2023年12月13日

古田史学会報

179号

1,「朱鳥改元」と
「蛇と犬が倶に死ぬ」記事
 正木裕

2,柿本人麻呂と第一次大津宮
 日野智貴

3,柿本人麻呂系図の考察
 古賀達也

4,裴世清は十余国を陸行した
 
岡下英男

5,古田武彦古代史セミナー
2023に初参加の記
 倉沢良典

6,「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か
 野田利郎

7,「壹」から始める古田史学四十五
 倭奴国と邪馬壹国・奴国②
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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「アホ」「バカ」「ツボケ」の多元史観 -- 上岡龍太郎さんの思い出 古賀達也(会報177号)

柿本人麻呂系図の考察(会報179号) ../kaiho179/kai17903.html


柿本人麻呂系図の考察

京都市 古賀達也

一、佐賀県の柿本人麻呂の子孫

 二五年ほど前、古田武彦先生から「柿本家系圖」のコピーをいただいた。佐賀県に柿本人麻呂の御子孫がおられ、就職で実家を離れるときに同家系図を親から受け継いだとのこと。その方は、祖母から「火事にあったら、系図を持って逃げよ」と言われたそうだ。
 同系図は二巻からなり、一つは人麻呂の伝承と同家の由来書、もう一つが系図だ。どちらにも「柿本家系圖」と表記され、系図末尾に「柿本毅 書」とあり、柿本毅氏が書写したことがわかる。系図の最後の人物が「毅」と「妻 淑子」であることから、毅氏のご子息が実家を離れるにあたり書写したものではあるまいか。そうであれば、実家に原本があるはず。毅氏の父、良重氏の旁書に「昭和五十九年九月/享年六十四才」とあることから、系図の書写時期は昭和五九年(一九八四)以後で、古田先生が写真撮影した一九九五年までのこととなる(注①)。

 WEBサイト「日本姓氏語源辞典」で柿本氏の分布を調べたところ、「顕著に見られる市区町村」には佐賀県神埼郡吉野ヶ里町があり、この系図の柿本氏は同地域の住民かもしれない。久留米市にも柿本氏が多く注目される。
【都道府県順位】
1 大阪府(約二〇〇〇人)
2 兵庫県(約一四〇〇人)
3 福岡県(約一〇〇〇人)
4 広島県(約八〇〇人)
5 長崎県(約六〇〇人)
【市区町村順位】
1 兵庫県加古川市(約二〇〇人)
2 石川県金沢市(約二〇〇人)
3 福岡県久留米市(約二〇〇人)
4 岡山県備前市(約二〇〇人)
【小地域順位】
1 広島県尾道市向東町(約一一〇人)
2 岡山県備前市日生(約一一〇人)
3 鹿児島県日置市伊作田(約九〇人)
4 高知県室戸市羽根町乙(約七〇人)
4 大阪府吹田市垂水町(約七〇人)
4 福井県大飯郡おおい町久保(約七〇人)

 

二、「真人」姓の柿本人麿

 「柿本家系圖」には、人麻呂に関する次の記事が見える。
(a)「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」
(b)「柿本人麿ノ 祖ハ 日本足彦國押人尊 又一名ヲ 天足彦國押人尊ト 奉穪ス」
(c)「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」
(d)「後 伯耆國ニ 閉居シ 専ラ 和歌ニ 力ヲ 盡シ 世ニ 和歌聖人? 穪セリ」(「?」は判読困難な文字)
 特に注目したのが人麿が「真人」姓を賜ったとする(a)だ。『万葉集』では柿本朝臣人麿(注②)とあり、その姓の朝臣は天武紀に見える八色姓の第二位であり、系図に見える一位の真人よりも下位だ。同系図が『万葉集』とは異なる「真人」姓を伝えていることに留意したい。
 更に注目したのが、遣唐使として二度も唐に渡ったという(c)の記事だ。恐らく九州王朝(倭国)が派遣した遣唐使であろう。真人という臣下第一位の姓も九州王朝から賜った可能性が高い。
 こうした従来史料に見えない伝承が記された同系図は貴重だが、人麻呂の生没年や出身地は記されていない。従来説でも生没年未詳とするが、わたしの研究(注③)によれば、『運歩色葉集』は人麻呂の没年を九州年号の大長四年丁未(七〇七)と伝えており(注④)、人麻呂が九州王朝の宮廷歌人であったとする古田説(注⑤)と対応する。

