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1994年12月26日 No.4

古田史学会報 四号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


『東日流外三郡誌』公刊のいきさつ 藤本光幸>


『東日流外三郡誌』の真作性 法興年号の一視点 古賀達也


史料批判と学問の方法

二、原田実氏の立論によせて

上城誠

 私たちは、自己の「判断」について、常に不安を持って生きていると言える。そして、その点にこそ「学問の方法」を狂わせる大いなる要素が存在するのだ。
 自己の「判断」が「学問の方法」の適用を誤らせるか、あるいは、「学問の方法」によって得た結果をも自己の「判断」が拒絶するのである。
 原田実氏の立論を検討してみよう。氏は『季刊邪馬台国』五二号において、次の三点を重要な手続きとしてあげられている。
   
(a)資料群が発見された津軽、秋田家の所領であった三春、秋田孝季らが学んだという長崎などの各地の近世史料から、秋田孝季、和田長三郎吉次、和田りくらの実在とその史料編纂の事跡を裏付ける証拠を求める。また、これらの地方における来歴の確かな近世文書と「和田家資料」群の書式、書体、文法的特徴などを比較する。
(b)史料群の書写を行なったという和田末吉、長作およびその保管に関わった元市、現所蔵者である喜八郎氏ら和田家の関係者の確実な筆跡を入手する。
(c)近世以降の代表的な文献偽作事件についてのデータを集め、それらと同様のパターンが「和田家資料」群の場合にもないかどうか確かめる。

  一見、正しい手続きで有るかに思わせる文章であるが、私たちの「学問の方法」に照らせば大いなる疑問点を含んでいる。それは、abc三点とも「和田家資料群は偽書ではないか」という前提を有しているからである。原田氏の方法論が、「先入観」に毒されている事を如実に表していると言えよう。
 古田武彦氏が愛着を持って語られる言葉に「師の説にな、なづみそ」がある。しかし、その言葉の持つ真の「学問の方法」の意味を私たちは(原田氏を含めて)、理解しているのであろうか。「先人の論証に対して、先入観無き再検証を、必要にして十分におこない、その是非を、子供にも判る明解な論証をもって実証する。」という学的姿勢こそ、この言葉の重要な一点であろう。「思い込み」や「他者の論証」に乗って自説を展開してはならないのだ。原田実氏が現代人偽作説に転じた最大の事由として『和田家資料群の書き手の筆跡が、和田喜八郎氏のものと一致すると実証された。』と述べる時、私たちはそこに氏自身の筆跡問題の検証と実証が示されていない事に驚くのである。この一事をしても氏は古田武彦氏を師と仰いではいない。過去の偽作事件との比較などは、「松本ガス事件」報道等でテレビ局のワイドショーが行った、ある種のイメージ操作でしか有り得ない。学問を志す者として恥ずべきではなかろうか。
 「和田家文書」は最近の数回の調査により大正五、六年~昭和七年頃まで、和田長作が書写 、編集をしていた事が判明した。「文書」中に昭和初期の知識による改編が現れる事も不思議ではない。(北方新社『和田家資料2』にみられる「冥王星」という語句等)
 私たちは、明治期末吉本、大正、昭和初期長作本をもとに議論を進めているが、その各々が寛政原本の改編本であるという認識を再確認しなければ、偽作論者のよって立つ論議の空しさに気付かないであろう。
 「学問の方法」の基本たる「史料状況」のあり方を原田氏を含め偽作論者は故意にねじまげて偽作説を展開しているのだ。しかし原田実氏が、かつて昭和薬科大学紀要第二十五号に発表された論文「北辰のロマン派-和田家資料群中の西欧文化-」を再読するとき、文政五年の鎌田柳泓による「心学心の桟」から進化論的考え方を見出し、「文書」中に登場する紅毛人ルイスを「博物誌」という大著で有名なジョルジュ=ルイス=クレールではないかと考察するなど、鋭い着眼に満ちている事に、私たちは再度驚くのである。
 私たちは古田武彦氏が「和田家文書については未だ調査・研究中であり、現伝写本ではまったく学問的基礎とはならない」と繰り返し発言されている事の、「学問の方法」としての重要性を、しっかりと認識せねばならない。原田実氏が陥った「学問の迷路」に私たちが迷い込まぬ為にでもある。それは「史料全体から帰納し、史料自身の語る所を先入観を持たずに受け入れ、検証、研究を進めている途次であるから、軽々しく結論を出すことは出来ない。ただ、明治・大正・昭和初期改編本では、江戸寛政期の史料としては学問上使用できない。」という意味であるはずだ。
 原田実氏に、この言葉の持つ「学問に対する誠実性」を再度認識してもらいたいものである。氏が現在も「古田武彦氏を師と仰ぐ者」という考えを持っているならばである。


