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続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ
1997年2月26日 No.18
古田史学会報 十八号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
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「古田史学の会」は
1. 古田武彦氏の研究活動を支援する。
2. 古田史学を継承発展させる。
3. 古田武彦氏の業績を後世に伝える。
4. 会員相互の親睦を深める。ことなどを目的に創立されました。
こうした目的のために、会員の募集を行っています。年会費は三千円で、会員には会報・論集などを送付します。お知合いの方にも是非、本会を御紹介下さい。入会希望者は上記の口座に会費を振り込んでいただきますと、事務局にて会員登録を行い、会報を発送します。古田史学の輪を広げるために、会員募集にご協力をお願いいたします。
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名古屋市 林俊彦
私はお酒が大嫌いなので、これまで気にもとめなかったのですが、福岡県の民謡、黒田節に著名な一節「酒は飲め飲め飲むならば、ひのもといちのこの酒を」があります。日本酒好きな方は不審に思われるようです。酒作りには優れた米と水と、ふさわしい気候風土が必要であり、酒の名産地はかつての灘とか、北陸とかが挙げられても、九州の地名はあまり聞かないらしいです(私はお酒が苦手なので、よく知りません)。
福岡の方には誠に失礼ですが、「福岡の酒が日本一」との言はあまりに客観性に欠けるようです。しかし、「ひのもと」が国名でなく、博多一円の別名、愛称としたら、話は変わってきます。「おらが国で一番の、この酒を飲もう」という意味なら大変よくわかります。黒田藩の武士たちが杯を傾けたころ、江戸時代まで「ひのもと」という地名が愛着をもって口の端にのぼっていたわけです。
「ひのもと」といえば、古田先生は最近、和田家文書研究から「倭国以前に日本(ひのもと)があった」と提起されています。
万葉歌人山上憶良は四十二歳までの半生が謎につつまれたまま、突然遣唐使の一員として、次の歌で登場します。
山上臣憶良の大唐にありし時に、本郷を憶ひて作れる歌
いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(六十三)
この「日本」は原文でもやはり日本ですが、通常「やまと」と読まれています。「本郷」は「もとつくに」です。「大伴の御津の浜」は難波とされ河内の地に比定されていますが、九州の地にも難波があったとする説がいくつも出てきています(例えば『新・古代学』第1集、富永長三氏)。
したがって個別憶良において、この表現が実際にどの地を指して使用されているのか、慎重に吟味されなければなりません。まず憶良において、「難波」と「大伴の御津の浜」は同一の地でした(八九五と八九六)。天孫降臨以来の名族大伴氏の名を冠する浜は九州北岸こそふさわしいでしょう。ニニギノ命に同道した天忍日命は大伴氏の祖とされていますし、狭手彦をはじめ、大伴の豪傑たちは博多湾岸から海波を越えて朝鮮半島で名を轟かせたはずです。憶良は狭手彦に思い入れがあります(八六八)。
五世紀に大伴金村が河内国に居をかまえていた、だけで「大伴の浜」を大阪に引き寄せる通
説は不当です。金村も任那四県割譲の責を問われ失脚しました。
憶良は八九四番の長歌で「墨縄を延へたる如くあちをかし値嘉の岬より大伴の御津の浜辺に直泊てに御船は泊てむ」と歌い、五島列島の値嘉島と「大伴の御津の浜」間を「一直線」と表現しています。これも瀬戸内航行の旅程を慮外しており、大阪の難波では不自然です。そしてこの歌の序では国名に「倭」を使用しています。
