『天皇陵を発掘せよ』 第二章 天皇陵の史料批判 古田武彦
古代史再発見 第1回卑弥呼(ひみか)と黒塚方法 
「三角縁神獣鏡の盲点」
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真実の近畿 三世紀以後 古田武彦 へ


古田武彦講演 2000年 4月23日(日)大阪府堺市泉北考古資料館

真実の近畿 三世紀以前

古田武彦

1前回の概略(三角縁神獣鏡について)

 前回の概略を、聞いておられなかった人のために簡単に述べておきます。三世紀の近畿を三角縁神獣鏡を中心に述べてみました。魏の天子からもらった鏡は三角縁神獣鏡と日本の学者は言っていますが、中国には三角縁画像鏡しかない。しかし中国に三角縁神獣鏡はなかったけれども、中国のものだと明治・大正の頃は思い込んでいた。中国にあるのは三角縁画像鏡しかない。絵に描いた額縁として三角縁を付ける。人間の姿を描いたときに絵の額縁として三角縁を付けるのが三角縁画像鏡です。昭和五十年代には、中国に三角縁神獣鏡が無いことがはっきりした。それを明治・大正の頃には中国に有るかのように期待してというか、錯覚して名前を決めてしまった。
 それで何を言いたいかと言いますと、三角縁神獣鏡というのはウソで実体は三角縁画像鏡。日本版の三角縁画像鏡。あそこに描かれているのは日本人である。くり返して言うと、我々が三角縁神獣鏡というのは、あれは嘘で実は日本型の三角縁画像鏡である。そうことになると、あそこに描かれているのは実は我々日本人が描かれている。「我々日本人の御先祖である。」と言っても豪族でしょうが。「三角縁神獣鏡」といわれる鏡は五〇〇面前後出ているが、あそこに出ている姿は、我々日本人の顔がたくさん出ている。日本人の顔や体型・服装が金石文の同時代史料として大量に出現する貴重な史料である。前回にとくに強調して言ったことは、あの鏡の銘文と図柄は対応している。わたしが大きな声を張り上げて言う必要はないと思いますが当たり前のことです。
 テレビのコマーシャルでも、商品の宣伝文の後ろの方に絵が出る。何らかの形で映像と文字が対応している。直接対応か間接対応かは別にして、ムード対応もありますが対応している。まったく無関係に流していることはない。日本むけの商品を流すのに、ぜんぜん関係のないアフリカの景色を登場させることはあまりない。商品とまったく無関係に、絵や音を無関係のものは流さない。言うもおろか。それと同じです。一見無関係に見えても、相反する形で対応するという様に、なんらかの形で対応させて制作者が苦心して作っている。
 鏡でも同じです。銘文は苦心して考えている。その銘文の文言と無関係な図柄という考えはおかしい。コマーシャルよりずっと年期を入れて造っている。図柄のデザインが、銘文の文言とは無関係に入れられているという考えはおかしい。おかしいけれど、現在の考古学では無関係という形で処理されている。
 なぜ、そのようになったかと言えば、鏡をまず神獣鏡と決めてしまった。鏡に出てくる人間は「神仙」、並みの人間ではございません。仙人や神通力をもった超人間と明治の初めに決めてしまった。画像鏡でないとまず決めてしまった。
 ところがあの銘文を見ると神仙だけですという話に合わない。簡単に合わない。あの銘文の文句はずいぶん俗っぽい。この鏡を持てば、かならず位三公に至る。また子供がたくさん出来て健康で家系が繁栄する。神仙とは大分違う。だから、いちいち対応があるとは言えない。それなのに片方を神仙に、超俗的な地位も名誉も関係ないような空を飛んでいるような人にしてしまった。図柄は銘文とは関係ないのだ。切り離して解釈するのが明治から現在まで続いている。皆さんにお話しした四月九日まで中国鏡の立場の人も、国産鏡の立場の人も全員一致で、その立場だった。
 お恥ずかしい話ですが、わたしも国産説の立場ですが、四月九日に反論するまでは、そのことを黙認していました。もっともわたしは、それに対して異議を唱える予想は以前から持っていました。たとえば図柄を見ていると、どうもそのようには思えない。あそこに出てくる仙人は、銘文のような食生活だけでは、そのような中年ぶとりにはならないだろう。仙人は棗(なつめ)を喰っているというが、それだけではあのような中年ぶとりにはならないだろう。脇には、ほっそりした女性を従えている。そんな仙人はいるだろうか。そのような感覚では以前から思っていました。
 今回それを、鏡の銘文と図柄をはっきりさせることが出来ました。まったく一致している鏡。何らかの形で対応している緩やかな対応の鏡。大局的に見て対応している鏡。そういう三種類。こまかく分ければもっとあるのでしょうがテレビの画面と同じである。その事は前回申し上げました。

 

 二 神武東侵

 今回は三世紀以前について申し上げます。それでいきなり登場して戴くのが、名前だけがご存じの神武天皇。神武天皇という名前は知らない方はいないですが、名前だけは知っているが、「学問の話を聞きに来たので神武天皇などと言い出したら、とても付いていけない。」そう考えている人や、そのような感覚の方が多いのではないかと睨(にら)んでいます。私の年齢は七十三才ですが、私共の世代は神武天皇を教科書で習った。しかし神武天皇なんかは近畿に居なかったよ。そんなこと教科書で習わなかった。そういう戦後生まれの人が大部分だろうと思う。このレリーフに書いて有りますが、