◇◇◇ 本の紹介 ◇◇◇

親鸞と被差別民衆

      河田光夫著

 著者は昨年十二月、癌で亡くなられた。本書は著者の友人であった藤田友治氏の尽力により、遺稿として出版された。古田武彦氏による序文を引用し、本書の紹介とする。
 「河田氏の新著を祝うための一文が、一片の弔辞としてはじまったこと、それを読者におゆるしいただきたいと思う。わたしにとって氏は、親鸞研究の未知の沃野を開くべき括目の人、そういう研究者だったのである。(中略)中でも、被差別 民衆の立場から親鸞言説を検証する、その方法論は、出色だった。幾多の親鸞研究の中でも燦然たる光を放っている。今後も、失われることはないであろう。(中略)近来、ふたたび氏との学問的交流の一大接点となるべき研究課題に当面 した。『東日流外三郡誌』を中心とする、いわゆる「和田家文書」の研究である。(中略)当文書は、目下、現所蔵者や関係者を「偽作者」する頻繁な攻撃によって、「日本のドレフュス事件」としての相貌を日々濃くしているのであるけれど、実はそこにこそ「ユダヤ差別 」ならぬ「蝦夷差別」ないし「東北差別」、結局は「被差別部落差別」へとつながる、根深い、日本の複雑な社会構造に突き当たるまいとしても、結局不可能なのである。(後略)
  一九九四 十月十五日
住井すゑさんの牛久の会の講演に赴く前夜」

◇明石書店


◇◇◇  連 載 小 説  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

太陽神 流刑 (二)

