古田史学会報四十九号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
日進市 洞田一典
「法興六年十月歳在丙辰我法王大王與恵慈法師及葛城臣逍遥夷與村正観神井云々」と『風土記』逸文に残る、いわゆる「湯の岡の碑」は、日本古代史を語る際しばしば登場します。しかし碑そのものは所在不明のままです。
よく似た例に「壷の石碑」(つぼのいしぶみ)があります。古田先生の『真実の東北王朝』(駸々堂出版、一九九〇)によれば、平安・鎌倉の頃の和歌に「みちのくの壷のいしぶみ」としばしば詠まれた石碑は、『東日流六郡誌絵巻』「第七十一番、都母の石碑」に「日本中央」とのみ刻まれた絵姿で登場します。しかも、昭和二十四年には青森県上北郡甲地村地内から現物が発見され、話題を集めることになりました。
これに意を強くして、一丁「伊予温泉碑」を掘り出して(?)やるか!となりました。まず場所を確かめようと、栗田寛(一八三五〜一八九九)の『古風土記逸文考証』(一九〇三)を覗きました。その一部を少々長いですが引用します。
〇湯岡の碑の事 橘春暉が北窓瑣談に、寛政甲寅の春伊豫の国道後の温泉の側に畑ありて、昔より土民の云伝えて不浄を忌む。もし此畑をけがす時は、たたりを得て寒熱を発す。今年松山のそれがし考にて、此中に必聖徳太子の温泉の碑あるべしとて、人して掘らしめしに果して大なる碑石を掘だしたり。
さればこそとて、未だ全く出終わらざる前より水にてあらひなどして見たりしに、聖徳太子その昔温泉へめされし時の御文章みえたりしに、その時随従の人の姓名をのせたり。稀代の珍物なりとて、よろこび掘たりしに、温泉のあたり近き土地をほり穴にせし故に温泉の中へにごりゆきたりしかば、所の人大きに驚き、もし温泉に別条ある時は、此里の人民数百人飢渇に及ぶべし。此碑ほる事無用なりとて、みなみないましめとどめたりしかば、余儀なく又そのままにうづめたり。
いと残り多き事也きと此あたりの人語りきとみえ、また伴信友が逸文風土記の書入に、弘化二年(一八四五)夏、おのれ京にある時、伊與の大洲近きわたりの郷人、矢野玄道といふ若人、物学に京に上りたりとて度々来かようにつきて、道後の湯の碑の事問ひたるに答えし趣。松山領にあり。城下より東方十余町ばかりに道後の湯あり。其東北、湯の元といふ所に義安寺といふ小寺あり。其寺に湯の薬師の小堂あり。堂中に平らなる石凡高さ五尺ばかり、幅三尺ばかりなるを建たり。いつの頃より歟其石の平面を壁の如く土にて塗おけり。此土剥落れば災ありと云伝て、剥れば即ちに塗る例なるが故に石面見る事あたはず。或説に文字ありといへど慥ならず。さて建石の前に尋常の薬師仏の像を安置せるがありと云り。予云、其建石決てかの法興云々の古碑なるべし。伊與風土記の文に、大穴持命・宿奈毘古那命とあるを、常陸なる大洗酒列の磯前の神は、此二神を祭れるを、薬師菩薩の号を賜ひたるに准へて、此なるも然申したるを、後に佛の薬師像を置きたるものなるべし。
北窓瑣談の寛政六年甲寅の頃云々、元の如く埋みたると云るは、伝聞の誤ならんといえば、玄道云らく、瑣談は未だ見ず。さる事の有無も知ずと云り。初冬に及び玄道帰国して、春は再び上京すべき由にて別れを告るにより、いかでよくはからひて尋よとあつらへて、其はからひ方を何くれと示しやりつ。玄道漢才もありて、きはめて朴質なる人也。おのれ前に江戸にて瑣談の説を聞て、松山藩の儒者某に中人もて其碑の事を尋つるに、おろおろ聞及びたり。なほよく問質して答へんとて年経たれども、いまだ答なし。
寛政六年より五十余年、其わたりの若人などは其時の事を聞得たる人もあるべし。今推量するに、大旨瑣談の趣にて、其元の如く埋みたりと云は伝聞の誤りにて、実は彼薬師寺堂にをさめ、其祟あらん事を恐れて碑面を洗磨せず。なほ土を塗たる例として今に及たるに
もやあらん。其心得してよくはからひ
てよと、これも玄道に語りてわかれぬ、と記されたり。今はいかになりぬらむ。よく問尋ねてこの石面を洗ひて、此碑文を搨本にして世に弘めまほしきものなり。
