講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦へ
防人について
千歳市 今井敏圀
一般的に「防人」とは、上代から平安初期まで九州に置いた守備兵とされ、天智三年から置かれたとされています。それに対して古田先生は、“万葉集には防人の歌がかなり収められていますが、その年代が問題です。なんと、そこに収められている歌は八世紀の年代のものだけ、もう少し正確にいえば、年代がわかっているのは八世紀の歌だけなのです。となると、七世紀には防人はいなかったのか、という疑問が出てきます。白村江の戦いをやるのに防人がいないということは考えられません。”(注一)とされていて、「白村江の戦い」以前にも「防人」がいたとされています。
これに関して、『日本書紀』(注二)に出てくる「防人」の記事を仔細に検討して行く過程から、私なりにつかんだことを述べたいと思います。まず、「書紀」中の「防人」の記事は次の通りです。
(1) 大化二年(六四六年)春正月の甲子の朔
「其の二に曰はく、初めて京師を脩め、畿内国の司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、山河を定めよ」
(2) 天智三年(六六四年)
「是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防と烽とを置く。又筑紫に、大提を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ」
(3) 天智十年(六七一年)
「十一月の甲午の朔発卯に、対馬国司、使を筑紫太宰府に遣して言さく、「月生ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より来りて曰さく、『唐国の使人郭務宗*等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知嶋に泊りて、相謂りて曰はく、今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人、驚き駭みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍に来朝る意を披き陳さしむ』とまうす」とまうす」
宗*は、[示宗] 示偏に宗。
(4) 天武十四年(六八五年)
「十二月の壬申の朔乙亥に、筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩ひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の為に、布四百五十八端を以て、筑紫に給り下す。」
(5) 持統三年(六八九年)
「二月の甲申の朔丙申に、詔したまはく、「筑紫の防人、年の限に満ちなば替へよ」
まず、(1)ですが、これはいわゆる「大化の改新の詔」です。この「大化の改新」の成立時点について、古田先生は大宝元年(七〇一年)としています。(注三)
また、古賀達也さんは、「九州王朝の大化の改新(詔勅)」を九州年号の「大化」と一緒に盗用したものだとしています(注四)。九州年号の「大化」年代は六九五年から七〇〇年です。この場合、大化二年は六九六年になります。つまり、九州王朝(倭国)から近畿王朝(日本国)に権力の交替が行われた、いわゆる古田先生の「ONライン」近辺の時点でも「防人」の制度があったことになります。当然「白村江の戦い」の後です。
(3)は、薩夜麻の帰国記事で、郭務?等の唐の占領軍の来日を告げる記事なので、当然「白村江の戦い」以後の記事です。
(4)と(5)の記事については、「白村江の戦い」以前なのか以後なのかを断定できる要素がなく不明ですが、これらの記事が「白村江の戦い」以前のものであるとする明確な裏付けがない以上、『日本書紀』の記述どうりと解するのだ妥当ではないでしょうか。
そこで問題となるのが(2)の記事です。これが「白村江の戦い」の前の記事なのか、あるいは後の記事なのかについては、色々な意見があるところです。私は、天智四年の「秋八月に、達率答●(火+本)春初を遣して、城を長門国に築かしむ。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野及び椽、二城を築かしむ。」の記事と同様に、「白村江の戦い」の後に、唐占領軍の命令でなされたものであるという仮説を考えています。まず、「防」について岩波の『日本書紀』では「さきもり」とルビをつけていますが、「防」とは、防衛用の砦あるいは見張り台のようなもので、そこに常駐する兵士のことを「防人」と呼んだのではないでしょうか? 因みに、諸橋の『大漢和辞典』(注五)の「防」の項には、その意味として「要塞 外敵をふせぐ設備のしてある所 又其の設備」とあり、用例として『後漢書』の劉永傳の「遣驃騎大将軍杜茂* 攻佼彊西防於」を載せています。そして、「烽」は烽火台のことではないでしょうか(諸橋の『漢和大辞典』には、「烽」一字で烽火台を現す用例はありません)。
茂*は、茂の中にヽ。JIS第4水準ユニコード8357
私が「白村江の戦い」の後としたのは、実は唐の律令制の中の軍制の中に「防人」がでてくるからです。唐の軍制は、農民から徴兵する「府兵制」が行われていました。それは、戸籍に記載されている二十一から五十九歳までの農民の男子(丁男)の三人に一人の割合で各州ごとに何ヶ所か設けられている折衝府に所属させ、都や辺境の防備に当たらせるものでした。その折衝府は、全国のおよそ三分の一にあたる、主に長安や洛陽を中心とした州にのみ置かれていて、中央の禁軍と総称される十二衛と六率府に分属していました。その「府兵」となった農民の任務は、一年に一回、冬の農閑期に折衝府に集まって軍事訓練を受けること。中央からの距離の遠近にしたがって、毎年一ヶ月または二ヶ月間、その折衝府が属する禁軍に配置されて衛士となること。任期中に一回、「防人」となって三年間辺境の防備にあたることとされていました(注六)。ここに「防人」が出てくるのです。この「府兵制」は北朝の西魏に始まり唐の時代に完成されたとされていて、「防人」制度が西魏まで遡るかどうかは不明ですが、少なくとも南朝配下にあった「倭国」が、北朝の制度を取り入れるとは考えにくいので、「白村江の戦い」の後、倭国の進駐してきた唐の占領軍の命令によって、唐の軍制の中の辺境防備の「防人」制が敷かれたのではないでしょうか。もちろん「白村江の戦い」以前にも、倭国で同じ様な辺境防備の制度があったのは、当然の事として考えられます。そもそも、「防人」は何故「さきもり」と呼ばれるのでしょうか?
