2016年12月12日

古田史学会報

137号

1,筑紫なる「日向三代」
 の陵墓を探る
 正木裕

2,九州王朝説に
 刺さった三本の矢後編
 古賀達也

3,盗まれた天皇陵
 服部静尚

4,神功の出自
 今井俊圀

5,トラベルレポート
熊野三山へのチョイ巡り行
二千十五年八月八日~八月十日
 萩野秀公

6,「壹」から始める古田史学Ⅷ 倭国通史私案③
 九州王朝の九州平定
―筑後から九州一円に
 正木 裕

7,お知らせ
古田史学会論集編集中

 

 

古田史学会報一覧

ホームページに戻る

盗まれた風の神の祭り 正木裕 (会報135号)
太宰府を囲む「巨大土塁」と『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城 正木裕 (会報138号)

「壹」から始める古田史学 I   II  III IV  VI VII VIII IX


筑紫なる「日向三代」の陵墓を探る

川西市 正木 裕

一、「日向三代」と瓊瓊杵尊・彦火火出見尊(日子穂穂手見命)の陵墓

1、「日向三代」はどこで統治したのか

 『記紀』神話で、天孫降臨した「瓊瓊杵尊(紀)邇邇芸命(記)」、次代の「彦火火出見尊ほほでみのみこと(紀)、日子穂穂手見命或は火遠理命(記)」、及び神武(父「鸕鶿草葺不合尊うがやふきあえずのみこと(紀)鵜草葺不合命(記)」は「日向三代」と呼ばれ、当然のように「宮崎なる日向」の人物とされている。
 しかし古田武彦氏は、瓊瓊杵の降臨の地は「筑紫なる日向」、即ち高祖連山を中心とする博多湾岸・糸島地域で、続く彦火火出見や鸕鶿草葺不合らも代々そこで統治し、加えて神武の東征への出発地も糸島だとされた。そうであれば「日向三代」の陵墓や、神武を含む彼らの妻子等の出生地も「筑紫なる日向」に求めるべきことになる。
 本稿ではこうした陵墓等を、『記紀』や遺跡・遺物、地名や現地伝承をもとに「筑紫なる日向」に再構成し、古田説の
補強を試みる。まず瓊瓊杵と彦火火出見の陵墓について、古田氏の見解を述べよう。

2、瓊瓊杵尊の陵墓

 『書紀』では、瓊瓊杵の陵墓は、「筑紫の日向の可愛〈あい 此をば埃と云ふ〉の山陵」、『延喜式』では「日向埃山陵 天津彦瓊瓊杵尊 在日向国。無陵戸」とある。「無陵戸」だから陵墓というより「埋葬地」という方が正確だろう。
 宮内庁は鹿児島県薩摩川内市宮内町の新田神社内(神亀山)に比定し管理しているが、宮崎県東臼杵郡の可愛岳えのだけ山麓の古墳(宮内庁可愛山陵伝承地)、同県の西都原古墳群にある男狭穂塚(同可愛山陵参考地)も候補に挙がっている。しかし、古田氏は瓊瓊杵の陵墓を、高祖連山の「日向峠」の東、室見川と日向川の合流地、「川が合う=可愛かあい」地域にあって、紀元前二世紀ころに遡るとされ、我が国で最も古い「三種の神器」が出土する吉武遺跡群中にあると比定された。
 吉武高木遺跡の墓地には、通常の甕棺のみならず高位の人物を埋葬する木棺が多く出土し、青銅武具は勿論、多紐細文鏡など豪華な副葬品が埋葬されるなど、「王墓」と呼ぶに相応しい遺跡となっている。また、吉武大石遺跡の棺からは、遺骨と共に石剣の切先や石鏃が出土している。これは埋葬された兵士の体内に残されたものと推測され、「石器」を武具とする在地勢力との戦闘の結果と考えれば天孫降臨時によく起こりうる状況だ。
 こうしたことから、吉武遺跡群は古田氏の見解どおり瓊瓊杵の陵墓・埋葬地の第一候補と言えよう。

