2016年10月11日

古田史学会報

136号

1,古代の都城
宮域に官僚約八千人
 服部静尚

2,「肥後の翁」と多利思北孤
 筑紫舞「翁」
と『隋書』の新理解
 古賀達也

3,「シナノ」古代と多元史観
 吉村八洲男

4,九州王朝説に
刺さった三本の矢(中編)
京都市 古賀達也

5,南海道の付け替え
 西村秀己

6,「壹」から始める古田史学Ⅶ 倭国通史私案②
 九州王朝(銅矛国家群)と
 銅鐸国家群の抗争
 正木裕

7,書評 張莉著
『こわくてゆかいな漢字』
 出野正

 

古田史学会報一覧

「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来 正木裕 (会報130号)

鞠智城創建年代の再検討 -- 六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説(会報135号)
九州王朝の家紋(十三弁紋)の調査 古賀達也(会報138号)


「肥後の翁」と多利思北孤

筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解

京都市 古賀達也

二人の「翁」と秦王国の謎

 古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)に、筑紫舞の伝承者、西山村光寿斉さんとの出会いと筑紫舞について紹介されています。古代九州王朝の宮廷舞楽である筑紫舞が今日まで伝承されていたという驚愕すべき内容です。その筑紫舞を代表する舞とされる「翁」について詳しく紹介されているのですが、その内容についてずっと気になっていた問題がありました。それは何故「加賀の翁」と「肥後の翁」、そして「都(筑紫)の翁」が原初形なのかということでした。
 そこで本稿では、『隋書』「俀国伝」に見える「秦王国」の新理解により、この「翁」の問題に迫り、多利思北孤が「秦王国」に居たこと、「兄弟統治」を行っていた倭国の天子(兄)を「肥後の翁」とする仮説を提起します。

筑紫舞「加賀の翁」考

 筑紫舞の「翁」には三人立・五人立・七人立・十三人立があり、十三人立は伝承されていません。三人立は都の翁・肥後の翁・加賀の翁の三人で、古田先生はこの三人立が最も成立が古く、弥生時代の倭国の勢力範囲に対応しているとされました。ちなみに都の翁とは筑紫の翁のことですが、なぜ「越の国」を代表する地域が「加賀」なのかが今一つわかりませんでした。

 ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から教えていただいた、次の考古学的事実を知り、古代における加賀の重要性を示しているのではないかと思いました。
 庄内式土器研究会の米田敏幸さんらの研究によると、布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする定説は誤りで、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかったというのです。しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現するとのこと。日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきたのです。
 この考古学的研究成果を知ったとき、わたしは筑紫舞の三人立に「加賀の翁」が登場することと関係があるのではないかと考えたのです。古田先生の見解でもこの三人立は弥生時代にまで遡る淵源を持つとされており、この加賀南部で発生し各地に伝播した布留式土器の時代に近く、偶然とは思えない対応なのです。絶対に正しいとまでは言いませんが、筑紫舞に「加賀の翁」が登場する理由を説明できる有力説であり、少なくともわたしの疑問に応えてくれる考古学的事実です。