 神武実在を否定する人に近畿の歴史は分かるか。 ーー答はノー
 私ははっきりノー。神武天皇を架空(かくう)だという人には、日本の歴史といっても良いですが、とりわけ近畿の歴史は分からない。そのようにながらく考えてきました。
 それはなぜかというと、弥生前・中期に銅鐸時代だった大和が、弥生後期に銅鐸は消滅する。この謎を説明するのは、私はやはり反銅鐸勢力が近畿に侵入したという説明しかありえない。二十一年前に出した『ここに古代王朝ありき』という本から出した図一を見ていただきますと、弥生の前期から中期の銅鐸の出土分布です。二十一年前ですから現在は数は増えていますが情勢は変わらない。奈良県北部(平野部)にも銅鐸がかなり密集しています。
 ところが図二に行きますと、弥生後期には銅鐸がばったりゼロになる。河内も減ってはいますが少しあります。三重県も減ってはいますが少しあります。これに対して滋賀県は後期銅鐸がたくさん出てきております。また逆に愛知県や静岡県西部浜松・浜名湖の近辺では、ある意味で銅鐸の最盛期を迎えているのが、東海であり滋賀県です。その時期に奈良県は、不思議なことに銅鐸はゼロ。これは二十一年前と基本的に変わっていない。私は考古学者から、これに対する納得できる説明を聞いたことがない。もちろん説明した方はいらっしゃいます。有名な小林行雄さん。亡くなられたが京大の名誉教授で三角縁神獣鏡の配布する図式を作られた方。この方の説明があります。。この方の説明では、銅鐸はマルクスがいう共同体の祭器である。共同体の祭りの道具である。ところが奈良県大和に統一権力が出現した。もう共同体の祭器はいらなくなった。だから銅鐸は出ない。このように説明された。その後、その説は考古学で定説になっていて、表面上は異論は出てこないし考古学者に伝えられている。しかし私のような局外者には、まったく理解できない。なぜならば「共同体の祭器だから、いらなくなった。」という説明は、それは一つの仮説ですからそういう立場で説明されることはご自由だと思います。しかし、そうであるならば統一権力にふさわしい祭器が出なければおかしい。しかし(弥生後期は)まったく金属製品なしの時代、状態だった。その統一権力は金属が嫌いだった。そういう考えは、私の考え方からは理解することは不可能である。もちろんゼロではないですが。銅の鏃が若干出ている以外にはありません。これは一体なにか。
 それではおまえは、小林さんの説明では納得できない。そう言うならば、おまえは何か言って見ろと言えば、非常に簡単であります。『古事記』・『日本書紀』が繰り返し書いているように、一番繰り返しキーポイントとして言いたいことは、「神武天皇が九州からやってきて、大和・近畿を支配した。我々はその子孫である。」。
 それが一番言いたいことの中心のストーリーです。しかも、その一番中心のストーリーで言いたいことは、堂々と大軍を持ってきて、それで大阪湾に来て遠路征服したのではなくて、一旦は破れた。しかも兄も戦死した。それで末弟が指揮をとり、熊野から回って入り、現地の支配者を皆殺しにした。しかも非常に卑怯な手を使ってだまし討ちや嘘をついて殺しつくしたことが書いてある。そんなことを六世紀の大和朝廷の歴史官僚が作り話を造った、嘘をつきました、我々の先祖がこんな嘘をつきました、こんな裏切りをうまくやりました。虐殺しました。そんな嘘をつくとは思えない。もっとうまい嘘をつけ!
 ここに書いてある残虐な行為の描写は、後世の文人が机の上で作れるものではない。やはり血の滴(したた)る歴史事実の反映である。私はそう考えてきた。その立場からしますと、弥生後期に銅鐸が消滅することは良く分かる。
 彼らは九州の「三種の神器」を崇拝する勢力、その一分派です。九州ではうだつが上がらない。それで九州を出てきて、書いてあるように銅鐸圏に侵入した。裏から入って銅鐸圏に侵入したから大和盆地だけしか支配していない。だからとうぜん大和盆地だけしか銅鐸が消滅していない。銅鐸が無くなったのは、当然鋳潰して鏃(やじり)にした。銅鐸は軍事用には役に立たない。いくら立派なものでも、軍事用には役立たない。だから軍事用に転用する。一番優れているのは鏃(やじり)で、銅が少なくて済む。剣や矛は銅がたくさん要るが、鏃は少なくてすむ。実戦的に一番優れている銅の鏃(やじり)に変えて戦った。弥生後期に大和盆地にほとんど金属製品が出ない。そういう考古学的事実とピタリと一致する。壊された銅鐸の破片が出てきたという事実にも合う。
 それで私は『古事記』・『日本書紀』が言っている神武は、インベーダーとして実在していると考えます。
 それでまた「神武東遷とうせん」という言葉ではダメである。「神武東遷」という言葉は戦前から使われていますが、あれは「東遷とうせん」は遷都の略である。「東征」から「東遷」へと言葉を換えるのはまあ良いだろう。そう言うわけには行かない。たとえばわたしが、住まいを京都から東京へ移したことを「東遷」とは言いません。やはり「東遷とうせん」とは、中心権力者が都を東に遷してこそ言えます。戦前はそのように考えられていた。神武天皇は九州の日向に都があって、その都をお移しになったと考えて「東遷」という言葉を使っていた。私はこれはペケ。それは歴史事実と関係なし。
 それから「神武東征」という言葉は、まだましです。しかし「東征」という言葉の意味は「征伐」です。悪者をやっつけるのが征伐です。「朝鮮征伐」とは、朝鮮・韓国の人々を低く見て悪者と見た表現です。朝鮮の人々が「征伐」という言葉を聞いただけで反発する。反発するのは当然のことです。同じように銅鐸圏の人々が悪者で、どうしようもない人々だから征伐したのか。そんなことはないと思う。なぜそんなことは無いということが分かるのか。そんなことが分かるのかと言われても、分かりますよ。なぜ分かるかというと、銅鐸圏の方がどんどん九州の方に攻めて来ているなら、それを護るために対抗するために攻め返した。まだ大義名分は立ちます。しかしわたしは、そんな事はまず無い。まず無いと言うことが、どうして分かるのかと言われれば分かります。もし軍事侵入勢力であったら、あのようなもったいない銅鐸などは作りはしません。出てきている銅鐸だけでも、すごい数です。実際に造ったのは、あの五倍・一〇倍は作っている。もったいない。もったいない。あれを鏃(やじり)にしたら、どれだけ鏃(やじり)が作れるか。鏃(やじり)よりも銅鐸を造っている。ある意味では銅鐸を作った平和的な勢力。もちろん軍事的な勢力がまったく無かったわけではなかろうが、主たる勢力は平和的な勢力であったと私は考えている。そういう様子から見ても、若干のいざこざはあったでしょうが銅鐸圏の強圧的な九州に対する侵入があって、たまりかねて神武達が来たとは思わない。むしろ全体としては平和に過ごしていた銅鐸圏に対する、私のいう九州王朝・倭国の分派の侵略。そこには、もう九州では主流には成れない。九州をあきらめた神武達が銅鐸圏に侵入した。ですから征伐と云うよりも、むしろ侵略・侵入の「侵」を用いた「神武東侵」という方がリアルである。
 もっとも『古事記』そのものには「東に行かむ。」と書いてあります。「東行」と文献にはある。しかし「東に行く。」とあるが、東に行って何をするのか。「東行」では悪くはないが、私にはピンとこない。それで神武達には気の毒ですが、侵入には違いがない。やはり「神武東侵」という言葉が、歴史事実としては一番ふさわしい。神武たちを良く言うとか悪く言うとか、そういうイデオロギーとはまったく無関係。事実関係を、イメージを出来るだけ表現する言葉としてみれば、「神武東侵」と云う言葉が一番ふさわしいと考えています。

古事記中卷
神倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】與其伊呂兄五瀬命【上伊呂二字以音】二柱。坐高千穗宮而。議云。坐何地者。平聞看天下之政。猶思東行。