3、三雲・井原・平原遺跡は歴代の日子穂穂手見命(記)の陵墓群

 『古事記』では日子穂穂手見の陵墓は「高干穂の山の西」、『書紀』では「日向の高屋山上陵」とあり、明治政府は多数の候補地の中から、高干穂山を霧島山とし、その山麓を埋葬地に比定している。しかし、これも高祖山周辺に求めるべきことになろう。
◆『古事記』故かれ、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳(五八○歳)坐ましき。御陵は即ち其の高干穂の山の西に在り。
 古田氏は、日子穂穂手見命の統治した五八〇歳(年)とは二倍年暦で、二九〇年間日子穂穂手見の子孫が「襲名」し、怡土平野で統治したことを表すものとされている。従って、初代の日子穂穂手見の陵墓と次代以降の陵墓群にわけて考える必要があろう。
 古田説では、高千穂山・高屋山は邇邇芸命(記)の降臨地たる筑紫高祖連山を指すので、初代の陵墓(埋葬地)の第一候補は高祖山の西山上となる。そして、そこには現に日子穂穂手見を祀る「高祖神社」が存在しているのだ。また歴代の日子穂穂手見の陵墓群は、高祖連山の西の怡土平野にあって、王墓級の遺跡が二百~三百年近く連綿と続く「三雲・井原・平原遺跡」こそ古学上最も相応しいだろう。
 一言付け加えれば、志賀島から出土したとされる「漢委奴国王」印(紀元五七年に光武帝から下賜)は、三雲地区の細石さざれいし神社に伝来していたという宮司の口伝がある。これが真実なら「紀元五七年」は紀元前二世紀から二九〇年の間に含まれるから、古田説を裏付けるものとなろう。

二、鸕鶿草葺不合尊の陵墓

1、陵墓は「日向の吾平あひら山の上」

 『記紀』上で、鸕鶿草葺不合尊の記事は、「近畿天皇家の始祖たる神武の父」としては、不可解なことにごく僅かで、
高千穂宮で豊玉姫を母として生まれ、豊玉姫の妹玉依姫を娶り、彦五瀬命・稻飯命・三毛入野命・神武(神日本磐余彦尊・神倭伊波礼琵古命)らの父となり、陵墓は「西洲にしのしまの宮に崩かむぎりき。因りて日向の吾平あひら山の上の陵に葬りまつる(紀)」とあるのみだ。これは古田氏が言われるように、神武が「九州ではうだつのあがらない」勢力だったことの反映で、父の鸕鶿草葺不合も「記録に残るような人物」でなかったからではないか。
 陵墓の所在地は、『延喜式』に「日向吾平山上陵 彦波瀲武鸕鶿草不葺合尊 在日向国。無陵戸」とあって、明治政府は、鹿児島県鹿屋市鵜戸山の「鵜戸窟」内の二つの塚に比定しているほか、伝承地として宮崎県の鵜戸神宮背後の速日峯山上、あるいは同県の高千穂町などがあげられている。
 しかし、古田説に従えば、この「吾平山」も神武の出征地である「筑紫なる高祖連山の日向」周辺に求めるべきこととなる。(註1)

2、筑紫の日向の「荒平山・油山」

 そして、「筑紫の日向」である日向峠・吉武高木の東隣りに、荒平山(あらひらやま 福岡市早良区荒平山、三九五m)・油山(あぶらやま 福岡市城南区・五九七m)が並ぶ。
 荒平山の山頂には、中世に築かれた荒平山城があり、山裾の標高二二m前後の微高地には、縄文から古墳時代まで続く四箇しか遺跡群がある。
 そして、油山には清賀上人が開いたとされる「油山観音(正覚寺)」があり、聖武天皇の時代には十二万石、七堂伽藍七二〇坊を擁する大法城として栄えたという。油山から延びる丘陵には、かつて「百穴」と呼ばれる横穴式石室群があり、ここが古代の人々の墳墓の地だったことは確かだろう。
 また、油山には主神を豊玉彦命とする「海わたつみ神社」(城南区東油山字黒の原)と、綿津見三神を祭神とする「海神社」(早良区西油山二三六)がある。いずれも由緒や創建年代は不詳だが、本来の和多都美わたつみ神社(対馬)の祭神は彦火火出見尊と豊玉姫命であり、その子鸕鶿草葺不合にとって由緒深い神社なのだ。
 荒平山・油山は「筑紫なる日向」周辺にあり、地名(吾平山と荒平山・油山の類似)、地形(山上陵)、遺跡(墳墓群)、鸕鶿草葺不合に関連深い神社の並ぶことから、その一帯が埋葬地の第一候補となろう。