(中略)先年我友大高坂四郎兵衛(政仕号天山)が雑話しけるは、道後南町に居住せる大工あり。此もの先年義安寺本尊の御堂朽損したる処ありて修補しける時、御堂の後板等を取除け、内を見
るに石を建、文字を彫たり。其文字を悉く泥を以て塗り隠しありけると語りぬ。(下略) 弘化三丙午十一月日
いかがです?情報としてはちょっと古すぎる気もしますが、ここまで具体的に、詳しく言われると、信用してしまいますね。当方老弱につき、意欲ある松山市にお住まいの方々に期待します。なお、『古風土記逸文考証』は、有峰書店より昭和五十二年六月翻刻出版されました。
京都市 菅野 拓
去る二月六日、和歌山県新宮市のお灯まつりに「初上り」してきました。新宮は熊野川の河口、三重県との県境の町で、私の第二のふるさとです。
目の前は海、背後は山。江戸時代には、紀州藩を監視するために三万五千石の水野氏の居城が置かれたことからも、要衝の地であることが分かります。新宮港があり、大東亜戦争末期の米軍の艦砲射撃は、惨害目を覆うものがあったと故老の言。
同時に、この地は、大石誠之助、明石静栄、佐藤春夫、中上健次ほか多くの人を輩出しています。そして、古代史においては、神武の通った道です。
お灯まつりの感想、とても言い尽くせません。すぐ前にいた人が押し倒されて意識不明の重体になるなど、波乱ぶくみでしたが、無事帰還しました。炎と煙にまかれて、縄文期の風景を実体験したという気持ちが体にまだ満ちています。
お灯まつりは、神倉山(NHKなどの放送では「かみくらやま」だが、現地音は「かみくらさん」)という小高い山で行われる、新年を告げる古くからのまつりです。
毎年、二月六日になると、上り子と呼ばれるまつりの参加者たちは、白一色の装束を身につけ、腹に荒縄をまきます。巻き方は、三五七の奇数のどれかでなければならず、縄は背中で「男結び」という独特の結び方でとめます。
当日は白いものしか食してはならず、夕刻、熊野速玉大社、阿須賀神社、妙心寺の三社に詣でてから神倉山に入るのです。熊野灘を一望する頂上近くに、巨石の御神体があり、ここが祭りの舞台なのです。手には、五角柱状に檜を貼り合わせた松明を持ち、その一面には奉納の文字、他の四面にはそれぞれ四文字で願い事を書きます。私は、仏敵討滅、同行した友人は革命達成と、何やら物騒を好んでいます。
夕刻に始まった入山は、午後6時で締め切り。五百段あまりという、険しい急な石段を登り切った二千人の上り子たちが集まるのは、御神体のある山中の境内です。この山中の境内、よく二千人も入れると驚嘆する狭さなのです。
上り子たちは、ある者は静粛をこととし、またある者は相手の胸ぐらをつかみ松明で他者を打ちつけて優劣を競い、ただただまつりの始まるのを待ちます。 やがて午後8時前、宮司が火打ち石で火を起こし、それが次々と二千人の上がり子たちの松明に移されると、まさに一面火の海です。この火が移されていく間、境内の門は外から閉じられて、上り子は逃げ場がありません。本当に火攻めと煙攻め。私も、松明の火が頭に落ちて、ずきんが焦げたり、手を少し火傷しました。 いつしか「開けろーっ、開けろーっ」の大合唱が上り子たちの間から起こりますが、介釈という名の屈強な氏子の男たちが、樫の木の介釈棒で、外に出ようとする上り子たち叩きまくります。とにかく、三十分近くは火炎に耐えなくてはならないのです。そして、門が開け放たれると、一気に上り子たちは石段に殺到する。踏み外す者、転げ落ちる者、それらを尻目に松明を手にした男たちが、一番手を競うのです。「山は火の滝、下り竜」と歌われる光景です。
ただ、今年は、小さな子を連れた上り子が門の近くに沢山いて、その子たちが転倒したのが引き金になり事故に。ふつうは、小さな子は、境内の一番奥、門から遠い安全なところに置くものなのに、何という大人たちだろう。今までお灯まつりでは、これほどの事故はなかったそうです(幸い、重体だった人も意識が戻り、回復に向かっているとのこと、よかった)。
俳優の原田芳雄さんも上り子にいました。毎年、上がっているそうです。彼の松明には「身体堅固」の文字が。さすが、役者ですね。