また大宰府の裏山に葬った妻を悼む歌に「日本挽歌」(七九四)と題をつけています。この「日本」を国家名と解しては、倭国を併合したばかりの「新生日本」の挽歌というあまりに不穏当な題になります。この歌は実は妻郎女を失った大伴旅人の身になりかわって作ったとする説が有力です(私はやはり憶良自身のことと思います)が、そうだとしてもこの「日本」の意味するものは変わらないでしょう。筑紫(の一部)は別名を「ひのもと」と呼ばれたのです。
憶良を通説のように近畿の人とすると、あまりに無名な氏族出であり、一方あまりに博学です。しかし、崩壊した九州王朝の恭順派の一人として、九州の先進文化を大和に伝える任務についたり、遣唐使の先導役になったりしたと考えれば筋が通
ります。
七二〇年、旅人が大隅国の隼人の反乱を鎮圧して以降、近畿王朝は現地の慣習を尊重した穏健的な支配体制に転じていくようです。
七三〇年には大隅薩摩両国への班田収授の強行をやめます。現地人をして旧九州王朝地域を統治させていく方針の一環として憶良は晩年、大宰府に戻されたと考えます。その傍証として、憶良への行動の制限があります。ある日旅人等が松浦郡へ視察に行きますが、憶良は参加できません。現地人の共謀を阻止するためでしょう。
憶良聞かく「方岳の諸侯と都督刺史とは、並に典法に依りて、部下を巡行して、その風俗を察る」と。意は内に多端に、口は外に出し難し。謹みて三首の鄙歌(通説は「いやしき」歌)を以ちて、五蔵の鬱結を写かむと欲ふ。・・・と、無念を訴えます(八六八から八七〇)。
また憶良は「山沢に亡命する民」の説得を試みました(八〇〇)。「ひさかたの天路は遠し」と、あんなに長く繁栄した九州王朝も復活の望みはないことを諭します。名高い「貧窮問答歌」(八九二番)は、単に当時の民衆のつらい生活ぶりを描いたのではなく、九州王朝崩壊後の旧都でのそれを嘆いたものでした。
憶良はまだまだ語ってくれそうですが、またの機会に。
【新刊の紹介】 日本図書刊行会刊 (定価二千円)
中村勉著
著者は本年一月肺癌の為、亡くなられた。著者の友人より本書の解説を依頼された古田氏は死期迫る著者のため、昨年末夜を徹して原稿を読み、「巻を措(お)く能わず」と本書巻末の解説を記された。本書は二倍年暦等古田説に基づきながら、『記紀』の歴代天皇の在位実年代を考証したもの。九頁に及ぶ古田氏の解説も見逃せない。(古賀達也)
書評 室伏志畔著 「伊勢神宮の向こう側」
奈良県香芝市 山崎仁礼男
氏は吉本隆明氏の思想の流れの中にあり、古田史学に接近された人です。この本は、西洋文学の詩的なアナロジーと語り口のなかから、氏の豊かな想像力が弾むのです。短絡的に表現すれば、歴史学という分野に新しい新鮮な思考を持ち込んだものといえましょう。そして、この文学的な詩的な語り口は、同時に氏の幻想国家論の哲学のなかにあります。
幻想国家論とは、耳慣れない言葉です。国家を軍隊・警察・官僚の権力機構とみる国家機構論という矮小的な見方から、これを越えてあるいは包み込んで、幻想こそが国家の基本の存在形態であるとする考えといえましょう。例えば、長い日本の歴史のなかで、天皇制を叩き潰してもよいと考えた可能性のある権力者を捜し出し得るとすれば、織田信長を置いて他に存在しないと思います。この時点で天皇制は軍隊・警察・官僚の権力機構の何物ももっていなかった。しかし織田信長も天皇制の持つこの“幻想”をこえることはできなかったのです。今日の言葉で云えばマインド・コントロールというべきなのでしょう。犯してはならないもの、貴いもの、ふれてはならないものと思わせる所の何物かの演出が巧妙であったということです。
