随想 月 三題 古賀達也 人麿の月 肥前浮流(ふりゅう)の月 仲麻呂の月
古田史学会報
2002年4月1日 No.49
京都市 古賀達也
古来より月は多くの歌人、詩人に詠われた。その時、月は神であり、人であり、心でもあった。例えば、柿本人麿にとって月は九州王朝の天子のシンボルであったり、神であった。古田武彦氏によれば、次の歌は九州王朝の甘木(天歸)の大王の葬列を詠んだものとされた。 (注1)
ひさかたの天ゆく月を網に刺しわご 大王は盖にせり
『万葉集』巻三(二四〇)
原文は「久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者盖為有」であり、「歸」に「ゆく」という意味は無く、「天歸」は地名の甘木(福岡県甘木市)を意味し、この読みは「あまぎの月を」ではないかとされたのである。従って、この歌の月は被葬者である甘木の大王の紋章とされた。
次の歌も、筑紫の月を詠んだものだ。
天の海に雲の波立ち月の船星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
『万葉集』巻七(一〇六八)
この星の林とは八女郡星野村を詠み込んだものであろう(。注2)星野村の北にある水縄連山の西端には、筑後一宮である高良大社が鎮座している。祭神高良玉垂命は月の神様として著名だ。そして、この歴代の玉垂命が倭の五王であることは、既に筆者が論じてきたところでもある。(注3)従って、この月も九州王朝の天子を象徴しているように思われる。
これには傍証がある。一つは『万葉集』の同じく人麿の次の歌だ。
大船に 真楫(まかじ)しじぬき 海原を 漕ぎ出て渡る 月人壯子(をとこ)
右は、柿本朝臣人麿の歌なり。
『万葉集』巻十五(三六一一)
そして、もう一つは『肥前国風土記』養父郡曰理(わたり)郷に見える次の地名説話だ。
曰理の郷 郡の南にあり。 昔者、筑後国の御井川の渡瀬、甚だ広く、人畜渡り難し。ここに、纏向(まきむく)の日代の宮の御宇天皇、巡狩の時、生葉山に就きて船山と爲し、高羅山に就きて梶山と爲して、船を造り備へて、人物を漕ぎ渡しき。因りて曰理の郷といふ。
水縄連山の東端、生葉山を船山に、西端の高良(羅)山を梶山に見立てている。月神、高良玉垂命と、真楫を漕ぐ「月人をとこ」が見事な対応だ。この月人をとことは、安曇族を中心とする、月神(高良玉垂命)を信仰する船乗りたちのことであろう。たとえば、玉垂命巡行説話の舞台の一つ、大川市酒見(旧三潴郡)にある風浪宮の祭神は、少童命・八幡大神・高良玉垂命であり、神職の酒見氏は安曇磯良の子孫といわれている。境内には磯良塚もある。また、この地方一帯は濃密な玉垂命信仰圏だ。
このように、人麿が筑紫の月を詠むとき、そこには九州王朝の王者が色濃く反映している。そう理解した時、人麿の歌は歴史的背景と思想的深みを増す。そしてそれは、九州王朝滅亡の一大叙事詩でもあるかのように。
冒頭に紹介した人麿の歌にある、「天ぎの月を網に刺し」た「わご大王(おほきみ)」の「盖(きぬがさ)」とはいかなるものか。もしかすると、それと関係するかもしれない民俗芸能が佐賀県に伝えられている。
佐賀県一円で行われるお祭りとして、浮流(ふりゅう)がある。県内数ある浮流の中でも、ひときわ変わった浮流が、三養基郡上峰町の老松神社で毎年十月の最初の日曜日に行われる米多(めた)の浮流だ。その浮流の中心的な舞が、テンツク舞、あるいはテンツキ舞(天月舞、天衝舞、天竺舞などの字が当てられる)と呼ばれるもので、高さ二メートルにも及ぶテンツキという新月のような角の冠り物を被った舞手が太鼓を打ちならしながら舞う。米多のテンツキ舞は三人で舞うが、冠り物に両手を添えて腰を低くし、地上すれすれに振り回し、立ち上がって跳びはねるような歩み方で場内を巡る所作、しかも三人同時の舞いぶりは壮観とも奇観とも、喩えようのないものという。(注4) 昨年(平成十三年)十月にも行われたが、人手不足のため今年行われるかどうかはわからないらしい。
同じ様なテンツキ舞は天山(てんざん 一〇四六メートル)北麓の山村、佐賀郡市川(いちのかわ)の市川浮流がある。市川浮流は一人で舞うが、氏神の諏訪神社で奉納された後、天山の神を奉拝する。
双方とも舞人は腰に茣蓙を垂れているが、これは万一舞を誤れば、即座にこの茣蓙を敷いて切腹するのだと伝えられている。これほどにこの舞は神聖視されているのだ。そして、このテンツキと呼ばれる冠り物こそ、文字通り天(てん)の月(つき)であって、「天ぎの月を網に刺した盖(きぬがさ)」にふさわしいと思われるが、どうだろうか。
また、天山の神に奉拝するというのも、ただならぬ由縁を感じさせる。天山は現在ではテンザンと呼ばれているが、もともとはアマヤマと呼ばれていたのではあるまいか。なぜなら、天山の北西に天川(あまかわ)という地名があり、天川(あまかわ)という川もあるからだ。これはアマヤマから流れ出た川だから天川と呼ばれたと考えざるを得ないので、天山も本来はアマヤマと呼ばれていたに相違ない。
