2017年2月15日

古田史学会報

138号

1,二〇一七年新年のご挨拶
 次世代に伝えたい
 古田先生の言葉
 代表 古賀達也

2,太宰府を囲む「巨大土塁」と
『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城
 正木裕

3,九州王朝の家紋
 (十三弁紋)の調査
 古賀達也

4,諱と字と九州王朝説
 服部静尚

5,「倭京」の多元的考察
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④
 九州王朝の九州平定 --
 怡土平野から周芳の沙麼へ
 事務局長 正木裕

 

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盗まれた天皇陵 服部静尚(会報135号)
文字伝来 服部静尚(会報135号)

なぜ「倭国年号」なのか 服部静尚(141号)


いみなと字あざなと九州王朝説

八尾市 服部静尚

一、 はじめに

 本居宣長は、古事記伝巻十八の中で、次のように上代での諱の風習を完全否定しています。
【書紀に神倭伊波禮毘古命の「諱いみなは彦火々出見ひこほほでみ」とあるのは納得できない書き方である。(中略)「諱」と言うのは、漢籍に「~帝の諱は~」と書いてあるのを模倣したのだが、事実と大きく異なっている。皇国の上代の天皇たちの名は、諱などと言うべきではない。尊貴な人の名を呼ぶことを忌み憚るのは、外国の習慣だ。名はその人を誉め讃える意味のもので、上代には称え名でもよく「名」の字を付けた。大名持といったたぐいである。だから後世、万事漢の風俗を取り入れるようになってからこそ、天皇の名を諱と言うようになったが、上代のはどれも諱とは言えない。仁賢紀に「諱は大脚おおし」と書き、註に「他の天皇は諱を言わないのに、この天皇にだけ書いたのは、旧本によっただけのことである」と書いてあるが、この「大脚」を諱としたのも間違いだ。「他の天皇には諱を言わない」と書いてある以上、この天皇の彦火々出見という名も、古い書物には諱とされていなかったのを、撰者がさかしらにそう書いたのが明らかだ。上代に名を忌むということはなかったのだから、「いみな」などという語も古言ではない。「諱」の字の読みとして後に作った語である。またこれを「ただのみな」と読むのも古言ではない。これは称え名や諡(のちのな=おくりな)に対し、ただ普通の呼び名という意味で、後に作った語である。】(現代語訳は古事記傳現代語訳ブログ「雲の筏」による)

 これに対して、穂積陳重(「忌み名の研究」講談社学術文庫)は、記紀の天皇名には誕生時の事象・後に付けられた由縁地名などもあり、本居宣長の言う「その人を誉め讃える意味の名」とは言えない。諱の風習=実名敬避俗は、アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ全世界に広く分布する風習で、太平洋海域に散在する島々の民族でこれを持たないものはほとんど無い。もし、古代日本にこの風習がなかったとすれば、我が祖先は珍しい例外を提示するものと言える。つまり日本古代にも諱の風習があった。穂積陳重はこう述べています。
 私はこの穂積説を支持し、では何故日本古代に諱の風習があったと言えるのか、諱の風習がどのように行われていたか、記紀の時代の天皇の名はどのような意味を持つのかを記します。

二、「諱いみな」と「字あざな」について

(1)広辞苑によると諱いみなとは、「死後にいう生前の実名。転じて貴人の実名を敬していう」とあります。本来、生前は名、死後は諱と呼んで区別していたのが、実名敬避俗によって生前にさかのぼって諱と表現するなど、混同が見られるようになったようです。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字あざなといい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになります。
 下見隆雄氏(「礼記」明徳出版社)は、「諱とはその人の生前の名を言う。その人が死ぬと、この名を用いないようにするのである。この制度がおこったのはおそらく東周時代以降のことであろう。秦の始皇帝は既に生きている時からその名を諱むことをしている。時代が下ると、この制はいよいよ厳しくなり、名ばかりでなく、字・諡・帝号・年号なども諱まれるようになる」としています。生きている時から諱むため、実名を呼べない。そのため代りに字あざなをつけます。礼記曲礼に「男子二十、冠而字」、鄭康成の註に「冠是成人矣、敬其名」とあり、まさにそのことを言っています。

