『古代に真実を求めて』
(明石書店)第十一集
古田武彦講演 寛政原本と学問の方法 二〇〇七年一月二十日 場所:大阪市立青年センター
一 第一の寛政原本 二 第二の寛政原本 三 寛政原本のA・B・C 四 鴫原文書の性格
五 親鸞、佐渡から越後へ 六 遠流・近流 七 囚人船の一員 八 和讃の真意 九 親鸞の根本 十 「伝承」の威力
質問と回答一 継体&天皇名 漢音と呉音について 質問と回答二 神籠石山城
和田家文書(和田家史料)を公開(多元的古代研究会ホームページへ)
東日流[内・外]三郡誌ついに出現、幻の寛政原本! 株式会社オンブック古田武彦/武田侑子 編
古田武彦
水野代表 水野でございます。古田先生は八十歳を迎えられ、昨年末には念願の青森の和田家文書の寛政原本がつぎつぎ出ました。今までの明治写本とは違うわけですが、本日は寛政原本を中心にお話になると思われます。
和田家文書の問題は、元あった市民の古代研究会が分裂し、古田先生を支持し続けるほうが古田史学の会として残ったという因縁の文書でもあるわけです。
本日の時間的な予定ですが、三時まで講演をいただき十五分間の休憩。それから一時間、後半の講演をお願いしています。十六時十五分から四十五分まで質疑の時間を予定しております。
この会場は五時には整理整頓して引き渡さなければならないので、よろしくお願いいたします。
古田でございます。京都を出る時朝は曇っていて、どうかなと思っていたのですが晴れて幸せいっぱいです。わたしも最近は幸せいっぱいで、へんな言い方ですが盆と正月とクリスマスがいっしょに来たような、そのような感じをもっております。
要するに念願の寛政原本の出現という幸運と、さらにこんどは親鸞につきましても思いがけない、わたしは今まで三冊の親鸞研究の本を出しておりますが、それも越えうる、それも本願寺の定説的な考え、今までの考えがひっくり返るような発見、そういう大発見に遭遇したわけです。
さらに今年2月には南米ペルーに行く。古田史学の会の大下さんというスペイン語に熟達した翻訳研究者にお願いして同行していただく。
今日は阪急できましたが、京都向日町から出てきて急行に乗り、高槻駅で乗り換えて特急に乗った。その間に急行で考えていたテーマが、特急に乗り換えて考えているうちに思いがけない結論に達した。こんなことがあっていいのだろかと。
このようなことがおこるのも皆様がたの物心両面のご支援のおかげであると喜んでおります。新潟の直江津に行かせていただいたのも新東方史学会のお金を使わせていただきました。このような支えがなかったら、とてもとても行けません。南米ペルーへも同じです。
それと「原田みすず教育基金」。これは山口県のかたでご年輩のかたがすが、おびただしい寄付をしたいと言ってこられた。わたしは貧乏性なものだからビビって遠慮しましたが、最終的にぜひとも言ってこられたので記念して「原田みすず教育基金」として、わたしの後継者のために使わせていただこう、そのようにしました。あと若干のかたにも、ご寄付をいただいております。
もう一つプランがありまして、今年1月ロシアのウラジオスットクの極東大学の考古学教授から申し入れがあり、学生を日本に派遣して勉強させたい。よろしくお願いしたいと連絡がありました。
黒曜石の問題に関しては、望月さんというかたがウラジオスットクに行かれて黒曜石を採集された。望月さんが分析されたデータが『なかった -- 真実の歴史学』第二号(ミネルヴァ書房 二〇〇六)に掲載されています。
それだけではなくてウラジオスットクの極東大学の教授なり学生が、ウラジオスットクで研究するという段階に入って欲しい。二十代後半の優秀な学生ですが、ひじょうに純情で熱心な青年です。その人にぜひ日本に来てもらいたい。もしロシアの青年が来ていただければ皆様の前でしゃべっていただくこともできる。ロシア語の通訳も優秀なかたが居られますから。
ですから特に「原田みすず教育基金」にお願いしたい。わたしのためではなくて後継者のために使わせていただきたい。
第一(十一月十日)
「寛政五年七月、東日流外三郡誌 二百十巻 飯積邑和田長三郎」
第二(十一月中旬)
「東日流内三郡誌 安倍小太郎康季、秋田孝季編」
第三(同 右)
「付書第六百七十三巻、寛政二年五月集稿、陸州於名取、東日流内三郡誌、秋田孝季、和田長三郎吉次」
第四(同 右)
「建保元年七月安東七(「十」か)郎貞季殿之軍諜図、東日流外三郡大図、文政五年六月、和田長三郎源吉次(花押)(カラー版)」
昨年の十一月十日東京にいたとき文書(もんじょ)がどっさりと届けられました。と言いますのは東京八王子にあります大学セミナーハウスで『筑紫時代』という講演をしました。これは館長の荻上さんの発案で、首都のあるところを時代の区分として用いている。奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代。だとすれば七〇一年以前は、太宰府に首都があった。ならば七〇一年以前は「筑紫時代」、数学者としては、たいへん大胆な、しかしたいへん論理的に筋の通った考えかたです。
その大学セミナーが開かれる十一月十一・十二日の前日、前日の一〇日の金曜日、青森県弘前市におられる竹田侑子さんというかたから文書がどっさり届けられました。直接ではなく東京におられる息子さんのところに送ってこられ、息子さんから大学セミナーのわたしの講師室のところまで持ってこられた。
