九州年号「端政」と多利思北孤の事績 正木裕(会報97号)
九州年号の改元について(後編)
川西市 正木裕
本稿では前号に続き「白鳳」「常色」「【九】大化」「大長」「倭京」「命長」「朱雀」改元について述べる。
三、遷都・遷宮による九州年号の改元(続き)
【例3】【九】白雉(六五二~六六〇)から白鳳(六六一~六八三)へ
○原因は「近江遷都」か
『書紀』で「近江遷都」は天智六年三月と記されている。
■天智六年(六六七)三月己卯(十九日)に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓遷都することを願はずして、諷へ諫(あざむ)く者多し。童謡亦衆(おほ)し。日々夜々、失火の処多し。
しかし、『海東諸国紀』では、斉明七年(六六一白鳳元年)に「白鳳改元」と「近江遷都」の記事があり、古賀氏は白村江直前の九州王朝による遷都だとされている。(註10)
■(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。
「岩波『書紀』補注」は、天智六年の遷都理由を「人心一新」「水陸の便」「新羅防衛」等とするが、前二者は特段の理由とも思えず、「新羅防衛」は白村江直前の「筑紫から近江」への遷都にこそ相応しい。飛鳥から近江への遷都に何の「新羅防衛」効果があるのか。又、「諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡亦衆し。日々夜々、失火の処多し」との恐慌ぶりは平和裏の遷都としては極端であり、対唐・新羅戦への民衆の恐怖の表れだと考えればよく理解できる。
『書紀』に記す天智六年は天智即位「元年」だから、『書紀』編者は近江遷都を近畿天皇家の事績とするため、白鳳「元年」記事を天智即位「元年」に盗用した可能性が高いのだ。(註11)
以上、白鳳改元は『書紀』の記述や当時の情勢、また九州年号との関係から見て、古賀説の通り「九州王朝の近江遷都」によるものと考える。
【例4】命長(六四〇~六四六)から常色(六四七~六五一)へ
○原因は「小郡宮造営」
1、常色元年の小郡宮造営記事
前号で常色改元は九州王朝の天子「利」の崩御によると述べたが、この改元にはもう一つ原因があった。それは「小郡宮造営」だ。
『書紀』大化三年(六四七常色元年)に、小郡宮の造営記事がある。
■大化三年是の歳に、小郡を壊ちて宮造る。天皇小郡宮に処して、礼法を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位有(たも)ちあらむ者は、要ず寅の時に、南門の外に、左右羅列(つら)なりて、日の初めて出ずるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち庁に侍れ。若し晩く参む者は、入りて侍べること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾を聴きて罷れ。其の鍾撃かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。其の鍾の台は中庭に起てよ」といふ。
『岩波注』は、小郡宮は「難波小郡」とし、「朝廷の迎賓などの施設の名であろう」とする。しかし、有位の官僚が「南門外に羅列、庭で再拝し参内、鐘に合せて入退庁する」という描写は、小郡宮が単なる迎賓施設ではなく、正規の殿舎・庁舎である事を示している。「難波小郡」は大阪上町台地の西半とされるが、遺跡も発見されておらず、またそうした正規の宮を難波宮造宮直前の時期に、場所も難波宮に近接して造営するとは考え難いのだ。
2、筑紫小郡
一方、『書紀』には「筑紫小郡」の存在が記される。
■持統三年(六八九)六月乙巳(二四日)に、筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に設たまふ。物賜ふこと各差有り。
『書紀』大化三年造営の「小郡宮」の場所として1). 実態の不明な「難波小郡」を想定するのか、2). 新羅使節を招待し、儀典をとり行った「筑紫小郡」が適切なのか、答えは明らか。大化三年造宮の新宮の場所は「筑紫小郡」なのだ。