ちなみに、このお灯まつり、まつりで死んだ者はいないかわりに、その前後での死者はこれまでも多かったそうです。要するに、当日は無礼講の雰囲気がありこれにかこつけて日頃快く思っていない相手を叩きのめそうとして喧嘩があちらこちらで起き、私たちが上がったこの日も、いたるところでやっていました。だから、新宮の男でも、難を恐れて一度も上らない人が結構います。警備の機動隊も滅多にない実戦とあって、突っかかってくる上り子たちを袋だたきにしているという話です(機動隊を一撃して男を上げようという者が少なからずいて、今年も境内で待つ間に「機動隊をやったる」と血気盛んな若衆を見受けました)。
しかし、原田芳雄さんも土地の新聞のインタビューに答えていましたが、よそ者を排除しない熊野の人たちの温かさが、お灯まつりの良さです。しきたりに従いさえすれば、誰でも(だだし男に限るのが残念)参加できるのです。「よそ者」は、新宮市の商工会議所に集まります。ここでは、装束の支度から、白飯、かまぼこ、べったらづけ、酒といったもてなしを、無償でしてくれます。人の心のぬくもりが伝わってくるまつりです。
女人禁制ですが、一昨年だったか、男と同じ装束で外国人の女性が上ったともっぱらのウワサです。新宮の女の人たちは、この快挙を小気味よがっていて、そういう反応もいいものです(伝統を汚すとか言うんじゃなくて)。
その年は、キムタクもお灯まつりに参加する予定で、紀伊勝浦のホテルまで来たものの、山のようなおっかけにUターンしたとか。
このお灯まつり、来歴には諸説ありますが、古田武彦氏が「縄文期の風景」と喝破したのが正鵠を得ていると思います。炎と煙にまかれた上り子には、縄文期の風景が見えるのです。
最後に。同行した友人が、熊野川に面した高台にある水野氏の居城跡(丹鶴公園)を歩いて、慨嘆することしきり。軍事史研究家の彼いわく、この城構えは、三万五千石などというケチなものではない。優に十万石はある。もし城郭今にあるを見れば、威容いかばかりであったか、と。
維新政府が、一切の城郭を破却した時、新宮の民衆は驚愕したでしょう。権力の崩壊、そして新たな権力の登場。これほど効果のある演出はありません。白村江で倭国を撃破し、九州を占領した唐軍がやったことを、薩長連合もやったのです。
熊本市 平野雅曠
明治二二年二月五日、東京の養徳(やまと)会から、「やまと叢誌」第一号として発行された『襲国偽僭考』の版本には、
「文政三年春
つるみねの 志げのぶ
あしがちる 難波なる 久太郎街の
僑居 志るす」
という奥書が付いている。
○文政三年は、西暦一八二〇年
○僑居は旅先の仮居。
○“あしがちる”は、難波の枕言葉。
大伴家持は、「防人の歌」で、
四方の国より たてまつる 貢の船は
堀江より 水をびきしつつ
『万葉集』巻二十
難波の港へ、筑紫や瀬戸内海沿いの国々から、貢物の船が次々に入ってくる光景を述べて、この長歌の後へ、
海原の ゆたけき見つつ あしがちる 難波に年は 経ぬべく 思ほゆ
の反歌をあげている。(いつまでも住みたい、と述べている。)
難波は当時、関西一の商港として出船入船で賑ったもので、金の流れも豊かに栄えていたことが知られている。
難波の枕言葉には、も一つ、「押し照るや」というのがある。いずれも「レプチャ」語である。
オシ(栄える)、テル(栄える)を抱き合せた“万才ことば”で強めたもの。
では、“あしがちる”とは、やはりレプチャ語で、
「ア・シン(又は、ア・シ)」。その意味は、誰でも欲しいもの、珍しいもの、尊いもの、お宝、チンジャラの“おあし”、
「ちる」次々に入ってくる。
いや、文政年間の鶴峯戊申ならずとも、本を出版するには、難波の久太郎街のような、あしがちる、チンジャラ街は必要なところですバイ、ハハハ。
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第九話◇◇◇◇◇◇
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ーー
「バカ者!」
鋭い平手打ちと共に、少女の体は階段(きざはし)の下へ転げ落ちていた。
「何じゃ、その踊りは? 顔を洗って出直して来るが良いわーー!」