(2)なぜ実名を諱むのかと言いますと、人の実名はその人の霊的な人格と強く結びついたものであって、その名を口にすると、その霊的人格を支配することができると考えられていたようです。
 呪詛の難を避けるためにも実名は秘され、実名で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人が実名で呼びかけることは、極めて無礼であると考えられました。そこで実名とは別に、字などで呼称されたわけです。実名を敬い避けると言うことは、実名が非常に重要なものであると考えて大切に扱う風習です。

(3)古代の人は諱・字以外に、いろんな名前・呼び方をもっていました。
 例えば中国三国志の時代の人「諸葛亮孔明」で言えば、「諸葛」は「姓」で血縁集団の名称です。日本古代では「氏」が「姓」にあたり、これとは別に「姓」を「かばね」と読んで王権との関係や地位を示す称号、爵位としての性格と職掌に伴う官職としての性格を併せ持つ呼称とされました。「亮」は実名でこれが「諱」にあたります。「孔明」というのは「字」です。これとは別に孔明が官職についたので、その官職名で「丞相」と呼ばれました。
 又、貴人の死後に奉る贈り名として「諡」があり、今我々は天皇のことを通常漢風諡号で呼んでいます。

三、諱むとはどういうことなのか

(1)礼記の曲礼篇に「子に名づくるに 国(自からの国の名)を以ってせず、日月(干支)を以ってせず、隠疾(体の隠れたところにある痣・傷など)を以ってせず、山川(の名称)を以ってせず」とあります。
 左氏伝の桓公六年に、「周の人は諱むということで神に仕える。名はその人が死ぬと諱まれることになる。国の名を用いると国の名を棄てねばならない。官名を用いると官職名を改めることになり、山川の名を用いると、その山川の名を止めねばならない」と説明しています。諱むということはこういうことです。

(2)この諱がどの程度厳密に行われていたかと言うと、礼記檀弓篇に「詩書不諱(詩を書する時は諱まなくともよい)、臨文不諱、嫌名不諱(同音を諱まなくともよい)、二名不偏諱(漢字二字の名の場合、どちらかが異なれば諱まなくともよい)、廟中不諱」とあって、この五つの場合は諱まなくともよいとされています。

 しかし秦・漢時代以降はエスカレートして、唐代になるとこの五つの場合であっても、これを犯すと唐律によって刑罰に処されるとあります。

(3)記紀が編纂された頃の我が国にあっても、かなり厳密な適用がされていた証拠に、七世紀後半から八世紀にかけて次の施策が執られたという記録があります。
 (イ)日本書紀の孝徳紀大化二年(六四六年)八月「王の名を以って軽々しく川野にかけて名を呼ぶ、百姓誠に畏るべし」として、品部の廃止がされます。

 (ロ)類聚三代格の天平勝宝九年(七五七年)五月の詔に「百姓の中に礼を知らずに現在の天皇・皇后等の名で姓名を称する者がある。今後このようなことがあってはならない。もし所司がこれを改めさせない場合には、法によって罪を科して実行させる」とあります。

 (ハ)続日本紀の称徳紀神護景雲二年(七六八年)五月の詔に「国においては諱を問題としておりこれに従わねばならない。諸司の中には天皇・皇太子の名をとって申告する者があるのは寒心にたえない改めるべし」。

 (ニ)続日本紀の桓武紀延暦四年(七八五年)五月の詔「君の諱を避けることは臣子の礼であるのに、これが乱れていることは目に余るこれを改めよ」。

四、本居宣長は間違っていた。古代日本にも諱の風習があった。

(1)日本書紀には、天皇の諱が三例だけですがはっきり出てきます。
 (イ)神武紀「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見ひこほほでみ

 (ロ)仁賢紀「億計天皇、諱大脚おおし。更名大爲。自餘諸天皇不言諱字。而至此天皇、独自書者、拠旧本耳。字嶋郎。(諱は大脚またの名は大爲。他の天皇は諱を言わないのに、この天皇にだけ書いたのは、旧本によっただけのことである。字は嶋のいらつこ。) 

