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古代史再発見第1回 卑弥呼(ひみか)と黒塚 1998年9月20日(日)
          大阪豊中市立生活情報センター くらしかん

古代史再発見第1回

卑弥呼と黒塚 5

-- 方法

古田武彦

 さらにもう一歩論証を進めたいと思います。皆さんはあまり古代史については詳しくない方という前提ですが、それでも最近は新聞も色々書いていますから、色々な知識や認識をずいぶんお持ちだと思います。たとえば、しかしどうも「景初三年」鏡、「正始元年」鏡、「西龍三年」鏡などがでてきた。そういう魏の年号の鏡は皆近畿に集中しているのはどうだ。だから古田はそう言うが、やはり「邪馬台国」は近畿ではないか。近畿の新聞もそういう形で書きなぐりますので、そう思われる方も多いと思う。その問題に対し現在のわたしの考え方を、率直簡明に、ズバリ述べたいと思います。

 たとえば島根県から出てきた「景初三年」の銘の入った鏡はあまりにも有名でございます。わたしは、この鏡は島根県もしくは周辺で、景初三年の時点に作った鏡である。この鏡を作ったのは中国から来た工人が、日本に来て景初三年であることを意識して祈念して作った物であると考えます。同じく「正始元年」鏡、ズバリ正始元年にその鏡を作った。群馬県で出てきたものはおそらく近畿で作ったものが伝えられたとおもう。もちろんこの場合、全ての鏡がそうかどうかは分かりません。後で複製をダビングするやり方もありますから。全部とは一概に言えないと思いますが。「正始元年」の元になる鏡、原鏡はその記載された年に作られた鏡と考えています。その証拠に有名な「景初四年」鏡という鏡があります。なんと中国ではこの年がない。中国では景初三年でストップして正始元年に変わった。だから本当なら景初四年というのは無いはずだ。しかし島根県から「景初四年」鏡は出てきている。これを洛陽近辺で作ったとは考えられない。しかし日本列島は離れている。中国は広いから何百キロと離れると、年号が変わったからといって直ぐ伝わるとは限らない。だから当然去年が景初三年だから、今年を景初四年と考えて鏡を作った。そういう意味で非常に貴重な鏡である。

 これに対し最近も日本の学者の中で、中国内部でも木簡などで、年号が変わっても前の年号を使った形跡はある。中国洛陽近辺でも、そうだから別に問題にならない。わたしは「景初三年」鏡問題は論文に書いたことはないが、そういう議論が有ります。つまり「景初四年」鏡が出てきたからといって鏡が国産とは限らない。そういう議論は古くは三木太郎さんなどがそう言っておられ、最近でもそういう事を言っておられる方があると聞いています。

 この考えは、わたしにとって非常に問題が簡単明瞭です。木簡等に出てきた話と、鏡に出てきた話はぜんぜん質が違う。何故かというと木簡は荷札です。荷札に書くというのは言うのは、荷札を扱うような労働者・下級官僚が書くわけです。その場合年号が変わっているのに前の年号を書いてしまうということは有り得ると思う。そんなことをいちいち咎めて、けしからんと言うほど少なくとも中国の権力者は度量は狭くはないと思う。悪意はないから。しかし今の問題は、鏡は中国洛陽の工房で作る。しかも天子が卑弥呼に渡して寄こす鏡である。工房には監督する工人がいる。工房や監督する役人にとっては年号が変わったという事は大事件だ。今年三月に景初三年から正始元年に変わった。そういうことを監視するのが監督の重要な役目の一つである。それをサボって、せっかく天子が年号を変えたという通達を出しているのに、役人や監督が知らん顔とするいうのは、わたしは考えられない。また仮に間違った年号の入った鏡を作ったとしても、当然それは検品するわけです。 検査すれば分かる。そのまま外に出すわけではない。間違ったならもう一回鋳潰して作り直せばよい。天子が倭国に送るという鏡は少なくとも国交の道具だ。年号が間違っている物を、それを見過ごすほど中国は馬鹿だ。そういう見方をするのは失礼である。ですから洛陽の天子の工房で作ったものを卑弥呼に与える。これが動かない以上、そこで「景初四年」鏡というのは有り得ない。ですから木簡の例でなく他の例を上げて説明して頂きたい。わたしはそう考える。中国へ留学された滋賀県立大学教授の菅谷文則さんとお会いしたとき、同じことを言っておられましたが、まったく同意見です。