このかたはお兄さんが藤本光幸さん。『なかった』創刊号のところに藤本光幸さんの追悼記事が載せられていますからご存知のかたが多いと思いますが。このかたは『東日流外三郡誌』一筋と言っていいほど追求してこられた。本業はリンゴジュースの加工会社の社長さんですが、それ以上に『東日流外三郡誌』に熱中しておられたようにお見受けしています。周りのかたもそのように言っておられた。ですから『東日流外三郡誌』所蔵者の和田喜八郎さんとも親しいお付き合いをしておられたかたです。わたしを和田喜八郎に紹介して下さったのも藤本光幸さんです。その藤本光幸さんが一昨年秋亡くなられた。それで藤本光幸さんが持っておられたすべての『和田家文書』関連の史料を妹の竹田侑子さんが引き継がれた。竹田侑子さんは、弘前市にお住まいで旦那さんが弁護士であり、ご本人もボランティア活動の会長として各所を飛び回っておられるたいへんお忙しいかたです。藤本さんが居られるときから、絶えず兄に協力しておられたかたです。藤本さんの奥さんや息子さんが『和田家文書』にそれほど興味を持たれないので、「竹田さんにまかせます」という気持ちの良いご返事があり自然に引き継ぐかたちになり、竹田さんが引き取られた。その中から送ってこられた。女性の年齢はわたしは分かりませんが、おそらく六十歳代中ごろ、兄の藤本光幸さんとは十幾歳か離れていましたので、それぐらいと推察しています。
言うならば寛政原本が出ましたのは、あのうす汚い偽書攻撃、そのおかげであると本当に感謝しております。青森県にも郷土史の雑誌がありますが、その中での攻撃。わたし古田に対する攻撃はもちろんありますが、それに加えて竹田侑子さんに対する誹謗中傷の攻撃。それに竹田侑子さんはとんでもないと、こう思われた。それに加えて『季刊邪馬台国』に掲載されたわたしに対する攻撃。『東日流外三郡誌』に対する、これは批判ではありませんね、うす汚い悪口が載った。それを息子さんから本などを送られ侑子さんが見られて「なんということを言うのか」と憤られた。それでわたしに皆さんに公開して、見せてもらえないかと依頼がありました。『東日流外三郡誌』を「秘密にして公開しないのが、偽物である証拠」などと書かれてあるので、発奮して公開を決意されて、送ってこられた。相談された数日後に大学セミナーで講演を行うことが決まっていたので、そこで大学セミナーで皆さんに紹介しましょうと言いまして、東京の息子さんに送ってもらって、わたしに渡された。
それらの文書のほとんどは、わたしが知っている和田家文書です。この文書は和田喜八郎さんの息子さんの孝さんから藤本光幸さんにあずけられた。ですからほとんどの文書は、(明治写本として)わたしのよく知っている文書だった。
ところがその中に一つ、わたしのまったく知らない文書があった。
「寛政五年七月、東日流外三郡誌二百十巻、飯積邑和田長三朗」とあります。最後は「朗」でしょうね。よく見えませんが。表紙には見えませんが、もしこの下に名前が有ったとしたら「吉次」。「長三郎」という名前は代々引き継ぐものですか。「寛政」という時代なら「吉次」。ご覧になれば、お分かりのように、ぼろぼろで今にも壊れそうです。
内容はお寺の詩や漢文。禅宗系である寺院関係の文書八割が文章で詩や漢文。残り二割が美しいひらがなの詩など。何種類かのいくつもの筆跡で書かれています。いちばん最後に書かれた方がいちばん字が下手です。字が下手なだけでなく、詩も創りかけで間違えている。字などはたとえば何回も「鼎」という字を書き損じて、困っているところがあります。これなどは将に貴重なことです。それまでの字は、非常に美しい字です。そして本文とは同一ではないのです。最後にこれらを綴じて、『東日流外三郡誌二百十巻』となっています。
つまりこの『東日流外三郡誌』は、皆さんがよくご存知のものだけでなくて、あらゆる文書類を総称してまとめるという壮大な百科事典なのです。フランスにも百科事典派があった。日本でも同時代に塙保己一(はなわほきいち)の『群書類従』という本があります。この本は題が示しますように本を集めてある。ですが秋田孝季、和田吉次が行ったことは、本の前の段階の文書(もんじょ)や言語の元の伝承を集めています。秋田孝季がアイヌの長老からの聞き書きをしています。全文何ページをもカタカナばかりが続くページがある。貴重ですよ。寛政年間の中期の終りぐらいのアイヌの長老の聞き書きです。ですから本来は貴重な史料として民俗学者が真っ先に飛び付かなければならない史料なのです。それが偽書攻撃のおかげで、先ほどのことはプラスのおかげですが、今度はマイナスのおかげです。今の日本人研究者はだらしないですから、勇気がないですから誰も研究しようとしない。アイヌの研究で『東日流外三郡誌』を研究しようとする民俗学者は誰一人いない。もったいない話です。今回「寛政原本」が出てきて、ぬれぎぬが晴れますと大事な史料になる。言語も寛政の頃の土俗的な単語、秋田孝季は単語表を作っています。たとえば「「モッポ」というのは山の神で、「山からモッコがくる。」を「山から蒙古が来る。」と秋田孝季の妹りくが書いているというか、そういう解釈をしていますが。これは間違いで、山の神のことを「モッポ」という。そういうことは単語帳を見ればわかります。偽書説にビビって『東日流外三郡誌』を言語学者は誰一人使っていない。
とにかく秋田孝季は書物より下のレベルの文書・伝承・言葉をすべて記録するという、記録のマニアというか天才というか、『東日流外三郡誌』はそういう形でできている。今の場合は、お寺の記録をそのままもらってきて、それに表紙を付けて「東日流外三郡誌二百十巻」にしています。それでわたしは、これはわたしが求めていた『東日流外三郡誌』の寛政原本である。そのように確信しました。
