万葉集第二歌

”大和には 群山あれど

とりよろふ 天の香具山”

案内

1 英文解説
(これは大和の歌でない)

2 国見の歌

3 天の香具山 登り立ち 国見をすれば

4 別府湾にあった天の香具山
 正木裕 解説

制作 古田史学の会

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古田武彦 講演会
大阪 北市民教養ルーム
一九九九年一月十六日 午後一時から四時半、及び懇談会

天香具山 登り立ち 国見をすれば

万葉集巻一第二歌
やまとには,むらやまあれど,とりよろふ,あまのかぐやま,のぼりたち,くにみをすれば,くにはらは,けぶりたちたつ,うなはらは,かまめたちたつ,うましくにぞ,あきづしま,やまとのくには
 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

>原文
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

A 扁左[忙]旁[可] は外字 です。

校異
なし

 この問題は、この歌ばかりでなく、有名な万葉集の第二歌でも見られる。

 この歌がおかしいですね。仙台でも大阪でも東京でも講演会の度に、何回も出ていた。のみならず後の懇談会などでも、必ずと言って良いほど出ていた。素人の質問として、あるいは素人だからこそ、率直に疑問をもたれる箇所なのですね。それが「国原は 煙立ちたつ 海原は鴎立ちたつ」の問題です。「大和盆地で鴎(カモメ)が飛んでいるのですか。海原が見えますか。」という質問が出る。率直に疑問をもたれる箇所なんですね。「大和盆地で海が見えますか。」という質問、特にそれを疑問にされる。皆さんは大和に行き過ぎて今更そんな「ばかばかしくて。」という感じをもたれるが、大和を知らない人は地図だけで考えると、特に疑問にされる。どうしてもおかしい。鴎は川伝いに上がって入ってくることがあるかも知れませんが、それでもあまり目立つほど入ってくるかどうか知りませんが、どう見たって「海原」は見えない。
 事実、飛鳥三山の香久山、私が書くのなら高山と書かず低山と書くが、あの香久山は百六十三メートルしかないし、奈良盆地自身が海抜百メートルぐらいありますので、山の麓(ふもと)に立っている高さは、五十メートル位であるので、私でも頂上までさっと十分ぐらいで上がって行けたのです。
 それで、その側にある「埴安の池伝承地」というのが、ため池でして大きさがこの部屋の二・三倍しかない。これがなぜ「海原」と見えるのか。誇張にも程度があるという感じがする。この辺も注釈する人も大変苦労していて、「歌というのは、目に見えるものを詠うだけではない。頭の中のイメージで詠うことが本領である。」と言って、分かったか分からないような注釈を偉い先生方が付けている。しかし率直に言ってあれを「海原」と表現するのは難しいと感じている。
 特に今回「これは?」と思いましたのは、先頭の「大和には 群山あれど とりよろふ」の解釈です。大和にはたくさんの山がありますね。その中で特に目立つ山と言っている。
 「とりよろふ」の解釈も色々あるでしょうが「際だっている」ということでしょうが、ぜんぜん際立っていない。それに鳥が集まってくる「山の中の山、目立つ山」という意味でしょうが、本当にそうでしょうか。
 今回も飛鳥三山の写真を撮ろうと思って取ったが、香久山はいつも入っているか迷った。後の二つ畝傍山と耳成山は入っていると思いますよ。しかし香久山はいつも本当にカメラに写っているか不安でした。一番目立たない。なぜ「とりよろふ天香具山」でしょうか。幾らイメージだと言っても、イメージにむしろ反している。これはどうも違うのではないかと思い始めた。
 それで突破口になった単語があるのですが、それは最後のほうの「うまし国ぞ秋津島大和の国は」の「秋津島」である。「秋津島」、この言葉である。これについて私の『盗まれた神話』を読まれた方はご存じのように国生み神話でこれを扱いまして、この「大日本豐秋津州」が出てまいります。またの名を「天御虚空豊秋津根別」、こういう形で出てまいります。
 この「豊秋津」に対して私は、これは「豊」は豊国のことであろう。豊前、豊後の大分県である。「秋」と言うのは、例の国東半島の所に安岐町、安岐川がある。大分空港のあるところである。「津」は港である。別府湾から来るとき、一番最初が安岐、別府湾自身を安岐津と言ったのだろう。そういう言葉の組合せの出方に注目して論じたことが御座います。ですから私にとってはあれ以来、国東半島のある別府湾は私のイメージにあった。そうするとここで「秋津」と言っているのは、「別府湾」のことではないか。そういうふうに考えてきた。もちろん別府湾には「海原」がある。当たり前ですが。そうするとハッと考えたのは「国原に煙立ちこめ」と言っているはどういうことか。高校の国語の教師をやっていたときは、「民のかまどの煙が立ちこめ」と、注釈にもそう書いてあったので「家の煙」だと解説していた。しかし良く読んでみると、もしそうだと言うならば「民の竈(かまど)に煙立ちたち」とか「民屋に煙立ちたつ」と言えばよい。しかしそうは書いてはいない。「海原は鴎立ちたつ」と同じく、鴎が自然発生しているのと同じように、「国原」に煙が自然発生している書き方である。そこでハッと気が付いたのは、私の青年時代、学校の教師をやっていたのが松本深志高校。そこに通うとき浅間温泉の百姓屋さんに下宿させていただいた。学校に通うとき、冬など温泉のお湯がずっと溝に流し出され、それが冷たい外気に触れて湯気が立ち上がっていて、まさに「煙立ちたち」。その間を降りていったことを、なつかしい思い出に持っています。小さな温泉でそうだから、大きな温泉の別府では、まさに温泉の団地の様なものであるし、なおさらそうではないか。そうすると、まさに「国原に煙立ちたつ」ではないか。「別府かも知れんぞ。」と、こう考えてきた。