筑紫舞「肥後の翁」考

 筑紫舞の代表作「翁」には「都の翁」が必ず登場するのですが、西山村光寿斉さんの説明では、舞の中心人物は「肥後の翁」とのこと。筑紫舞でありながら、「都の翁」(九州王朝の都、太宰府か)が「主役」ではなく、「肥後の翁」が中心であることも不思議なことでした。
 実は九州王朝研究において、肥後は重要な地域であるにもかからず、筑前・筑後地方に比べると研究が進んでいませんでした。そうした事情もあって、この筑紫舞における「肥後の翁」の立ち位置は研究課題として残されてきたのです。ところが幸いにも、昨年「納音付き九州年号」史料の発見により、玉名郡和水町を訪れる機会があり、肥後地方の地勢や歴史背景などに触れることができ、わたし自身もより深く考えることとなりました。その結果、様々な作業仮説(思いつき)に恵まれることとなりました。そこで、この「肥後の翁」について考えてみました。
 古代史上、「肥後」関連記事が中国史書に出現したのは管見では『隋書』の「阿蘇山」記事です。筑紫に至った隋使たちは何故か阿蘇山の噴火を見に行っています(注1)。隋使は何のために肥後まで行き、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。観光が目的とは考えにくいので、この疑問が解けずにいました。そこで考えたのですが、隋使は筑紫舞に登場する「肥後の翁」に接見するために肥後へ行ったのではないでしょうか。
 それでは肥後にそのような人物がいた痕跡あるでしょうか。わたしの知るところでは次のような例があります。ひとつは肥後地方に多い「天子宮」です。当地に「天子」として祀られるような人物がいた痕跡ではないでしょうか。二つは鞠智城内の地名「長者原」です。筑後地方(うきは市)には「天の長者」伝説というものがあり、その「天の長者」は九州王朝の天子のことではないかと、わたしは考えていますが、恐らく九州王朝が造営した鞠智城内にある「長者原」という地名も、同様に九州王朝の天子、あるいはその王族に関係するのではないでしょうか。
 そうであれば、筑紫舞の「翁」において、中心人物とされる「肥後の翁」を九州王朝の天子、あるいは九州王朝の有力者とする理解は穏当なものと思われるのです。

 (注1)古田先生は『隋書』の阿蘇山記事を「噴火」のことではなく、神籠石山城内での「火気禁止」記事とする新説を発表されています。本稿では従来説に従いました。

隋使行程記事と西海道

 隋使はどのような行程で「肥後の翁」に接見し、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。この問題を考えるために『隋書』「俀国伝」を見直しました。そこには、隋使の倭国への行程記事として次のように記されています。

1.百済を渡り竹島に至り、南にタンラ国を望み、
2.都斯麻国(対馬)を経、はるかに大海の中に在り。
3.又東して一支国(壱岐)に至る。
4.又竹斯国(筑紫)に至る。
5.又東して秦王国に至る。
6.又十余国を経て海岸に達す。

 ()内はわたしが付したものですが、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、筑紫(博多湾岸から太宰府付近)までははっきりしているのですが、秦王国や「十余国を経て海岸に達す」については論者によって見解が分かれますし、この記事からは断定しにくいところです。
 この行程記事では方角を「東」と記されていますが、実際には「東南」方向ですから、秦王国の位置は、二日市市・小郡市あたりから朝倉街道(西海道)を東南方向に向かい、杷木神籠石付近で筑後川を渡河し、その先の筑後地方(うきは市・久留米市)ではないかと、わたしは考えています。もちろん太宰府条坊都市の成立(倭京元年、六一八年)以前ですから、九州王朝の都は筑後にあった時期です。
 問題は「十余国を経て海岸に達す」です。方角が記されていませんから、この記事だけでは判断できません。しかし、隋使が阿蘇山の噴火を見ていますから、肥後方面に向かったと考えるのが、史料事実にそった理解と思われます。
 従来、わたしは「十余国を経て海岸に達す」を久留米市から柳川市・大牟田市方面に向かい、有明海に達したと考えてきましたが、この行程も古代の官道「西海道」を隋使は進んだと考えたほうが良いと思うようになりました。それは次の理由からです。

(1)筑紫(福岡市)から小郡、そして東へ朝倉街道(西海道)を進み、筑後川を渡り、久留米に到着してたとすれば、これは古代西海道のコースである。

(2)十余国を経て海岸に到着していることから、久留米市から大牟田市までの間にしては国の数が多すぎるように思われる。

(3)これが内陸部を通る西海道に沿って十余国であれば、久留米市から肥後に向かい、菊池川下流か熊本市付近の海岸に達したとするほうが、国の数が妥当のように思われる。

 以上のような理解から、わたしは筑後(秦王国か)に着いた隋使は古代官道の西海道を通って、鞠智城や江田舟山古墳方面に行ったのではないかと考えたのです。こうした理解から、この地域(菊池市・玉名郡・熊本市など)で隋使は「肥後の翁」と接見し、阿蘇山の噴火も見たのではないでしょうか。更にこのルートを支持する『隋書』の記事として、「鵜飼」があります。筑後川や矢部川は鵜飼が盛んな所でした(注2)。