この国家幻想を最も巧妙に創出・演出したのが、氏は大和王朝の揺籃期の天武・持統期の天皇制の成立の時代とされるのです。文武天皇の即位の宣命を持統天皇がその称制から禅譲に至る十数年を費やしてきた新たな幻想的権力の創出の暗部に当たる、「持統朝における大和国家の幻想的構想という導入においてだが、・・・O・Nラインに対し・・・その特異な天皇制国家の創出という実質を欠くからにほかならない、藤原不比等による国家に幻想を付与し、その幻想によって人々を、自ら支配される人に転化する支配の方法、神階秩序による幻想などなどを幻想国家論の例示とし提示し、主張されるのです。天皇制の本質を実体的なものとみるより幻想性にその本質を求めていることから来ている。我々にとて天皇制の克服が困難なのは、伊勢神宮や天神さんの謎が、謎が謎とも疑われない明々白々」な神社として親しまれ、それを疑う者にそそり立っている重苦しさの内にある。
そして氏はこの国家幻想創出の具体的過程を伊勢神宮の向こう側として把握され、その向こう側にあるものは天武・持統期の天照大神の創出と廃神毀社と神隠しの仮説として、我々に提起されるのです。大三輪朝臣高市麻呂の持統天皇の伊勢行幸にたいする諌言の背後に三輪の大神の排除の想定、そしてなによりも月読命の発見と神統譜のねじれ・簒奪・接合と廃棄として捉えられます。わたくしは出雲神話から倭国神話へ、そして倭国神話から記紀神話へと、それが盗用であろうと画期線を入れることなし考えるのは危険だと思ったのであるとして、記紀神話の形成過程に廃神毀社と神隠しの挿入を主張されるのです。そして、氏は最後に天皇制による廃神毀社を太宰府天満宮の謎に見られるのです。通りゃんせ通りゃんせの童歌の解釈を、倭国の共同幻想の破壊と推定し天神さんの廃神毀社にいやいやながらも手を貸した倭国の住民は、天神さんの破壊と埋葬の後、ご苦労のねぎらいもつかの間、口封じのため殺され二度と家にかえることはなかったのであると云う大胆な想像が現れます。わたしのこれまでの幻視が正しければ、伊勢神宮の天照大神が倭国の主神のめくらましとして急浮上したように、太宰府天満宮でいま菅原道真がその封印の役割をになっているなら、天満宮の社殿の下に置かれてある菅原道真の柩のさらなる下がもっとも怪しく思われる。それは大和朝廷が倭国の幻想の上に万世一系の天皇制を築いてきたのにまことに似合わしい隠し場所と言わねばなるまいと論じられます。
氏の観点は古代史を現代そのものから掴みとろうとする、情念が感じとれます。それは安保闘争以後の日本の現実とのかかわりがあります。とくに通説の根拠になっている津田歴史哲学にたいする論評するどく、津田が十代崇神天皇あるいは十五代応神天皇以前の記紀記述を六七世紀の大和朝庭の史官の造作による神話として一切を顧みることなく切り捨てたことは、天皇制イデオロギーから自由になろうとしてのことであったが、結果として天皇制の前期形態の文献史学的研究の一切に蓋をしてしまった。これはいまも考古学が天皇陵の前でその研究を断念しなければならない矛盾にあるように、戦後文献史学は自らの理論によってその天皇制研究を自縄自縛したことに等しい。こうして天皇制イデオロギーに対するプロテストとしてうまれた津田史学がもった革新性は、今日、戦後天皇制のもっとも強力な隠蔽に手を貸す理論へ変貌し、一九七〇年代の古田史学の登場とともにその反動性を露わにしたのであると論断されます。
また、これと並行して記紀も批判を展開されます。自己表出を抑制し、できるだけ正確な指示表出を駆使した中国やヨーロッパの史書に倣って、この日本書紀を読み解くことは決してできない。この正史の天地はひっくりかえっていて、指示表出は大和朝廷にまったく都合よく配置された置き石で、本音は言わず語らずの沈黙と寓意の暗示の内にしかその手の内はみせないという、まったく反世界の記述法を駆使した高度な史書としてあるのだ。この正史のもつ二重制を読み解くことは、天皇制の本質を、その事態に惑わされることなく、それに被せられた幻想性をいかに確定するかと問うことと同じである。
氏は、吉本隆明氏の幻想国家の思想を背景とした、むしろ文芸評論の立場にあると考えられます。ですから、本書はその文学的な発想により生み出された自由奔放な想像力による歴史のスケッチです。それはむしろ感性の産物と云えましょう。実証を基本とする歴史学からみて、ちょとついていけない個所もままあります。しかし幻想国家論の哲学を背景とした氏の幻視(推論)には、ウーと我々をうならせるものがあります。かつて坂口安吾が蘇我王朝があってもおかしくないと論じたように、氏の感性が触れたもの、掴んだものから、実証を基本とする歴史学が学問としての仮説を発見できるかどうか、気楽にお読みくださることをお勧めいたします。