 「神武東侵」ということは、『古事記』・『日本書紀』がさんざん書いている。私が勝手に思いついて言っているのではない。『古事記』・『日本書紀』がさんざん書いていること、その事を前提に見ると、あの銅鐸の消滅という事実が見事に証明できる。私は長い間そう考えて、それこそ三十年前近くから、そのように言ってきた。
 ところが、そう長い間言ってきたことに対する反応はまったくないのですが、最近森浩一さんが朝日新聞で書かれた『神話と考古学』などの本では、やはり神武実在の立場が書かれているようです。これはわたしの主張よりずっと時期は遅く出てきたものですが、わたしは大賛成。
 ただし「神武実在」の論証は、必然的に「天孫降臨」の実在の論証に発展せざるを得ない。
 そこまで言い出したら、神武東侵はまだ我慢できるが、天孫降臨も実在である。そんなことを言い出されたら、私とすれば我慢が出来ない。そう怒られて帰る方が出てくるかも知れない。
 これは次の回に、第三回目に申し上げますが、神武問題と天孫降臨問題は切り離すことは出来ない。
 すこし申し上げると、神武はどこを出発してきたか。南九州宮崎県を出発してきたか、それとも北部九州筑紫を出発してきたか。そういう問題に関わってくる。
 「天孫降臨」が、今いわゆる定説のように言われているような南九州・高千穂なのか。それとも私が前から言ってきたような糸島博多湾岸なのか。糸島と博多の間の高祖山(たかすやま)連峰のクシフル峰という地名のあるところなのか。そういう問題に関わってくる。その点は詳しくは第三回目に申し上げます。
 今現在は神武の侵略・侵入が実在と考えなければ、この考古学的出土状態の問題は解けない。事実は考古学者はみんな知っていますが、なぜそうなのかという説明は付かない。小林さんの理論では、私だけでなく他の人も納得させることは出来ないと考えます。
 そういう点から出てくるひじょうに興味深い事実があります。膨大な纏向(まきむく)遺跡、纏向国家圏は、銅鐸国家圏を破壊し押しつぶした上に建造され続けた古墳群である。それがホケノ山古墳・箸墓(はしはか)古墳群などである。
 つまり反銅鐸侵入勢力の力の誇示として、あのおおきな古墳・天皇陵を築いたものであると考えています。その視点がひじょうに大事であると、わたしは考えています。
(質問があれば答えますが、わたしはこれは国家であると考えています。)
 ホケノ山古墳もほんとうに発掘するというか、石室などのお墓の調査で満足してストップせず、さらにその下を掘って貰いたい。その下にはおそらく当然弥生遺跡が出てくる。ただの弥生遺跡ではなくて、弥生の中心的な、かつ神聖な遺跡が出てくる。
 つまり簡単に言えばこういうことである。近畿大和・河内、その当たりにはいろいろな古墳がたくさんあります。それを造るのにまったく役に立たない無駄な土地があり、その上に造ったと考えるのか。それ以前にも役に立つ良い土地、神聖な土地と言っても良いのですが、それを押しつぶして造ったと考えるかです。そういう問題提起を歴史学者や考古学者から聞いたことがないというかも知れませんが、その問題は重大な問題であると提起したいと考えます。
 わたしはやはり堺市の古墳のあるところは、弥生時代でも重要な神聖なそして多産な土地であったと考える。だからそこにバーンと大きな古墳を造り、古い勢力は消え去った。新しい我々の時代になったという事を、それを示すために巨大古墳が造られた。そのように考えている。
 わたしは何も縄文からずっと弥生まで先祖が続いて、何もなくていきなり古墳を造るのが趣味の人が造ったとは考えない。私は何もない土地に古墳を造られたとは考えない。しみったれた話のようですが、何もない土地に古墳を造ったと言っても、それまで畑や田があり、収穫や税を取っていたわけでしょう。それが無くなる。まさか自分で古墳を造って潰しておいて、元はあそこに居ったから以前のまま出せと取るわけにはいかない。ごっそり減るわけです。減ってもかまいませんという権力者。わたしは権力者になったことはないが、そんな気前の良い存在ではないと思う。じゃあ何かというと、よそから来て侵略者として、権力者として支配した人は、従来の人々の神聖なところをつぶすことはためらわない。そして従来の神聖な勢力をペケにして、新しい勢力であることを誇示する。それが当たり前ではないか。
 繰り返し言っておきますが、わたしは天皇家に対して、プラスの考え方を持っているとか、マイナスの考え方を持っている。つまり天皇家を悪くいうとか、良くいうとかはまったく関係がない。どちらかに傾いたら、わたしは学問の死滅だと考えています。そうではなくてリアルに考えたら、わたしはそれが学問の示すところだと考えています。
 もちろん天皇家だけの問題ではないと考えています。たとえばヨーロッパでも民族大移動だと言っていますが、あれも大嘘です。そう言うと人間の居ないところにすんなり移動して住み着いたように聞こえる言葉です。あれは明らかに大侵略です。当然大移動の前に住んでいる人間は居た。先進文明はあった。それを押しつぶしてキリスト教の聖地を建てていった。だから私はキリスト教の聖地、教会の下には、多神教時代の聖地が眠っているというか、潰されているに違いないと考えている。しかしヨーロッパ人は民族大移動だ。そういう形で処理したから触れたがらないが、事実には替わりはない。
 余計なことを言ったのは、わたしは天皇家だけを特に悪く言いたいから、このように言ったのでは、まったく無い。人類の歴史の一環として、物事をリアルに見るだけである。そういうことをご理解いただければ幸いでございます。