3、命名の由来を示す鵜飼と「鳥飼村」

 また『書紀』では、鸕鶿草葺不合尊の命名の由来を、鵜の羽で産屋の屋根を葺いたこととする。
◆『書紀』(神代紀十段一書第一)「兒の名を稱彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と称す所以ゆえんは、彼の海浜の産屋に、全く鸕鶿の羽を用て草かやにして葺けるに、甍合いらかおきあへぬ時に、兒即ち生れませるを以ての故に、因りて名づけたてまつる。
 古田氏は、糸島半島の玄海沿いは「海鵜の一大繁殖地」であり、
 「博多の西隣の糸島郡の北岸、玄界灘に臨んだそこが鵜の名産地、海鵜がたくさん集まってくる所の一つなんです。筑後川の鵜飼というのが今ありますが、そこの鵜は糸島郡の北側の鵜を取ってきてやるっていうんですね」(註2)。という。
 そして、「神武歌謡」①に「鵜飼(鵜飼が徒)」が出てくること、また②の「宇陀」も、通説では「吉野の宇陀」とするが、「鯨障り」とあることから、糸島の旧今津湾岸の「宇田川原」地域を指し、神武の出自が糸島である大きな根拠としている。
①楯並めて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行きまもらひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒とも 今助けに来ね(註3)

②宇陀の高城に鴫罠張る。我が待つや 鴫は障らずいすくはし 鯨障り

 ちなみに、『書紀』によれば水間(筑後三潴)の君のもとに「養鳥人」がいたとあるが、三潴は鵜飼が盛んな筑後川下流で、そこに「鳥飼」地名がある。従って、この「鳥飼」とは「鵜飼」をいうことになる。
 そして、「荒平山・油山」の北、博多湾の渚(波瀲)一帯(現在の大濠公園の西方)にも「鳥飼村(旧早良郡鳥飼村)」があるのだ。
 また、『書紀』雄略十一年冬十月条に、
「鳥官の禽とり、菟田の人の狗の為に囓はれた死ぬ。天皇瞋いかりて、黥面して鳥養部とす」とある。この菟田は「奈良吉野なる菟田」とされるが、それでは何故菟田の犬が鳥を食うことになるのか、その経緯が理解しづらい。
 しかし、これは奈良ではなく、本来博多湾岸の事件で、「糸島郡の北岸」で捕獲された鵜が、博多湾の鳥飼村の鳥官・鳥養部のもとに献上される「途上」で「糸島なる宇田(宇田川原)の人」の狗が、集められた鵜を囓ったと考えれば、宇田と鳥官・鳥養部の地理的関係、何故食われる事故が発生したのかという因果関係がうまく説明できるのだ。つまりこの記事は九州王朝の史書からの盗用だったことになる。『魏志倭人伝』に魚漁と関連して記述される「黥面」の習俗が記されることも盗用の証左となろう。
高祖山

 

三、神武の妻「吾平津媛」と子「手研耳命」の出生地も「筑紫なる日向」

1、日向国の吾田と吾平山

 ところで神武には「日向」で娶った妻と子がいた。妻は「日向国の吾田邑あたむらの吾平津あひらつ媛(紀)」又は「阿多小椅の妹阿比良あひら比売(記)」だ。
 そして、吾平津媛(阿比良比売)の「あひら」は、鸕鶿草葺不合の陵墓である「吾平山上の陵」の「吾平」と共通する。先述の吾平山を「油山・荒平山」とする比定が正しければ、これは吾平津媛が油山・荒平山近郊の生まれ、それも「津(海岸)」近郊であることを示すものだろう。
 また、その出身地である「吾田邑・阿多」は、天孫降臨に際し、瓊瓊杵が至った「吾田の長屋の笠狹の碕」とそこで娶った「神吾田津姫」の「吾田」と共通する。そして、「吾田の長屋の笠狹の碕」は、博多湾の「長垂山・御笠・長岡」といった地名等から、古田氏が『盗まれた神話』で高祖山周辺の博多湾岸一帯の地域に比定しているもので、「吾田邑」とはこの地域にあった可能性が大だ。現に室見川河口小戸・姪浜の東には愛宕(あたご 福岡市西区愛宕)地名が残り、愛宕神社も存在する。ちなみに、油山から博多湾岸にかけての室見川沿いには有田・小田部・田村・田隈、糸島平野には高田、宇田・池田・有田・田尻などの地名が密集し、「吾田」との共通性が伺われる。

