お断り:国分松本遺跡第13 次調査 遺跡説明会・展示解説資料(PDF)は、太宰府市より発行されています。
太宰府「戸籍」木簡の考察 -- 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也(会報112号)
太宰府出土「戸籍」木簡
「多利思北弧」まぼろしの戸籍か!
豊中市 大下隆司
太宰府市国分松本遺跡で「戸籍」木簡が見つかり、戸籍関連史料として初めて七世紀代にさかのぼるものとして大々的に新聞に報道されました。
この「戸籍」木簡には現在の糸島市から福岡市西区にかけての「嶋評」に住んでいた十六名の人名や身分、続柄などが書かれています。また「川部里」の文字も見えます。これは正倉院文書にある七〇二年の「筑前國嶋郡川邊里戸籍」と同じ地名であることから特に注目されています。
六月十六日(土)に太宰府市教育委員会主催の現地説明会が、木簡の出土した松本遺跡の近くにある「文化ふれあい館」で行われましたので古田先生に同行、参加しました。
当日は大雨でしたが会場は熱心な多くの見学者であふれ、「古田史学の会・九州」からも上城誠さん、中村通敏さんなどが参加されました。
資料○1~○4は六月十六日の現地説明会で配布された資料です。閲覧願います。
一、木簡の出土地
国分松本遺跡は太宰府政庁の西北一.二キロ、四王寺山(標高四一〇メートル)の南西麓から南西の方向に広がる扇状地の中ほどにあります。木簡は国分寺と国分尼寺の間の旧河川から出土ました。(資料○1)
木簡に書かれている嶋評は、太宰府から北西の方向約三十キロのところにあります。
二、木簡と出土層
今回の発掘で合計十三枚の木簡が出土しました。木簡が見つかったのは資料○4左下の地層断面図の上層部「灰色粘土層」と真ん中の「黄茶色粘土層」の所です。
(木簡1「戸籍」木簡)
・灰色粘土層と黄茶色粘土層の間から出土しました。偶然に二つの粘土層に挟まれたためか、木簡の字も鮮明に残されていたとの説明です。
(木簡3「付札」木簡)
・黄茶色粘土層にありました。「竺紫」と古い表記がされています。上部のV字型の切れ込みと「并二十四枚」の文字から合計で二十四枚の木簡を束ねていたとされています。
(木簡4「天平十一年」木簡)
・灰色粘土層にありました。他の木簡はすべて破断されていましたが、この木簡だけは完品で残っていました。
(その他の木簡)
・二つの地層のところからバラバラに出土しています。
(材質)
・木簡4「天平十一年」木簡は広葉樹ですが、その他はすべて針葉樹です。
(それぞれの地層について)
(1) 灰色粘土層
・この地層から老司2式の瓦などが出土。
・七世紀後半~八世紀第二四半期とされています。
(2) 黄茶色粘土層
・出土する須恵器などから七世紀後半から八世紀第一四半期としています。
(3) 明灰色粘土層
・弥生中期・後期初頭の土器などが出土しています。
三、「戸籍」木簡について
出土木簡の赤外線写真です。右が木簡の表側、左が裏側です。この大きさは長さ三十一センチ、幅八・二センチ、厚さ〇・八センチで四つに割られていたようで、「もとの大きさは縦六十、幅二十程度の大きな板だったのではないか」ともいわれています。
この木簡に書かれている文字については資料○2に釈文が掲載されています。そこには名前(建部身麻呂など)身分(進大弐、兵士、戸主など)続柄(少子之母など)地名(川部里)が書かれています。木簡の下側と左側が欠損していますが、名前や身分などが続けて書かれていたものと考えられます。
また「附」と「去」の文字は「戸」(世帯)の増減を示すものとされています。
今回見つかった「戸籍」木簡の文字を七〇二年の正倉院文書にある「筑前國嶋郡川邊里戸籍」などと比べるために次の様に整理しました。
参考(縦書きを横書きにしています。検索用です)
「木簡表側」
(一行目)
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[ ? ]
(二行目)
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