 ですから「景初三年」鏡、「正始元年」鏡、「青龍三年」鏡。何れもその時点で倭国側で作られた国産です。
 今の問題はみんな気が付いている問題だと思いますが、もう一つ誰も言わないですが不思議な話が「青龍三年」鏡という鏡にあります。この鏡も有名でこの間は大阪府高槻市、以前は京都府から出て参りました。青龍三年 (二百三十五年)は、景初三年(二百三十九年)の四年前です。この鏡を見るとき倭国側の要請によって、特注で中国にない形式の三角縁神獣鏡という鏡を作って送ったと仮定します。三角縁神獣鏡が舶載鏡説の人はそう言っていますから。この場合、卑弥呼初遣使以後の「景初三年」銘が有るのは分かる。そして次の景初四年に当たる「正始元年」銘も分かる。分からないのは四年前の「青龍三年」銘がある鏡がなぜ現れるのですか。あれも三角縁神獣鏡です。あの三角縁の様式は特注の鏡だと言いますが、それがなぜ四年前に洛陽で作ったはずの「青龍三年」銘の鏡が、なぜ三角縁なのか分からない。中国鏡で有ると説明する人が、どういう説明をするか知りませんが、わたしには理解できない。
 ともかく「景初三年」「正始元年」「青龍三年」などの銘の鏡は国産である。わたしはそう考えています。

インターネット事務局注記 2009.03.27改訂
 正始に赤色注記。青龍三年鏡(安満宮山出土)鏡は現在、方格規矩鏡として峻別されています。
2,「青龍三年」方格規矩(きく)四神鏡(2号鏡)についてーー1、安満宮山古墳の青龍三年鏡を観て を見て下さい。
 鏡と山一国古田史学の会・東海講演会(1997年10月26日)より

古田氏 経過説明。98年時点では古田は鏡を詳細実見できず、高槻市教委説明では通説に従って、鏡類はすべて舶載(国産でなく)であって伝世ののち埋蔵されたものと考える、との説明を受けた。三角縁と方格規矩を性格上で峻別されてはいなかった。その後2000年に実見できたので、結果は『新古代学第五集』中の「三角縁神獣鏡の史料批判」の「補論」に入れてある。結論として「国産である」。よって講演論旨は現在も変わらない。

1,青龍三年鏡(安満宮山出土)については、「三角縁神獣鏡の史料批判」(『新・古代学第五集』)の「補論」を参照して下さい。
2、青龍三年鏡を観るーこれは卑弥呼の鏡ではない(古田史学会報21号)参照。
3,三角縁神獣鏡の盲点 これは卑弥呼の鏡ではないーpart2 参照。
4,さよなら!「邪馬台国」

(『魏志倭人伝』の記載通り卑弥呼が使いを送ったのは景初二年のほうが正確だと考えています。後代の唐代の史料では景初三年とありますが。とにかく、ここでは一応景初三年とします。)

 その場合、大変な問題がある。わたしは国産の鏡がまず作られたのは当然糸島・博多湾岸である。まずこう考える。
 先ほど言いました吉武高木遺跡(福岡市早良区)。これは多紐細文鏡で、漢式鏡ではなく古い段階の鏡である。ところが、その後の三雲以後の鏡はすべて前漢式鏡・後漢式鏡である。これも結論から言いますと、たとえば平原から多くの後漢式鏡が出ていますが、 わたしはかなりの数が国産であると考えています。舶載ではない。それは八咫の鏡と言われるあの大きい鏡は国産鏡である。それは有名です。あんな大きいのは、中国にはないし文字もない。あれが国産であるというのは余り異論がない。そうするとあれよりもっと作りやすいのは後漢式鏡である。“そっくり ”さんは現物を鋳型に粘土に押しつければ良い。すぐ出来る。“そっくり ” ほど作りやすい物はない。八咫の鏡のような鏡の形自身は、中国に原形があり八葉鏡という鏡です。しかしそれほど大きくはない。だいたい中国の鏡は皆小さい。十五・六センチ程度である。小さい理由は後で申し上げますが、その小さい鏡を拡大して大きなものを作るのはかなりややこしい。鏡を拡大するという作業自身が面倒だし、拡大した物の鋳型を作って鏡を作ること自身がかなり工芸としては面倒である。それに対して大変簡単で作りやすいのは、実物があって、それに“そっくり ”さんを作って下さいといえば、大変簡単である。粘土に実物を押して鋳型を作ればよい。一回作ってまた複製を作って作り直しても良い。こんなに簡単なことはない。だから平原で八咫の鏡だけ国産鏡で後は舶載鏡であるという考え。それは実は間違っている。論文にまだ書いたことはないから詳しくは言いませんけれども、結論をまず言わせて頂いた。

