ばれ、鶴見岳の祭神は迦具土(かぐつち)の神ですから、鶴見岳なら「安満(あま)の迦具(かぐ)山」の名にふさわしい。
追記 「鶴見山神社由来記」と鶴見岳
この鶴見岳は神話時代の伝承に満ちている。『鶴見山神社由来記』には、伊邪那美が火結神(ほのゆいのかみ)(迦具土かぐつち神)を生んで焼け死んだ。そして伊邪那岐が怒り火結神を切ったところから天ノ香具山が出来、これが鶴見岳の由来とされる。この山は火山なのです。「磐群木草海水ノ底」まで、噴火で全て焼き尽くしたと書かれてある。
『鶴見山神社由来記』
其ノ山霊ノ神トハ如何ナル大神ニ座シマスヤ、御名ハ詳カニ知ラザレドモ、山霊ノ神トハ火ノ神、火結御霊神ト知ラレタリ。(略) 火結神ノ御体ヨリ成リ、天ノ香具山ヲ初メ、磐群木草海水ノ底ニ至ルマデ火ヲ含マヌモノナシ、ト。件ノ伝ヲ以ッテ、山ノ霊ハ火結御霊神ト知ラレタリ。
【迦具土神】火の神、鍛冶の神。火男火売(ほのおほのめ)神社
大分県別府市771年宝亀2年創祀)は鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神として信仰。
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