日に焼けてひからびた老婆の顔が一瞬、目と歯をむき出し、戸を閉める。
通行人は皆、呆気に取られ、
「おい、大丈夫か?」
「鈿女(ウズめ)姉ちゃん、しっかりしなよーー。」
鳥餅竿(とりもちざお)を手にした上半身裸体の少年と、すらりと背格好の良い若者が馬を下り、少女の傍(そば)へ駆け寄った。
「あ、天若彦(あめのわかひこ)様……。」
少女は居住いを正そうとしたが、再び蹲(うずくま)ってしまった。擦り傷だらけの膝や踝(くるぶし)に血が滲んでいる。
「無理するなよ。」
若者は制して、
「金(かな)、手を貸せ。」
少年を促した。
相手は心得て、さっそく少女の両足を支えてやる。若者は少女の両脇から手を差し入れ、二人がかりで裏木立の池へ運んで行った。少女を岸辺に横たえ、二人は交互に傷口を洗い、近くの茂みから薬草を取って来ては、かんだり手でもみほぐしたりして塗り付け、乾いた布で縛ってやる。
「すみませんわねえ・・・皇子(みこ)様にまでご迷惑をおかけして・・・。」
少女が顔を歪めながら礼を言うと、
「困った時はお互い様さ。」
若者は屈託なげに白い歯を見せ、
「お姉ちゃんは、おいら達が怪我をすると、いつも手当をしてくれるじゃないか。たまにはお返しをしなくちゃ──ね、皇子様?」
少年も、おませな表情で若者を仰ぐ。
涼やかという形容がぴったりの若者は、天国(あまくに 現、壱岐・対馬)の現大王(おおきみ)天之忍穂耳(あめのおしほみみ)の従兄弟で、天若彦という名前だった。元女王(ひめおおきみ)の天照とその夫高木王(たかぎのきみ)は健在だったが、年令を考えて第一線を退き、長女の豊秋津に須佐之男の血を引く天之忍穂耳を迎えて天国の政治(まつりごと)を託したのである。少年は韓(から)地(南朝鮮)から移って来た鍛冶屋の麻羅の息子金(かな)。十代半ばながら黄金色の滑らかな肌、腰つきや胸の膨らみに早や成熟した女らしさが匂う少女の方は、天国の王族の端に連なる鈿女(ウズめ)という巫女(かんなぎ)の卵である。
収穫祭を間近に控え、巫女(みこ)達は連日踊りの稽古に余念がなかったが、師匠の雉子鳴女(きざしなきめ)はどういう訳か鈿女を毛嫌いし、他の者なら笑って見逃して貰える失敗でも鈿女に限っては平手打ちやムチを飛ばし、頭から水を浴びせた。
「お師匠様はあなたを跡継ぎにと望めばこそ、厳しくなさるのよ。」
と、母の衣織(みそり)は言い聞かせ、
「あんたが巧(うま)過ぎるんで、嫉妬(やっか)んでるんじゃない?」
姉の探女(サグめ)は慰めてくれたが、鳴女が踊りには足腰の鍛錬が必要とて、薪割りや水汲みまで鈿女に押しつけるのを見て直訴した為、豊秋津妃は大国(おおくに 出雲)や木の国(現福岡県基山付近)から新たな舞いの師匠を何人か呼び寄せ、巫女達を指導させる事にした。おかげで他処者(よそもの)に弟子を奪られた、と鳴女は姉妹を逆恨みし、鈿女への虐待は募る一方で、とうとう人前も阻からず階段から突き落とす始末になったのである。
「年寄りの僻(ひが)みや依怙地(いこじ)は叶わないからなア・・・。」
金(かな)が母の料理や裁縫のやり方に不平ばかり鳴らしている祖母を思い浮かべ、溜息をついた時、天若彦が急に大声を上げて駆け出した。鈿女の手当に気を奪られている隙に、愛馬があらぬ方へ疾走し始めたのだ。井戸端会議に興じていた女達や、行商人(ものうり)が慌てて道をよけ、素焼きの壷や竹籠、箒が回り中に散らばる。
「オーイ、誰か、その馬を止めてくれエ!」
天若彦は必死にどなったが、黒くはねる影は兵士らを振り切って宮苑に躍り込んで行き、
「鈿女、母様がーー。」
探女の悲鳴が重なった。
〈続く〉
〔後記〕干支(えと)に合わせた訳ではありませんが、最初から暴れ馬が登場してしまいました。この干支もいつ、どうやって日本にもたらされたのか、興味ある問題の一つです。前々号で平野雅曠氏が取り上げておられたレプチャ人、チベットでは「モン」と呼ばれたそうですが、現ビルマの海岸地帯の住民が「モーン族」といわれており、山岳地帯の方は土地の言葉で「ピュー族」と呼ばれ、これが古代中国の『新唐書』には「驃(ひょう)国」と記されているとの事でございます。ヒマラヤ山麓でも大昔から度々大洪水が起こり、住民は四散したとの伝説がありますから、紀元前二世紀頃のレプチャ人の「民族大移動」もフィクションとはいいきれません。ヒマラヤ付近にもシルクロードの一部が通じておりましたし、ビルマの方が古代日本よりも距離的に遙かに近く、又、地続きなのでございますから。