なお、わたしはテンツキ舞をまだ実見していないが、興味深い肥前の民俗芸能テンツキ舞と共に、その淵源を「大王の盖(きぬがさ)」とする一仮説を提起したい。
古代人が詠んだ歌で、もっとも印象的な月のひとつは、阿倍仲麻呂の次の歌だ。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山を出し月かも
『古今和歌集』巻九
『古今和歌集』流布本では「三笠の山に出し月かも」となっており、こちらで覚えた人がほとんどであろう。わたし自身もそうだった。しかし、『古今和歌集』古写本は「三笠の山を」となっている。流布本は、筑紫の三笠山(宝満山、八六九メートル)から出た月を詠んだ仲麻呂の歌を、後に奈良の御蓋山(二八三メートル)の上に出た月とするために、「みかさの山に」と改竄された姿だった。なぜなら、奈良の御蓋山では低すぎて、そこから月が出たとするには不自然だからだ。現地の人は良く知っている。奈良では月は御蓋山からではなく、後方の春日連峰から出ることを。この事については既に触れたこともあるし、古田先生の論証も発表されている。(注5)
天寶十二年(七五三)、帰国に際して仲麻呂は明州での送別の宴の時、この歌を詠んだとされるが、結局船は遭難し、祖国に帰ることはできなかった。仲麻呂遭難の報を聞いた友人の李白は「仲麻呂の死」を悼んで次の詩を作った。
晁卿衡を哭す
日本の晁卿、帝都を辞し
征帆一片、蓬壷を遶る
明月帰らず碧海に沈む
白雲愁色、蒼梧に満つ
仲麻呂の乗った船は難破し、今のベトナムに漂着した。その後長安に帰り着き、仲麻呂は中国で生涯を終えるのだが、李白は仲麻呂が死んだと思い、この詩を作った。詩中、仲麻呂を明月に喩えているが、李白が仲麻呂を明月と表現した時、先の仲麻呂の歌「三笠の山を出し月かも」が念頭にあったと思われる。李白は仲麻呂のこの歌を知っていたことになるのだが、このことは小川環樹氏が既に指摘されている。(注6)
わたしも李白は仲麻呂の歌を知っていたと思う。仲麻呂が明州の送別会でこの歌を歌った時、李白は朝廷を追われ流浪の身であった。この年、李白は安徽省を徘徊したことが知られている。(注7) 送別会に同席していたかどうかは不明だが、明州とはそれほど離れた場所ではない。しかも、仲麻呂の歌「三笠の山を出し月かも」は仲麻呂が日本を離れるときに、壱岐の天の原付近の海上で故郷の三笠の山の月を見て詠んだ歌である可能性が高いことから、唐での仲麻呂と李白の交友関係を考えれば、仲麻呂の歌を早くから李白は知っていた可能性も否定できない。
李白自身、月が好きだったようで、月が詠み込まれている詩も少なくない。有名なものでは、「峨眉山月歌」「月下独酌」「関山月」「王昭君」、そして「静夜思」がある。中でも「静夜思」はわたしも大好きな詩だ。
静夜思
牀前に月光を看る
疑うらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み
頭を低れて故郷を思う
特に後半の二句は、「千古の旅情、此の十字に尽く」と絶賛されている。この「静夜思」も仲麻呂の歌と同様に、山上に出た月と望郷が主題となっている。そして、片や「ふりさけみれば」、片や「頭を挙げて・低れて」と頭の動作が詠み込まれている。もしかると、李白は「静夜思」を作るとき、仲麻呂の歌を意識し、自分自身のみならず日本に帰れなかった親友の仲麻呂の心中をも詠み込んだのではあるまいか。二人の深い友情を考えれば、ありえないことではない。ちなみに『唐詩三百首』などでは、「山月」を「明月」に作るという。とすれば、「晁卿衡を哭す」に「明月」と表現された仲麻呂との関係も一層際立って来よう。(注8)
古今東西、月は人の心を慰め、癒し、あるいは揺さぶった。そして、人は月に涙し、あるいは酔いしれ、歌や詩に詠んだ。本編掉尾に現代の歌の一節を記し、雑文を締めくくることをお許し願いたい。
月よ照らしておくれ
涙でにじまないで
僕の身の程じゃなく
夢だけを照らしてよ
中島みゆき「夢の通り道を僕は歩いている」より(注9)
(注)
1 古田武彦『古代史の十字路─万葉批判─』東洋書林、二〇〇一年四月刊。
2 古田武彦氏のご指摘による。
3 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 -- 高良玉垂命考」『新・古代学』四集所収。新泉社、一九九九年刊。
4 市場直次郎『西日本民俗文化考説』九州大学出版会、一九八八年刊。
5 古賀達也「『三笠山』新考 -- 和歌に見える九州王朝の残映」『古田史学会報』九八号、二〇一〇年六月刊。
古田武彦「『を・に』の史料批判」『多元』No. 四二、二〇〇一年四月刊。
6 小川環樹「三笠の山に出し月かも」 『文学』三六─一一所収。岩波書店、一九六八年刊。
7 福原龍蔵『李白』講談社、一九六九 年刊。
8 水野孝夫氏の御教示による。
9 中島みゆき CD『短篇集』ヤマハミュージックコミュニケーションズ、二〇〇〇年。
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