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続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ
古田史学会報 十一号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る梶井町 古賀達也
深謝の言葉 古田武彦
◇◇ 学林 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 琴線にふれる一節 ◇◇
これだけは、だれにもゆずれぬもの、いかなる権威の前でもいいはなたねばならぬ もの、断頭台に登らせられても、これだけは、けっして否認できぬもの。そんな一つのことばをいだいて生きる。そのような真実をもって生きるならば、平々凡々の日常生活もまったくその人にとって、面
目を一変するであろう。そのような真実をいだいて生きたい、という願いは、どんな人にも、胸の底に、奥深くひそめられているのである。自分の生きてきた意味は、これだ、とズバリと指せるようなもの。それをもっている人は幸いである。
(古田武彦『親鸞 ーー人と思想』清水書院・昭和四五年)
和歌山県橋本市 室伏志畔
褒貶相半ばしていた『東日流外三郡誌』を中心としたいわゆる和田家文書に、「記紀」記述に逆上る歴史伝承の可能性を再発見しそれを推奨した古田武彦に対し、まったく学的良心とは別
個の目的から安本美典がマスコミを動員することによって古田落としを画策した偽書キャンペーンの最中、「市民の古代」の尻軽な連中が右往左往し少しでも風向きのいい方へと鞍がえに色目を使っていたとき、古田武彦はたじろぐことなく孤立する危機の中で史学の前進をひとり深めつつあるかに見えた。迫りくる老いに鞭打ち全身をかけて自己の現在領域を一歩でも越えようとするこの古田武彦のこの努力を多とするとき、私もまた次のように敢えて言うことから現在を踏み出したいと思う。
「主上臣下、法に背き義に違い忿りを成し恨みを結ぶ」と、生涯、承元の弾圧を忘れることなかった親鸞を始めとする原始念仏集団は、師・法然を流罪に処し、その死期を早めた後鳥羽上皇等権力集団を生涯かけて断罪し続けたが、また「朝家の御ため国民のために念仏まふしあはせたまひさふらはば、めでたふさふらふべし」と、仏の慈悲によって彼らが救済されることを決して疑わなかったばかりか、この原始念仏集団は毎月の師・法然の月命日に彼らのあさましさを憐み、仏による救済の一日も早からんことを祈念したことを古田武彦は『親鸞思想』に書き留めている。とするなら、無辜の大衆にサリンを振り撒き命を奪った麻原彰晃の罪を私は断じて許すまいが、この極悪非道の彼にもまた人間として救済される道を指し示すことなくしてオウム問題の真の解決はないと敢えて私は言いたいと思う。
この一言が今度の一連のオウム真理教事件について、宗教界から発せられなかったことを私は最も遺憾に思う。もしこの一言があったならオウム批判は今日のごときマスコミの手垢にまみれた軟弱な俗物批判にとどまることなく、新たな地平を望みえたことは疑いない。しかし宗教家が身すぎ世すぎの言説にうつつをぬ
かすしかないほど、現在、宗教はまったく立ち枯れており、麻原彰晃を人間として引き受ける度量 なぞどの宗教もなかったし、思いも及ばなかったのである。しかし私はもし原始念仏集団が現在あるなら仏による救済を説くことを疑わないように、原始キリスト教団もまたイエス・キリストによる救済を説くことをまったく疑わない。現在、その意味で既成宗教は宗教の初心をまったく失い、人間の救済なき過去の救済の看板をただ売り物にしているにすぎないのだ。
