2023年12月13日

古田史学会報

179号

1,「朱鳥改元」と
「蛇と犬が倶に死ぬ」記事
 正木裕

2,柿本人麻呂と第一次大津宮
 日野智貴

3,柿本人麻呂系図の考察
 古賀達也

4,裴世清は十余国を陸行した
 
岡下英男

5,古田武彦古代史セミナー
2023に初参加の記
 倉沢良典

6,「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か
 野田利郎

7,「壹」から始める古田史学四十五
 倭奴国と邪馬壹国・奴国②
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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 「二倍年暦」と「皇暦」から考える 「神武と欠史八代」(会報178号)

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「朱鳥改元」と「蛇と犬が倶に死ぬ」

記事の意味するもの

川西市 正木裕

1、「朱鳥」改元は倭国(九州王朝)の事績

 『日本書紀』では、朱鳥元年(六八六)九月九日に天武が崩御し、皇后(持統)が「称制即位」したと記す。
◆(持統称制前紀)朱鳥元年(六八六)九月丙午(九日)に、天渟中原瀛眞人天皇崩りましぬ、皇后臨朝称制す。
 『書紀』の朱鳥は一年限りで前後に年号は無い。また、改元は「天武崩御前」の六八六年七月二十日で、崩御後も改元されていない。岩波『書紀』の注釈では「天武の病気平癒を願ってのこと」とするが、「病気平癒祈願の改元」など例は無い。しかも結局平癒せず崩御し、かつ、天武崩御による改元は記されない。天皇の崩御で改元されない例はない。
 一方、多数の九州年号資料群の中では、五一七年の「継体」~六九五年の「大化」まで、三十一の年号が継続して記される『二中歴』が最も整った形式であり、信頼性が高いと考えられる。その『二中歴』で「九州年号朱鳥」は、聖武天皇の詔勅に記される「朱雀(六八四~六八五)」と連続し、六八六年~六九四年まで九年間続き、「大化」に改元される。
 「朱鳥年号」を持つ九州年号資料は、『海東諸国記』『如是院年代記』『扶桑略記』『万葉集』など多く存在するが、『鬼室集斯墓碑』に刻まれた「朱鳥三年戊子(六八八)十一月八日」から、六八六年を元年とする『二中歴』の朱鳥が本来の九州年号だと考えられる(注1)。
 なお、「朱鳥」が「九州年号」であれば、元号に「白雉・白鳳」と「白色の鳥」が二度採用され、その後「朱雀・朱鳥」と「赤色の鳥」が二度採用される「規則性を持つ命名」となるし、六八六年正月十四日に難波宮が焼失しているから、「難波宮完成時(六五二)に白雉改元」し、「難波宮焼失で朱鳥改元」したことになる(注2)。

2、不可解な朱鳥元年の「蛇と犬の死」記事

 一方、『書紀』朱鳥元年(持統称制前紀)には、「是歳、蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。」という不可解な記事がある。この記事は「本来相容れぬ者同士が、なれ合い一体となってきたが、この年に共に死んだ」という意味の、『書紀』にしばしば記される「わざうた」(政治的な風刺歌)と考えられる。(注3)。
 「この年に死んだ一人」が天武であることは疑えないから、もう一人の「天武がなれあった」と風刺される人物がいるはずだ。それは「筑紫君薩夜麻」で、彼は白村江の敗戦(六六三)で唐の捕虜となり、「羈縻政策」で都督倭王に任ぜられて「筑紫都督府」に帰任する。その後、壬申の乱(六七二)で 「唐」とともに大海人(天武)を支援し、近江朝を倒して倭国(九州王朝)の天子として復権する。その後は「都督倭王薩夜麻」と、その臣下筆頭の「真人」天皇天武による統治が続いたと考えられよう(注4)。
 そうであれば、朱鳥元年にヤマトの天武と倭国(九州王朝)の薩夜麻が共に崩御したことになる。

 これを証するのが、朱鳥元年(六八六)五月二十四日・六月十六日・八月九日の「三度の天武の病」記事だ。
【病1】五月癸亥(二十四日)天皇、「始めて體不安れ」たまふ。因りて川原寺にして薬師経を說かしむ。宮中に安居す。戊辰(二十九日)金智祥等を筑紫に饗へ禄賜ひ、筑紫より退る。是月、左右大舍人等を遣し諸寺の堂塔を掃き淸む。天下に大赦し囚獄已に空し。