2、糸島地域に残る「神武第二代」出産譚

 そして、吾平津媛は宮崎なる日向で「手研耳たぎしみみ命(紀)当芸志美美(記)」を産んだとされているが、神武の出自が糸島地域であれば、その地も糸島に求めるべきことになる。
 そして、神武歌謡の「宇陀」と考えられる糸島の宇田川原と波多江の境に産宮神社(さんのみや 福岡県糸島市波多江駅南一丁目一三-一)がある。祭神は奈留多姫なるたひめ命・鸕鶿草葺不合尊・玉依姫命で、「社伝」によれば、奈留多姫命は神武の妻として「第二代綏靖天皇」を産んだとされる。
 ◆「産宮神社由緒」奈留多姫は懐妊に当たり、大いに胎教を重んじられ、母玉依姫、おば豊玉姫の産育の瑞祥あるを尊重され、両神の前に、「月満ちて生まれん子端正なれば永く以て万世産婦の守護神とならん」と誓われました。果たしてお産に臨んで心忘れたように何の苦しみも無く皇子神渟名河耳命(かんぬなかわみみのすめらみこと *第二代綏靖天皇)を安産されました。
 綏靖天皇は、大和で媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと(紀)から産まれたのだから、本来なら媛蹈鞴五十鈴媛命が祭神となるべきで、「宇田川原の地で奈留多姫が綏靖を産んだ」とする「誰が見てもおかしいと考えるような伝承」があるのは不可解だ。しかも奈留多姫は『記紀』に登場しないのは勿論、彼女を祭るのは全国で糸島の産宮神社ただ一社なのだ。
 しかし、吾平津媛が博多湾岸の「吾田」出身なら、「糸島なる宇田」の近郊で手研耳を産んだ可能性が高く、その伝承が現地に遺存し、『記紀』と「習合」したのが「産宮神社由緒」だと考えられるのではないか。

3、すり替えられた「神武の二代目」出産

 手研耳は神武と共に東征し、かつ「久しく朝機を歷た(執政した)」のだから、その時点では当然手研耳が次代を継ぐべき正当な皇子、即ち神武の真正な「二代目」だったことは疑えない。
◆『書紀』「神武紀」天皇独、皇子手研耳命と、軍を帥ゐて進む。

 「綏靖紀」手研耳命、行年とし已長いて、久しく朝機を歷たり。故亦、事を委ゆだにて親らせしむ。
 しかし後に綏靖らを誅殺しようとして逆に殺され、綏靖が二代目となった。つまり『記紀』では、宮崎なる日向で吾平津媛が産んだ手研耳は「反逆者」で、正当な二代目は大和で媛蹈鞴五十鈴媛が産んだ綏靖であるとされたのだ。
 そこで、「吾平津媛が糸島なる宇田で二代目手研耳を産んだ」という本来の事実は『記紀』の名分に合うように、反逆者たる「二代目手研耳」は、神武の正当な後継者とされる「二代目綏靖」に改変された。
 但し、綏靖の母たる大和の媛蹈鞴五十鈴媛を糸島の人物とはできないし、吾平津媛を綏靖の母とすることもできない。そこで、「奈留多姫という糸島の人物が宇田で二代目綏靖を産んだ」という「変な」伝承となったのではないか。あるいは「吾平津媛」は出身地名を冠した名前で、実際の呼び名が「奈留多姫」だったのかもしれない。産宮神社の縁起はその「痕跡」だったとも考えられよう。
 以上、「日向三代」の陵墓や神武の妻子の所在を、古田氏の「天孫降臨地と神武の出自は筑紫なる日向だ」という説をもとに再構成した。古田説を肯定する限りこうした作業は必然となるだろう。ただ、限られた資料根拠のなかで、本稿はまだその端緒にしか過ぎない。各位の更なる検証を期待する。

(註1)この点今井俊圀氏は「神武の妻吾平津媛の出自が「日向国(*本来は筑紫なる日向)の吾田邑」(『書紀』)とあることなどから福岡市の「小田村」あたりではないか。」と述べている。(古田史学会報四三号。二〇〇一年四月)

(註2)「筑紫朝廷と近畿大王」『市民の古代第十五集』一九九三年)

(註3)通説では、「伊那佐の山」とは奈良県宇陀郡榛原町の伊那佐山とし、地元に鵜飼集団がいたとするが、「侵略軍が侵略した地元の民に救いを求めた」などとは、到底考えられない。有明海岸杵島山地の「稲佐山」なら瓊瓊杵尊らの佐賀討伐譚に相応しい描写となる。


 これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから


古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"