(三行目)
嶋ー□□ 占ア恵□[ ? ] 川ア里 占ア赤足□□□□[ ? ]
(四行目)
少子之母 占ア真□女 老女の子 得 [ ? ]
(五行目)
穴□ア加奈代 戸 附有
注記:ア=部
「木簡裏側」
(一行目)
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建 [ ? ]
(二行目)
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[ ? ]
(三行目)
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[ ? ]
(四行目)
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[ ? ]
(□=判読不能文字、 [ ? ]=破損で欠如)
四、正倉院文書にある嶋郡の戸籍
左が正倉院にある大宝二年(七〇二年)に作られた「筑前國嶋郡川邊里戸籍」の翻刻です。原文は紙に書かれています。木簡に書かれた嶋評と同じところのものです。
昭和六十三年出版の正倉院展図録には、
「戸籍は、戸を単位とした課役・兵士の徴発・班田収授・氏姓の確定などのために、六年に一度作成された。本巻は現存する最古の戸籍の一つである。記載方法は一行一名で、戸口の配列は血縁順、各戸の終わりには与えられた口分田の総額を記し、文字のある部分と紙の継目の裏には「筑前国印」を捺している。」
と書かれています。
五、教育委員会等の見解
太宰府市教育委員会は “この木簡は浄御原令(六八九年)をもとに作成された戸籍「庚寅年籍」(六九〇年)を反映している。ただ戸籍というより、年ごとの増減を報告する「計帳」ではなかったか。そして戸籍は六年毎に作られるので、この木簡は六九六年に作られた戸籍の翌年の計帳すなわち六九七年のものであったのではないか”としています。
また六月十三日付読売新聞においては、“「次」という表記や、男性のあとに女性を記す書式が、正倉院文書のなかで古いスタイルと言われている「御野(みの)国戸籍」に近い。”と書かれています。
六、教委見解等への疑問
(年齢の未記載と様式)
この二つの「戸籍」の内容を比べてみると大きな違いがあります。「年齢」です。「戸籍」木簡には、人名、身分・続柄、増減などはありますが、年齢が書かれていません。
『大日本古文書 編年之一』に八世紀初頭に書かれた正倉院文書の戸籍・計帳の翻刻が掲載されています。また代表的な文書の写真版が付けられています。
これらの戸籍・計帳は「筑前國嶋郡川邊里戸籍」と同じように二段、または三段に分けられ、年齢を含め必要な情報が整然と書かれています。読売新聞の指摘する大宝二年の「御野(みの)国戸籍」も上中下と三段に分けられ、年齢を含めきれいに整理されて記載されています。
そしてこれらの戸籍・計帳は紙に書かれています。
この時代、板を造るのは大変な工数を必要としていました。現在のように「のこぎりやかんな」がなかったためです。板は大事に使われ、ほとんどの木簡は不要になった後もきれいに削り再利用されていました。
七世紀末に戸籍の記入に大量の大型の板を造り、それを今回の出土木簡のように、まだ再利用できる状態に関わらず、廃棄処分したとは、考えられないことです。
七、「戸籍」木簡はいつ作られたのか
市教育委員会、大学教授等の意見はすべて、『日本書紀』にある「庚午年籍」「庚寅年籍」に結びつけています。
その根拠として、「戸籍」木簡の記載内容は七〇二年の正倉院文書の「筑前國嶋郡川邊里戸籍」「御野(みの)国戸籍」と似ているものとしてしまっています。
しかし「戸籍」木簡には年齢などの情報が含まれていないこと、また様式なども似ていないことは整理してみれば一目瞭然です。
七〇二年の正倉院文書にある戸籍は完成度が高いものです。これに対し「戸籍」木簡のほうは、重要情報である年齢が記載されておらず、初期的な段階で作られたものと考えます。
八、「戸籍」木簡は多利思北弧か!