 (ハ)雄略紀「四年春二月、天皇射獵於葛城山。忽見長人。來望丹谷。面貌容儀、相似天皇。天皇知是神、猶故問曰、何處公也。長人對曰、現人之神。先稱王諱。然後應噵。天皇答曰、朕是幼武尊也。長人次稱曰、僕是一事主神也」 (~天皇が葛城山で狩りをした際に長人が現れた。天皇が名を尋ねると、先に諱を名のれと云われ、天皇は幼武尊と名のった。)

以上、僅かに三天皇三例ですが、諱があったことになっています。

 本居宣長が「彦火々出見という名も、古い書物には諱とされていなかったのを、撰者がさかしらにそう書いたのが明らかだ。」と言っていますが、日本書紀が編纂された八世紀には先に示したように、諱を徹底するための施策がとられています。そのような時代に「選者がさかしらに」元史料に無かった諱を、国家事業である日本書紀に書き加えるというようなことをするでしょうか、もちろんそれは有り得ません。
 日本書紀の元史料に諱と書いてあったということ以外に、合理的な説明ができません。まさに(ロ)の記事には旧本によるとずばり書いています。

(2)日本書紀では、三天皇以外に諱と明記している記事はありません。元々諱というのは呼んだり書いたりすることを諱むので、伝承されにくいものです。三天皇の諱は、たまたま伝承されたと考えるべきです。
 そのことを示すように、古事記では諱の記載がありません。(ハ)の雄略天皇と一言主神との説話が、古事記にもありますが、実は雄略天皇が名乗る部分のみがうまくカットされています。
(長くなりますが下記にその部分を示します)
「天皇登幸葛城山之時、百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服。彼時有其自所向之山尾、登山上人。既等天皇之鹵簿、亦其裝束之状、及人衆、相似不傾。爾天皇望、令問曰、於茲倭國、除吾亦無王、今誰人如此而行。即答曰之状、亦如天皇之命。於是天皇大忿而矢刺、百官人等悉矢刺。爾其人等亦皆矢刺。故、天皇亦問曰、然告其名。爾各告名而彈矢。於是答曰、吾先見問。故、吾先爲名告。吾者雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也。天皇於是惶畏而白、恐我大神、有宇都志意美者、不覺白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服以拜獻。爾其一言主大神、手打受其捧物。故、天皇之還幸時、其大神滿山末、於長谷山口送奉。故、是一言主之大神者、彼時所顯也」
(雄略)天皇が葛城山に登った時、百官らはことごとく紅い紐をつけた青染めの衣服を給わった。その時向かいの尾根から山を登る人がいた。天皇らとよく似た装束であった。天皇は「倭国において私をおいて王はいないのに誰があのように行くのか」と尋ねさせた。その人らの答える様子も天皇と同じであった、天皇は怒り弓を構え百官らも弓を構えた。その人らも弓を構えた。天皇は「名を名乗れ名乗ってから矢を放とうと言った」。その人は「私が先に問われたので先に名乗る、私はどんな凶事も一言でどんな吉事も一言で言い分ける神、葛城の一言主大神である」と答えた。天皇は恐縮して「畏まりました我が大神が現人神うつしかみであられるとは存じませんでした」と言って、太刀・弓および百官の衣服を脱がせて拝み奉った。一言主大神は手を打って供え物を受け取った。天皇が帰ろうとすると大神は山の頂より長谷山の麓まで送り届けた。是、一言主大神が姿を現したのである。

 以上のように、古事記には雄略の諱も、そして神武の諱も、仁賢の諱も記載がありません。もちろん他の天皇の諱も記載がありません。考えますと、記紀は、近畿天皇家の臣下が書いた史書ですから、天皇の諱を記さない古事記の方が本来の姿だと考えられます。