 

三、東大寺「過去帳」の鋳師柿本男玉

 「柿本家系圖」には人麻呂伝承に続いて實子の男玉の事績が記されている。
 「人麿ノ 實子 柿本男玉 三條? 鍛冶師トナリ 聖武天皇奈良大佛建立ノ 際 鍛頭トナリ 之レ 則チ 三條小鍛冶ナリ」
 男玉は東大寺二月堂の過去帳(注⑥)に見える。東大寺のホームページに次の記事があり、男玉が大仏建立に鍛冶師ではなく鋳師として参画している。
 「お松明で有名な東大寺の修二会で読み上げられる過去帳の初めの部分を紹介しましょう。ここには大仏さまと大仏殿の造営に関わった人々の名前が挙げられています。(中略)
 大伽藍本願 聖武皇帝
 聖母皇大后宮 光明皇后
 行基菩薩
 本願孝謙天皇
 不比等右大臣 諸兄左大臣
 根本良弁僧正 当院本願 実忠和尚
 大仏開眼導師天竺菩提僧正 供養講師隆尊律師
 大仏脇士観音願主尼信勝 同脇士虚空蔵願主尼善光
 造寺知識功課人
 大仏師 国公麻呂
 大鋳師 真国
 高市真麿
 鋳師 柿本男玉
 大工 猪名部百世
 小工 益田縄手
材木知識五万一千五百九十人
 役夫知識一百六十六万五千七十一人
 金知識三十七万二千七十五人
 役夫五十一万四千九百二人」

 「柿本家系圖」に人麿の實子と記された男玉は東大寺建立に関わった人物だが、同系図では三條の鍛冶師であり、大仏建立には鍛頭として参画したとする。他方、東大寺二月堂の過去帳には鋳師柿本男玉とあり、鍛冶師ではない。また、大鋳師真国という人物名もあることから、「大」が付かない鋳師である男玉と系図の鋳頭という職掌についても対応が不明だ。この不一致が誤記誤伝なのか、祖先の格を上げるための系図編纂者の作意なのか検討が必要だが、著名な東大寺の過去帳に見える鋳師柿本男玉に基づいて系図を作成したとするのであれば、それとは異なる鍛冶師と記すことは考えにくい。
 系図に見える三條小鍛冶は奈良市に企業(注⑦)として現存するが、それは鍛冶であり、東大寺建立に関わった鋳師柿本男玉との関係は今のところ見当たらない。
 希代の歌人であり、晩年は石見國(注⑧)の官吏でもあった人麿と、奈良の鋳物師の男玉との関係性に違和感はあるが、系図では實子と記しており、系図編纂者としては両者の〝親子関係〟こそ最も強調したかったのではあるまいか。

 

