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市民の古代・古田武彦とともに 第4集 1982年 古田武彦を囲む会発行
「市民の古代」編集委員会編集

古田史学にみる継体の出現と終焉の謎

豊中市 中谷義夫

 記紀の説話を表面からだけで読むのではなく、その説話の裏側に潜む史実を確かめながら探ってゆくと、思いがけない事実や造作に突き当ることがある。その中で一番大きなフィクションを挙げると、「継体天皇の出現と終焉」ではなかろうか。
 大体、記紀におけるこの説話は、先代の武烈には子がなく、その後継ぎとして近江か越前の豪族で、応神の五、六代目の孫に当る、男大迹(オホト)を呼び寄せて即位させたということになっている。だが、男大迹は大和には直ぐはいれず、河内、山城、弟国をさ迷って、二十年立ってやっと大和に都したといわれる。ではこの空位の二十年間、大和は一体どうなっていたのだろうかと、私たちには疑問が起る。武烈には子がなくとも先代の仁賢・顕宗には子がなかったとも考えられないし、又、大和には後継ぎはいくらでもいたであろうから、男大迩をひっぱり出さなければならないという理由がない。それから考えられるのは、恐らくこの二十年間、大和周辺の豪族どもは、皇位継承をめぐって闘争に明けくれていたのではなかろうか、ということである。
 この夏、古田武彦さんのゼミナールに参加していよいよその感を強くした。次に、古田説を基本にしてその類推を記してみよう。
 武烈が死んだ時、男大迹の勢力は、軍事的にも経済的にも大和周辺の豪族より有力な背景を持っていたに違いない。彼の勢力範囲は越前、越中、越後、近江はいうに及ばず、北河内、山城、弟国を席巻していて、彼は大和周辺をぐるぐる廻り、皇位簒奪の機会を狙っていた。それから男大迹の系図は記紀共に大体同じだが、応神の名が出てくるのは誰もが知っての通り、応神(イザホワケ)と越前気比の宮のホムタワケとの名前交換に由来するのであろう。だが記紀共に系列は審らかでなく、上宮記逸文にしても先代は四人、天皇は十一代も変っているのだから、どれもあてにならない。
 さて、男大迩が大和朝廷の皇位を略奪したとする論拠はどこにあるかということだが、それは日本書紀における先帝武烈が何故あれまで悪虐非道に書きたてられているかということだ。大体、記紀は天皇家側の利益を考えて書かれた史書であるのに、ここまで天皇をけなす必要はないのである。津田左右吉さんも、これは八世紀の史官の中国史の猿真似だといったが、水野祐さんは、中国の史書の例をあげて、もう一歩進んで王朝交替の時は必ず先代が悪玉で、天命に依り仕方なくそれに代ったという正当化をし、下剋上をごまかしたといっている。継体にはそれにも増して正当化しなければならない理由があった。それはつまり、皇位継承で大和地方が争乱の最中だった隙を狙って、武力を以って皇位を纂奪したという、天人共に許せない風潮が八世紀の現在でも残り、書紀の編纂者の神経を悩ませた。それと、現天皇家、自らに関わる正当性には代えられず、武烈を悪天皇として口を極めて罵ったのである。
 次いで日本書紀にはこう書かれている。「是に於て磐井、火、豊、二国に掩い拠りて修職せしむるなし。外は海路を邀へて高麗、百済、新羅、任那等の国を誘致して聡船を貢せしむ。内は任那に遺わせし毛野臣の軍を遮る。」つまり磐井は、九州に本拠をおいて、大和朝廷に貢物を送って来ないどころか、朝鮮四国からの貢物をとっている。そして任那の我が軍を遮っているというのだ。然し、このくだりをよく読むと、磐井は別に叛乱という行動を起しているわけではない。磐井は大和政権よりは古く、別に王権を開いて既に久しいし、朝鮮の四国も磐井を日本列島の代表の王者として貢物を送って来ているのである(そして任那の大和朝廷軍なんて、はったりで嘘っぱちである)。だからこんなことで攻撃に移るということは、継体の侵略のいいがかりという外はない。
 ここで継体が侵略した前王朝、大和朝廷の淵源を日本書紀に問うと、神話以来、九州から来たということを非常に誇りとしている王朝である。崇神以前の天皇の名前をあげてみると、オオヤマトネコヒコフトニ(孝霊)オオヤマトネコヒコクニクル(孝元)ワカヤマトネコヒコオオヒヒ(開化)、ホムダワケ(応神)、イザホワケ(履仲)。これらのネコとかワケの解釈について、肩書きのある先生の説明はむつかしいが、古田さんによると本=本家、根子=分流、ワケは分家を指すという。これならわかりやすい。つまり大和朝廷とは九州王朝の分流なのである。だから、この日本書紀による「磐井の反乱」とは実は、いわば継体の前王朝の本家に対する、第二の侵略なのである。
