古田史学会報
2002年4月1日 No.49


神武の行った道

向日市 西村秀己

 本誌第四八号所載「盗まれた降臨神話」で古賀達也氏は、熊野から橿原に到る神武軍の戦闘記録は天孫降臨説話からの盗用である、とされた。古事記のみの史料批判による論証ゆえ、未だ完全とは言い難いものの、かなりの可能性を秘めていると言えよう。何故なら、神武軍の基本戦略は謀略と騙し討ちであり、戦後の婚姻外交政略とは相容れないからだ。神武軍が他に比して圧倒的戦力を維持していない限り、誰がこのような騙し討ちによって勝ち上がった相手を信用し和平を求めるというのだろうか。ところが、戦後神武は奈良県中南部の矮小な地域に逼塞してしまい、かつ、摂津三嶋の豪族の孫娘を正妃に迎えるのだ。このように戦後の状況を見ても、神武軍の熊野・吉野・宇陀での戦闘記録は周囲から浮かび上がっている。
 余談ながら、古賀氏はこのアイデアを一年以上前から暖めていた。氏が如何に新説の発表に慎重であるかの証左であろう。尚、筆者は本誌第四二号「日本書紀の『倭』について」の中で「つまり、これは天孫降臨時の戦闘記事が神武東侵記事の中に混入したものと考えられる」と述べたが、これは古賀氏のアイデアに触発されたものであることを明記しておく。

 では、ここで古賀仮説の傍証を上げてみよう。神武の前に登場する人物たちには、兄宇迦斯・弟宇迦斯、兄磯城・弟磯城などの兄弟豪族がいる。彼等の名前は「兄(又は弟)+地名もしくはそれに類するもの」という構成であり、尚且つ本名ではない。何故なら、

 弟磯城、名は黒速を、磯城縣主とす。(神武二年二月二日条)
 
 と、あるように名は別に有り、これは寧ろ称号というべきものである。では、これは一種の兄弟統治ではないだろうか、とは九州王朝論者は誰しも考えることであろう。以下、日本書紀に記載されたもののうち先の条件に合致するものを列挙する。

 兄猾・弟猾(神武即位前紀戊午八月)
 兄磯城・弟磯城(神武即位前紀戊午九月)
 兄倉下・弟倉下(神武即位前紀戊午十一月)
 兄夷守・弟夷守(景行十八年三月)
 兄熊・弟熊(景行十八年四月)

 以上である。景行十八年のものは例の「景行の九州大遠征」の途次に登場する。つまり、この兄・弟の統治者セットは神武の侵路以外には九州にしか登場しないのである。これはどう考えるべきであろうか。古賀仮説が正しいければ、これらの兄弟は全て九州の豪族となる。そして、天孫降臨以前或いは前つ君の統一以前より、九州には兄弟統治の原型が存在したことになる。さらに言うならば、高天原神話には兄弟統治の痕跡は感じられない。とすれば、九州王朝はそれに先在した九州本土の「国つ神」たちの兄弟統治制度を踏襲したことになるのである。
 尚、右記以外に、応神三十七年の兄媛・弟媛、或いは雄略七年の吉備上道臣兄君・弟君等が記されているが、これらは本名ではないにしてもそれに類するものであり、先の条件には合致し難い。(尚、播磨國風土記に兄太加奈志・弟太加奈志という兄弟が登場するが、彼等は播磨のある土地を接収するために播磨に現れるのであって彼等の出身地は不明である)
 さて、以下古賀仮説が正しいものとして、話を進めよう。では、記紀は何故神武本来の説話を削除して天孫降臨説話を盗用したのだろうか、という問題だ。これが説明出来なければ、古賀仮説は崩壊する。
 ここで、一旦記紀の記述から離れ、一般論的に考えてみよう。
 神武の東侵軍が生駒山麓の日下で敢えなく敗北し、そのリーダーたる五瀬を失った後、或いは五瀬の屍を紀伊に葬った後、神武はどうなったのか。いや、どうならざるを得なかったのか。以下、神武のとったであろう可能性を列挙してみよう。

 1. 詳細はともかく、正々堂々と戦い勝利した。(「正々堂々」が侵略を正当化すべくもないことをここに明記する)
 2. 陰険或いは卑怯千万な行為を駆使して勝利した。
 3. 対等に和睦した。
 4. 近畿地方攻略を諦め他地方を侵略する。
 5. 近畿勢力に降伏する。
 6. 九州に若しくは吉備に逃亡する。
 7. 更に敗北し、軍は解体され或いは全滅する。

