「大長」末の騒乱と九州王朝の消滅(会報92号)
天武九年の「病したまふ天皇」
善光寺文書の『命長の君』の正体
川西市 正木裕
I 『善光寺文書』に見る重病に陥った天子
古賀達也氏は、古田史学会報三四号において、九州年号「命長」七年(六四六年。『日本書紀』では大化二年)、九州王朝の天子が重病に陥った記録が『善光寺文書(縁起)』中に残っていると報告された。(注1)
本稿ではこの説は善光寺文書のみならず、日本書紀にも根拠があることを示す。まず、古賀報告の大意を筆者の責任で要約し紹介する。
○『善光寺縁起集註』に、聖徳太子からの手紙とされる「命長七年丙子」という九州年号入り文書がある。
御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
斑鳩厩戸勝鬘 上
命長七年(六四六)という年次等から、手紙は聖徳太子ではなく、九州王朝の高位の人物が善光寺如来に宛てた手紙と考えられる。この「命長」文書は、法興三二年(六二二)に没した多利思北孤の次代の利歌弥多弗利のものである。死期迫る利歌弥多弗利が「我が済度を助けたまえ」と願う文であり、「病状とみに悪化」「命、旦夕」の倭王の姿を見る。利歌弥多弗利は永く病に臥していたのだろう。「命長」という九州年号に、時の天子の病気平癒の願いが込められていると見るのは考えすぎか。推測が当たれば、その願いや善光寺如来への「願文」も空しく、病は治ることなく没したと思われる。九州年号「命長」は七年で終り、翌年「常色」と改元されているからだ。常色改元は利歌弥多弗利崩御によるものではないか。(命長七年丙子は正しくは丙午で、聖徳太子の在位期に合わせ丙子六一六年に書き換えられたか)
以上だ。むろん『書紀』大化二年(六四六)にはそうした記事は見当たらない。大化改新の真只中で、孝徳天皇は健在。重要な改新詔が次々発せられた歳と記す。「天子の崩御」はもちろん「孝徳の病」などかけらも記されていない。
古賀氏が推測する「九州王朝の天子崩御」という重大事件は、歴史から抹殺されてしまったのだろうか。あるいは、どこかに痕跡を留めているのだろうか。この視点で再度『書紀』を読み直してみよう。
II 疑わしい天武九年十一月記事
『書紀』の天武・持統紀には、三四年遡上した白村江以前の九州王朝の史書からの盗用があることは、古田武彦氏ほかから指摘されている。(注2)
この「三四年遡上」盗用と、古賀氏指摘の「命長七年」に九州王朝の天子「利」が崩御したとの説をあわせて考える時、『書紀』に於いて重要な記事が浮かび上がる。それは大化二年(六四六)の三四年後、天武九年(六八〇)の天皇・皇后の病気に関する記事だ。
■天武九年(六八〇)十一月癸未(十二日)に、皇后、体不予したまふ。則ち皇后の為に誓願ひて、初めて薬師寺を興つ。仍りて一百僧を渡せしむ。是に由りて安平ゆることを得たまへり。是の日に、罪を赦す。(略)。丁酉(二六日)に、天皇、病したまふ。因りて一百僧を渡せしむ。俄ありて愈えぬ。
辛丑(三〇日)に、臘子鳥天を蔽して東南より飛びて、西北に渡れり。
この記事の趣旨は「十一月に皇后と天皇が相次いで病に落ち、皇后の平癒祈願に薬師寺を建てる事とし、又、各百名の僧侶を得度させ祈念したところ共に回復した」というものだ。
しかしこの書紀記事はいくつかの点で不審だ。
(1). まず、書紀に於いて天皇・皇后が「病気になったがすぐ治った」と言う記事は異例。天皇の病を記す推古紀、孝徳紀、天智紀、天武紀すべて「病」は治癒することなく崩御に結びつく。
(2). また、「臘子鳥天を蔽」すとの記事は、天武七年十二月にも筑紫大地震の「凶兆」として記されている。病気平癒の「吉兆」とはまるで逆だ。
■天武七年(六七八)十二月癸丑朔、己卯(二七日)に、臘子鳥、天を蔽ひて、西南より東北に飛ぶ。是の月に、筑紫国、大に地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。
(3). 更に、本薬師寺建立の由緒について、皇后(鵜野讃良皇后=持統天皇)は十一月に発病し、すぐ平癒したにもかかわらず、「天武が平癒祈願のため創建した」としている点にも疑問を感じる。(注3)
III 天武紀に移された天子崩御記事
こうした天武九年(六八〇)の天皇・皇后の病気に関する記事についての疑問点は、命長七年(六四六)の「九州王朝の天子崩御」記事が書紀の天武紀に移されたと考えればことごとく解消する。つまり本来、
(1) 九州王朝の天子の「病」は治癒することなく崩御した。