現に、筑紫小郡に比定される福岡県小郡市には、多数の国衙・官衙等大規模遺跡が発掘されている。
特に、旧御原郡の井上地区には井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。わけても上岩田遺跡では、大規模基壇を伴う瓦葺き建物、同一方向の大型建物群とそれを囲む柵列が確認され、単なる官衙(評衙)とは考え難い。
遺跡には筑紫大地震(六七八)によると見られる亀裂倒壊の跡があり、七世紀の中盤から後半にかけて存在したと考えられ、小郡宮造宮を大化三年(六四七)とする『書紀』の記述と一致する。
3、「新宮」記事の三四年遡上
また、『書紀』天武十年には「新宮」の記事がある。
■天武十年(六八一)三月に、天皇、新宮の井の上に居しまして、試に鼓吹の声を発したまふ。
岩波『書紀』注では、この「新宮」が何か不明とされるが、三四年遡上すれば小郡造宮記事のある大化三年(六四七)と一致する。
また、天武十一年に鐘の献上記事がある。
■天武十一年(六八二)夏四月癸未(二一)に、筑紫太宰丹比真人等、大きなる鐘を貢れり。
これも「鍾の台は中庭に起てよ」との詔への対応と考えると、何のための鐘献上かが明らかになる。
記事三四年の遡上は、古田武彦氏の持統吉野行幸記事の分析から、九州王朝の事績からの盗用の可能性が高く、この「小郡造宮」は九州王朝の遷都(遷居)であると考えられ、「常色」改元も遷都と関連することとなる。
これまでの考察から、命長七年(六四六)「利」が崩御し、次代の天子は筑紫小郡宮に遷居するとともに、年号を「常色(六四七~)」と改元。礼法や冠位制度を改革し、さらに評制施行や難波宮建設などの大改革を行ったと考えられる。私はこれを九州王朝の「常色の改革」と名づけた。近畿天皇家は、彼らが権力を掌握した【九】大化期(六九五~)に行った改革を『書紀』大化(六四五~)に移し、近畿天皇家は過去から一貫して倭国を統治してきたことを装うと共に、九州王朝の「常色の改革」をも自らの事績としたのだ。(註12)
4、「常色」の意味
なお、「常色」の常は「のり。典法」を意味し、色は、[色法]という語で「仏・物質の法をいふ(諸橋漢和大辞典)」ことから、『書紀』大化三年の「七色、十三階の冠制」創設にもちなむ年号名と思われる。
【例5】朱鳥(六八六~六九四)から【九】大化(六九五~七〇三)へ
○原因は「藤原宮遷居」か
『書紀』の大化は六四五年を元年とし五年間続く。一方、【九】大化は二中歴では持統九年(六九五)から六年間、古賀氏の研究では九年間続くと考えられる。そして、【九】大化元年の前年末、持統八年(六九四)十二月に藤原宮遷居記事がある。
■持統八年(六九四)十二月庚戌朔乙卯(六日)藤原宮に遷り居します。戊午(九日)百官拝朝す。
藤原宮(京)は本格的な条坊を備えた歴史上画期的な都市だ。ただ、その建設状況は持統五年以降、詳細な記事がある反面、一大盛時であったろう遷都の式典や遷居後の宮の状況はあまり記されていない。それどころか続日本紀慶雲元年(七〇四年)十一月二十日条には「始めて藤原宮の地を定む」との不可解な記事も存在する。当会の西村秀己氏は「藤原宮は九州王朝の為の宮であり、そこには九州王朝の天子がいた」とされている。(註13)
その当否は後述するが、【九】大化改元と藤原宮遷居が同時なのは客観的事実で、【九】大化改元も藤原宮遷居と密接に関連すると考えられる。
【例6】【九】大化(六九五~七〇三)から大長(七〇四~七一二)へ(註14)
○原因は「大宰府回帰」か
先述の通り【九】「大化」は六九五~七〇三で、七〇四年から「大長」年号が始まる。
薩摩(鹿児島県)開聞神社の『開聞古事縁起』では、「大長元年(七〇四)」に「天智天皇」が都から大宰府に移り、開聞岳に離宮を造営する旨九州諸司に宣し、慶雲三年(七〇六)七六歳で崩御したとある。
■一、天智天皇出居外朝之事