(「評」のはじまり)
現在「古田史学の会」では評制の始まりは七世紀中頃、孝徳の時代とすることが半ば定説のようになっています。このため「嶋評」の記載がある今回出土の「戸籍」木簡は七世紀後半のものとする意見があります。
しかし、「孝徳の時、評制が始まる」に根拠はないと考えています。この説の根拠とされているのは延暦二十三年に伊勢神宮の禰宜によって作られた『皇太神宮儀式帳』です。
このとき同時に伊勢神宮から『止由気宮儀式帳』というのが神祇官に提出されています。『止由気宮儀式帳』では外宮を丹波から迎えたとされていますが、だれもこの話を史実としてとらえていません。
『皇太神宮儀式帳』も記載内容は正しいのか、『日本書紀』の影響のもとに書かれたものではないのか、きっちりと史料批判はされていないと思います。
(推古紀における「評」)
今回現地見学会に参加された上城誠さんから、推古十年の記事には來目皇子が「嶋郡」に来たことが書かれている。『書紀』には「評」がすべて「郡」に書き換えられていることから、六〇二年時点ではすでに「評制」は敷かれていたのではないか。との問題提起がされました。
推古十年(六〇二年)夏四月戊申朔乙酉
将軍來目皇子筑紫に至ります。乃ち進みて嶋郡に屯みて、船舶を聚めて軍の粮を運ぶ
六世紀に「倭の五王」は「都督」を名乗っています。「都督」の下の階級は「評督」です。七世紀前半にはすでに「評制」が敷かれていたと考えます。
(七世紀前半の倭国)
多利思北弧が隋煬帝に有名な手紙を送ったのが、開皇二十年(六〇〇年)です。それから六十年、白村江の戦い(六六三年)には千隻以上の大艦隊を派遣するような大国になっています。この七世紀前半は九州王朝の興隆期だったと考えます。
九州王朝中枢域を守る、神籠石山城、水城の築城、そして太宰府?期政庁、観世音寺の建設など七世紀筑紫を代表する都市、建造物はこの時代に作られたと考えます。
そしてその国家権力の象徴ともいえる「戸籍」もこの時代・多利思北弧に始まる九州王朝の全盛期に整備されたものではないでしょうか。
(七世紀後半の倭国)
『日本書紀』において、神籠石山城、水城などすべてを七世紀後半のものとしています。寺社建築に使われた瓦も同じように、『日本書紀』を基準に実年代を定めています。
しかし七世紀後半の倭国を見てみると六六三年に白村江の敗戦があります。当時の筑紫平野は敗残の兵、朝鮮半島からの亡命者、引揚者であふれていたと推定されます。その後唐軍が進駐して来ます。
天武七年(六七八年)には筑紫大地震が起こり、九州王朝は完全に疲弊してしまったと考えられます。
那須国造碑には永昌元年(六八九年)唐の年号が刻まれています。七世紀後半の倭国は大混乱に陥っていたと思われます。
七世紀後半の筑紫の状況から、九州王朝が大伽藍や、大規模な都市建設、戸籍の整備などを行ったとはまず考えられません。
九、推古紀の再検討
七世紀前半に行われた筑紫の重要な国家事業は現在の古代史学会、考古学会などはすべて七世紀後半のものとしています。また「古田史学の会」においても、観世音寺・太宰府政庁 II 期の七世紀後半説(会報一一〇号)が語られています。
しかし、これら国家事業がいつ行われたのか、文献・遺物のしめす方向は七世紀前半か後半か?明らかです。推古紀が重要なポイントになってくると思います。
「古田史学の会」の五月関西例会で「観世音寺の創建年代は六百十年代・碾磑と水碓」を報告しました。
今回上城さんからも推古紀における「評制」の問題が提起されています。
東京古田会ニュース九四号「コスモスとヒマワリ~古代瓦の編年的尺度批判~」において、茅ヶ崎市の大越邦生氏は古代瓦の編年への疑問と観世音寺創建年代の再検討を提案されています。
今回出土した「戸籍」木簡は大変重要なテーマを我々に示してくれたと思っています。
(注)
・資料○1~○4は六月十六日の現地説明会で配布された資料です。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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