2017年2月15日

古田史学会報

138号

1,二〇一七年新年のご挨拶
 次世代に伝えたい
 古田先生の言葉
 代表 古賀達也

2,太宰府を囲む「巨大土塁」と
『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城
 正木裕

3,九州王朝の家紋
 (十三弁紋)の調査
 古賀達也

4,諱と字と九州王朝説
 服部静尚

5,「倭京」の多元的考察
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④
 九州王朝の九州平定 --
 怡土平野から周芳の沙麼へ
 事務局長 正木裕

 

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筑紫なる「日向三代」の陵墓を探る 正木裕 (会報137号)
佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上) (会報140号)


太宰府を囲む「巨大土塁」と
『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城

川西市 正木裕

1、筑紫野市で発見された「巨大土塁」

 二〇一六年十一月二九日付け朝刊各紙に「大宰府に巨大防衛ライン」と題し、筑紫野市(大字若江・筑紫)の前畑遺跡内に五〇〇m規模の巨大な「土塁」が発見されたことが報道され、十二月三日の現地説明会に参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、説明会での配布資料や写真等を送って頂いた。
 これによると、筑紫野市の教育委員会は、大宰府に隣接する「水城」や「大野城(大野山城)」と築造工法(版築工法)が共通することから、「とうれぎ土塁」(長さ約約三五〇m。佐賀県三養基郡基山町宮浦四八六付近)や「関屋土塁」(同、宮浦一九七付近。現存しない)とともに大宰府を防衛する巨大な「冠状の土塁(羅城)」の一部ではないかとしている。
 また、同じ版築工法で築造された佐賀県三養基郡上峰町堤字迎原付近に遺る堤土塁跡(長さ約三〇〇m。県指定遺跡)は以前から注目されており、「軍事用ではないか」(佐賀県教育委員会徳富則久氏)と考えられている。
 そして古田武彦氏は、『久留米市史』の中世史料に「堤」記事が多数見受けられること等も指摘し、これらの土塁は「軍事用の高速道路」であり、かつ「水城の一種」ではないかとされていたが、今回の発見はこの考えを強く支持するものと言える。(註1)

 

2、「土塁」はいつ築造されたのか

 報道では漠然と「七世紀の土塁」としているだけだが、『書紀』では「水城」は白村江敗戦の翌年、天智三年(六六四)に、大野城と基肄城きいじょうは天智四年(六六五)に造営されたと書かれている。
◆天智三年是歳、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に防さきもりとすすみを置く。又筑紫に大堤を築きて水を貯たくはへしむ。名づけて水城と曰ふ。
◆天智四年秋八月、達率答※春初(だちそちたふほんしゅんそ ※は火偏に本)を遣して、城を長門國に築かしむ。達率憶禮福留だちそちおくらいふくる・達率四比福夫だちそしきふくぶを遣して、筑紫國に大野及び椽、二城を築かしむ。