 さらにダメ押しとなりましたのは、別府の鶴見岳の存在です。別府へ行くといやでも正面に聳(そび)えている。そこに神社がありまして、この神社を火男火売(ほのをほのめ)神社と言い、ここの祭神が火軻具土(ほのかぐつち)命です。ここの「土」は当て字でして、津(つ)は港、「ち」は神です。『古事記』では神様に二種類の表現がある。一つは「ち」、もう一つは「み」です。これは私の先輩である古事記学会の梅沢伊勢三氏が言い出して定説になっているが、その一つの神様である「ち」です。「つち」は港の神様である。「ほの」はもちろん火山のことである。そうすると固有名詞部分は「かぐ」である。
それだけではありません。すぐその隣に由布岳と鶴見岳に囲まれた神楽女(かぐらめ)湖というまことに美しい湖がある。その神楽女(かぐらめ)湖は、「め」は女神、「ら」は村、空などの日本語で最も多い接尾語、これもまた固有名詞は「かぐ」である。いずれも語幹は「かぐ」である。「め」というのは女性の神様の呼び名ですから、それ以前の神様を「ち」と呼んでいた時代の、この山の名前は結局「かぐやま香具山」ではなかったかという問題にたどり着いた。
 しかもここの場合は(八世紀の)『倭名抄』では、ここら一帯は「安満 あま」と呼ばれていた。現在でも北海士郡、南海士郡というのが有りますが、南海士(あま)郡は大分県の宮崎県よりの海岸から奥地までの広い領域に対して、北海士郡は、市や町が独立して、佐賀関という大分の海岸寄りの一番端だけになっている。現在は南海士郡の十分の一ぐらいの広さであるが。これはもう本来は北海士郡は別府湾を包んでいたと思う。海部族がいたから、海士郡と言うのでしょうが、海部族が別府湾を見逃すはずがない。端だけで満足するはずがない。そこへ当然別府などの他の地名が重なってくる。「別府」というのは官庁名。私は九州王朝の官庁名だと考えているが、それはともかく、この間行ってきた別府市の中にも天間(あまま)区(旧天間村)など、「あま」という地名は残っている。
 ですからこの辺り一帯は、「あま」という領域である。その中の「かぐやま」である。「天の香具山」というのは鶴見岳のことではないか。それでまだまだ有りますが、他のいきさつは省きます。
 それで十一月始めに一度行きまして、また昨夜二回目の別府に行って来ました。それは、調べている内に別府の中に「のぼりたて」という地名が、字(あざ)地名ですけれども、二つ有ることを知った。こんな地名があるのか。富来孝さんーー「邪馬台国」論争でも一説を成された方で、現在八十歳半ばで社会学専攻の大分大学名誉教授。ーーこの人の書かれた別府における鉄の研究の本、その本を拝見している中で、挙げられた字地名の中に「登り立」が二つ出てくる。 これは歌と関係しているのではないか。「登り立ち国見をすれば」とありますから。