2017年2月15日

古田史学会報

138号

1,二〇一七年新年のご挨拶
 次世代に伝えたい
 古田先生の言葉
 代表 古賀達也

2,太宰府を囲む「巨大土塁」と
『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城
 正木裕

3,九州王朝の家紋
 (十三弁紋)の調査
 古賀達也

4,諱と字と九州王朝説
 服部静尚

5,「倭京」の多元的考察
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④
 九州王朝の九州平定 --
 怡土平野から周芳の沙麼へ
 事務局長 正木裕

 

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「肥後の翁」と多利思北孤 -- 筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解(会報136号)
金印と志賀海神社の占い 古賀達也(会報136号)

九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (中編) (後編)


九州王朝の家紋(十三弁紋)の調査

京都市 古賀達也

九州王朝の家紋「十三弁の菊」説

 現在の皇室の御紋は「菊(十六八重表菊)」とされています。それでは九州王朝の家紋は何だったのかというのが、本稿のテーマです。もっとも、九州王朝の時代に「家紋」というものがあったのかも、はなはだ疑問ですが、「十三弁の菊」が九州王朝の「家紋」だという「説」があります。
 九州王朝の御子孫で、高良玉垂命の末裔である稲員家では江戸時代に「菊」を家紋としていましたが、「上に差し障りがある」としてやめたと稲員家文書『家訓記得集』に記されています。また、稲員家墓地の墓石の上部の、家紋が彫られていたと思われる箇所が、現在では削られているのを随分昔に見たのですが、おそらくはその部分に「菊の紋」があったのではないでしょうか。
 こうした知見から、九州王朝の末裔が「菊の紋」を家紋としていたことは確かなのですが、それが古代の九州王朝の時代まで遡れるのだろうかと漠然と考えていました。そのようなとき、稲員家の分家筋にあたる松延さん(八女市在住)から次のような話をうかがいました。
 「九州王朝の家紋は十三弁の菊で、筑後国府から出土した軒丸瓦に十三弁のものがある。弁の数は少ない方が偉い。」
 というものです。松延さんが何を根拠にそのように話されたのかはわかりませんが、不思議な「伝承」だなあと聞いていました。
 その後、筑後の浮羽郡に伝わる「天の長者」伝承の現地調査を行ったとき、「天の長者」を現在も祀っている家(後藤家)が偶然見つかり、その家の近くに祀られていた石祀(「御大師様」と呼ばれていた)に彫られていた紋が「十三弁の菊」でした。しかも、均等に十三分割されたものではなく、不均等に強引に十三弁にしたものでした。十二分割は簡単ですが、十三分割は困難なため、意図的に十三弁にしたと考えざるを得ない彫り方だったのです。
 この偶然とは思えないような「十三弁」が筑後国府出土軒丸瓦や「天の長者」伝説の地にあったことから、松延さんの「十三弁の菊」九州王朝家紋説もあながち荒唐無稽とは言いにくいと考えるようになりました。(拙稿「天の長者伝説と狂心の渠」『古代に真実を求めて』四集所収、明石書店刊を参照下さい。)
 まだ学問的仮説と言えるレベルではありませんが、ちょっと気になったまま十数年たっていますので、このまま埋もれさせるにはもったいない「伝承」と思い、今回書いておくことにしました。

 

十二弁、十三弁紋の調査報告

 久留米市在住の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)から十二弁と十三弁紋の調査報告のメールが届きました。作成しにくい十三分割という意匠がなぜ採用されたのか不思議に思っていたのですが、これだけ使用例があると意図的な選択と考えざるを得ません。

 熊本県和水町の江田舟山古墳出土の鉄剣に十二弁の紋が銀象嵌されていることから、九州王朝における十二弁と十三弁紋の関係など興味深い問題に進展しそうです。以下、犬塚さんのご了解を得て転載します。

【メール転載】
古賀様
 久留米市大善寺町の十二弁菊花紋(恵比須女神像の石祠)の調査以降、文献等によって十三弁又は十二弁菊花紋を使用している神社等について調べてみましたので、とりあえずの結果をご報告します。

A 創建が明治以前で、十三弁又は十二弁菊花を神紋等で使用している神社

○中臣印達神社 兵庫県たつの市揖保町中臣
 宝亀元年六月十五日の創祀と伝えられ、延喜式の名神大社に列格する。十三弁菊花を神紋として使用。
 肥さんの夢ブログで「7度西偏」の寺社の一つに挙げられていました。