--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美
   ◇           ◇  
 「御出産(おめでた)でございます。間違いありませぬ--!」 みづほが那美を支えながら、八束(やつか)に向かって叫ぶ。
どうなる事かと固唾を飲んだ男達は一斉に
「オオ……!」
と、目を輝かせた。
「早う輿を持て!」
「白日別(しらひわけ=現北九州)より貰い受けた紅殻布はどこじゃ!」
八束の号令に、            
 「我らは鳴弓を--」         
 「それより妃を裏へ案内せねば……!」 
 部下達は慌てて準備にかかる。
 当時、妊婦は人目を避けて、暗い片隅でお産をする習わしだった。故郷に在ればその為の小屋を設けるのだが、旅先とて人々は那美を俄か作りの輿に乗せ、広場の裏の洞穴へ担ぎ込んだ。洞穴はかなり奥まで水が流れ込み、朝夕、周りが虹色に輝く為、着いた当初から八束達は神の御座所と畏怖し、勾玉 をちりばめた幣や紅白の縒(こより)が入口に結んであった。もう夜は明け切っていたが、洞窟内はまだ眩く、奥の岩棚を目指す行列の後には金の水脈(みお)が棚引いた。
「那美、しっかりせい。ここは神の巫す所、聖霊(ひじり)の御加護を念じて和子を生み落とすのじゃ。」   
 八束は若妻の手を握って励ました。   
 那美はほほえもうとしたが、鈍痛に妨げられて指一本思うようにならない。吐く息、吸う息、悉く身を灼いて来る。両脇にも首筋にも汗が滲み、蛇の肌ぬ めりのような気持ち悪さだ。みづほ初め侍女達が自分の周りで幣を振り立て、白衣の裾を翻し、一心に祈祷を凝らしている。まるで粉雪が降り注ぐようだ。なのに、少しも涼しくなってはくれない。僅かでも宍道湖の風が吹き込んで来てくれたら、どんなにか快かろうに……けれど、私達は今、反対側の島後にいるのだもの。無理だわね…。
 朝日山麓に住んでいた頃は、将来、こんな思いを味わう事になろうとは、夢想だにしなかった。先祖代々比婆大神に仕える巫女として、春の野山を駆け回り、花をつみ、薬草を集め、木の実の汁で酒を作ったり衣を染めたり、のどかな毎日だった。夏の星空や眩い曙を眺めてりりしい背の君を思い描きもしたけれど、現実の夫は座礁 した隠岐の船乗り……
 北の荒波を厳かに見下ろす黒耀石のお社が、私の新しい住み家となった。四つの山に囲まれた明るい緑の湖に比べ、風は荒く、雲は低く、岩は切り立ち、終日底力を帯びた轟きが耳を打ち、火に寄り添っていても芯まで凍り付いてしまいそうだった。尤も、夫初め隠岐の島の住民は、優しく親切だった。魚の釣り方、網の手入れ、船の漕ぎ方……皆、一から教えてくれたし、何より驚かされたのは市の日になると一家総出で接待する事だった。故郷では来客の饗応は主人の役目で、女は老いも若きも賄方(うち)へ追い払われていたのだもの。今、振り返ってみると、女は天意を伝える清らかな存在、滅多に人目に触れてはならないもの、と特別 扱いされていたのね。私は何も知らなかったから、朝日では漂着の他処者(よそもの)として人の背に隠れるようにしていた夫が、隠岐では先頭に立って事を運ぶのを目を瞠ってばかりいた。白日別 の商人がちょっかいを出そうとした時も、夫は飛び出して来て私を庇い、
 「二度とこんな真似をしてみろ、貴様の国を滅ぼしてやるぞ!」
と相手の喉に矛を突きつけてどなったのだった。場所を得ると人間はこうまで違うものか、と惚れ直したわ。でも、その男のおかげで、こんな目に会うだなんて……護符(おまもり)と称して、あの商人から紅殻布を買っていただなんて……神魂命(かもすのみこと)よ、なぜ女だけが苦しまねばならないのですか? 私には判りません、判らない-
-那美は悶え、かきむしり、釣上げられた魚のようにのたうち回った。

 おお、大いなる神魂命よ
 吾が国御魂(くにみたま)
  天地に憩えし神よ……

 巫女達の祈りの合唱が高まる。
 「那美--」
 覗き込んだ八束の顔に、紅殻布が飛んだ。
 次の瞬間、元気な赤ん坊の泣き声が洞穴一杯に響き渡った。
 「お生まれじゃ--」
 「御子様の誕生だ!」         
 部下達は歓声を上げた。         
 侍女達は、白衣の裾を絡げて水中へ下りて行く、洞穴の入口で、赤ん坊の体を暫く潮に浸すのだ。海人族の子は、こうして大洋の神の祝福を受けるのである。
 遂今し方まで母の体内で羊水(ようすいに浮かんでいただけに、赤ん坊が海に馴むのは早い。脅えたような泣き声は、嬉しさを訴える調子に変わった。射し込む日に赤ん坊の四肢も瞳も頭髪も、周りに上がる飛沫さえもが金に輝く。
「高津日(空高く輝く太陽の意)じゃ。」
「朝日山の姫御前が、日の御子を生まれたぞ……!」
驚嘆のざわめきが起こり、
(全てを照らし、導く光……昼の子……昼彦か……)
 八束も満足気に頷く
 背後で三度調弦の音が響き、鏑矢(かぶらや)が洞穴の入口を飾る白百合の花束のような御幣束(みてぐら)を射落とした。淡島が弟の誕生を寿ぎ、鳴弓を引いたのだ。
     (続く)
     ◇        ◇
[後記]
 「太陽神流刑」の二回目をお送り致します。これは「彩神(かりすま)」という総題の、「古代は輝いていた」全三巻の小説化の冒頭に当たる話で、「国引き神話」と「ヒルコ説話」がベースになっております。尚、枚数の関係(私が会報を独り占めする訳には参りませんから)で、一部をカット致しておりますが、お許し下さい。(深津)


