古田史学会報 2002年2月5日 No.48


盗まれた年号

白鳳年号の史料批判

京都市 古賀達也

はじめに

 九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳である。『二中歴』などによれば、その元年は六六一年辛酉であり、二三年癸未(六八三)まで続く。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当する。その間、白村江の敗戦、筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生している。こうして見ると、白鳳年間とは九州王朝の滅亡と大和朝廷への権力交代による動乱の時代とも言いうるであろう。
 この白鳳年号は『日本書紀』には記されていないが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(七三七)「太政官符謹奏」にも現れている。次の通りだ。

 「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
          『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)

「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事
右得皇后宮識*觧稱*。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。(以下略)」
         『類従三代格』「太政官符謹奏」
           天平九年三月十日(七三七)

     識*は言偏の代わりに身編。
     稱*は、禾編の代わりにイ〈人編)。JIS第3水準ユニコード5041

 このように、本来九州王朝の年号であった白鳳が、近畿天皇家側の公文書に散見されることは興味深い。もっとも、こうした九州年号の盗用は、大化・白雉・朱鳥の三年号が『日本書紀』において既になされており、不思議とするところではないのかもしれない。(注1)
 一方、後代史料などに見える白鳳が、その元年を天武元年壬申の年に改変されている例が少なからず存在することはよく知られている。よって、本稿では、この白鳳年号の盗用と元年の改変に関して論じ、その歴史的意義について考察してみたい。

 

改変された白鳳年号

 本来九州王朝の年号であった白鳳を近畿天皇家の天武天皇即位年(六七二年壬申あるいは六七三年癸酉)に元年を移動させた、いわゆる改変型白鳳年号は多くの後代史料に見える。たとえば、江戸時代に成立した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』(注2)の博多官内町海元寺の項に、次のような白鳳年号を記した金石文が紹介されている。

 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れす。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」
     『筑前国続風土記附録』
        博多官内町海元寺

 博多湾岸から江戸時代に「白鳳壬申」と記された骨蔵器の出土記事である。ところが、この『筑前国続風土記附録』に次いで出された『筑前国続風土記拾遺』(注3)では、同記事が次のように引用されている。

 「附録に近年濡衣の邊より石龕を掘出す。中に枯骨あり。其石に白鳳元壬申と識せり。其龕寺内に移せしよしいへり。今寺僧しらす。」(傍点、古賀)
      『筑前国続風土記拾遺』海元寺

 『筑前国続風土記附録』には「白鳳壬申」とあったものが、『筑前国続風土記拾遺』では「附録」からの引用と記していながら「白鳳元壬申」と「元」の一字が付け加えられている。これは、白鳳年号を天武の年号と理解し、「壬申」はその元年に当たるとした『筑前国続風土記拾遺』編者による改変の例である。本来の九州年号「白鳳壬申」であれば、それは白鳳十二年(六七二)に相当するからだ。
 なお、同骨蔵器は海元寺には現存せず、行方不明である。九州年号を記した同時代金石文であった可能性が高いだけに残念なことである。(注4)

 次に紹介するのは、本来の白鳳と改変型が混在するという珍しい史料で、それは福岡県久留米市の高良大社が蔵する『高良記』という文書である。ちなみに、高良大社祭神の高良玉垂命は倭の五王時代の九州王朝の王であるとわたしは考えている。(注5)また、その末裔である稲員家は現在まで連綿と続いている。

 「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ、大祝ニシタカイ、大菩垂亦ニテ、ソクタイヲツキシユエニ、御祭ノ時モ、御遷宮ノヲリフシモ、イツレモ大菩御トモノ人数、大祝ニシタカウナリ」
 「御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」(傍点、古賀)
   『高良記』(久留米市高良大社蔵)

 このように『高良記』には高良玉垂命の御法心を「白鳳二年」と記す部分と、「白鳳十三年、天武天皇即位二年癸酉」とする二例が混在している。これは本来の九州年号の白鳳十三年癸酉(六七三)であったものが、その年が『日本書紀』の天武二年癸酉に当たるため、「天武天皇白鳳二年」とする改変型が発生したものと思われる。そしてその両者が不統一のまま同一文書内に混在しているという珍しいケースだ。ちなみに、この『高良記』は中世末期から近世にかけての成立と見られている。先に紹介した『筑前国続風土記拾遺』の例と同様に、近畿天皇家一元史観による白鳳年号のイデオロギー的改変の例である。

 