そこで十一日翌日、早速大学セミナーの皆さんにお見せしました。東日流外三郡誌に関心のある方が多くたいへん興奮されて見ていましたが、もちろんわたしも興奮していましたことを覚えております。たいへん喜ばれました。
それで翌日竹田侑子さんに電話しまして、「すごいものが入っていました。あれは寛政原本です。」ともうしあげた。そうしますと、大学セミナーが終って京都へ帰った後、竹田侑子さんから、また荷物がどっさり送られて来ました。その中にお見せした寛政原本と同じ棚にあったものを送って来られた。先ほどお見せした寛政原本は、和田孝さんから預けられたもの(明治写本)とは別個の高い棚にあったものですと言われました。侑子さんの心覚えでは、生まれ育った藤崎の実家の、奥まった廊下の高い位置に、私が寛政原本と言っているものがありました。そこにあった物と同じ場所にあったのが、「これです」と送ってこられました。また、その中にあった。そうすると、これも寛政原本であり、また江戸時代の写本でした。
その寛政原本と言ってよいのは、
「東日流内三郡誌、安倍小太郎康季、秋田孝季編」
これもボロボロでしょう。開けるのが怖いぐらいだ。これは先ほどの記録とは違っています。先ほどはお寺の記録に表紙を付けても収録したものですが。この「安倍小太郎康季」の文書は、安倍・安東氏の最後のというべきか、津軽における勢力を持った最後の人物と言える。南部軍といった大浦為信に攻められて破れ、津軽から最初は北海道に逃げてひっくり返して戻って秋田県に第二の居住地を定めた。その安倍氏は平安時代八幡太郎義家と戦って敗れて、兄の安倍宗任は、捕らえられて京都に送られて首を切られさらし首にされた。弟の貞任は、福岡県の宗像郡の大島に流される。その子孫が山口県に移って今の総理大臣(安倍晋三)になった。そういういきさつの中で、安倍宗任の息子の忘れ形見が、東北津軽に逃れて安東氏を名のる。十三湊を中心に安東水軍を建設して日本海を中心に活躍した。その安東水軍の最後が、ここに書かれている「安倍小太郎康季」です。簡単に言えばそうなります。
その「安倍小太郎康季」について、秋田孝季が史料を集めている。この史料は短いけれども秋田孝季には大切なものです。安倍康季についての簡単な伝記、(大浦為信との)合戦の様子、戦いに敗れて津軽を去るときの情景、また簡単な地図が書いてあります。最後に歌があります。
「逝く月日」とは往って帰らない月日のことです。去年まではあった影は、今年はまったくない。土三(とさ)のさざ波が朽ち舟を撃っているだけである。「朽ちた舟」を安東水軍に喩(たと)えている。安倍氏の勢力にたとえている。これは歴史を謡った秀逸の詩です。それを最後に入れている。だから孝季編なのです。
わたしは最初、これが「寛政原本」であることは、ボロボロな様相から見ても疑わなかったし、内容的にも普通の『東日流外三郡誌』によくある内容ですので間違いないと考えた。
そこから先、わたしは錯覚しました。この文章は書き手が下手であると考えた。なぜだともうしますと、たとえばこの「安倍」の「安」の字は、宀の点と横棒と「女」の横棒のバランスが全然狂っています。宀の横棒が、右上に上がっていますが、「女」の横棒は右下に下がっています。字全体のバランスがアンバランス。だから字全体が下手だと思い、これは最初吉次の周辺の誰かが写したと考えました。
さてここで『東日流外三郡誌』のいきさつ・輪郭に付いて論じなければ、これからのお話がわからないと思います。なぜ『東日流外三郡誌』が出来たか。秋田孝季という人物は、長崎で生れた。ロシア語の通訳をしていた時期があるようです。おそらく親父さんが通訳だったようです。その父が若くして亡くなった。母親は孝季を連れて秋田県秋田市にある実家に帰っていた。秋田は、三春藩が元あったところですから、たいへん関係が深い。その母親が、三春藩の藩主の奥さんが亡くなった後、後添えに迎えられた。この三春藩が、安倍・安東・秋田の系列なのです。江戸時代直前に安倍水軍が秋田に来て、秋田水軍になった。それが江戸時代になって海のない内陸に押し込まれて、太平洋と福島市の間の小さな盆地に徳川幕府の作戦で移封された。ところがその三春藩が財政がひっ迫した。最近の県や市がお金がなくてだいぶ困っていますが、それと同じように各藩が江戸幕府からお金を借りていた。三春藩も借金を払うのに困りまして、それで藩主である秋田千季(のりすえ)が、孝季を呼んだ。
なぜ孝季を呼んだのかは、先ほどの話とつなげますが、後添えに母親がなった。わたしが意地悪く考えて最初お妾さんだったのではないかと想像しましたが、それは想像にしかすぎませんが、とにかく結果的に藩主の後添えに入った。そのとき秋田孝季を連れてきた。藩主の千季(のりすえ)は、孝季にとって義理の父親になります。藩主の千季(のりすえ)は、孝季をたいへん可愛がっていたようです。藩主は孝季を呼んで、わが藩は財政がたいへんひっ迫している。ついては三春藩は、先祖は安倍・安東である時代に津軽に埋蔵金を隠してある場所の地図がある。それを渡すから捜してきて欲しい。そういう依頼を受けた。孝季はわかりましたと現地の青森県津軽に行きました。もちろんお忍びです。公然と津軽藩の領地で安倍氏の財宝を捜すことは出来ません。それで和田喜八郎さんのいた五所川原(市)へ行きました。この時居たのが和田長三郎吉次、庄屋の息子と意気投合した。たぶん息子のほうが秋田孝季の人格に引かれたのだと思いますが協力を得た。妹のりくの父親のことはわかりませんが、年がたぶん孝季と三十ぐらい離れているので、たぶん父親が違うか養女としてもらったか。そういうところであると思います。やがて妹のりくは吉次の奥さんになります。