それに業を煮やした吉本隆明が、わたしには「その度胸もない」がと控えめに麻原彰晃の犯した罪と思想を峻別し論じようとしたとき、「娘のばななが犠牲になったら、思想なんて言えないだろう」といった非難の声まで聞かねばならない今日の状況は、戦後五〇年の間、まったく宗教的救済から捨て置かれたがための大衆の心情的反動の場と化している。戦後五〇年の時の歩みは麻原彰晃の内に日本人としての自己の分身を見る冷静ささえ失わせ、痛みを覚えることなく彼を打つことのたやすき状況を生み出したのである。
鶴見俊輔はどこかで日中戦争の最中に初年兵の肝試しに上官が、スパイ容疑の中国人を銃剣で突くことを命令したとき、たしか丹波篠山の住職出身の初年兵がひとりそれを拒否したのに対し、「お前は犬にも劣る」と銃架で殴り倒し、半日、雪の降る営倉の回りを犬の真似をさせ、四つん這いで歩かせた話を書き留めていた。
今日、どちらが犬にも劣る者であったかは明らかだが、上官も上官だがこの住職出身のひとりの初年兵を除き、こぞって腰を入れて初年兵が中国人を突き刺したという事実は重い。かつても今も人間としての誇りを追及することが、四つん這いする苦しさを噛みしめることなく通れるほどどの時代も甘くはないのだ。戦後五〇年、我々は天皇の戦争責任を問えなかったのはもちろん戦争指導者の戦争責任を曖昧にしたのは、中国、朝鮮を始めとするアジアの人々を突き刺した己れ自身である大衆の戦争責任をひた隠しにしてきたからではないのか。それをこの五〇年の間頬被りしてきた曖昧さが、江藤総務庁長官を始めとする自民党閣僚のまったく懲りない無知な発言をたびたび生み出し、従軍慰安婦問題に狼狽し、中国人残留孤児問題を終わりなき問題としているのだ。こうした問題に対して昂然と胸張れる者だけが石もて麻原彰晃を打つがいい。
今日マスコミは麻原彰晃をかっこうの生け贄として「正義」側に立つという最も安易な立場にある。わたしにはそれは戦時下の大本営そのままのマスコミの戦争謳歌以上に容易なものに見える。それはなんの良心の痛みもなく常に「正義」の側にある錯覚にあるからだ。それは戦後一貫して「民主主義」の実質を満たすことをせず便乗するしか能がなかったマスコミの哀しい性質ではないのか。殺された坂本弁護士の母親が記者会見で「批判者は本当に犠牲者の心情を思いやっているのですか? 弄んでいるのではないのですか」という一語に、マスコミのオウム批判はついにしかない。
かつて古田史学に集う者の真価が問われた『東日流外三郡誌』をめぐる偽書キャンペーンに「市民の古代」が巻き込まれたとき、今日の「市民の古代」残留派は、その絶好の機会をその時々の風向きのいい話に乗り、せっかくの実力をつける機会を茶々に変えてしまったのは記憶に新しい。そこではかつて「民主主義」に戦後マスコミが雷同するしか能がなかったように、かれらの多元史観はまったく根をもたない接木でしかないことを暴露し、「大衆」の無責任な好悪のままに踊る状況そのままの浮遊史観となり、そのときの景気のいいところに体よくくっつく付着史観となり、つまるところ近畿天皇家一元史観にすっかり取り込まれてしまったことに気づきもしなければ、恥ともしないのだ。
かれらは今でも主観的には「多元」史観だが、客観的には一元史観の便乗者にすぎないのは、かつて多元史観の便乗者にすぎなかったのと同じである。本多秋五はたしか『小林秀雄論』の中で、青虫は「さかんに食い、さかんに糞するのでなければ、一人前の繭を作ることさえ出来ないのである」と書いていたが、この「市民の古代」の青虫連中はさかんに時代を食い、さかんに糞する永遠の青虫にすぎないので、決して繭も作らなければ、まして蝶になることもないのである。そして今はただ「市民の古代」の遺産を食い潰すだけかに見える。
魯迅はどこかで人間は「他国の奴隷になりがたいが、自国の奴隷になりやすい」と述べたが、この倫理なき「多元」主義の青虫は自分に大甘な奴隷であり、かれらの浮名が蓮っ葉な転向者であることを自覚すらしていないかに見える。私はたとえ犬に劣ると言われても、この食って糞するだけの青虫にはなるまいとは思う。
