越智国にあった「紫宸殿」地名の考察 合田洋一(会報100号)
斉明天皇と紫宸殿(明理川) 今井久(会報112号)
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続・越智国にあった「紫宸殿」地名の考察
松山市 合田洋一
はじめに
私は、『古代に真実を求めて』第十四集で、「『越智国』にあった『紫宸殿』地名の考察」と題して論証を試みたのであるが、「造営時期・誰の宮殿か」についての論証に問題点があることを、古田武彦氏よりご指摘・ご教示を戴いた(『古田史学会報』一〇一号及び『古代に真実を求めて』第十五集古田氏論稿「九州王朝終末期の史料批判」 -- 白鳳年号をめぐって)。
そこで、改めて考察し、ここに再度発表することにした。諸兄のご批判を仰ぎたい。
一,越智国の「紫宸殿」
次のことは、前号でも述べた。しかし、この論証において基本となるものなので、再掲することをお許し戴きたい。
「紫宸殿」地名遺跡は、西条市(旧・壬生川町)明理川にあった(最初の提起者は古田史学の会四国・今井久氏)。初見は明治二二年の「地積登記台帳」にあり、現在の地積は縦三四〇メートル・横二二〇メートルで面積は七四八〇〇平方メートルの長方形である。
「紫宸殿」という名称は、中国の唐朝の初代皇帝“李淵”の宮殿に始まるとされている。わが国でこの名称の存在が確認されている所は、「九州王朝」の首都太宰府と「大和朝廷」になってからの首都である京都の平安京だけである。
このような畏れ多い地名が存在することからみて、ここは由緒ある特別な地と言わざるを得ない。そして、このような地名はその地方の人間が勝手に付けられるものではないことを考えると、そこに「紫宸殿」がなければならないことになる。しかも、大宝元年(七〇一)「大和朝廷」になって以降は、天皇が居ない所にそのような施設はあり得ず、そうなると、「紫宸殿」がこの地に存在していた時期は限られて来る。また、そこの主人公は現天皇家の王朝とは全く関係なく、別の王朝、つまり、「大和王朝」に先立つ「九州王朝」の天子の宮殿であることが、論証の前提となるのである。
それは、取りも直さず、九州王朝が日本列島の宗主国(但し、北海道・東北・沖縄を除く)として、厳然と存在した証しでもある。
二,「天子・斉明さいみょう」と「白鳳年号」
ところで、前述の本論を再考察することになった古田氏の説は、当稿論証の帰結に大きく関わってくることになった。 それは、「天子・斉明」の治世(『日本書紀』によると六五五~六六一年)に関することである。以下、長くなるが古田説を掲げる。
わたしにとって、考察の基本軸は「九州年号」である。とりわけ問題の焦点は「白鳳年号」の存在だ。この年号は「六六一~六八三年」の間、二十三年の永きにわたる。異例だ。通例の「九州年号」は「四~五年前後」だからである。問題は「量」だけではない。「白村江の敗戦」前後にまたがる、という「質」の点においてさらに重要だ。注目すべきである。(「白村江の敗戦」は、旧唐書・百済伝では「六六二」、日本書紀・天智紀では「六六三」)。なぜ、これほどの一大敗戦にもかかわらず「同一年号」が存続しているのであろうか。(中略)。
第一命題。「白鳳年号」のときの天子(そして天皇)は斉明(さいみょう)天皇である。(サチヤマは皇太子・摂政)。
第二命題。斉明天皇は最初「九州王朝」の天子として、白村江の戦いに臨む。敗戦のあと伊予の越智に移り、その地に紫宸殿を営む。
第三命題。唐の戦勝軍は(六六二~七〇一)の間三十九年のあいだに「六回」倭国に進駐した。書紀はこれを「天智の九年間」の中に“まとめ”て記した。「屯倉みやけ」を「安閑」の周辺に集中し「詔勅」を「大化(孝徳天皇)」の周辺に集中して記した手法と同一である。「同一事項」を“まとめ”て書く「事典ことてん」の手法だ。
唐軍の筑紫侵入の最後は“七〇一”直前の時期である。(筑後国風土記の古老の証言問題がしめす)。
(古田氏論稿『古田史学会報』一〇一号「九州王朝終末期の史料批判 -- 白鳳年号をめぐって」より。また『古代に真実を求めて』第十五集「九州王朝終末期の史料批判」 -- 白鳳年号をめぐって でも同説を論述)。
そうなると、『古代に真実を求めて』第十三集で、私も縷々述べた通り、斉明と皇極天皇は別人で「斉明は九州王朝の天子」であると考えていることからすると、重大な問題が出来する。
それは、「斉明」が崩御したというのに、「白鳳年号」が「改元」されていない。これは異常と言わねばならず、年号の常識では考えられない。
そこで、古田氏が述べておられる通り、「白鳳年号」が「斉明」の年号であるとなると、崩御年は六六一年ではなく六八三年またはそれ以上となる。