【病2】六月戊寅(一〇日)、天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。その日に尾張国熱田社に送り置く。(中略)甲申(十六日)、伊勢王及び官人等を飛鳥寺に遣し、衆の僧に勅して曰く、「近ごろ朕身『不和む』、願ふ、三寶の威に頼りて、身體安和なること得むとす。是を以て、僧正・僧都及び衆僧、誓ひ願ふべし」とのたまふ。則ち珍寶を三寶に奉る。是の日に、三綱律師及び四寺の和上・知事、幷て現師位に有る僧等に、御衣・御被各一具を施す。

 以下大きな法要・神事や減税・大赦などが次々と行われる。
①六月丁亥(十九日)に、勅して、百官の人等を川原寺に遣して燃燈供養す。仍、大きに斎して悔過(*三宝に対して自ら犯した罪や過ちを悔い改めること)す。
②七月庚子(二日)是日。僧正・僧都等、宮中に赴き悔過す。辛丑(三日)。諸国に詔して大解除(*大祓・万民の罪穢を祓う)す。壬寅(四日)。天下の調を半減し、仍、悉に徭役を免除す。癸卯(五日)。幣を紀伊国に居す国懸神・飛鳥の四社・住吉大神に奉る。丙午(八日)一百の僧に請せて金光明経を宮中で読ましむ。
③丁巳(十九日)に、詔して曰はく、「天下の百姓の貧乏しきに由りて、稲と資材とを貸へし者は、乙酉の年(天武十四年、六八五)の十二月三十日より以前は、公私を問はず、皆免原せ」とのたまふ(注5)。

 そして戊午(二〇日)に朱鳥に改元する。
◆朱鳥元年(六八六)七月戊午(二〇日)に、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。《朱鳥、此をば阿訶美苔利といふ。》仍りて宮を名づけ飛鳥浄御原宮と曰ふ。

3、盗まれた薩夜麻の重病・平癒祈願と崩御

 「朱鳥改元」を倭国(九州王朝)の事績と考えるとき、五月から七月という「改元直前の大規模な法要や税減免・大赦」は、九月に崩御する天武ではなく、薩夜麻が重病となり、国を挙げて平癒祈願するが崩御したことを示すことになろう。
 それを暗示するように、「甲申(十六日)、伊勢王及び官人等を飛鳥寺に遣し」と「伊勢王」の名がみえる。『書紀』で「伊勢王」は、その名が白雉元年(六五〇)~持統二年(六八八)の「三十九年間に十回」記され、白鳳元年(六六一)に薨去するも(*六六八年の薨去は六六一年と月が同じで重複記事と考えられる)、その後、諸国の境界を定め(六八三)、高市皇子と並び恩賞を得(六八六)、天武の葬儀で諸王を代表し誄し(六八六)、天武の葬送を執行する(六八七)など、国政に於いて重要な行為を行っており、『書紀』編者は九州王朝の天子の事績を剽窃する際、その「呼称」としていていると考えられる(注6)。

 従って、ここで「伊勢王」とされるのは薩夜麻で、五月に発症した病が六月に重篤化し、その平癒の為に「伊勢王=薩夜麻」が、宮人を飛鳥寺に派遣し僧侶に病平癒を願わせた記事を、「主語・述語を逆転」させ天武が伊勢王を派遣したように見せた、つまり「病に堕ちたのは天武」だと潤色したのではないか。
 そして、六月~七月初頭の大規模な神事・法要記事が病の悪化と崩御を示すものなら、朱鳥改元直後の八月一日の「百の菩薩像」を据えての観世音経読誦記事は、天武の平癒祈願ではなく、「菩薩」の「薩」をその名に持つ「薩夜麻」の葬儀に相応しいと考えられる。
◆八月己巳朔(一日)に、天皇の為に、八十の僧を度せしむ。庚午(二日)に、僧尼幷て一百を度せしむ。、因りて、百の菩薩を宮中に坐ゑて観世音経二百卷を読ましむ。

 

