古田史学会報五十一号
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古田史学会報
2002年 8月 8日 No.51
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新・古典批判「二倍年暦の世界」 1

仏陀の二倍年暦(前編)

京都市 古賀達也

  はじめに

 古代日本列島において、倭人は一年を二つに分けて二年とする暦法、即ち「二倍年暦」を使用していたことが、古田武彦氏により明らかにされた(注1 )。それは魏志倭人伝と魏略の次の記述から導き出されたものだ。

 「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(倭人伝)
 「その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計して年紀となす」(魏略)

 倭人伝に記された倭人の年齢、「百歳あるいは八、九十歳」を従来の論者は「誇張」として退け、真面目に取り扱ってこなかったのであるが、古田氏は『魏略』の倭人記事は一年を春と秋とで区切る二倍年暦を指し示したものであり、従って倭人の年令は五十歳、あるいは四十〜四五歳と理解できるとされた。
 一方、『三国志』に死亡時の年令が書かれている九十名(全三百三十二名の二七%)について、その年齢を調査した結果、平均は五十二・五歳であり、このうち、とくに高齢者であるため記載された例をのぞくと、その没年齢は三十代と四十代が頂点となっていることを明らかにされた。これらの年齢に比べると倭人は「約二倍の長寿」となっていることからも、倭人の年齢が二倍年暦によっていることを、実証的に論証されたのであった。
 この二倍年暦の発見により、『古事記』『日本書紀』の天皇の寿命が平均九十歳くらいである点も、リーズナブルな理解が可能となること(注2 )。また浦島太郎の伝説(丹後風土記)が六倍年暦で書かれていること、聖書の『創世記』には二四倍年暦(アダムの系図)、十二倍年暦(セムの系図)や二倍年暦による記載があることなども指摘され、これらを多倍年暦と名づけられた(注3 )。更には二倍年暦の淵源がパラオ諸島を含む太平洋領域であったとする仮説へと展開されたのである(注4 )
また、古田学派研究者からも二倍年暦をテーマに好論が発表されている(注5 )。わたしもこれまで二倍年暦の研究を手がけてきたが、最近、東洋や西洋の古典中に多くの二倍年暦の痕跡を見出すに至った。本稿で取り上げる仏教経典の他、それはヨーロッパ古典(注6 )、中国古典(注7 )に及び、その論理の赴くところ、従来の古代像とは異なった新たな古代像が見えてきたのである。対象史料と論点が多岐にわたるため、数回に分けて報告したい。


  法華経の二倍年暦

 鳩摩羅什(三五〇〜四〇九頃)訳、『妙法蓮華経』「信解品第四」に長者窮子の比喩が見える。そのあらすじは次の通りだ。
 家出した長者の息子が他国を五十余年間放浪し、困窮して故郷へ帰ってきた。息子には長者が父であることがわからなかったが、長者は家出した息子であることがわかり、父親であることは伏せて、息子を下僕として雇い二十年間働かせた。長者が病にかかり命が終わろうとする時、国王や大臣、親族を集め、その下僕が息子であることを明らかにし、相続させた。
 このような説話であるが、長者と息子の年齢に注目すれば、仮に息子が二十歳の時、家出したとすれば、その後五十年の放浪と二十年の下僕生活が経過していることから、長者が親子の関係を明らかにした時、息子は九十歳近くであり、長者は百歳を越えてしまう。当時のインド人の平均寿命が何歳かは知らないが、現代でも考えにくい高齢説話である。ところが、この説話が二倍年暦であれば、この時、息子の年齢は約五五歳(家出時二十歳+二五年間放浪+十年間下僕)となり、父親も七五歳ぐらいとなり実在可能な年齢による説話として理解しうるのである。
 「法師功徳品第十九」にも次のような表現が見え、一年間が六ヶ月と見なしうるようである。
 「次第に法のごとく説くことが、一ヶ月・四ヶ月から一年に至るであろう。」(注8 )
 最初の一ヶ月から三ヶ月たった四ヶ月、それから同じく三ヶ月たてば、合計六ヶ月となり、それが一年ということであれば、これは二倍年暦を前提とした月数表現と思われるのである。もし一倍年暦での表現であれば、一ヶ月、四ヶ月からいきなり十二ヶ月たる一年へと飛ぶのは不自然ではあるまいか。
 先の「信解品第二」の比喩は、弟子の須菩提(スブーティ)らが仏陀(世尊)に述べた話しとして記されていることから、仏陀や弟子達は二倍年暦を前提として会話していたことになる。そうであれば、釈迦の時代のインドは二倍年暦であったことになるのだが、法華経の成立は紀元五十〜百五十年頃とされており、これは釈迦没後数百年後のことである。従って、同説話が正しく伝わったものなのか、あるいは本当に仏陀と弟子の会話であったのかが問題となろう。この点が証明できなければ、法華経を史料根拠として仏陀の時代が二倍年暦であったとは即断できないのである。