(深津)
随想 月 三題 京都市 古賀達也
『神武が来た道』について 生駒市 伊東義彰
豊中市 木村賢司
日本列島は古代多元王国であった。中国の史書で倭国とある国は、北九州を中心とした領域を持つ、九州王朝であった。
一世紀中葉に中国の「後漢」の光武帝から、委奴国王として、金印を授けられた国。三世紀中頃に三国の一つ、「魏」から、親魏倭王として金印の他、銅鏡、錦等を授けられた女王卑弥呼の国、邪馬壹国。五世紀に「中国の南朝」から、鎮東大将軍倭国王等を授けられた、いわゆる倭の五王の国。六世紀終わり近くに中国を再び統一した「隋」に、七世紀の初めに「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや…」と国書を送り、天子を名乗った多利思北孤のイ妥*国。そして隋を滅ぼした「唐」と七世紀中葉に戦って白村江で敗れ、王である筑紫の君は捕らえられ、首都北九州は唐軍に進駐され、七世紀末についに滅亡した国。これらはいずれも北九州を中心として実在した、中国の歴代から倭国と呼ばれた九州王朝であった。
一世紀初め、北九州の王族の一派(神武)が、近畿に進出し、奈良盆地に拠点を築き、次第に領域を拡大、七世紀までに列島のナンバーツーの王国になった。白村江の戦いに参戦せず、兵力を温存。白村江の戦いで敗れて衰退した九州王朝を併合して、大和王朝を樹立。自ら日本国と名乗り、八世紀の初頭の七〇一年に「唐」の則天武后に承認された。
七〇一年を Old倭国から New日本国になったONラインと呼ぶ。でも、五世紀のはじめ、神功皇后にまつわる応仁朝誕生や六世紀の初頭に北陸から起こった継体帝に、大和王権は乗っ取られた経過がある等、日本国樹立までの大和王権の系譜に乱れは多い。現天皇家は継体帝からつながる王権王朝であった。
古代日本列島は北九州王朝や近畿大和王朝以外にも、多くの王国が盛衰した。古くは石器時代の出雲王朝、青銅時代の銅鐸王国、さらに吉備王国、関東の大王国等々である。大和王朝の日本国樹立時点七〇一年には、関東、北陸以西は、大和王朝の勢力範囲にあった。でも、日本列島の東北は別、すなわち東北王朝の国であった。当然北海道はアイヌ国で沖縄は琉球国。
東北王朝は十一世紀の中葉、前九年の役で、八幡太郎義家が安倍貞任を衣川で滅ぼすまで存在した。少し古いNHKの大河ドラマ「炎立つ」ではないが、その後十二世紀の奥州藤原三代は、王朝が復活したかのように、ほぼ独立国であった。
十二世紀の末近く、頼朝の奥州侵攻で泰衡を追討してやっと大和王権に従属した。それでも、なお、王朝の一派は津軽の地で、豪族として生き残り、室町時には十三湊を中心として、大いに栄えた。
戦国の世となり、南部氏およびその武将津軽氏に攻められ、一部は北海道に渡り、一部は秋田に逃れた。徳川の世になり、秋田に逃れ秋田氏を名乗った一族は、陸奥三春藩五万石の大名として、内陸転封され、明治に至った。
以上が、耳学問で得た、私の古代史と東北王朝史の認識概要である。
東北王朝の発生は、東日流外三郡誌にアソベ族、ツボケ族、他がアラハバキ族として融合して、王朝を建てた。とある。
東北王朝は三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡等々で出土した、特有の縄文土器、土偶文化を持った地域を中心として成立したものと見られる。
では、八世紀の初頭、大和朝廷、日本国樹立時の東北王朝の領域は、どこまでだったのだろうか。
*大和朝廷の行政拠点跡が発見されない地域。
*東北独特の縄文土器、土偶の出土した地域。
*平城宮跡から出土した、地方からの貢進物をしめした木簡。(東北からの貢進木簡が出ない。)
*東北特有の方言、俗にズーズー弁圏とみる。
*カマド圏とイロリ圏のイロリ圏。なかでも煙抜き小屋根を大屋根の中央に持つ地域。