石塔山には四方八方に通じている無数の洞窟があり、外から来た人間には、直ぐにはわからない。やはり吉次という土地の人間がいなければ埋蔵金を捜すことは難しいのですが、無事見事に見つけました。それらのいきさつを語った手紙も『東日流外三郡誌』に入っています。そして埋蔵金を藩主である千季に届けた。それで江戸幕府への借金を支払っても、三分の一か五分の一か知りませんが、なおお釣りがきた。千季は孝季を呼んで、おまえの手柄で残った金だ。残った金をおまえにやるから、これを使って三春藩(安倍・安東氏)の歴史を構築して欲しい。というのは三春藩にも蔵書はあったのですが、火事で全部焼けてしまった。だから歴史をたどることが出来ない。もう一回現地を訪ねて、歴史を再構築して欲しいと依頼した。秋田孝季は承知しましたと言って津軽へ行くことを引き受けた。
孝季は吉次や妻となった妹のりくの三者の協力で、各地のお寺や神社や旧家を回り残っている文書類を書き写し始める。それが『東日流外三郡誌』である。寛政二年ぐらいから始めたようです。ところが最悪がまだありまして、ほぼ完成したというときに火事にあう。秋田孝季がいた秋田の日和山という場所。わからないという話でしたが場所もわたしは行って確かめました。ぐうぜん最初に尋ねた神社が「わたしのところが土崎です。」と、言われました。そこに秋田孝季がいたのですが、火事というのは怖いですね。とうぜん秋田孝季が書いた厖大な『東日流外三郡誌』は全部焼けてしまった。明治写本ですが、その時の様子が書かれた手紙が残っている。それによると、わたしは吉次が『東日流外三郡誌』を写したいと行ってきたときは、つまり副本を作りたいと言ってきたときは、その必要はないと言って断った。ところが作っておいてもらって良かった。あまり熱心に言うので許したが、許して作っておいてもらって本当に良かった。わたしの作ったものがなくなった以上、もう副本しか残っていない。写していなかったら、ぜんぶ無くなるところだった。同時にわたしは秋田の日和山におれないので、五所川原に移り住みたい。石塔山の神社の片隅の端っこにでもおらせてもらいたいとの手紙を送っています。石塔山は不便なところですから吉次の住んでいる飯詰の近くの大光院というお寺の離れを借りて住んで貰うことにした。そこへはりくが煮炊きしたものを運ぶことも可能だったでしょうね。
そのときに書いた文章がありあまして『新・古代学』創刊号で紹介しています。孝季は妹夫婦が中睦まじいことを喜んでいます。「りくは、自分(孝季)のことを冗談まじりに父上と呼ぶことがあり、吉次も、私のことを父上と呼んでくれたと。二人の仲睦まじい姿は実に嬉しい」と(孝季は)書いています。同時に、孝季が書いているのは、焼けた『東日流外三郡誌』を写し直しすることに自分の余生を使いたいと書いている。
最初に秋田孝季が書き、焼けてしまった寛政原本をA、吉次が作った原本控をBとすると、ところがAは焼けちゃった。火事でもうない。明治時代に末吉が写したのは寛政原本Bを元に写した。わたしが寛政原本、寛政原本と言っているのはBを指す。このように考えていました。
ところが今回よく考えてみると、その表現ではたりなかった。なぜなら孝季が書いていますように、余生に『東日流外三郡誌』を書き写す仕事をしたいとある。一〇〇パーセット写し直したのではないだろうが、キーポイントのところを写し直すとある。それを自分の余生にしたいと言いましたが、その余生は三十年近くあった。余生と言うから五・六年だと思ったが、三十年近く余生があった。そのとき彼はひたすら『東日流外三郡誌』を書き写し続けた。
そのような視点で見ると、この本は、「秋田孝季編」抄訳とある。ぜんぶ写したのではなく要点を写した。文章を要点のみ写し、合戦の図を書き、そして自分の詩を添える。小さな自分写しの抄訳である。そうしますと寛政原本Cという概念が必要です。この寛政原本Cは秋田孝季が五所川原に来て、写し直したものである。筆跡は秋田孝季である。ということは、おそまきながら寛政原本Cという概念が必要だということが現実に起きてきた。
「東日流内三郡誌、安倍小太郎康季、秋田孝季編」について、始めはこのように考えていた。寛政原本Cという概念がなかったものだから。これは字が下手だから吉次の周りの誰か、定義として変な言葉ですが吉次一党の筆跡であると考えました。字が書けて信頼できる相手。内容とぼろぼろになっているところから見て寛政原本である。吉次党の誰かの筆跡だろう。このように考えていました。
年末の十二月二十四日関心のある方に、東京でガーデンパレスの一室を借りて見ていただいた。ところが、当日安藤哲郎さんが来れないということでした。安藤さんのようにいろいろとお世話になり、かつ関心が深いかたが見れないのは気の毒だ。それで時間を調整して前々日金曜日二十二日に午後時間が空きましたので来て見ていただいた。
ところが当日、安藤さんが精巧なレンズを持って来て観察していただいた。定年になり、映写用のレンズをもらったものです。そのレンズで覗いて見てみますと、わたしは驚いた。「安倍小太郎康季」の字が下手な字だと思ったのは、わたしの目が下手だった。素晴らしい筆跡だった。筆跡の筆の入れ具合が、見事な筆法に従っていて、筆の運びが、しっかりした筆捌きになっているのです。