(三一書房・二三六九円)
【編集部】
室伏氏の新著には、古田武彦氏による序文「思想と文体 ーー室伏論作の成立に寄せて」が付されています。「文明は文体を生み、思想は文体をともなう。わたしは本書に接してこの言葉をつぶやいた。わが国も、深き文体を生み出す、その世紀の入口に立つに至ったようである。(後略)」
◇◇ 連載小説 『彩神 (カリスマ) 』第四話◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美
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二、三ヶ月たって、須佐之男はようやく回復した。その間、櫛名田は母の手名椎と共に毎日薬草つみに出かけ、須佐之男の全身の湿布を張り替え、それでも初めの頃は痛みのせいで眠れずにうめき続ける彼の四肢をさすったり、睡眠薬(ねむりぐすり)を工夫したり、八ツ手の葉や琉球渡りの芭蕉扇を天井に取付け、交代で紐を動かして風を送ったり、下の世話に到るまで献身的な看護をしてくれた。須佐之男が、床に半身を起こして一人で食事出来るようになると、
「今日から、少し歩いてみましょう。」
と、方を貸して、赤ん坊を導くように歩行訓練を刻(ほどこ)してくれた。うまく釣合が取れずにあちらへよろけ、こちらへもたれする度に、若い二人は思わず笑い出してしまう。けれど、須佐之男が、
うっかり踏みつけた裳裾(もすそ)を払って やると、
「まあ、そんな……。」「失礼、汚しましたね。」
櫛名田は頬を赤らめるのだった。
「姫は、随分あの方に御親切だこと。」
「まるで夫婦気取りじゃありませんか。」
「古志(こし)の山田様との婚約(やくそく)を、よもやお忘れになったのではないでしょうね……?」
侍女達が眉をひそめているのに気づき、須佐之男は、
「姫には許婚者(いいなづけ)がおありなのか?」
単刀直入に櫛名田に問うてみた。
「はい、親の決めた人で……。」
櫛名田はあっさりうなづいたが、表情が曇ったのを須佐之男は見逃さなかった。
「鳥髪と古志の郷は、どういう御関係ですか?」
須佐之男は手名椎夫人にも、それとなく聞いてみた。
丁度糸車を回していた夫人は手を止め、
「私の実家です。」
物憂気(ものうげ)に答えた。
「越(こし)の国から渡って来た人々が住ついた所故(ゆえ)、今でも本国との往来(いきき)は盛んで、初夏毎のカガイ(若い男女が結婚相手を見つける為の夜会)を縁に鳥髪の娘が七人も双方へ嫁に参りましたが、皆、無事でいるのやら……?聞けば、白山のお社が内紛続きで、吉備や白日別
(しらひわけ・北九州)から援軍が寄こされ、須佐の振根の大王(おおきみ)は巻添えで暗殺されたと申しますし…。」
老婆の最後の呟(つぶや)きは、須佐之男の心を深くえぐった。
振根暗殺--父が倒されたというのか!?
一体、誰に……?,いや、これは愚問だ。犯人は判り切っているではないか。武沼河と吉備津彦だ。二人とも、内紛や今後の国交(とりひき)に備えて黒曜石を分けてくれ、とうまい口実を並べていたが、やはり大国(おおくに)滅亡、もしくは併合が狙いだったのか--
(せめて部下達に警戒させておくのだった……!)
須佐之男は断腸のの思いだったが、今となってはどうしょうもない。この上は、一日も早く元通
りの体になって須佐へ帰る事だ。
(そうだ、櫛名田から足名椎殿に、須佐への援軍を頼んで貰おう。)
須佐之男は思いついて、彼女を捜しに外へ出た。さっき、櫛名田が篭を携え、歩いて行くのを見かけた。又、自分の為に薬草をつんでくれるのだろう。故郷(くに)へ戻って父の後を継ぎ、首尾良く仇を討てたら、櫛名田を妻に迎える事は出来ないものだろうか……?