三 難波なにわと浪速なみはやの論証

 次は、それでは神武が実在である証拠はもっとないか。銅鐸の話はわたしは分かり易いと考えていますが、もの足りないからもう少し話が欲しい。そう言われる方に、それで興味ある問題について述べてみたいと思います。
 一つは難波(なにわ)の伝播という問題です。難波という言葉はどこから始まったか。皆さんはおそらくご存じのない方が多いと思う。じつは九州福岡県博多に難波がある。そういうことをご存じの方は少ないと思う。
 博多湾岸のところに難波池(福岡市城南区南片江一丁目)というところがあります。あまり大きな池ではありませんが、池には違いはない。本来は大きな池ですが、住宅建設で埋められてきた。本来は博多湾の一番奥深いところにある。現在難波(なんば)池と言っていますが明治政府が調査した『明治前期字地名調査書』という貴重な資料がありますが、ここでは「難波なにわ」と言っています。「なにわ なんば」両方の言い方があるわけです。
 ですから大阪にも浪速(なにわ)と難波(なんば)が有ります。無関係なのか。それともどちらから、どちらに来たのか。これもズバリ申し上げますと、博多湾岸の難波(なにわ)が、大阪湾の浪速・難波(なんば)に伝播してきた。私だけではなくて、すでに、ここ一〇年間ぐらいそういう議論が行われてきた。大学の中ではまったくなくて読者の会の皆さんで議論が行われてきた。読者の会の会員が次々論争しながら、いろいろ発見され進展してきた。それを僭越(せんえつ)ながら引き継がせて頂いた。いろいろ面白い問題もありますが、今回は結論だけ言わさせていただきます。
 それではなぜ博多湾の方が古いと言えるか。あそこはごぞんじのように「那ノ津なのつ」と呼ばれています。博多は「那ノ津なのつ」とよぶと教科書でも出てきます。その那ノ津(なのつ)に対して、那庭(なにわ)と呼ぶ。庭は広い場所です。那(な)と呼ばれる広い場所が「那庭なにわ」です。那(な)と呼ばれる港が「那ノ津なのつ」です。つまり「那ノ津なのつ」と「那庭なにわ」は、甲乙ワンセットの言葉です。それに対して、大阪湾の場合は、浪速(なにわ)ないし難波(なんば)は有るけれども、那ノ津と呼ばれるところはありません。博多は甲「那ノ津なのつ」と乙「那庭なにわ」がワンセットで地名を形成している。ところが大阪は乙の浪速(なにわ)・難波(なんば)しかない。こういう場合甲乙ワンセットのほうが本来で、その一部分が移動してきた。こう考えるのが筋道である。私は別に博多湾をひいきにする気はまったく有りませんが、こう考えるのが論理の筋道であろうと考える。
 もう一つ理由がある。それはむずかしい意味の困難の「難」と、サンズイ編に皮の「波」ですが、もちろん「なにわ」と音を近い漢字で表したには違いがないですが、漢字にはいろいろな漢字を当てることが出来ます。たとえば「には」には、庭園の「庭」を当てても良い。「な」は名前の「名」でも良い。それをなぜ「難波」というむつかしい字面(じづら)を当てたか。そういう問題がある。
 最近気付いたのですが「難」は「難し がたし」という意味で助動詞である。「波」の下に来るのは動詞です。名詞は来ません。
 それで諸橋大漢和辞典を引きますと判りますように、「波」は一番目は名詞の「なみ」という用法です。ところが二番目は「波立つ」という動詞の用法があります。両方使われている。ところが、この場合は「難し がたし」という助動詞の下に来るのは動詞です。名詞ではありません。動詞と考えた。ですからこの場合「難波なにわ」は、「波立ち難し」という動詞の意味だと考えられます。この「難波」という字面じづらは、「難波 なみだち がたし」という意味で、この漢字を使っている。
 そうすると博多湾の場合はドンピシャリなのです。外は玄界灘という狂乱怒涛で有名なところです。そのきわだって波立っている場所を前にして、博多湾に来ると袋の鼠です。特に志賀島と能古島が置き石のようにありますから、いよいよ波が立たない。今の「難波なにわ」と呼ばれているところは、もう一つ入り込んでいる。その「難波なにわ」は今は陸地化していますが、昔は本当に波が立たない静かなところです。「難波なにわ」という表音を当てはめたところの「波立ち難し なみだち がたし」という意味を当てています。
 ところが大阪湾の場合は瀬戸内海である。私も瀬戸内海人間ですが、広島県で軍港の呉で育ちましたが、そんなに狂乱怒涛の波があるものではない。私はそんなに波が立っていると思わない。だから特に大阪湾だけ「なみだち がたし」とは思わない。
 要するに、博多湾岸ではドンピシャリ。大阪湾には似合わない。私も最近気がついたことがらです。
 それで念のため一言だけ申しておきますが、福岡県の「福岡」という地名は岡山の地名であることは有名です。黒田公。初めは岡山の領主。少し移動して最後に博多に来ました。自分や武士達の居るところの地名を「福岡」と名を付けました。岡山のときは岡だったと思いますが、博多のときは必ずしも岡には見えないと私は思いますが。そんなことは関係ない。平地だって自分たちの慣れ親しんだ福岡という地名を付けた。それが福岡市なり福岡県になっていったという事は有名な話だ。それに対して博多は古い。そう言うことは博多の人は、みんな知っている。そういう権力者が地名を持って移動するという有名なテーマです。そんなことはことさらに言うまでもないでしょう。アメリカの地名は、いかにイングランドの地名、スコットランドの地名を持ってきていることは有名です。そんなことがあれば、もし難波(なにわ)という地名を持って来ていても、人間の移動があれば何の不思議のことはない。蛇足のようですがつけ加えさせて頂きます。

『古事記』
故從其國上幸之時。乘龜甲爲釣乍打羽擧來人。遇于速吸門。爾喚歸。問之汝者誰也。答曰僕者國神。又問汝者知海道乎答日能知。又問從而仕奉乎。答曰仕奉。故爾指渡槁機引入其御船。即賜名號槁根津日子【此者倭國造之祖】故從其國上行之時。經浪速之渡而。泊青雲之白肩津。・・・