(3)日本書紀にだけ何故三例の諱が記載されたのかですが、次のように考えると理にかないます。

 諱の記載があるのは、神武・雄略・仁賢でいずれも継体以前の天皇です。

 継体天皇は応神天皇の五世の孫とされていますが、五世の孫というと後の世の源平がいきなり天皇になるというレベルの血筋の薄さで、ここで血筋が途絶えたと考えても過言でありません。
 日本書紀編纂時の天皇は、この継体天皇の血筋であり、日本書紀の編纂方針の一つに、継体天皇の正当性を読者=当時の臣下に納得させることがあったと見られます。そのため雄略・武烈天皇、特に武烈天皇を非道・悪行の天皇にしたてて、やむなく人望を集めた継体天皇が即位したと、その正当性をうたっています。継体系の天皇に仕える編纂者としては、継体以前の天皇について、厳密に諱を守らねばいけないと言う思いが薄かったのではないでしょうか。対照的に古事記では雄略記・武烈記でそのような意図は全く見られません。当然実名敬避も行われたものと考えられます。
 諱は上下関係の上か、同等の国・家系の文書であれば、伝承されると考えられます。古事記編纂時の資料中には、三天皇の諱は記載なかったが、日本書紀編纂時には近畿天皇家が九州王朝の史書を手に入れたおり、そこには三天皇の諱の記載があったと仮定すると、紀にあって記に無い理由となります。

(添付表1)日本書紀での諱に関する記事

日本書紀記載箇所 (諱と字の文字を含む)記事内容 諱の用法 字の用法
日本書紀巻第三 _日本磐余彦天皇、諱彦火火出見 忌み名①  
允恭天皇七年冬十二月壬戌 朔 所奉娘子者誰也。欲知姓字。   あざ名①
雄略天皇即位前 大舍人闕姓字也。   あざ名②
擬字未詳。   文字の字①
武烈天皇四年夏四月 百濟新撰云〜武寧王立。諱斯麻王。 忌み名②  
顯宗天皇 使主遂改名字、   あざ名③
倶改字曰丹波小子   あざ名④
仁賢天皇即位前 億計天皇、諱大脚。更名大爲。 忌み名③  
自餘諸天皇、不言諱字。 忌み名④ あざ名⑤
字嶋郎。   あざ名⑥
欽明天皇即位前 姓字果如所夢。   あざ名⑦
欽明天皇二年春三月 不見母妃姓與皇女名字、 あざ名⑧  
帝王本紀、多有古字、   文字の字②
欽明天皇二年夏四月 與任那日本府吉備臣、闕名字。   あざ名⑨
欽明天皇十四年夏五月 遣溝邊直、此但曰直、不書名字   あざ名⑩
欽明天皇十四年冬十月 插鐃者鐃字未詳。   文字の字③
敏達天皇元年五月壬寅朔 字隨羽_、既無識者。   文字の字④
悉寫其字。   文字の字⑤
敏達天皇十三年春二月 從百濟來鹿深臣、闕名字。   あざ名⑪
佐伯連、闕名字。   あざ名⑫
崇峻天皇即位前 春日臣、闕名字。   あざ名⑬
推古天皇 卅六年春三月 "天皇痛甚之、不可諱。   避ける意①
舒明天皇即位前 以病不可諱。   避ける意②
孝徳天皇即位前 大伴長_字馬飼。   あざ名⑭
孝徳天皇大化五年三月 蘇我臣日向、日向、字身刺。   あざ名⑮
諱稱鹽名、改曰堅鹽。   避ける意③
孝徳天皇大化五年四月 小紫大伴長_連、字馬飼   あざ名⑯
天智天皇七年二月 生伊賀皇子。後字曰大友皇子。   あざ名⑰
天智天皇六月 邑中獲龜。背書申字。   文字の字⑥
天武天皇十一年三月 更肇俾造新字一部卅四卷。   文字の字⑦

 

(4)添付表1に示すように、日本書紀中に「諱」という文字が七箇所出てきます。その中で本来の「いみな」の意の使用例は四箇所で、他の三例は「諱む=忌み避ける」という意で使われています。
 ちなみに「字」の文字は二四箇所あり、「あざな」の意で一七箇所、「文字」の意で七箇所です。
 このことから日本書紀に書かれている時代においては、諱と字は本来の意味で、それぞれ別のものとして、認識されていたと言えます。
 日本書紀と同時代資料と言える「隋書倭国伝」で、開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕(倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる)とあり、初めて倭国の天子を名乗る倭王は、諱でなく字を称していることより、ここも明確に諱と字を使い分けがされています。

(5) 諱に対して字はどのように扱われていたのかですが、(ロ)の仁賢紀のに「不言諱字」とあります。この「諱字」に「ただのみな」と読み仮名をつけて、この二字併せて実名の意と解釈されていて、先ほどは便宜上この解釈を採用しましたが、どう考えても字を「な」とも「みな」とも読めません。「諱も字も言わない」ととるのが道理です。つまり日本書紀編纂時においては、原則として、諱はもちろん、字まで諱む対象としていたと考えられます。