それで矢も楯もたまらず、別府へ行って参りました。便利ですね。夜大阪港から船に乗り、朝別府に着き、調査を終えてその日夜船に乗れば、朝大阪着となる。船で二泊となり、まさに日帰りの感じで行ってまいりました。仕事で実家のある別府に移動された静岡古代史研究会の上条さんに、車で案内していただきました。それが良かった。それで二つある「登り立」、いずれも「登り立(のぼりたて)」が正しいということが分かったのですが、二つある中で現在別府市の天間区の「登り立」、湯布院よりの所。ここは界わいは見晴らしがよいが別府湾は見えない。もう一つの「登り立」、これは別府市浜脇区、そこに「登り立」がある。国東半島の反対側の宮崎県よりの所で大分市に近い、お猿さんで有名な高崎山の近く。海岸寄りを登っていくと、そこに工藤さんという自治会長さんのお宅がある。そこが「登り立」である。しかも後ろに崖がある。登っていくと、関西弁で「どんつき」・突き当たりとなり、そこを「登り立(のぼりたて)」と言っているみたいだ。別府湾全体を見下ろせる。そこはせいぜい海抜百五十メートルぐらいではないか。ここのように低い方がよい。なぜかというと、高くて見晴らしの良いところはたくさんある。この前行きました十文字高原は、別府湾を一望でき、百万ドルの夜景で見事なものです。また鉄輪(かんなわ)温泉の鉄輪山も高さも三百メートルぐらい有り別府湾を一望できるということです。鉄輪山は上条さんに確認をお願いしています。そういう所は別府湾は見えるが鴎まではマークしにくい。高さも三百メートルぐらい有れば海岸から離れすぎている。別府市浜脇区の「登り立」は百五十メートル位、そこまで行かなくとも良い。浜脇(温泉)から上がって行きますと「川内(こうち)」というバス停があって海抜百メートルぐらいではないか。そこから上がって行き、振り返ってみると、国東半島まで見下ろせ、別府市内は一望できる。脇の方の妨げがないから、ここだったら鴎は大丈夫である。「登り立(のぼりたて)」の方向へ百メートル位、歩いて上がれば見事な光景である。こちらなら鴎(かもめ)が見える。「登り立」でも工藤さんは鴎が見ることが出来ると言っていた。尤もその時は「登り立」には鴎はいなかった。しかし少し降りてお猿さんで有名な高崎山の駐車場に行った。そのファミリーレストランの近くに寄ると、鴎がいるわ、いるわ、乱舞している。夢中で写真を撮りまくった。かもめは雑食性で残飯等が餌になる。子供がポテトチップスなどやっていることもあるようだ。みんなそこへ群がっていた。「登り立」から横に直線距離百メートル位だから、みんなそっちに吸い寄せられていた。「登り立て」でも時間帯によって見える。以上で「海原は鴎立ちたつ」もここは問題なし。私は知らなかったが、鴎は渡り鳥です。十一月始めから来て、二月一杯ぐらいでシベリアへ帰って行く。

