古田武彦
わたしには不思議である。
これはたった一人で歩みはじめた、孤独な探究の道であった。現代の学界はこれをうけ入れず、今までいかなる博学の人々も、このように語ったことはなかった。そういう断崖に切り立った小道を、わたしはひとり歩みつづけてきたのだ。
それが今、ふと見まわすと、わたしのまわりには、数多くのなつかしい人々が見える。そしてうしろからもヒタヒタと足音がする。いや、前にも、もう、一歩、二歩歩きはじめている若者たちの姿が見えているようにさえ思えるのである。荒野の中に多くの道を切り開きつつすすむ人々の群れのように。 ーーこれはどうしたことであろうか。
思うに、わたし個人は、とるに足らぬ一介の探究者である。長い時間の中でうたかたのように浮んでは消えてゆくひとつのいのちだ。そのわたしをささえ、とりまいているこれらの人々こそ、真の探究者、真の母体なのではあるまいか。わたしは母なる探究者をこの世で代理し、いわばその“手先”をつとめる者にすぎぬ。わたしにはそのように思われるのであろ。
わたしはかって書いた。
「わたしの闘いはいつもひとりだった。だからこそ、限りなく多くの人びとに、ささえられてきた。すなわち『邪馬台国』の迷路の中に模索してきたすべての人、一片の資料、一端の知識でも、わたしにほどこしてくれた人、この本を作るために力をつくしてくれた人、そして、わたしの探究心に熱い炎を注いでくれた人、これらすべての人々に負うているのである。」(『「邪馬台国」はなかった』あとがき)と。
ここでわたしが指さした人々、それはたとえば次のような人々だった。
笠井新也という探究者がいた。四国の一隅、徳島に住み、土地の中学の教師としてその生涯を終えた。その間、情熱的に「邪馬台国」のありかを求め、大和の箸墓を卑弥呼の墓に比定した。
「邪馬台国は大和である。」(考古学雑誌第十二巻、第七号、大正十一年三月)という氏の論文の題目には、問題の焦点にズバリ切りこむ大胆さと集中力が感ぜられる。その結論自体は、今のわたしの目から見れば、明白なあやまりではあったけれども。
(氏は御愛息に「倭人」という命名を与えられた。『研究史 倭の五王』〈吉川弘文館〉などの著述で知られる、笠井倭人氏である。父君の、倭人伝に対する傾倒ぶりがしのばれよう。)
また九州には、中山平次郎という探究者がいた。九州帝国大学医学部教授だった。博多の街で、知識階級としての顕職にあったといえよう。だが、その“かたわら”没頭していった考古学の研究においては、一介の素人だった。ために中央(東京・京都)の考古学界に無視されることが多かった。ある論文の終りには、
「もうそろそろ此辺で処分(“学界からの黙殺処分”を指す ーー古田)を解除して戴かぬと、世を挙げて皆濁れりなどと博多湾へ飛込む今屈原が出来そうである。」(「魏志倭人伝の『生口』」考古学雑誌第十八巻、第九号、昭和三年九月)と書いている。
「邪馬台国」の研究史では、笠井と同じく近畿説に立ったけれども、氏の論文(「考古学上より見たる神代史」考古学雑誌第十九巻、第十号、昭和四年十月)中、わたしは出色の行文に出合った。その要旨は次のようだ。
“わたしは、はじめ白鳥庫吉博士等の言説に従い、「邪馬台国」は筑後山門(もしくは肥後山門)のへんにあるもの、と思っていた。ところが、その地帯をくりかえしまきかえし歩きつくし、渉猟しつくしても、ほとんど目ぼしい出土物に出会うことがなかった。少くとも、筑前なる博多から南へ下り、筑後北辺から筑後南辺(山門郡)さらに肥後へと下るにつれ、弥生期(「金石併用期」)の出土物はいよいよ減少するばかりであった。従って「奴(な)国に当る」博多湾岸に比較して、これほど出土遺物の少い地域に倭国の都たる「邪馬台国」のあるべきはずはない。そう確信するに至った。”というのである。
もちろん,このさいの渉猟は、多く「地上採集」という、もっとも素朴な方法によったものであった。だが、この中山の“手ざわり”にあやまりはなかった。この点、たとえば銅鏡(いわゆる「漢鏡」とされたもの)や銅剣、また鉄製品等についての、現今の弥生期分布図を見ても、直ちに判明するであろう。(古田『ここに古代王朝ありきーー邪馬一国の考古学ーー』第一部参照)