古田史学を取り巻く現在の状況は、欧米の神 Godの庇護のなき日本国憲法のもとにある諸権利の状況とまた別 個な困難に置かれている。大日本帝国を打倒した占領軍は、近代日本の諸権利の諸悪の根源であった天皇制を解体し、「神聖ニシテ侵スベカラズ」の天皇を人間に引き降ろし、「侵すことのできない永久の権利」として基本的人権を日本国民に与えることによってその方向を指示した。しかし天皇陵を開くことなく去ったことは戦後歴史学に天皇制の聖域をそのまま残したのである。実証性を売り物にして津田史学が戦後史学として復権し、狂信的な皇国史観を斥けたことは一定の進歩ではあったが、大和朝廷にとって不確かな「記紀」の記述をまったく神話として切り捨てたことによって、「実証科学的」な装いをもって近代化したことによって戦後史学はますます近畿天皇家一元史観をより強固なものとした。戦後、宮内庁がひっそりと天皇陵を聖域として墨守してきたなら、戦後史学は「記紀」解釈を近畿天皇家一元史観の内に狭く限定することによってそれ以外の歴史記述を排除する「実証科学的」排他史観を完成した。今回の安本美典の画策がこれを暗黙の前提とする史学会の現状を後ろ盾に、一元史観を打ち破る多彩
な試みを続ける古田史学を包囲しようとするものであったことは見やすい。しかし「主人もちの文学」である政治的文学論が歴史から放逐されたように、「主人もちの歴史学」が真実の歴史探求の前に遠からず払拭されることもまたまちがいないのである。ともあれ日本国の象徴となることによって戦後天皇がその聖域を確保したように、戦後史学は「実証科学的」な近代化の装いをもつことによって、今日、戦後天皇制の最も強力な砦となっている。古田史学が近畿天皇家一元史観をその根底から突き崩す最も危険な実質的な体系性を備えているがゆえに、今日、学会およびそれをとりまくマスコミから意識的に排除されるしかない不幸にある。しかしそれは古田史学の思想的本質がいかなる人間にも救済の道を閉ざさない開かれたものとして、豊かな人間性を排除してきた天皇制と真っ向う対立するものとして畏怖されているからである。妥協はあるべくもなく、個々の会員は自己の営為を通
して人間性に敵対する者の天地を穿つ不幸せを歩く幸せを誇ってよいのである。
(つづく)
奈良市 太田齊二郎
「季刊邪馬台国」五七号に、「寛政宝剣」の分析結果 の新聞報道に関する、谷野教授によるショッキングな「特別寄稿」が掲載されておりました。しかし、その文章のトーンの高さにも拘わらず、そこに描かれているのは、哀れにも「古田バッシング」によってマインドコントロールされた操り人形の悲しい姿だけでした。
【 一 】
古田武彦が、鉄の専門家としての谷野満教授に依頼したのは、この「寛政宝剣」なる鉄製品が、江戸時代に製作可能であったかどうかの確認であり、それ以上でもそれ以下でもありません。その依頼に対し、同教授は正宗の銘刀を例に挙げ、「二百年前の日本の技術でそのような鉄剣を作ることは可能であったと考えられる」(「季刊邪馬台国」五七号(以下「同誌」)二十頁)と答えられたのでした。
答はそれだけでよかったのです。つまり、古田武彦が、「すなわち、貴方が『自分は鉄製品の年代鑑定を依頼された』と、万一お思いでしたら、全くの『勘違い』と言う他ありません。」(「新古代学」百四十二頁)と言われたように、それから先の事は古代学の専門家に委せておけばよかったのです。それを、なまじっかの予習の為、不幸にも「古田バッシング」に会ってしまい、「和田家文書」偽書説を信じてしまった事が彼の泥沼の始まりだったのです。