ではなぜ素晴らしい筆跡を、下手だと錯覚したのか。しかも「安」という字が壊れていてアンバランスです。でも、いちいち意識はしないが字を書くのは、手で書きますが目でも書きます。ところが年を取ると目が衰える。年寄のわたしが言うのだから間違いありません。(眼鏡が一般的でなかった当時、)目が悪くなると、目の遠近間隔が失われて、書くときにバランスが崩れています。ところが筆運びは手が覚えている習い覚えた筆運び。だから精密なレンズで見ると見事な筆運び。力の入れ方、抜きかた、筆勢は見事なものです。
最初紹介しました「寛政五年七月、東日流外三郡誌二百十巻、飯積邑和田長三郎吉次」の比ではない。私は字は下手ですが、見るほうは昔から多くの筆跡を見ていますから判ります。これには驚いた。そのことは簡単なレンズでも、書道や筆跡に関心のある方は確認できますのでご覧ください。筆勢、筆の勢いが違います。
そこからわたしは、今いちど考えかたが、押し戻された。最初に言いましたように、この「東日流内三郡誌、安倍小太郎康季」は、字が書けて信頼できる相手。内容とぼろぼろになっているところから見て寛政原本である。吉次党の誰かの筆跡だろうと考えた。
ところが、これだけ見事な筆跡の人がいて黒子で名前を出さないのはおかしい。言葉で言えるけれども、これはおかしい。子供さんや奥さんならわかるけれども。(編者である秋田孝季)本人よりずっと見事な字を書きながら、黒子で名前を出さない。そういうことは口で言えるけれども、実際はあり得ない。それでは一体なんだ。これはやはり編者と書いてある秋田孝季本人の字。それでこれは寛政原本Cに当たるという考えにたどり着いた。遅まきながら気がついた。
ですから昨年十二月初め関西で古田史学の会有志にわたしの家の近くの物集女(もずめ)公民館にお集まりいただき見ていただいたときはそのような考えはなかったので吉次一党の誰かであるという説明を行いました。そのあと二十二日東京で、安藤さんのおかげで初めてそのことを知った。
それで「東日流内三郡誌、安倍小太郎康季、秋田孝季編」という書物は、秋田孝季編ということに意義がある。ただ写したのではない。元あったものの抄訳。要点を写したものです。だから「編」というのは正確な表現である。
ですから吉次の筆跡である「寛政五年七月、東日流外三郡誌二百十巻、飯積邑和田長三郎吉次」という寛政原本B、孝季の筆跡である「東日流内三郡誌、安倍小太郎康季、秋田孝季編」という寛政原本C、この二編を得ることができた。
この寛政原本の中身がよく解らないと言われるかたのために一言つけ加えます。今年の五月に寛政原本特集として『なかった』第三号が出ます。口絵に、この「東日流内三郡誌、安倍小太郎康季、秋田孝季編」の表紙と見本の一部の写真を掲載します。ただ雑誌ですから全部ではありませんので、全容を知りたいという人のために、コロタイプ版で全部出ます。初めは簡単なインターネットで注文しオン・デマンド本として、注文がそろえば一〇冊なり印刷してお渡しする計画でしたが、たいへん内容がすばらしいのでコロタイプ版として印刷します。そんなに高くならないで一般の書店に並べられる形で出しますと出版社が言っていただいた。少しお待ちいただければ手に入ると思います。
一、表紙
付書第六百七十三巻 寛政二年五月集稿
陸州於名取、津軽内三郡誌
秋田孝季、和田長三郎吉次
一、注言戒遺之事
<前掲>
一、鴫原一族之事
鴫原氏一族系図
寛政二年五月一日於当家
秋田孝季 写記
一、鴫原家之阿部一族暦
寛政五年十一月二日於当家
秋田孝季 謹写
一、大祥記
祀 神佛尊
寛政五年十二月
孝季
一、神岐覇瀬一族考
寛政五年六月吉日
鴫原甚三郎
(和田長三郎吉次殿)
一、鴫原家之歴抄
寛政五年十二月
和田長三郎吉次調
(但し、電子コピー版)
右の寛政原本B及び寛政原本Cと並んでコピーが添えられていた。コピーであるから、「紙質などはうかがえないが、その「元本」がやはり虫食いと染(し)みに冒されている姿がうかがえる。表紙が「津軽内三郡誌」とありまして、わたしが言うまでもなく字が下手です。それから全部コピーしたかったのですが、内容がわかる形でコピーし説明します。表紙の次に手紙の内容が続きます。
(内容案内 一部)
一、表紙
付書第六百七十三巻 寛政二年五月集稿
陸州於名取、津軽内三郡誌
秋田孝季、和田長三郎吉次
・・・・・・
(手紙の内容)
・・・・・・
寛政五年六月吉日
伊具羽出庭之住人
鴫原智右衛門拝
秋田孝季 御坐右
寛政五年十二月吉日
秋田孝季記
手紙の書状があって最後に「鴫原智右衛門拝、秋田孝季 御坐右」と書いてあり、「御貴下」のような感じで秋田孝季様の御元にという、近世の慣用語なのです。つまり鴫原智右衛門が寛政五年六月に、秋田孝季に送った手紙なのです。後の筆跡は変わっていますが、最後に秋田孝季本人が、半年後の寛政五年十二月に、このような書状を受け取ったと書いて収録しました。このようなスタイルで、
一、鴫原一族之事、
一、鴫原家之阿部一族暦、
一、大祥記、
一、神岐覇瀬一族考、
一、鴫原家之歴抄
と続いている。このように孝季・吉次に来た手紙に「孝季 記」と編集したことを記録している。最後は、吉次が鴫原家の系図や文書を調べて記録したものです。だから「和田長三郎吉次調」で終っている。
要するに、吉次が鴫原家を訪ねて書状なり系図なりを収録した。それに対して質問の書状を出して、返事の書状をもらった。そういうものを収録したものです。そういうものが初めて出てきて、もう驚きましたね。しかもその中に、注目する一節がありました。
奥州亘理郡
三春藩主の謀事(はかりごと)にて寛政五年十月六日飛脚
鴫原竹義なる口伝書の書状に記述する書(ふみ)に記(しる)す。
弟孝季に呈する也。
寛政五年十二月二日 秋田孝季 謹写。