  『長阿含経』の二倍年暦

 仏陀の言行を忠実に祖述するという姿勢で編集された初期経典に阿含経がある。その中の『長阿含経』は四一〇年頃、竺仏念と仏陀耶舎によって漢訳されているが、パーリ語経典にも現存している。これら阿含経典群の成立には諸説あるが、紀元前一世紀にはほぼ現在の形に編集され、文字に記録されたようである(注9 )。いずれにしても、仏典の中では古い部類に属するものだ。
 この『長阿含経』の中に、昔は人の寿命は八万歳だったが今では百歳以下になったという仏陀の言葉が記されている。

 「我れ今、世に出づるに、人寿の百歳は、出でたるが少なく、減ずるが多し。」(巻第一、第一分初、大本経第一)
 「此の三悪行の展転して熾盛となり、人寿は稍減じて三百、二百となる。我が今時は、人は乃至百歳なり。少しく出でて多く減ず。」(巻第六、第二分、転輪聖王修行経第二)(注10)

 人の寿命が段々と減少してきたという仏陀の認識は、「創世記」(『旧約聖書』)の記事に類似していて興味深いが、今、問題となるのは仏陀の時代の人の寿命が、多くは百歳以下で百歳以上は希であるという仏陀自身の発言である。これが一倍年暦であれば高齢化社会と言われる現代日本以上の超高齢化社会となってしまうが、二倍年暦であれば「五十歳以下」ということになり、古代人の寿命としては極めてリーズナブルである。こうした仏陀の言葉とそれを伝えてきた弟子達を信じる限り、先の法華経の分析でも述べたように、仏陀の時代のインドでは二倍年暦が使用されていたと考えざるを得ないのである。そして、少なくとも法華経の説話部分は仏陀の時代の二倍年暦による説話が比較的正確に伝承されていたという、大乗経典成立に関わる史料批判へと連なっていくのであるが、本稿のテーマではないので触れない。
この他にも『長阿含経』には次のような注目すべき年齢表記がある。

 「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(巻第四、第一分、遊行経第二)
 「昔、此の斯波醯の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」(巻第七、第二分、弊宿経第三)(注11)

初めの文は最後の仏弟子、須跋(スバッダ)の記事であるが、共に百二十歳の老人(耆旧)に関するものだ。これらも二倍年暦で理解すべきものであり(一倍年暦の六十歳に相当)、『長阿含経』は二倍年暦で基本的には祖述されていると判断できる用例と言えよう。更にここで注目すべきは、この「耆旧」という言葉(漢訳)だ。老人を表す漢字はいくつか存在するが、この「耆」という字以外にも「耋」「耄」そして最も一般的な「老」がある。そして、それらの意味は次のように説明されている。

「耆」 六十歳の称。また、七十歳以上の称。
「老」 七十歳の老人。あるいは五十歳以上をいう。
「耋」 八十歳の称。また、七十歳、または六十歳という。
「耄」 九十歳の称。また、八十歳、または七十歳ともいう。
(新漢和辞典による。大修館)