「防人」は「ぼうじん」と読むのが普通で、どう読んでも「さきもり」とは読めません。第一『日本書紀』には「さきもり」という読みの指定がないのです。通常『日本書紀』は特殊な読みには指定を付けるのです。例えば、「天武紀」朱鳥元年七月の条に「戊午に、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。朱鳥、此をば阿訶美苔利と云ふ。」の様に。これは、『日本書紀』成立時には「防人」は「さきもり」と読まれていなかった事を意味します。そして、「防人」と「さきもり」は制度が違う事を。つまり、「白村江の戦い」以前の九州王朝の制度が「さきもり」(先守あるいは岬守と書いたのでしょうか)、以後の制度が「防人」で、それが後の時代になってゴチャゴチャになって「防人」と書いても「さきもり」と呼ぶようになったのではないでしょうか。(因みに、唐の制度では「防人」は「鎮」とか「戍」と呼ばれる前線の守備隊に配属されていました。「防」については確認出来ません。)
次に、『万葉集』(注七)の中には、巻十四の五首の「防人歌」と、巻二十に九十八首の「防人歌」が収められています。その中で、巻十四の「佐伎母理尓 多知之安佐気乃 可奈刀凰尓 手婆奈礼乎思美 奈吉思児良浪母」と歌われている第三五六九歌を含む、三五六七歌から三五七一歌の五首は、「東歌」の中に入れられていますが「東国」とされる遠江以東のどこの国かも時代の指定もなく不明です。もしかしたらこれらの五首は、「白村江の戦い」以前の九州の「さきもり」の人たちの歌かもしれません。と言うのは、実は九州にも「東国」があるからです。それは、『和名抄』(注八)の筑後国の上妻郡と下妻郡で、現在の久留米市から八女市にかけての一帯です。「つま」に地名接頭語の「あ」をつけると「あづま」の国になるのです。そして、この地は十世紀の『和名抄』の時代以前からも「つま」の国と呼ばれていたのです。三世紀「魏志倭人伝」に出てくる倭人の国三十国の内、七万余戸の「邪馬壹国」に次いで五万余戸と戸数の多い国は「投馬国」です。当然の事ながら倭人の国である以上、弥生の青銅器遺物とりわけ銅矛・銅戈・銅剣の出土が「邪馬壹国」に次いで多い国が「投馬国」という事になります。樋口隆康氏作製による「弥生時代青銅器出土地名表」(注九)によると、「邪馬壹国」があった博多湾岸の二二六に対して、二番目が対馬の一〇二、三番目が八女市を中心とする筑後の六五となっています。銅矛・銅戈・銅剣の出土が「邪馬壹国」に次いで多く「不弥国」の南に位置しているという、「シュリーマンの法則」に適合する地は、八女市を中心とする筑後地方いう事になります(対馬は「不弥国」よりも北にあるので該当しません)。すなわち、「筑後」を「投馬国」とするのが妥当なのです。
つまり、八女市を中心とした「筑後」は、三世紀から十世紀まで一貫して「つまの国」であった可能性があるのです。この様に考えると、『万葉集』巻二の一九九歌「高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻麿の作る歌」における「吾妻の国」や「壬申の乱」に出てくる「吾妻の国」もこの「筑後」の「あづまの国」である可能性が高くなるのです。何故なら、古田先生は一九九歌に出てくる地名のほとんどが福岡県にある事を論証されており(注十)、となれば「吾妻の国」も福岡県にあると考えるのが自然だからです。そして、明日香皇子すなわち薩夜麻は「吾妻の国」の兵士を率いて百済に出陣して行きました。その薩夜麻の帰国を自らの身を売って助けた大伴部博麻は、上陽[口羊]郡の人すなわち八女郡の人で、まさに「吾妻の国」の兵士だからです。同様に、「壬申の乱」の舞台が九州であるのなら(注十)、「吾妻の国」も九州にあるとするのが自然なのです。
[口羊]は、口編に羊。JIS第3水準ユニコード54A9
以上の様に見てくると、『万葉集』巻十四の五首の「防人歌」は、「白村江の戦い」以前の九州王朝の「筑後」の「さきもり」の人たちの歌の可能性もあるのではないかと考えられます。
「防人」は何故「さきもり」と呼ばれるのか? という素朴な疑問から勉強を始めた結果、以上の様な仮説に到達しました。まだまだ疑問だらけですが、一つの考え方として提起したいと思います。
二〇〇九年七月二一日
注一 古代史をゆるがす真実への7つの鍵 古田武彦 原書房
二 日本書紀 岩波書店
三 失われた日本 古田武彦 原書房
四 大化二年改新詔の考察 古賀達也 古田史学会報N0.89
五 大漢和辞典 諸橋轍次 大修館書店 六図説中国の歴史4華麗なる隋唐帝国 日比野丈夫 講談社
七 万葉集 岩波書店
八 和名類聚鈔 風間書房
九 古代史発掘5大陸文化と青銅器 樋口隆康編 講談社
十 壬申大乱 古田武彦 東洋書林
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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