 ではここで「磐井の反乱」と呼ぶのを正当化した、八世紀の史官が盗んだ説話を暴露することにしよう。
 現在も九州を観光すると、景行天皇九州大遠征の巨大な記念碑が、東岸部のどこか思い出せないが、立っているのを見ることが出来る。私たちは戦前において「この勇敢な天皇を心から畏敬するよう」教えられて来たのであるが、津田左右吉さんは、これは造作だと否定したし、戦後史学はこれを認めていない。ところが、この大討伐は九州の東岸部、南岸部が対象で、西岸部は凱旋ルートになっている。そして筑前部がまるっきりない。たとえ造作だとしても、これはおかしいと史学者は気着いたのである。近畿から来た征伐隊が、九州の西岸部を凱旋するとは理屈に合わないのである。又地名が余りにも具体的すぎるし、第一、古事記にはこの大遠征の記載がない。天皇家にとって有利にけずったり、つぎたしたりすることはあっても、けずって不利にすることはないという古田さんがうちたてた記紀の史実の原則によってもこれはおかしい。実はこれは東岸部、南岸部を征服して筑後の浮羽から博多へ凱旋する九州王朝の史書『日本旧記』(「失われた九州王朝」参照)からの剽窃である。悪いことは出来ないもので、その一節に書紀の編者は「前つ君」という名を臣下、或は百官と解釈してその侭に使用しているが、これは九州政権の王者の名前で、前原(マエバル)から採ったものである。(前掲書参照、以下同じ)それに加えて、仲哀天皇と神功皇后の筑後征伐も、この九州王朝の史書からかっぱらって盗用しているのである。そうしておくと、継体の時代には九州はとっくに大和政権の支配下にあったという布石になる。そして堂々と「磐井の反乱」と称したのである。
 それはとも角として継体の戦意すさまじく「自ら斧鉞をとりてアラカヒノ大連に授けて日く『長門以東は朕之を制せむ、筑紫以西は汝之を制せよ・・・ヒと、勢い余って馬脚を現わすというか、ほんとはこの言葉の通り、筑紫の支配は未だなっていなかったのだ。だから反乱ということは、ここでも成立しないのである。
 「旗鼓相望み、埃塵相接す。機を両陣の間に決し万死の地を避けず ーー」という如く、物凄い戦いであったのだが、十一月十一日に戦闘開始して、十二月には和睦している。それも磐井の息子、葛子が小さい糟屋の屯倉を献じた位で父を納めている。継体は一体、戦いをする気があったのか疑いたくなる。これはまあ書紀としては、磐井の背後勢力まで書けなかったのであろうが、筑紫の御井郡に交戦して一応、磐井は敗北したけれども、豊前、豊後、肥前、肥後の戦闘能力は無傷であったのである。継体は、この戦いの推移を見越して、これは手強いと、早手廻しに平和を受入れたのであろう。よく読めば継体の侵略構想は、頭でっかち尻すぼみであった。
 その証拠に、この戦いの六、七十年後に九州王朝の多利思北孤は、中国の天子に堂々と「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」と互角の外交をやってのけている。
 さて次にここで又、奇怪な日本書紀につき当るのであるが「継体二十五年・・・天皇いはれ玉穂宮に崩ず。時に年八十二。或本にいう『天皇廿八年歳次甲寅崩ず』而るをここに二十五年歳次辛亥に崩ずというは百済本記をとりて文を為す。其文にいう『太歳辛亥三月軍進みて安羅に至り乞屯城を営む。是の月に高麗其の王安(安蔵王)を試す。又聞く《日本の天皇及皇子、皇子倶に崩薨す》と』と。此に申って言へば辛亥の歳は二十五年に当る。後に勘校へむ者、之を知らむ」。
 でこれによると、或本(日本)には継体天皇は廿八年歳次甲寅崩ずとあるが、百済本記には二十五年辛亥に崩ずとあるのでこれを採用した。どちらが正しいか後の者が考えてほしい、というのである。
 全く奇々怪々な話である。自国の史書をとらず、外国の史書を重んじて、それを正史に採用するとはどうもおかしい。文章のあやからいうと、百済本記を採用したのはやむを得ない理由がありながら、それをいえずに、まるで逃げ腰のようだ。