 ただし、大野城・水城共に巨大な施設で、敗戦後の短期間で造営できるものでないことは明白だ。
 大野城は、大野山の頂きの尾根筋沿いを、全長約八㎞の石垣や「版築工法による土塁」が「冠状」に取り囲み、石垣は現在なお五か所で残存する。中でも「百間石垣」は一八〇mを超す、現存する国内最大規模のものだ。
 またこうした「垣」だけではなく、七〇棟以上の礎石建物、八か所の城門、水場などが設けられていた。礎石形式の楼門は二階建てで、吉野ヶ里遺跡の例から、門の上に『書紀』記事に見える「望楼(観)」も設けられていたと推測される。
 「水城」でも、同じ「版築工法による土塁」が全長一・二㎞にわたり、基底部で幅八〇m、上部で幅二五m、高さは十三mを越える。また、幅六〇mほどの外濠も設けられ、九州歴史資料館が、「一年間でこの水城を完成させるには延一一〇万人強の労働力が必要」としている。
 古田氏は、『書紀』に記す「水城」は大宰府の大水城のことだけではなく、三根や久留米などに作られた「土塁群」をも指すのではないか、と指摘されているが(註2)、大野城・水城等に加え、今回発見された「大宰府を取り囲む土塁」を含む「土塁群」も併せれば、こうした巨大防衛ラインは「一日にしてならず」、長期にわたり整備されたことがより確実なものとなろう。
 また「敗戦後に造られた」ものでもないことは考古学が証明している。大野城城門の木柱の伐採年代は、Ⅹ線CTスキャナーにより六五〇年ごろとされ(*西日本新聞二〇一二年十一月二三日、九州国立博物館は年輪年代法で六四八年とする)、水城の木樋や敷粗朶しきそだは、炭素同位体年代測定法で二四〇年~六六〇年頃という結果が報告されている。従って、これらの施設は六六三年の白村江敗戦「後」ではなく、「戦前」に長い歳月をかけ「大宰府」を防衛するために造営されたことになろう。
 そもそも天智三年には郭務悰等が、四年には唐より朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等二五四人の使節が筑紫に到着している。戦勝国唐の使節の「目前」で、戦争準備であることが明白な巨大工事を行うことが可能だったとは到底思えないのだ。

 

3、『書紀』斉明二年の「田身嶺」での造営工事

 それでは『書紀』では天智三年・四年とする水城や大野城の築造年代はどう解釈すればいいのだろうか。
 実は、斉明二年(六五六)(九州年号では白雉五年)「是歳」記事に「田身嶺たむのみね」での工事記事が見える。
◆田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。〈田身。山の名。此を太務と云ふ。〉復た嶺の上の両の槻つきの樹の辺に観(たかどの *楼閣)を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
 時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百雙を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人謗りて曰はく、『狂心たぶれごころの渠。功夫ひとちからを損おとし費ついやすこと、三萬餘。垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘。宮材爛ただれ、山の椒すゑ埋れたり』といふ。又、謗りて曰はく、『石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ』といふ。

 通説では、持統七年(六九三)九月辛卯(五日)記事に、持統が「多武嶺に幸いでます」とあり、「多武嶺」は大和飛鳥(桜井市南部)の山「とうのみね」に比定されていることから、この「田身嶺」も同じ山とされている。

◆九月辛卯(五日)に多武嶺に幸す。壬辰(六日)に、車駕、宮に還りたまふ。丙申(十日)に、淸御原天皇の為に、無遮大會を内裏に設まうく。

 そして、大和なる多武嶺でこうした垣や楼閣、宮の遺跡の探索が試みられているが、未だ発見されていない。一方、古田氏は、この斉明紀の記事は、本来九州王朝の天子の事績であり、「狂心の渠(註3)」造営等と共に唐・新羅戦に備え九州に整備したものだとされた。
 そして、『書紀』の「冠状に周る垣」「楼閣」「石の垣」といった記述は、先述の大野城の石垣や土塁等の形状と遺跡の状況に見事に一致する。つまり大野城のある「大野山」こそ「田身嶺」と呼ばれるに相応しい山といえる。なお「宮の北に山城を置き防衛の要とし、そこを起点に羅城を巡らせる」のは、百済の首都扶余城(泗沘城)・扶余羅城の「防衛思想」とも一致するのだ。

 

4、「太(大)務嶺」とは「重要な国防の山」をいう

 そして、「田身を太務と云ふ」とあるが、「大務たいむ」とは、『漢書』に「国家之大務」、『宋書』に「經国の大務」、『旧唐書』にも「国の大務」、『新唐書』には「軍国の大務・国家の大務」等とあるように、「国家の果たすべき重要な責務」のことを言う。
 さらに、陳寿が編纂した『諸葛亮集』に収められていた諸葛孔明の兵法書『将苑』(戒備編)には「夫れ国の大務は、戒備に先んずる莫し」(国家にとって重要なのは、まず国防である)とある。「田身嶺」が「太(大)務嶺」であれば、「何より重要な国防の山」という意味となり、首都大宰府を防衛する大野山(大野城)に相応しい名称となるのだ。