○氷川神社 東京都練馬区石神井台
 応永年間、領主豊島氏が大宮の武蔵一の宮氷川神社分霊を勧請したのが創祀と伝える。十三弁菊花を神紋として使用。

○兎足神社 愛知県豊川市小坂井町
 社伝によると、当初、平井の柏木浜に祀られていたが、天武天皇白鳳十五年四月十一日、現在地へ遷座した。神紋は丸に兎たが、軒丸瓦に十三弁と十二弁の菊花が使用されている。

○霧島岑神社 宮崎県小林市細野
 続日本紀に、仁明天皇の承和四年日向国諸県郡霧島神と見える神社。明治六年に現在の場所に遷され、翌年夷守神社と合祀、現在の霧島岑神社となっている。十二弁菊花を神紋として使用。

○六所神社 福岡県筑後市羽犬塚
 承平年中、板東寺より勧請。大棟に十二弁の菊花紋が使用されている。

○亀山八幡神社 長崎県佐世保市八幡町
 神社に伝わる由緒によれば、天武天皇白鳳四年に神託により宇佐神宮から分霊を迎えたのが始まりという。神紋は三巴であるが、唐破風の飾りの部分に十二弁菊花の中に小さな十二弁菊花という紋が使用されている。

○八幡宮(箕輪) 静岡県富士宮市大岩
 創建年等不詳。十二弁の菊花紋を神紋として使用。

○放生津八幡宮 富山県射水市八幡町
 創始は天平十八年(七四六年)と伝え、越中守大伴家持が宇佐神宮から勧請したと伝える。神紋は十六弁菊花と桐であるが、境内の提灯に十二弁菊花紋を使用。

○宇佐八幡宮 大分県宇佐市南宇佐
 社伝等によれば、欽明天皇三二年創立。神紋は三巴であるが、御朱印帳に十二弁菊花紋を使用。

 

B 後陽成天皇と関わりのある寺院・城

○三宝院 京都市 伏見区醍醐
 永久三年(一一一五年)、左大臣 源俊房の子で醍醐寺十四代座主勝覚が灌頂院として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。唐門に後陽成天皇が秀吉に下賜したと伝えられる桐と十二弁菊花の紋が使用れている。

○薬王寺 山梨県西八代郡市川三郷町 
 薬王寺は天平十八年(七四六)聖武天皇の詔勅により、行基が開き観全僧都の開山になる名刹である。寺の客殿の上段の間には、後陽成天皇の第八皇子で八之宮良純親王御座所の一部が保存されている。御座の間は方一間二畳敷で、天井には直径一mの十二弁の菊花紋がかたどられている。(町のホームページでは十三弁とされているが、メールで照会した結果十二弁が正しいとの回答を得た。)

○松本城 長野県松本市
 秀吉は後陽成天皇から天皇家の紋である「五七の桐紋」と「十二弁菊紋」を下賜され、それを、自分の家臣にさらに下賜した。天正十八年入城した石川氏は秀吉から上記二つの紋を下賜され、使用したと推定されている。渡櫓の屋根瓦に十二弁菊花の紋が使用されている。

 

C 明治以降十二弁菊花紋を使用している神社

○荏原神社 東京都品川区北品川
 和銅二年(七〇九年)九月九日、大和国丹生川上神社より高お神(水神)の勧請を受けて南品川に創建。十二弁菊花の神紋は明治元年から使用している。

○大国神社 北海道深川市一己町
 明治三十年開村記念標を建立し神事を行うを創祀としている。十三弁菊花を神紋として使用。

○沼田神社 北海道雨竜郡沼田町
 明治二七年、伊勢神宮の御分霊を奉斎、翌年小社を建立。十二弁菊花を神紋として使用。

 以上、A、B、Cの三グループのうち、BグループとCグループについては、九州王朝との関連性は考えられないかと思いますが、Aグループについては関連性についての検討が必要になるかと思われます。
 調べるに当たっては、丹羽基二著「神紋総覧」講談社学術文庫、全国神社名鑑刊行会史学センター編「全国神社名鑑」上下、神社研究サイト「玄松子の記憶」を参考にさせていただきました。なお、それぞれの使用状況については、ネットで検索し画像を確認しました(筑後市の六所神社と佐世保市の亀山八幡神社については犬塚が現地で確認)。
 筑後国府跡の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦については、別にお知らせする予定です。
     久留米市 犬塚幹夫