 継体の死亡を二十五年辛亥にしたものだから、安閑の即位まで三年の空位が出来るし「日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨す」の歴史事実が近畿天皇家にはないので、明治時代から現代に至るまで古代史学者は頭をひねくり返したが、さっぱり見当がつかない。然し唯一人、古田さんが私たちを、成程と納得させてくれた。古田さんは、仮説として或本(日本)の如く三年ずり下げると、二十八年に継体が死亡したことになり、歴史事項もそれにともなってずり下るのだから、磐井の死が二十二年から二十五年になって、百済本記の日本天皇の記事が磐井の死と合致する。すると歴史事実はどうなるか、継体には太子皇子倶にみまかったという史実はないが、磐井は御井郡の戦いに破れて死ぬわけで、彼一人ではなく、戦いで倶に死んだ子供もいたことだろうから、可能性は継体よりも磐井の方に当然あるわけだ。この三年ずり下げるというのは、古田さんの独創ではなく、書紀の編者が、継体死亡説に二十八年と二十五年の二説があり、どちらが正しいか後の者がよく考えてくれ、ということによる仮説なのである。
 この古田さんの仮説に反論を投げた人がいる。鬼頭清明さん(「日本民族の形成と国際的契機」98〜99頁、『大系日本国家の古代』東京大学出版会、一九七五年九月)である。
 「分注には又聞、日本天皇及太子皇子倶崩薨とあって、古田説はこれを磐井の反乱伝承という。二つの別系の伝来史料に基く書紀の記述を同一視するためには、両者に具体的共通性がなくてはならない。古田説は、継体二十五年条にみる継体天皇の崩年についての三年のずれを「順次くり上げる」ことによって継体崩御を二十五年にすれば、それは磐井の反乱の二十二年と同一年のことだとして、それを同一視する論拠にしている。しかし「順次くり上げ」説は書紀の記載には記述のない年があってはならないということが前提であるけれども、その点の証明は不十分である。このように無理な磐井=北九州王朝説を提起することよりも、磐井のもっている権力構造の問題と大和政権との関係を明らかにすることに目をむけなければならない。(Aー、Bー、Cー、著者 インタネットでは赤色、かつ再度引用)
 この批判に就いては、不可解な点があるように私は思う。つまり、A(両者に具体的共通性がなくてはならない)ーの点だが、両者両者の具体的共通性とはとういうことか、継体には子供と死を共にした歴史的事実はないが、磐井にはその可能性はあるということ。次のB(書紀の記載には記述のない年があってはならないということが前提であるけれども、その点の証明は不十分である)ーの点に就いては意味がわからない。次のC(磐井のもっている権力構造の問題と大和政権との関係を明らかにすることに目をむけなければならない)ーの点に就いても意味はわからないが、権力構造の問題という処から、鬼頭さんは「天皇」というからには大和政権しかない、というイデオロギーの立場に立っているのではないか。
 ここでいう日本天皇とは、百済側から見た日本の代表者ということであって、それは磐井か継体か、誰かということが大切なことである。日本書紀にも書いているように「高麗、百済、新羅、任那等の国を誘致して、聡船を貢せしむ」とあるのだから、朝鮮四国が日本の代表者を磐井と認めているのである。だから、この日本天皇とは磐井のことである。
 唯、ここで私のいいたい事は、鬼頭さんが「磐井のもっていた権力構造の問題に目を向けよ」というが、近畿天皇家側の史官がこの九州王朝の権力構造を抹殺してしまっているのだから、これは無理な話である。私は昨年、定説論者に手紙で論争したことがあったが、その人は、「では九州王朝が存在したというなら、各歴代の天皇名をあげてみよ」というので、それは不明だというと、その人は勝ち誇ったように喜んでいたが、近畿天皇家一元論者の中には、たあいない単細胞がいるものだと思った。
 ここで九州王朝の存在が重大な問題になって来たので、その論証をしてみよう。
 中国南朝の時代に南斉書があった事を誰もが知っていることだろう。その史書に「倭王武の国は三国志に書かれている卑弥呼、一与のあとを継いだ国である事」が記されている。処が日本の現代では、邪馬台国は九州か近畿か何れかであるが、倭の五王に限っては近畿だということに定説はなっている。