(注2)古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代」『新。古代学』第5集(新泉社、2001年)に九州王朝の鵜飼についての史料を紹介しています。

「秦王国」の多利思北孤

 「肥後の翁」の考察も、いよいよ核心に入ります。『隋書』「俀国伝」に記された国名で、その所在地について古田学派内でも意見が分かれており、具体的な有力説が出されていない「秦王国」についての考察です。
 秦王国は竹斯国の東と記されていますから、単純に考えれば福岡県の東部、あるいは更に東の瀬戸内海沿岸にあったとする理解も不当ではありません。しかし、その後に「更に十余国進んで海岸に至った」とありますから、秦王国は内陸部にあったと考えなければなりません。そうすると豊前や瀬戸内海沿岸に秦王国があったとする説は成立しません。たとえば筑豊地方(飯塚市・田川市など)であればこの点はクリアできますが、ただ筑豊からは阿蘇山の噴火は見えません。
 このように、秦王国を竹斯国(博多湾岸・太宰府付近)の真東とする理解よりも、古代官道の西海道を東南に進み、杷木付近で筑後川を渡河した先にある筑後地方説が相対的に有力な説と考えられるのです。「九州王朝の筑後遷宮」という説をわたしは発表していますが(注3)、今の久留米市・うきは市に九州王朝が遷宮していた、「倭の五王」時代から条坊都市太宰府造営(倭京元年、六一八年)までの期間に、『隋書』に記された多利思北孤の時代(六〇〇年頃)は入っていますから、そのとき都は筑後にあり、秦王国と称されていたことになるのです。
 そして真の問題はここから発生します。古田先生はこの「秦王」について、『隋書』には「隋の天子の弟」のこととして表れていると紹介されています。もしこの用例が倭国でも同様(模倣)であれば、多利思北孤は「日出ずる処の天子」であると同時に「天子の弟」でもあることになってしまいます。この矛盾した「天子」概念が九州王朝ではあり得ることが、『隋書』「俀国伝」に次のように記されています。

 「(開皇二〇年、六〇〇年)使者言う。俀王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴くに跏趺して坐す。日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

 このように九州王朝では国王兄弟で夜と昼に分けて統治していたとあるのです。従って、「日出ずる」天子・多利思北孤は昼間の政治を担当していた「弟」と考えられ、このことはかつて古田先生も示唆されておられたこともありました。従って、天子であり弟でもある多利思北孤が秦王国(天子の弟の国)に居たとする理解は決して荒唐無稽なものではありません。なお、古田先生によれば、九州年号「兄弟」(五五八年)も、こうした倭国における兄弟統治を背景に成立した年号とされています。

(注3)古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 -高良玉垂命考-」『新・古代学』第4集所収(新泉社、1999年)

鞠智城の「肥後の翁」

 「肥後の翁」の最後の考察です。秦王国にいた昼を司る天子(弟)が多利思北孤とすれば、夜を司る天子(兄)はどこにいたのでしょうか。ここからは全くの推論ですが、筑紫舞の「翁」において、「都の翁」よりも中心人物(主役)とされる「肥後の翁」こそ、天子(兄)だったのではないでしょうか。そうであれば隋使がわざわざ阿蘇山の噴火が見える肥後まで行った理由がわかります。天子(兄・肥後の翁)に接見するためだったのです。
 それではなぜ隋使は肥後まで行き、天子(兄)に会う必要があったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、一つだけ考えられる理由と史料根拠があります。『隋書』の次の記事です。開皇二〇年(六〇〇年)俀国の使者が九州王朝の兄弟統治を説明したところ、隋の天子は次のように言って、その制度をとがめています。