 それでさらに面白い問題にぶつかった。もう一度歌を見ると、

大和には 群山あれど とりよろう天の香具山
山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山

 まず最初の「大和には」。これはおかしいと早い時期に気付いていた。なぜかと言いますと原文を見て下さい。「山常」と書いて有る。これを「大和(やまと)」と読むのは私は無理だと思う。「常世(とこよ)」の「常(とこ)」だから読めないことはないけれども、むしろ下の「常(こ)」と読んで、合わせて「山常(やまこ)には」と読むならよいが、ともかく無理に近い。「ダメとは言わないが、あんまりない例ですね。」という感じがする。ところがこの字は万葉では、「常(とこ)」と言っているばかりでなく、「常(つね)」ともたくさん読んでいる。その「つね」の下の「常(ね)」と読むのが、非常に万葉の表記の読み方として自然なんです。それで考えて「山常(やまね)には」と読めば、島根県もありますし、私の友人に小・中・高校とも山根(やまね)さんが居ました。「やまね」は当然ながら日本語である。だから天の香具山を幹に例えて、「山根には 群山あれど」と読めば良いと、それが私には、「大和」に無理矢理くっ付けるのではなく、表記自身を大事にしてそのまま理解できるように読むならば「山根には やまねには」と読むべきだ。

 そのことは、かなり早い段階から考えていた。ところが最後まで引っかかっていたのが、最後の方の「大和の国は」である。

うまし国ぞ 秋津島 大和の国は
国曽 蜻島 八間跡能国者

 ここのところを私はたとえば「うまし国ぞ 秋津島 豊の国原」と考え、豊前・豊後の「豊の国原」を「大和」に書き直したのだろうと考えていた。しかし二・三日前に、京都に帰ったら報告しますと、「多元的古代関東」の会長の高田かつ子さんに連絡していた。高田さんは万葉に強いですから、いろいろ教えていただいていた。それで帰ってさっそく約束通り高田さんに電話で報告した。どうも海岸よりの「登り立」の方ではないかと報告した。最初行くときは天間の「登り立」、そばの十文字原高原辺りではないかとの予想で別府へ行ったのですが、むしろ浜脇の「登り立」でしたと報告した。そうすると高田さんが言われるのに、最後の「大和(やまと)」は「はまと」ではないかと言われた。お分かりになりますか。原文を見てくだざい。最初から注意していたが、「八間跡」を「大和」と書いて有るが、こんな大和(やまと)は全くない。「山常(やまと)」以上に、「八間跡(やまと)」は全くない。「やまと」と読む例もないが、感触もない。おかしい、おかしい、今まで言っていた。ところが私が高田さんに「別府市浜脇区」と言ったでしょう。そこでピンときた。そして調べてもらったら、万葉で「八 はち」は「八 や」とも読みますが、「八 は」とも読む例が結構少なくない。たくさんあるが今は例を一つだけ示せば、「吾八 我れは(われは) 歌三三〇六」だって、主格の「我れは」を「八 は」を使っている例など結構ある。その他にもいっぱいある。(追加例 歌一一一三 八信井 走井)
 ですから論理的には、「八間跡」は「やまと」とも「はまと」とも読める。今まで「やまと」と思っていたが「はまと」ではないか。ここ「登り立て」が浜脇区であり、浜脇区と言う言葉が出来ると言うことは、別府の中心が「浜(はま)」と呼ばれていなければ、浜脇(はまわき)という言葉が出来るはずがない。別府というのは先ほど言ったとおり官庁名で自然地名ではない。今は、北町・南町という名前が付いているが、その前は当然自然地名だった。推定だけではなくて、その先には、浜田・餅ヶ浜とか、いっぱい浜(はま)のある区名、地名がある。そうすると別府の中心を含んでこの海岸は浜(はま)と呼ばれていた。海岸だから、浜(はま)と呼ばれるのは当たり前ですが。

 そうすると、これは書き直しではなくて、

うまし国ぞ 秋津島 はまとの国は
国曽 蜻島 八間跡能国者

 という読まなければならない。これが正しい読み方である。
そういうことに一昨日高田さんに言われて気がついた。

 さらに問題は進展した。『別府市誌』という本を別府市の図書館から京都府向日町の図書館へ送ってもらって、図書館でその本を見て字地名を調べたりした。(郷土資料は貸し出しできないので、図書館で閲覧した。)それで更に認識は前進した。「浜 はま」は海岸辺りだから当然だが、別府市の鶴見岳寄りの地名は「原(はら)」だらけ、別府の市街地を含めて、「何とか原」がいっぱい。原だけもある。南北につながっていた。そうすると私は今まで、「国原(くにばら)」という言葉をただ古典の抽象的な言葉だと思っていた。みなさんもそうでしょう。そうでなく「原 はら」という地名を背景に「国原」と言った。もうここまで来ると、この歌の原産地が別府であることは疑うことが出来なくなりました。

 この歌は別府で作られた。その別府の中心に聳(そび)えている鶴見岳を、そこから詠い初めた。そして浜脇区の「登り立て」のほうへ上って行って、そこで別府全体を見下ろせますので、そこで作った歌。そこで鴎(かもめ)もくるし、煙は、浜脇温泉自身も相当古い温泉であり、別府も温泉の煙は立ち登っていて当然見下ろせる。湯気が立ち登っているプロの方が撮った見事な写真がある。「登り立」の付近での鴎の写真もある。

