2010年2月1日

古田史学会報

96号

1,九州年号の改元
について(後編)
 正木裕

2,橘諸兄考
九州王朝
臣下たちの行方
 西村秀己

3,第六回古代史セミナー
古田武彦先生を囲んで
 松本郁子

4,洛中洛外日記より
纏向遺跡は
卑弥呼の宮殿ではない
 古賀達也

5,「人文カガク」と科学の間
 太田齊二郎

6,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

7,伊倉 十二
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

8,年頭のご挨拶
代表 水野孝夫

綱敷天神の謎
 西村

 

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橘諸兄考

九州王朝臣下たちの行方

向日市 西村秀己


 七〇一年九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への政権委譲が行われた際、九州王朝の王族・臣下たちはどうなったのか? 本稿はそれを探る試みである。
 例えば、その一部は新政権に対し反乱を起こした。
 文武四年六月庚辰。薩末比賣久賣波豆衣評督衣君縣助督衣君弖自美又肝衝難波從肥人等持兵剽劫覓國使刑部眞木等於是勅竺志惣領准犯决罸(続紀)

 かの有名な南九州における反乱記事である。その他、七〇一年以降続発する隼人の乱もこれに準じよう。(特筆すべきは、隼人の乱が七〇〇年以前には一件の記録も存在しないことだ)大和朝廷に服するを潔しとしない九州王朝の臣下たちは、かつての天子の末裔を頭に抱き細々ながらもその王朝を継続しようと意図したことであろう。大宝建元以降も九州年号である大長が続くことがその証左と言える。
 だが、これらはあくまでもその一部の臣下たちの行方である。その殆どの臣下たちは唯々として新政権に従ったこと、想像に難くない。ここに左大臣生前正一位橘諸兄を例に取りたい。

 橘諸兄は朱雀元年(六八四)生まれ。(尊卑分脈によれば、天平勝宝九正六薨七十四才とあるので、これに従う)元の名前は葛城王である。天平元年(七二九)正四位下左大弁、同三年参議、同四年従三位、同八年願い出て橘姓(宿禰)を許される。臣籍降下。同九年大納言、同一〇年正三位右大臣、同一一年従二位、同一二年正二位、同一五年従一位左大臣、同一八年左大臣兼大宰帥、天平感宝元年正一位、天平勝宝二年朝臣、同八年致仕、同九年薨去。(以上、続紀)

 諸兄の母親の県犬養三千代は美努王に嫁ぎ諸兄たちを生むが、美努王が大宰率として筑紫に赴任すると(これは藤原宮遷居と同年である。偶然であろうか?)美努王と別れ藤原不比等の後妻に収まり後の光明皇后たちを生む。つまり、諸兄は藤原四兄弟及び光明皇后たちとは義理の兄弟となる。三千代は後に元明天皇より「橘」を賜姓され、諸兄はこの橘姓を受け継ぐのである。諸兄は四六才まではそれほどの地位ではないが、藤原四兄弟が天然痘で全滅すると、その空隙を埋めるように急出世し聖武の治世を支えることになる。
 さて、諸兄の父美努王の父は栗隈王である。白鳳一一年(六七一)筑紫率に任じられ、翌一二年壬申の乱に際しては、近江朝の命令を拒否する。近江朝の態度は命令に従わせるか殺すかだったのだから、栗隈王の姿勢は中立とは言えまい。時は七〇一年以前の白鳳年間、筑紫の政治的トップであるこの栗隈王を大和朝廷の臣下であると信じていらっしゃる古田史学の会員はまさかおられるまい。栗隈王は九州王朝の王族だったのである。とすれば、その孫橘諸兄(葛城王)もまた九州王朝王族であったと考えざるを得ない。王だった諸兄が真人でも朝臣でもなく八色の姓の第三位である宿禰を選んで臣籍に下ったのも、高位になるに従って元九州王朝王族としての身の危うさをおもんばかっての選択だったと思われる。その諸兄も晩年讒言を受け、致仕に至るのだが。

 この諸兄は敏達天皇の裔とされている。尊卑分脈には

 敏達天皇 -- 難波親王 -- 大俣王 -- 栗隈王 -- 美努王 -- 諸兄

 と、ある。(但し分脈は諸兄と葛城王を二人に分けて兄弟として記載する)ところが、群書類従に記載される各種「橘氏」及び「楠氏」系図は

 敏達帝 -- 難波親王 -- 大俣王 -- 美好王 -- 諸兄
 敏達天皇 -- 難波親王 -- 栗隈王 -- 美奴王 -- 諸兄
 敏達天皇 -- 難波親王 -- 大役王 -- 美好王 -- 諸兄
 敏達天皇 -- 高仁親王 -- 諸兄

 など、一つとして同じものはないのだ。これは系図の造作の証左と言えるのではあるまいか。こうして、九州王朝の王族或いは新撰姓氏録風に言えば皇別たちは自らの出身を捨て、現天皇家に系図を繋げていったのだろう。武内宿禰が新撰姓氏録皇別中最多の始祖となり、その子供の数の多さそしてそのあり得ない長命もこれが原因と思われる。(何故、武内宿禰なのかは、また別のテーマである)
 この様に、九州王朝の王族・臣下が大和朝廷の臣下となっていったのは、勿論諸兄だけではないだろう。例えば所謂門号氏族たちである。実は宮城十二門は北朝様式となった平城京以降では成立しない。真北に位置する猪使門(のちの偉鑒*門)は宮が京の北端にある北朝様式では、全く必要の無い門である。猪使門の前には道(少なくとも公路)は存在しないからである。一条大路を左右から進むとそれぞれ海犬養門(安嘉門)若しくは丹比門(達智門)から入城すればことたりる。猪使門(偉鑒*門)を必要とするのは、宮が京の中央にある藤原京のみなのである。筆者の従来からの主張である「藤原京は九州王朝の都」というテーマに従うならば、その宮城に住まう人物を守る門号氏族たちもまた、その大部分は九州王朝の臣下と考えざるを得ない。
     偉鑒*門(いかんもん)の鑒*は鑒の別字。JIS第4水準、ユニコード9373。

 そして乙巳の変である。乙巳の変の暗殺者として三名の門号氏族が登場する。海犬養連勝麻呂(安嘉門)・佐伯連子麻呂(藻壁門)・葛城稚犬養連網田(皇嘉門)だ。この時の功により五十年後その氏族が門衛に任じられたとは考えにくく、乙巳の変が大化の改新とともに五十年降るとすれば、宮城の主を守るべき氏族たちが九州王朝を裏切り(或いは見限り)、政権簒奪に反対する大物Xを暗殺した事件となる。この根拠のひとつとして、乙巳の変の条には次の文章がある。

 中大兄戒衞門府一時倶[金巣*]十二通門勿使徃來(紀)
     [金巣*]は、金偏に巣の別字。鎖の別字。JIS第4水準、ユニコード93C1

 藤原京以前に十二門を備えるような巨大な宮は存在しない。
 最後に、諸兄が母親の姓である「橘」を選んだ理由を想像を逞しくして考えたい。それは「橘」が神話上の倭国発祥の地であったからではあるまいか。すなわち
 則往至筑紫日向小戸橘之檍原(紀)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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