“少くとも九州において、博多湾岸(その中心は博多駅ー太宰府の間)を除いて、弥生期の「都」を求むべくもない。” ーーこれが中山命題の真の核心だったのである。従来の、いわゆる九州説に対する致命的な反証だった。
しかるに、東大を中心とする九州説(筑後山門等)の学者たちーー 榎一雄・井上光貞氏等を先導として ーーは、右の中山命題をてんぜんと無視しつづけて今日に至っているのである。もはや幽冥の人となられた中山氏が再び博多湾頭に身を投げんとされるおそれは、幸いに存しないであろうけれども。
× ×
戦後、再び、情熱的な探究者が立ちあらわれた。たとえば目が不自由な人、宮崎康平である。氏の『まぼろしの邪馬台国』は、文字通り洛陽の紙価を高からしめた「名著」だった。
そのおびただしい読者の中から、いかに多くの古代史を愛する人々が誕生したことであろうか。少くとも、氏の身体的条件にまけぬ情熱、その一事に、感動しなかった読者は少いであろう。
氏の手法の基本は、倭人伝中にほうり出された二十一の国名を有明海沿岸の地名と対応させ、そこに「一致」を見出すことにあった。この手法は、かって内藤湖南が近畿を中点にして日本列島の東西に適用したものだ。そして同じく“ピタリ適合する”ことを示したものだった。
このような手法によれば各自の好む中心点(邪馬台国)の周辺に地名の適合点を見出すことができる。宮崎氏の“成果”は、そのような教訓を研究史上に残した。そしてその後の百花繚乱の「邪馬台国」論がそれを“実証”した。わたしの探究は、このような宮崎教訓を深く“かみしめて”出発することとなったのである。
さらに松本清張の『古代史疑』があった。それが中央公論の誌面に連載されたとき、わたしは毎号の到着を待ちかねたのである。
古代史の謎が新鮮な姿でたちあらわれ、当時親鸞研究に没頭していたわたしは、そのときの思考と模索の中から、自己の生涯の運命を大きく左右するに至った最初の問いを見出すに至ったのである。
ーー“主題としての「邪馬台国」という中心国名、それは果してこのままでいいのか。”と。
× ×
わたしにとって、もっとも重要な資料、それは尾崎雄二郎さんによって与えられた。尾崎さんはわたしの妻の恩師だった。その縁によって、わたしは親鸞に関する論文『原始専修念仏運動における親鸞集団の課題ーー史料「流罪目安」の信愚性について』(史字雑誌74-8、昭和40年)の抜刷を贈ったことがあった。それに対して折りかえし“親鸞研究の、現今の問題の所在と状況を知りえて”云々の丁重な礼状をいただいたことがある。
先にのべたように、わたしは松本清張氏の連載や井上光貞氏の『日本の歴史1』(中央公論社)、さらに岩波文庫本『魏志倭人伝』などを通視する中で、この中心国名が果して「邪馬台国」という改定名称でよいのか、という史料批判上、根本の疑問をいだくにいたった。
しかし、一方では、当時親鸞研究に没入しきっていた上、他方では、三国志の版本状況に対する知識が皆無だった。そのため、この疑問をそれ以上、先にすすめることができないでいたのである。
そして親鸞研究の一段落の機をえたとき、直ちに三国志版本の探索をはじめたのであったが、知りあいの日本古代史の学者は、その知識を一切与えてくれず、むしろ親鸞研究にとどまるよう“勧告”さえ与えられたのである。
これに対して、快く導きの手をさしのべて下さったのが、当時、京大の教養部におられた尾崎さんであった。
妻と一緒に訪れた、氏の研究室でしめされた三国志百衲本。いわゆる紹煕(しょうき)本だ。この版本こそ、わたしの古代史探究の第一の礎石となった。しかも、わたしの借用の申し出でに快く応じて下さったのである。(また中華書局の標点五冊本も、そのときお示しいただいた。これは紹興本を中心に、各本の“校合”されたものであった。これは後日、砺漉(となみ)護氏から借用することができた。)
はからずも、その後、尾崎さんとは、問題の国名が“邪馬臺国か、邪馬壹国か。”をめぐって、論戦を交えることとなった。(尾崎「邪馬臺国について」京都大学教養部『人文』第十六集、古田『邪馬壹国の諸問題』京大、史林、55〜6、56〜1、古田『邪馬壹国の論理』所収)。
けれども、そのことには全く別に、わたしは氏によってうけた学問上の基本をなす、深い恩恵を、一刻も忘れることはできない。