「長老」と「耆老」三国志全用例の検討

都城市  吉田尭躬

 東夷伝序文の「長老説くに『異面の人』あり、日出づる処に近し」の『異面 の人』について、古田教授が「洛陽の長老の言、倭人説(古田旧説)」から「粛慎の長老の言、アメカ先住民説(古田新説)」に変わられた(注1)のを非とした拙稿を本誌の前身たる『市民の古代研究』に掲載した(注2)ことがある。その時の論点のひとつに「長老」を洛陽近辺の中国人とするか、粛慎のそれとするかについての陳寿の用法の事例があった。今回、三国志の全用例を調べたのでその結果 を報告する。
 「耆老」は東夷伝のみ「長老」に似た言葉に「耆老」があるが、その使用例は東夷伝のみである(注3)。

  「弓矢、刀、矛を以て兵となす。家家自ら鎧、仗あり。国の耆老自ら説くに古の亡人なり、と」(扶余伝)  
 「今、扶余の庫に玉璧、珪、賛数代の物ありて伝世し、以て宝となす。耆老言うに、先代の賜るところなり、と」(扶余伝)
 「王頁別れて遣わし、宮を追討ち、その東界尽くす。その耆老に問うに、海東にまた人りや、と。耆老言うに、国の人かって船に乗り魚をとらえ、---」(東沃沮伝)
 「その官に候邑君、三老ありて下戸を統主す。その耆老、旧について自ら言うに、句麗と同種、と。」(歳伝)          
 「辰韓は馬韓の東にあり、その耆老世に伝えて自ら言う、古の亡人、秦の役を避け来る、と」(辰韓伝)

 以上、六回の「耆老」は、例外なく現地に在住する老を指している。
        
「長老」の事例1 梁習伝
 魏書には、烏丸鮮卑伝、東夷伝の序文の各一回以外に「長老」の使用例は一例ある。梁習は別 部司馬のまま、新領土の并州の刺史の代行となり、実績を上げる。「太祖これを嘉し、関内候の爵を賜い、更に真となす。長老称詠して、以て、自ら聞識するところの刺史にして、未だ習に及ぶもの非ずとなす。」この長老は多くの刺史を聞き、認識するのであるから、洛陽の知識人と思われる。

「長老」の事例2 孫権伝(注4)
 孫権が皇帝位に即いた翌年の黄龍2年のことである。
「将軍衛温、諸葛直を将として甲士万人を海に浮かべ、夷洲および亶洲を求め遣わす。亶洲は海中にあり、長老伝えて言う。秦始、皇帝、方士徐福を将とし、童女数千人海に入り、蓬莱、神山及び仙薬を求む。この洲に止まりて還らず、世相承して数万家その上にあり、人民、時に会稽に至り貨布するあり。会稽東県の人、海に行きて、亦、風に遭いて流れ移り、亶洲に至るあり、と。」
  この事例の長老は、洛陽のそれではないのではあるが、孫権の命令を知り、かつ、四世紀以上前の徐福の経緯を知っている。したがって、単に地元の人というのではなく呉の都、建業の知識人ではあるまいか。