わたしはこれに飛び上がったのです。何かというと、これはおかしいでしょう。秋田孝季が謹んで写している文章に「弟孝季」という言葉が出てくる。つまりこれは三春藩の心遣いに、鴫原家が答えてくれた。
これは『東日流外三郡誌』に取りくんだ最初の頃、思った疑問なのです。先ほど孝季の母親が三春藩主の後添えに入ったと言いました。彼女が藩主との間に子供を産む。名前はまたおなじ「孝季」。呼びかたは「のりすえ」と違うらしいが字面からみると同じ。系図を見ますと「孝季」が二人いる。それで和田喜八郎さんに「なんで、このようになっているのか。」と尋ねた。返事は「わからん。」と返ってきた。この「わからん」という答えはいいですね。わからないことに意味がある。本人が偽作したら、「わからん」という答えはない。
そこからわたしはかってに想像した。偶然の一致ということはあり得ない。義理の弟ですから。藩主や、やがて藩主になる前の名前ですから。孝季が「孝季」として津軽へ行ったり諸国を廻る。そのときに書状などを差し出せば、藩主または藩主の息子の名前になる。そのような仕掛けになる。藩主や藩主の息子なら他の藩でも大事にしますから。そのような作戦というか意図して、このような字面にしたのではないか。
これはわたしの想像だったのです。事実は系図では「秋田孝季」は義理の弟と同じ字面の名前となっているというだけなのです。そこから先は、わたしの頭の体操だったのです。
ところが今度これを見てみると、鴫原家がたいへん丁重に、われわれに他の人には見せない文書や系図を見せていただいた。これは実は三春藩からの謀事があったからだ。前もって三春藩から飛脚が鴫原家へ送っていた。弟孝季の名前で照会の書状を出していた。だから弟孝季に礼儀をとって、これだけ丁寧に対応していただいた。文面によればそのような意味になるではないか。こんなものに偽物を作れる人はいない。
これはわたしの頭の仮説が、ほんとうだったということです。以上の問題もコロタイプ版でおわかりになると思います。
それで最初申しました阪急で来て急行から特急に乗り換えて、考えているうちに十三(じゅうそう)直前に発見したことをお話させて頂きます。急行に乗っている段階に、頭の中をめぐっていたことがある。これはどうもおかしい。これはコピーなのです。藤本光幸さんのところにもコピーしかなかった。もちろん和田喜八郎さんは、原本を持っていたはずです。おそらく藤本光幸さんが写させて欲しいと言ったら、喜八郎さんが嫌だと言ったから、それではコピーを取らせて欲しいと言ってコピーしたのではないか。
このコピーを見ましても筆跡が一通りではない。表紙に「津軽内三郡誌 和田長三郎吉次」とあり、次はまったく下手で、いうならば吉次の子供が習字の勉強代わりに書かされたような字です。ところがその次のところは、表紙の文字とはまったく違う文章が続き、最後に「鴫原智右衛門拝 秋田孝季殿 御坐右」と書いてあるところまで筆跡が同じで続いています。次の筆跡「寛政五年十二月吉日、秋田孝季記」とは、筆跡が変わっている。これは一体何か。
それは「鴫原智右衛門拝 秋田孝季 御坐右」と書いてあるように、そこまでの筆跡は鴫原智右衛門の筆跡です。その後の「寛政五年十二月吉日、秋田孝季記」は、秋田孝季の筆跡なのではないか。今日やっと気がついたのかと言われそうですが、阪急の電車でやっと気がついた。
そういう目でこれらを見直すと、「秋田孝季」のところの筆跡は、吉次の筆跡とも違うし、もちろん鴫原智右衛門の筆跡とも違っている。
結論から言いますと、先頭を見ればわかりますように「付書第六百七十三巻 寛政二年五月集稿 陸州於名取」とあります。これは『津軽外三郡誌』の元本なのです。『津軽外三郡誌』は基本的に写し本です。元本ではない。例外的にはお寺から貰ったようなものもある。けれでも基本的には写し本です。ところがこれは吉次や孝季に来た手紙なのです。それを付書として、現物を綴じ込んである。現物があってそれを綴じ込んで「秋田孝季記」と書き込んである。ですから、この「寛政五年十二月吉日、秋田孝季記」の筆跡はわたしが待望していた寛政五年の秋田孝季の筆跡ではないか。
そういうことにやっと気がついた、おそいですが。同じように、「寛政五年十二月 和田長三郎吉次調」は、寛政五年の和田吉次の筆跡ではないか。
それで以前から思っていたことがある。秋田孝季の筆跡の編年をやろう。と言いますのは、わたしの研究の始まりは筆跡の編年だった。あの有名な本願寺の蓮如。蓮如の年代別筆跡研究。あの有名な親鸞の『歎異抄』。その原本の一つに蓮如が写した「蓮如本」がある。九割ぐらりが若いときの筆跡。最後のところが蓮如の晩年の筆跡。奥書のところとだいぶ違う。同一人であるけれども、時期がたいへん違っている。そういう目見当というか疑問を持った。通説は同一の時期の筆跡です。しかし青二才が疑問に思っても仕様がない。やはり実証で行く。蓮如の筆跡は全国にある。若いときは写経、彼の場合は親鸞ですが、お経や親鸞の言葉を写してお金を貰う。それが若いときの生活の糧だった。有名な言葉がありますが「天井粥 がゆ」。お粥しか食べられなかった。そのお粥も天井が映るような粥。あまりお米がたくさん入っていると天井が映らない。ほとんど液体で、米粒が少しなら天井が映る。その時代には非常に真面目な良い字を書いている。ところが一向一揆の波に乗っかって、あの頃には「南無阿弥陀仏」と書けば、今の相場で十万・二十万円と売れる。一日で何百万と稼ぐ。またたく間に、巨万の富を築く。その時代の筆跡とは変わってくる。