四、『続日本紀』の柿本小玉

 東大寺二月堂の過去帳の他、『続日本紀』にも柿本小玉の名が見える。
 「正六位上柿本小玉、従六位上高市連真麻呂に並に外従五位下を授く。」天平勝宝元年(七四九)十二月条
 「また、大納言藤原朝臣仲麻呂を遣して、東大寺に就きて、従五位上市原王に正五位下を授く。従五位下佐伯宿禰今毛人に正五位上。従五位下高市連大国に正五位下。外従五位下柿本小玉・高市連真麻呂に並に外従五位上。」天平勝宝二年(七五〇)十二月条
 天平勝宝二年(七五〇)十二月の柿本小玉ら叙位記事に対して、岩波の『続日本紀 三』(注⑨)の脚注十一(一〇八頁)には「大仏鋳造の巧による叙位」とあり、柿本小玉が「柿本家系圖」や『東大寺上院修中過去帳』に見える柿本男玉と同一人物として問題ない。しかし、男玉と小玉とでは用字が異なり、「柿本家系圖」は『続日本紀』以外の別系統史料に依ったものと思われる。また、叙位記事に見える三名のうち、柿本小玉だけが姓を持っていない。
五、東大寺大佛殿勅願文の柿本男玉
 「柿本家系圖」と『東大寺上院修中過去帳』の柿本男玉と『続日本紀』叙位記事の柿本小玉とでは用字が異なり、別史料を探索したところ、『朝野群載』「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」(注⑩)に次の男玉記事があった。
 「東大寺大佛殿前板文
勅曰。朕以薄徳。(中略)
大佛師従四位下國公麻呂 。大鑄師従五位下高市大國。従五位下高市眞麻呂。従五位下柿本男玉。大工従五位下猪名部百世。従五位下益田縄手。」国史大系 二九上『朝野群載』三九〇~三九一頁
 ここには従五位下柿本男玉とあり、『続日本紀』の外従五位下小玉とは位階や名前の用字が異なる。「柿本家系圖」と『東大寺上院修中過去帳』の男玉とは用字が同じだ。
 この「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」の冒頭部分は聖武天皇の詔勅であり、『続日本紀』天平十五年(七四三)十月条の大仏発願詔とほぼ同文。その後の部分は太政官からの布告等で構成されている。こうした史料状況から判断すると、末尾の男玉らの記事は東大寺に伝わった『東大寺上院修中過去帳』などに基づいている可能性が高い。このことから、『続日本紀』に見える小玉は朝廷側の史料に、男玉は東大寺側史料に基づくようだ。

 

六、人麻呂の渡唐伝承

 「柿本家系圖」には人麻呂が二度にわたり遣唐使として渡唐した記事がある。従来の人麻呂研究ではこのような伝承を史実として取り扱ったものはなかった。「柿本家系圖」には次のように記されている。
 「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」
 これは他には見えない所伝だ。人麻呂が渡唐したとする史料はあるが、それを二度とするのはこの系図以外にわたしは知らない。渡唐の年次は系図からはわからない。人麻呂は九州年号の大長四年丁未(七〇七)に没しており、九州王朝の遣唐使であれば渡唐は七世紀後半、大和朝廷の遣唐使であれば八世紀初頭となる。
 人麻呂の渡唐を示す史料とは『拾遺和歌集』に採録された柿本人丸の歌とされる次の歌の題詞と頭注だ(注⑪)。
 「もろこしにて 柿本人丸あまとぶや かりのつかひにいつしかも ならのみやこにことづてやらん」『拾遺和歌集』巻第六 別
 同歌集には人麻呂の歌が少なからず採録されているが、その名前は柿本人麿・柿本人丸・柿本人まろ・人麿・人丸・かきのもとの人まろ・ひとまろと表記されている。しかし、『万葉集』に見える柿本朝臣人麿のような朝臣姓は見えない。他方、『拾遺和歌集』の歌人名には在原業平朝臣のように名前末尾の朝臣表記が散見される(注⑫)。
 この「もろこしにて」との題詞を持つ柿本人丸の歌には長文の頭注があり、その中に次の記事が見える。
「証本云、人丸ノ入唐ノ事 此ノ歌外無シ所見。」(注⑬)
 しかし、これによく似た歌が『万葉集』巻第十五の天平八年の遣新羅使の「引津の亭に船泊てて作る歌七首」中にあることから、この歌の作者を『拾遺和歌集』では柿本人丸としていることに、頭注編者は疑っている。
 「天飛ぶや 鴈を使に得てしかも 奈良の都を言告げ遣らむ」『万葉集』巻第十五(三六七六)
 この歌の作者名は記されていない。同巻冒頭には「天平八年丙子夏六月、使を新羅國に遣はしし時」とあり、天平八年(七三六)には人麻呂は既に没している。そのため、先の頭注編者は疑ったわけだ。しかし、『万葉集』巻十五冒頭文には「所に當りて誦詠する古歌を幷せたり」ともあり、作者名が記されていないこの歌が人麻呂の古歌である可能性がある。