谷野教授は、「専門を離れた一般読者とし共感する点が多いことは事実である。(中略)それを自然科学者としての越権行為であると論難するのは筋違いと言うものであろう。」(同誌二十二頁)と述べておりますが、一愛好者として古代史に興味をもち、安本氏の説に共感しするしないは、ご自身が強調されるまでもなく自由です。しかし、「金属鑑定被依頼人」としての谷野教授が、専門家による史学的検証結果
を無視し、軽率に鉄剣の製造時期そのものを比定しようとしたり、問題の「東日流外三郡誌」の偽書説を云々したりするのは行き過ぎと言うべきなのです。その事を古田武彦は越権行為と述べたのであって、決して安本氏に共感する同教授を越権行為と呼んだ訳ではありません。論点をはぐらかすのはフェアではなく、それこそ筋違いと言うものではないでしょうか。
更に、古田武彦が、谷野教授の言葉から得た「二百年前の作である」と言う結論は、資史料に対する古代学的検証を専門とする彼にとっては当然の事だったのです。 仮に、報道に、表現上同教授が言うような不手際があったとした場合でも、谷野教授ご自身が、「『東日流外三郡誌』は筆者の専門とは全く無関係であり、それが真作であろうが偽作であろうが筆者にとってはどうでもよいことである。」(同誌十九頁)と言われるくらいですから、何も目くじらを立てて、中傷混じりに反論する必要はなかったのではないでしょうか。
【 二 】
「言った言わないは得てして水掛け論」(同誌二一頁)と同教授は言います。それならば、「古田武彦氏は極めて特異な知覚力と記憶力の持ち主であるらしい。」(同誌二十頁)と言う文章で始まる次の一連の揶揄は、主語を変えてそっくりそのまま谷野教授に返上しなければなりません。
(a)自分に都合のいいことしか聞こえないし、憶えてもいない。
(b)都合の悪いことは聞こえないか、忘れてしまう。
(c)相手が言っていないことを確かに聞いたと主張してはばからない。
(d)時として自分の言ったことを全く忘れてしまう。
そもそも、科学者にとって、論拠不明な水掛け論は苦手の筈です。谷野教授もその例外ではないと思います。学生時代を理工系で過ごした私も未だ嘗て自然科学の討議における水掛け論の例を知りません。それなのに、敢えて水掛け論に持ち込もうとする同教授の意図は明白です。つまり古田武彦によって指摘された自分の不備を、「言った言わない」の泥仕合に持ち込む事によって、いかにも自分が対等であるかのように見せ、読者を欺こうとしているのです。
【 三 】
谷野教授氏の文章には故意とも思われる論点のすり替えや、言い訳、そして肝心な争点に対する無視が見受けられます。私が最も嫌う「あら捜し」と見られそうですが、敢えて我慢の出来ない例を挙げさせて頂きます。
古田武彦は、「季刊邪馬台国」五五号に見られる谷野教授の、数々の誤認に対して、「(もし公表の前にその内容に関し)私に対し、一言「確認」を求め、チェックされれば、(中略)自分の「誤認」のまま(中略)これは私から見て「うかつ」としか言いようがありません。」(「新古代学」百三十六頁)、と述べておりますが、谷野氏は何を思ってか、古田の言う「確認」の対象を、「新聞発表の配信経緯」にすり替え、その上、「どうやって記事内容の確認を取れと言うのか?(中略)全く不合理な言いがかりである」(「同誌」二十二頁)等ととんでもない「言いがかり」をしています。筋違いな強弁と言うべきです。
谷野教授は又、古田武彦の、宝剣額の研究における「中心学」は「歴史学」であり「金属検査」等はこの際「補助学」に過ぎない、と言う指摘(「新古代学」百四十一頁)に対し、故意かどうかその応答を避けております。そもそも、二人の議論の発端が、この点に関するお互いの考えについての未確認にある事を思えば、この肝心な提案に対し谷野教授が応えないのは不当です。
