淡路島考(その一) 国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない 野田利郎(会報92号)
天孫降臨の「笠沙」の所在地 -- 「笠沙」は志摩郡「今宿」である 野田利郎(会報97号)
淡路島考(その2)
国生み神話の「淡路州」は九州にあった
姫路市 野田利郎
はじめに
淡路島考(その1)で「淡路洲」が「兵庫・淡路島」と異なること、そして、滅ほされたことを述べた。
本稿では「淡路洲」を探すことにする。滅亡した国を地名から探求するのは困難である。ただ、「淡路洲」は「淡道之穂之狭別島」の古名がある。類似する「天之忍許呂別」が「天」+「忍許呂別」であることから、「淡道」+「穂之狭別島」と区分し、「別」と「島」は重複するので、「島」は省略し「穂之狭別」を探求する。
「別」の用例
「穂之狭別」の「別」を岩波体系本は、「地方に別け封ぜられた者の意」とある。「国生み神話」は国が生まれる神話であり、国の分割神話ではない。疑問である。
国生み神話以外で記紀に登場する「別」は、それぞれを合計すると八十例がある。八十例のうち、七十四例は人又は神の名である。残り6例も皇子が始祖となった国に「別」を付加した名前であり、皇族の名に関連し使用される。書紀に「別」の説明がある。「七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如かしむ。故、今の時に當りて、諸国の別と謂へるは、即ち其の別王の苗裔なり。」(景行天皇四年)この内容は、「別」の使用例を的確に表現している。つまり、「別」は神代に使用されたが、一旦中断して、人名として復活した。人名の使用例から、神代の用法を推測するのは適切でないことが判る。
国生み神話の「別」
国生み神話の亦の名の「別」は十例である。この僅かな例から、用法を読み取ることになる。島国名の場合には二段地名は、たとえば、「伊豫之二名島」は伊予(大領域)+二名(小領域)である。「穂之狭別」もそのような読み方であろうか。
具体的な例で考えてみる。「豊日別」は「豊国」である。「日」が小領域であれば「豊国」では「日」を特定できない。逆に「日」が大領域であれば省略しても、小領域の「豊国」を表示できる。豊(小領域)+日(大領域)別である。別の直前は大領域の地名となる。現代の東日本や北九州などである。(古賀達也氏から「耶馬一国」も語尾が大領域と指摘を得る。)
したがって、「穂之狭別」は「穂(小領域)」+「狭(大領域)別 」と考える。語尾を大領域とするのが「別」の用法であり、「穂之狭別」の「狭」は大領域であるから、語尾が「狭」の地名の中に「穂」がある地域を探すことになる。
「さ別」の領域
「狭」は、狭くの意味もあるが、弓矢の矢を「さ」という。記紀の地名で「さ」を語尾とするのは、次の十六例である。なお、「狭」と同字「峡」を語尾し、音が「お」の「長峡」「松峡」「柏峡」「活田長峡」「曲峡」は除外した。
九州地域「笠狭かさか」「菟狭うさ」「膽狭いさ」
四国地域「土佐とさ」
山陰地域「五十狭狭いささ」「若狭わかさ」「餘社よさ」「訶沙かさ」
近畿地域 「出浅いでさ」「伊那嵯いなさ」「身狭みさ」「羽狭はさ」「来狭狭きささ」
朝鮮半島「滞沙たさ」「久嵯こさ」「古沙こさ」
この地域にある「さ」のいずれが「さ別」の領域を形成していたかを検証する。この領域を考える上で、「土左」は、亦の名が「建依別」であり、「さ別」ではない。また、近畿地域も国生み神話以降の「神武の侵攻」から神話世界に登場するため「さ別」から除外することができる。朝鮮半島は「さ別」の範囲の可能性があるが、神話世界の周辺部であり、「淡路洲」の探求上は除外することにする。すると、残るのは九州地域と山陰地域である。この二つの地域は天孫降臨の舞台であり、天孫降臨と大八洲国の誕生は、「さ別」の領域に関連していることが想定される。そこで、天孫降臨説話から「さ別」の領域を考えることにする。
記紀は天孫族が出雲で「葦原中国」のすべての統治権を収めたと書かれている。しかし、以下の書紀の記事から九州地域は依然とし、旧勢力のままであったと考えられる。
(その1)天照は「葦原中国」を自分の領土にすると宣言した。侵略する方が、対象国を呼んだ名である。天孫族は、出雲の「五十狭狭」で武力を背景に権力を奪い取った。その後に、九州に進出する。「笠狭」の御前にある日向の高千穂の峰を占拠する。攻略の重要な地点は「笠狭」である。つまり、「笠狭」は「葦原中国」となる。
(その2)ニニギ尊が降臨後に「笠狭」の国王と会った記事がある。
A.吾田の長屋の笠狭碕に到ります。其の地に一人有り。自ら事勝国勝長狭と号る。皇孫問ひて曰はく「国在りや以不や」とのたまふ。対して曰さく、「此に国有り。請ほくは任意に遊せ」とまうす。故、皇孫就きて留任ります。」(書記神代下第九段本文)