 

(添付表2)続日本紀の諱に関する記事

 続日本紀記載箇所 (諱という文字を含む)記事内容  諱の用法
和銅元年7月 乱失官事者。必无隱諱(必ず隠すこと無かれ) 避ける意①
和銅7年6月 若帶日子姓。爲觸國諱。改因居地賜之
(若帯日子姓は国諱に触れるため、改めて姓を賜った)
避ける意②
元正天皇即位前 日本根子高端淨足姫天皇。諱氷高 忌み名①
養老5年2月 故有政令不便事。悉陳无諱。直言盡意。无有所隱
(遠慮して避けてはいけない)
避ける意③
神亀4年2月 宜莫隱諱副朕意焉(隠すことなく朕の意に副うべし) 避ける意④
天平6年4月 検看諱所八處及有功王之墓
(天皇稜8ヶ所などの地震被害を調べた)
天皇稜の意
天平9年9月 无位諱〈天宗高紹天皇也〉道祖王並從四位下
(白壁王=後の光仁天皇のこと)
忌み名②
天平18年4月 從四位下諱從四位上(白壁王のこと) 忌み名③
天平宝字元年5月 從四位上諱。從四位上船王並正四位下(白壁王のこと) 忌み名④
淳仁天皇即位前 廢帝。諱大炊王 忌み名⑤
天平宝字2年8月 正四位下諱〈平城宮御宇高紹天皇〉正四位上
(白壁王のこと)
忌み名⑥
天平宝字3年5月 勿有隱諱 避ける意⑤
天平宝字3年6月 正四位上諱從三位(白壁王のこと) 忌み名⑦
天平宝字4年6月 從三位諱(白壁王のこと) 忌み名⑧
天平宝字6年12月 從三位諱(白壁王のこと) 忌み名⑨
天平宝字7年12月 三人坐飮酒言語渉時忌諱
(酒席で話が憚れることに及んだ。孝謙と道鏡の話)
避ける意⑥
天平宝字8年9月 從三位諱。藤原朝臣眞楯並授正三位(白壁王のこと) 忌み名⑩
天平宝字8年10月 无位諱〈今上〉〜並授從五位下
(山部王=後の桓武天皇のこと)
忌み名⑪
天平神護元年正月 正三位諱(白壁王のこと) 忌み名⑫
天平神護元年10月 以正三位諱爲御前次第司長官(白壁王のこと) 忌み名⑬
天平神護2年正月 中納言正三位諱(白壁王のこと) 忌み名⑭
天平神護2年11月 從五位下諱從五位上(山部王のこと) 忌み名⑮
神護景雲2年5月

勅。入國問諱。先聞有之
(国に入ればその国に失礼がないよう諱をたずねる)

忌み名⑯
神護景雲2年10月 大納言諱。弓削御淨朝臣濂人各一万屯(白壁王のこと) 忌み名⑰
宝亀元年8月 立諱爲皇太子(白壁王のこと) 忌み名⑱
授大學頭諱從四位下(山部王のこと) 忌み名⑲
光仁天皇即位前 天宗高紹天皇〈光仁天皇〉天皇諱白壁王 忌み名⑳
宝亀元年11月 授從四位下諱四品(山部王のこと) 忌み名①
宝亀2年3月 四品諱爲中務卿(山部王のこと) 忌み名②
宝亀4年正月 立中務卿四品諱爲皇太子(山部王のこと) 忌み名③
天応元年6月 吉凶相半。若其諱辰掌凶(天皇葬送の時はこれを掌り) 葬送の意
延暦4年5月 (天皇詔)又臣子之礼。必避君諱。
(君の諱を避けるのは臣子の礼である)
忌み名④
延暦6年11月 孝子皇帝臣諱(山部王のこと) 忌み名⑤
延暦9年正月 皇太后姓和氏。諱新笠 忌み名⑥
延暦9年閏3月 皇后。姓藤原氏。諱乙牟漏 忌み名⑦
延暦10年3月 舍故而諱新。注曰。舍親盡之祖。而諱新死者
(古い神の名は諱まず新しく祭った神の名を諱む)
忌み名⑧