「長老」の事例3 孫晧伝
 孫権から三代目の皇帝の即位後十一年目、呉の滅亡の五年前のことである。
「天璽元年、呉郡言う。臨平湖、漢末より草穢壅して塞ぐ。今、更めて開通 す。長老相い伝えるに、この湖塞がりて天下乱れ、この湖開き天下平らぐ、と。」
  この長老は、湖の開と閉、天下の乱と平を知るものである。王莽の乱と平か、秦末漢初のそれを結びつける知識人といえよう。

「長老」の事例4 諸葛恪伝
 諸葛恪が宮中で誅殺され、石子岡に捨てられた。一族が滅ぼされた後、臨淮の蔵均が死体を納めて葬儀をすることを願って上表した 文章の一部である。
「---。今恪父子三首市に県り日積む。観る者数万、詈声風をなし、国の大刑に震えざるところなし。長老孩幼見おわらざるなし。---」
  この長老は孩幼と対になっている。孩幼の語の孩は、赤子、幼いの意味で、幼児の笑う声の擬声語(注5)という。すなわち、「ほんの幼児から」と対なのであるから、単なる老人ではない。「知識豊かな長老まで」ということである。この場合も建業周辺の知識階級と見てよいであろう。なお陳寿は、単に、老人と幼児を示す場合には老幼の語を使用している。その出現回数は四回ある。    

 『異面の人』発言の長老も中国知識人。以上の検討結果は次のことを示す。陳寿は、夷蛮の老人(知識人を含む)を「耆老」と表記した。中国の知識老人を「長老」と表記した、と。したがって、東夷伝序文の長老は、粛慎の長老ではあり得ず、洛陽周辺の長老とした古田旧説が正しい。ただし、陳寿は、長老の言を肯定しているのではなく、『異面 の人』は倭人の黥面したものであり、その住むところは帯方東南の大海の中である、とした。なお烏丸鮮卑伝序文の「邊の長老」は烏丸伝にある足搨頓を漢時代の冒頓に比す発言内容からみて、原住民ではなく北辺に住む中国人と解される(注5)。

注1.経緯は古田武彦「古代史をひらく独創の13の扉」八~十一頁(原書房)に詳しい。
注2.拙稿『「異面の人」=倭人説は誤りか-アメリカ先住民説への疑問』(『市民の古代研究』第五八号~第六一号)
注3.諸橋大漢和によると、「耆老」は「年老いて徳高いもの。又、老いぼれをいふ。」とされているが、「長老」は「年老いた者。又、学徳のある人の尊称。」と されている。その引用例の中には共通する意味の場合もあるが、『漢書・宣帝紀 』の「朕惟耆老乃人、髪歯堕落、血気衰微---」と『漢書・文帝紀』の「今歳首不時、使人存問長老。」のように、尊敬の念に差がある用例がある。
注4.注2の拙稿において孫権伝の事例を見落していた。翻訳文で捜したためのミスであり、おわびする。 注5.この問題について拙稿『「邊の長老」の考察』を多元的古代・九州ニュースに投稿中である。

 