 こうした史料状況を考えると、『万葉集』では「所に當りて誦詠する古歌」とされた歌が、『拾遺和歌集』編者は「もろこしにて」「柿本人丸」が詠んだ歌であるという情報を持っていた、あるいはそう信じるに足ると認識していたと思われる。従って、人麻呂は渡唐したと古代では考えられており、二度の渡唐記事はそうした認識の反映ではないか。

 

七、「柿本家系圖」の断絶

 「柿本家系圖」には人麿を初代として、男玉(実子・二代)、直玉(男玉の曾孫・五代)へと続く。この曾孫はひ孫のことだが、子孫という意味もある(注⑭)。ひ孫であれば三代目と四代目が不記載となり、系図に断絶が生じる。子孫の意味であればより大きな断絶の存在を示唆する。断絶の理由としては次のケースがある。
(1) 同系図は戦後の書写時に簡略化されたもの。
(2) 伝承が途切れたため、伝わっていない。
(3) 人麿と男玉までの伝承が伝わっており、それに直玉以後の系譜が継ぎ足された。
(4) 人麿や男玉とは無関係の柿本氏が後世に系図を造作した。
 どの可能性が高いかを検証する必要があり、(1)については書写原本で当否を確認できる。(2)(3)は他の柿本系図との比較により、検証可能かもしれない。この場合、人麿の渡唐記事など独自情報部分は史料価値を有す。(4)は検証困難。
 以下は「柿本家系圖」〈系譜〉の人麿~

運平部分を抜き出し、注記(※印)を加えたもの。同系図〈由緒〉にも同内容の記述がある。
【柿本家系圖】
初代 柿本人麿眞人
二代 男玉(実子) 三条小鍛冶師 東大寺大仏鍛冶師頭
 ※「東大寺大仏大鋳造師 従五位下」『朝野群載』「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」
三代~四代 不記
五代 直玉(男玉の曾孫) 肥前国、龍造寺家政公の家臣となる。
 ※曾孫には子孫の意味もあり、その場合は直玉までの代数は不明。
六代 眞人(直玉の長男) 佐賀佐留志(杵島郡江北町)に住む。
七代 孫兵衛(眞人の長男) 龍造寺家臣の御役御免。寛文二年(一六六二)四月、肥前諫早の鍋島直義公(一六一八~一六六一)の家臣となる。
八代 孫六(孫兵衛の長男) 本家を相続。次男の源六は享保三年(一七一八)に分家する。
九代 孫兵衛(孫六の長男) 三男二女あり。
十代 運平(孫兵衛の長男) 廃藩置県明治維新まで、代々茂晴公(一六八〇~一七三六)の特命にて在佐賀お目付け役を拝命。《後略》

 