 さらにもう一つ「神武実在」という問題を頭に受け付けたくないという人のために、追加の証明をつけ加えます。
 それは『古事記』によって今考えておりますが、岡山(吉備)を出発して「速吸の戸」にさしかかった。いわゆる現地の土地勘の詳しい老人の導きを得て、そこを通って行った。私はこれはやはり鳴門海峡を突破して行ったと考えます。瀬戸内海に詳しい人間としましては、「速吸の戸」はどこかと聞かれて、誰でも「鳴門海峡」でしょうと言うと思う。そういう一般常識が基本である。
 それなら、なぜ鳴門海峡を通るのか。みなさんお感じになるでしょうが、明石海峡を通れば良いではないか。岡山から大阪湾へ行くには。確かに地理的にはそうですが、あの明石海峡を軍事勢力が防衛してなかったはずがない。この点は参考まで図を見ていただければ、明石海峡は銅鐸を祭祀にしている勢力の支配下にあります。当然その地域とは別の九州の広型銅戈をシンボルにする地域があります。それと重なる形で、讃岐を中心に平型銅剣をシンボルにする地域があります。それに対して、銅鐸を中心の祭祀にする地域があります。
 これに対して銅剣の分布図と銅鐸の分布図が別れていて、勢力圏が違うという考え方は今はもう通用しないと言われる考古学者の方がいます。なぜならば九州の中から小さな銅鐸や鋳型も出てきましたので、そのように言われます。このような考えは小さく当たっていますが、大きく当たっていない。なぜかと言えば銅鐸についても、一番の元をなす地域が九州である。そのような説明にはなる。しかしその後、大きな銅鐸に発展しているのは、やはりここに書いてある図のように点線の地帯で大きく発展している。特に巨大銅鐸は、完全に滋賀県や東海地方が中心である。そういう全体の姿を示したものでは、まったくない。その点、あれは古いよ。そのように考古学者に言われると、そうかなと思いますが、これはひじょうに理性的ではない。
 そのようなことを前提にして考えてみますと、銅鐸を祭器にする勢力がありまして、とうぜん明石海峡はその勢力の支配下にある。これに対して九州を中心として剣をシンボルにするひじょうに好戦的な勢力がいる。銅鐸とちがって、その剣が実用にしないにしても、剣をシンボルにするというのは非常に好戦的な臭いがする。そのような勢力に対して、明石海峡が一番通られやすい。それを防衛しなければならない。
 現に明石海峡をのぞむ五色塚古墳。これはわたしの大好きな古墳で、明石海峡を見下ろすところにあります。これは古墳時代の話ですが、あの五色塚古墳の主(ぬし)が明石海峡を支配し、みだりに明石海峡を通さない。通す場合はおそらく関税を取ったでしょう。そういう権力をもっていたから、死んでも明石海峡を見つめていたい。そういうことだと思う。それで睨むところに古墳を造ったと考える。そういう役割は古墳時代に始まったわけではなく、弥生時代から明石海峡を支配していた勢力があり、それが銅鐸圏勢力だった。
 そうしますと銅鐸圏へ侵入する場合、明石海峡を通れるはずがない。どこを通るかというと鳴門海峡。盲点に当たるのが鳴門海峡。鳴門海峡をとても通れない。無理だという常識があったから、そこまでは警戒しない。わざわざ鳴門海峡を通るという酔狂な人はあまりいない。
 それでは本当に鳴門海峡は通れないかというとそんなことはない。そこに干潮・満潮の時間帯を上げておきましたが、時間帯をしっかり掴んでいるなら通れる。つまり干潮・満潮の時間帯ははっきりしている。それを明確につかんでいる人物なら平気で通れる。決められた季節の決められた時間帯なら通れる。その知識がなかったら絶対に通れない。だから土地の翁が出てきてリードしてくれたという話が書いてある。そのような人物が土地にいる。後になって、高い位を神武が与えたということが書かれてある。まあそうでしょう。彼のサゼスチョンがなければ鳴門海峡を通れなかった。
 それで今回新たに見つけたのは『古事記』によりますと「速吸の戸」を通ったあと「浪速渡」を通ったと書いてある。その後通った「白肩の津」を大阪湾と考えます。そうすると鳴門海峡と大阪湾との間はどこかというと、言うまでもない紀淡海峡。淡路島と和歌山との間。そこではないか。
 そのように机の上で考えた。紀淡海峡というのは、かなり波が速いのではないか。
 鳴門海峡はすごい速度で流れ出します。その余勢をかってというか大阪湾に流れ込む場合は狭いからかなり速いのではないか。その余勢をかって、大阪湾へなだれ込んだ。太平洋は広いから底流はともかく表面は緩和されるのではないか。紀淡海峡は海流が速いのではないか。このように考えてきました。あくまでも机の上の頭の体操で考えた。
 それで紀淡海峡近くの大阪府泉南郡岬町に家を移されたばかりの藤田友治さんにお聞きすると、あそこはかなり潮の流れが速いですよ。この間も釣りをしていて流された人がいますよ。そのようなご返事があった。このように、あそこはかなり波が速い。そうすると「浪速渡」とは、実地に則している。これだけ実地に鳴門海峡から紀淡海峡まで書いてある。これを七世紀段階の近畿天皇家の歴史官僚が机の上の空想で作れるはずがない。
 その証拠に七世紀段階の近畿天皇家の歴史官僚が、机の上の空想で造ったのが『日本書紀』。「速吸戸」を豊予海峡。四国と九州、四国と大分県と宮崎県の間に比定しています。そこではお爺さんが出てきて、コーチの指導により通ったと書いてある。これは全然おかしい。『日本書紀』の立場は、神武の出発地を宮崎県の高千穂だと見ている。日向の人間が豊予海峡を通るのにコーチの指導がなければ通れない。そんなことは有り得ない。また瀬戸内海人間としては豊予海峡は、瀬戸内海きっての流れの激しい海峡か。そんなことを誰が思いますか。鳴門海峡以上に豊予海峡の方が流れが速い。そんなことは誰が思いますか。外国人は信用するかも知れんが、瀬戸内海に土地勘を持っている人はまったく思わない。それで『日本書紀』では、豊予海峡でコーチの指導を受けたことにして、それで明石海峡を通ったということになっている。明石海峡や鳴門海峡のことはぜんぜん書いていない。書いていないということは、そこを何のトラブルもなく通ったとしか見えない。そしていきなり大阪湾を「浪速渡」と『日本書紀』では比定している。また浪速(なみはや)が訛って浪速(なにわ)に成った。そんなことがあるのでしょうか。浪速(なみはや)を何回言えば、浪速(なんば)に成った。そんなことがあれば、教えてほしい。
 それで、それまでに有った『古事記』を見てコースを変えて書き直している。それこそ八世紀に『日本書紀』は机の上で文人が書き直している。混乱している。
 なぜそのように『日本書紀』を書き直さなければならなかったのかの説明は後にさせていただきます。
 そして『古事記』の侵入経路の説明を見ると実にリアルである。実在の記録があったから、実にリアルに書けたと考えます。「速吸戸」の論証は、『盗まれた神話』で行いましたが、「浪速渡」の論証はまだ書いておりませんので今言いました。
 「神武架空」を言いたい人は、今言いました私の論点に一つ一つ反証して貰いたい。。反証できないから、あれは古田が勝手に言っていることだから相手にしなければ良いのだ。それは生意気ですが学問の退廃以外の何者でもない。

 

四、神武以前の縄文・弥生文明はあったか。

 その次、神武以前の縄文・弥生文明はあったか。 ーイエス。たとえば飛鳥の磐余(いわれ)
 それは神武が、飛鳥の神倭磐余彦(かむ やまと いわれひこ)と言われていた。私は神倭磐余彦(かむ ちくし いわれ ひこ)と読む方が正確だと、わたしは思いますが今は特に論じませんが。神武が磐余彦(いわれひこ)という磐余(いわれ)の長官を名乗ったことは有名です。その磐余(いわれ)という言葉は、磐(いわ)という言葉に余(れ)という接尾語がついている。磐(いわ)は一つではなくて「むれ(群)」を為している巨石群が磐余(いわ れ)です。、そのように想像していましたが、さいわいにそれが裏付けられました。
 第四の辻本案内図を見て下さい。辻本さんという方は奈文研におられて案内表を造っておられました。定年退職後、飛鳥の案内人兼ボランティアとして活躍されています。その方が、このような地図を付けられました。これがひじょうに役にたちました。
 その地図の中の図と、それにきれいな写真を辻本さんの案内図から転載させて頂いた。
 そのような凹部の形をした月倫石と云われるもので、写真を辻本さんから引用させていただいた。ズバリ言わさせていただければ女性の陰部を型取ったもの。女性の陰部は神聖であり、万物が生まれる元である。そういう信仰が、旧石器・縄文の信仰である。
(説明図参照 なし)
 それから八番目が月誕生石。月誕生石、一見されると直ぐお分かりのように、これも女性の陰部を型取った石。女性の陰部を、ひじょうに神聖な石として信仰・崇敬の中心にしていた。九番目は安凪(やすなぎ)石。石が連なって蛇の格好になっているから、そう言われてる。これは、蛇というのは龍神で、雨乞(あまごい)の神様。
 また香具山、天の香具山といわれているこの山は二つ祠(ほこら)があります。片方は国常尊(くにのとこたちのみこと)。もう一つは、もう一つは難しい字ですが、高[雨/龍*](たかおかみ)神。これは雨乞(あまごい)の神様。説明書きによりますと、この高[雨/龍*](たかおかみ)神は壷に水を入れて山の上に持って行ってお祈りをすると八割方雨が降ると言われています。なぜ八割か、どこからその数字が出てきた分かりませんが。
高[雨/龍*](たかおかみ)の[雨/龍*]は、雨の下に四つ口、その下に龍JIS第3水準ユニコード9F97