4、朱鳥元年の「薩夜麻と天武」の病と崩御

 そして、「三度目」の「病記事」が、八月九日に見える。
【病3】八月丁丑(九日)に、天皇、「体不豫」したまふが為に、神祗に祈る。辛巳(十三日)に、秦忌寸石勝を遣して、土左大神に幣奉る。是日、皇太子・大津皇子・高市皇子に、各四百戸加封す。
 この神事は皇太子(草壁)・大津・高市の名があり、天武の平癒祈願と考えられよう。ただしその神事は、「神祗に祈る・土左大神に幣奉る」という簡易さで、前二度の病平癒祈願とは大違いだ。しかも六月~七月にあれほど集中して挙行された神事・法要が、これ以降の八月中には見えない。従って「三度目の病記事」が本来の「天武の病」記事なのではないか。
◆九月辛丑(四日)、親王以下諸臣にいたるまでに悉く河原寺に集ひて、爲天皇の病のために誓ひ願ふと云々。丙午(九日)、天皇、病遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。戊申(十一日)に、始めて發哭り、則ち殯宮を南庭に起つ。辛酉(二十四日)、南庭に殯す。卽ち 發哀る。是の時に當り、大津皇子、皇太子に謀反す。
 結局
①朱鳥元年の「是歳、蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ」は、白鳳・朱雀期の都督倭王薩夜麻と、壬申の乱で、その力を借りてヤマトの天皇に即位し、臣下№1として東国を統治してきた天武(渟中原瀛真人天皇)が共に崩御したことを風刺したもの。
②五月~七月の病記事(始體不安・近頃朕身不和)と頻発する法要は、天武でなく薩夜麻に関する記事で、薩夜麻はこの病で崩御し、新天子(倭王)が即位した。
③天武の病記事は八月九日の三度目の病記事(体不豫)からで、簡素な神事は、倭国(九州王朝)の薩夜麻と、臣下の真人天武の格付けの差を示す。
④『書紀』はこれを隠し、全てを天武の病平癒の神事とするため、薩夜麻を伊勢王に変え、天武の臣下に潤色したと考えられよう。
 「朱鳥」は、正月の難波宮焼失による倭国(九州王朝)の改元と考えられている。ただ、「朱鳥改元」は、元日に遡る
 「立年改元」でも、翌年の元日からの「踰年改元」でも、翌月の一日からの「踰月改元」でもない、「七月二〇日」という「即日(或いは翌日)改元」となっている。これは「七月二〇日に改元の吉書となる事実が存在した」ことを覗わせるものだ。「七月二〇日」という改元日付は、薩夜麻の崩御」を受けた「新天子の即位」による「称元」でもあったことを示していよう(注7)。

5、朱鳥元年以降、我が国は本格的な王朝交代の時代へ入る

 こうして朱鳥元年(六八六)に、唐の高宗から都督倭王に任命されていた薩夜麻と、臣下筆頭の「真人天皇天武」の時代が終り、倭国(九州王朝)の新天子とヤマトの持統の時代に入る。唐では高宗が六八三年に崩御、女帝武則天の時代となる。武則天は次代の皇帝を次々と廃位し、六九〇年に自ら即位、皇帝の姓を「李」から「武」に変え国号を「周」に改める。
 奇しくもその六九〇年に持統は天皇に即位、我が国は『旧唐書』に記す「倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)へ」の王朝交代の時代に遷っていく。その大きなターニングポイントが朱鳥元年(六八六)だった。

(注)

(注1)九州年号「朱鳥」に関しては、古賀達也「朱鳥改元の史料批判」(会誌『古代に真実を求めて』四集。二〇〇〇年、『九州年号の研究』ミネルヴァ書房二〇一二年)に詳しいので略す。

(注2)◆朱鳥元年(六八六)正月乙卯(十四日)の酉の時に、難波の大藏省に失火、宮室悉く焚けぬ。或曰はく、「阿斗連藥家の失火、引りて宮室に及ぶ」といふ。唯し、兵庫職のみは焚けず。
 なお、「大蔵省」など「八省」は、『書紀』では六四九年に設置されたと記す。『書紀』の建前では、天智・天武時代の全国統治の宮は近江か飛鳥浄御原宮とするが、この記事から、難波宮が全国統治の宮だったことが分かる。
 また、『書紀』白雉元年は六五〇年だが、「元壬子年(六五二)木簡」から、白雉元年は『二中歴』が正しく、難波宮完成の六五二年であることが分かっている。