今回(『ここに古代王朝ありき』一二七頁参照)も、立岩遺跡出土の、いわゆる「漢鏡」(二号鏡)について、原文(漢詩)に比べてあまりにも多い欠字、それに不審をいだいたわたしは、ある日、尾崎氏のもとを訪れた。このような詩文の体をなさぬものが「舶載」すなわち中国製とは、どうしてもわたしの目には信ずることができなかったからである。この銘文(『立岩遺跡』所収)を見て、雄崎さんは直ちに言われた。「これが『舶載』の中国製だと言われているのですか。本当ですか。少々の欠字・脱字類のある例は知っていますが、これほどとは。これでは、まるで文意が通じないじゃありませんか。その中国人がいかに教養の深からぬたぐいの人々であったにせよ、こんな文章を作るとは。到底わたしには考えられません。」そのように明言されたのである。そしてわたしの謝辞に対して、「いや、わたしの方こそ、いいものを見せていただきました。」と丁重に応えて下さったのである。
わたしは莞爾として、今は北白川の人文科学研究所内にある、氏の研究室を辞去したのであった。
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先日、漫画家近藤日出造氏の詐報が報ぜられた。多年読売新聞紙上を中心に健筆をふるってこられた方であるから、その記事に注月した人も多いであろう。
わたしには、その記事は他人とは異った感慨があった。なぜならその喪主として、長男近藤汎(ひろし)氏の名があったからである。
今は読売新聞社社会部次長の職名を冠されたこの方には、わたしには忘れえぬ思い出があった。
昭和四十四年十月も終りに近いころ、当時在職していた洛陽工業高校の国語科職員室に、夕刻近く、突然の来客があった。その名刺に読売新聞社(東京)社会部の肩書のもと、氏の名前があったのである。
「ちょつとお聞きしたいことがあって来ました。もうお宅の方へお帰りですか。」「はあ、そろそろ、といったところですが。」「ではー。」
暗黙ながら、一種の強い意志にうながされるようにして、わたしは氏と共に帰路についた。向日町(現、向日市)の物集女(もずめ)街道に近い、わたしのアパートまで、三十分くらいで到着した。
机を前に相対すると、早速氏は切り出された。
「東大の史学雑誌で、あなたの論文『邪馬壹国』を拝見しました。その問題についておうかがいしたい。それで東京から参りました。」
他の人々の目や耳から遠ざかったところにわたしを置いて、いきなり鮮やかに切りこむ。獲物を前にした猟人の迫力があった。
それは、わたしの古代史研究が学界の専門誌から出て、一般人の眼前に登場するに至った、その最初の瞬間だった。(昭和四十四年十一月十二日、読売新聞所載)
この近藤氏にわたしの論文の存在を告げた人、それは今、読売新聞社(束京)の学芸部におられる村瀬雅夫氏であるという。氏には後日、榎一雄氏との論戦のさい、担当していただいた。奇縁の人である。
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同じ年の十一月なかば、右の学校で、立派な体格をもつ、穏和な語り口の紳士の訪れをうけた。名刺には、朝日新聞社大阪本社出版局とあった。
かばんからわたしの史学雑誌の論文のコピーをとり出して示しながら、おだやかな微笑をうかべつつ、静かに話し出された。
「この論文を拝見して、大変興味深く存じました。そこで是非、この問題を発展させて一冊の本にまとめていただきたい、そう思っておうかがいしました。」
その話しぶりは、きわめて丁重、かつ熱意がすみずみまでこもっていた。一介の在野の探究者、しかもわたしのような“若僧”に対して、己が全身をぶっつけて下さる。その姿に、わたしは、さわやかな衝撃をうけた。その上、「もし、本にすることについて、読売さんがすでに来ておられるのでしたら、わたしはこのままひきさがります。」そうつけ加えられた。あくまで節度を持した、見事な一言一句であった。
けれどもそのときのわたしには、“ただ中心国名は三国志の各版本ーー ことに最古の南宗本(紹煕本・紹興本)においてーー 邪馬壹国だ。例外がない。また全三国志中、「壹」と「臺」の間の錯誤と認められるものが見当らない。このような状況下で、こちらの都合(近畿の大和や筑後の山門などに合わせる)によって、「邪馬臺国」と改定するのは、不当だ。従って原本通りの邪馬壹国によって探究を再出発すべきである。”という、根本原則しか確立していなかった。その邪馬壹国なるものが、一体どこに所在するか、皆目不明だったのである。