(歌の読み例)
山根には 群山あれど とりよろふ
天香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ちたつ 海原は鴎立ちたつ
うまし国ぞ 秋津島 浜跡の国は

(原文)
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者
國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋八間跡能國者
A 扁左[忙]旁[可] は外字 です。

 以上、この歌は大和盆地で作られた歌ではない。もちろん大和盆地で舒明天皇が作った歌でもない。要するに別府で作られた。それも国見をするのは庶民がするということはあんまり有りませんから権力者、もしかしたら筑紫からやってきた権力者、この当時だったら多利思北孤、別に彼でなくてもかまいませんが、海から別府に来た。港に来て上がって行って、「登り立(のぼりたて)」で作った歌。そういうことを疑うことは出来ない。
 このことは重大な意味を持つ。我々は万葉というものを原本で最古典と思っていますが、そうではない。
その前の歌集があって、そこからの改竄(かいざん)。作者を変えて、舒明天皇のときに出来たかも知れないが。大和盆地で舒明天皇が作ったという形に書き換えて万葉を作った。そういう重大な問題を今の論証は提起させて頂だいた。これ以外にもいろいろな例にぶつかってきたわけですが、私にとって最も印象的な例を申し上げたわけで御座います。

 

追補 天香具山について

 制作(岩波古典文学大系『古事記』に準拠P81 より)
故是に天照大御神見畏かしこみて。天の石屋戸開きて刺許母理さしこもり坐しき。爾に高天の原皆暗く、葦原中國あしはらなかくに悉に闇し。此れに因りて常夜とこよ往きき。是ここに萬の神の声、狹蝿那須さばえなす【此二字以音】満ち。萬の妖わざはひ悉發き。是を以ちて八百萬の神、天安の河原に神集ひ集ひて【訓集云都度比】。高御産巣日神の子、思金神に思わしめ【訓金云加海尼】て常世の長鳴鳥を集つめて、鳴かしめて、天の安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵まがねてつを取りて、鍛人たんじん天津麻羅【麻羅二字以音】を求ぎて、科伊斯許理度賣命【自伊以六字以音】に科おほせて、鏡を作らしめ。玉祖命に科せて、八尺勾玉の五百津の御須麻流みすまるの珠を作らしめて、天兒屋命、布刀玉命【布刀二字以音下效此】を召しての眞男鹿まおしかの肩を内拔きに拔きて、天の香山の天の波波迦【此二字以音木名】を取りて、占合ひ麻迦那波而【自麻下四字以音】しめて、天の香山の五百津の眞賢木を根許士爾許士【自許下五字以音】て、上枝ほつえに八尺勾玉の五百津の御須麻流の玉取り著け、中枝に八尺鏡【訓八尺云八阿多】取り繋け、下枝に白丹寸手しらにきて、青丹寸手而(あをにきて)取を垂【訓垂云志殿】でて、此(こ)の種種の物は、布刀玉命、布刀御幣と取ち持ちて、天兒屋命、布刀詔戸言祷き白まをして、天手力男神、戸の掖わきに隱れ立ちて、天宇受賣命、天の香山の天の日影を手次たすきに繋けて、天の眞拆まさきを鬘かづらと爲て、天の香山の小竹葉ささばを手草に結ひて、【訓小竹云佐佐】天の石屋戸に汚氣【此二字以音】を伏せて蹈み、登杼呂許志、【此五字以音】神懸り爲て、胸乳を掛き出で、裳緒もひもを番登ほとに忍し垂れき。爾に高天の原動而とよみて、八百萬神共に咲わらいき。

注)「勾玉」の玉は当て字です。

(岩波古典文学大系『日本書紀』に準拠P111 より)
本文
是の時に、天照大神、驚きたまひて、梭(かび)を以て身を傷ましむ。此に由りて、發慍りまして、乃ち天の石窟に入りまして、磐戸閉して、幽り居しむ。故、六合の内常闇にして、畫夜の相代も知らず。八十萬神、天の安邊に會ひて其の祈るべき方を計ふ。故、思金神深く謀り遠く慮りて、遂に長鳴鳥を衆つめて、お互いに長鳴せしむ。亦手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、中臣連の遠祖天兒屋命、忌部遠祖の太玉命、天香山の五百箇(いほつ)の眞坂樹(まさかき)を掘じて、上枝には八坂瓊の五百箇の御統を懸け、中枝に八咫鏡を懸け、下枝に青和幣(あをにきて)、白和幣を懸でて、相興に致其祈祷す。又猿田彦の遠祖天細女命(あまのうずめのみこと)、則ち手に茅[糸廛]の[予肖]を持ち、天石窟戸の前に立たして、巧に作俳優す。亦 天香山の眞坂樹を以て、鬘(かづら)にし、蘿(ひかげ)を以て、手繦(たすき)にして、火處焼き、覆槽(うけ)置せ、顯神明之憑談(かむがかり)す。