 このように、それぞれ複数の意味を有しているが、今問題としている「耆」の第一義は六十歳とされていることは注目されよう。すなわち、『長阿含経』を漢訳した竺仏念らは、二倍年暦を知っていて、百二十歳の老人に対して、老齢を意味する数ある漢字の中から一倍年暦に換算した上で、六十歳の意味を持つ「耆」の字を選んだのではないか。この可能性である。わたしには偶然とは思えない漢訳者の意志を感じるのだが、いかがであろうか。
 ちなみに、竺仏念と共に漢訳に携わった仏陀耶舎はカシミール、あるいはガンダーラの出身とされているが、同地方には仏陀以後も永く二倍年暦の習慣が残っていたのではあるまいか。そうすれば、仏陀耶舎は二倍年暦の存在を知悉した上で、当時既に一倍年暦であった中国に伝えるため、漢訳にあたり、「耆」の一字を選び抜いた、その可能性を無視できないように思われるのである。


  仏陀の二倍年暦

 さて、このように仏陀自らが二倍年暦で語っていたとなれば、その年齢は仏陀自身にも適用しなければならないこと、論理的必然である。とすれば、従来八十歳とされてきた仏陀の入滅は四十歳となり、これも当時の人間の寿命としては極めてリーズナブルである。そして二九歳(一説では十九歳)での出家も、十四〜五歳の頃となる。
 こうして、二倍年暦という視点で仏陀の生涯を見なおしたとき、その様相は従来のものとは一変する。すなわち、早熟の天才思想家による伝導の生涯は実質二五年間の事となり、若き青年宗教家仏陀としてその伝記は書き換えを迫られるのである。
 なお、史料批判上の厳密性から付言すれば、『長阿含経』には明瞭な一倍年暦の記述も存在する。仏弟子、迦葉(カーシヤパ)による次の発言部分である。

 「此の間の百歳は、当に刀*利天上の一日一夜に当たるのみ。是の如くして亦た三十日を一月と為し、十二月を一歳と為す。」(巻第七、第二分、弊宿経第三)(注12)

 ここに現れる一倍年暦と他の部分の二倍年暦との関係は複雑だ。たとえば成立時期が異なるのか、あるいは二倍年暦と一倍年暦が混在・併用されていた時代であったのかも知れない。これは、他の古典においてもしばしば見られる現象であり、本テーマを論じる際に充分な注意を必要とする問題である。ちなみに、この弊宿経のみは「如是我聞」で始まらず、仏陀滅後の出来事が記されており、『長阿含経』の中でも特異な経とされる。

(以下、次号に続く)
─二〇〇二年七月二一日記─

刀* は、りっしん編に刀です。(インターネット事務局注記2002.9.7)

(注)
1 古田武彦『「邪馬台国」はなかった』一九七一年、朝日新聞社。現、朝日文庫。
2 古田武彦『失われた九州王朝』一九七三年、朝日新聞社。現、朝日文庫。
3 古田武彦『古代史をひらく独創の十三の扉』一九九二年、原書房。
4 古田武彦『古代史の未来』一九九八年、明石書店。パラオでは六ヶ月が一年(RAK)で、その後、また同じ名称の月が六ヶ月続く。
5 和田高明「『三国史記』の二倍年暦を探る」、『新・古代学』第6集所収。二〇〇二年、新泉社。
  西村秀己「盤古の二倍年暦」、古田史学会報五一号所収。二〇〇二年八月、古田史学の会編。
6 ホメロス『オデュッセイア』、ヘロドトス『歴史』、『旧約聖書』、プラトン『国家』、アリストテレス『弁術論』、セネカ『人生の短さについて』、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』、他。
7 『論語』、『孟子』、他。
8 三枝充悳『法華経現代語訳(中)』一九七四年、第三文明社。
9 三枝充悳・他校注『長阿含経I 』解題による。一九九三年、大蔵出版。
10 三枝充悳・他校注『長阿含経I 』一九九三年、大蔵出版。
11 同上。
12 同上。


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