改変型白鳳年号金石文

 以上、紹介したような白鳳のイデオロギー的改変は何時頃から行われたのであろうか。今までそれは、九州王朝の存在が忘れ去られ、『日本書紀』成立以後の近畿天皇家一元史観が流布した時代からと、漠然と考えていたのだが、どうもそうではなく、かなり早くから九州年号の盗用改変が行われていたと、わたしは考えるようになった。それは次の金石文の史料批判により導かれたものだ。大正十年に発行された『大日本金石史』に次のような白鳳年号金石文の紹介と解説がなされている。

 「(七九)大和 川原寺寫經記念石版
  清御原宮御
  二七月九
  始寫一切 詔諸
  臣之先寫無量壽
  一千爲拾函
  少僧謹誌

 天武天皇の白鳳二年癸酉三月、一切經を川原寺に移し玉ひ、「七月九日」に、その書寫を始めさせられた時に、「先づ、無量壽經一千部」(拾函)を寫さしめられたのを記念すべく、この文を石に刻したといふのであつて、それが舊十市の村民の、曾て發掘したものであるといふ事は、左の識文に見えてゐる。

艸溪所刻十市村[靡リ]地所得招提律寺長老寶固好溪公亦巧彫乃暮*如誰知其非原刻因知吾邦奉 始書始講並係斯經太奇此喜與原刻傳於不可謂亦妙名良深草善福寺之僧
    文政庚(元年)秋八
           東山竹 

 佛教大年表に、その年の十二月、「義成」は「少僧都」に任じ、佐官二僧となすといふことが記されてある。この物、もし眞物でありとすれば、それは「少僧都」になつてからの作でなくてはならないが、眞僞は今これを保留するとして、我邦寫經の史料参考に値すべきものたるを失はぬであらう。
 川原寺は即*ち高市郡高市村の弘福グフク寺で、大安寺の前身なる高市大寺・元興寺の後身たる飛鳥寺と共に、勅願三大寺の一つであつたことは言ふまでもない。」
   『大日本金石史』(大正十年刊)
     [靡リ]は、靡に立刀編。JIS第4水準ユニコード5298
     暮*は、下の日が手偏。JIS第4水準ユニコード6479
     即*は異体字〈表示できません。)。JIS第3水準ユニコード5370

 当金石文は大和の十市村から文政元年頃に発掘されたもののようで、その内容は天武二年に行われた川原寺での一切経書写に関連するものであるが、『日本書紀』には次のように記されている。

 「是の月に、書生を聚つどへて、始めて一切経を川原寺に寫したまふ。」

 『日本書紀』天武二年(六七三)三月条 また、当銘文を記した少僧都義成についても、『日本書紀』天武二年条に次のような記事が見える。

 「戊申に、義成僧を以て少僧都とす。是の日に、更に佐官の二人の僧を加ふ。其の四の佐官有ること、始めて此の時に起これり。」
          『日本書紀』天武二年(六七三)十二月条

 『大日本金石史』編者の解説では、義成が少僧都に任じられたのはこの年の十二月であるから、七月九日では少僧都になる前なので、真偽を保留するとしているが、これは編者の誤読であろう。なぜなら、七月九日というのは一切経書写の時点を示し、当石版の銘文を記した日ではないからだ。義成が銘文を記した日は記されておらず、不明とせざるを得ないが、少僧都に任ぜられた天武二年十二月以降のこととなるであろう。

 また、『日本書紀』によれば川原寺での一切経書写は同年三月とされているので、銘文にある七月九日とは一切経書写完了日のことと思われる。これは『日本書紀』には見えない情報であり、当石版を真作とする根拠とも言える。何故なら、偽作するのであれば、『日本書紀』の日付に合わせそうなものであるが、そうはなっていないからだ。
 次に、『大日本金石史』の解説では、天武二年の一切経書写において先ず書写した無量壽經一千部を十函にしたとするが、これも誤読のように思われる。なぜなら、「詔諸臣之時」とあるように、これは一切経書写を命じた時としか考えられず、この時点から一切経書写が始まるのであるから、最初に書写した無量壽經一千部など存在しようがない。従って、「先寫無量壽經一千部」とは、天武二年の一切経書写よりも以前(先に)に書写してあったものと理解する他ないのである。すなわち、当石版は、十函に収めた無量壽經一千部が天武二年に書写した一切経とは別であることを記録するために作成された、そういう史料性格を持つのではあるまいか。