失われた一大國

名古屋市 林俊彦

 私の記憶が確かならば、魏志倭人伝には倭人の国名が三十余り登場するが、その中に、奇妙な名称「一大國」がある。これが現在の壱岐をさすことに異論はないが、「一大」では他の倭国名のように現地音の漢字表記とも思えず表わす意味も不明である。そこで通 説では「一支」の誤りとされ、現に「梁書」「北史」は「一支」と記している。
  これに対し小数説ではあるが、古田先生をはじめとし軽々な原文改定を排し、「一大」のまま解釈しようとする考えもある。曰く、「中国側がつけた地名だ」「いや、夷蠻の国に『大』の字をつけるはずがない」「倭人が漢字を理解し、自分の意志で表記した」「『一』は邪馬壹国の壹に通 じる」「壱岐は小さいが、『大』は母なる国の意味で使っているといった意見は興味深いものがある。これに関連し「一大率」は「一大國の率だ」という提起も実に画期的である。
 私も安易な原文の改定は極力さけるべきだと思うが、これまでの非改定説にはいささか不満があった。
「一大事」「一大キャンペーン」といった語法に慣れた私の感覚からすると、固有名詞、特に国名への「一大」の使用はやはり承伏しがたいものがある。 
「母なる国」なら「母国」と表記すれば足りる。「大」の不自然さは消えない。
 なぜ「邪馬壹国」の「壹」ではなく、「壱」でもなく、安っぽい「一」にしたのか。国名としては画数が多いほうが重みがでるではいか。画数といえば「一大」の2文字で4画、「支」でも5画。これは何だ。奴國の「奴」でさえ1字で5画。こんな簡単な字を選ぶ理由は?等々である。
 ある日突然、道は開けた。        
 「一」たす「大」は「天」と読め!これだ。文字通り天からの啓示だった。「一大國」は「天國」、「一大率」は「天率」なのだ。もちろん「あまつくに」「あまついくさびと」とでも訓読みしたのだろうが。     
 天神神話あふれる壱岐の人々は、漢字文化導入期の当時、自国に「天国」という漢字をあてていた。しかし天子の国、中国への臣従を誓う身では許されない表記である。そこで誰が思い付いたか、「天」は「一」と「大」とに分けて書ける……そんな経過ではなかったろうか。
「天」の成り立ちを調べると「大の字にたった人間の頭の上部の高く平かな部分を一印で示したもの。もと、巓(いただき)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平かに広がる意を含む。」とある(「漢字源」学研)。「大」の字の上に「一」を後から加えた文字が「天」だった。分離して書いても意味を通 じうる。そう考えても不当ではあるまい。
 かつて古田先生は朝鮮半島と九州との間の海域の島々をもって「天国」の領域とされた(「盗まれた神話」大十三章)。記紀の中で「天下る」対象は出雲、新羅、筑紫の三領域に限られ中継点はない、という論拠であった。今回、中国側史書によってその裏付けを得ることになったのは望外の喜びである
 さらに素人の奇論を加えたい。
 「一大」の「大」は「大国主命」の「大」に通じるのではないか。つまり出雲王朝のはるか上を行くのが「天」だという主張が秘められていると私は考えている。
壱 岐が天国となれば、隣の島の呼称「対海國」の秘密も解ける。「海」は「天」と並んで「あま」の意を表しうる漢字だ。対馬は天国に向き合う島、「対海國」はそういう表現だった。
繰り返そう、「一」たす「大」は「天」と読め!そこから続々と新しい発見が生まれてくる。        ではなぜ「一大國」が「一支國」へ変わったか。簡単である。倭人伝以降、壱岐は「天国」ではなくなったのである。記紀神話になぜ出雲神話の方が多いのか、なぜ天照大神は高天原を一歩も出なかったか。なぜニニギノミコトとその子孫の里帰り説話がまったく無いのか。その後の政治情勢が天国を消したのだ。
卑弥呼在世当時、壱岐は絶頂期にあった。邪馬壹国の「官」の筆頭が「伊支馬」と表記されていたのを思い出して欲しい。これは実は「一支女」なのだ。女王国の女性首相!しかし他方、壱岐の戸数表記だけが「三千許家」だったことにも注目されたい。他の倭の諸国が皆、中国の「戸」制度を導入していったのに。天孫降臨の過去の栄光にしがみつく壱岐の勢力は孤立していた。やがて「天国」の呼称は取り上げられ、元の名「一支」に戻っていったのである。「高天原」は空のかなた、空想の世界のものになった。ただ「一大率」の制度は残ったと見え、旧唐書倭国伝にその名を見ることができる。
私の能力ではここまでの展開が限界である。しかしこの稿をきっかけに、必ずや古代史の鉄人たちによる天国論争が巻き起こることと確信している。
さあ、よみがえるがいい、一大國!