 

5、九州年号の入れ替えで「白村江以前」の記事を「以後」に繰り下げ

 そして、「田身嶺」記事のある斉明二年(六五六)は九州年号では「白雉『五年』」で、「大野城築城」記事のある天智四年(六六五)は九州年号「白鳳『五年』」だ。
 つまり、「田身(太務)嶺」の工事が大和なる多武嶺ではなく、筑紫大野山で行われた大野城の築城工事を意味するのであれば、『書紀』編者は九州年号「白雉『五年』」の「白雉」を「白鳳」と入れ替え、「白鳳『五年』」に移すことにより、記事を「九年繰り下げ」たことになる。そして、この潤色により、六六三年の「白村江の敗戦」以前、六五六年の大野城造営記事が、『書紀』では白村江後の六六五年のこととされたのだ。

 

6、持統の吉野行幸記事は三四年繰り下げられていた

 また、持統七年(六九三)の持統が「多武嶺に幸す」とある記事だが、何故このような時期に、何の目的で持統が多武嶺に行幸したのか、一切記されていない。
 古田氏は『壬申大乱』(註4)で、『書紀』に記す持統天皇の持統三年(六八九)から十一年(六九七)にかけての、のべ三一回の吉野行幸は、三四年前、斉明元年(六五五)から天智二年(六六三)までの、九州王朝の天子による佐賀なる軍事基地・吉野への閲兵・行幸記事が「繰り下げ」られたものだとされた。(註5)
 ちなみに、吉野行幸記事を九州年号で見ると、持統三年(六八九)は九州年号「朱鳥『四年』」で、三四年前の斉明元年(六五五)は九州年号「白雉『四年』」、持統十一年(六九七)は九州年号「大化『三年』」で、三四年前の天智二年(六六三)は九州年号「白鳳『三年』」と、見事に「九州年号同士の入れ替え」となっている。
 このように、全三一回の行幸全てが三四年遡らせば「朱鳥と白雉」、「大化と白鳳」という「九州年号の入れ替え」となっているのだ。

 

7、「持統の多武嶺行幸」も「三四年前の九州王朝の天子の大野城への行幸」

 そうであれば、この持統七年「九州年号朱鳥『八年』(六九三)」の多武嶺への行幸も、三四年前の斉明五年「九州年号白雉『八年』(六五九)」の九州王朝の天子の大野城への行幸」と考えることが出来るのではないか。
 『書紀』では、先述の通り「田身嶺」に関する造営工事は斉明二年(六五六)(九州年号白雉五年)に行われたとあるが、水城同様に完成には相当の期間を要したはずだ。持統七年(「朱鳥『八年』」)の多武嶺行幸記事が、本来は「白雉『八年』」(六五九)の記事だとすれば、白雉五年(六五六)の築造開始から「三年間」かけ、大野山(田身嶺)の垣と両槻宮、即ち大野城が白雉八年(六五九)に完成し、これに伴い、「近畿天皇家の持統」ではなく「九州王朝の天子」が、「奈良の多武嶺」ではなく「筑紫の大野山(田身嶺)の大野城」に行幸した記事となるだろう。(註6)

 

8、大宰府の創建と一大防衛施設群の整備

 従来八世紀初頭とされていた太宰府条坊の創設は、通説でも七世紀末ごろではないかと言われ始めているが、瓦の編年(老司1式)から太宰府政庁とほぼ同時期と考えられる観世音寺の創建は、『続日本紀』では「天智期」、『二中歴』では白鳳年間、それも『日本帝皇年代記』『勝山記』では白鳳十年(六七〇)とされる。
 そして井上信正氏(考古学者・大宰府在住)は、大宰府条坊の成立は政庁二期より早いとしており(註7)、これを受け、古賀達也氏は、九州王朝は九州年号「定居(六一一~六一七)~倭京(六一八~六二一)」年間に大宰府を造営し都城を移したのではないかとする(註8)。
 七世紀の東アジアは隋による高句麗・琉球(沖縄)遠征や、これを引き継いだ唐による高句麗・百済討伐など激動のただ中にあった。こうした状況の中、九州王朝は対「隋」防衛策として、隋代に大宰府を建設し、有明海沿いの筑後から宮を移転し、その後、唐・新羅との戦に備え、大野城や基肄城の造営、羅城の構築、神籠石や大水城(註9)の築造・強化など「狂心」と言われるほどの「首都大宰府を防衛」する大土木工事を強行した。今回発見された「大宰府を守る羅城」ではないかとされる「土塁」はその重要な一部だったのだ。