「聞くところによると古田氏はこれまでにも色々な人を相手にして同様の無茶苦茶な議論をふっかけ相手に無視されると、それは自分が勝った証拠であると吹聴するらしい。」(同誌十九頁)
これは、事によっては自分の名誉にも影響しかねない重大な議論をしていると言う状況を弁えない牧歌的な文章です。のみならずこの文章からは、谷野教授自身、古田武彦を一読もしていないだけでなく、「古田バッシング」によって一方的にマインドコントロールされている様子がありありと窺い知る事が出来るのです。
古田武彦の研究が、一九九一年福岡における物理学の国際会議において、内外の科学者の賞賛を受けた事はご承知の通 りですが、科学者の反応に較べ、残念ながら日本の古代史学者達は彼の客観的論理的手法に対し反論もなく故意に無視し続けているだけなのです。
そんな実態を知ってか知らずか、「相手に無視されると、それは自分が勝った証拠であると吹聴するらしい」等と、とても理性ある大学教授の手になるものとは思えません。新聞の報道直後、思いもかけなかった偽書説派からの突き上げに慌てふためき、如何にして自分の立場を維持しようかと苦心している滑稽な姿を髣髴させるだけです。
次に挙げる文章は、古田武彦から「ルール違反」であると指弾された、シリコンと燐の分析結果 を、依頼人である古田武彦に無断で「季刊邪馬台国」誌へ掲載した自分の行為に対する弁明文です。(同誌二二頁)
(a-1)筆者の属する世界では、実験データは公正に取り扱われることが大前提になっている(たとえそれが自分の理論に対しいかに不利であろうとも!)。他人のデータであれ、自分のデータあれ、勝手に改竄することは許されないし、もしそのようなことをすれば研究者としての失格の烙印を押される。
(a-2)研究者が情報交換するのは互いに相手を信頼しているからである。
(a-3)従って、自分のデータを悪用するおそれのある人物に対して
(b)データを渡さなければならない理由は全く存在しない。以上の谷野氏の弁明に対して
[a-1]この大げさな言い方は何なんでしょうか。「筆者の世界」だけがこうなんだと言う言い方は弁解じみていて、逆に勘ぐりたくなります。
[a-2]公開されたデータが、どう利用されようかは既に発表者の手を放れてしまった以上どうにもならないのではないでしょうか。
それは「信頼関係」以前の問題であり、悪用か否かは結果論に過ぎません。それとも、
[a-3]古田武彦に、「他人の或いは自分のデータの悪用」と言う明白な「前科」があったとでも言いたいのでしょうか。
私などの常識にはない、盗人猛々しい自分勝手な(b)と言う結論を前提とした詭弁であり、大学教授としてあるまじき発言と思ったのは私だけでしょうか。
【 四 】
今、谷野教授は「古田バッシング」の広告塔として、あのオウムの美人タレントのように人寄せパンダに利用されています。中途半端な勉強によって東日流問題の表面
に触れただけでその本当の姿を知る事なしにマインドコントロールされ、その結果、疑えば「古田バッシング」さえしていたら本が売れると言う編集方針の手先になっているのです。一度コントロールされてしまえば、オウムの子供達に見るように元に戻るのは大変のようです。ましてや、伝統ある「金属材料研究所」の現役教授のプライドが更にそれを許さないかも知れません。
しかし、それでもこのラリーの続行を辞さない覚悟ならば(同誌二三頁)、敢えて古田武彦を一読する事を進言します。反論や中傷はそれからでも充分間に合うし、「古田バッシング」によって汚染された知識だけではただ惨めな思いをするだけだからです。
東北大学金属材料研究所。そこは本多光太郎の名に惹かれ、嘗て私も憧れた所でした。
谷野教授は臆面なく言います。
「本多光太郎先生は真理の探求を何よりも大事とされ、詭弁を嫌われた方である(「同誌」二三頁)」等と自分の行為を棚に上げ、その上更に「(本多教授)は鉄剣調査の際に筆者がとった態度は間違っていないから頑張りなさいと激励されたことと信じている」(同二三頁)