 然し古田さんは最近、九州王朝の存在として「衙頭(ガトウ)の論証」を発表された。筑前国風土記に「上妻の県、県の南三里に筑紫の君磐井の墓墳あり。・・・号して衙頭と日う。衙頭は政所なり、其の中に一つの石人あり、従容に地に立てり。号して解部(トキベ)と日う」とあるが、衙は大将軍の本営を意味し、解部とは司法の官職名である。他に何部、何部とあったのであろう。このうち衙頭は、中国名の官職名であり、近畿天皇家にはない官職名である。又、九州には太宰府という地名があるが、これは普通、天智天皇の由来とされているが、素性は史書にはない。もとは倭王武の自称である開府儀同三司にあって、臣下としては最高位がこの開府儀同三司のうち太宰であり、府を開く権限が出来る。この府の下の役所を周船寺(しゅせんじ)という。これは現在、糸島郡にある、お寺ではなく役所名である。まあこれによって五、六世紀の日本列島には二つの権力者がいて、筑紫の君は漢語の官庁名、役職名を用い、近畿天皇家は海部、山部、連、蔵官(くらのつかさ)、刑部(おさかべ)等の和名称号を用いていたことがわかる。これによって倭の五王は漢語で自称し、漢語の授称を重んじていた大王だから、九州か近畿か何れに属するかは判然とするであろう。(詳しくは本書14ぺージ参照)。
 そしてまた、古田さんは昨年、「日本書紀の史料批判」を発表された。それによると遣隋使の記載は日本書紀になく、相手は全部唐であることが判明した。従って隋書のイ妥国の多利思北孤は、戦前戦後を通じて聖徳太子だと定説になっているが、これは九州王朝の大王であり、重大な誤りであることが、はっきりしたわけである。そして学界は反問することも出来ず、立往生するぶざまさである。
 又、古田さんはこの春、中国にゆかれ、北京大学の教授、潘金生さんと対談された。この先生は古事記、日本書紀等の日本史に通じた方で、日本古代史界の事情をよく知っておられて、日本の学者の中国史に於ける解釈が相違するので、いつか日本の学者に反問しようと待ち受けられていた方であった。二人は一時間半程の会談で意気投合し、古田さんの歴史学の方法を「それこそ唯物的です。唯物主義の立場です」とこの国では最高の賛辞を惜しまれなかったということだ。その対話の一例を挙げると、やはり「日出づる処の天子」の句が出、多利思北孤は男王であって、推古女帝ではないことを述べられたそうだ。そして旧唐書に於て七世紀の日本列島には「倭国」と「日本国」の二つの国が書かれていること、日本国は西南が海、東北が大山で、その先を知らずとあり、この国は本州の西半分である。一方の倭国の方は潘さんと古田さんは同時に「九州です」と声を上げたという。古田さんが紙に九州王朝と書くと、潘さんはそれを見つめ深くうなづかれたということである。(本書21ページ参照)。
 他に九州王朝の存在を立証するに足る九州年号がある。海東諸国記、或は襲国偽潜考に「けだし善記より大長(継体一六〜文武二)およそ一百七十七年。其間、年号連綿たり」とある。何故、現代ではこの年号に就いての研究がなされないかというと、明治以降の天皇制にとっては日本書紀にしめされた天皇家の年号は国家教育の根幹をなし、いわば歴史知識の大枠をなしていたからだ、と古田さんはいうが、天皇制のタブーがなくなった現代、九州年号の研究をする学者が出現してもいいと私は考える。
 終りにのぞんで「日本天皇及び太子呈子、倶に崩箆す」の天皇を磐井でなく『継体』と書紀編者があてはめた理由を私は推論しよう。
 日本書紀が完成したのは継体期から約二百年後のことである。それでも尚、継体が侵略し、武烈の皇統が断絶したという歴史事実が、部では語りつがれる中で、継体の皇統の正当性を武烈の悪虐によって塗布したが、尚、磐井を日本天皇とする百済本記の記述をどう処理すべきか編者たちは迷っていた。この八世紀の史官達にとって、九州王朝の滅亡は未だ五十年とたたず、支配層には記憶に新しいのである。その国は外国と貿易し、貢物をとっていたことも知られていた。いわば後進国というコンプレックスも近畿側にはあったであろう。二百年以前、その国と戦ったことはあったが滅ぼすまでには至らなかった。然し白村江の戦いではその政権は先頭に立って唐、新羅の連合軍と戦い自滅していった。そして古来から国際的に表面に立った九州王朝は、外国の史書に倭国と称され、主権は日本の天皇とまで書かれていた。ところが近畿天皇家が今では日本列島を代表する唯一の国であり、プライドに於てもそのことを認めることは出来ない。どうしてもこの九州王朝の歴史は抹殺しなければならない。継体の死亡年を三年ずり上げても、安閑の即位が一二年空位になっても、磐井=日本天皇の記憶は一掃しなければならない。そうすれば識者の一部は史実に疑惑をいだこうが、将来のためには仕方がないと、史官達の意見は一致した。それが日本書紀にいう『後にかんがえん者之を知らむ』である。


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