それでわたしは、全国のお寺を訪れて、蓮如の筆跡の写真を撮り整理しました。(その当時の大家といわれる人は、そのような技術を持たなかった。そのような事ができるという若いときの特権を生かせた。)それで蓮如の筆跡を三・四年ごとに、年代別に整理しました。そうしますと、最初の筆跡は三十代終り・四十代初めの筆跡、遅くとも四十代の筆跡。ところが最後の奥書は七十代の筆跡。わたしはこれを「蓮如切断」として、写真版として史学会に報告しました。反対した人はいない。
同じように秋田孝季の筆跡の編年も必要です。『護国女太平記』にも孝季記とある。『荒木武芸帳』にも孝季記とあり、花押もある。今回竹田侑子さんに送ってもらって初めて知った本がある。「道中慰どうちゅうなぐさめ 読書 孝季記」と書いてある中国の漢詩集『瀛奎律髄』の下。上・中・下の下だけです。出したのは、京都の版元であると最後の下に書いてある。寛政の直後が文化・文政の時代である。江戸文化年間に出た本の最後に「孝季記」とある。ようするに旅行の時にパラパラこれをめぐって慰めにした。漢詩の文章を慰めにするのもたいへんでしょうが、今の文庫本を持ち歩くようなものです。これらの偽物を作るバカはいないでしょうし、筆跡を偽作する人もいない。孝季の筆跡。これらの筆跡が、たいへん役に立った。これは孝季の晩年の筆跡です。若いときのキリリとしたスマートな筆跡とは違う。鴫原家の文書は、今の道中慰読書の字とは似ている。これらを竹田侑子さんが送っていただいて、たいへんありがたかった。
しかも大事なことは論理的に、孝季は手紙外交をおこなっている。手紙を出して返事をもらってそこを訪ねる。そういう方式をとっている。ということは、場所が書いてある。これらはやはり手紙外交で得た成果と考えてよい。連絡もせずにいきなり飛び込んで見せてくれと言う人はいない。ですから『津軽外三郡誌』に書いてある場所やお寺を訪れれば、孝季の手紙が残っている可能性がある。A・B・C・・・G・Hと残っている可能性もある。失われたものもあるが、残っているものもある。蓮如よりもずっと最近です。これが一つ。
もう一つの可能性。『護国女太平記』を写したのは孝季自身が読むものではない。身分の高い女性や金持ちの女性のために写したもの。孝季のアルバイトではないか。アルバイト先の相手が亡くなったか、いらないと言われたのかは知りませんが、結局売れずに残ったものであると思う。先ほどの『荒木武芸帳』もその可能性がある。それらは現代のテレビで言えば、ドラマのようなものである。そういう慰め物のためにアルバイトとして美しいきれいな字で一生懸命書いている。おそらく二十代・三十代青年時代だったと思いますが。このようなものが各地に残っている可能性がある。
それでわたしが狙いをつけているのが秋田県秋田市の日和見山である。そこの土崎の八幡宮、その側に寺町がある。お寺が軒並み集められている。そこから先はわたしの頭の体操です。あのあたりに、孝季のアルバイト先があったのではないか。お寺から頼まれて写したものが、今のこれらのお寺に残っていないか調べてみたい。一週間・十日ばかり滞在して、じっくり調べてみると若いときの孝季の筆跡が出てくると思う。
以上二点から調べて集めてみたら、秋田孝季の筆跡の編年が可能であると思う。ぜひ作りたい。今まで、秋田孝季などという人物はいない。和田喜八郎の創作である。そういう偽書説の論理がまかり通っていて、だれも真面目に調べる人はいない。本気でやれば必ず出てくる。まだ八十歳ですから、これからやろうと思っています。
鴫原家文書も同じです。あれだけやりとりしたのだから、秋田孝季の手紙が残っていないはずがない。鴫原家を訪れれば、寛政年間にそういう名前の人物がいるという系図があると思う。そういう確認もとれると思う。それもやりたい。
始めは古田史学の会・仙台の佐々木公堂さんにお願いして調べていただいた。しかしわからなかった。また朝日新聞の茂山さんという記者のかたも宮城の各地を調べられたがわからなかった。そのうちに水野さん・太田さんから、すばらしい情報がありました。インターネットで住所録などを調べられると鴫原という名前が出てくる。それらを送っていただくと、その中で大量に集中して出ているのは福島県にある。宮城県ではない。宮城県でも福島県よりのところが多い。そういうことがわかってきました。特に福島県の安達郡のところに電話帳には百二十八件の鴫原がある。鴫原だけでは捜せない。名前を言わなければ区別がつかないような感じだ。百六十件も鴫原が福島市にもある。これらはたいへん意味がある。なぜなら三春藩は福島県にある。福島市も安達郡は福島県にある。三春藩の周辺で。その一端が宮城県にある。ですから中心は福島県にあり、ここを調べれば出てくる。行ってみて寛政年間にあなたの家の系図に、このような名前の人物はいないでしょうか。教えて下さい。そう言えば判明する可能性がたいへん高い。ですから行って調べたい。
最後にこの問題について、おもしろいテーマを申しあげます。第三の寛政原本の序文です。
読んでみます。
(漢文)
注言戒遺之事
此書巻他見無用門外不出心可若是及他見亦貸付即坐朝幕藩之受科者也至子々孫々
日高見国之太古之残実相史一大事極秘也。
依我吾等荒覇吐太祖安日彦王登美彦王之故縁忌日本史現世以尚如国賊編史。
因念深天下吾等一族乃至實傳乃至晴天白日機當来是掟護持戒遺右件如。
寛政二年五月辰日。秋田孝季
(古田読下し)
言を注しるす。戒いましめ遺のこすのこと。
この書巻は他見無用にして門外不出なり、(必ず)心うべし。
若し是れ、他見、亦た貸付に及ばば、即ち朝幕藩(朝廷・幕府・藩)の受科
(科とがを受ける)に坐する者や、子々孫々に至らん
日高見の国 太古の残せし実相の史は、一大事にして極秘なり。
我らの荒覇吐太祖安日彦王、登美彦王の故縁に依る。