 

五、諱と記載ある名は本当に諱なのか

 ここでは日本書紀から続日本紀まで拡げて、そこに記載された各天皇の諱が、本当の諱であったのかを考えてみます。
 ちなみに、添付表2に示すように、続日本紀中には「諱」文字が三六箇所出てきます。その中で「いみな」意での使用は二八箇所、他に「忌み避ける」という意で六箇所、「天皇稜」「天皇の葬送」の意で各一箇所使われています。後者は日本書紀には無い使い方で、続日本紀においては更に拡大した意にも用いられたよう

 (イ)神武天皇=諱彦火火出見
 これは祖父にあたる「彦火火出見尊(山幸彦)」と同じ名前です。これだと神武天皇の父は神武の名を呼ぶのに(諱の禁止事項である)我が父の名を呼ぶことになり、本当の諱とは考えにくい。古田武彦氏(「倭人伝を徹底して読む」)によると、「彦というのは、長官名を表わす言葉です。魏志倭人伝の対海国=対馬、一大国=壱岐、それぞれの長官が卑狗(ひこ)であることは有名です」ということなので、官職名と考えられますが、わざわざ諱と記載されているのですから、諱でないとするには慎重であるべきです。

 (ロ)仁賢天皇=諱大脚
 他の天皇と違ってこの天皇のみ諱・字を記載するとあるので、諱でないとする材料はありません。

 (ハ)雄略天皇=幼武尊
 仁賢紀の「自餘諸天皇、不言諱字」と矛盾しおかしいので、諱ではないとも考えられますが、前述のとおり古事記と同種説話でありながら、書紀のみに諱の記載がある理由を考えると、これも否定するには慎重であるべきです。

 次に、続日本紀に出てくる天皇の諱は、次の三天皇ですが(ホ)以外は本当の諱であると思えません。
 (ニ)元正天皇=諱氷高
 続日本紀においては、添付表2に示す神護景雲二年五月の勅、延暦四年五月の詔で諱を徹底させているのにも拘わらず、ここでは元正天皇の諱を表記する、矛盾があります。

 (ホ)淳仁天皇=諱大炊王
 後に廃帝としているので諱を守る必要が無くなった。それで表記したと解釈できます。

 (ヘ)光仁天皇=諱白壁王
 添付表2にあるように天平九年九月記事から宝亀元年八月記事まで、一三件の記事に渡って(白壁王の名を隠して)諱表記をしています。ここで白壁王と表記するのであれば、それまでの諱表記は何であったかと疑問が残ります。

 次に、諱という表記ではありませんが、日本書紀・続日本紀およびその関連資料(めめんじろう「続日本紀における天皇名の注釈的研究」)より、幼き時の名とか、後の資料で諱と明記されている等より、諱ではないかと考えられている天皇名があります。

 (ト)推古天皇=日本書紀に「幼曰額田部皇女」とあって、この幼き時の名=諱であるという説があります。しかし(ハ)雄略と同様に、仁賢紀の記事と矛盾します。又、推古一六年八月の記事で、唐客入京の出迎えをしたのが額田部連比羅夫です。古代の皇子女が養育された氏族や土地の名で呼ばれる例と考えられ、氏の名を諱にすることもありえません。

 (チ)天武天皇=日本書紀に「幼曰大海人皇子」とあり、同じように幼き時の名=諱であるとも考えられます。しかし、これも仁賢紀の記事と矛盾すること。天武天皇の殯記事に「第一大海宿禰荒蒲、誄壬生事(乳部ことをしのびごとした)」とあることより、これも(ト)と同例と考えられます。

 (リ)持統天皇=日本書紀に「高天原廣野姫天皇、少名鸕野讚良皇女」とあることから、これも少名=幼き時の名=諱であると言う説があります。しかし、仁賢紀の記事と矛盾すること。讚良は北河内の讚良郡に由来するとされていることから、これも(ト)と同例と考えられます。