 以上である。
 さて、では記紀の指し示すところは何れだろうか。それは勿論2.だ。何故か1.ではないのである。1.が史実であるならば、記紀が2.を選択することは有り得ない。次に、記紀では神武は最終的には奈良県中南部に拠点を築くのだから、4. 6. 7.は有り得ない。(但し、4.と6.は部分的に有り得る。すなわち神武の残された二人の兄弟の行動としてである。こう考えれば二人の途中退場が説明し得るかもしれない)つまり、歴史的にあり得たのは、2. 3. 5.なのである。
 ところが、ここで古賀達也氏より2.が九州王朝史の天孫降臨説話からの盗用であるとのテーゼが提出されている。この2.を盗用するということは、本来の神武に関する史実が2.よりさらに大義名分のないもの、或いは惨めなものである証拠でもある。この古賀氏の論証が正しいとするならば、残るは3. 5.である。
 では、3.について考えてみよう。神武は既に日下で敗北した。それも総大将を失うという大敗北である。その彼等が対等に和睦するためには、先の敗北を物理的もしくは心理的に凌駕するが如きの勝利が前提となる。対等に和睦するためには、ほぼ対等な軍事実績が必要なのである。(さらに、神武軍の軍隊としてのボリュームを考えるとこの勝利は2.のような陰険なものであってはならない)ところが、3.が史実であるならば記紀の編者はいとも簡単に神武説話を記述することが可能だ。日下での敗戦の後神武軍の勝利を記し、ただ「対等の和睦」という事実を隠蔽するだけなのだから。しかし、記紀にはそのような戦勝記録はない。従って、3.の可能性も失われる。
 そう、残るは4.すなわち神武の降伏なのである。ここではその降伏がどういうレベルでの降伏だったのかは判定出来ない。しかし、古賀仮説を認める限り、神武は近畿勢力に降伏したと考えざるを得ないのである。とすれば、神武は奈良県橿原にその王朝の基を築いたのではなく、近畿勢により橿原に入植させられた或いは近畿勢力下の準支配者として橿原の土地を与えられたことになる。その屈辱的な状況が結果として「欠史八代」となったのではあるまいか。
この神武の降伏が史実であるならば、記紀が天孫降臨説話を盗用したこと。神武が橿原に入った後以降九代に到るまで華々しい活躍の記述がないこと。神武及び神武の子孫たちが近隣豪族と婚姻外交を行いつつ反銅鐸勢力としての地歩を固め徐々に台頭していったこと(つまり銅鐸勢力からすれば獅子身中の虫)。等が無理なく説明出来るのである。
 では、その史料根拠は、と問われると筆者とすれば忸怩たるものがあると言わざるを得ない。しかしながら、その痕跡が全く無しとは言い得ない。それは神武以降の天皇家の系譜である。
 先ず、記紀に記された初期天皇の母親を列挙してみよう。

 【日本書紀】
 第二代 綏靖 三嶋溝厥の女、玉櫛媛と事代主神の女、媛踏鞴五十鈴媛。
 第三代 安寧 事代主神の次女、五十鈴依媛。
 第四代 懿徳 事代主神の孫、鴨王の女、渟名底仲媛。
 第五代 孝昭 息石耳の女、天豊津媛。
 【古事記】
 第二代 綏靖 三島溝咋の女、勢夜陀多良比賣と大物主神の女、富登多多良伊須須岐比賣。
 第三代 安寧 師木縣主の祖、河俣毘賣。
 第四代 懿徳 河俣毘賣の兄、縣主波延の女、阿久斗比賣
 第五代 孝昭 師木縣主の祖、賦登麻和訶比賣。

 以上である。日本書紀と古事記の記述は全く異なる。前文には掲げなかったが、第六代孝安以降の母親が殆ど一致するにもかかわらず、である。
 一瞥して、日本書紀は事代主の系譜、古事記は師木縣主の系譜と言えようか。だが、何故このような差異が生まれるのだろうか。その理由はともかく、少なくともどちらかが間違っているか、どちらも間違っているか、である。
 先ず、日本書紀である。実は日本書紀の神代紀上の本文では、媛踏鞴五十鈴媛の父親は大物主と伝えている。そしてその一書に事代主父親説を記す。ところが、神武紀・綏靖紀には大物主は影も射さないのである。日本書紀編纂者の作意を感じるのは筆者だけであろうか。また、大阪府茨木市の溝咋神社本殿にはこの日本書紀の説話の関係者たちが祀られているが、唯一事代主だけが祀られていない。日本書紀は古事記の記述内容を隠すために、国譲りの出雲側の主体者であった事代主を借りたのだろうか。
 では、古事記の記述は真実なのか。古事記で一番不思議な記述は、河俣毘賣と賦登麻和訶比賣の「師木縣主の祖」である。彼女たちは「近畿天皇家の祖」でこそあれ「師木縣主の祖」ではない筈である。古事記でも天皇家から「師木縣主」は出ていない。日本書紀で最初の磯城縣主となるのは弟磯城である。また、新撰姓氏録では志貴連を大和神別とし神饒速日命の孫日子湯支命の後とする。
 通常、天皇或いはその皇子たちの妃は「○○○の祖、●●●の女(或いは妹)、◎◎◎」と表現される。河俣毘賣たちのように「○○○の祖」とされる女性は、古事記において次の五例のみである。