 ですから奈良県飛鳥で、そういう祭祀や信仰が行われたことは間違いありません。
 もう一つは奈良県との境にある大阪府交野市磐船神社。そこの御神体は岩でして、舟のような形を川に突き出しているのが「天の磐船」と言われている。それが御神体である。。特徴的なのは奇岩・絶壁がありまして岩に全て名前が付いて有る。○○尊、○○尊と神様の名前が岩に付いてある。そのように看板に書かれている。神様に史料と言っては申し訳ないが、これは素晴らしい史料である。なぜなら『古事記』や『日本書紀』についてある名前なら、どうと言うこともない。『古事記』や『日本書紀』の好きな人がいたばあい、岩に名前を付けただけである。しかし私から見ると『古事記』や『日本書紀』に無い神様だから素晴らしい。『古事記』や『日本書紀』という史料では、うかがい知れない別史料がそこに存在する。当然それは『古事記』や『日本書紀』より古い。もっと言うと神武侵入以前から神様。ですから近畿では神武侵入以前からの神様を、区別するのは大変楽である。おおざっぱに言うと『古事記』や『日本書紀』に出てくる神様は、天皇家ゆかりの神様。例外的には出てきますが。
 ところが磐船神社に行ったら、『古事記』や『日本書紀』にない神様が、やたらに岩に○○尊と名前が書いてある。ようするに神武侵入以前からの古くて神聖な神様。天照のような新参の神様ではない。天照は神武たちが九州から持ってきた神様。私は天照大神(あまてるおおかみ)は弥生時代に生きている人間で巫女さんだと考えますが。その話は後日できるかもしれませんが。ですが弥生時代に近畿に持ち込まれた神様であることは間違いがない。ところが磐船神社に祭っている神様は、そんな神武や天照(あまてる)のように新しく他からはいってきた神様ではなくて、大和の古い神々である。今はそれが粗末に扱われている感じがします。
 また饒速日(にぎはやひ)に結びつけて交野市磐船神社の神様が『日本書紀』で語られていることは有名です。ですが私の理解では饒速日(にぎはやひ)より、とうぜん古い旧石器・縄文の神様である。それが饒速日(にぎはやひ)に付加されて言い伝えられてきた。
 三番目は、大和に猿石とか亀石とかいろいろ石造物が有りますが、今は集められていて見るのは便利ですが、やはり『古事記』や『日本書紀』には無いです。無いから変だという考え方はおかしい。無いから古い。『古事記』や『日本書紀』に無いから無視しがちですが逆なのです。『古事記』や『日本書紀』に無いほど古い。そういう性格を持っていると考えている。男根の形をしたものなど、そういうものの方が古い。考古学者はそういうものの編年を行いませんが、それが必要だと思う。
 これだけ各地で発掘しながら天皇家と関わりのあるとみられるものしか注目しない。
 飛鳥だけではなくたとえば兵庫県西宮市の目神山、本来は女神山だと思います。いつの頃か知りませんが「女」を「目」に変えた。本来は神聖な女性の神様の山。その目神山は有名な宮水をバックにした広大な祭祀であり、悠久の縄文の連なりだと考えます。それらは今日も来られている伊藤さんのお宅の真中に、お陰で保存されている。
 以上、近畿を理解するためには、神武を理解すること無しに正確な答えは出てこない。

 

六 三角縁神獣鏡の盲点

 前回言いましたけれども三角縁神獣鏡というのは、実は日本型の三角縁画像鏡と言うべきものである。私はこれらの鏡を一言で言い表す言葉として三角縁人獣鏡という名前を考えました。そういう言い方をしてみました。
 その中で今回は、紀年鏡(年号鏡)の問題点について取り上げてみたい。紀年鏡の問題点。「景初三年」「景始元年」「青龍三年」など年号を書いた鏡が一つではなくて、かなりたくさん出てきていることはご存じの通りだ。これらによっても魏の年号であることは確実である。また欠けているものもあるが、これだけたくさんあると欠けているところを補って考えても魏の年号と考えても良いようである。現在はそういう段階に来ている。魏の年号であるとすれば、魏から貰った鏡と考えるのが一番素直だろう。それが樋口隆康さん、その他の日本の考古学会の主流をなす方々の御意見です。
 私はそういう方々にことさらに異を唱えるつもりはないけれども、しかし正直に言うと全く意見は反対である。理由は非常に簡単である。
 たとえば景初三年鏡。「景初三年」とあるから、魏の年号であるから、だから魏からもらった鏡に間違いはない。つまり魏朝が卑弥呼(ひみか)に与えた鏡であるとの論理です。
 しかしそうであれば、わたしは魏の天子が卑弥呼(ひみか)に与えたという文句が欲しい。これは分かり切ったことでしょう。表現はどうでもよい。いろいろ有るでしょう。たとえば「竜風東至 竜(天子)の風(威光)が、東に至る」など、いろいろ考えられる。ようするに魏朝が倭に与えたという簡単な台詞(セリフ)がなければおかしい。それを遠慮して、倭人が嫌がるからと言って書かないでおこうと遠慮する必要がどこにある。こんな簡単なことを、いままで専門家が言わないのが不思議だ。
 それで鏡に何が書いてあるかと言えば、一例をあげます。写真4Aの島根県神原(かんばら)神社。景初三年陳是作鏡・三角縁同向式神獣鏡で説明します。今朝大阪府和泉市弥生考古博物館へ行って再度見てきました。今まで何度も見ましたが、いま「神々の源流」と展示を行っていて、一日七時間ぐらい見ることが出来る。毎日日曜のありがたさで、毎日張り付いて見れる。見て見て見抜くと云うことが大事である。それは今写真のコピーを渡しましたが曖昧(あいまい)です。コピーということもありますが、鏡自身を見れば分かりますが、実物も曖昧です。特にデザインは、非常に鋳上がりが悪い。結論から言ってしまえば踏返し鏡であり、元々鏡ではない。元々鏡であれば、あれほど鋳上がりが悪いということはない。銘文の文章そのものは貴重な文章だと思う。元々の文章を伝えているという性格を持っていると思う。しかし鏡全体の姿は、かなり踏み返しを行った挙げ句の果ての鏡ではないか。だから鏡自身は何回も何回も、貼り付いて見ているがデザインが分からないときがある。だから何回も何回も、貼り付いて見て見抜くということが大事ですので見抜いてやろうと思っています。今日も見てきました。
銘文
「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、社地命出、吏人繕之、位至三公、母人繕之、保子宜孫、寿如金石兮」
 「陳是作鏡」の「陳是」は、「陳氏」と同じだと言われています。
 「自有経述」は自分の経歴を述べますと、履歴を言っています。
 「本是京師」の「京師」は、当然これは洛陽でしょう。「景初三年」と魏の年号を言っておいて、「京師」が洛陽以外では困ります。疑いなく洛陽です。
 「社地命出」は、読みにくくていろいろ議論のあるところです。これは本来は洛陽出身ですが、そこにずっと居たのではなくて、どこか外に出ていきました。「京師」でない土地はどこか、いろいろ考えられますが「京師」でないことは確実です。わたし自身は呉のどこかだと、今のところ思っています。この鏡は呉の鏡の系列を引いている鏡であることを見ますと、次に
 「吏人繕之、位至三公、母人繕之、保子宜孫」
 吏人、これを銘ずれば位三公に至る。母人これを繕ずれば、子を保ち孫に宜し