教育者としての谷野教授は、本多光太郎の学問に対する積極的な心構えを受け継ぐ立場の筈です。その為にも、物理学者からその業績が科学的であると賞賛された古田武彦を冷静に読み、その上で自論を公開すべきかどうかを判断すればよかったのです。
教育者でもあった科学者本多光太郎教授は、今回の谷野教授のとった軽率な行為を決して喜んではいません。
山口家文書「庄屋作左衛門覚書」考 京都市 古賀達也
『隋書』身再*牟羅国記事についての試論 京都市 古賀達也
◇◇ 『彩 神(カ リ ス マ)』 第三話◇◇◇◇◇◇
緑 玉 (一)
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ��
《前回までの概略》
隠岐の島の長、八束は愛妻那美との間に一子昼彦を設けたが、先妻の遺児淡島は、乳母であり父の側妾でもあるみづほにそそのかされ、異母弟を海へ捨ててしまう。が、八束の敢行した「北の大門」(現ウラジオストク)攻めの際、事が発覚、淡島は父の面
前でみづほを斬殺、自らも海へ投身するが、昼彦の方は「天国」(あまくに。現、壱岐・対馬)に漂着、子孫の細烏は夫の延王と対岸の韓(から)へ渡り、海で行方知れずとなった夫の帰りを待つ中、偶然、落馬事故に会った土地の阿達羅(アトラ)王を救い、互いにほのかな恋心を抱く。しかし、王はかねて婚約していた天竺の姫を迎えねばならず都へ去り、細烏もやがて無事戻って来た夫と天国へ戻る。
◇ ◇
海は荒れていた。沖から鴬色、黒、褐色と巨大な波が打寄せて来ては磐々を真白に変え、浜辺の奥深く雪崩れ込む。その都度、干し網が激しく煽られ、舫(もや)ってある舟が少しずつ後退した。
「これじゃア、当分、漁は無理だなァ……」
赤ら顔に縮れ毛を伸ばした舟子(かこ)が腕組みすると、
「わしら、干上がっちまうな……。」
もう一人が、やせた肩を落とした。
「お前ン所、又、餓鬼(がき)が生まれたんだったな。」
赤熊(しゃぐま)風の舟子は、同情するように相手を見た。昨夜、隣の小屋から火のついたような赤ん坊の泣き声が聞こえて来たのを思い出したのだ。さっそく祝い酒を持って行こうとした時、一早く飛び込んだ向かいの連中が、異様な叫び声を発した。釣られて覗いた子供達が脅えて泣き出し、老婆がわななく口で魔除けの呪文を唱え始める。あんな騒ぎは、片輪が生まれた時でなければ起こらない。
「盲か?それとも、足萎えか……?」
赤熊が言い難そうに聞くと、
「……双頭児だ……。」
相手は低く声を漏らした。
「片方は死んで目エ瞑(つぶ)っているのに、もう一方は生きて泣き喚(わめ)いているんだよ。昨夜の中に、葦船に乗せて流しちまったが……。」
男は言葉を切り、
「何の因果でこんな事に……!?」
と、身を震わせた。
幾ら片輪でも血肉を分けた実子、不具が生まれたら海へ流すという掟に従わず、どこかにかくまって育ててやっても良かったではないかという理性の声と、両親は五体満足なのにどうしてあんな子が生まれたのか、という感情の声が鬩(せめ)ぎ合い、居ても立ってもいられない程苦しい。
「お前だけじゃないさ。ここの者はみんな、一度は片輪を生んでいるんだ。」
赤熊は優しく相手の肩を叩き、向こうを指さした。
数人の子供達が桃色の柳蘭(ヤナギラン)や黄金の穂に似た女郎花(オミナエシ)、紫苑(シオン)、露草を抱えて洞穴の方へ歩いて行く。女の子の一人が背負(しょ)った皮のやなぐいの中には、色とりどりの風車(かざぐるま)が軽快な音を立てていた。
「よう、来たな。」
子供達を認めて、一人の老人が立ち上がった。足元には石斧や黒曜石の短剣が、白い石像と共に散らばっている。
「又、守護像(おまもり)を作っているのかい、井伏(いぶせ)の爺ちゃん?」