越仁王三九代天智天皇別離心難堪、溺愁緒之御涙、思翠帳紅閨隻枕昔歎二世眤契約蜜語空於発出居外朝御志而不幾時、 同十年辛未冬十二月三日〈大長元年尤歴代書年号〉帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。 凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。〈 〉は右注
一、皇帝后宮岩隠之事
文武帝慶雲三(七〇六)丙未(午の誤りか)春三月八日天智聖帝天寿七十九於此崩御。於仙土陵当神殿也。阿弥陀如来示現帝皇也。(略)
「天智天皇出居外朝之事」とあるが、六七一年崩御の「天智」であるはずもなく、古賀氏は「『天智』と書かれている人物も九州王朝の王であると考えるべき」とされている。この点につき私は、西村秀己氏の先述の見解をもとに、大長元年(七〇四)九州王朝の天子が藤原宮から追われ大宰府に回帰した記事と解釈できる事を指摘した。(註15)
この指摘が正しければ、大長改元は「大宰府回帰(遷都)」によるものとなる。「宣旨九州諸司」とは、この時点では九州は未だ九州王朝の統治下にあったと解釈できよう。そして藤原宮遷居・藤原宮から大宰府への回帰が、【九】大化改元・大長改元と夫々附合することは、九州王朝の「遷都に伴う改元」という考えを裏付ける証左となろう。
【例7】定居(六一一~六一七)から倭京(六一八~六二二)へ
○原因は「大宰府遷都」か
次に、資料根拠は不十分だが「定居」「倭京」も、年号名から遷都・遷宮との関連が推測される。
古賀氏によれば「倭京」について、『聖徳太子伝暦』の推古二五年条(六一七)や『聖徳太子伝記』の太子四六歳条(六一七)に、聖徳太子による遷都予言記事が見えるという。(註16)
■『聖徳太子伝暦』推古二五年「此地帝都。近気於今。在一百餘歳。一百年竟。遷京北方。在三百年之後。」
氏は、この時期近畿天皇家に遷都は無かったから、「倭京改元直前の六一七年の予言記事は九州王朝の遷都宣言からの盗用ではないか」とされる。
その場合、五八九年崩御とされる高良玉垂命の本拠は筑後大善寺玉垂宮だったから、「遷京北方」とは大宰府や小郡の方向だ。
ただ大宰府としても条坊や宮の位置、特に政庁との関係についてはまだまだ検討の余地があり、「倭京」改元の解明は今後の課題であろう。
四、その他の年号の改元要因の推定
【例1】、僧要(六三五~六三九)から命長(六四〇~六四六)へ
○原因は「無量寿経講話」か
『書紀』舒明十二年(命長元年)五月に、僧恵穏等による無量寿経講話記事がある。
■(1).舒明十二年(六四〇)五月辛丑(五日)に大きに設斎(をがみ)す。因りて、恵穏僧を請せて、無量寿経を説かしむ。(略)
無量寿経は無量寿仏(阿弥陀仏)の功徳を説く経典。阿弥陀仏の梵名「アミターユス」は、「無限の寿命をもつもの」の意味で、その漢訳が無量寿仏だ。従って「無量寿」は「命長」を意味するから、「命長」改元は無量寿経講話にちなむもので、当然九州王朝の事績となろう。
なお、同様の記事が『書紀』白雉三年(六五二)(【九】白雉元年)四月壬寅(十五日)にも存在する。
■(2).白雉三年(六五二)夏四月戊子朔壬寅(十五日)、沙門恵隠を内裏に請せて、無量寿経を講かしむ。沙門恵資を以て、論議者とす。沙門一千を以て、作聴衆とす。丁未(二〇日)、講くこと罷む。
(岩波注)→舒明一二年五月条。内容もほぼ同じ。
二つの記事が岩波注の指摘通り重複記事であれば、元記事は舒明十二年(命長元年)だ。何故なら直前の舒明十一年秋九月に「大唐学問僧恵隠・恵雲、新羅の送使に従ひて入京す」の記事があり、これは対外的資料で動かしづらいからだ。しかも(1).の「設斎日」の暦日干支は「辛丑」、(2).の「無量寿経講話日」は「壬寅」で「辛丑」の翌日の干支だから、本来の記事は
舒明十二年(六四〇)五月辛丑(五日)設斎(法事の膳振舞)→翌壬寅(六日)無量寿経講話
という記事だったと考えられる。
つまり、「沙門恵資を以て、論議者とす。沙門一千を以て、作聴衆とす」以下の部分が切り取られ白雉三年(六五二)に移されたのだ。(註17)
2、「沙門一千」を収容する内裏
この盗用の理由は「沙門一千」だ。白雉三年なら難波宮完成後で、前年十二月には二千百人の僧尼による一切経読呪記事があるため、当然「難波宮」での近畿天皇家の行事ととれる。