看病される間に、櫛名田は天照(アマテル)の面影と切り離しても、立派に須佐之男を魅了する力になっていた。手名椎の様子を見ても古志との縁談に必ずしも賛成ではないようだし……
その時、須佐之男の耳を、女の悲鳴が貫いた。
蛇(じゃ)を象(かたど)った緑青(ろくしょう)の甲胄姿の腕の中で、櫛名田の黒髪がもがいていた。唇(くち)を合わせようとするのを激しく頭を振ってよけながら、懸命に両手で相手の胸を押し返そうとするのだが、男の力には叶わず、今にも組み伏せられそうだ。
「やめろ!」
須佐之男は借りて来た杖で、男の顔面を殴りつけた。杖は頑丈な樫(かし)の木作りだったから、たちまち蛇頭(じゃとう)が割れてはね飛ぶ。
「な、何をする!?」
男がたじろぐ隙に、
「嫌がる者を無理強いするものではない。」
須佐之男は、櫛名田を背後に庇(かば)った。
「貴様は誰だ?,この辺じゃ、見かけない面(ツラ)だな。」
男は血走った目で須佐之男を睨(ね)めつけ、
「俺は唯の通りすがりだ。」
答ながら須佐之男は、黒蔦の葉を巻いて飾った相手の太刀が、鉄鉱石に刻まれているのを見て取った。須佐の鉱山(かなやま)でも鉄は採れたが、何分にも硬度が高く、精錬に時間がかかる為、利器は銅が中心である。なのに古志郷では、南の侏儒国(しゅじゅこく 現四国地方)同様鉄が用いられているらしい。
古(いにし)え、八束(やつか)が「北の大門」(現ウラジオストク)を攻めた時、黒曜石と木刀で青銅器に立ち向かわねばならず、苦戦を強いられたように、銅と鉄では後者の方がより鋭利であり、力も強い。
果して男は、
「俺とその娘は婚約の間柄だ。相擁(あいよう)していても不思議はないと思うが…?」
柄(つか)に手をかけ、にじり寄って来た。
「これは、とんだ無粋(ぶすい)な真似を…」
須佐之男は、急に調子を変えて一礼したが、
「恋仲なればこそ、暴力沙汰はいけませんな。粗暴な振舞いは、何よりも御婦人に嫌われる因(もと)--御覧なされ、姫はすっかりおびえてしまっておられる。」
と、自分の裾にしがみついて離れない櫛名田を指した。
男は櫛名田の恐怖に満ちた表情を眺め、自分の非を悟ったのだろう、
「おぬしの忠告通りだな、神官殿。」
須佐之男に向かって皮肉に肩を聳(そび)えやかし
「櫛名田姫、今夜、改めて出直して参ろう。足名椎にも伝えて置け。」
いまいましげに舌打ちして去って行った。
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【後記】
『記紀』神話のヤマタノオロチに当たる、山田の登場です。『聖書』のヘビとイブを、フランスの詩人ヴァレリーが「若きパルク(死の女神)」で拡大解釈したように、ヤマタノオロチの話も獣姦と解釈する人があるようですが、私は蛇信仰の人間と致しました。
(深津)
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深津栄美
新年を祝い、京焼の色絵宝尽し図の水指に寄す。
あかねさす波間かき分け 紫の雲をなびかせ 真白帆は南風(はえ)にふくらみ 住吉( すみのえ)の三柱(みはしら)の神は舳(へ)に立ちて 故郷なる宗像の杜・沖の島を指さし 八千矛のになえる袋満たせるは 黄金(こがね)・白銀(しろがね)・瑠璃・翡翠・碼碯・水晶・琥珀に珊瑚 少名毘古那と日の御子なる恵比寿は笛取り出でて 実りの女神とウズメの舞いを披露せる 円やかな白磁(しろじ)の小壷 蓋の把手(つまみ)の打出小槌(こづち)の成せる 天降(あも)る幸なべて君にあれ
捨てられし妖怪は日神なり真実も人皆に知れるあらむ
<追伸>
作中の「水指」は、お茶の道具の一つで、形は円筒、壷などまちまちですけれど、文字通り水を入れて注ぐのに使います
古田史学とは何か7
橋本市 室伏志畔
わたしはいまもペルー大使館で人質に遭っている同胞に同情しないではないが、七世紀後半以来の国家が与えた共同幻想を当然のものとする日本人の無神経な在り方が、世界から問われているように思えてならない。日本史学も例外ではなく、七世紀後半以来、日本国家が策した罠、ひとつの天皇制という袋の思考に陥っているという自覚を欠いてきた。それはすでに唐代の史書に早く日本の使節の尊大な態度として記録されているのは周知のところである。