例会報告に代えて

     北海道の会・事務局 鈴木成行

 第五回例会(十月二十日)は、最初にTBSの番組「シカン文明発掘」をVTRで観賞した。なぜニニギノシカン文明はプレ・インカ期に突然現れ、突然消えた。米国南イリノイ大学の島田泉教授が生涯の仕事として発掘を手掛け、数年前同局から放映された第一回目では、女性の生贄を伴った、貴族と推定される男性の遺体が逆さまに埋葬されており、今回はその謎を探った。
 途中、古田先生が登場、「魏志倭人伝」の裸国・黒歯国南米説を分かりやすく説明、印象的だった。
 例会はその後、「古代は輝いていたI」と「真実の東北王朝」を読み進んだ。特に「真実の~」では、東日流外三郡誌や上記などに立ち向かう基本的な態度として、

…それらの記述が果たして何等かの「古代の真実」を反映しているかどうか、その検証こそが研究の正念場となろう。そして、その中のたった一つでも「まぎれもなき真実」と確証できるケースにめぐりあえれば、望外の幸せ。すべて無駄 に終わったとしても、研究者の常道。
…だが、そのさい大事な条件があった。
「古写本に対する基礎的な検証」これが不可欠。肝心要の点だ。用紙の質に対する科学的な検証。墨質の検証。筆跡に対する徹底的な追跡。これらはいずれも歴史学研究の根本である。だが、このさいは通 例以上にこの基礎作業を徹底的に重視しなければならぬ。

  などと述べておられる
 偽作論者にとっては、こういう基本的態度も偽作説のネタになるのだろうが、それにしても千載一遇のチャンスとばかり、全精力を使いたして「反古田史学イデオロギー」に狂奔する彼らの姿には「ゴクローサン」とでもいっておこう。目的は「定説派」連中のために古田史学体系の信用を落とし闇に葬る、といったところだろう。
 彼らは、三郡誌が偽書であれば、邪馬壹国博多湾岸説、九州王朝説、多元的古代王朝説などを根幹とする古田史学体系がすべてウソであるかのような幻想をふりまく論理の進め方をしている。そういう詐術は結果として定説派に利をもたらす他はない。もっともそれが最初からの目的だったと見られるフシもある。
  東日流外三郡誌が偽書だろうと、そうでなかろうと、検証の結果と時間の流れが明らかにするだろう。ただ、当会の会員・鶴氏が主張されるように、「百歩譲って例え偽作だったとしても、偽作論者が膨大な努力の結果 手に入れるものはなにもない。」いわば、壮大な無に立ち向かうドン・キホーテ、といえば誉めすぎか。彼らには空しさが待ち受けていだけだ。
 きわめて畸形な現実に対して、わたしたちが何か異を唱えようとすれば、いつも空しさつきまとうが、彼らの論理展開にはそれとは異質の空しさがある。しかし、わたしたちは検証途上の現段階でさえ、例えば「石神殿」と青森・三内遺跡の巨大柱穴跡との対応をはじめ、数多くの果 実・「望外の幸せ」を手に入れつつある。彼らには、古田先生の基本的態度を表現した言葉を再び進呈しておこう、無駄とは思いつつ。