わたしはこのような状況の中にいた。それゆえ、この方の厚い御好意には謝しつつも、率直に右の実情をのべ、“おことわり”するほかはなかった。
けれども、この穏厚な紳士は、まだわたしを“見放そう”とされなかったのである。それからのちもくりかえし、わたしのもとにおとずれて慫慂され、あるいは電話をいただき、重かったわたしの筆に暗黙の叱咤を与えてくださったのである。
この方こそ『「邪馬台国」はなかった』以降の、わたしの古代史の各著作の真の生みの親、米田保さんであった。
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昭和五十年末、一通の手紙が舞いこんだ。そこには第一書刊行以来、ひっきりなしにいただいていた読者からの手紙とは、ひといろ変った要件が書かれていた。“東京へ来てわれわれに話をしてほしい。”という依頼だった。
ことのおこりは、この方ーー 壱岐一郎さんと言われる。この方には、すでに昭和四十七年にお葉書をいただいたことがあった。 ーーが、わたしの本『「邪馬台国」はなかった』を読んだ直後、行きつけの縄のれん(?)をくぐられたことにはじまる。そして飲むほどに興がすすみ、隣の人と相語るうち、その人もわたしの本を読んでいたのを知った。そして甲論乙駁するうち、“わたしの本の目指すところ”について意見がくいちがい、“よし、じゃあ、めんどくさい、本人に聞こう。”そういう話になった、というのである。
このお便りをえてーー その前に、東京の朝日ゼミナールでこの方にお目にかかった記憶があった。 ーーわたしは、わたしの本をめぐって、東京の街の一隅で演ぜられたワン・カットに、しばしほほえましい思いにひたることができた。できはしたけれども、では、東京へ、となると、腰が重かった。そのような形での直接の話し合いというものを、わたしは経験したことがなかった上、どのような場で、どのような方々と、何をお話したらいいのか、皆目不明だったからである。
そこで“好機をえたら、そのようなことも、と存じますものの、しばらく考えさせていただきます。”をいった旨の御返便をしたためたのであった。
以後、壱岐さんは時折お手紙を下さった。そしてそのたびに御要望は一層明確になっていった。そしてその年もあけたのち、場所(束京都港区勤労会館内)を用意したから、来てほしいとの御連絡をうけたのである。これが東京における読者の会(七五・十二月十六日付のお便りには「古田武彦研究会」とある。)のはじまりだった。
その後、わたしの本に対する的確な書評を次々と読売新聞等にのせて下さっていた河野喜雄さんがーー 壱岐さんと話し合われ ーー逓信綜合博物館内の会場をお世話下さり、ここが多く用いられるようになった。(河野さんは電気タイムス主幹)。
またわたしの訳著『倭人も太平洋を渡った」を出版した創世記で事務的手続きをひきうけてくださった。ここの細萱尚孝、萩元晴彦、東堅一の皆さんは、わたしが青年時代に教師となった松本深志高校(長野県)の出身だった。
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思いがけぬ偶然 ーーそれが人間と人問の強いきずなを作り出す。そういうことを体験したのは、昭和五十一年七月の北九州古代史の旅だった。朝日ゼミナールの企画である。ゼミナール局長の松村欣一さん、朝日旅行会のベテラン竹野恵三さんに導かれて快調な旅だった。ところが、壱岐へ渡ったとたん、天候が激変した。台風圏に島全体がまきこまれ、わたしたち一団は九州本土へひきかえすことができなくなったのである。そこでもう一晩ここに宿泊せざるをえなくなった。しかし狭い島内のこと、それに強風下ではどうしようもない。島の民話・歴史の探究者、山口麻太郎さんに急遽来ていただいて興味深いお話をお聞きしたものの、あとはあるいは酒を飲みあるいはダベリ、という時間のすごし方。その中から「七人の侍」(ただし女性を含む)たちの情誼が生れたのである。(日下滋子さん、阿田かつ子さん、高橋悦子さん、西谷日出夫さん、橋本崇さん、春田孝正さん、藤田誠三郎さん)。