今度、古田武彦の邪馬壹国論に当たろうと思い、岡本健一の『邪馬台国論争』を拾い読みしたが、かつて毎日新聞で各地の発掘情報を熱く伝えたこの記者の文章を思い出し、新聞という公器による解説は通説へのオマージュに傾くという不便に同情を覚えたことを思い出した。しかし大和朝廷一元史観の通説の罠の内に各地の発見を取り込む手際は、彼の出世を妨げなかったのも事実である。しかしこの記者は、公器をもって日本の古代を「記・紀」記述の内に解消するという向こう受けを狙った自己の短絡史観が、一体何を意味するのかということについて本質的な自覚を欠いている。それは今を時めく宗教としてのマスコミに幅をきかすことができても、真実探究者としては志しが低いのではないのか。
そこで岡本健一は、安本美典をいち早くコンピューターを駆使して、天皇の在位年数を計算し、卑弥呼の年代を割り出し、それを大和朝廷の始祖・天照大神その人とし、邪馬台国を福岡県甘木市周辺とする破天荒な新説の数理文献学者と紹介する一方、古田武彦を『三国志』の中に「壹が何回現れるか、薹がどれだけ出現するかを、丹念に数えあげて」実証し、邪馬台国を博多湾沿岸(奴国の故地)とする意表をつく結論に達した人としてこう書くのである。
「精粗の差こそあれ、古田と安本の方法上の類似、邪馬台国の位置の近接は、だれの目にも明らかであろう。異分野からの参入者ながら、邪馬台国研究に新局面を開いて若き旗手になったという点でも、二人は共通する。古田は「古田史学の会」の代表にかつがれ、安本は「季刊邪馬台国」を主宰するというふうに、大衆性とカリスマ性でも、よく似ている。これも、邪馬台国論争が大衆化した時期のエースにふさわしい資質であり、現象であろう。
しかるにーーふたりの共同の論敵は、邪馬台国大和論者であるにもかかわらず、ーー近親憎悪とでもいうのか、兄弟牆にせめぐというのか、両者の非難の応酬は、年ごとにはげしさを加えているようにみえる、ポレミックな古田は、近年、多くの研究者に敬遠されているかに映るが、安本は、唯一の学問的天敵として、古田学説を監視し論難しつづけている。ついに一九九三年、『東日流外三郡誌』の偽書論争--古田は古代の貴重な真実を伝えるものとして、邪馬台国・東北王朝論に援用したが、安本は戦後の贋作であることを見破り、批判したことから、激しい応酬が続いた--に至って、対立のエネルギーは爆発した。まことに皮肉な現象というほかない。」
岡本健一はここで傍観者風を装いながら、明らかに安本美典に加担したゴシップを振り撒いている。それは安本美典が日本で提唱した数理歴史学の線上に古田史学を置いて理解するという公平を欠いた記述によっても、また『東日流外三郡誌』を「贋作であると見破り」といったデマゴギーを振り撒く筆使いによっても明らかである。そしてかれらの結託は通説という共同幻想の内で成っているのである。
古田史学の誕生を告げる『「邪馬台国」はなかった』(一九七一年)は、たった一文字から発した通説への懐疑が、日本の共同幻想そのものを揺るがす事件へとその後発展した論稿として画期のものであった。古田武彦はすでにその二年前にこの骨子を『邪馬壹国』として「史学雑誌」に発表していたが、その末尾は朱熹の「萬事只空臺」なる詩の一節を引いていたことはよく知られている。もちろんこれはあらゆる通説の拠った「邪馬台国」の台(臺)の一字及びそれに拠った説はすべて空しいとするものであったが、それにとどまるものではなかったのは、これに引き続き『失われた九州王朝』(一九七三年)『盗まれた神話』(一九七五年)の古田三部作が、時を置かずに成立したことによっても明らかである。
残念ながらわたしはその十数年後にやっと古田史学に出会うほかなかったのである。それは点としての「邪馬台国」論争にわたしはまったく興味がなかったからである。わたしのまえに古田武彦がそそり立つように現れたのは、紀元一世紀半ば頃から七世紀後半までの連続する線としての九州王朝論の主張者として、古田武彦の「邪馬壹国」論が見え始めたときからであった。これは邪馬台国を九州にあったとしながら、それを大和朝廷の故地として大和朝廷一元史観におかぐらした安本美典の説とはまったく似て非なるものであった。岡本健一はふたりを邪馬台国九州論者としてただ便宜的にくくり、その本質的な違いとしての思想に目を暝るのである。古田史学は、日本国家を大和朝廷一元史観の内から見るしかなかった者にとって、瞠目すべき画期の次元を開くものであった。ここにおいて皇国史観から津田左右吉に拠る戦後史学はわたしにはまったく色褪せたものへ変質した。その変種にすぎない安本史学もわたしには例外でなかったのである。