 このように理解した時、当石版は同時代金石文の可能性が極めて高いものと考えざるを得ない。そうすると、ここに見える「白鳳二年」は改変型白鳳年号の最も早い例となり、しかも天武朝中枢近くに居た人物、義成による改変となるのである。ただ、『日本金石史』掲載の「識文」によれば、銘文は原刻からの引用ではなく、江戸時代の模刻に依っているようでもあり、模刻時において「白鳳」が「改変」「加筆」された可能性も無しとはできない。その場合は本稿論旨も自ずから変更しなければならないが、現時点では『大日本金石史』紹介の銘文に基づいて論を進めたい。なお、当石版の所在は不明であり、今後の調査課題である。

 

白鳳年号盗用の論理

 当銘板は白鳳年号を盗用した同時代金石文の可能性を強く持つのであるが、もしそうであれば、この他王朝の年号盗用という論理構造を追うことにより、七〇一年を境とする王朝交代期の実相を探る手がかりとなるのではあるまいか。最後にこの問題を考えてみたい。
 この「白鳳二年」の銘を持つ金石文の成立は、おそらく『日本書紀』成立以前と思われる。何故なら、天武二年(六七三)に少僧都に任命された義成の年令を仮に四十歳とすると、『日本書紀』成立の養老四年(七二〇)では八七歳となり、いささか高齢に過ぎるのではあるまいか。また、天武二年に行った一切経書写に伴い、それ以前にあった無量壽經一千部を別途保管するという銘文の内容からも、天武二年からそれほど隔たっていないのではあるまいか。従って、当銘文の成立は六七三年から数年程度後のこととするのが穏当であろう。そうすると、滅亡寸前とは言え、九州王朝はまだ存在しており、九州年号も実用されていた時代となるのだ。
 そして、この改変型白鳳年号の使用は義成の私的行為、個人的趣味などで行ったとは考えられない。年号の持つ政治性、公的性を直視する限り、この白鳳年号の改変盗用は近畿天皇家の命令下になされたものと考えざるを得ないのである。当一切経書写そのものが天武朝による国家的事業としてなされたのであるから、なおさらである。そうすると、改変型白鳳年号の使用を命じたのは天武あるいは持統である可能性が高いのではあるまいか。
 こうして、『日本書紀』において孝徳の即位年と在位期間にあわせて改変盗用された大化・白雉の先例を、この銘板の白鳳に見るのである。そうすると何故、天武達は自ら年号を建元せずに、九州王朝の白鳳を盗用したのであろうか。もしかすると、天武は九州王朝から自らへの権力交代を「禅譲」という形にしたかったのではあるまいか。天武が九州の有力豪族、宗像君徳善の娘を娶っていることや、その間にもうけた高市皇子の壬申の乱での活躍を見ても、九州と天武の関係の深さがうかがわれる。しかしながら、最終的には近畿天皇家は、先在した九州王朝をなかったことにし、神武の昔より近畿天皇家が列島の代表者であったかの如く歴史を改竄する道を選んだのは、『古事記』『日本書紀』の述べるところである。
 以上、白鳳二年銘石版の示すところを論理により追跡してみたが、現時点ではこれ以上の推論は危険であろう。しかしながら、九州王朝から近畿天皇家への権力交代の混乱期における当事者達の心慮の痕跡が、本稿によりまたひとつ明らかにできたのであれば幸いである。

(注)

1 古賀達也「朱鳥改元の史料批判」『古代に真実を求めて』3集(二〇〇一年、古田史学の会編。明石書店)において、『日本書紀』における大化・白雉・朱鳥の三年号の盗用のされ方について論じた。

2 『筑前国続風土記附録』加藤一純・鷹取周成編著、寛政十年(一七九八)成立。

3 『筑前国続風土記拾遺』青柳種信著、天保年間頃成立。

4 同時代九州年号金石文について、筆者は「二つの試金石 ーー九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第2集(一九九八年、古田史学の会編。明石書店)にて、大化五子年土器(茨城県岩井市冨山家蔵)と鬼室集斯墓碑(「朱鳥三年」銘あり。滋賀県蒲生郡日野町鬼室集斯神社蔵)の史料批判と紹介を行った。参照されたい。

5 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮--高良玉垂命考」『新・古代学』4集所収。(一九九九年、新泉社)

〔筆者後記〕本稿は、二〇〇一年十一月二五日に多元の会・関東主催「万葉集と漢文を読む会」にて発表させていただいた「白鳳年号の史料批判」をまとめたものである。同時に発表した「万葉仮名と肥人」については別に詳述する機会を得たい。
 なお、本稿執筆直後、「白鳳二年銘版」の白鳳を文字通り、本来の九州年号とする可能性について、古田武彦氏よりご指摘いただいた。この点、調査検討の上、続編に期したい。

〔編集部〕本稿は『多元』 No.四七(二〇〇二年一月)より転載させていただきました。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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