一方、舒明十二年では近畿天皇家にその様な規模の内裏を持つ宮は無かった。何故なら舒明八年に岡本宮が焼け、舒明十二年十月百済宮に遷居するまで舒明は「田中宮」という臨時の皇居にいたからだ(岩波注による)。
従って、(1).,(2). 記事を重複記事と見るなら、命長元年に九州王朝には一千人を収容する内裏が存在していたこととなる。
しかも難波宮遷居直前に同様な法要があったことを考慮すると、九州王朝は命長元年に遷居・遷宮した可能性が高いのだ。
『書紀』編者はこれを白雉三年に盗用し、九州王朝の遷宮を隠すとともに、その法要を自らの事績とすり替えたと考えられる。
そうした九州王朝の宮(内裏)候補は、時期的に見て「大宰府政庁第一期」ではないかと思われるが、この点は別途論じたい。(註18)
なお、『書紀』舒明十一年(六三九)七月の「今年、大宮及び大寺を造作らしむ」との記事や、舒明十二年(六四〇(命長元年)十月の「是の月に、百済宮に徒ります」との記事との関連については今後検討すべき課題だろう。
【例2】、白鳳(六六一~六八三)から朱雀(六八四~六八五)へ
○原因は「白鳳地震」か
天武十三年【九】朱雀元年に東海・近畿・四国にかけ「白鳳地震」がおきている。
■天武十三年(六八四)十月壬辰(十四日)に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大きに地震る。国挙りて男女叫び唱ひて、不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舍、及び百姓の倉屋、寺塔、神社、破壌れし類、勝(あ)げて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多に死傷はる。時に伊予湯泉、没れて出でず。土左国の田苑五十余万頃、没れて海と為る。古老の曰はく、「是の如く地動ること未だ曾(むかし)より有らず」といふ。是の夕に、鳴る声有りて、鼓の如く東方に聞こゆ。人有りて曰はく、「伊豆嶋の西北、二面、自然に増益せること、三百余丈。更一の嶋と為れり。則ち鼓の音の如くあるは、神の是の嶋を造る響なり」といふ。
天武十三年(朱雀元年)のこの地震は「白鳳(南海)地震」とよばれている。地震による改元は天慶元年(九三八)の京都地震を初めとして数多く見られる(『承平』から『天慶』)から、朱雀改元も地震が原因と思われる。
この記事や、『熊野年代記』に熊野に津波が押し寄せた記事がある事から、「東海・南海・東南海」地震が連動して発生したと思われる。この被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であり、現在の想定では難波宮付近も相当の揺れ(震度五強・中央防災会議予測)と津波(二~三m・同)の被害が発生するとされている。筑紫でなく「近畿での地震」が改元の原因なら、九州王朝の天子はこの時点で「難波宮」にいた可能性が高く、先述の「天武七年の筑紫大地震で難波に移った」とする推測を補強する事となろう。
五、その他
『書紀』推古紀の聖徳太子関連の遷宮記事に、何故か九州年号の改元との一致が見られる。
■推古九年(六〇一「願転」元年)十月壬申(四日)に、皇太子、初めて宮室を斑鳩に興てたまふ。
■推古十三年(六〇五「光元」元年)冬十月に、皇太子、斑鳩宮に居す。
推古九年・十三年当時の九州王朝の天子は「多利思北孤」であり、「皇太子」は「利(利歌弥多弗利)」の可能性が高い。若し、九州王朝による「願転」「光元」への改元と『書紀』斑鳩遷居記事の一致が、偶然ではないなら、「利」は斑鳩に遷居した事となる。
また善光寺文書中の聖徳太子とされる署名に「斑鳩厩戸勝鬘」とあり、死期迫る九州王朝の天子「利」を指すとの古賀氏の指摘は前号で述べた。
■(略)命長七年(六四六)丙子二月十三日
進上 本師如来寶前 斑鳩厩戸勝鬘
この指摘が正しく、且つ文書の「改変」がなければ「斑鳩厩戸勝鬘」は「利」の自署となる。(註19)。
これは論理的には(1).奈良「斑鳩宮」は「利」が造営 (2).「斑鳩宮」は本来筑紫に存在 (3).「利」の別の宮造営の「斑鳩宮」への置き換え、何れかとなる。