七〇年代を挟んで前後して登場した安本美典と古田武彦が、岡本健一らにとって同じように見えたとすればそれはいわゆる「邪馬台国」論において、どちらも一見、戦後史学のタブーに挑んでいたからにちがいない。これは古田武彦の『「邪馬台国」はなかった』の書評を書いた安本美典が「『空谷に足音をきく』思いがした」と書きだしたところによく現れている。彼はこのとき「私は、古田氏とであれば、話しあいができると感じた」と言い、「事実を見ようとしない実証性の欠けた議論の氾濫のなかで、ようやく待ちのぞんだものがあらわれた」とも結んだのである。これは数理歴史学という数理的実証を売り物にデビューした安本美典にとって、コンピューターを駆使していないとはいえ、古田武彦の厳正な史料批判に共感するものがあったからであるが、何よりもわたしは彼にこう言わせたのはその不安にあったと思う。というのは卑弥呼を天照大神とし、また神武天皇実在説を固め、神話と歴史を峻別した戦後史学のタブーに挑みつつあった安本美典にとって、古田武彦の登場はまたとない頼もしい援軍に見えたからではないのか。これが「『空谷に足音をきく』思いがした」意味ではなかったか。
しかし安本美典はその著『神武東遷』がよく示しているように、彼のタブーへの挑戦は通説の大和朝廷一元史観を少しく過去に溯らせ、九州の地に淵源を求めた拡大大和朝廷一元史観といったものであった。これは邪馬壹国から倭国へと発展し、大和朝廷に先在する親国としての九州王朝を実証し、日本古代における多元的な国家展開を実証してゆくその後の古田史学とまったく似て非なる共同幻想に立つものであったことは明らかである。つまり安本説は通説を一歩拡げたエリートとしての満足の内にあったのに対し、古田説は通説の拠る共同幻想そのものの全面的な書き換えを迫るものであった。エリートとしての安本美典はその後自己の拠って立つ基盤を崩しかねない古田武彦に批判的となり、その二〇年後、岡っ引き根性を丸出しにして十手を振り回すに至ったのは、この国の共同幻想に安住したエリート根性をよく示している。始末の悪いことにこの袋の中のエリートは自己だけは何をしようと免罪されていると思うところあるのは、高級官僚とまったく同じであり、それは真実に関係なく各地の発見を通説に取り込む短絡記事を捏造する記者とひとつ穴のむじななのである。
しかし古田史学はそんな真理探究をそっちのけにしたけちな党派性とはまったく無縁である。かれはすでに「邪馬壹国」の本質的な意味についてこう書いていた。
「今や新しい研究によって、中国史書の記録した「邪馬壹国」が天皇家の一元支配以前の領域に属したことは明白となった。すなわち、この国と「天皇期」とは史的に異質の領域に属している。してみると、両者の「連続性」を仮定して、ただちに「地名比定」からはじめることを拒否したわたしたちの用意が方法論上妥当であったこともまた、おのずから明白となったのである。
しかし、真の問題はつぎの点にあろう。すなわち「地名比定」を行った「邪馬台国」の全研究者が、そのような「連続性」の仮定の中に自分がおちいっていること--その事実を十分に意識しなかったことである。それはほかでもない、明治以降の「近代史学」が、天皇期の「胎内」から、根源的に踏み出していなかった、そのいつわりがたき事実の証明だったのである。」
かれらは古田史学のこの本質論をぼかすために、こぞって古田武彦に執拗に偽書疑惑を実証することなくただデマゴギーだけを振り撒いているのは、今や彼らの利害が通説としての連綿たる天皇制の共同幻想に骨がらみされているからにほかならない。しかしこの他に対して傲岸な危うい共同幻想を日本人自身の内から追放することなくして、日本国家の罪をたまたま罰として引き受けるに似たペルーの人質事件はこれからも繰り返されることはまた明らかである。かれらには党派思想はあっても本質的な思想を欠いているのだ。(H9.1.26)
年初の御挨拶
代表 水野孝夫
本年最初の会報発行にあたり、御挨拶申上げます。会員の皆様方も研究に励まれていることと存じます。本年も会活動へのご参加やご投稿を積極的にとお願い申上げます。