この方々が壱岐一郎さんの博多転勤(九州朝日放送)のあと、東京の読者の会の力強い支え手になっていただいている。
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いよいよ大阪の、囲む会の方々とのふれあいをのべるときがきた。
昭和五十二年二月、一人の紳士の訪問をうけた。中谷義夫さんである。
お宅は大津市だが、大阪で二軒の書店を営んでおられるという。古代史を好み、実に数多くの書籍を渉猟し、読破してきたが、結局わたしの本において“なっとく”することができた。そのように語られる、じゅんじゅんたる語り口。わたしはその中に大阪商人の奥床しさ、いわばその奥行きを見た。かって豪胆をもって鳴った堺商人の血を今に受けついでいる。そういった印象の方だった。
そして、“わたしたちは、若千の仲間と一緒に、何回も古代史上の遺跡めぐりなどをしてきた。その仲間に、何か話をしてほしい。”との旨を告げられたのであった。
これが大阪の「囲む会」第一の重厚な石となった。
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ほどなく(昭和五十二年五月九日)わたしは“親子づれ”といった感じの、二人の方の訪問をうけた。今井久順さんと藤田友治さんである。
お聞きすれば、今井さんは藤田さんの奥さんの御尊父。かねてより古代地名の研究に年季を入れておられるという。神戸で電気関係の御仕事を長くつづけてこられた方である。
一方、藤田さんは、気鋭の社会科教師(そのとき茨木工業高校。現在は府立茨木東高校)。茨木市に住んでおられる。すでに親鸞でわたしのことを知られた、という(『親鸞 ーー人と思想』清水書院)。
そして日本史の時間に、「漢委奴国王」の金印について教えるとき生徒が教科書のような三段読みになじまないのを発見された。
例の「漢の委の奴の国王」という、三宅米吉によって「定説」化された読みである。なるほど“できのいい”生徒は、教科書の「三段読み」をすぐ憶えてしまう。けれども“できの悪い”生徒は決してこれになじまない。「ハテナ?」藤田さんの目はひかった。 ーーこれが真の教育者のもつ、珠玉の目だ。
すでにこの読みに疑問と一家言をもっておられた御尊父(今井さん)と共に、この問題について談じ、わたしの『失われた九州王朝』冒頭の金印解読、“中国の印制に三段読み無し”との立論に深く共鳴されるものがあったという。
お聞きするうち、“脱落教師”たるわたしの胸にも、深く泌みこむものがあった。そして藤田さんは言われた。“わたしたちの仲間で、このような問題についていつも話し合っている連中がいます。適当なとき、一緒に話し合えるような機会がほしいのですが。”と。
そこでわたしは、先日来られた中谷さんの話をした。“この方とお話し合いになってみて下さいませんか。同じ大阪の方ですから。もし、双方で場所や時問の折り合いがつかれましたら、喜んでうかがわせていただきます。”と。そして東京の会の経緯をお話した。
これが強固な結合をもつ、大阪の「囲む会」の発足点となった。
× ×
このとき、終始穏和な微笑をたたえられながら、やわらかな話しぶりが印象にのこった今井さん。この人こそ、わたしの研究にとって、決定的な導きの火を与えてくださる方となった。
昨年の稲荷山の「鉄剣」問題である。これは、金石文にあらわれた銘文解読という、第一史料の発見によるものだった。そしてその解読をめぐって「雄略天皇の日本統一」を主張する圧倒的多数の学者たちと、わたしひとりと、決然と相対立することとなったのである。
わたしは、ここに現われた「左治天下」の語に注目した。これはこの「〜大王」と「乎獲居臣」が“大義名分上の権力者と実質上の行政権者”の関係にあることをしめしていた。たとえば卑弥呼と男弟のように(「佐治国」ー倭人伝)。
また幼い成王(周の第二代の天子)と摂政の周公との間(「佐相天子」墨子)。この周公も実質上の行政権者だった。
このような事例から見て、この銘文の「〜大王」を雄略天皇、「乎獲居臣」を武蔵の豪族、このように見なす読解ーー 「定説」と称されたものーー やはり根本において成立しがたい。 ーーそう確信したのである。