つまり、「斉明」がこの年に崩御せずに、次の「改元」された年号まで在位していた場合は、その治世期間は六八三年ではなく、更に延びるからである。
即ち、それ以後の「九州年号」である「朱雀 ーー 六八四年、朱鳥 ーー 六八六年、大化 ーー 六九五」の「改元」にも関与していればのこととなる。
三,越智国「紫宸殿」の造営時期と主人公
それでは、この「紫宸殿」は、「いつ」建てられたのか、「誰の」宮殿なのかについて話を進めたい。しかし、残念なことに、この「紫宸殿」の地は、まだ全面的な発掘がされておらず(過去に一部発掘して須恵器二点が得られたが、それは現在行方不明)、正確な年代の確定には至っていないのである。そのため、「いつ・誰の」宮殿かについては、あくまでも推測の域を出ないことを、予めお断りしておきたい。
私は、この問題を前述したように『古代に真実を求めて』十四号に書いた。この「紫宸殿」を「斉明」が造ったとするならば、その治世七年の間に越智国・宇摩国に伝承とはいえ行宮が六ヵ所もあることから推すと、とても無理ではなかろうかと述べ、これが論証の帰結に至るポイントとなった。
また、古賀達也氏(古田史学の会編集長)が述べている「大宰府政庁 II 期跡」の造営年代(六六二年以後)・「前期難波宮」の造営年代・『日本書紀』にある天武一二年の「副都の詔」(「都を二・三ヵ所造れ」)、及びこの「詔」の時代は「三四年ずれている」という正木裕氏(古田史学の会関西)の説、などから考察して、越智国の「紫宸殿」は「誰が・いつ」造営したのかを論じ、そしてここは太宰府の「副都」であった可能性が高いとも述べた。
前述した通り、実はこのことについて古田氏より大変問題があるとのご指摘を受けたのである。
更に、「斉明」の治世が七年間ではなく、「二三年間またはそれ以上」が事実となると、様相は一変する。
そして、「大宰府第二期政庁跡」の現状の考古学上から見ての造営年代、つまり、「白村江の戦い以後築造」説を重視して考察することに、無理があるように思ってきたのである。その訳を次に記す。
第一は、この「第二期政庁跡」だけで全ての太宰府政庁の規模を推定し、かつまた「紫宸殿」の造営時期を推しはかることは如何かと思えてきたこと。つまり、早計過ぎはしないか。まだまだ発掘が続いているのである(蔵司など)。
これに関しては、古田氏も二〇一〇年十一月六~七日の第八回八王子セミナー「日本古代史新考自由自在」で、この頃の九州王朝の都については、太宰府だけを考えるのではなく、表は太宰府、実際は久留米近辺、そして博多湾岸全体であると述べておられる(『TOKYO古田会NEWS』一三八号三十一~三十二頁参照)。
それに、井上信正氏(大宰府教育委員会)の『大宰府条坊区画の成立』などの井上論文にもある「大宰府第二期政庁跡や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていた」(『古田史学会報』一一〇号所載、古賀達也氏論稿「観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代」で紹介)という画期的な研究にも注目しなければならなくなった。
第二は、「紫宸殿」は唐の初代皇帝・李淵の崇高な宮殿名であり、また古田氏が言われる「唯一・無二の中心を意味する」となると、敗戦の後に唐の進駐軍の居る中で(前述の『古田史学会報』一〇一号及び『古代に真実を求めて』第十五集古田氏論稿「九州王朝終末期の史料批判」 -- 白鳳年号をめぐって)、しかもこの時期、戦地からの敗残兵の復員でごった返して混乱の極みにあったと思われる「首都・太宰府」に、「紫宸殿」を造営することなどは到底無理ではなかろうか、ということ。
第三は、中国で「紫宸殿」という名称が、いつ頃からあるのか明確でないこと。因みに、「紫宸殿」の初見は『旧唐書』龍朔三年(六六二 ーー 古田史学の会四国・山田裕氏にご教示を得た)であるが、天子の位を「紫宸」と表現する習慣は古くからあった(多元の会会長・安藤哲朗氏よりご教示を得た)という。となれば、中国での「紫宸殿」初造営の時期を、龍朔三年に絞って当てることも、無理と思えてきたのである。
そこで、これらのことを検証した上で、古田氏の論稿(前掲『古田史学会報』一〇一号)から、次のように考察をし直した。
越智国での「斉明」の「行宮」の造営は「白村江の戦い」前であり、「紫宸殿」は敗戦後の造営となる。これに至るには「首都・太宰府」の「紫宸殿」は、戦勝国の唐軍の進駐により、居れなくなったため、「越智国明理川」の地へ移した、と。なお、太宰府の「紫宸殿」の造営時期は明確ではないが、唐の進駐軍駐留前が前提となる。何分にも駐留後は有りえないのではないか。