 「高祖曰く『此れ、はなはだ義理なし』と。是に於いて訓令して之を改めしむ。」

 兄弟統治などには「義理」がないので、止めさせたというのです。この高祖の訓令に従って、大業四年(六〇八年)に九州王朝を訪れた隋使、裴清は秦王国で多利思北孤に会った後、更に十余国を経て阿蘇山が見える地まで行ったのです。そしてその地で天子(兄)に接見し、兄弟統治をやめろという高祖の訓令を伝えたのではないでしょうか。
 隋使は肥後のどこで天子(兄)に接見したのかは不明ですが、あえてその候補地として「長者原」という地名を持つ城塞都市・鞠智城をあげたいと思います。あの大規模な大野城をはじめ各地の神籠石山城に、その域内に「長者原」という地名が残っているのは、管見では鞠智城だけです。また、鞠智城には九州王朝の他の山城には見られない八角堂の遺跡が発見されています。八角堂といえば九州王朝の副都前期難波宮にもあることが注目されます。両者の一致は、鞠智城が他の山城とは異なり、天子(兄)がいたことの傍証になるかもしれません。また、肥後に濃密に分布する天子宮の存在理由も、「肥後の翁」である天子(兄)に淵源したと考えれば、うまく説明できそうです。
 以上のように、筑紫舞の「翁」で主役として活躍する「肥後の翁」を九州王朝の兄弟統治における天子(兄)とする考察を続けてきました。細い一筋の論理性と推論に依拠した仮説ですので、絶対に正しいとは言いませんが、少なくともこの仮説により今まで疑問とされてきた様々なことが説明できるようになりました。他に有力な仮説がなければ、相対的に有力なものとして、今後検証していただければと思います。

「肥後の翁」考への批判2件

 本稿で展開した「肥後の翁」考に対して、厳しいご批判2件をいただきましたので、紹介します。
 正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)は「肥後の翁」考に対して次の理由から間違っているのではないかとされました。すなわち、「肥後の翁」が天子(兄)であり、隋使が肥後まで行って接見したのなら、『隋書』にそのことが書かれるはずである。しかし、全く書かれていない。従って、仮に隋使が肥後で九州王朝の有力者に会ったとしても、それは天子(兄)ではない。『隋書』の文脈からも多利思北孤こそ天子(兄)であり、「肥後の翁」はむしろ「弟」と考えるべきとされました。
 その上で、多利思北孤は大善寺玉垂宮にいたと思われ、当地の地名に「夜明」があり、これこそ「夜明けまで政務を執っていた夜の天子、多利思北孤(兄)」に相応しいのではないかとのこと。更に「日出ずる処」というのも、それまで「夜」だったといことであり、これも「夜の天子(兄)」に対応した呼称との考えも示されました。
 高松市の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)からも、次の理由から「肥後の翁」考の根拠が不適切との、これまた厳しい批判がなされました。その不適切な根拠とは、「秦王」が「天子の弟」という記事は『隋書』にはなく、正しくは天子(高祖)の息子煬俊が秦王であり、兄の煬帝が天子に即位する前に亡くなっているとのこと。煬俊の子供も煬帝が天子に即位してから秦王に任ぜられており、いずれも「天子の弟」のときではないとのことでした。ちなみに、このことは古田先生が『古代は輝いていた3』に記されていると指摘されました。
 たしかに秦王国を「天子の弟の国」と理解し、そこに多利思北孤がいたことを前提に「肥後の翁」天子(兄)という「思いつき」を展開したのですから、その根拠が間違っていれば、「思いつき」も間違っている可能性大です。
 このように、厳しいご批判2件の登場により、わたしの「思いつき」も見直しが必要かもしれません。やはり持つべきものは、率直な学問的批判をしてくれる友人です。

 ※本稿は「古田史学の会」ホームページに掲載された「洛中洛外日記」を加筆編集したものです。(古賀)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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