 一、綏靖記 師木縣主の祖、河俣毘賣。
 二、懿徳記 師木縣主の祖、賦登麻和訶比賣。
 三、崇神記 尾張連の祖、意富阿麻比賣。
 四、景行記 尾張国造の祖、美夜受比賣。
 五、継体記 三尾君等の祖、若比賣。

 四は倭建の最後の妃だが子は記されない。三、五は共に子を成すが何れも天皇にはなっていない。従って、彼女たちの子供たちの一人が各氏族の祖となったならば、彼女たちが「○○○の祖」と呼ばれるのは不思議ではない。しかしながら、一と二はその子供の一人が次代の天皇になっているのである。仮に天皇になった者以外の子供が「師木縣主」となったとしても、彼女たちを「師木縣主の祖」と呼ぶのは不適切ではあるまいか。
 例えば、本来「師木縣主の祖、xの女」であったのだが「xの女」が脱落した、という考え方はどうであろうか。だが、この案は直ちに否定される。それでは、
「河俣毘賣の兄、縣主波延」という紹介文が説明出来ないからである。この文での主体はあくまでも「河俣毘賣」であるからだ。
 そこで、筆者は古事記において「師木縣主」がどう扱われているか、を探ろうとした。ところが、驚くべきことに古事記には「師木縣主」は一切登場しないのだ。本文にも細注にもである。河俣毘賣の兄、波延は日本書紀では明確に「磯城縣主葉江」と記される。ところが彼は(その弟を含めて)その娘を天皇家四代に亘り妃として送り込むことになっている。あり得ざる長命である。そして、古事記ではただ「縣主波延」と記され、何処の縣主かは不明である。(古事記に唯一登場するのは、雄略記の「志幾の大縣主」であるが、彼は明白に河内の志幾縣主であり大和のそれではない)
 では、ここで問題点を整理しよう。

 1. 初期の天皇家の系譜は記紀で全く異なる。
 2. 日本書紀の事代主の系譜には作意が感じられる。
 3. 次代の天皇の実母にもかかわらず河俣毘賣と賦登麻和訶比賣は「師木縣主の祖」とされる。
 4. 古事記には(大和の)師木縣主が一切登場しない。
 
 以上である。この内、3.と4.は全く相容れないように思われる。これらの問題点を整合させる方法があるのだろうか。実は整合させる方法がたった一つだけある。ある仮説を導入すればよいのである。その仮説とは、
 天皇家(少なくとも初期の天皇家)は師木縣主であった。
 である。史料があまりにも少ないため、これは単なる作業仮説でしかない。しかし、この作業仮説を導入することで、初期の天皇家の系譜を説明することが容易であるのみならず、神武が近畿の勢力に降伏した後、その一族がどうなったのかを説明し得るのである。
 これに従えば、近畿の銅鐸勢力に降伏した神武は、銅鐸国のX王の支配下で大和の橿原に土地を与えられ、師木縣主としての地位を確保したことになる。その後数代を経て、その内側から銅鐸国を食い破っていくのである。

 最後に、
 神武が都を置いたとされる橿原は奈良県磯城郡の近傍である。

 「師木縣主の祖、河俣毘賣」の息子安寧の名は「師木津日子玉手見」である。

 ことを喚起して、本稿を終える

【追記】
 若干、古賀仮説に付言したい。
 古賀氏は盗用の対象を邇邇藝の説話とされている。だがこれでは蛸の足喰いである。記紀編纂当時の天皇家にとって、神武も邇邇藝も共に大義名分上直系の祖先である。神武の経歴を飾るにその直系の邇邇藝の説話をもってすることは考えにくい。景行紀や神功紀が前つ君などの九州の王者たちの説話を盗用出来たのは、前つ君たちが天皇家系図から言えば傍系にあたるからこそ可能だったのではあるまいか。従って、神武説話の盗用元は邇邇藝以外の「天神御子」に求めるべきではないだろうか。例えば、邇邇藝の叔父の一人である熊野久須毘などである。記紀の史料性格からすれば、これ以上の追跡は困難であるが、仮に熊野久須毘が天孫軍の別働隊を率いて有明海から肥前に侵攻したとすれば、旧来難解とされる彼の名前の由来も簡単に説明出来る。熊野は勿論肥前熊野、久須毘は奇火すなわち不知火である。


闘論

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