 (注 この問題の説明は『古田武彦九八年講演集』にあります。)

 同じく立岩の鏡、これは見事な鏡である。中国から来た調査団がこの鏡を見て、こんな素晴らしい鏡は中国で見たことはない。そう賞賛されたことを管理人の方からお聞きしました。証明出来る詩もある。中国にないほど立派である。このことは非常に意味があると思う。中国にもこのような鏡は有ることはある。同じデザインや 漢詩が並んでいる鏡はあるが、しかし中国にないほど立派である。なぜかというと中国では、鏡はたかだか姿見である。しかし日本側では権力のシンボルです。三種の神器の一つです。だから工人は 中国の洛陽及び帯方あるいは江南から、最高の待遇をしますと呼んで来た。一年に何枚か作れば、後は寝て暮らしていても結構です。そう言われてやって来た。そういう実に結構な御身分。だから注文された鏡を精魂込めて良い物を作った。中国にない立派な鏡になって当たり前である。私がそのことを論じましたのは、立岩の鏡はどうもおかしい。そこに漢詩が書いてある。しかし漢詩の韻を踏んでいない。元の詩は分かっていますので何処がカットされているか分かる。確かに鏡の周りに入れるのですから文字の数は制限されますから、漢詩の全部を入れられないことは確かです。カットしてもかまわない字がある。たとえば「而」や「之」など、有っても良いが、無くても意味は変わらない。そういう文字は残っている。ところが最後の文字は韻を踏んでいる。その最後の韻を踏んでいる文字をカットする。中国人はそれは出来ないと思う。芭蕉の俳句でも「古池や蛙飛び込む水の音」というから俳句に聞こえる。「古池蛙飛び込む水の音」では、意味は変わらないけれども俳句に聞こえない。やはり「や」が無いと具合が悪い。中国人も同じである。中国人は詩のリズムを重視する。「トントン、チチ、・・・」など彼らにとって、一番良い響きである。それがなければ詩には感じられない。居心地が悪い。韻の部分が大事である。そこがカットされている。だからあの鏡は中国製ではない。こう見てる。日本人は文字をひっくり返して読むから関係しない。以上立岩の全ての鏡が中国製ではあり得ない。

 このように、先ほど言いました糸島・博多湾岸の前漢式鏡・後漢式鏡の中には間違い無しの中国鏡もある。たとえば三雲遺跡から出た鏡、博多の聖福寺に一枚残っていますが、これは文句無しの中国鏡です。そういうのもありますが、平原などで倭国側でダビングした鏡もかなりあると考えています。そういうダビングした鏡の方が「景初三年」鏡、「青龍三年」鏡より古い。もう倭国側に鏡を作る技術はあった。しかし中国側に鏡が欲しいと言って百枚を要求している。

 そういう状況の中で近畿に大事件が起きた。次回のお話になりますが神武東征。これを歴史学者は架空だとみんな言っているが、 わたしは神武実在と考えなくては歴史は分からない、そういう立場です。神武は九州王朝の分派で、近畿の銅鐸圏に侵入した。そういう立場をとります。その証拠は色々ありますが、その一つに奈良県で弥生の中期までは銅鐸がたくさん出ている。それが後期になると鋳型を含め出現しない。ゼロである。小林行雄氏などは、統一権力が発生したから銅鐸を祭る祭祀を止めただけだと言っています。それなら銅鐸に代わり、鉄なり銅などの銅鐸以上の祭祀の道具が出なければおかしい。しかし弥生後期には銅鐸以上の祭祀の道具の遺物も鋳型も出ない。私は統一権力が発生したから廃棄したという仮説は、成り立たないと考えています。