(第一)
一書に曰く、・・・・故、天照大神、素戔鳴尊に謂りて曰わく、「汝猶黒き心有り。汝と相見じ。」とのたはひて、乃ち天の石窟に入りまして、磐戸閉著しつ。是に天下恆闇にして、復畫夜の殊も無し。故、八十萬の神を天高市に會へて問はしむ。時に高皇産靈の息思金神といふ者あり。思慮の智有り。乃ち思ひて白して曰さく、「彼の神の象を圖し造りて、招祈き奉る」とまうす。故、即ち石凝姥(いしこりどめ)を以て治工として、 天香山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又眞名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊國に所坐す日前神なり。石凝姥、此をば伊之居梨度[口羊]と云ふ。・・・・

(第二)
なし

(第三)
一書に曰く、・・・
日神の、天の石窟に閉り居ますに至りて、諸の神、中臣連の遠祖興台産靈が兒天兒屋命を遣して祈ましむ。是に天兒屋命、天香山の眞坂樹(まさかき)を掘じて、上枝には鏡作りの遠祖天抜戸が兒石凝戸邊が作れる八咫鏡の懸け、中枝には、玉作の遠祖伊奘諾尊の兒天明玉が作れる八坂瓊の曲玉を懸け、下枝に粟國の忌部の遠祖天日鷲が作ける木綿を懸でて、乃ち忌部首の遠祖太玉命をして執り取たしめて、廣く厚く稱辭をへて祈み啓さしむ。

・・・・

 後十分で申し上げておきたいテーマを述べてみたい。「天香具山」の問題を別府の問題で致しましたが、今日の話の中で私がそれに注目した理由は、もう一つ別に御座います。
 ご存じのように『古事記の神代の巻』の「天照大神の磐戸隠れの一段」のところで、天香山あまのかぐやまがやたらに出てくる。スサノオの乱暴に懲りて、天照大神が天の石屋に隠ったとある。それで思金神などが知恵を絞った。それで思金神などが何をしたかというと、天の香山の眞賢木さかきを持ってきて、天の香山の鹿しかの皮を取りてとか、一ページの内に「天の香山」が四・五回出てくる。その天香(具)山あまのかぐやまは一体どこだろうと私は思っていた。
 私は『古事記』『日本書紀』の国生み神話の分析から、特に『古事記』では天国は対馬海流周辺の「嶋 島 州 しま 」が「天国のまたの名」になっている。「天下り」という言葉も、出雲、筑紫、新羅などに寄り道なしに天下っている。そうすると対馬海流周辺の領域が「天国」である。こう考えた。

(岩波古典文学大系『古事記』に準拠P54 より)
於是二柱神議云。今吾所生之子不良。猶宜白天神之御所。即共參上。請天神之命。爾天神之命以。布斗麻迩爾【上。此五字以音】ト相而詔之。因女先言而不良。亦還降改言。故爾反降。更往迴其天之御柱如先。於是伊邪那岐命。先言阿那迩夜志愛袁登賣袁。後妹伊邪那美命言。阿那迩夜志愛袁登古袁。如此言竟而。御合。生子淡道
之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】次生嶋。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛(上)比賣【此二字以音下效此】讚岐國謂飯依比古。粟國謂大宜都比賣【此四字以音】土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別【許呂二字以音】次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別【曾字以音】次生伊岐嶋。亦名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如】次生津嶋。亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。

次生大倭豐秋津嶋。亦名謂天御虚空豐秋津根別。
次に大倭豐秋津おおやまととよあきづ島を生みき。亦の名は天御虚空豐秋津根別あまつみそらとよあきつねわけと謂ふ。
故因此八嶋先所生。謂大八嶋國。然後還坐之時。生吉備兒嶋。亦名謂建日方別。次生小豆嶋。亦名謂大野手(上)比賣。次生大嶋。亦名謂大多麻(上)流別【自多至流以音】次生女嶋。亦名謂天一根【訓天如天】次生知訶嶋。亦名謂天之忍男。次生兩兒嶋。亦名謂天兩屋。【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋】