【関西例会(十二月)報告】

古田史学の理解をめぐって

 関西十二月例会は、会員室伏志畔氏により「古田史学の理解をめぐって」というテーマで、思想史の面から古田史学と昨今の状況にいて発表された。準備された、その感動的とも言える大部のレジュメ(B4五枚)についはいずれ会内論集などで発表されることとなろうが、その一部(第三章「拒否の倫理」より)を引用し、紹介にかえたい。
 「古田武彦の処女作はその声価を決めた冨山房から出た『親鸞思想-その史料批判』ですが、この本は順調にいっていれば、その数年前に法蔵館から出版されるはずでした。しかし、すでに発表した論文以外はカットしろと横槍が入り出版辞退に追い込まれたことはその序に述べられています。冨山房から出版されるまでの数年を我慢することがどれだけ古田武彦にとって辛いものであったか、当てのない日々を堪えた古田武彦の胸の奥底で燃りえるものがあったとすれば、カットされて原型を失うくらいなら出版拒否もやむをえまいとする信念であったのです。この風雪に堪えることを当然とする倫理に支えられた思想をもつものとしてあの『親鸞思想』を読んだ古田ファンがどれだけいるのかということです。
 古田古代史の出発点となった『「邪馬台国」はなかった』においても、古田武彦は、出版社の裸国、黒歯国の章のカットの申し出に対し、出版拒否の態度を取ることによって、朝日新聞社を押し切っています。また、『ここに古代王朝ありき』で、天皇陵問題についての譲歩を迫られるなら出版拒否だと藤田君に明言したそうです。こうしたことは古田史学に連なると自負する人は肝に銘じて知っておくべきことです。(中略)古田ファンの多くは古田思想の現れた結果 としての顕教部分について理解を競いましたが、産みの苦しみを伴った倫理・思想的な密教部分については疎かにしがちだったのではないでしょうか。しかしどちらを欠いても古田史学はありえないのです。わたしに言わせれば、「市民の古代」の残留派は古田古代史の顕教部分に関心はあっても、密教部分である古田倫理学に対して一顧の礼も払わなかったのです。(中略)かれらは古田武彦に悪態をつくことを条件に、口では多元史観を唱えながら、一元史観の市場でチョイ役を割り振られ、古田武彦への異議を言う役を引受させられているだけなのに、役者になった気分なのですが、利用されるだけ利用された行き先は捨てられるしかないのです。」
 最後に室伏氏は「今まで『市民の古代ニュース』はあまり読んでいなかったが、思想の変節過程を表している現代史の資料として、最近は興味深く読んでいる」と結ばれた。


☆古田武彦氏の親鸞関連の著作紹介

古田武彦氏の親鸞関連の著作は次の三冊ですが、比較的簡単に入手できるのは清水書院のセンチュリーブックスの『親鸞』だけのようです。

○『親鸞』清水書院    昭和四十五年刊
○『親鸞思想-その史料批判』冨山房   昭和五十年刊
○『わたしひとりの親鸞』 毎日新聞社        昭和五十三年刊
             徳間文庫          昭和六十年刊
【共著】
○『日本名僧列伝』社会思想社現代教養文庫
            昭和四十三年刊 
○『続・親鸞を語る』三省堂選書 昭和五十五年刊
※この他、論文など多数ありますが、紹介は別の機会にさせていただきます。


◇◇事務局だより◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◎本会を設立して半年がすぎました。予想を越える多くの皆様のご参加をいただき、心より感謝いたします。まだ運営や会則など、不備な面が多いのですが、一歩ずつ確実に前進したいと思います。とくに検討中の会則については、無根の一元通念を排し、多元史観に基づいて古田史学を継承発展させることを明記したいと考えています。
◎会報への御寄稿を多数いただき、ありがとうございます。会員間の質問・意見交換のために、掲載論文については原則として寄稿者の住所を記載するようにしたいと思います。事情により住所の掲載が不都合な場合は、その旨、併記しておいて下さい。
◎『歴史と旅』一月号特集「聖徳太子とは何者か?」に古田武彦氏の論文「九州王朝からの『盗用』だった」が掲載されています。古事記にはなぜ聖徳太子の事績が記されていないのか、という新たな視点から論究されており、他の執筆者の論稿との比較においても、その論理・実証性は際だっています。
◎本年、和田家文書真贋論争において、本会は現地調査に基づいて論陣を張りました。来年もその姿勢を堅持します。ご期待下さい。
◎皆様も良いお年をお迎え下さい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜二集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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東北の真実 和田家文書概観(『新・古代学』第1集)へ

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ

「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第1集)へ

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