日の本の史を忌む現世尚たっときを以て国賊の編せし史伝の如くす。
因りて天下を深うする吾等一族の実伝の晴天白日の機の当来するに至らんこと
を念じ、この掟を護持せよ。
戒を遺す。右、件の如し。
寛政二年五月辰日。秋田孝季
(補足)
「この書巻は他見無用にして門外不出なり、(必ず)心うべし。」は和風漢文です。そして人に見せたり貸したりしたら、自分だけでなく、子々孫々まで朝幕藩(朝廷・幕府・藩)の咎(とが)を受けるだろう。よくわかりますよね。うっかり人に見せたら、打ち首、獄門の時代ですから。権威主義とは違います。すごい予告ですね。
今の歴史とは違う。今の歴史が壊れるわけですから。日の本の史とは秋田孝季が大事と思っている歴史なんですね、安日彦王、登美彦王が九州からやって来た歴史ですね。日の本とは博多湾に字〈地名〉が沢山ありますよね。「現世」とは今の世の中の権力者を言いますが、「現世尚たっときを以て国賊の編せし史伝の如くす。」こんな尊い物・すばらしい歴史書であるをあたかも国賊が編纂した史伝のように、朝廷・幕府・藩は扱っている。国賊の国は、多賀城碑でも使っている。
「因りて天下を深うする吾等一族の実伝の、晴天白日の機の当来するに至らんことを念じ、この掟を護持せよ。」は、一二三から上中下、天地人と返る複雑な文型ですが、全く漢文としてミスがない、正確に書いています。
あと、「是を記す」だろうと思いますが、ちょっと字が見えません。
それでやっとわかった。何がわかったかと言いますと、なぜわたしが念仏をとなえるように寛政原本、寛政原本と言い続けてきた、気持ちの理由がわかった。
活字本には、市浦村史本、八幡書店版、北方新社版と三種類ある。ですがどうもピンと来ない。それに東京学芸大学教授の西村俊一さんにも寛政原本をお見せした。すっかり感心されて、撮った写真などで各地で発表されている。
あのかたが最初の段階で「秋田孝季は文章がへたですね。」と言われた。率直にものを言われるかただから、わたしは、そうですかとすなおに対応しましたが。ですが、わたしの中に引っ掛かりがあった。活字本をみるかぎりは、あるいは所持している明治写本のコピーを見るかぎりは、どうもギクシャクとして文章として下手である。漢文の知識から見ると、読みとしておかしい。これは孝季がおかしいのか、あるいは原漢文と書いてあるので末吉・長作の読み下しがおかしいのか。一生懸命末吉や長作が、生涯をかけで読み下しをして文章を写している。そのことはすばらしいが、しかしお百姓さんだから、そんなにすごい教養を持っているわけではない。彼らのレベルで読み下した。だからこのギクシャクとして下手な文章になったのではないか。それで本当にそうなのか原文、原漢文を見たい。それが寛政原本に遡るのは当たり前だけれども、寛政原本にこだわる心の本当の理由はそれだった。
今の文章もう一度読みます。(略)和風漢文を問題にする人もいますが、親鸞なども和風漢文であれだけ見事に思想を語る文章を造っています。同じく秋田孝季も言いましたが見事な文章である。ですから寛政原本、寛政原本と言ってよかったと思っています。
竹田侑子さんから送られてきた中に地図があります。
「東日流外三郡大図、建保元年七月安東七(「十」か)郎貞季殿之軍謀図ナルモ是ノ原図追書セルハ巴道(「己の道」か)ナリ 文政五年六月二十一日之ヲ写ス 和田長三郎源吉次」、威張って書くときは「源」が入るのですね。そして花押入りです。建保元年(一二一三)は親鸞と同じ鎌倉時代ですね。
これは寛政のあとの文政五年(一八二二)に吉次がこれを写しました。これは先程の話からすると、寛政原本Bになります。鎌倉時代の図を、江戸の一九世紀の初め、文政年間に吉次が写した。これは紛れもなく寛政原本です。彼は非常に強い、大きくてきれいな字を書く。喋ってばかりいると回覧の時間がなくなるので回します。
当初レジュメを準備しながら時間の関係で講演にも懇談会にも触れなかった事項があるので、ここに補足する。
寛政原本出現以来、古文書専門の研究者に鑑定依頼し、駆け回ったとき、罫紙に書かれているものがかなりあるのを見て、「江戸時代文書としては話にならない」と反応した人がいた。近世文書の権威の方の意見なので、深刻に受け止め、「そのようなデータはどなたに聞けばいいでしょうか」と聞いたが、「それはご自分でお調べください」という返事だった。また幾人かの古文書専門家に聞いたが、「日本での罫紙の使用は明治以後である。江戸中期などには先ずない」という返事で、「そのような研究はどなたがなさっていますか」と聞いても、「それは常識だ」という返事だった。
仕方なく、自分で調べたところ、江戸中期の文書で罫紙を使っているものが何点か発見され、その上何と頼山陽の『日本外史』の自筆本が、書名入りの専用の罫紙で書かれていたのである(頼山陽旧跡保存会所蔵全二十二巻)。山陽は一七八〇~一八三二、秋田孝季より遅く生まれ先に亡くなっていて、『日本外史』執筆は『東日流内外三郡誌』の執筆とほぼ同時期である。
このように世に権威として君臨する専門家が、単なる思い込みを、検証することもなく、基準として史料の検定に当っていることは、寒心すべきことである。
この点、久米保雄氏(毎日新聞O・B)や松尾靖秋氏(皇學館大學)、京都の「紙」の各専門店、等のおかげをこうむり、静嘉堂文庫(藤井貞幹「好古日録」)、山陽旧跡保存会(京都)等の資料によることができた。感謝したい。
寛政原本と古田史学(古田史学会報81号)
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