そして、「天子・斉明」が越智国へ居を移した理由は、次のように考える。
越智国は博多と近畿の中間点でもあり、移動の拠点として最も条件が良かったと考えられること。ここは、「斉明」の数次に亘る行幸があって、その上、以前には「日出ずる処の天子・多利思北孤」の行幸もあるので、九州王朝傘下でも両国の関係は最も良好となっていたこと。しかも、「永納山古代山城」を築くだけの「富国強兵の国」であったと思われること。そのことは、この戦いに「越智国主・越智直守興」率いる多くの将兵が参戦したことでも明らかである。
また、この地は「斉明」にとっては、極めて居心地が良かったのでは、と思うのである。その訳は、格別の友好関係の上、気候温暖・風光明媚、そして“お気に入りの石湯(「石風呂」? ーー 前掲今井久氏説)”もあるからではないだろうか。
四、その後の「紫宸殿」
はてさて、越智国の「紫宸殿」の発見により、“驚天動地の論点”に直面した。
それは、「越智国明理川が日本の首都?」だった、という“命題”である。
但し、遺構の発掘はまだであり、また行政機構の移転はどうか、など仮説の域はでないが、しかしながら、今までは到底考えられなかった歴史の実態が急浮上してきたので、向後、この地が古代史ファンの耳目を集めることになってくると思われる。
ところで、天子の宮殿である「紫宸殿」名称がわが国で遺存している所は、前述のように平安時代に京都御所内に築かれるまでは、太宰府と越智国だけであって、その二ヵ所の主は「九州王朝の天子・斉明」であったと思われる。
ところが、その「斉明」は唐の“天敵”となったため、『日本書紀』「斉明紀」では「恐心たぶれごころの渠みぞ」で象徴される“狂人”扱いにしなければならなくなった。
そしてまた、唐側から見れば、「世界で唯一人の天子」の崇高な宮殿名称を、「夷蛮の王」がその宮殿に冠したことは“絶対”に許されざること、だったのではないであろうか。
『日本書紀』は、「九州王朝」だけではなく、「越智国」も歴史上から抹殺したと考えたい。それに伴い、「紫宸殿」の存在は“在ってはならない”ことだったのではなかろうか。「九州王朝」が滅びた段階では、越智国の「紫宸殿」は、「大和朝廷」により、早くに破却の対象になってしまったように思える。
その一方、太宰府の「紫宸殿」は、白村江の敗戦のあと「唐・新羅」の進駐軍司令官・郭務宗*(かくむそう)に率いられた連合軍に摂取され、倭国駐留の「司令部」として使用されたのではないのか。その後、大和朝廷になってからは、九州の要の政庁として使用された。その建物は「藤原純友の乱」により、焼失したようであるが、その名称だけがそれ以後も今日まで遺存したと思われる。
また思うに、大和王朝の持統天皇の「藤原京」(六九四年)、政権掌握後の元明天皇の「平城京」(七一〇年)、聖武天皇の「山背恭仁京やましろくにきょう」(七四一年)・「難波京」(七四四年)にも「紫宸殿」という遺構や現存地名が無いことから推して、その頃はまだ中国・唐朝の権威に抗しきれなかったためではなかろうか。
なにしろ古田氏が述べておられることであるが、唐の初代皇帝・李淵が、主君である隋朝にクーデターを起こした「大義名分」は、あの「多利思北孤」の「日出ずる処の天子・・・」の「国書」にあったようであり、「夷蛮の王」が「天子」を名乗る所謂中国から見ての「二人天子」などはもっての外の行為であったからである。それだけに、初期の大和朝廷においては唐の威に服さなければならなかった。また、抑も大和朝廷は唐の庇護の下に日本列島の覇者(但し、北海道・東北・沖縄を除く)となったと思われるだけに尚更のことであった。
そして、大和朝廷の「紫宸殿」造営には、唐の影響が薄れてきた頃、つまり、七九四年の「平安京」まで待たなければならなかったのである。
おわりに
それにしても、越智国に「紫宸殿」地名が遺っていたこと、その当時から今日に至るまで、地名を温存してくれた当地の住民には“感謝・感謝”である。
この畏れ多い地名が遺存した理由は、この地の住民の“誇り”であると思っている。それは、ここ「越智国明理川」は「九州王朝の天子」が住み、「日本の首都?」だった、ということではないだろうか。建物は破却されたが、名誉ある崇高な「紫宸殿」という名称を思慕し、地名に託した、と思っている。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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