 ところがその時重大なカットしたところが一カ所有った。それは何かというと、「大倭豊秋津島」というのがありまして、またの名がちゃんとありまして、「天御虚空豐秋津根別」となっていた。またの名はきちんと「天」が付いている。ところが最初に「大倭」とあったので、近畿天皇家が中心とした話に揃えるために付け加えたと理解したために、それをカットして「天国」を論じた。事実ほかの「天国」の場合は、「天の狹手依姫」とか「天の一柱」とか「天の兩屋」とか、男の神様にしても、男・女の神様にしてもどれも単純な表現である。
 ところが今の分だけは、またの名が「天御虚空豐秋津根別」となっていてAのBのCとなり、地名が入っいてスタイルが違う。だから後世のものだと、述べて一旦カットして理解した。

 ところがここ二・三年来、「倭」という字は『古事記』では実は「筑紫(ちくし)」と呼んでいるのではないか。という問題にぶつかりました。大国主が「倭」国へ上(のぼ)ると書いてある。その途中に沖の島のアマテルの娘と結婚するという話がある。沖の島へ行くのに、何で奈良県をめざすのか。奈良県に行くのがなんで上るとなるのか。そういう疑問にぶつかった。本居宣長は例によって、日本は天皇家から始まるから「上る」でもかまわないと言ったが、私などはそれはちょっとピンと来ない。そうするとこれは何か。「倭国」は「筑紫(ちくし)国」のことではないか。ちょうど志賀島の金印が「倭」を「筑紫」であることを示している。出雲から筑紫国へ行くのは当然対馬海流を上らなければならないから、上るのは当たり前である。途中に沖の島へ行くのは当たり前である。だからあの話は偶然入ったのではなくて、『古事記』ではこの話の前にも倭が二・三出てきますが、その倭の位置を示している。その後も「倭」を「筑紫(ちくし)」国と読んで下さい、そう理解して下さい。そう『古事記』では言っている。
 それが逆転したという建て前になっているのが『倭健(やまとたける)』の話である。有り得ないことですが、死ぬ前に、「倭」の名前をお譲りします。これからは「倭健(やまとたける)」とお名乗り下さい。そういう話になっている。あの話から「倭」は「大和(やまと)」と呼んでもいいことになったのだ。そう『古事記』は主張し、天武は主張したかった。実際は天武の時には「倭」の意味は、「筑紫(ちくし)」国である。それは天武は「倭」は「大和(やまと)」と読み変えるという、ある意味では天才的な発想をした。自分がそうしたいから、そう読むのでは通りませんので、これは倭健(やまとたける)のこういう説話があるから、それ以来「倭」をヤマトと読んでも良くなった。と天武は主張している。
 他方『日本書紀』は最初から「大日本」を大日本(ヤマト)と呼べと、注に書いてあるように、なっている。『日本書紀』は最初から非常にすっきりした形になっている。ところが『古事記』はまだ節度というか、はじらいがあって、倭(チクシ)だったのだが、あの倭健(やまとたける)以来、倭(ヤマト)と読んでも良くなったですよと言っている。それを本居宣長は最初から『日本書紀』のやり方で、『古事記』の倭を「ヤマト」と読んだ。そういうことが分かってきた。
 そうなりますと先ほどの『古事記』における国生み神話の「大倭」の意味はオオヤマトでなく、オオチクシではないかと、いうことになる。そうなりますと先ほどの別府湾辺りは「大倭(オオチクシ)」に入ってくることになる。確かに表記が違うから、天照大神の「天の岩屋」の話の後からプラスされたものには違いはないけれども、しかし重要な後のプラスである。天照大神の「天の岩屋」の話は当然「天孫降臨」が済んだ後に付け加えられている。
 しかしこの話そのものの、絶対時点は「天孫降臨」の前である。その証拠に、スサノオは天照大神の弟にされているが、スサノオという人物は、本当は天照大神の少なくとも5・6代前である。
 (広島県の伝説がそうなっている。『日本書紀』一書の中でもそうなっているものがある。)