 これを、後の「母人繕之」を含めてどう理解すべきか。
 「吏人」は官僚です。われわれが今で言えば高級官僚です。「それが銘ず。」これもいろいろ考えていましたが、史料を整理して考えているうちに私なりの、この銘文に対する答えが出てきました。子供が産まれたら名を付けます。その名を付けるのは最近の発見ですが、お母さんである。この当時普通は、お母さんが名を付ける。後の七・八世紀の万葉の時代でも、女の方の家があって男がそこに通って行く。そういうスタイルであったのは有名な話です。そういう状態の中であれば、子供を育てるのはお母さんが中心です。すると産まれた子供の名前を、お母さんが付けるのは当たり前です。お母さんが名前を付けること、これが「母人これを繕ずれば」に、あたる。「吏人」というのは官僚ですが、高級官僚に名前を付けて貰うと、子供が「三公」になれる。「天子」になるというと謀反・反乱になるから、天子でない最高の位になれる。これも初め、わたしはお父さんだと思っていた。しかしお父さんなら、そう書けばよい。お父さんとは書いてはいない。お父さんと書いていないということは官僚などの身分の高い人に名前を付けて貰ったら子供は「位三公」になれる。
 ということはお母さんが基本的に名前を付ける。例外的には身分の高い高級官僚、これは男でしょうが、彼に名前を付けて貰う。この金石文・銘文に、ここに倭国の重大な風俗が出てきた。今までそういう解説をした人がありますでしょうか。もしそのような人がいましたら尊重します。
 ですから基本的にはお母さんが子供に名を付ける。例外的には身分の高い人に名前を付けてもらう。そういうことを、私は知らなかったので言うのですが、貴重な史料です。
 それで、ここで言いたいことは、鏡を作った御本人の陳さんの経歴が簡単に書いてある。元は洛陽出身ですが、そこから出て鏡作りの修行をしたと書いてある。その後は、もっぱら子供の話になって、その後はこの鏡のスポンサー、もっぱら鏡を手に入れる豪族のことが書かれている。普通はお母さんが名前を付けるのだけれども、高級官僚に名前を付けて貰うと、その子供は出世する。「位三公」になれる。そして家がますます栄える。そう言うことが書いてある。
 そうして考えてみますと陳さんのプライベートな話とこの鏡を手に入れる豪族のプライベートな話。そういう子孫繁栄などの個人的なおめでたい話だけで、一言も中国の天子がこの鏡を倭王に与えたという台詞(セリフ)はまったくない。よくもこの台詞(セリフ)で、魏からもらった鏡と言えたものだ。樋口さんなどすべての考古学者には失礼ですが。わたしはまったく違います。「景初三年」という年号は、その年に造ったのなら使える。「景初三年」と書いてあるから魏朝からもらったという話とは、だいぶ飛躍する。魏朝からもらったなら、もらったらしい文章がなければならないが、書いていない。「景初三年」という年号が有るからと言って、魏とはまったく関係しない。まったく違います。年号を使っているかといって魏朝から貰ったというのなら、話は大分飛躍する。もし魏朝から貰ったと言うのなら、魏朝から貰ったらしい文章がなければならない。紀年鏡がかなり出てきているだけに、その文言は全くない。だから紀年鏡問題からも、三角縁神獣鏡が魏の天子から貰った鏡という話はアウトである。
 次は鏡の銘文と図柄の関係です。残念ながら神原(かんばら)神社の景初三年鏡のほうは、鋳上がりが非常に悪く図柄がはっきり見えない。ところがそれを補うものが有りまして正始元年鏡のほうが、ほぼそれと同じ図柄を示している。その図柄により言いますと、今までの解釈では、上が琴を弾く人物である。向かって右が男で東王父、向かって左が女で西王母、一番下の小さい人物が黄帝という伝説の人物だということになっている。
 しかし私はこれはおかしいと思う。一番おかしいのは、伝説であれ、なんであれ帝と名前が付く人物が一番下の位置にある。こんなことがあるのでしょうか。しかも小さい。もし鏡を制作したときに失敗したと思ったら、鋳直せばよい。簡単である。それから琴を弾く人物は特定の人物とは決まっていない。中国の高級官僚は琴をたしなみとして弾く。その最大の名人が伯牙(はくが)という意味でしかない。
 ですから図柄が銘文と対応していないという考えはおかしい。だから図柄が銘文と対応していると考えると、どうなるか向かって右が男で吏人、向かって左が女でお母さん、一番下の小さい人物が子供である。

 

質問1 神武東征の時期は何時でしょうか

(回答)
 神武東征の時期ですが、もちろん『古事記』・『日本書紀』からは年代は書いていないから分かりません。何から分かるかというと考古学編年から分かる。弥生の中期終り・後期初めの銅鐸がなくなる時点が「。弥生後期になると銅鐸は全く出ない。そういうことは弥生中期の終り・弥生後期の初めに、神武侵入の時点である。そのように考えることが出来る。
 それは何時かというと、従来の考えではBC一〇〇年からAD一〇〇年までは弥生中期、それからAD一〇〇年からAD三〇〇年までは弥生後期と考古学では言われていです。これは従来言われていた考古学の編年です。イエスの生まれた西暦にあわせて考古学が区別されるというのはずいぶん乱暴な話ですが、一応の年代の概念として言っていました。またやはり(土器の)形式学だけでなく、やはり年代がないと不安である。ところが最近変わってきた。何が変わってきたかというと年輪年代測定法など考古学の科学的手法の発達により最近変わってきました。従来の放射能測定の場合は非常に誤差が大きく、縄文時代のように何千年単位ではその誤差は余り響かないが、弥生などではその誤差が大きく邪魔になり困る。ところが年輪年代測定法では、木が一年毎に大きくなっていき変化するので追跡できる。非常に素晴らしい方法です。この間奈良県でもシンポジウムがありました。それによると、いずれも従来の考古学編年では具合が悪い。いずれも一般的には初め五〇年遡(さかのば)ると言われてきたが、それでも問題がある。最近では一〇〇年ぐらい遡(さかのぼ)らせなければならないと言われて来た。最近ではホケノ山古墳でも年輪測定の概念を導入して三世紀中。あるいは放射能年代測定を考慮して三世紀前半だという話が出てきている。
 一般的には次の場合が考えられる。