 (ヌ)文武天皇=続日本紀には記述がありませんが、(鎌倉時代末期成立の)釈日本紀の引く私記に、「文武天皇少名珂瑠皇子」とあります。万葉集巻第一雑歌「藤原宮に天下治めたまふ天皇の代」注記に、「高天原広野姫天皇、元年丁亥、十一年 位を軽太子に譲りたまふ。尊号を太上天皇といふ」とあります。
 更に、巻第一の四五番歌の題詞にも「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあることより、幼き時の名つまり諱が珂瑠、又は軽と考えられています。しかし軽というのは大和の古地名であり、これも(ト)と同例と考えられます。

 (ル)元明天皇=書紀の天智七年二月条では安陪皇女とありますが、続日本紀に「小名阿閇皇女」とあり、小名=幼き時の名=諱であるとも考えられています。
 しかし、諱であれば続日本紀に記載される理由が不明です。安陪は氏族名でこれも(ト)と同例と考えられます。

 (ヲ)聖武天皇=続日本紀には記述がありませんが、(一四二六年成立の)本朝皇胤紹運録に「諱首」とあるそうです。
 続日本紀の宝亀元年九月の令旨で「去る天平勝宝九歳に首・史の姓を改めて、それぞれ毘登としたが、首と史とが区別しがたくなり、氏族の区別が混雑するようになった。これは穏当でないので、元の字に戻せ」とあり、ここから聖武天皇の諱が首であったとされています。しかし、天平勝宝九年に諱を徹底したのに、一三年後の宝亀元年九月には簡単に撤回しています。本当の諱であれば考えにくい扱いと言えます。聖武天皇の治世は二十二年間(神亀四年~天平勝宝元年の)ですが、この間の続日本紀記事中に、大伴宿禰首麻呂他八名延べ十一回も「首」の字を名に持つ人名が出てきます。
 又、渤海の首領が四回、その他「首」文字が九回も出てきます。この中には「贋金作りの首犯」「賊の首を四つ斬った」という記事もあります。このような状況で、「首」が諱であったとはとても言えません。

 (ワ)桓武天皇=日本後紀の大同元年四月条に「天皇。諱山部」とあります。続日本紀の延暦四年五月条に「(天皇詔)又臣子之礼。必避君諱。比者先帝御名及朕之諱。公私觸犯。猶不忍聞。自今以後宜並改避。於是改姓白髪部爲眞髪部。山部爲山」(君の諱を避けるのは臣子の礼であるが、光仁天皇や朕=桓武の諱を犯すものがあり聞くに忍びない。今後は避けること。これから白髪部は真髪部に山部は山と改めること)とあることより、山部が諱であったと考えられています。
 しかし、桓武の死(八〇六年)後わずか三十四年後に成立した日本後紀に、諱が記載されていることに疑問があります。

(添付表3)39〜50代の天皇の名一覧

  漢風諡号 日本書紀/続日本紀での表記 和風諡号 字と思われる ※諱と思われる
第39代 弘文天皇     (字)大友 (生)伊賀
第40代 天武天皇 天渟中原瀛真人天皇 飛鳥浄御原天皇   (幼)大海人皇子
第41代 持統天皇 高天原廣野姫天皇 大倭根子天之廣野目女尊   (少名)_野讃良皇女
追尊 岡宮天皇     草壁皇子  
第42代 文武天皇 天之眞宗豊祖父天皇 倭根子豊祖父天皇   (諱)珂瑠/軽
第43代 元明天皇 日本根子天津御代豊國成姫天皇   (幼名)阿閇皇女
第44代 元正天皇 日本根子高瑞浄足姫天皇   (諱)氷高
第45代 聖武天皇 天璽国押開豊桜彦天皇 天璽国押開豊桜彦尊   (諱)首
第46代 孝謙天皇 宝字称徳孝謙皇帝 阿倍内親王  
第47代 淳仁天皇 廃帝     (諱)大炊王
第48代 称徳天皇 高野天皇   阿倍内親王  
第49代 光仁天皇 天宗高紹天皇 天宗高紹天皇   (諱)白壁王
第50代 桓武天皇 今皇帝 日本根子皇統弥照尊   (諱)山部親王
※諱と思われる名も実は字であったのではと考えられます。

 