(注3)例えば、『書紀』天智十年(六七一)十二月癸亥朔乙丑(三日)に、「天皇、近江宮に崩りましぬ。癸酉(十一日)に、新宮に殯す。時に、童謠して曰く、
み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ(他二謡)。」
 などがある。これは吉野に逃れた大海人が優勢で、近江の大友は苦しい立場にあることを暗喩すると考えられる。

(注4)『書紀』で「筑紫君薩夜麻」は白村江の敗戦で唐の捕虜となったと記されており、『旧唐書』に記す「捕虜となった倭国酋長」は薩夜麻を指すと考えられる。そして、捕虜となった東夷の王らは、「羈縻政策」で唐の都督として帰国し、その国を統治させられている。
 そこから、薩夜麻も都督倭王として、唐の郭務悰や軍と「筑紫都督府(六六七年十一月記事に見える)」に帰国したと考えられる。そして、天智崩御後の六七二年におきた「壬申の乱」では大海人を支援し、大友の近江朝を倒し倭国(九州王朝)の王として復権する。
 その後、「筑紫都督府(『書紀』では大宰府)」と「難波宮」で倭国を統治するが、六七〇年代後半の唐の撤退と筑紫大地震で勢力が衰え、実力はヤマトの天武が上回っていく。ただ、九州年号は白鳳(六六一~六八三)・朱雀(六八四~六八五)・朱鳥(六八六~六九四)・大化(六九五~七〇〇)と続き、「評制」も続く。その間は、依然薩夜麻の倭国(九州王朝)が我が国の主権者だったことになる。
 このことは拙稿「『壬申の乱』の本質と『二つの東国』」(会誌二十六集『九州王朝の興亡』二〇二三年)に詳しい。

(注5)『書紀』の「朱鳥」が一年限りである理由を、古賀達也氏は、「朱鳥元年七月十九日記事及び持統元年七月二日の『乙酉年(六八五)以前の債務救済令(徳政令)』の効果保証のために、『書紀』は一年だけを残した」(「朱鳥改元の史料批判」)とする。

(注6)「伊勢王の事績の剽窃」とは、伊勢王が九州年号常色期・白雉期の倭国(九州王朝)の天子(大王)であり、その事績が『書紀』天武・持統紀に「三十四年繰下げ」て盗用されていること、あるいは天武・持統紀で九州王朝の天子の「仮称」として用いられていることをいう。
 「伊勢王」が常色期・白雉期の倭国(九州王朝)の天子であることは、
①初見が「九州年号白雉元年(六五二)」で、薨去が「白鳳元年(六六一)」と「九州年号の改元時」に見えること。
②「諸王五位」としつつ、その逝去には皇太子・大臣・三位以上か「他国の王」の逝去を示す「薨去」の語が用いられること。
③伊勢王が「天下を巡行し諸国の境堺を限分」した天武十二年(六八三)の「三十四年前」の六四九年に、『常陸国風土記』等では、全国に「評制」が敷かれ、其の時に「諸国の境界が定められた」とあること、ほかによる。詳細は、「九州王朝と大化の改新」(会誌二十五集『古代史の争点』二〇二二年)に詳しいので略す。

(注7)天子(王)の在位中の改元と区別して、「新天子の即位に伴う改元」を、特に「称元」ともいう。
 薩夜麻の次代の倭国(九州王朝)の王は不詳。ただ『開聞故事縁起』には大長元年(七〇四)に大宰府に帰還し、九州諸司に宣旨した「天智」とされる人物が記され、「天智」であるはずはないので、彼が次代の、そして最後の倭国(九州王朝)の王である可能性がある。
◆一、天智天皇出居外朝之事
 越仁王三九代天智天皇別離心難堪、溺愁緒之御涙、思翠帳紅閨隻枕昔歎二世眤契約蜜語空於発出居外朝御志而不幾時、 同十年辛未冬十二月三日《大長元年尤歴代書年号》帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。 凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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