八、石見国益田家の「柿本朝臣系図」

 次いで石見国益田家の「柿本朝臣系図」を調査した。同系図は「石州益田家系圖 柿本朝臣」として鈴木真年(注⑮)により筆写収集されたもので、尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、一九八四年)に紹介されている。それによれば、「石州益田家系圖 柿本朝臣」と表記された同系図には「柿本朝臣系図(筑波大学図書館所蔵)」のタイトルが冒頭に付されている。
 系図の筆頭には「孝昭天皇」があり、次いで「天足彦國押人命 一云天押帯日子命」・「和尓彦押人命 一云若押彦命 居倭国丸迩里」へと続く。そして十五代目の猨と人麿兄弟に至る。系図中の人麿の細注に次の記事が見える。
 右注 「石見掾 正八上」
 ※「正八上」は正八位上の略。
 左注 「初日並知皇子舎人
後高市皇子舎人
    下向石見国住美乃郡○田里
     藤原朝廷三月十八日死」
 ※○は判読困難な字。戸田里か。
 人麿の兄とされる猨の細注は次のように読める。
 右注 「彳四下」
 ※従四位下の略か。
    小錦下」
 左注 「天武天皇白鳳十年二月癸巳○小錦下任
  同十三年十一月戊申朔改賜朝臣姓
  和銅元年四月壬午卆」
 ※「同十三年十一月戊申朔」は天武十三年(六八四)十一月朔戊申と思われる。従って、ここでの白鳳は天武元年(六七二)を白鳳元年とした後代に於ける改変型白鳳であり、本来の九州年号白鳳(六六一~六八三年)とは異なる。和銅元年の死亡記事は『続日本紀』和銅元年四月条にえる。
 人麿の子供は蓑麿とあり、その細注は次のようだ。
 右注 「彳六下
    美乃郡少領」
 左注 「母 依羅衣屋郎子」
 「柿本家系圖」に見える人麿の実子とされた男玉は人麿の前妻との子供と思われ、「石州益田家系圖 柿本朝臣」によれば石見国美乃郡への下向に男玉は同行せず、都(藤原京)に留まり、後に東大寺大仏の鋳造に関わったことになる。蓑麿は後妻の依羅衣屋郎子(注⑯)との子供で、石見国で生まれた末子ではあるまいか。
 また、「石見掾 正八上」という人麿の官位「正八位上」は、「中国」(注⑰)とされた石見国の官職「掾」に対応しているようだ。「藤原朝廷三月十八日死」とする具体的年次不明の没年記事も、九州年号の大長四年丁未(七〇七)に没したとする『運歩色葉集』の「柿本人丸―者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。」と矛盾はない。両書の記事が正しければ、人麿の没年月日は大長四年(慶雲四年、七〇七年)三月十八日となる。
 なお、「石州益田家系圖 柿本朝臣」と表記されているが、天武十三年の八色姓制定時に朝臣の姓を賜った記事は兄の猨の左注にあり、人麿やその子孫の細注に朝臣記事はない。これは柿本氏(柿本臣)に朝臣姓を賜ったことによると思われる。 〔令和五年四月十六日、筆了〕

 

(注)

(注) ①コピーには撮影年月日を示す「95.3.5」見える。

②『万葉集』巻一、二九番歌題詞に「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」とある。

③古賀達也「洛中洛外日記」六〇〇話(2013/09/28)〝九州年号「大長」史料の性格〟
 同「九州年号『大長』の考察」『古田史学会報』一二〇号、二〇一四年。
 同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集)、二〇一七年。

④『運歩色葉集』に柿本人丸の没年記事「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」二七四話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(七〇七)」没の真実〟

⑤古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(一九九四)。

⑥『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、三月五日夜とお水取り行事が行われる三月十二日夜に読み上げられる。

⑦三條小鍛冶宗近本店(奈良市雑司町)HPに「明治初期まで現奈良市尼ヶ辻町にて作刀す。右、記念碑現存す。」とある。

⑧通説では人麿は石見で没したとされ、「柿本家系圖」の「後 伯耆國ニ 閉居シ」とは異なる。

⑨『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月条、天平勝宝二年(七五〇)十二月条。

⑩『朝野群載』三善為康編、永久四年(一一一六)成立。

⑪わき書きの存在を『拾遺和歌集』京都府歴彩館所蔵本(書写年代不明)で確認した。

⑫源公忠朝臣・藤原實方朝臣・源延光朝臣・藤原佐忠朝臣・源満仲朝臣・在原業平朝臣・源經房朝臣・藤原忠房朝臣・實方朝臣・藤原實方朝臣・源實信朝臣・むねかたの朝臣・藤原忠君朝臣・則忠朝臣女・藤原道信朝臣・藤原共政朝臣妻・公忠朝臣・源相方朝臣・参議藤原朝臣が見える。

⑬『八代集全註第一巻 八代集抄 上巻』(山岸徳平編、有精堂、一九六〇年)による。

⑭『大修館新漢和辞典』(改訂版、一九八四年)による。

⑮鈴木真年について、「洛中洛外日記」二四三三話(2021/04/13)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(2) ―鈴木真年氏の偉業、膨大な系図収集―〟で紹介した。

⑯『万葉集』には「依羅郎子(よさみのおとめ)」と表記され、人麿の死を悼んだ歌などを収録する。

⑰律令により諸国は大国・中国・小国に分類され、『延喜式』には石見国を中国とする。


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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