B.乃ち国主事勝国勝長狭を召して訪ひたまふ。対して曰さく「是に国有り、取捨勅の随に」とまうす。(同段一書第二)
C.吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。時に彼處に一の神有り、名を事勝国勝長狭と曰ふ。故、天孫、其の神に問ひて曰はく、「国在りや」とのたまふ。対へて曰さく、「在り」とまうす。因りて曰さく、「勅の随に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼處に留住りたまふ。其の事勝国勝神は、是伊奘諾尊の子なり。亦の名は塩*土老翁。(同段一書第四)
塩*は、鹽の別字。JIS第4水準ユニコード76EC。
この会見記事から次のことがいえる。
まず初めに「笠狭」の王は「事勝国勝長狭」である。「事勝国勝」は連勝の称号である。一方、天孫族は、忍穂耳尊を「葦原中国」の王にする思惑から、忍穂耳尊に「正勝吾勝勝速日」の称号を与えた。「事勝国勝」の称号への対抗である。したがって、「事勝国勝長狭」が「葦原中国」の大王と考える。このことは、「事勝国勝長狭」はAでは「国主」とあり、Cで「伊奘諾尊の子」とある。その地を統治する正当な系譜にあり、単なる湾岸の王ではない。
次に、九州では武力の威嚇や行使の記事がない。国の有無を問い、答えも「任意に遊べ」または「差し上げる」である。、ニニギ尊は王権の簒奪を目的に九州に進出したが、「国を自分のものとした」との記事が一切ない。九州では、ニニギ尊は「日向の高千穂」占拠と「葦原中国」の人との婚姻の話で終了する。天孫降臨後も「葦原中国」の九州部分は残ったと考える。
以上の通り、天孫降臨の説話から山陰は消滅し九州が残った。このことから「さ別」の領域は九州地区の笠狭、菟狭、膽狭となる。更に、記紀には登場しないが、周防灘の山口県に「厚狭」がある。この笠狭(博多湾)から菟狭(国東半島北西端)、膽狭(菟狭と厚狭の中間地点。)と厚狭(関門海峡の北西)そして笠狭を結ぶ、三角形の地帯を「さ別」と考える。
「さ別」の「穂」
「穂」とは稲穂を必ずしも意味しない。高くぬきん出て人目に立つものの意とある。「さ別」の地帯にある「穂」とは旧穂波郡である。旧穂波郡はこの三角形の「さ別」の中心にも位置している。旧穂波郡は、安閑天皇二年(五三五年)「筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉・・・・を置く」と「穂波」があり、現在でも、「穂波川」が嘉穂盆地を流れ、「穂波町」、「筑穂町」がある。
また、嘉穂盆地の飯塚には「合屋」の地名がある。筑前国続風土記に「この郡の、庄内、中村、津島、柳橋の四村すべてを合屋という。中村の内、鼓打権現、笛吹権現の社あり。山高き所にあり。是合屋の四村及び河袋村の惣社也。古老云傳ふるは、神功皇后三韓を討たまふ時、志賀の濱にして神樂を奏せられし時、笛鼓を司どりし神也といへり。」とある。「アワジ」の語源の「祭祀の神」を連想させる伝承である。旧穂波郡を「穂」の地と考える。
「穂之狭別」
穂の中心は旧穂波郡であるが、「穂狭別」はどの範囲までであろうか。遠賀川川流域は五つの旧郡から成る。上流域に東から旧田川郡、旧嘉麻郡、旧穂波郡があり、この三郡を流れる川は、中流域の旧鞍手郡で合流する。下流の旧遠賀郡は大河なった遠賀川が流れ響灘へと注ぐ。旧穂波郡と旧嘉麻郡とは嘉穂盆地内であり、文化と地理面でも一体と考えられる。また、旧鞍手郡の多賀神社には、「淡路洲」と関連する伝承もある。したがって、嘉穂盆地から流れる遠賀川が英彦山川が合流する旧鞍手郡までを「穂之狭別」と想定し、旧郡表示では、旧嘉麻郡、旧穂波郡、旧鞍手郡の三郡がその領域と考える。
「淡道之穂之狭別島」の結論
「淡道之穂之狭別島」の「淡路」は「阿波への道」とも読める。しかし、古田先生は「淡路」を次のように説明する。
「淡路を淡への道と考えるのは誤りで、アワヂのアは接頭語、ワは祭りの場、チは古い段階の神様の表現で、祭祀の場に居られた神様がアワヂであると云う。」(「釈迦三尊」はなかった『古田史学論集第9集』古田史学の会二〇〇六年三月)
この見解からも、「淡路」とは「穂之狭別」の冠辞で場所を左右しないと考えられる。したがって、「淡道之穂之狭別島」は、「穂之狭別」と同じ地域の旧嘉麻郡、旧穂波郡、旧鞍手郡となる。
しかし、九州北部の三角形「さ別」の地は、その後、筑前国と豊前国となっていることから、その中心の「淡道之穂之狭別島」も当然に滅ぼされたと考えられる。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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