BC二〇〇年からAD〇年までは弥生中期
AD一年からAD二〇〇年までは弥生後期

 今問題を簡単にして説明しますと、右のようになると言われている。現在はまだ考古学界は論議の途中ですので、ハッキリ結論を出したものではありませんが、論理的にはそうなる。ですから神武の問題で言いますと、従来は考古学編年により弥生後期がAD一〇〇年ごろから始まるので、神武東侵もAD一〇〇年頃と考えられていた。
 それが今のように百年さかのぼりますとイエスが生まれた頃のAD一年になる。この頃に近づく。あまり限定するのも問題なのでAD一年から五〇年ぐらいの間。つまり1世紀の前半。そういう感じになる。
 そうすると、私にはこれは非常に面白いというか、この考え方に賛成して歓迎するテーマがある。
 具体的に言うと、なぜ神武が九州を出てきたか、このような問題がある。これは『古事記』・『日本書紀』ではよく分からない。『古事記』・『日本書紀』では「ここにいても仕方がない。東に行こう」と受け取れるようにしか書いていない。
 それを考えてみると、筑紫に居ても、そこではもう少数派で異端派である。そこに居ても主権は取れない。だから新天地を求めよう。そのような意味にわたしは理解できる。
 何が不満で、何が問題なのか。それを考えてみますと、紀元前後は中国の王朝では新という国の王莽(おうもう)の時代になる。この新の王莽が、ひじょうに当時の日本に良く知られていた。その証拠は、彼の作った「貨泉」という貨幣が、九州から日本海・瀬戸内海、岡山、大阪湾あたりまで出てくる。だから新の王莽と関わりが非常に深かったことは事実である。ところがそこへ金印が出てくる。言うまでもなく志賀島の金印を貰った後漢の光武帝が出てくる。あれは大変だったと思う。何が大変だったというと、光武帝という人が出てきて、新の王莽はもうダメだ、あんな奴は信用するなと言われた。時代は変わった。そう光武帝に言われた。しかし言われた方はたまりません。今まで新の王莽の家来を称し、かつ貨幣も貯め込んでいた連中が居た。また貨幣だけでなくシンボルとして「貨泉」を使っていた。そこへ、新の王莽は、もうダメだと言ってきた。しかし本当に新の王莽はもう駄目なのか。漢の光武帝は長続きするのか。言ってみれば光武帝は出てきたときは反乱軍の長です。新の王莽に対して反乱が各地で起った。その中の武将の一人で、「何を隠そう私は漢の血を受け継ぐ劉である。」と称した。本当か嘘かは分からない。本人がそう称したことは事実であるけれども。今は偉そうに言っているけれども失脚するかも知れない。
 それで倭国は二つに完全に分裂と考える。新の王莽を支持した従来の勢力と、新しい新興勢力である光武帝を支持する勢力とに倭国は完全に別れた。そこに大きな、倭国・九州王朝内部の分裂があったと思う。結局は後漢の光武帝支持派が勝つ。その証拠に博多湾岸にある漢式鏡、前漢式鏡・後漢式鏡。その漢式鏡は漢に対する忠節の印の鏡である。あれを我々は単なる鏡と思っているが、絶対にそんなことはない。あれは漢の天子に対する忠誠宣言の証拠品である。新の王莽ではないわけです。新の王莽の鏡は別にあるが、その鏡は九州にない。ということは、主流は光武帝支持派です。
 そうすると、もうこれでは駄目だ。神武たちは、そう思って倭国を出て行った。そうすると神武は王莽派、残党派です。今までもそう考えていたのですが、それにしては八十年ないし百年も空きすぎる。その影響を受けたと言えないことはないけれども、空きすぎていた。ところが年輪測定で、五〇年ないし一〇〇年と紀元ゼロ年に近づいてきた。まさにその話になる。
 それで面白すぎる問題がある。『古事記』・『日本書紀』が卑弥呼(ひみか)の事について一生懸命書いてあるが、ところが金印のことは鼻にもかけない。光武帝の金印の話は『古事記』・『日本書紀』にぜんぜん出てこない。知らなかったはずはない。『後漢書』に書いてある。出土したのは江戸時代に甚兵衛さんが畑から金印を見つけたということに成っている。しかし江戸時代に出なくとも『後漢書』を見ればきちんと書いてある。少しは金印を有り難そうに書いてあっても良さそうなものなのに無い。これは偶然ではない気がする。とにかく現在の段階の理解では神武が近畿に侵入したのは西暦一年から五十年頃の間ぐらいと考えています。

 

質問2 それでは神武が近畿に来てから、「倭国大乱」が、あったのでしょうか。

(回答)
 その通りですが、「倭国大乱」とは『魏志倭人伝』にはありません。『後漢書』の倭伝には「大乱」と書かれています。『三国志』魏志倭人伝では「倭国乱る」としか書かれていない。この説明も『邪馬一国の証明』(『日本古代新史』)などで詳しく書かれていますからご覧下さい。「倭国の乱」は当然神武東征より後です。九州博多湾を中心にする乱だと考えています。

質問3 神武と卑弥呼の関係ですが、どのような関係ですか。
(回答)
 もちろん卑弥呼(ひみか)より神武の方がずっと古い。卑弥呼よりずっと前に神武が糸島を出てきた。卑弥呼の時代には、少なくとも神武の子孫が近畿を、少なくとも大和盆地を支配していた。そういう状況にあったと思う。
 これも言い出すと面白い問題がある。神武の後の天皇の称号を十代ぐらい見ていただきますと、変なことがある。なぜかというと「神倭」という名前の付いた人物が何人か居て、その後「倭」と名前の付いた人物が何人か居て、それから「大倭」の称号が付いた人物が何人か居る。また何もない人もいる。こういう状況です。そうすると、きまぐれで「大倭」を付けた人、「倭」だけの人、「倭」が嫌な人が居たとは考えられない。ところが『魏志倭人伝』を見ますと「大倭」と称して市場を監督する権限を与えられている。つまり奈良県大和に「大倭」が付いて居た人物は、「大倭」の権限を与えられていたから「大倭」と名乗った。与えられていないから「大倭」と名乗っていない。この場合「倭」は(地名で言えば)「ヤマト」ではなくて「チクシ」である。
 そうすると『古事記』・『日本書紀』の記述によれば、この権限を与えられた人物と与えられなかった人物が居る。この権限を与えられた人物が居たから「大倭」と名乗った。それ以外にどのように考えられますか。この場合の「倭」はヤマトと呼ぶのではなくチクシを意味する「倭」と考えることができます。それを「倭チクシ」を与えられたから名乗った。与えられていないから名乗っていない。
 四代懿徳(大倭日子[金且]友命)
 六代孝安(大倭帶日子國押人命)
 七代孝霊(大倭根子日子賦斗迩命)
 八代孝元(大倭根子日子國玖琉命)

      (終わり)

古田武彦講演 二〇〇〇年 四月二十三日(日)午後二時より四時
 於:大阪府堺市 泉北考古資料館


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