 

9、大和朝廷の成立と『書紀』編者による九州王朝の事績の抹消

 こうした備えにも関わらず白村江に出兵し大敗北を被り、麟徳三年(六六六)泰山に封禅の儀を挙げた際、「倭国の酋長」が扈從(こじゅう 主君のお供をする)したとする(『旧唐書』による)ように、事実上唐に従属し郭務悰等が駐留することになった。
 一方、白村江直前に斉明の崩御を口実に筑紫から撤退し、被害を最小限にとどめ、その後六七二年の壬申の乱に勝利し、近畿・東国の覇権を握った近畿天皇家は、倭国で事実上実力№1の存在になっていった。これに対し、九州王朝は筑紫大地震(六七八)の未曾有の被害などもあり、衰退の一途をたどり、遂に七〇一年の大宝建元・律令制定が示すように近畿天皇家(大和朝廷)にとってかわられた。
 その後、大和朝廷は『日本書紀』の編纂にあたり、白村江以前に九州王朝が行った大土木工事や、佐賀吉野への閲兵等の事績を、九州王朝の史書から「九州年号を入れ替え」盗用するという手法で抹消し、白村江以降の天智・天武や持統の事績とすることで、七世紀段階での倭国の主権者は九州王朝ではなく近畿天皇家であったという歴史を「創作」したのだ。
 今回発見された大宰府を守る「羅城の土塁」は、こうした隠された歴史を私たちの眼前にまざまざと示してくれるものと言えるだろう。

(註1)堤土塁跡(県指定遺跡)
 所在地(佐賀県)三養基郡上峰町大字堤字迎原二三九一―一
 鎮西山から南に延びる八藤丘陵と二塚山丘陵との谷間をふさぐように築かれた土塁である。築成当時は両丘陵を東西につないでいたと思われるが、現在では中央部に切通川が流れ、東西に分断された格好で残存している。
 規模は東西長約三〇〇m。東側で幅が一〇~一五m。高さが一・五~二m。西側で幅三四~四〇m、高さ四~五mである。砂黄土と黒色土を交互に積んで叩き締める「版築技法」で築かれており、西側の切り通し断面でその状況がよく観察できる。時期については出土遺物が少ないため断定できないが、版築の技術が基山町関屋土塁や佐賀市帯熊山おぶくまやま神護石の土塁のそれと類似している点等から七~八世紀と考えられる。
 築成目的に関しては、切り通し川を塞ぎ止めていることから、農業用水を蓄えるための潅漑施設説、外敵の侵入を防ぐための防衛施設説、及び両者の併用説などがあるが謎が多い。いずれにしても古代においてこのような大規模かつ高度な土木技術が存在したことを示すとともに、その歴史的背景を研究する上でも非常に重要な位置を占める遺跡である。(『佐賀県の文化財』平成六年参月三十一日発行。編集〓佐賀県教育委員会)

(註2)『日本書紀』を見ると「筑紫の水城」と書いてある。それを我々が、勝手に太宰府の水城が残っていますので、結びつけて解釈してきたのではないか。
(*古田武彦講演「壬申の乱の大道」 二〇〇〇年一月二二日 大阪市北市民教養ルーム)より。