十二弁、十三弁蓮華紋瓦の調査

 犬塚幹夫さんより、新たに十二弁、十三弁蓮華紋「軒丸瓦」の調査報告メールが届きました。
 筑後国府跡から出土した単弁十三弁蓮華紋軒丸瓦は筑後国府式と呼ばれており、筑後を中心に出土分布しているようです。年代的には八世紀以後の遺跡からの出土とされており、この編年が正しければ九州王朝滅亡後となりますが、依然としてなぜ筑後や九州に多いのかという疑問は残ります。十三弁が九州王朝の伝統(家紋)だったという可能性もありますので、引き続き研究したいと思います。
 それにしても現地の研究者による調査報告はありがたいことです。以下、犬塚さんのメールを転載させていただきます。

【メール転載】
古賀 様
 筑後国府跡から出土した十三弁の軒丸瓦についてこれまで洛中洛外日記(第二四話、第九九二話)で九州王朝との関連に言及されていたところですが、この軒丸瓦について、小澤太郎「筑後国府出土軒瓦の様相」(「福岡考古」第十九号 二〇〇一年三月)という論文がありました。
 以下、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦に関する部分について要点を紹介します。

 軒丸瓦はⅡ期国庁領域を中心として、6形式の軒丸瓦が出土・採集されている。Ⅰ類が単弁十三弁蓮華文軒丸瓦であり、Ⅱ類が陰刻され簡略化された瓦当文様を有する単弁十三弁蓮華文軒丸瓦である。Ⅱ類は筑後国府独自の軒瓦で、それ以外の出土はない。(Ⅲ類~Ⅵ類は省略)
 軒丸瓦のうちⅠ類について、次の遺跡で同笵瓦が出土している。
筑後国
○筑後国分寺跡(久留米市)
○堂ヶ平遺跡(広川町)
筑前国
○太宰府史跡(太宰府市)
○鴻臚館跡(福岡市)
○宝満山遺跡(太宰府市)
○浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)

 筑後国府から出土したⅠ類の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦はセット関係にあり、これを「筑後国府Ⅰ式」とする。筑後国府Ⅰ式は九世紀前半に造瓦・使用され、十世紀前半に廃棄された。
 筑後国Ⅰ式の分布状況は筑後・筑前二カ国で、両者は同笵ではあるが、異なる工人及び工房で製作された可能性が高い。
 小澤論文で取り上げられたこれらの単弁十三弁蓮華文軒丸瓦以外に、九州歴史資料館編「九州古瓦図録」(柏書房 一九八一年)には次のような遺跡から出土した単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が掲載されています。
 上記以外の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦出土遺跡
○筑前国分寺跡(福岡県太宰府市)
○菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
○豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)

 また同書に掲載されている単弁十二弁蓮華文軒丸瓦出土遺跡を挙げると次のとおりです。
○浜口廃寺(福岡県遠賀郡芦屋町)
○川原谷瓦窯跡(福岡県八女郡広川町)
○弥勒寺跡(大分県宇佐市)
○肥前国分寺跡(佐賀県佐賀市)
○薩摩国分寺跡(鹿児島県薩摩川内市)

 以上、とりあえずの報告とします。
 なお、筑後国府跡の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦については、出土時の写真が「筑後国府通信第九号」(久留米市教育委員会 平成二四年三月)に掲載されていましたので別添ファイルでお送りします。
      久留米市 犬塚幹夫

十三弁花紋と五十猛命と九州王朝

 犬塚さんの調査によると、わたしが九州王朝の家紋ではないかと推定している十三弁の花紋ですが、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているようです。

筑後国分寺跡(久留米市)
堂ヶ平遺跡(広川町)
太宰府史跡(太宰府市)
鴻臚館跡(福岡市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)

 他方、十三弁の菊家紋を紋章としている神社として兵庫県たつの市の中臣印達神社が知られています。その御祭神を調べてみますとなんと五十猛命でした。わたしにはこの五十猛命に見覚えがありましたので、『太宰管内志』で確認したところ、筑紫神社(福岡県筑紫野市)と荒穂神社(佐賀県基山町)の御祭神が五十猛命(筑紫の神)でした。
 両神社は比較的近傍(基山の東麓と西麓に位置します)にある神社で、御祭神が共通していることから、五十猛命は筑紫と肥の国にまたがる古い神様(天孫降臨以前の権力者)と思われます。
 偶然かもしれませんが、筑紫と五十猛命と十三弁紋は「九州王朝の十三弁紋」という仮説を結節点として有機的な繋がりを見せそうです。調査はまだ始まったばかりですので、あまり断定せずに研究を進めたいと思います。これからも九州現地の皆さんのご協力をいただければ幸いです。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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