 「天の岩屋の話」は別府を加えた領域、「豊安岐津」を加えた領域で語られた、「天国」領域で語られた話ではないか。そうしますと「天の香具山」と言っているのは、別府湾の「天の香具山・鶴見岳」のことではないか。ここまで来るのに七転八倒した。結局そこまで論理的に押し詰められていった。

 それで『日本書紀』で「天の香山の金(かね)を採りて」とあり、「天の金山の鉄を取りて」と『古事記』でもでてくる。どうもあそこは鉄の産地らしい。ホントかな?と思ったが、別府市を調べてみたらなんのことはない。別府は有名な鉄の産地である。先ほどの富来隆さんも別府の鉄の論文を書いておられる。「たたら」という字地名があの狭い別府市の中に四カ所もある。それから調べてもらったら、皆さんご存知の別府の「血の池地獄」。あの温泉は鉄である。鉄を含んでいるから赤い。私は全く知らなかったが真っ青な「海地獄」、水野さんはご存知だったが、あれも硫酸鉄である。だから両方とも成分は鉄である。そういうことで証拠はいっぱいある。だから別府は凄い鉄の産地である。しかも同時に銅の産地である。私は知らなかったが、鶴見岳と並んでいる硫黄岳という山がありましてつい最近まで銅を掘っていた。天真村の西垣さんに教えてもらった。鏡なども銅で作るのだから。やはり別府の「天の香具山」である。榊や鹿ぐらいは、どこにもいると思うけれども、天照(アマテル)や思兼(オモイカネ)にとっては、「天の香山(アマノカグヤマ)」から持ってきた榊、鹿の皮という事に意味があった。ということは天照や思兼の新しい時代より、古い時代の文明中心地が、神聖な場所が現在の別府・天の香具山の地帯である。そこの榊やそこの鹿の皮やそこの鉄でないと具合が悪い。そういう構造を持っている「お話」である。

 それだけでなくもう一つ、そこは「天の金山の鉄を取りて」と、金山彦を祭っているが、ところがそこで面白いのは鉄材料だけではなくて、「天津マラを招き、・・・」と人間、鍛人(タンジン)、技術者を招いている。天津マラを招いている。天津というのは、「天国(あまくに)の港」という意味では全部一般名詞である。そういう見方もできるのですが、固有名詞となれば別府湾のことではないか。「まら」というのは朝日新聞太宰府支局長の内倉さんのアイデアで教えてもらったのですが、「インド人ではないでしょうか。」と言われた。言われてみればそうである。韓国人や中国人にマラという人はいない。マーラという名前はインド人であればありやすい名前である。但し彼はインドから直接来たのではない。なぜかというと天津マラと読んでいるところから見て、その「天津」は日本語である。古田ジョンや古田マーガレットと同じで二世である。インドから来て天津(アマツ、別府)で鉄の採掘を行っていた技術者、彼を天津(アマツ、別府)から呼んだという話である。
 「天の岩屋」自身は壱岐・対馬付近だと、たとえば原の辻遺跡付近だと考えているが、ところが遠い天津(アマツ)から、船ならば近いでしょうが、色々なものを持ってきてどんちゃん騒ぎを行った。それが『古事記』などの話の道具建てとして使われている。そういうお話になっている。これは大変な問題にぶつかったと思っている。
 ところが『日本書紀』では、ぜんぜん違う立場を取る。『日本書紀』では「天の香具山」は初めから奈良県のこととなっている。それは神武天皇が「天の香山の(社の中の)埴を取りて、」という記事がある。だから『日本書紀』を見る限りは、「天の香具山」は奈良県としか読めない。そうすると、あれが奈良県だったら天照(アマテル)は初めから奈良県におったことになる。そうするとその後で神武が、九州から又来られたら困る。
 だから津田左右吉の「神武造作説」成立の秘密が、やっと分かった。津田左右吉は神武を目の敵(かたき)にする。彼もやはり万葉集の二番目の歌も知っている。『日本書紀』では歌も奈良県で詠われたということになっている。『日本書紀』の天照(アマテル)も奈良県である。神話では天照(アマテル)は初めから奈良県におったことになる。そうすると神話から奈良県である。天皇家は奈良県の自然発生である。そうしたら神武が九州から来たという話はペケ、「神武」は造作である。津田左右吉はそうしなければならない。


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