 とにかく神武は筑紫の九州王朝の分派として、近畿に入ってきて新たな分家王朝を作った。大和政権を作った。そう考えます。そうしますと近畿では銅鐸を作るのはペケにした。銅鐸を作るのは大変な技術である。わたしは銅鐸を作るのも中国の工人がお師匠さんとして関係していたと思う。それはともかく、あんな面倒くさい物を作る技術があるのだから、銅鐸を作るのに比べれば鏡を作る方が簡単だ。現物があればなお簡単だ。その技術を持った人たちが、景初元年に「景初元年」鏡を、 景初四年に「景初四年」鏡を(近畿で)作った。そう考えています。

 こういう考えは考古学の編年に大きな影響を与えるかも知れません。従来弥生時代が有りまして、その弥生時代が全部終わって古墳時代になる。こう考えています。しかしわたしはこの考え方に疑問を持っている。何故かというと、古墳というお墓は大変顕示欲の強いお墓である。死んでからも目立ちたい。第二に周辺の民衆に見て貰いたいのです。侵略の民衆に対するシンボルである。自分たちが支配者であったし、その子孫が今も支配者であることを忘れるなよ。そう言っている。しかしその古墳の下には、何も無かったのか。ただの原野の所に廃物利用で古墳を作ったとは、わたしは考えられない。やはりその前の弥生時代の、在地の有力な首長のお墓があったり、聖地が有ったりした可能性が高い。それを古墳は押しつぶし、今までの権力者を崇めることは許さん。そして新しい権力者の墓を作り支配を見せつける。いわば支配と征服の論理が、古墳という形で貫徹されている。基本的にそう考えています。そういう意味では銅鐸圏に対する支配と征服の早く行われた地帯ほど、古墳は基本的に早く使用された。従来弥生時代がありまして、ずっとあり、その弥生時代が全部終わって素直に古墳時代になる。このイメージは再検討されるべきであると、わたしは考えています。この考えは副次的に色々問題を提起します。
 
  以上「景初三年」鏡、「青龍三年」鏡などは国産である。その時点における国産である。もちろん後のダビングのケースや作り直しもありますよ。
 たとえば最初有名になった大阪府和泉市の黄金塚古墳の画文帯神獣鏡の「景初三年」銘、確かに鏡の銘はそうなっているが、古墳自身は明らかに四世紀後半である。そういうことを疑う人は当時も現在もいません。当時わたしはこれを分析したことがあるが、どうもこれは本来の鏡でなくて作り直しである。文字は金偏の「銘」という字がどうも中国の文字ではない。こういう字は中国の漢文ではまず無い。またこういう重なった書き方をするのは韓国・朝鮮系の文字によくある。有名な七支刀もそういう書き方がされている。どうも韓国系の工人がこれを作ったのではないか。そういうことを論じたことがある。さらに島根県で出てきた「景初三年」鏡は文章が長い。その鏡の詩のさらに要約というか、縮めて簡略化した文字であり、デザインとしては島根県で出てきた「景初三年」鏡をきれいにしたのが黄金塚古墳の画文帯神獣鏡ではないか。言わば改ざん鏡に当たる。これは当然有り得る。こういうことも先ほど言いましたように進展すれば有り得る。

 それよりも研究の基本原則をしっかり建てる。考古学の編年と言いましても、はっきり言いまして物自身に年号が刻んであるものはない。そうすると年代を考えるのに一番良い材料は『倭人伝』である。『倭人伝』ほど日本列島に関する詳しい史料はない。そうすると『倭人伝』を基盤にして年代を考えていく。これをもう一度やり直さなくてはならない。あらかじめ自分たちで勝手に考古学の編年を決めて置いて、それと『倭人伝』が合わない場合、『倭人伝』が間違えているだろう。『倭人伝』を少しこう解釈したらどうだ。そう言って『倭人伝』に注文を付けるのは筋道が違っている。
 『倭人伝』という貴重な史料を基準にして、又中国の西晋時代 の洛陽周辺から出てきた鏡を基準尺にして問題を考える。世界の学者に示せば、当たり前と言うでしょうが。それ以外のどんな方法があるのか。そう反問されるに決まっている。そういうナチュナルな方法から再出発すべきである。それが今日の結論でございます。


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