もう、一つの問題は「斯鬼宮」だった。もし関東にいて、“大和の磯城宮”を指示するとするなら、やはり「夜麻登斯鬼宮」といった表記がほしいと,ころだ。そうでなくて、ただ「斯鬼宮」とある。これを知らないのは、“もぐり”だ、と言わんばかりに。とすれば、これは、現地の「磯城宮」を指すのではないか。これがわたしの疑いだった。そして和名抄で武蔵国に「志木」の地名があるのを見て、わたしは右の疑いをいよいよ強めたのである。
ところが、ある日、わたしの家の電話が鳴り、出てみると、今井さんのお声。「関東に『磯城宮』というのがありますよ。字(あざ)地名で残っているようですよ。わたしが前に偶然買ってもっていた本にのっていました。」わたしは文字通り仰天した。そしてすぐ、その本をお見せいただくようお願いした。そして今井さんが翌日、大阪にお出でになると聞き、阪急梅田駅の改札口でお待ちすることをお約束した。これが『下野の古代史』(前沢輝政著、有峰書店)だった。
そこには明白に、
「この地(栃木県藤岡町大崎の地ーー大前神社)はいまも『磯城(しき)』(大和の磯城と同名)の小字名をのこし、磯城の宮とも呼ばれている。」(上、一六一頁)
とあった。
そこで著者の前沢さんにお手紙して事を確かめたのち、わたしはこの大前神社におもむいた。そしてその境内に、
「大前神社、其の先、磯城宮と号す。」
の一句をもつ石碑(明治十二年建立)を“発見”したのである。
これが、今年四月二十九日(土)の「囲む会」講演の会場(なにわ会館)に展示された、中谷さんによる右の石碑の拓本、その端緒であった。
× ×
わたしにとって忘れえぬ最近の思い出。それは今年四月一日の河内古墳めぐりだ。
この四月十三日から十五日にかけて、わたしは「河内・大和の古墳めぐり」の講師を依頼されていた(朝日旅行会)。実はこれを引き受けたわたしには、一つの“下心”があった。それは“これを機に河内・大和について知見を深めよう。”というものだった。「講師」とは、すべてを知りつくした者の謂(い)いだとしたら、これは“不遜な”態度だ。
けれどもわたしは、古事記の崇神・垂仁記の中に「銅鐸圏滅亡」の説話がリアルに語られていること、それをハッキリと分析し終えたところだったから、その新しい認識を基盤にして、“近畿を見つめ直したい。”そう思ったのだった。
わたしの“河内学び”の志を知られた、大阪の「囲む会」の委員会の皆さんは、早速“古墳歴訪隊”を組織して下さった。乗用車四台を連ねて「仁徳陵」古墳前に集合、そして和泉の黄金塚古墳へと向った。
第一車ーー佐野博さん、三木カヨ子さん、わたし。
第二車ーー今井久順さん、後藤茂樹さん、藤田友治さん。
第三車ーー丸山晋司さん、筒井啓行さん。
第四車ーー中谷義夫さん、北本保さん、岸野宏さん、石津昌子さん。
黄金塚に着くと、折よく御案内いただいた士地の堀本幸雄さんから、同古墳項上付近でひろわれたという、かなり大きな土器破片(三片は室町期の壼、一片は奈良朝以前のものと判明。 ーー森浩一氏による)の提供にあずかる、という極上サービスをうけたのち、黒姫山古墳、「応神陵」古墳へと向った。
ところが、途次、“道を失った”のである。先頭を切った、わたしののせていただいていた車は、佐野さんの運転。ところが、交通渋滞の中で、発進・停止をくりかえすうち、第二〜四車との連絡が切れた。お互いに探しまわったあげく、クタクタに疲れ、夕闇につつまれた誉田(こんだ)八幡宮の門前で、やっと第二〜四車の方々とお会いできたうれしさ。
わたしを囲んだ「周円」の、皆さんの顔を見つめながら、胸にあつい何かがふつふつとこみあげてやまなかったのである。
ところがそのとき、さまよいつづける車中で、堺そだちの三木さんからお聞きした小学校時代の思い出、それがわたしの前に広大な新しい探究の大空を切り開くこととなろうとは。
すでに今回の新著『ここに古代王朝ありきーー邪馬一国の考古学』(朝日新聞社刊)で、いわぱわたしは主柱をなす「切札」を出し切った。それゆえ、一種研究上の“虚脱状態”にあったわたしだった。けれども、今再び眼前に、広大な草原がゆれ輝く姿を見たのである。
(この点、他日、著述の中で詳論できる日の来ることを期したい。)
一九七九・五月十九日稿了ー