余りにも多くの仮説の上に立つ、僅かな可能性であるが、あえて諸氏の御一考を賜りたい。
六、まとめ
以上九州年号の改元を 1).天子の崩御 2).「辛酉改元」 3).遷都・遷宮 4).天災・火災等に区分して検討してきた。
もちろん地震や火災は必然的に遷都・遷宮を伴うし、常色や白鳳改元のように天子の崩御と遷都・遷宮が同時である事も容易に想定でき、改元要素を単純に分類する事は出来ない。
しかし、こうした九州年号の改元を天子の崩御や遷都等の関連に於いて検討する事により、失われていた九州王朝の歴史が、その一部でも復元できるなら望外の幸せである。
【注釈】
(註10)古賀達也「九州王朝の近江遷都─『海東諸国紀』の史料批判」(古田史学会報六一号・二〇〇四年四月)ほか。
(註11)『書紀』天智紀には重複記事が多く見受けられる。例として、斉明七年六月と天智七年六月の「伊勢王」薨去記事、四年二月と十年正月の鬼室集斯への小錦下授位、四年八月と九年二月の長門・筑紫の築城、三年二月と十年正月の新冠位施行などがある。それぞれの重複理由については今後の検討課題とする(参考・岩波『日本書紀』補注)
(註12)拙著「藤原宮と『大化改新』」(『古代に真実を求めて』古田史学論集第十二号(古田史学会編二〇〇九年三月明石書店)
(註13)西村秀己「削偽定実の真相 -- 古事記序文の史料批判」(『古田史学会報』六八号二〇〇五年六月)
(註14)古賀達也「最後の九州年号 -- 「大長」年号の史料批判」(『古田史学会報』七七号二〇〇六年十二月)
同氏は、『運歩色葉集』『伊豫三嶋縁起』等から七〇四年甲辰を元年とし、大長九年壬子(七一二)で終わりを告げる「大長」年号が、「最後の九州年号」であるとされる。
(註15)拙論『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む」の意味(『古田史学会報』九二号二〇〇九年六月)
(註16)「『太宰府』建都年代に関する考察 -- 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」
(『古田史学会報』六五号・二〇〇四年十二月)
(註17)拙論「日本書紀の編纂と九州年号」(『古田史学会報』七九号二〇〇七年四月)
両記事は九州年号で見ると、命長「元年」と白雉「元年」となり、先述の白鳳記事の盗用同様、命長「元年」記事の白雉「元年」への盗用と思われる。
(註18)大宰府政庁は、掘立柱の一期(通説では七世紀後半)、瓦葺の二期(同八世紀)、焼失後再建された三期が遺跡調査で確認され、一期では大型建物群が整然と配置され、既に「儀礼空間を意識」していたとされる。
伊東義彰氏は、二期は七世紀末から八世紀初頭、一期は三回建て替えられている事から、その創建は二期の百年前後前頃か、とされている。伊東義彰「大宰府政庁跡遺構の概略」『古代に真実を求めて』古田史学論集第十二号(古田史学会編二〇〇九年三月明石書店)による。
(註19)古田武彦「高良山の『古系図』 -- 『九州王朝の天子』との関連をめぐって」(『古田史学会報』第三五号一九九九年十二月)
■(隋書イ妥国伝中の太子の名を示す)「名太子為利歌弥多弗利」は、「太子を名づけて利と為す。歌弥多弗(カミタフ)の利なり。」と訓む。「利」は仏教的一字名称、「カミタフ」は「上塔」。現在の九州大学の地に「上塔ノ本」「下塔ノ本」(字地名)がある。イ妥国からの国書の主署名が「多利思北孤」、副署名が「(第一行)歌弥多弗利(第二行やや下に)利」と書かれていたものであろう。「利」は“衆生利益”の意。「多利思北孤」の第二字にも、現れている。
(私見)九州年号は五九一年以降「法興」と「端政 -- 吉貴 -- 願転 -- 光元 -- 定居 -- 倭京」とに分れる。「願転」「光元」は多利思北孤の「法興」系年号とは別の要因での改元が考えられ、「利」との関連に関心が持たれる。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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