(註3)古賀達也氏は「狂心の渠」とは、かつて筑後浮羽郡に存在した 「天の一朝堀」ではないかとする。「天の一朝堀」は「天の長者」が掘ったとされ、「山北石」を産出した山北の丘陵(大野原)を東西に延びる、深さ二〇m、幅六八m、長さ二四〇mの巨大な堀だったが、昭和五七年、合所ダム工事で埋め立てられ現存しないという。
 付近には「大石(筑後大石)・川篭石」と言った地名が遺存し、ここから筑後川に抜けた下流、朝倉橘広庭宮・久喜宮の東に杷木神籠石が存在し、山北石と同じ安山岩が用いられているという。

(註4)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林。二〇〇一年十月)

(註5)その根拠として、古田武彦氏は、
①「行楽地」たる奈良の吉野にふさわしくない冬季にも頻繁に行幸している。
 一方「吉野ヶ里遺跡」に示されるように、佐賀の吉野は「軍事基地」であり、その視察に季節は無関係であること。

②当時の吉野は水路で有明海に直結しており、潮流・海流の関係から多数の軍船を「半島西岸」に送るのに最適であること。

③持統紀に吉野行幸の頻度が異常に多く、かつ集中しており、持統天皇以降はもちろん、持統本人についても十一年六月以降は、崩御までの六年間に一回と、ほぼ全然と言っていいほど行幸記事が見られないこと。

④『書紀』で、持統が「吉野宮より至る(帰った)」日付の持統八年(六九四)四月「丁亥」は存在せず、三四年前の斉明六年(六六〇)四月には存在すること、等を挙げられた。

 なお、斉明二年(六五六)是年に「又吉野宮を作る」とあり、以降『書紀』に「吉野行幸」記事は、斉明五年三月戊寅朔の「天皇幸吉野」の一件を除いて、天智十年(六七一)の大海人皇子の吉野入りまで空白となっている。宮を造った斉明がいっこうに吉野に赴かないと言うのも不思議なことだ。
 しかし、「九州王朝の天子が六五六年に佐賀なる吉野宮を建設し、白村江直前まで頻繁に吉野へ行幸した記事」が、そっくり持統紀に繰り下げられたと考えれば、斉明紀の吉野行幸記事の「空白」がよく説明できる。

(註6)多武嶺行幸記事の直後に「丙申(十日)に、淸御原天皇の為に、無遮大會を内裏に設く」とあるが、天武の崩日は九月九日で「国忌日」とされるため、岩波注釈でも十日の大會は不審とされるが、その理由も「多武嶺行幸記事の三四年繰り下げ」にある。
 持統七年(六九三)八月は二九日までの小の月、一方三四年前の斉明五年(六五九)八月は三〇日まである大の月だ。ところが『書紀』編者は、多武嶺行幸記事を六五九年から繰り下げる際、持統七年も八月を三〇日として九月の朔日干支を戊子に設定し、そのため九月九日は丙申となった。後日干支のチェック時に朔日干支は一日前の丁亥に正しく修正したが、九日の干支を丙申の一日前の乙未に訂正し忘れたため丙申(十日)になってしまったと考えられる。

(註7)井上信正「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第五号、平成二三年)。「古賀達也の洛中洛外日記」一二二七話。「太宰府、般若寺創建年の検討(1)」(二〇一六年七月十日)より。

(註8)古賀達也「観世音寺・大宰府政庁 Ⅱ期の創建年代」(古田史学会報一一〇号二〇一二年六月)。

(註9)水城の完成年は敷粗朶の年代から六六〇年頃とされ、これは白村江直前の時期にあたる。水城が「造られ始めた時期」としては、神功皇后摂政前紀仲哀九年(『書紀』紀年では二〇〇年)四月に那珂川の水を引くため岩盤を砕いて溝(裂田溝)を掘る記事がある。神功紀は百済本記との比較で、実年より「二運(一二〇年)」繰り上げられていることが確認されており、仲哀九年は主に神功皇后の事績が書かれているため、ほぼこれに準じ繰り上げられていると考えられる。従って裂田溝開削記事も四世紀初頭の事実となり、このころ筑紫では「溝」が盛んに造られていたことが分かる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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