先頭の須佐之男(スサノオ)少年が、辺りを見回す。
洞穴の両側には、無数の石像が並んでいた。どれも掌(てのひら)に載る程小さく、丸坊主で、簡単な目鼻と手足が刻まれているだけだが、互いの肩に寄りかかり、運命を嘆くように項(うな)垂れている物、手を繋いで口をあけ、元気に歌っている物、頬杖突いて夢想し
ている物、飛び魚やバッタを追い回しているかのように無邪気に跳ね上がり、駆けている物、相手の背中で眠り込んでいる母子像もある。それらは今まで、死産だったり夭逝したり、奇形児として海へ捨てられたりした、子供達の霊を象(かたど)った物だった。井伏老人は可愛い孫を失って一念発起し、子供達の死霊を慰める為の石像を作っているのである。
「井伏の爺ちゃん、母さんが鱒を焼いてくれたのよ。」
やなぐいを負った天照(アマテル)が、風車の下から包を取り出した。竹の皮に、湯気の立つ握り飯の山と、見事な二匹の鱒がくるまれている。
「ウワア、うまそうだなア……!」
子供達が歓声を上げ、指をくわえる者もあったが、
「お供え物だぞ。手出しはならん。」
井伏老人がたしなめ、白い群像の前に包を広げた。
子供達も持って来た花を飾ってやり、天照は風車を一本ずつ石像の間に挟んでやる。海からの風を受けて赤、青、黄、緑、紫……と花のような風車は勢い良く回り出す。しかし、霊廟の中で聞く為か、軽やかなその音はどこか物哀しさを帯びていた。物心ついた時からお参りさせられて来たので、子供達にとってもこの洞穴は怖い所ではない。唯、一つ間違えば自分達も同じ運命(こと)になっていたと思うと、ひどくしんみりさせられるのだ。毎日上膳据膳(あげぜんすえぜん)で花や玩具(おもちゃ)に取り巻かれ、燦(きら)びやかな灯に照らされても、口も利けずに薄暗い一隅(ひとすみ)に佇んでいなければならないというのは、どんな感じだろう……? ここに祭られた中には、彼らの姉妹(きょうだい)や従兄弟(いとこ)も混っていたから、無事生まれ育っていれば、自分達と同じように遊んだり食べたり話したり出来る仲間が、風車を回してやっても、葦舟競争を披露してやっても空(うつ)ろな目をあらぬ
方に据えているだけというのは、何とも心細いものだった。
「もう帰ろうよ。」
最年少の石蕗(つわぶき)が天照の袖を引っ張ったのは、こうした寂寥感(せきりょうかん)に耐えられなくなったからだろう。
「弱虫だなア。怖いんだろ?」
須佐之男に笑われ、
「違わいーー!」
石蕗は男の子らしく虚勢を張ってみせたが、すぐ、
「ここは寒いからだよ……。」
と、吹きつける風に首を縮めた。
「子供は風の子--さあ、外へ行って遊んどいで。」
井伏老人が手で追いやる。
子供達はやっと朗らかになって、表へ飛び出した。
「あの風車、きれいだね。」
走りながら、須佐之男が天照に言う。
「あんたにも作ってあげましょうか?」
天照はにっこりした。まだ仇気(あどけ)ないとしか表現(いいよう)がないが、清らかな生い先を見せる笑顔である。
「母さんが、手毬(てまり)や風車作りの名人なの。あたしも習ってるけど、まだ足元にも及ばないわ。七日待ってくれたら、母さんに頼んで作って貰うわ。ね、良いでしょ?」
「お姉ちゃん、おいらにも……。」
石蕗が口を挟む。
「はいはい、判ったわよ。」
天照が少年の頭を小突いた時、
「オーイ、船を出すぞ!」
誰かが呼んだ。
(続く)
《作者後記》
今回から、舞台は又、日本々土--それも現対馬に移り、子供ながらも須佐之男や天照が登場致します。作中にしばしばフリークス(差別語)も使われますが、どこかで聞いたような名前の老人が作る石像群と同じく、そういったハンディーを負う人々への私なりのレクイエムの積りでございます。尚、この時代には早過ぎる設定かもしれませんが、老人の刻む洞穴は、いつかテレビで見た新潟の賽(さい)の河原がモデルです。
(深津)