*東北特有の地名を持つ地域。たとえば館・舘・楯を地名に持つ地域。
私は今回、館・舘・楯を今も地名に持つ処を、郵便番号簿から抜いて、地図上にプロットすることで推定できないか、と考えた。
館・舘・楯を持つ地名数(都道府県別)
ぽすたるガイド「新郵便番号簿」'97にて調査
都道府県 館・舘・楯が後に付く数 総数
北海道 4 14
青森 39 51
岩手 16 21
秋田 20 30
宮城 13 36
山形 11 35
福島 19 40
新潟 7 10
栃木 0 1
茨城 0 47
群馬 1 2
埼玉 1 1
千葉 0 1
東京 0 2
神奈川 0 0
山梨 0 0
長野 0 0
静岡 0 0
富山 4 6
石川 4 7
福井 0 1
岐阜 0 1
愛知 0 0
三重 0 1
滋賀 1 1
京都 1 1
奈良 0 0
和歌山 0 0
大阪 0 0
兵庫 0 0
鳥取 0 0
岡山 0 0
島根 0 0
広島 0 0
山口 0 0
香川 0 0
愛媛 0 0
高知 0 0
福岡 0 0
佐賀 0 0
長崎 0 1
大分 0 0
熊本 0 0
宮崎 0 0
鹿児島 0 0
沖縄 0 0
合計 145 270
調査データを上表「館・舘・楯を持つ地名調査」で示したが、私が予想した以上に東北王朝の証が、今も残っていることを知った。
東北王朝の中心領域は、北から、青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島の現東北6県であることを明確に示していた。北海道南端と新潟、富山、石川の北陸3県、茨城県が次ぐ勢力範囲である。と推定できた。さらに、北関東や北陸福井県とそれに接する滋賀北部、京都北部も、わずかに関係があるやに見える。
これら以外の西関東、東海、近畿、中国、四国、九州、沖縄は完全領域外であることを明確に示している。なお、長崎の北松浦郡に舘浦という地名があるが、ひょっとして、安倍貞任の弟、宗任が最終長崎に流されて、その子孫が松浦党になったという伝承もある。その影響かと疑う。
私は、館・舘・楯はいずれもタテではなくダテと濁るのでは、と思うようになった。そして伊達のダテも館・舘・楯のダテと同じ事ではなかったかと疑っている。即ち、東北王朝の拠点の家屋をダテと言ったのでは、と思う。私は柵が拠点と思っていたが、柵は軍事拠点で、行政拠点は「ダテ」という館ではと見る。
同じ東北でも、ダテの残ってない地域がある。元々なかった地域なのか、消された、または消えてしまった地域なのか、現在不明である。
数年前の津軽一人旅で五所川原の旧大庄屋、平山家を見学したが、私のイメージは、これぞ「大館」と思った。
東北地方は、元ダテ王朝か、
今も残るよ、館・舘・楯そして伊達。
(二〇〇二、二・十五 関西例会発表)
□事務局だより □□□□□
▼本号も好論満載。神武論争も伊東氏と西村氏の飛び入り参加で面白くなりそうだ。木村稿も史料根拠が誰でも検証可能で、学問の方法としても骨太で良い。
▼洞田氏からは伊予温湯碑探しの提案。現地、松山でも会員の合田さんが古田講演会開催の為に尽力中。実現が待たれる。
▼菅野さんは初登場。お灯祭の様子がうかがわれて楽しい。氏は嫌煙権訴訟に取り組んでおられる。そうした運動が結実し、日本でも嫌煙権が認められ、新幹線の禁煙車両も増えた。今や分煙は社会的良識と言える。
▼二月、京都嵐山で古田先生と上岡龍太郎氏との対談があり、同席した。上岡さんのトークの旨さは、流石にプロ。感心させられた。しかも、深い教養に基づいており、為になる。同対談が活字になる日が待ち遠しい。
▼新会計年度を迎えました。不況のおり、恐縮ですが会費納入をお願い申し上げます。一般三千円、賛助会員五千円です。
▼『古代に真実を求めて』五集(二〇〇一年度賛助会員へ進呈)は鋭意編集中。ご期待下さい。@koga
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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