六、天皇の諱および字についての考察

(1)五項で述べたように、日本書紀では(ロ)仁賢天皇、続日本紀では(ホ)淳仁天皇以外の天皇の諱とされている名が、本当の意味での諱であったかどうかについては疑問があります。
 添付表3に第三十九代~第五十代の天皇の名を一覧にしました。この中で最も若くして即位したのが文武の十五歳で、他は弘文天皇を含めて全て二十歳以上での即位です。礼記曲礼篇に「男子は二十歳で冠を着け字を持ち」「女子は十五歳でかんざしを着け字を持つ」とありますが、字が続日本紀には記載されていません。続日本紀の光仁・桓武記事で、繰り返し諱と記載していますが、諱では誰のことか判りません。そのために字があるわけなのに、なぜ字で表記しないのでしょうか。

(2)これは次のように仮説すると説明が可能です。
 光仁の白壁王、桓武の山部親王というのは、実は諱ではなくて字であった。だから続日本紀の記載がこのような中途半端な記載となった。
 聖武天皇の首も字であった。だから即位中の史書記事に、「首」が大量に出てきても是正しなかった。
 先に記述しましたように、日本書紀では実は諱と字の両方を「不言」としています。これを続日本紀も踏襲した。しかし、そのため国諱が増えすぎたため、その徹底がおろそかになってしまったということです。

 

七、記紀の天皇名は名を大事にしていた時代にふさわしいものと言えるか

(1)前章までに、記紀に書かれている時代、更に記紀が編纂された時代において、諱の風習があったことを検証しました。そしてこの諱の風習は、人の名が非常に重要なものであると考えて大切に扱う人々によって行われていました。そうしますと、記紀に記載された天皇名は、そのように名を大事にする人々が伝えてきた姓・諱・字・敬称・美称と言うことになります。

(2)しかし古田武彦氏は、近畿天皇家の天皇名に、ナンバーワンとは言えない(家来筋の)官名・職名があることを指摘しました。(古田氏および古田史学会員の指摘例を①~④に後述します。)

 その天皇名を伝えてきた人々が、諱の風習を持ち、人の名を非常に重要なものと考える人々であって、近畿天皇家がその時代の統一王朝であったのなら、そのような名をつけるはずがない。
 これは、九州王朝説(魏志倭人伝の行程記事は魏朝の短里で記されており、これを辿ると女王卑弥呼の邪馬壱国は、九州博多湾岸にあった。隋書倭国伝の阿毎の多利思比孤は妻を持ち、阿蘇山有り、決して推古女帝でも無く、聖徳太子でも無い、卑弥呼の邪馬壱国を引き継ぐ九州王朝の天子であった。この九州王朝は白村江の敗戦で力を失い、七〇一年に滅ぶ。)でしか説明がつかないわけです。

 ①四代懿徳天皇「大倭日子鋤友命」、六代孝安天皇「大倭帯日子国押人命」、七代孝霊天皇「大倭根子日子賦斗邇命」、八代孝元天皇「大倭根子日子国玖流命」、九代開化天皇「若倭根子日子大毘毘命」の名の「日子」は、五(イ)で引用したように長官名を表わす言葉です。このことから古田武彦氏は初期天皇家が九州王朝の分家として、「大倭」は市場の監督権を委ねられていた、「若倭」は言わば九州王朝の大和における若頭であったとしました。

 ②西村秀己氏は「神武の行った道」の中で、古事記で河俣毘売と賦登麻和訶比売が師木県主の祖とされていることなどより、初期天皇家は師木県主であったと仮説して、そこから三代安寧天皇「師木津日子玉手見命」の名は、師木県主であることを示しているとしました。

 ③十九代允恭天皇「雄朝津間稚子宿禰尊」の名の、「宿禰」は天武十三年「八色の姓」の第三番目の姓です。天武天皇の名にも第一番目の「真人」があります。つまり、允恭は九州王朝の天子から「宿禰」姓を与えられていたということなります。

 ④景行記に「その他の七七柱の王は全て国々の国造とまた和気と稲置・県主とに分封した」とあり、この和気とは地域長官のようなものと考えられます。その景行天皇自身が「大帯日子淤斯呂和気命」と名に和気を持ち、その後の応神天皇「品陀和気命」、履中天皇「大江之伊耶本和気命」、反正天皇「蝮之水歯別命」と和気または別がつきます。景行・応神・履中・反正は、九州王朝の天子から「和気」に任じられていたということになります.


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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