(2) その「凶兆」として臘子鳥大群飛来が記された。
という記事だったと考えられるのだ。
天武七年の「筑紫大地震」は筑紫の出来事であるから、その「凶兆」たる臘子鳥飛来の場所も筑紫と考えられる。従って天武九年記事の臘子鳥飛来と「病」記事も筑紫での事と考えるのが自然だ。注目すべきは翌天武十年五月の記事だ。
■天武十年(六八一)五月の己巳の朔己卯(十一日)に、皇祖の御魂を祭る。(三四年前の「己卯」は常色元年四月己卯二三日か六月己卯二四日)
この記事について、岩波文庫『日本書紀』の注は、「祖先にあたる歴代の天皇とする説、天皇の祖父すなわち彦人大兄皇子とする説、神武天皇とする説などがあるが、ここは歴代天皇の意に解すべきか」とするが、この時期に「歴代天皇」の法要をおこなう動機・経緯は全く不明だ。
しかし常色元年五月であれば、前年崩御した先皇「利」の法要と考えられるのだ。しかもこの年は通常見受けられない「神事」記事が集中している。
■天武十年(六八一)春正月辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸の神祇に頒(あかちまだ)す。(同「壬申」は命長七年十二月十四日)(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理らしむ。(同「己丑」は常色元年一月二日)
「天社地社の神の宮」つまり、諸国の社殿の整備がこの時期になされているが、その理由は不明だ。
■天武十年(六八一)七月丁酉(三十日)に、天下に令して、悉に大解除せしむ。此の時に当りて、国造等各祓柱奴婢一口を出して解除す。閏七月の戊戌の朔壬子(十五日)に、皇后、誓願して、大きに斉して、経を京内の諸寺に説かしむ。(同「丁酉」は常色元年七月十三日、「壬子」は七月二八日)
「大解除」について、岩波注は「大祓。恒例は六月・十二月晦日に行うが、そのほかにも疾病・災害に際して臨時に行う場合がある。」とするが、皇后の誓願とあわせ、この年七月に行う理由は記されていない。
こうした一連の記事についての疑問は、命長七年末に天子が崩御した関連記事が天武紀に移されたと考えれば全て合理的に説明がつくのだ。
『書紀』の大化改新記事は九州年号大化(六九五~)から持ち込まれた可能性が高いことは古賀氏ほかの指摘するところだ(注4)。ちょうどその真っ只中にあたり、大化改新と矛盾する崩御記事本体は抹消され、かろうじて関連記事が痕跡を留めたものと思われる。(命長七年六四六年は書紀大化二年)
以上、書紀天武九年の「病したまふ天皇」記事は、九州王朝の史書からの「三四年遡上盗用」であり、記事の場所は筑紫、年は三四年前の命長七年(書紀大化二年六四六)。内容は、古賀氏の推測どおり、九州王朝の天子「利」が祈願むなしく崩御した事を示すものであると考える。
善光寺文書の『命長の君』の正体は、やはり「死期迫る利歌弥多弗利」だったのだ。
(注1)古賀達也「『君が代』の『君』は誰か -- 倭国王子『利歌弥多弗利』考」(古田史学会報一九九九年十月十一日三四号小題「善光寺文書の『命長の君』」)
(注2)古田武彦『壬申大乱』二〇〇一年、東洋書林(第一章・まぼろしの吉野)。
拙論『日本書紀』「持統紀」の真実-- 書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号(『古代に真実を求めて』第十一集二〇〇八・三・三一明石書店)
(注3)ここに言う「薬師寺」は平城京の薬師寺ではなく、飛鳥にあったとされる「本薬師寺」。そもそも『続日本紀』に本薬師寺が文武二年(六九八)に「構作略ね了」って、僧を住まわせたとある一方、『書紀』ではその十年も前の持統二年(六八八)に天武の無遮大会を薬師寺で開いたとする。この時点では建設も未了、僧もいないはずで、本薬師寺に関しての『書紀』は極めて疑わしい。
■『続紀』文武二年(六九八)冬十月丁亥
朔庚寅(四日)以て薬師寺の構作略ね了りぬ。衆僧を詔して其の寺に住まはしむ。
■『書紀』持統二年(六八八)正月の庚申の朔に、皇太子・公家・百僚人等を率て、殯宮に適でて慟哭る。辛酉(二日)に、梵衆、殯宮に発哀る。丁卯(八日)に、無遮大会を薬師寺に設く。
(注4)古賀達也「大化二年改新詔の考察」(古田史学会報八九号・二〇〇八・一二・一六)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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