昨年は古田先生が昭和薬科大学を退官され、東京から京都に居を移されました。ご身辺の整理に忙しく、また研究に専念されたいと,のことで、講演等は遠慮したいとの方針のため、著作物を通
じてのおつきあいしかできず、やや淋しい思いをしておりました。とはいうものの先生のことですから、新しく研究が進めば誰かに話したいに違いなく、そのうちにお話をきく機会もあるだろうと期待もしておりました。昨年末ごろから「学問上の必要に応じて」なら共同研究や講演等をしてもよいと制限がゆるんできたように感じます。今年は先生にも参加していただけるような行事を計画してゆきたいと考えている次第です。少なくとも定期総会には従来のような「講演会」を実施できる見通しとなりました。
京都に近いところに住んでいるわたしたち会員は、頭脳の方は先生にまかせ?、足(車での案内)や手(ワープロ入力やテープおこし)や目(資料検索)の役ができればと願っております。こういった面で協力したいという希望の方々があれば、御協力をお願いいたします。昨年末には太田氏とわたしが加茂岩倉遺跡へ先生と同行するチャンスがありましたが、出発から帰着まで寝る間も惜しむかのような講義と討論の連続でした。年初に、わたしはある原稿のワープロ化をお引受して大した量ではなかろうとふんでいたら、B四版十四枚にも増えて、ほとんど徹夜しました。でも、よい勉強になりますよ。
和田家文書の問題は、和田喜八郎氏に対する訴訟・裁判の問題があって進展が阻まれておりましたが、一月末に終結しましたので、新たな進展(寛政原本の公開を含む)につながればと期待しているところです。
会員論集「古代に真実を求めて」は昨年第一集を発行できましたが、ワープロ印刷だった点がやや残念でした。第二集からは明石書店で発行していただける見通しであることは既に会報で御紹介しております。ただ、この会員論集を会員に無料配布するとなると、年会費三千円では永続は困難です。本会発足時の年会費案は五千円でありましたが、会員誌の発行体制が整わず、暫定的に現在の会費をお願いした経緯があります。
会員論集は無償の賛助会員と会報のみの一般会員を分けるなども考えられますがどこかで会費改訂をご提案させていただく必要があろうかと考えます。
あまりご挨拶らしくない語り口になりましたが、本年もどうぞよろしくお願い申上げます。
□ □ 事務局だより □ □
◇会員の皆様に朗報。古田先生の講演会が再開されます。当面は六月頃に定期会員総会を兼ねて、関西講演会をお願いしています。次号にて詳細を報告できると思います。
◇朗報第二弾。京都で古田先生と共同で「九州年号研究会」を開催する予定です。先生のご了承を得ていますので、今後具体化したいと思っています。参加希望者、運営に協力していただける方を募ります。事務局古賀まで御一報
下さい。
◇先月、新年のごあいさつを兼ねて古田先生の御自宅へうかがい、和田家文書コピーのファイリングを手伝いました。段ボール箱五〇箱に及ぶ膨大な量ですので、かなり の時間と人手が必要です。こちらもボランティアを募ります。偽作論者もこの作業を手伝えば、毛筆により個人に偽作できるような質と量ではないことが、文字通り体感できるはずですが、そういう方はもちろんお断りします。
◇古田先生は本年も、和歌山県新宮のお燈祭見学、神戸で出土したほう製鏡見学、出雲旅行、志賀島・福岡、高知足摺へと、調査旅行などを精力的に行われています。現在は会員論集用の原稿執筆(アウグスト・ベイグ)や『奥の細道』筆跡研究など研究の勢いはますます盛んの御様子。
◇会員論集『古代に真実を求めて』2集の原稿も順調に集まっているとのこと。先生の古希のお祝いのメッセージが中山千夏さんや上岡龍太郎さんなどからも寄せられており、発行が楽しみです。
◇本号では林氏の「憶良と日本」、佳境に入った室伏氏の連載など、玉稿を頂けました。会員の皆さんの各地の情報などをお寄せ下さい。あまり難しく考えないで、気軽に御寄稿をお願いします。
◇和田家から「天国」在銘刀と和田末吉の新聞記事が発見。おかげで、小生日本刀の勉強と、父が所蔵している刀剣で観察眼を養成中。調査結果を乞う御期待。(古賀 )
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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